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津村正恭の譚海より、戦国時代の連歌

2023年03月20日 19:49

723 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/19(日) 18:40:00.58 ID:3oOcadZo
津村正恭譚海に戦国時代に連歌が流行っていた話が二つ載ってたので

その1 松永弾正

松永弾正がある人のところで連歌をしていた。「薄にまじる蘆のひとむら」という句に上手くつけられずに悩んでいると、松永の宿舎から使いが来てこっそり何事かささやくが、弾正は相変わらず上手い句をつけようと悩んでいる。そんなことが二度三度あって、やっと「古池の浅きかたより野となりて」とつけると、すぐに「火急の用ができましたので失礼します」と帰ろうとする。隣の人が「何事ですか」と聞くと、松永答えて、「先ほどより宿所のほうに野武士が蜂起して押し寄せて来たとのことで、急ぎ参って追い散らしてきます」

724 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/03/19(日) 18:42:16.04 ID:3oOcadZo
その2 政宗と小十郎と紹巴

里村紹巴が松島見物に仙台に旅した時のこと。政宗卿が城内で片倉小十郎と四方山話をしている時に、「この頃紹巴が京都より下ってきて連歌を盛んにしているそうだ。一つ、紹巴を読んで俺もやってみよう」と仰って紹巴を呼んだ。すぐに紹巴はやってきて連歌が始まった。ホトトギスが鳴いていたので、政宗卿が「鳴け聞こう身が領分のホトトギス」と発句されると、小十郎横で胡坐をかいたまま、脇を付けましょうと言うと「鳴かずば黙って行けホトトギス」とつけた。紹巴おかしく思ったのか、「どうなりと御意に従えホトトギス」と第三句をつけた。

そこまで悪い話じゃないですが。

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/19(日) 19:36:12.35 ID:Ur/zFVEA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13262.html
「古池の浅き方より野となりて」

こっちだと安宅冬康の短歌

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6643.html
「鳴け聞こうわが領分のほととぎす」

こっちだと藤堂高虎となっているが、普通は加藤清正として知られる



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この徳山五兵衛の分別のために

2022年12月12日 19:09

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/11(日) 22:31:18.66 ID:cJv5e76e
慶長二年酉の年、太閤様の御代であったが、その四月の頃、(伊達)政宗殿が洛外において花見の遊山をされたそうだ。
建仁寺の藤を一日中、一両日を過ごし、藤の森の入江の花見を、いかにも密かに、遊び者などを召し連れて遊山の所に、洛中のスリ共がこれを聞き出し、政宗一項をひしひしと取り巻いて

「我々は飢えており、金銀を頂きたいのです。」と申し掛けた所、

「安き程の義である。しかしここには金銀を持ってきていない。」そのように断ったが、

「ならば御腰の物、御供の衆迄のものを下さりますように。」
と申し上げた。これに対して「刀、脇差は如何であろうか。」と屋敷へ人を使わして金を取り寄せ、彼らに取らせてようやくそこから退くことが出来た。

悪事千里と言うが、五日のうちにこの話は京伏見に広まり、世間では「政宗殿が両腰の物まで奪い取られた、との風聞が専ら取り沙汰された。

このような所に、その頃加賀大納言(前田利家)殿と政宗とは、関係があまり良くなかったのだが、大納言殿はこの事を聞きつけられ、使番の北村という若者にこう言い含められた

「政宗殿の所へ参り、『最近承った事には、藤の森にてスリにお逢いに成ったとのこと。笑止(気の毒)に思います。』と伝えるように。」

この時、大納言殿の側廻りに居た徳山五兵衛(則秀)はこれを聞くとこのように考えた

『以ての外の大事なる事を仰せ使わされるつもりだろうか?その使いに対し、定めて政宗殿からは『懇ろなる使、忝なく存じます。そして(我々がスリに遭ったという)証拠を下さりますように。』
と言って来るだろう。そう言われた場合、我々に確かな証拠は無い。となれば伊達家との関係が大事になる事は必定である』

そのように分別し、『そのような使いは御無用にて候』と申すべきだと胸中には思っていたが、大納言殿の癖として、一旦腹(一度言い出したことは反論を聞かない)なる人であるから、
そんな事を言えば猶以て早々に使いを出しかねないと案じ、あえて反対をせず「使いには私が参りましょう。」と申し上げた。
「ならば五兵衛が参るように」と仰せになられると、この使いの事を五兵衛は留めて、二、三日が過ぎた。
大納言殿より「五兵衛、政宗殿の汚き事についてはどうなったのか」と尋ねられたが、これに対し「これは大事の御使であります。伊達家より証拠を求められた時はいかがすべきでしょうか。」
と申し上げた。しかし「スリに遭った事は必定である。五兵衛が参らぬのなら他の者を遣わす」と仰せになった。そこで「ならば私が参ります。」との事に成った。

徳山五兵衛は政宗殿の元に参り、大納言殿の言った通りに申し渡すと、案の定、政宗殿は自身で出てきて書院において対面し、その返事には

「そのような事を能く聞かれ届けられました。願わくばその証拠を出し、我々に下さりますように。」

との事であった。五兵衛は挨拶仕り、「この事は、先に申し上げたように世間がそう取り沙汰している事です。
大納言に対し、証拠を出すようにとの御返事でありますが、そのようば御返事では、私は罷り帰ることが出来ません。使いが不調法であった、という事に成るからです。である以上、慮外ではありますが、
御椽を汚し申します。(椽側で切腹するということ)

五兵衛の覚悟が強く見えたのを、政宗殿はとっさにその気色を悟り、
「そういう事であるのなら、世間の取り沙汰もあるのだろうか、仰せを聞き置こう。それは世間の悪口でもあるのだろうが、御心安く思って頂きたい。そのような事は身に覚えが無い。
御内証、忝なく存じ奉り候」

と、直に返事をされた。徳山五兵衛は分別し、この返事を聞いても証拠が無いと考え、「今暫く、申し上げたい事があります。」と言ってその座を立ち、政宗殿の屋敷に近い、
糟屋内膳殿、土方勘兵衛へ使いを立て『これへ早々御出下さりますように、急用のこと御座候』と申し遣わした所、この両人が参り「このような使いのため、大納言の所より参りました。」と
説明し、この両人を先に立て、再び政宗殿に逢い、

「最前の御返事はあのようでしたが、その後に御言葉が有れば、後の両家の申し事に成ってしまいます。証拠のために、この両人を御前に在られて、御返事の内容を承ります。」
と申し上げた。

この後に取り沙汰されたことには、この徳山五兵衛の分別のために、政宗殿と大納言殿との間に物言いが起こらなかった。これは偏に臣下の徳山のおかげであると、この話を聞く者たちは
五兵衛に感じ入ったと聞こえている。

(川角太閤記)



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/12(月) 14:01:29.35 ID:r1ZE6v21
ロリコンさぁ

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/12(月) 17:23:24.85 ID:AEhmbMhj
五兵衛さんのいい話であり
利家の悪い話でもある

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/12(月) 18:46:55.40 ID:GZ/44Pjx
>>509
つまらん頭してるな

政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ

2022年10月06日 18:35

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/05(水) 21:09:37.08 ID:xyMAVVrP
伊達政宗の生前の言葉を書き残した『命期集』より
政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ
まとめにある話ですが、ディテールが抜けているので投稿

(政宗の)あるときの仰せでは、太閤が伏見におられたとき、城のなかに御学問所と名付けた座敷を造り、四隅に数寄屋(茶室)四つを設け、東西の諸大名に茶を振る舞った
亭主は四人で、太閤と家康公、前田利家公と私(政宗)だった
太閤も残る三人も良い葛籠を持ち寄り、自分たちで寝床を敷き、四人は枕を並べて夜もすがら、昔物語をして楽しんだ

