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大友宗麟の日向出陣に

2016年10月30日 20:58

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/29(土) 20:13:58.54 ID:D/qq4jRl
天正5年(1577)、日向国伊東三位入道(義祐)は、薩摩の島津義久に打ち負け国を追われ、
豊後の大友宗麟を頼った、宗麟はこれを受け入れ、重臣を呼び出し、命じた
「伊東入道のため日向に出陣する。直ぐに国々へ陣触れを出すように。」

これを聞いた重臣の一人、斎藤重実は即座に申し上げた
「御出陣なされるという事は御尤もに思います。ですが、一旦下がって愚案を巡らして見るに、
これまで毛利陸奥守(元就)が度々我らに軍勢を差し寄越しましたが、遂に一度も利を得られず、
これについて子息(原文ママ)の右馬頭輝元は骨髄に思い入り、当家の盛衰に常に注目しています。

そのような中で島津義久と取り合いが起こり、御合戦で他に対処できない状況になれば、輝元が
豊前筑前に対し手を出すこと、疑いありません。そもそもこの両国は一度元就に内通した前例が
あるのです。輝元が旗を出せば、前々と同じようにするでしょう。

龍造寺隆信に関しても、彼は手の裏を簡単に返す、表裏者なのですから、我らが輝元、義久と
戦う状況になれば、彼も手を出してくること疑いありません。隆信一人でも、3万余りの軍勢を
有しているのですから、簡単に崩すことは出来ません。

それといいこれといい、今度の御合戦、大友家が直接関与すべき事ではありません。
ともかく、先ずは時をお待ちに成るべきです。」

そう出陣に反対したが、宗麟は承知無く、「急ぎ国々に触れを出し、各々支度をさせるように。」と
命じたため、斎藤も畏まり、御前を罷り立った。
その後、大友家老中である吉弘鎮信の元へ立ち寄り、終日日向出陣の事について相談し、様々に物語
した中で、吉弘鎮信はこう言った

「誠に、私ごときでは申しにくい事では有るが、今度の御弓箭は御大事な事だと考えます。
近年、大友家の御仕置は一つとして良き事がなく、御領分の六ヶ国の諸人は疲弊しています。それなのに、
何の好で一命を捨てて戦かおうとするでしょうか。

宗麟公は田原紹忍という大佞人を尊敬し、国家の仕置を彼に仰せ付けたため、御加恩は諸人を越え、
己が威勢のみを楽しみ、宗麟公に誤りがあっても、御異見など申し上げては御意に背き身のために
成らないことを痛み、とにかく御意をさえ取り請けていれば我が身長久であると心得、上にへつらい
下を掠め、あまつさえ宗麟公をたぶらかし、切支丹の敵であると、国々の大社伽藍を焼き払い、
或いは打ち崩し、咎なき出家、社人を殺されたこと、昔も悪行の例は多いと言えども、このような事は
終に承った事がありません。

今度の御陣は、仏神を破却された天罰に寄っても、お負けになってしまうでしょう。もし立花道雪が
旗本に居れば、そのように悪しきことばかりはないのでしょうが、現在毛利の押さえのために、境である
筑前に遣わされています。この事についても、宗麟公の御内意を知らない人は、当然の人事であると
考えているようです。ですが武勇に関して、道雪に劣らぬ人は、斎藤鎮実を始めとして、他の者を
遣わしても不足はありません、あれは道雪が近くにいることを、宗麟公が嫌がったため遣わしたのです。

吉岡宗観、臼杵越中が生きている間はお仕置きも良かったのに、両人が死んだ後は田原紹忍に仕置を仰せ付け、
国家は無道に成り、当家滅却の時期到来かと考えています。

島津中務(家久)が籠もる高城を攻めている間は、諸軍は戦うふりもするでしょうが、城中難儀に及べば、
義久の大軍によって後詰めがあることでしょう。その時、当家六ヶ国の諸軍の旗色は心もとないものです。
あなた方や私は、ただ身の恥を悲しみ討ち死にするより他ないでしょう。」

これを聞いて斎藤は
「仰せの通り、今度の出陣は、義統公を始めとして当然相談のあるべき内容ですから、様々に申し上げたのだが
ご承知無く、誠にご運の末であるのかも知れない。こんな事を言えば、島津に怖気づいているように思われるかも
しれないが、弓矢の道において島津に負けるとは夢々思わない。さりながら宗麟公が天理に背いて居る。
その咎から逃れることが出来るだろうか。
その家が滅ぶべき前兆として、様々な事が乱れるものなのだな。」
そう、涙を流して悔やんだという。

(大友記)

大友宗麟の日向出陣に対しての、大友家重臣たちの反応である。



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三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし

2016年06月07日 10:21

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 23:49:04.88 ID:4n3eIB9n
日向伊東家家臣である山田土佐守匡得は、永禄元年、17歳の時に初陣として飫肥の行屋ヶ尾にて
薩摩の驍将亀澤豊前を討ち取り、同10年小越合戦に和田民部を討ち取った事などを初めとし、
伊東義祐の日向没落の後も、石ノ城にて粉骨を成し、薩将の伊集院肥前守と槍を合わせ、その名は
近国に聞こえた。

伊東義祐父子が伊予に渡海した後も、豊後に残り、同国梅牟礼の城主、佐伯太郎惟定の軍師となり、
益々の軍功があった。

天正14年7月23日、島津中務家久(良い方)が豊後に出兵して松尾山広福寺に陣し、この佐伯惟定と
一戦の時、家久は佐伯領の境の住民を一人捕えて、佐伯惟定の軍中の様子を尋ねた。その者応えるに

