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今からでも取り掛け申すべきを

2020年06月15日 17:50

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/15(月) 16:45:17.03 ID:snZwuq8m
寛永四年(1627)二月、加藤嘉明が会津に封ぜられた。この日、伊達政宗は殿中で嘉明の子である
明成と行き逢い、このように声をかけた

「足下父子に会津の地を預け賜ると承った。会津は全く、陸奥の鎮衛の地であれば、この老耄を
よく防げ、との御事であろう。しかし足下父子によって、容易くは防ぎ留められまじ。」

そう大声を出して笑った。これに明成はその笑い声の下より

「老黄門(政宗)、もし今の禄に倍して百二十万石をも領し給われば、今からでも取り掛け申すべきを。」

と申したという。

名将言行録



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瓢箪から駒が出たぞ

2020年06月14日 17:24

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/14(日) 11:50:10.73 ID:dWadqL55
大阪冬の陣が和睦となって、従軍した諸大名も皆閑暇となり、このため幕府方の陣中では訪れた者に対し、
何れの方でも、景物(景品)を競う香合せ(香の香りで銘を当てる遊び)をしていた。

そのような所に伊達政宗が参った所、「幸いなり香をおかぎあれ」と勝負をした。
何れも鞍、障泥(馬の鞍の下にひく泥除け)、弓箭などを景品として出したが、政宗は腰につけた瓢箪を
出した。これに対しては何れも、可笑しな景品であると言って取る者が居なかった。
最終的にはこの香合せの亭主の家来が、この瓢箪を取って終了した。

政宗が帰る時、飾りをつけたままの自分の馬を「瓢箪から駒が出たぞ」と言って、瓢箪を取った者に与えた。
はじめ「奥州の大将の景物よ」と笑った者達は、この時に至って羨ましがったという。

名将言行録

関連
伊達政宗と瓢箪から駒・いい話


上様より拝領申したるぞ、汝らも有り難く存じ頂戴せよ

2020年06月12日 17:45

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/11(木) 19:54:17.42 ID:VjWg7rQ8
豊臣秀吉がある時舟遊びに出た時、伊達政宗にも供すべきとの事であったが、遅参して船の出た後に
やって来た、このために、馬を引き寄せ打ち乗って、ただ一騎で船を見ながら住吉の方へ乗り行った。

秀吉はこれを見て「あれは大方政宗であろう」と言われた。船は住吉にも着けられず、また漕ぎ戻された
ために、政宗もまた乗り返し、着船される所に参ると、秀吉は

「只今の馬は政宗であったか。武者振り見事なり。定めて草臥れたであろう」
と言って、饅頭の入った折を賜った。

政宗は頂戴して折を傾け、自分の着物の前を広げその中に移し、入れ包んで立ち退き、自分の
家臣を呼び寄せて「上様より拝領申したるぞ、汝らも有り難く存じ頂戴せよ。」と言って
残らず与えた。家臣たちは何れもその厚志に感じ入った。

名将言行録

こちらは長曾我部元親の逸話が政宗のものに変換されてますね



曲者めが、また先へ廻った

2020年06月09日 18:35

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/08(月) 21:46:33.67 ID:WutUdWiN
豊臣秀吉は大きな猿を飼い、諸大名が登城する時、通る側につなぎ置いた。この猿が歯を剥き飛びかかる時。
諸人が狼狽する体を、秀吉は覗き見ていた。

伊達政宗はこの事を聞き、病と称して登城せず、秀吉の猿の猿引を百方手をつくして捜し、密かに猿を借り
玄関に繋ぎ置いた。猿は政宗を見ると歯を剥いて飛びかかろうとするが、政宗は鞭でしたたかに打ち竦めた。
このように度々した所、かの猿は最後には政宗を見ただけで?息した。こう仕込んだ上で猿を返した。

その後、政宗が登城した所、秀吉はこの事を知らず、政宗の様子はいかがかと覗き見た所、政宗が玄関を
上がる時、猿は飛びかかろうとしたが、政宗がはったとにらみつけると、かの猿萎縮して退いた。
秀吉はこれを見て「曲者めが、また先へ廻った」と笑われたという。

名将言行録

猿の話は太田道灌のものが有名ですが、政宗のものもあるのですね。



122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/08(月) 21:59:33.69 ID:iRM7GFQX
大友宗麟もだっけ、こういう話あるの
痘痕持ちの女性を正室にした話と一緒で登場人物だけ入れ替えてお話一緒シリーズって感じね

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/08(月) 22:47:21.19 ID:iflZPDLi
>>121
今は政宗のが一番有名だろう

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/09(火) 05:39:56.38 ID:jQPrYPKQ
こういうドッキリって真似したくなるよね

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/09(火) 11:45:37.40 ID:StWSoDZL
>>122
明智光秀は疱瘡女か

四国に行って魚の餌になるがましか、ここにて死にたるがましか

2020年06月06日 17:03

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/05(金) 23:51:00.79 ID:wt4PFcb/
文禄4年、関白秀次に謀反の聞こえあった時、伊達政宗もこれに与しているとの説があった。
豊臣秀吉は怒り、政宗の領地を伊予に移すとした。