さて、四つの数寄屋はくじ引きで決めてそれぞれ四人が受け取り、水屋以下、お勝手料理の間もそれぞれの数寄屋に設けられていたので、四人とも料理なども隠し合い、工夫をこらしていた
(秀吉から)客が誰かはまったく知らされていなかったが、次の日になると(政宗の客は)佐竹義宣浅野長政加藤清正上杉景勝であるとにわかに告げられ、仲の悪い衆ばかり客に仰せ付けられた
なんとか変わった趣向を行おうと思ったものの、にわかのことでなかなかできなかった
季節が若菜の芽摘みの時期だったので若菜汁ばかりつくり、できうる限り沸かし返し沸かし返し、熱くして出した
そのため、しばらく置いても冷めずに(佐竹らが)迷惑していたところ、早々と替えの汁を出してなかなか一口も飲めなかった上に、また先のごとく汁を替えて出した
まもなく酒を出し、始めから終わりまで迷惑した

振る舞いも終わって御学問所に四人は寄り集まり、その日の亭主としての接待ぶりを順番に語り合った
私(政宗)が「今日の客は一段の日頃からの知音(親友)だったのでどのような馳走をしようかと思ったのですが、うまくいきませんでした。(寒い冬の時期が)旬だったので若菜の汁をできるだけ熱くしてお出ししたのですが、飲んで一口目で怪我をしたのでしょうか、しばらく箸を唇にくわえたまま舌打ち(現代でいう舌打ちと、舌鼓を打つのダブルミーニング)をしてございました」と話した
太閤は「さてもさてもしてやったり、してやったり。一日の亭主だがこれは古参(のようなもてなし)である」と二度も三度も躍り上がり、腹を抱えて笑ったので、伺候の人々は座敷にいかね、腹を抱えてともに大笑いした
その末に次の日の客選びの相談をした
このように太閤が遊びをされたこと、天下の諸大名を組み合わせたことは、仲違いした者同士の仲直りをさせようという奥意があったと後に知ったと(政宗は)仰せられた



トイレで独り言…政宗の苦悩と意外な一面

2022年10月04日 19:10

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/04(火) 01:32:41.75 ID:xzFPnSUI
伊達政宗の言動を記した『命期集』より
トイレで独り言…政宗の苦悩と意外な一面

下々の申し上げたことはもちろんの事、自国でも他の家の人間でも直接対面され、一度顔を御覧になると忘れることは十回に一回だった
たしかに名字も覚えられるので、(会った人間は)名誉に感じた
また、下々の人間が明白な間違いを犯し、厳しく詮索して糾明進退に関わることだと思われても、誰かが取りなしたり陳情すればその意見を取り入れた
疑う心が少しもあられないように見えた
それというのも、人々に不測の事態がないようにおぼしめされてのことだった
たとえば、土民百姓などの処分でもご自身では決めることはなく

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/04(火) 01:42:09.96 ID:xzFPnSUI
続き

それでも決まらなければ奉行衆をその場に残し置き、御閑所(トイレ)に入った
御閑所からははるばる独り言が聞こえ、苦労されている様子で、物事の善悪を(トイレで)考え、自筆の書状で奉行衆に「どのような裁きがよいか吟味せよ」と申し付けた
(トイレに入る前の)その場で即決することはなく、いかようにも申し分を聞き、誰もが納得する結論が出れば命を助けて牢に入れられた
いかようにも憐憫を加えられ、手をかざし、よほどの大事でなければ命を奪われることはなく、御閑所で物事の善悪を見極められた



おうた子に教えられ、川を渡る

2022年09月05日 17:40

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/05(月) 14:50:01.20 ID:SG6/So3y
徳川家光公の御治世に、「万事御政道は、東照宮の通りに成されるべき」と仰せになられたところ、
伊達陸奥守政宗は
「家康公より、百万石を給わらんとの御書付が有りますが、政宗としても現在は御代も代わった事でもあり、
それは反故であると存じていましたが、今度の仰せについて、この御証文の写しを御覧に入れたく思います。」

との御書付を献じられた。

この事は上聞に達し、土井大炊頭利勝を召されて
「陸奥守に百万石を下すというのは、有るまじき事では無いが、これはその当時の御謀であり、このような事を
取り上げていては、他家よりもまた、この類のことを願ってくるだろう、いかがすべきだろうか。」
と御尋ねになった。

利勝はこれに「井伊掃部頭(直孝)に御相談されるべきでしょう。」と言上したため、すぐに掃部頭を召し出され、
これこれの旨を仰せ聞かされたところ、直孝は承って、伊達家に参り、政宗と対面して申した

「只今、風説を承るに、今度仰せ出されたことについて、御先祖(家康)より下された御証文の写しを
差し出されるとの事ですが、これは実説でしょうか?不審に思い、罷り越しました。」と申した。

陸奥守答えて「いかにもその通りである。御代も代わった故に、この御書付も反故と存じていたのだが、
今度の仰せ出されにより、御覧に入れるのだ。」

直孝は尋ねた「その御証文は御自筆でしょうか?」
「全く、御先祖の御筆である。」
「もし出来るのであれば、それを少しばかり拝見仕りたく思います。」

そのように申したため、政宗は家臣を呼び出し、御証文の入った筥を取り寄せ、井伊の前に置くと、
直孝は御証文を出して押し頂き、とくと拝見して政宗に対し

「かような事は御謀であり、貴殿もその事は御存知であるはずです。誠に反故にて候。」

そう言いながらこれを二つ三つに引き裂いた。政宗はこれを見て興醒めして

「なるほど、左様である。これはおうた子に教えられ、川を渡る(負うた子に教えられて浅瀬を渡る)と
申すものであるな。」

と笑われ、種々の饗応あって後に、直孝は伊達家を出てそれより直ぐに登城して、この趣を報告すると、
家光公はご機嫌斜めならず、利勝も大いに感心したという。

(新東鑑)



【お知らせ】福岡市博物館で、10月8日(土)より「独眼竜 伊達政宗」を開催

2022年09月04日 15:10

350 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/04(日) 14:59:22.16 ID:fPyEczsM
https://mobile.twitter.com/fukuokaC_museum/status/1564137168255082496
福岡市博物館@fukuokaC_museum
福岡市博物館では、10月8日(土)より「独眼竜 伊達政宗」を開催します。
本展では、福岡初公開となる政宗所用の甲冑や直筆の手紙、武具、国宝「慶長遣欧使節関係資料」など約100点を紹介し、
政宗の魅力に迫ります。政宗と同世代の武将・黒田長政と立花宗茂の甲冑も同時公開します。

10月8日(土)より 11月27日(日)まで
特別展 独眼竜 伊達政宗
https://rkb.jp/event/masamune/

戦国時代展の一部としてではなく、西日本・九州でこれだけ大規模な伊達家特集は初めてではないでしょうか?
お近くの方はぜひこの機会を逃さずにお出でください。



実のところ仙台市博物館は、昨年の強い地震の後、設備破損の上に施設の老朽化が判明して(+コロナ)、大工事のため2年後まで閉館です・・
他所に貸し出せるのも今だけとも言えますので、行くしかないですよホント。



弁慶堀

2022年08月28日 15:40

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/28(日) 13:29:50.38 ID:yhd8x8KM
江戸城、西御丸の外堀を弁慶堀と呼ぶのは、慶長五年、関ヶ原合戦の後に、上方衆では藤堂高虎
関東衆では伊達政宗の両人が頭取となり、江戸に屋敷地を拝領仕りたい旨を願われた。