「惟定様は今年18歳になりますが、善く領民を撫育し、人心の帰伏すること父母のようです。
私は下賤の身であり、軍配の方便はわかりませんが、針も撃ち抜くほどの鉄砲の上手が、三千人在ると
聞いています。」

家久はこれを聞くと
「三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし山田土佐入道が今、佐伯惟定の家に在ると聞く。
彼は一騎当千の者なれば、私は深くこれを恐れる。」
そう語ったという。

(日向纂記)



伊東家再興の事

2016年06月06日 21:24

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/05(日) 22:48:37.10 ID:uRfp4+2t
天正9年8月下旬、伊東義祐に仕える山伏である三部は、大峯山に登った帰り、羽柴秀吉が
姫路城を建築し、大層な普請であるとの風聞を聞いて、立ち寄って見物した。
するとここで、一人の武士が三部を見て話しかけてきた

「客僧は何国の人ですか?」

「九州日向の者です。」

「であれば、貴方に訪ねたいことが有ります。」

この武士はそう言って、三部を座に招き、聞いた
「日向では伊東殿が浪人されたと聞いていますが、本当でしょうか?」

「はい。島津家に国を奪われ、今は伊予国河野家の領内に蟄居しています。」

「日向伊東家のイトウの”トウ”は、藤の字を用いるのでしょうか?」

「いいえ、”東”の字を用います。」

「であれば!正しく私と同族ではないか!もし義祐殿が羽柴殿に仕える気があるのなら、私が宜しく
周旋しよう。私は伊東掃部助と言う者です。貴方は急ぎ帰国して、この事を告げてほしい。」

これを聞いて三部は彼に篤く謝礼を述べ、急ぎ伊予に下り有りの儘に申し述べた。
しかし伊東家の人々は、数年の間住み慣れた所を出ること名残惜しく、また自分たちを受け入れてくれた
大内氏の情けも捨てがたく、さらに女性たちは、三部のためにこの上さらに憂き目を見るのかと
嘆いたため、決断は先延ばしにされた。

その内に年も暮れ、天正10年正月、伊東義祐70歳、嫡男祐兵は24歳となった。
三部はその間もしきりに秀吉に見参することを進めていたが、終にその言葉に同意し、
伊東義祐父子、並びに奥方、川崎駿河守ら上下二十余名は、名残を惜しみながら道後の城下を離れ
小舟一艘に乗り込み播磨国姫路に渡った。

姫路では三部の案内にて伊東掃部助と対面し、掃部助は懇ろに義祐父子を饗し、秀吉に対して
しきりにこれを推挙したが、秀吉は

「今、蔵米も払底している有様である!こんな時に浪人など扶持できるか!」
そう拒絶された。
そこで掃部助も、ここは暫く様子を見ることにした。
そして伊東祐兵がよろず武芸に達し容貌も魁偉なのを見て、掃部助は工夫し、秀吉が城外に
出る時を見計らい、路の側に平伏させておいた。
案の定、秀吉は祐兵を一目見て、側の者達に聞いた「あいつは何者か?」
そこに掃部助が後ろから出て申し上げた

「彼は前に申し上げた、日向の伊東です。」

「なるほど、骨柄たくましい壮士である。私が西国征伐を行う初めに、西国の武士が頼ってくるのは
吉端であろう。」
そういって即座に三十石を与えた。伊東祐兵はこの頃、六郎五郎と名乗っていたが、この時から
民部太輔と称した。

掃部助は、伊東義祐にも、秀吉に見参するようにと勧めたが、義祐は
「私は不肖なりといえども。辱くも三位の位を頂き、年齢も既に70。今浪人の身とは言いながら、
何の面目あって木下藤吉ごときに追従しようと言うのだ。
しかし子孫再興のためであるから、祐兵は格別である。」

そう言って、ついにそれを受け入れようとはしなかった。

(日向纂記)



802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 08:08:23.62 ID:UHSHnu6x
ガラケーなので確認してないけど以前に見たような記憶がある

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 08:42:19.06 ID:i4Vt1r+V
>>802
前のは出典が日向記だな。
ベースは日向記なんだが、時代とともに逸話の変化を見るのも楽しいよ

伊東祐兵、秀吉公に仕える。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7567.html


伊東三位入道、秀吉との謁見を断る
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7566.html



805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 16:14:07.06 ID:fnaWRgWi
>>801
>伊東義祐70歳、嫡男祐兵は24歳
すげーw

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 19:39:05.73 ID:UHSHnu6x
現代でも原樹里の親父さんなんか80超えていたような

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 20:06:55.64 ID:vmhAmFX+
金森長近なんかは80越えてから子供生まれてるな

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 21:15:35.25 ID:BBMgsAJR
秀吉じゃないが本当にお前の子供かと、問うてみたい

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 23:11:47.67 ID:FeuIYPzX
鹿児島の現在の知事は伊藤祐一郎氏だが
先祖は島津日新斎に仕えたそうな
すると日向伊東と同族ではないということか

812 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/07(火) 08:41:11.26 ID:hyaoyfFP
>>805
46の時の子供なんて…。
大権現さまを見てごらんよ。