家康公はこれを聞き召され、「各々大阪に屋敷有れば、当地にては無用の事なり。」と仰せになられたものの、
たって願われたために、外桜田辺り(今の大名小路の場所である)にて、東国西国の大名、加藤清正を始め、
黒田、鍋島、毛利、島津、伊達、上杉、浅野、南部、亀井、仙石、相馬、水谷、秋田、土方、その他の衆
(前田は芳春院江戸下向の時、秀忠公より御城大手先に於いて下されていた。また浅野幸長は弾正長政に
先立って、桜田霞ヶ関という所を拝領した故に、これを上屋敷となし、老父弾正隠居所に仕りたいと
願ったために、別に屋敷を下されたという)
御当家(徳川家)への御奉公始めとして、東西の諸侯による打ち込みの御堀普請が行われた。
これは東西の武蔵坊と言える心で行ったので、下々はこの堀を「弁慶堀」と申し習わした。

この頃、御堀はようやく幅十間(約18メートル)あまりであったのだが、屋敷拝領の諸侯よりの
願いを以て、堀の土を揚げ方々へ引取り、地上げに用いたため、現代のように御堀も広くなり、
底も深くなったという。

新東鑑



私ほどの者が磔にかかる時

2022年08月08日 18:40

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/07(日) 21:43:22.51 ID:SY5vKsav
豊臣秀吉公が小田原進発の時に、伊達陸奥守政宗(この時は左京大夫と称す)は参陣無かった事で、
秀吉公は甚だ怒り給われたのを、政宗聞いて小田原陣に至り、中村一氏に付いて

「それがしは関白殿の御門下に、必ず馬を繋ぐべき筋目はない。これによって日頃より、日和を見ていた所、
北条が滅びた後に、奥州へ御発向されるという風聞を承った。
然るに於いては、必定防戦は危ういと存じたため、日を継いで馳せ参った、
昔、源頼朝卿が千葉広常の遅参を咎められたような御気色が有るのは迷惑である!」

そのように言った所、秀吉公は御笑いあって
「政宗はありの儘なる者なり。」と、その罪を免ぜられた。

然るにその年の冬、奥州九戸に一揆が起こり、政宗もその味方をしているとの聞こえがあったため、
秀吉公は政宗を悪まれ、急ぎ上洛すべしとの仰せがあった。
政宗はこれを承ると、「私ほどの者が磔にかかる時、並々のものでは口惜しい。」
と、金銀にて装飾した磔柱を真っ先に持たせて上京した。

この頃秀吉公は伏見の城地を見て居られたのだが、政宗の上洛をお聞きになって、「ここへ来るように」
と仰せられた。このため伏見に参向すると、御側に招かれ、その日使われていた御杖(或いは扇子)にて、
政宗の首を押さえて

「その方が上洛しなかった場合は、かように申し付けようと思っていた所、速やかに馳上がった上は
これを免ずるなり。」と仰せになった。

政宗は畏まって、御前を退出したという。

新東鑑



328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/08(月) 02:29:08.03 ID:cS6asV3w
おぉ
金の磔柱の話は北条征伐の時の事と思ってたけど違う時の話だったのね

秀忠と政宗と酒井忠世

2022年05月26日 16:35

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/25(水) 23:28:29.94 ID:8WaBkeoQ
槐記享保十年十月二十二日の記事より 秀忠と政宗と酒井忠世

進藤夕翁の話に「台徳院殿の御時、酒井雅樂頭(恐らく忠世)と奥州の政宗が御相伴になって、台徳院殿自らが放った鷹で獲った雁を二人に下されたが、二人ともにその雁を褒めたところ、その時分俳諧が流行っていたのであろうか、『一句詠めるか』とお尋ねあるとすぐさま雅樂頭、
 下さるる 御汁いくたび かえる雁
と詠まれた。御感心のあまり『政宗、脇を付けよ』とご所望あれば、政宗、
 遅き給仕の あたまはる風
と付けると、おおいに面白がられた。『なにとぞ第三句はお上がお付け下さいませ』と二人が申し上げると、
 山々は こぶしの花の 盛りにて
と付けられたとのことです」
家煕様も「昔の人は」と大笑いされたが、三人の性格の違いがまざまざと表れているのは実に驚くばかりだ。



近衛信尋と伊達政宗と福島正則

2022年05月25日 18:02

200 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/24(火) 21:54:11.27 ID:UW7pG4Rp
槐記享保十年八月十三日の記事より

近衛信尋伊達政宗福島正則 後半部分は既出ですが

この度関東の姫君様(徳川継友に嫁した家煕の息女安己姫)が御逝去されたため、御忌とて奥にあらせられた。お伽に参ったが、とても寒々しくて何の興もなかったが、更け行くうちに雨も晴れ、おぼろげながら月も顔を出して少し興も出てきたので、女中の吉岡於秀と左兵衛尉のみで四方山話をしていると、(家煕様が次のように語られた)
「この奥座敷はいにしえ桜の御所にあった名物の御書院で、奥州の政宗や福嶋大輔(福島正則)などがしばしば参会したところであった。この押し入れは昔は二畳敷きであったが、ある時鼠が入って騒がしかったのを、応山(近衛信尋)が『鼠であろう』と仰るよりも早く、片目政宗と福嶋大輔の二人とも続いて押し入れに入ってここかしこと探し求めたが、外から応山がしきりに『取り逃がしたか』とお尋ねあったが、残念ながら取り逃がしてしまった。二人が押し入れを出るなり『どうであった。どうであった』とお尋ねあり、大輔、『無駄骨折って取り逃がしたのは無念の至りです。人ならば取り逃がしはしまじきものを』と謹んで申し上げたとのことだ。いかにも人ならば取り逃がしはしまじき者どもであった、実に可笑しいことであったと応山公はよくお話になった」

「福嶋大輔は普段はいたって物柔らかな人で、人に噂されているような人物ではなかった。ある時応山公が滋野井を供にして、福嶋の京の屋敷へ茶の湯をされにおいでになった。待合まで福嶋がお迎えに出ようと中門を通ろうとすると、蜘蛛の巣が福嶋の顔にひたとかかった。
福嶋が手で蜘蛛の巣を押しぬぐって、ご挨拶を申し上げようとするのを見て、滋野井、『これは大変なことになった。ここを掃除した者はすぐに手打ちになるに違いない。可哀想なことだ』と心に思った。
応山が『今日は何よりも珍しい馳走にあずかりました。待合につくなり、あちらの松の高枝から蜘蛛が舞い降りて中門の袖垣かけて巣を織り、やっと出来上がったところへ亭主殿がお出でになられ、今少し見ていたいものだと実に名残惜しく思われました。あの蜘蛛の振舞いようはかねてよりお申し付けになられていたのではありませんか』と御冗談を仰ると、大輔も実に興あることだと感じて名誉に思い、掃除のし残しには全く気が付かなった。このことはのちに犬徒然草という仮名物に記載してある」

信尋の生年は1599年、正則の1619年の改易以前だとすると信尋はこの時十代。前半の言動の子供っぽさからすると十代前半か。
正則は五十台半ばから後半、政宗は五十前後。槐記の他の信尋の逸話からも感じられるが、人懐っこい人好きのする人柄だったのではと思われます。
ちなみに、槐記では基本、武家は姓プラス官位で呼ばれていますが、政宗は政宗呼びで、片目政宗も原文ママ。
秀吉と家康も諱呼びしているので有名人扱いということなんでしょうか。



「芳斎青木新兵衛の事」前半部分

2022年03月18日 15:53

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 15:14:49.56 ID:l73Nz6xM
青地礼幹可観小説」から「芳斎青木新兵衛の事」前半部分

青木新兵衛(方斎入道)は方々へ渡り奉公をしていたが越前少将忠直卿に仕えた。
その経緯であるが、あるとき忠直卿の家臣、永見主膳が息子の着付けを三宿勘兵衛(御宿政友)に依頼した時、一座に居合わせた若い衆が武功咄を望んだ。
以下、

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4376.html
「真の武士とは」


とほぼ同じ話で、これにより永見主膳に出入りしていた浪人の青木新兵衛が忠直卿に召し出されることとなった。

なお「真の武士とは」では
永見主膳→狛伊勢守、三宿勘兵衛→阿閉掃部
と名前が違っており、
室鳩巣「駿台雑話」の「阿閉掃部」やそれを出典としたと思われる、
神沢杜口「翁草」の「阿閉掃部(注釈では阿閉貞征の息子)」では、「真の武士とは」と両者の名前が同じであるが
主題である「真の武士」という言葉が出てこないので、ほかの出典があるのだろうか。

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 15:20:32.17 ID:l73Nz6xM
青地礼幹は室鳩巣の弟子であり、師弟で同じ話を書いておきながら両者の名前が違う理由は不明。
青地は加賀藩士であり、青木新兵衛も最後は前田利常に仕えているため、師の間違いを青地が正したのかもしれない。
(「可観小説」では「駿台雑話」評や室鳩巣逝去についても書かれている)
また「翁草」には

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13192.html
中々鬼にて御座候


の、伊達政宗が青木新兵衛の松川での戦いぶりを褒めたところ、
帰邸後、秀康が永井善左衛門と取り違えて永井を褒め、永井が「それは青木新兵衛です」と訂正し
秀康が「まあどっちも我が家人なのだから強く穿鑿には及ばない」とごまかした話もあり、
この時点で青木新兵衛が秀康から認識されていたのなら忠直の時に無名だったのはおかしい気もする

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 15:23:29.67 ID:l73Nz6xM
ついでに山鹿素行「山鹿語類」の「士談五 剛操」には

青木新兵衛が越前で青木紀伊守(青木一矩)に仕えていたころ、同輩の荻野河内のところで寄り合いがあり
その席で武功話をせがまれた新兵衛が、賤ヶ岳の戦いにおける余呉の湖畔での戦いで、立派な前立ての武者と槍合わせをし、
新兵衛が槍をついたところ武者が退いた、という話をしたところ
亭主の河内が「それはそれがしなり。法斎(新兵衛)の具足や指物はこのようなもので、また胴には槍跡がなかっただろうか?」
と尋ねたところその通りだったため、
河内「よい時分におおせられて満足だ、しかしそれがしは槍でつかれもせず、退きもしなかった、
それだけははっきりと言っておこう!」
新兵衛「いや、たしかに某がついて、そなたは退いた!」
と双方引かず、すっかりみんなの興が醒めたところで、河内の十七になる子供が出てきて
「推参ではありますが申し上げます。そもそも殿軍の折ですから双方とも一騎討ちをなさったわけではなく、
それぞれ味方の軍からあまり離れないように戦ったわけですから、一歩、二歩退いたかどうかで言い争っても無意味でしょう。
そのようなことで議論なさるのは、御両人には似つかわしくないと思います」
と言ったところ、新兵衛も大いに感じて穿鑿をやめ、座中も感じて興を催したということだ。

という主君が忠直ではなく青木一矩で、組み合わせた相手も荻野河内と違うが、似た話がある
時代的には山鹿素行の方が古いが、もしこちらが元の話だとすると、青木新兵衛にとってはあまりかっこうのよくない話になる。

後半
「芳斎青木新兵衛の事」後半部分


402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 16:21:39.98 ID:Nc2Sr3bk
それ河内の息子のいい話だな

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/18(金) 20:07:44.51 ID:WPcSNcPa
新書太閤記に同じ話あるんだけど、吉川英治の創作だと思ってたわ

「さてさて、御老人たちは、戦場からお残り遊ばした余生を、恥よとも、勿体ないとも、思し召さず、よくもまあ、退いた退かぬなどと、愚かな喧嘩がおできになりますな。
こうして、寄合い振舞いなどのできるのも、誰のためと思し召すか。
五十年来打ち続いた合戦に、どれほどな武者輩が白骨となったでしょう。
思えば、その方々へ、蔭膳の礼もせずに、今日、一杯の酒とて、飲めた義理ではござりますまいに」

奥の兵、一偏の東夷たるを以て

2022年03月06日 15:52

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/06(日) 15:12:56.57 ID:ipMLukOV
或る本に、神保長三郎(相茂)の部隊を、仙台(伊達政宗)勢が鉄砲にて悉く撃ち殺したが、
(別記によると被害は従者一人であり、長三郎は別状無かったともある。未詳)
後に大御所(徳川家康)よりこの事についてお尋ねが有った所、伊達家より

「奥の兵、一偏の東夷たるを以て、大和武者の美麗を見、『我が党に非ず、城兵なる事必定なり』と
思い誤り候」

と陳謝したが、重ねての台命は無かったという。

別記に、この時伊達方と水野日向守(勝成)家令・塚本弥兵衛、竹本左門、寺島助九郎の三人が
味方討ちしたとも言う。
新東鑑

伊達家による神保隊味方討ちについてのお話



386 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/08(火) 16:59:38.37 ID:5bTTo9MU
>>383
>奥の兵

ところでこの表現なんだけど、過去まとめのこちらではこんな風に書かれてるんだが
奥州独特なのかな?

政宗の黒漆塗五枚胴は雪下胴と呼ばれ
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10342.html
>奥州武者(奥士)は馬上で槍をとって戦え
>奥武者の我が家は

他の地方でも同様の呼び方ってあったんだろうか
下野で下士とか備中で備武者とか

猫を溺愛する伊達政宗

2022年02月20日 15:21

26 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/19(土) 18:46:13.48 ID:xB7rqSUd
猫を溺愛する伊達政宗

政宗が江戸幕府の伝達役、野々村四郎右衛門に宛てた書状
https://i.imgur.com/9T58nl0.jpg
9T58nl0.jpg

https://i.imgur.com/Yebwj2q.jpg
Yebwj2q.jpg

「独眼竜」が猫にデレデレ? 書状が伝える意外すぎる武将の一面(Sデジオリジナル記事)
山陰中央新報 2022/02/06
https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/159624

以下抜粋
 ▼お礼の手紙で飼い猫をべた褒め

 公開された書状は縦34・2センチ、横50・7センチ。政宗本人が江戸幕府の伝達役、野々村四郎右衛門に宛てたもの。岡学芸員によると、政宗は参勤交代で江戸にある屋敷にたびたび滞在したため、2人は見知った仲だったと思われるという。内容は現代語に訳すと、以下のようになる。

 「猫の子をしっかりと預かりました。男ぶり(顔つき)が見事です。家来から『夜、(猫が)自身の体よりも大きいネズミを見事につかまえた』と聞きました。ますます大事に飼おうと思います。喉輪(首輪)もおしゃれで、一段と華やかに見えます。直接会ってお礼がしたいです」

 書状の前後の流れは不明だが、政宗が四郎右衛門から猫を譲り受け、そのお礼の手紙とみられる。猫について「顔つきがりりしい」「大きなネズミが捕れるほど強く賢い」「首輪が似合う」と、べた褒めだ。独眼竜の名からは想像できない猫ラブな一面に、親しみを感じた。

(中略)

 書状に年月日の記載はない。岡学芸員によると、時期によって形が変わる、花押(かおう)と呼ばれる署名の形から推測し、政宗が50歳を過ぎ、大坂の陣(1614~1615年)も終わった1620~21年頃のものと推測できるという。岡学芸員は「戦乱が終わった後なので、政宗も平凡な暮らしをしていたのかもしれない。よくこんな資料が残っていたものだ、と思う」と笑った。



 ▼政宗の書状、なぜ島根に?