伊東義祐父子、伊予に亡命す

2016年06月05日 22:03

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/04(土) 19:24:47.85 ID:fhquBQUK
大友勢が耳川の戦いで敗北すると、豊後に亡命していた伊東義祐父子の居住も何ともなく心苦しい
ものとなっていった。そのような折、嫡子祐兵の奥方は容儀美しい女性であったので、義祐父子を
殺害して奥方を奪い取り、大友義統の嫡子惣五郎(大友義乗)の妻としようとする、という企てが
あると、密かに伝える者があった。

この頃、この奥方は母の阿喜多夫人の宿所を訪ね臼杵城中にあった。そこで川崎駿河守が工夫して、
阿喜多夫人の侍女に新大夫という心利いた者があり、彼女に計略を授け、夜に紛れてゴミ取りの
穴より彼女を盗み出した。

その頃伊東義祐父子は野津の光明寺を忍び出て、彼女らを途中で待ち受け、海辺に向かって
落ちていった。ここでは落合四郎左衛門尉兼家が、かつて薩摩に人質に行った折に拝領した
金作りの刀で小舟一艘を買い取り、これに伊東父子を乗せた。そして

「私もお供仕りたいのですが、年老いて、却って足手まといになるでしょう。願わくば、
早く御運が開かれ、御吉左右の程を承りたい事です。」
そう、涙を流して別れた。そして落合は程なく、豊後にて病死した。

伊東義祐父子は、供の男女20人余を引き連れて伊予の道後へと渡った。時に天正7年4月。
道後は代々河野家の居城にてこの時の領主は河野四郎通直であったので、先ずはこの人を
頼みとしたが、河野は、
「日向一国の領主であった人を、今流浪の身であると言っても、抱えおく事は出来ない。」
そう言って保護を拒否した。

伊東父子はどうするべきかと、進退を失い困惑した。
しかしここで、河野家の一族である大内次郎左衛門尉信孝という者が、その知行である久保田の
寿王庵に迎えたいと表明し、伊東父子はここで天正7年4月から同10年正月まで、貧しい月日を
送った。彼らは朝夕の食事すら調わない有様で、川崎駿河守は、一人で酒を醸造しこれを売り、
奥方の女房であった阿竹の方という女性は仕事の合間に木綿の帯を織って道後の町で売って、
これらを朝夕の助けとなした。
また三部(名は快永)という山伏は下野の者であったが、日向に下り数年の間義祐の恩顧を蒙った故に、
この時も付き従い、諸事の調度を取り賄った。

こうして、苦しい生活の中でも、心は慰められ滞在していたそうである。

(日向纂記)



792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/04(土) 19:49:57.33 ID:+NFWd+lq
寄生虫やん

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/04(土) 23:05:58.77 ID:TYTWMosG
宗茂だって浪々の折りはみんなにおんぶにだっこやったやん

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/04(土) 23:53:34.34 ID:a6XJEzQL
宗茂の場合普段と変わらぬ姿を見せることが何よりも家臣の励みになるという特殊?な関係なので…

葛の根は 小松ばかりに残れるや

2016年05月31日 17:00

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/30(月) 22:08:45.97 ID:v9uyzl3r
永禄八年頃のこと、日向の伊東義祐は鬼ヶ城の城代を小松兵部太夫に命じた。
その頃は真幸口、飫肥口両方に軍勢を出し島津などとの合戦がうち続き、山東の軍勢は
休息する暇もなく、五番代わり、三番代わりに交代した。この事は二十日番と呼ばれ、
この軍役に対する上下の難儀は一方ならぬもので、この件への訴訟が絶えることなく
上がってきた。

このような状況ではあったが、城代の小松兵部太夫はその訴訟を押さえつけ受付なかった。
そのためか非常に機嫌が悪く、常に顔を膨らませて気色荒げていた。
そんななか、ある日何者かがこのような狂歌を詠んだ

『葛の根は 小松ばかりに残れるや いつも腫れたり番代がつら』

これは飢饉の年、窮民たちが葛の根を掘って食うと顔が腫れるということから、
この様に詠んだのである。

(日向纂記)



667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/31(火) 11:42:44.20 ID:zj+ISLhb
すべて島津が悪いんや

「義祐様を押し籠めよう」

2016年05月30日 18:04

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/30(月) 09:45:32.35 ID:v9uyzl3r
天文20年(1551)、日向の三位公(伊東義祐)は大仏堂の建立を思い立ち、先ず南都(奈良)の
仏師・源五郎兄妹を召し下し大仏を造らせ、大仏堂は大工の奥野筑前守に命じて、同年6月8日より
柱立した。何れも程なく成就したため、その年の12月28日に大仏を安置した。

翌天文21年、今度は佐土原に寺を建立し、金柏寺と名付けた。
同年10月28日、大鐘を鋳てこれを寄付した。その銘文に『日薩隅三州太守藤原義祐』云々の文字があった。

また、海道衆と号した10人の僧侶に笈(修験者や行脚僧が仏具・衣類・食器などを入れる箱)を背負わせ、
昼夜仏名を念じて歩行させ、或いは5人づつ左右に分かれて終日仏論を論議させ、三位公自身も
袈裟を着て捨身の行を行った。
また、或いは諸僧を集めての法問を行った。

三位公のこのような仏教への耽溺は、伊東家中の行儀を乱し、我儘の事のみであったため、国内からの
嘲りも多く、諸大将も国家の大事と思い、密々に評議を行って、「義祐様を押し籠め(強制引退)よう」
となった。