 岡学芸員によると、政宗は筆まめで有名で、書状は全国に約2千点残るが、猫に関するものは唯一だという。
(抜粋終了)


政宗が猫を可愛がる話はちょっと新鮮だったので。



27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/19(土) 18:57:37.77 ID:2XK1l8/y
野々村四郎右衛門
隆慶一郎「影武者徳川家康」で初っ端に出てきて、
暗殺者の甲斐の六郎に殺されて、すり替わった六郎が真の家康を殺しちゃったのを思い出した。

28 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/19(土) 19:00:21.91 ID:xB7rqSUd
一応、こちらのツイートも貼っておこう
https://twitter.com/nekomasamunecom/status/1493417028329238529?s=21

29 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/19(土) 19:05:13.80 ID:xB7rqSUd
>>27
創作物の影武者徳川家康だとヤられてたけどまぁ、家康の前に馬乗り付けてぶち切れられた記録が残る使い番のあの人と同姓同名だから多分同一人物だよね。

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/19(土) 19:15:26.21 ID:2XK1l8/y
影武者徳川家康でも徳川実記を引用しているからたぶん同一人物
政宗と猫といえば

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-314.html
伊達政宗と最上義光・悪い話

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2735.html
まーくんがぐれました。


で最上義光あてに
「伯父貴援軍マジありがとな。で、オレ、城落としたら女も子供も犬も猫も
八百人くらいぶっ殺したから、マジでwwwww」
と書いたとかいう話が出ていたけど、
小手森城のなで斬りの時の書状だとしたら本当は
「五百餘討捕、其外女童におよばず、犬迄なで切に為成候条、以上千百餘人きらせ申候」
と書かれているようだから、猫好きは安心して

31 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/19(土) 20:02:47.77 ID:xB7rqSUd
江戸初期までは猫が貴重な生き物だったと言うし、放し飼いなら一城撫切りになっても、繋がれた犬とかと違ってすばしっこい猫はそうそう頃されることがなかったんじゃなかろうか?

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/19(土) 21:11:51.63 ID:QCDtD4Ha
政宗と猫はネズミ嫌いで話が合ったのだろう

33 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/20(日) 07:34:48.07 ID:Pj0bDDqh
政宗の書状に注釈と訳文を付したものがTwitterにありましたのでそちらも。
https://i.imgur.com/bZvX5B8.jpg
https://i.imgur.com/s2O4mt3.jpg
bZvX5B8.jpg
s2O4mt3.jpg

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/20(日) 07:41:38.30 ID:IR2F0tfs
猫御前にライバルが
(調べたら猫御前って山岡荘八がつけた呼び名だったんだな)

35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/20(日) 07:54:16.57 ID:0PFxHNiv
>>32
いやいや
どちらも食べちゃいたいほど好きなのだろう

36 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/20(日) 08:22:24.63 ID:lLeoMbk4
>>35
愛の前立ての人のレス

37 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/21(月) 14:31:19.54 ID:1cd2BFms
>>26
遠く離れていたって元領地とか子孫が移住したとかもあるけど、ただ単に好事家が古文書収集した結果というのもよくあるお話

武田信玄と朝倉のやり取りで有名な伊能文書も、朝倉ゆかりの家に伝わったというよりは、佐原の伊能家(忠敬の遠縁の同族)が手に入れただけっぽいし

38 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/21(月) 14:34:25.54 ID:1cd2BFms
というようなことはちゃんとリンク先に書いてありましたね
余計なこと書きました

>美術品や古文書収集家の桑原羊次郎(1868~1955年)が所有していたもの。桑原没後の昭和40年(1965年)代、
>島根県が遺品を譲り受けた際、書状も混じっており、そのまま長年保管されたそうだ。

>桑原家は代々、松江藩の両替商を務めた豪商。藩士が参勤交代で江戸に行った際、桑原家への土産として錦絵を
>買って帰ることが多く、昔から美術品が集まる家だった。桑原羊次郎は特に古文書の研究に熱心だったため、国内各所の資料を収集したという。

【ニュース】義姫の人物像に迫る機会に 山形で尊像のみ入れ式

2021年09月28日 17:41

義姫   
612 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 16:25:11.39 ID:wTypS4si
義姫の人物像に迫る機会に 山形で尊像のみ入れ式
https://www.yamagata-np.jp/news/202109/27/kj_2021092700585.php
山形新聞2021/9/27 18:51

初代山形藩主・最上義光の妹で、伊達政宗の実母である義姫(よしひめ)(1548~1623年)の400年忌(没後399年)を2022年に迎えることに合わせ、
菩提(ぼだい)寺の少林山保春院(仙台市若林区)が木製の尊像を制作するプロジェクトを展開している。山形市での尊像の「のみ入れ式」が27日、
同市の最上義光歴史館で行われ、関係者は「義姫の人物像に迫る機会にしたい」と期待を込める。

義姫は米沢城主伊達輝宗と結婚し、政宗らを出産。米沢城の東館に住んだことから「お東の方」とも呼ばれ、出家後は保春院と称した。死後、政宗が
供養のために建立した保春院には位牌(いはい)が安置されている。

義姫にはさまざまはエピソードがある。政宗を毒殺しようとしたとされ、悪女のイメージを持つ人も多い。しかし、政宗と互いを思いやる手紙のやりとりが
あったことなどが分かり、近年は、伊達家と最上家を守るために必死だったことや、家族を思いやる人物像が考察されている。

プロジェクトでは、没後400年の2023年7月に開眼法要を計画している。尊像は木曽ヒノキを用い高さ約50センチ。三浦真人住職(42)は「保春院様の
人物像をひもとき、見つめ直す機会にしたい」と話す。仙台市では先月と今月にのみ入れ式を行った。

この日は山形霞城郷土史研究会、同館サポータークラブ「義光(ぎこう)会」、同館の関係者ら約50人が出席し、一人一人が順番にのみを入れた。
同研究会の伊藤藤夫会長(83)は「義姫の今までのイメージを払拭(ふっしょく)し、いい母親だったと多くの人に知ってもらいたい」と話した。



中々鬼にて御座候

2021年09月28日 17:39

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 16:45:06.45 ID:DF35CRNy
関ヶ原の役における、伊達政宗勢と上杉景勝勢の衝突した松川の戦いにおいて、
上杉方の青木新兵衛は殿をして隠れない働きをし、その上伊達政宗と鑓を合わせ、
兜の立物(有名な半月の前立)を突き折った。総じて、若い頃より十六度の働きが有った。

関ヶ原後、景勝が米沢に移された時に暇を出され浪人した。そして越前黄門(結城)秀康卿に
召し出された。この時、永井善左衛門も召し出された。

加賀肥前守(前田)利長の茶の会に、秀康卿が御越しになり、その御相伴に政宗、
堀丹後守直寄、半井驢庵が参られていた。この時、数寄屋において政宗がこのように申した

「今度、奥州において骨折った能き者共を、黄門様が召し出されたこと、御重宝だと存じます。
青木親兵衛は(松川の戦いにおいて)鳥毛の棒の黒幌、十文字の鑓、瓦毛の馬(川原毛:
灰白色・黄白色で、たてがみ・下肢・ひづめが黒いもの)に乘っていました。
中々の鬼でありました(中々鬼にて御座候)。」

青木は大阪両御陣でも手柄が有り、後には法体となり、方齋と申した。

これについて、落合(主膳)と安田(能元カ)によると、青木のことを永井善左衛門と
取り違えて政宗が申され、そのため秀康様にそのことを落合主膳が申した事があった。
故ありて記さず。

(杉原彦左衛門覚書条々)



614 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:00:54.17 ID:qbAFEM+l
>>613
松川の戦い自体が無いのでそれはホラ逸話ですな。

松川が今は信夫山の北側を流れているが
当時は南側を流れている。要するに政宗が信夫山を占領していたとなれば
梁川城と大枝城を既に落せている状態。
ところが実際は政宗は落せていない。
 
           〇梁川城
==×=←今の松川
信夫山
〇        〇大枝城
==×=→当時の松川
〇福島城

要するに今の松川の流れる基準で
×想定される松川の戦いが戦記物には書かれているが
当時の河川の様子を考えると、政宗は梁川・大枝城を攻め落とさないと福島城(今の県庁)を
包囲するのは難しいと言える。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 17:04:26.08 ID:kR2UOwai
松川の戦いで政宗と戦ったのは岡左内じゃなかったかと思ったら
岡左内とやり合った後に青木新兵衛に三日月折られて
ついでに斎道二に陣羽織を切り破られたのか
(松川の戦い自体、伊達と上杉の記録でいろいろ食い違ってるみたいいだけど)
青木新兵衛も岡左内も永井(長井?)善左衛門も蒲生→上杉でややこしい

616 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:05:32.19 ID:qbAFEM+l
よって明らかに構成の配置を元に書かれた話で
実際の松川の戦いは信夫山の北側での小競り合いじゃないかと言われている
また、家康が100万石のお墨付きで政宗の切り取り次第を推奨したのであれば
政宗の南進にSTOPをかけた書状に矛盾が出てくる。
政宗が南進せずに釘付けにしているだけで50余万石を与えるという条件を保護したという事になるわけだ
切り取り次第であれば、政宗も損害が出ても福島城を奪還して、梁川城と大枝城も領有したと思うが
そこで止まっている。

要するにそもそも松川の戦いなどというものは存在しておらず
家康は、政宗に南進するのはやめておけと書状を出しているので
政宗の切り取り次第という前提も無いと言える。

617 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:07:23.16 ID:qbAFEM+l
>>615
どちらにしても松川の位置が違うし
松川事件の松川という街も福島市内の南西部にある

松川の戦い自体がそもそも当時の地形を考えたら無いであろうし
福島城を攻めなくても信夫山に兵を置いて傍観しておけば政宗の仕事

618 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:11:41.10 ID:qbAFEM+l
(家康に上杉を釘付けにしておけばいい)という条件は達成するわけだから
焦って、松川に飛び込んで上杉と野戦する必要は無いと言える。

政宗が切り取り次第で領地を与えるとなるのであれば、家康の政宗の南進のSTOPの書状に対して
政宗が話が違うのではないか?と言って、上杉側に寝返る可能性だった有り得る。
そういうリスクを家康は考えていたわけだから、上杉を牽制すれば50余万石を与えるというとおり
政宗は松川ではなく、梁川と大枝のあたりで小競り合いをして釘付けにしただけだと思う。
そもそも当時の政宗に信夫山を占領する力があったか疑問だ。

実際行ってみればわかるが信夫山とれば福島城なんて鼻くそみたいな城(信夫山と比べると)だから
戦にならず撤収するはずなんだがな。

619 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:34:52.92 ID:wTypS4si
杉原彦左衛門親清は杉原親憲の一族で大老酒井忠勝の家臣であった
忠勝の命で上杉時代の記録を筆記したという

会津陣物語(杉原彦左衛門物語)、武辺話聞書、近世軍記、それぞれ延宝8年(1680)、景勝ファンを自称する近江大津の国枝清軒が諸文献をまとめたものである

620 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:38:58.25 ID:qbAFEM+l
地形図画像で説明

https://dotup.org/uploda/dotup.org2602707.png.html

家康が切り取り次第であれば、政宗に福島城を落せと命令するはずなんだけど
家康は上杉を釘付けにしろと言っている。
その場合、信夫山を占領しておけば上杉勢の本隊は西の板谷峠から攻めて来ても耐えうるし
無理な場合は西山城に政宗は撤退すればいい。

621 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:39:56.78 ID:qbAFEM+l
>>619
ふむふむ。福島市に土地勘がある私からすれば、米沢の人間が適当に書いた軍記物なんだろうなと思う。

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 17:51:23.62 ID:wTypS4si
いや、米沢藩が関が原以後60年ほどは福島市を領有してたの忘れないでね?
福島市の置賜町ってなんで名前が付いたか知ってるでしょ
米沢市にも信夫町があるけどね

横田大学の事

2021年09月27日 17:54

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 12:55:44.38 ID:RPHVWC63
徳川家康による会津征伐への発向前、藤田能登守(信吉)取次にて、御所様(家康)より上杉家中において
御存知の輩には、御内通の御書を下され、今度は沼田を限り、奥へ御働きなされることにより、
『裏切りの手を合わせ候へ』との御意があったが、上杉家中の面々は御書を反し進じた者もあり、
また有無の御返事を申さなかった輩もあった。

横田大学は年来御所公と懇意であったので、殊更この時、御懇ろに書を下されたのであるが、
大学はつくづく考えた
「私は、古は大身であったが、秀吉公が関東に打ち入られ、その時本領を放れて浪人した。
今は僅かに二千石だが、上杉景勝に懇意にして頂いている。

只今景勝は小勢であり、御所は数万騎にてこれに取り懸かる。侍たる者が主を捨て、敵方に書を通ずる
ような事は、有るべき儀ではない。」
そう思い、御請の書状を差し上げなかった。

関ヶ原合戦の後、景勝は小身になられ米沢に移られたため、大学も浪人し、駿河へと参った。
そしてその事は城和泉守(昌茂)の取り持ちで、家康公の御耳に達したのだが、召し抱えられることは
無かった。
しかし大阪御陣の時、家康公は南光坊(天海)に対して「横田大学は現在何方に居るのか」とお尋ねに
なられた。その時分、彼は出羽に下り居た。

御所様も大学を勇者と思し召されていることを、この時紀伊大納言頼宣卿が聞き召された。
その時分は常陸介と申し奉り、未だ十三歳であったが、勇知厚き御器量にて、名のある武功の侍を
御所望の御心深く、「何卒、大学を召し抱えたい」と思し召し、板坂卜斎を以て柳生但馬守(宗矩)に
内意を仰せ入れられ、そして但馬守は伊達政宗に大学のことを尋ねた。
但馬守は、あたかも自分が聞きたいために尋ねているようにしたが、これを政宗聞いて

「この大学は人も知りたる者です。一万石ばかりにて堪忍致されるのであれば、私も望みに存じます。」
と返答した。
「奥州においては千五百、二千の大将になり、度々の合戦に勝負致し、敵城をも攻め落とし、我が城も
攻め落とされたこと数十度であり、慥かなる武士です。」と、政宗は物語した。

但馬守はこれを卜斎に語った。卜斎はこの事を常陸介頼宣も(以下欠)

(杉原彦左衛門覚書条々)

原典で最後の方が欠落しているらしく、このあとどうなったのか解らないお話。



75 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/27(月) 13:30:37.94 ID:AugSLeoP
>>74
https://aizufudoki.sakura.ne.jp/zakki10.htm