しかしここで、落合源左衛門尉兼永が異論を唱えた。彼は伊東家諸将の中でも忠勇無双の男であり、
諸将の評議を聞いた上で

「一度諌めてそれでも承知なければ、そういうやり方もあるだろうが、最初から少しも諌めず
押し籠めを行うのは、臣たる者の道ではない。とにかく私に任されよ。」

そう言って家にも返らずそのまま君前に出て、諸将の疑念をありのままに言上した。
彼は三位公の顔を見て声柔らかに諌めると、三位公も自分の行いを大いに悔悟し

「以後は何であっても各々の異見に従う。」

そう言って以後行いを改めた。
「思っていたのと違い、賢君であられる。」これに日向の人々は安堵の思いを成した。

(日向纂記)



米良弥八郎と右松次郎三郎の脱走

2013年08月09日 19:51

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/09(金) 06:01:01.30 ID:bnUnt1oH
天正5年(1577)日向の伊東義祐は島津の攻勢を耐えることが出来ず、ついにその主城である佐土原を
放棄し、豊後の大友宗麟を頼り落ち延びた。(伊東崩れ)

さてその頃。伊東家重臣である米良四郎右衛門尉の子、弥八郎と、右松四郎左衛門尉の息子、次郎三郎の
両人は、島津の人質として薩摩の鹿児島に在ったが、伊東家が米良四郎右衛門尉らが中心と成って
豊後と通じ、大友勢が日向に進攻するという企てがあることが鹿児島に聞こえ、島津家においては、
その人質を取り逃がしてはならないと、彼らを幽閉し6人の番兵をつけて油断なく監視させた。

二人は自分たちの監視が厳しくなった理由を伝え聞くと、密々に話しあった

「我々の父は、私たちのことを思わぬということはないだろうが、しかし親子の情も、
累代の君恩には代えがたいものだ。
国外に出た主君を本国に入れようとの志を持つのは、武士ならばそう有るべきことだ。

ということであれば、父たちは我々に構わず行動するので、我々の命が奪われるのは、
どうしても逃れられぬことである。
であれば、ここから逃亡をしては見ないか?」

そう決めると、彼らは番人が油断した隙を伺い、その6人の者たちを惨殺し、夜に紛れて逃げた。
元来彼らは三城で生まれ育ったので、舟に乗ることが巧みであったため、密かに船を盗んで
これを自ら櫓を漕いで対岸に渡り、陸路に上がると昼は隠れ、夜は進んでようやく鰐の口を逃れ、
7日目の夜に佐土原に到着した。

ここには彼らが親しい者が居たので、一飯を乞うて数日の疲労を休めた。

ところが、頼みがいのないのは世の習いである。この親しき者はその頃、どうにかして新しい日向の支配者である
薩摩に忠節を立て奉公の下地にしたいと考えていた折であったため、二人を天の与えたものと喜び、
底意の見えないように彼らをもてなし、やがて疲れから熟睡したところを伺い、これを縛り付けて
薩摩へと差し出した。本当に、情けのないことである。

二人はそれから再び鹿児島に引き出され。福昌寺において殺された。

しかしこれを聞いた彼らの父である米良四郎右衛門尉右松四郎左衛門尉は、
この上はもはや少しも心に掛かることは無いと、益々伊東家への忠節を励んだという。

(日向纂記)




140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/09(金) 12:10:45.13 ID:0l675Wjy
せっかく捕まえ直した人質を殺してどうすんだよw

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/09(金) 12:24:18.04 ID:qOjtWs+4
処罰無しだととりあえず逃げてみる奴が増えるだろ

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/09(金) 23:39:25.86 ID:MijMLdMi
6人も殺してるんだから、さすがに腹立つだろ

天正3年、正月の騒動

2013年08月06日 19:51

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/05(月) 20:32:24.79 ID:lT1U2Z29
天正3年、日向の伊東家では正月元旦の賀儀も例年通りに行われ、出陣の沙汰もなく、
国中平和で上下ともに喜悦の眉を開いていたところ、都於郡(とのこおり:現・宮崎県西都市)において
大きな理由もないのに騒動が起こった。

その始まりはこうである。伊東右衛門佐(伊東加賀守の弟)には男子が二人あり、嫡男を駿河守、
次男を金法師と呼んだ。
嫡男駿河守の師は、那珂の平等寺であった。
次男の金法師は、父の兄である加賀守の嫡男・源四郎と養子の縁組をして、加賀守家の
名跡を次ぐこととなった。

ところで、養父である源四郎の師は、都於郡の一乗院であったため、金法師にもここで
教育を受けさせようという事となったが、これに、金法師は三河守の弟なので、兄と同じく
平等院で教育を受けるべきだとの反論が出た、論争となった。

これを聞いて都於郡では怒りが渦巻き、年少の者達36人が互いに連判し、この議論が決裂し
対決となったら、自分達は命をかけて戦う!との姿勢を見せた。

しかし伊東家の主君である伊東義祐はこれを聞いて不快感を示し、連判をした者達は
身の置きどころが無くなり、財部城の落合氏を頼んで落ちていった。

彼らの中心人物は、財部城主・落合藤九郎の子・落合丹後守、湯地又四郎、稲津又次郎、
野辺孫二郎、杉尾甚兵衛、小山田掃部助、荒武某、中村藤十郎、中村孫三郎、杉尾帯刀、
八代新十郎、福永新七郎、と言った者達であった。

このような中、野辺孫二郎が財部城で、密かに小山田掃部助に向かってこのような愚痴を言った

「私達が地元から逃げこのような事になったのは、全て落合丹後のせいである!」

そんな事を終夜に渡って言っていたのだが、その落合丹後がたまたま物陰からこれを聞き、
大いに立腹し

「互いに恨みの無いよう、一味同心の連判までしたのに、今更私一人を恨むとは、
これこそ遺恨である!」

そう言い放つとその事を話していた二人をたちまち討ち果たした。
この騒ぎに何事かとやってきた杉尾甚兵衛も、落合丹後によって手傷を負った。

そうして落合丹後が考えたのは
『私は流浪の身となっても、いつか伊東家に帰参したいと考えていたのに、こんな事に成ってしまって、
もはやとても命の助かるものではない。
こうなれば(伊東義祐のいる)佐土原城に騙し入って、義祐様に一刀恨みを晴らしてくれよう!』

そう言って佐土原へと取って返した。

ところがこの落合丹後の錯乱は、いち早く佐土原にも報告され、落合の姿が見えると
たちまち騒動となり、すぐさま取り囲まれ斬り合いとなった。

落合丹後は大勢を負傷させ、自信も数箇所傷を被ったが、島原右近と組み打ちとなり、
右近が組み伏せられ今にも殺されんとした所で、杉田宗伴が馳せ懸り、ついに落合を刺殺した。

これで漸く、この徒党の乱は鎮静したのである。
(日向纂記)

領主の養子をどこで教育するかというだけのことで、大勢の死傷者まで出す騒ぎとなった事件の顛末である。




132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/05(月) 21:55:30.77 ID:EibEX9UK
落合丹後がいなきゃ、もっと静かに事は収まったんだろうなー

和田民部の祟りの理由

2013年08月04日 19:16

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/03(土) 20:25:23.05 ID:JzFxxB+f
永禄11年(1568)、伊東義祐島津忠親の守る飫肥城を攻め、これに島津方の援軍として薩摩より来た
北郷時久の軍勢を大破した、小越の戦いでのことである。

この時、伊東家家臣山田次郎三郎は、島津方の和田民部少輔を討ち取ったが、
この和田民部少輔の子である助六、この時18歳が父の討たれたのを見て、駆け入って
山田と刺し違えようとした。

しかし助六の郎党が一人、鎧の袖にすがりついて言った
「どうか命を全うして、亡くなられた父君の遺蹟を立てて下さい!」
そう叫んで制したが、助六は
「今このような事態に直面して、誰が一人逃げるようなことがあるか!」

そして郎党を振り払い山田に切り懸った。
しかしこれを、山田はすかさず取り押さえる。だが、この者が年少であることを察すると、
若年にしてその志が勇なることに感じ入り、これを立たせ、そのまま帰らせた。

ところが、同じ伊東方の長倉次郎右衛門尉がこの様子を見ていて、帰ろうとする助六の後を追い駆け、
情けなくもその首を打落した。

後でこのことを聞いた人々は、山田次郎三郎の情けは、古の熊谷が敦盛を助けたことにも劣らぬ、
と言い、長倉次郎右衛門尉のやったことは、非常に浅ましいことだと批判した。


長倉次郎右衛門尉は、今の長倉喜多郎佑栄の先祖である。
長倉佑栄の家に今も言い伝わる、和田民部の祟りというのは、この話が理由なのである。
(日向纂記)




121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/03(土) 22:11:30.14 ID:Ky1FvhDZ
直実が敦盛助けた・・・?
助けようとした、が味方が来てしまったから首を泣く泣くはねた、時の直実の情けの意味か
それとも直実自身が息子の首を代わりにはねて敦盛を逃した説のことを言っているのか
単なる勘違いか

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/03(土) 22:21:57.68 ID:x/8x+kAC
我が子をそんな討ち取り方されたら、
そりゃ祟りたくなっても無理はないという悪い話だなw

ただ、和田民部の祟りってのがどんなのかが気になるな。

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/04(日) 09:06:46.00 ID:bY2LBvL/
代々の当主の子が斬り死にするとか

和田民部って山田の父を殺してるんだな
自分は首尾よく敵討ちを果たしたけど、お前さんにはまだ早いよってことか

福永の逆心により没落する事

2013年06月20日 19:54

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/20(木) 15:20:20.19 ID:AzboqeYI
福永の逆心により没落する事

福永らは天正五年十二月七日夜半に薩摩勢を野尻城へと引き込もうと計画し、高原城の
上原長門守と示し合わせた。

まず三百余りの兵を野尻へと攻め込ませ、これにより薩摩勢侵入と喚きたてたので山東
からの添番衆は胆をつぶして逃げ帰った。

翌八日、三位入道(伊東義祐)殿はこれを聞いて軍勢を率い紙屋まで出陣したが、同日
島津義久も大軍を率いて野尻の城へと攻め込んで来たので、戸崎城も守り難くなり
陣屋へ火をかけ山東に退くように指示された。

野村の一党は福永にとってはあるいは甥、あるいは従弟であったのでかねて同意していた
通り、そこかしこに叛乱の火の手をあげた。

三位入道殿はこれを見て後背を遮られては不味いと急いで軍勢を引き下がらせた。

それより数多の逆心の与党どもはあるいは家に火をかけ、あるいは城を囲むなど思うがまま
に振る舞った。

この状況では、いずこを味方と頼りようもなく三位入道殿は一門の侍、譜代の歴々を召し
集めて評定を行ったが、にわかに名案を出せる人もいなかったので「しからば居城を去らずに
一戦を遂げ、討死を遂げよう」と仰せられた。