こちらによると、「新編会津風土記」には最上家に仕えて例の騒動の時にお家存続のために色々頑張ったけど甲斐なく最上家は改易。「横田系譜」では62歳で病死したとか

あと、山内一豊と同一人物説を説くものもあるとか。

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 15:46:21.69 ID:MAPLbMjJ
天海、蘆名氏つながりで蘆名家臣の横田大学(山内豊政)とも親しかった説

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 21:49:18.14 ID:8YXrZf7I
横田大学本人ではないが、
大学の孫が真田松代藩に仕官してる
重文・旧横田家住宅はその旧居

伊達の加勢

2021年09月14日 18:45

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 15:06:35.11 ID:q8uyA47f
慶長出羽合戦、始め最上義光上杉景勝の大軍が押し寄せると聞いた時、子息修理太夫家親に申された

「この度、直江山城守(兼続)大将にて四万余りの軍兵を引率し攻め来たるという事であり、
敵勢は定めて、雲霞のごとくであろう。
私は山形の城を以て。出来る限り防ぎ戦い、叶わずば腹を切る。その方は早々に奥州岩手沢に赴き、
加勢を伊達政宗に乞うように。

但し、我が姉(義姫、実際には妹)は政宗の実母であり、その方と政宗は従兄弟であるのだが、
先の鮎貝藤太郎(宗信)の事で政宗との関係が悪化し多年となっている(鮎貝宗信謀反事件)。
既に弓矢も数度に及んでおり、伊達家も我々に加勢する事は中々合点しないとは思う。

しかし政宗も関東方無二の味方であるのだから、私からの要請を聞く時は、関東(家康)の後聞を憚り、
加勢すること必定である。
その内に山形が落城すれば、私は討ち死にする。その方は生き残って、家名を相続するのだ。
父子が一所にあって討たれるなど、言い甲斐もない事だ。」

そう言って今生の暇乞いの盃を取り交わし、家親は馬に打ち乗って奥州岩手沢を指して駆けた。

九月八日、岩手沢に到着して政宗に対面した。家親は言った
「この度、関東の御下知により義光も軍兵を催促し、米沢口より会津に取り掛かるべしと支度をしていた
所に、治部(石田三成)が大阪に討って出て、京都、畿内がこれに一味し、伏見の城を攻め落とし、
既に治部の先勢は美濃口に充満しているとの事で、関東の御勢は会津攻めを止められ、江戸に引き入り、
上洛されました。これによって直江山城はその利に乗じ、この隙を伺って、四万余りの軍兵にて近日、
最上を攻め潰すべき支度をしているとの情報が申し来ました、そのため味方にも数ヶ所の砦を構えさせ
待ち受けていますが、大敵であれば、此の方が打ち負けること必定です。

事新しき申絛ではありますが、貴殿の御母堂は我が叔母であり、従兄弟のよしみ浅からず。
然れども先年の鮎貝藤太郎の事により、伊達・最上は確執に及び敵味方となり、数年争いましたが、
これは頗る本意では有りません。

この度直江が最上を攻め平らげれば、則ち、さらに下湯の原にかかり、岩手沢に取り掛かること、
隴を得て蜀を望むの勢いはとどまることは無いでしょう。これはいわゆる、唇亡びて歯寒しという
警句です。

今度、多年の宿意を咎めること無く、加勢を出され、最上の急難を救われれば、外には関東への奉公、
家は一家を救う所、名実ともに全き所であります。
正に今、最上は大事に及んでいます。貴殿が加勢されず、直江が最上を攻め取れば、一体何の面目が
あって、御所(家康)に見えられるのでしょうか?」

このように理を尽くして申されると、政宗もこれを聞いて「尤も至極」と同心し、
「追っ付け、加勢を出すので、貴殿は父義光と一所に、山形を持ちこたえるように。」と家親を反し、
則ち最上へ加勢を差し越した。
(中略)
政宗総軍は旗の紋に、琵琶の図を書いた。『我は琵琶なり。敵ひけ。』という事である。

近世軍記

慶長出羽合戦に於ける、最上から伊達政宗への救援要請について



525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 18:41:05.76 ID:Ovha0XjA
今となってはいろいろ突っ込みはあるが一番は家親じゃなくて義康の誤りか

渋川城大爆発

2021年08月07日 17:40

904 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/06(金) 22:26:39.90 ID:+JGuVzIn
渋川城大爆発

有名な逸話だけど、どうやらスレでの紹介自体はまだされてなかったぽいので…

伊達政宗の股肱の臣である伊達成実の右手は指の肉同士がくっついて不自由であったと言う。

生まれつきそうだった訳ではなく、ある一つの事件が原因であった。

天正13年(1585年)、佐竹をはじめとする連合軍と伊達家による人取橋の合戦から一月ほど経った12月11日夜のこと、成実はこの時前線地帯にある渋川城にて、敵勢力に備えていた。

夜も更けてきた頃(20時から22時頃とか)、灯りを持ち城内を隈なく油断なく巡回する者があった。

https://i.imgur.com/0HX6Gz2.jpg
0HX6Gz2.jpg

この日の夜間警備を担当するこの男は鼠1匹見逃すまいぞ!と全ての部屋を鋭い目付きでチェックして回っていた。

そして男はある部屋に差し掛かった。武具弾薬を収めた倉庫(成実の部屋とも)である。
最も重要なこの部屋に怪しい者は居らぬか?おかしな物は無いか?男はここでも油断なく、隅から隅をチェックした。

すると何やら見覚えのない箱がある。これは怪しいぞ、と睨んだ男は箱を開いて灯りを近づけた。

箱の中にあったのは鉄砲用の口薬(ないし玉薬=火薬)であった。

なんだ、怪しいものではないでないか、紛らわしい… 男がホッと一息ついた次の瞬間…

https://i.imgur.com/ooaTDHD.jpg
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男は手に持っていた灯りをうっかり箱の中に落としてしまった…

刹那、大音声と共に武器庫は弾け飛び、城は業火に包まれた。
成実もこの時、右手に大きな火傷を負う羽目となり治癒後にその右手の指は癒着してしまい、野口英世の少年時代の様な不自由な右手になってしまったと言う。

しかし、成実はその後も数々の戦いで指揮官として武功を上げ、一時は伊達家を出奔するものの他家からも高く評価される武将となるのである。

政宗記』『新奥羽永慶軍記』より




三家については以上の通りであり

2021年08月05日 17:23

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/05(木) 16:06:56.12 ID:tRQNg+FM
上杉景勝公は石田三成と陰謀を示し合わされた

石田三成が上方に於いて逆謀の色を顕せば、諸国より三成と内通していた者達が打って出て、
徳川家康と取合いを始めるだろう。私はそれを聞いて兵を発し、奥羽筋を打って上方と首尾を
あわせるべきか。であれば、仙台の(伊達)政宗(筆者注・この頃は岩出山城)、出羽の最上(義光)、
越後の堀(秀治)、この三人は燐競にて大身であると雖も、三人共にこの景勝の、物の敵とは思われない。
何故ならば、

一に、堀久太郎(秀治)は昨今の若将であり、弓矢の術を知らず、家法正しからずして家中は
二、三に割れ、殊に上方風であり。押し掛けには強いが後道に弱く、領民は堀家の新仕置に飽きはて、
古主である上杉家を慕っている。
また堀家を取り立てた太閤の御厚恩を忘れて家康に従う不義の兵であるから、これを踏み潰すに
手間はいらないだろう。

二に、伊達政宗は久しき家では有るが、その父である輝宗より二代に渡って境争い、坪弓箭をも
賢く取り、政宗一身の覚悟も無類で、能き大将である。
しかし家中は前代の悪風儀に慣れ、我儘を仕る士共は、現代の新仕置を迷惑がり、それを実行しようとすと、
手荒き政宗であるとし、心で疎み身を虚しくして。家中は意志が一致していない。

また大敵であると言っても上杉家と比べれば小身である。七手組の頭が、一両備えで押し向かえば、
政宗が手を出すことは出来ないだろう。
殊に政宗の心の有り様は、弓箭の正道について誠の吟味も入れようとせず、ただその時節に任せて
敵にも成り味方にも成り、自分の家を恙無く相続する事こそ至高であるとの奥意であるから、
我が方に少しでも強みがあると判断すれば、すぐに手のひらを返し当方に頼み従うだろう。

三に、出羽の最上(義光)は数代相続の家であるが、弓箭について然りとするような誉れが無く、
身にかかる火を払うばかりにて、他国遠国へ取り掛かるような武道のこだわりも無く、
家中の者共は事毎に居丈高にばかり仕り、武功誉れの者が有っても、新参譜代筋どちらでも、
小身であれば家老や出頭人の前では頭を挙げさせぬ故に、彼らが十考えている内三、四を言ってすら、
家老や出頭人の威に押され、一言を躓いただけでも善悪の批判を受ける。

そのため言葉少なく手短に計り言おうとして、その理屈が伝わらず、四つ言ったとしてもその内三つは
みな戯言となり、残った一つの理も、相手には生聞こえとなり、それを言った人物が不合点者と
取りなされる。故に以後は控えて物も言わなくなる。或いは、いかほど能き者であっても、口が
不調法であっては面出しも成らぬ。故に下の理が上に達しない。

最上家中では新参であっても大身であれば、譜代を押しのけ上座に在り、我意を振る舞う。
元より古参にて大身であれば、心は鈍くても我儘に口をきく。
執権に於いてこのような国法なのだから、軍法も未練なものであろう。であれば、上杉家に対せば
手に立つような事はない。

三家については以上の通りであり、であれば、石田が上方にて兵を起こせば、私は奥北国を
討ち靡かせるか、でなければこの大身の三家には押さえを置いて、家康の持つ関東へ働き出れば、
常陸の佐竹を始め当方への志の衆、東国にも多いのだから、攻め上がり家康を取り挟んで
一戦を遂げれば勝利を得るだろう。」

管窺武鑑

上杉景勝の堀家、伊達家、最上家への評価について。



902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/05(木) 16:37:19.76 ID:WRarKSNv
管窺武鑑って黒歴史ノートなのか

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/12(木) 17:35:12.09 ID:fqhsEK9r
>>896
>>901

べらべらよく喋る景勝だな
無口って誰が言ったんだ

921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/12(木) 19:47:27.12 ID:TruHcJ9v
>>920
上杉景勝は一言も喋ってない。
心の声として芥川隆行のナレーションが流れてるだけだ。

【ニュース】若き政宗、覚悟と気概 米沢城主2年目の書状見つかる 戦国武将の駆け引きも

2021年07月16日 16:15

296 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/15(木) 18:39:33.39 ID:QXMk6ZEN
https://kahoku.news/articles/20210714khn000040.html
若き政宗、覚悟と気概 米沢城主2年目の書状見つかる 戦国武将の駆け引きも
河北新報2021年07月15日 06:00


見つかった政宗の書状。花押のみ本人の肉筆
 仙台藩祖伊達政宗(1567~1636年)が家督を継ぎ米沢城主になって2年目の20歳の時、
伯父である山形城主最上義光(よしあき)の重臣に宛てた書状が仙台市内で見つかった。知られていない
当時の最上家の動向が明記されている上、戦国武将の駆け引きもうかがえる貴重な史料。政宗の若い頃の
書状は珍しく、覚悟や初々しい気概が読み取れるという。

日付は卯月(うづき)13日(旧暦4月13日、現在の5月)で内容から1586(天正14)年の書状。
宛先は最上家家老の氏家尾張守(おわりのかみ)=守棟(もりむね)=。縦33・7センチ、横47・0センチに
当時の一般的な武将の書状と同じく右筆(ゆうひつ)が字を書き、花押のみ政宗の肉筆だ。
有名なセキレイの花押の原型という。
冒頭、鮭延(さけのべ)口まで出陣し真室(山形県真室川町)で敗れた氏家を気遣い、義光が自ら赴くことに
関心を寄せている。義光出陣を知らせた氏家の書状への返事とみられ、山形勢が北の最上地方を攻略する
緊迫した状況を示す。
政宗は自身の近況にも触れ、南下して小浜(福島県二本松市)城主の畠山氏に攻め入る準備をしていると説明。
政宗に家督を譲った父輝宗はこの前年、投降を装った当時の城主畠山義継に拉致され、阿武隈川(同市)の河原で殺害された。
人質となった輝宗は伊達勢に「自分もろとも義継を討て」と命じ、凄惨(せいさん)な最期を遂げている。
文面には父を弔う政宗の意思がにじむ。
当時、伊達家と最上家は領地が接しておりライバル同士だが、引き続き手紙のやりとりも求めた。
佐藤憲一・元仙台市博物館長は「盛りだくさんの内容だ。当時の義光の動き自体が知られておらず、新たな史料ではないか。
戦続きの時期の二本松攻め直前の手紙で、政宗の覚悟が分かる」と指摘。友好的な内容で、政宗と義光は仲が悪いという
印象とは違うが「両家はいつか直接対決もあり得ると意識している。腹の探り合いであり、相手の情報を引き出す
戦国の世の駆け引きだ」と推測した。

<原文(抜粋)>      
急度用一簡候、仍鮭延口出勢付而其方被
打越之由候條、内々無心元候哉、近日於真室ニ
少々被失利之由、其聞候、実義候哉、就中
依之義光も自身被打出之由候、弥御床布候、(中略)
当口之事も二三家相催今十五日ヨリ
向二ニ押詰可及其刷之由令逼塞候、於時宜に
可御心安候、扨々其表模様委曲被顕回答候者
可為本望候、(以下略)

<現代語訳>
 急いでお手紙を差し上げます。鮭延口まで手勢を率いて出兵したとのこと、内心心配しておりました。
近頃、真室で少々敗戦したと聞きましたが、本当でしょうか。特に、そのことを聞いた義光公も自ら
出陣なされると聞き、どのような状況か知りたいものです。(中略)
 当方も2、3の味方となる者を誘って今月15日から二本松に向かい、相手に攻め入るつもりです。
これから先のことは、どうぞご安心ください。そちらの様子を詳しくお知らせいただければ本望です。(以下略)



297 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/16(金) 05:57:22.42 ID:vZZjKxhH
氏家が、現在の秋田県側の小野寺方だった鮭延秀綱を降したのが天正9年とされるので、
5年たっても秋田からは峠で隔てられた現在の山形県側を掌握できてなかったのかよ?
ってとこと、対戦相手は小野寺だよね?ってとこも

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/16(金) 08:39:03.30 ID:/hg+qTEl
天正13年鮭延降伏説もあるから、対戦相手は大宝寺かもしれん
まあその年でも小野寺の可能性は否定できないけど

302 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/17(土) 13:19:35.52 ID:T1b5z7I4
山形宮城以北の戦国時代はなんかもう知識的にというか喧伝のされ具合でも空白地帯で・・

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/17(土) 13:48:18.08 ID:kSnbjMiS
最近、なろうで木村吉清や新田政盛に転生して頑張る話が連載されていて、全然このあたりのこと知らんから勉強になる