大将一同は「まず御命をまっとうして、敵を滅ぼすことこそ良将でありましょう。」と申され
「早々に屋形を落とさせ、山中の様子をご覧になられ、米良山をお頼りになってそこから肥後
か豊後へと向かわれるのが良いでしょう」と申しあげた。

三位入道殿は「それも理である」と思われ、九日の明け方に佐土原を捨てられ、三位入道殿、
佑兵に一門の侍が供奉して財部へと退かれた。

その時、東光坊と言う山伏に栗木太郎五郎を添えて財部城に送り通路を求めた。

財部城主落合藤九郎は元来小男であったので、三位入道殿はこれを「ひきう人」と常に呼ば
せていた。

落合藤九郎はこの時「一城の主たるものをひきう人などと名付けて取り次ぎをされた事は
遺恨である。その上朋輩間の若衆で争論になった際に落合丹後守(藤九郎の息子)を成敗
されるなど、どこをとっても恨みが多い」と怒鳴りつけ、かの東光坊を討ち殺してしまった。

栗木はこれを見て急ぎ馳せかえりこの事を告げたが、城からはさらに足軽が少しばかり走り
出てきて矢を射かけてきた。

三位入道殿は「これでは行末も覚束ない。ここで腹を切るべし」と言われたが、供奉の人々は
「もっともではございますが、まずは義賢様・佑勝様の到着を待ってから御思案なされては」と
申し上げていると、そのうちに都於郡から義賢様・佑勝様と一門の衆その他が退いて来て、
これに追いつかれた。

改めて開いた評定では「まず穂北をお頼りしましょう。大将の命は惜しむべきものであり、
たとえ野に伏せ山に寝ても命あれば運をひらくことも多かろう」と定まった。

穂北城主長倉洞雲斉は嫡子藤七郎をひそかに花園原まで迎えに行かせた。
長倉家は数代一門に組まれ御重恩に報いる為にと、格別に御馳走を致されたので、かの城に
一宿して翌十日には米良山に入られ、長倉藤七郎も三十町ばかり案内を勤めた。

誠に身分の高い者も卑しいものも流浪の身ほど悲しいものはないであろう。

(日向記)

福永丹波守の謀反による伊東家の日向没落の様子である





かの上原は思慮深いものだったので

2013年06月19日 19:50

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/19(水) 16:39:18.00 ID:a5/J2VU0
覚頭合戦(木崎原合戦)で伊東家が大敗した後に最前線となった野尻
城は地頭である福永丹波守が守っていた。

島津方は奪い取った高原城の地頭として上原長門守を入れ置いた。

かの上原は思慮深いものだったので、ある時は山東に人を送って
国中の情報を集め、またある時は福永丹波守の行動が悪く取られる
ように書き記した書状を山東に落とさせるなどして、福永の立場が
悪くなるように仕組んだ。

三位入道(伊東義祐)殿は福永の悪評を聞いて、これは本当の事では
ないかと思われ、何度か丹波守が参上した際にも会おうともせず
その上に二度、三度と出仕を停止させた。

丹波守の嫡子藤十郎が元服の為に出てきた際にも見参させずに送り
返えした。

これによって丹波守は腹を立て涙を流して、もう二度と出仕はしない
と誓いを立てて帰って行った。

以後は深い恨みを抱き上原長門守を頼って薩摩方と申し合わせるよう
になった。

(日向記)

上原長門守が謀略を用いて福永丹波守を寝返らせる話
そしてテンプレのようにひっかかってしまう三位入道クオリティ





伊東家、豊後から退転

2013年06月17日 19:56

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 11:49:57.62 ID:VrAJmhBe
大友の諸勢が日向高城において敗北した為、大友を頼っていた入道殿(伊東
義祐)や祐兵は心苦しく思っていた頃、祐兵の室家(妻)が野津から御母堂の
旅館を訪ねて逗留していた。

彼女は容顔美麗であったので大友家は密かに祐兵を殺害しこれを奪おうと
謀っているとにわかに密告するものがあった。

そこで入道殿と祐兵に対し「急ぎ豊後から立ち退きましょうと」と家臣達が
諌めたが「武の家に生まれたものが、命を惜しんで妻女を奪わせる事が
できようか」と承引されなかった。

これによりも室家も救出して皆でともに脱出しようと河崎駿河守(祐長)ら
が密かに談じ、母堂の女中新大夫は頼りになるものであるから、これに
計らわせようと告知した。

城中の旅宿は警備も厳しくそのまま忍び出ることは困難であったが、新大夫
は寝殿の庭内に塵出しの隙間を見つけ「あそこから脱出させましょう。夜に
紛れてお迎えにきてください」と注進した。

これにより計画を定め、三位入道殿や祐兵は密かに旅館を逃げ出して室家の
脱出を待ち構えていた。

室家のお迎えには河崎駿河守に物馴れた侍を二名差し添えて、かの塵出しの
外で待ち構えていたところ、計画通り塵出しの隙間から脱出なされた。

駿河守は室家にお供して入道殿、祐兵が待っている場所へとたどり着いた。
両主は喜ばれ、皆で船に乗って伊予国へと赴いた。

(日向記)

伊東家が豊後から退転する模様である




878 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:09:43.41 ID:G40qEFIS
そーりん自重しないなw

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:16:24.63 ID:VrAJmhBe
「大友家」とあるので宗麟かどうかは不明です。義統の可能性も十分です。
何より豊後退転をとりつくろうための創作の可能性も否定できないですし。

880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:17:08.65 ID:aOSoVu2J
女が絡む時の宗麟は息子並にぼんくら

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:18:20.59 ID:aOSoVu2J
>>879
逆に考えると大友某に女を奪おうとされた!と言えば世間に納得してもらえるということでもあるw

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 13:39:51.07 ID:VrAJmhBe
>>881
は・・・反論の余地が無いw

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/17(月) 15:19:00.41 ID:fisDmLvD
大友家危険度チェック

・妻女は見目麗しい
・評判の茶器を持っている
・仏に深く帰依している
・武士として八幡大菩薩は尊重している
・気分次第で沙汰が変わるのには我慢できない性質だ

1つでも該当した場合身の振り方の再考をお勧めします。
特に上2つ。

全部該当した場合大至急退転してください。
貴方とご家族の命と操が今まさに危険にさらされています。

天正5年の怪星

2013年05月29日 19:53

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 14:44:43.17 ID:GL+Xoqqs
義益様が御早世されて以来、永禄十二年より天正五年までの前後九年間。
慶龍丸(伊東義賢)御若年ゆえ祖父三位入道殿(伊東義祐)が後見していた。

天正五年八月、六郎義賢が十一歳の時に公方義昭公へ御太刀を進上。
これにより御書を頂戴し家督の祝儀として左京亮に任じられた。

九月十六日、八幡御神事の時には前代よりの吉例に任せて騎馬にて御社参。
御陣代は祖父入道が勤められた。

九月二十八日の夜より怪星が西南の方角に現れ、十一月に入るまで止まず。
その光は闇の夜も月夜の如く照らし四十日間も続いた。

(日向記)

日向記では「義賢様家督の事」と言うタイトルなのだが、注目すべきは
どちらかと言うと怪星の方なのだ。

この怪星はむろん死兆星…ではなくて、絶対等級-1.8等と言われる大彗星。
甫庵信長記の松永弾正謀反のところでも触れられている。

西洋ではティコ・ブラーエがこの大彗星の観測結果から、現象が月よりも
遠方で起きていることを証明し旧来の天動説を覆す重要な証拠となった。





371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 21:07:45.85 ID:+2HHqZSd
40日間ってすげーな。

覚頭合戦敗北の事

2013年05月29日 19:52

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 07:08:45.48 ID:GL+Xoqqs
覚頭合戦敗北の事

真幸院では元亀二年九月より翌年五月までの九ヶ月の間、島津義弘
の居城である飯野城にかかって数度の攻防を繰り返していた。

そこで真幸院を制する為に元亀三年五月四日に大軍を起こし、伊東
加賀守(祐安)・伊東新次郎(祐信)・伊東又次郎・伊東修理亮(祐青)
の四人が大将として発向した。

先に飯野城を抑えてから覚頭城を攻略しようとの衆議により、伊東
加賀守は飯野城の抑えと定められ妙現に陣取った。

残る三大将は総軍を率いて覚頭城の麓を打ち破り、敵数多を討捕え
競い合うように放火して引き下がる所に、飯野城では少数の敵を
破って薩州の士卒を城に追い込み岡尾平まで引き退いた。

勝ちに乗って敵を侮り軍法がみだれていたので、衆議して備えを
堅くして引くことに決まったが、過半は若い大将であり下知が行き
届かず、兵たちは「薩州の士卒がいかばかりの事をしでかすだろう
竹竿一本で打ち破れるものか」などと口ぐちに喚いて、五月の暑い
時期でもあり、皆水浴びをして刻を過ごしていた。

兵庫頭(義弘)は斥候を出し、油断しているさまをみすまして栗野横河
から急襲して突き崩した。

諸大将はこれを見て、逃げずに戦おうと我も我もと互いに突出して
火が出るほどに戦ったが備えを俄かに立て直す事は出来ず、薩州勢
に掛かられて、逸りきった若侍達は数を知れぬほど討たれていった。

伊東加賀守・伊東修理亮は軍勢をまとめて撤退しつつあったが、
誰々戦死と追々伝えられると、それぞれ馳せ戻って忠死を遂げた。

中でも伊東源四郎(加賀守の息子)討死と告げられた加賀守はそれを
聞いて取って返し島津兵庫頭と行き会い、敵の真中に割って入って
討死された。

この加賀守は勇気智謀兼備にして伊東の人傑であれば、皆これを
惜しみ最早これまでとばかりに、我も人も互いにとって返し討死に
を遂げた人数は二百五十人にも及び、そのうち面々衆が九十六人、
御一家大将分が五人であった。

(日向記)

なお覚頭城、覚頭合戦とは伊東側の呼称であり、島津側は加久藤城
木崎原合戦と呼んでいる。






伊東家の没落

2013年05月29日 19:52

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/29(水) 09:03:00.00 ID:GL+Xoqqs
真幸口のうち四ヶ所の城を捨てる事

天正四年八月、真幸院のうち三ツ山、須木の領主である米良美濃守の給領
のうち加江田郷地福六町を召し上げ伊東皈雲入道へと遣わされた。

この所領は先忠により兄米良筑後守に褒美として与えられていたが筑後守
は覚頭で敗れたときに討死にしており米良美濃守に給っていたものだ。

懸命の地を取り上げられる事を美濃守が遺恨に思った為、これを糾明する
為に新光寺を使僧として山東へ召し寄せようとしたが、美濃守はなにを
思ったのか途中で新光寺を討ち果たし、そのまま三ツ山、須木の領を捧げて
島津兵庫頭(義弘)が居た真幸院飯野城に参陣した。

これにより真幸院のうち高原城に薩州より大軍が押し寄せ、高原城に指し
置かれていた福永平右衛門は日夜三日防戦したものの城中の水が尽き降伏。

それにより野久尾城も守る事も出来なくなり、高原・三ツ山・須木・野久尾
の四か所はそのまま島津の知行となってしまった。

これ以後は野尻の地頭福永丹波守に軍勢を加えて、野尻・戸崎の両城を境と
して手堅く番をさせるようになった。

(日向記)

所領のトラブルから伊東家の没落が加速していくお話





伊東三位入道、秀吉との謁見を断る

2013年05月27日 19:52

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 09:38:31.50 ID:q4RGpC9u
>>352 の続きの話

伊東掃部助は入道殿(伊東義祐)も秀吉公にお目見えされるのが宜しいで
しょうと申された。

しかし入道殿は「元は日向の太守にして代々藤家の名家である。その上
すでに三品に叙し、歳も七旬を越えようとしている。たとえ流浪の身で
あると言えどもなんの面目があって羽柴藤吉ごときに追従できるだろうか。
但し子孫再興の為なので祐兵は別だ」と申され、遂に謁見されなかった。

(日向記)

三位入道、面目の為に秀吉との謁見を断る




354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 12:50:56.35 ID:F/21qvt6
まあ、自分はプライドを取って、息子には実を取らせるってことで両面通した話だな>義祐さん
まあその後野垂れ死にに近い状態になったから体調が悪い状態で会うわけにもいかなかった、って部分もあるんかねえ

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 13:52:37.96 ID:RvMipcHU
これは日向伊東氏の良い話っていうより伊東長実の良い話だと思うんだけど、
話の流れには諸説あるよね
三峯側が長実を頼っていったとか

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/27(月) 14:43:19.82 ID:q4RGpC9u
>>355
たしかに伊東掃部助の良い話って感じですね。
ただ掃部助が長実かどうかは官途からして微妙な気がします。

伊東義祐への落首

2011年05月07日 00:01

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/06(金) 00:04:07.10 ID:PUegEPCq
天正5年(1577)12月、日向の伊東三位入道義祐は島津の猛攻に耐えかね、ついに日向から逃げ出し
豊後の大友宗麟を頼る。
伊東義祐は国東郡に屋敷を与えられ、丁重に扱われた。

が、翌天正6年の耳川の合戦で大友軍が島津に大敗するとその空気も変わる。
『大友家を島津との戦いに巻き込んだ元凶』と、伊東の存在をあからさまに厄介視するようになったのだ。

そんなある日、国東の伊東の屋敷の前に、何者かがこのような落首の書かれた札を立てた。

『のみしらみ 鼠となりて三位殿 田原の下を這い回りけり』

これに激しくプライドを傷つけられた伊東義祐は、わずか20名ばかりの家臣と共に、密かに豊後を
落去、伊予へと渡る。そして各地を放浪して暮らし、天正13年(1585)、堺にて死去。
豊後からの退去後、彼が日向の地を踏むことはなかった。

伊東義祐の晩年を流浪のものとするきっかけとなったと言われる、落首についての話である。




52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/06(金) 07:44:36.52 ID:U2rMuws3
旧領取り返すなら人に頼るなってことだな
それか逃げないで潔く討ち死にする

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/06(金) 08:16:22.86 ID:D7TOC9gV
>>52
斉藤龍興はその点、いさぎよい

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/06(金) 08:57:19.00 ID:XxBuZ4bn
>>52
でも、息子が秀吉の家臣になってね…

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/06(金) 11:16:03.71 ID:pKBBJOT7
落書きした奴は大友家中の誰かなんだろうけど、情けないな
負けたのは自分の責任だし、伊東をダシに領土を切り取る気マンマンだったくせに被害者気取りか
戦闘力は無理でもせめて軍神の潔さを見習えと・・・

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/06(金) 13:10:33.32 ID:0uqEM3ht
切り取った土地はキリスト教化されちゃうからキリシタン家臣でもない限り骨折り損になる可能性が。

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/06(金) 18:35:06.06 ID:pQxASYiO
>>56
一向宗じゃないんだから、年貢が入らなくなるわけでもないだろ。

というかこのころ日本全国に100万人のキリスト教徒がいたそうだが
全人口は1200万人程度だから単純に考えて12人に一人がキリスト教徒
さらに布教は西国が中心で、大友家当主の宗麟は熱心な信者だという事を考えれば
大友家中には結構な数のキリスト教徒がいたんじゃないかな。

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/06(金) 20:06:06.66 ID:EM30mxLS
猛烈な反キリシタンな人達もいたんだよ。
義統とその母親は旗頭だったはず。(母親は神社の娘)
宇佐やら臼杵、国東辺りは仏教が盛んだったので、その周辺はほとんど反キリシタン。
で、伊東の屋敷が国東で、反キリシタンの立場から見れば火種を持ち込んだと見られても仕方がない。
伊東さんにとっちゃ、濡れ衣だがw

義統がキリシタンになるのは母親が死んだあと、黒官の勧めで改宗した。
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