政宗は伊達上野、他一名を以て徳川家康の元に遣わし、「このように仰せ付けられ、伊達家の浮沈は
この時に極まりました。もはや家康公の賢慮を仰ぎ奉るより他ありません」と訴えた。

家康はこれを聞いて、両使に茶飯などを与えた。暫くして彼等は「政宗はさぞ待ち遠しく思っているでしょう。
早く帰り、ご返事を申し聞かせたいのです。」と申し上げると、家康は大声で言った

「各々が主の越前(政宗)という男は、当たりは強いように見えるが腰の抜けた男であり、後ろの弱きゆえに
そのように狼狽え付くのだ。四国に行って魚の餌になるがましか、ここにて死にたるがましか、よく分別
あるべしと言え!」
そして重ねて、秀吉より催促の有る時の返事のやり方を、細々と教え、両使は罷り出た。

間もなく、家康は秀吉の所に至った。また秀吉より政宗に使いがあり、
「昨日の要請についてどうなっているのか、早々に予州へ下るべし」と伝えに来た。

この使いが政宗の宿所に来てみると、門前には弓鉄砲、長刀を帯びた者達がひしと居並んで、今にも
打ち出しそうな有様であった。御使有ると聞いて、政宗は無刀にて出迎え、座に招いて御使の旨を聞くと、
涙をはらはらと流して申した

「上様の御威勢ほど、世に有難き事はありません。人間の不幸の中に、上の御勘気を蒙るほどの不幸は
無いと、今日こそ思い知っております。私に於いては、たとえ今回の事で御不審を蒙り首を刎ねられても
異議は申しません。況や国郡を下し賜って所を変えるとの事に、何の不満があるでしょうか。

されども我が譜代の家僕たちは、何れも訴えてくるのです。『どうして数十代の御領を離れて他国に流浪する事が
有るべきか、速やかにここにて腹を斬られ、我々も一人も生きて所を去り渡すような所存はありません』と
言い切って、ひたすらに自害を勧めるのです。私は色々と義を尽して申し聞かせましたが、家臣たちは一向に
同心せず、あなた方もご覧の通りの、狼藉の至りの有様です。

つまり、偏に現在私が御勘当の身に罷り成っている故に、数十代の家人さえ我が下知を用いず、恣にしており、
是非に及びません。」
このように述べ、使いは帰ってこの旨を報告すると、秀吉の傍に在った家康も申し上げた

「いかにも左様に、私も承っております。政宗一人の事であれば、上意を違背し旧領を去り渡し奉らざるに
於いては、私に仰せ付けられれば、即座にかの旅宿へ押し寄せ踏み潰すことに、何ほどの事があるでしょうか。
しかし、今度こちらに供を仕った、政宗の千に足らざる小勢にてさえ、家臣共が左様に思い切っているのであれば、
旧領に残り留まっている郎従達は、国を退くとは何としても言わないでしょう。
政宗の郎従等を追い払うべき賢慮がお有りでしたら、政宗については、どうぞ私にお申し付けになって下さい。
ではありますが、累代の所領を没収することで、彼の郎従たちが愁訴する事も、不憫に思います。
ですので、枉げて今回は、ご赦免も有るべきではないかと。」

このように申し上げると、秀吉は「兎にも角にも家康の計らわれることに若くはあるまじ」として、
国替えのこと沙汰無くなりその事止み、その後勘当も免されたという。

名将言行録



261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 00:10:30.36 ID:QjiO30i5
まるで道化だな

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/06(土) 00:28:15.16 ID:orWYLZXD
>>260
伊達上野って留守政景か
後半の訳が力尽きてることも併せて
スレを盛り上げようとする意気は素晴らしいけど
無理に全文貼る事もないと思うよ

【話題】伊達政宗”容疑者”!?

2020年05月24日 16:16

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 09:54:08.64 ID:YdfFy2qH
ツイッターからそのまま転載なので、あくまでも参考ネタということで

https://pbs.twimg.com/media/EYrgXfUU8AE3BBR.jpg
https://pbs.twimg.com/media/EYrgXfUU8AAvDVX.jpg
https://pbs.twimg.com/media/EYrgXfUVcAIqeHE.jpg
EYrgXfUU8AE3BBR.jpg
EYrgXfUU8AAvDVX.jpg
EYrgXfUVcAIqeHE.jpg
https://twitter.com/tatsu_note/status/1264069349242855424
たつのん/元新聞記者? @tatsu_note
東日本大震災の犠牲者と思われた白骨遺体が殺人事件の被害者だと判明したが
戦国時代の他殺体だった上に休暇中の伊達政宗にやられた家臣だったっぽい話

togetterまとめ
「さすが伊達政宗」東日本大震災の犠牲者と思われた白骨遺体が殺人事件の被害者と判明…なんと戦国時代の他殺体だった話
https://togetter.com/li/1521278


84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 10:09:40.36 ID:B7yyK1lo
>>83
政宗を書類送検w

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 12:27:32.91 ID:CixKdHgZ
証拠があったとしても、時効だろw

86 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/05/24(日) 17:07:58.78 ID:TOtaqHHd
これTwitterで見かけたけど、政宗が殺した根拠なんてないのに
本当に政宗が殺したと解釈したようなコメントもいくつかあって引いたわ
ネタかもしれないが

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 18:53:46.00 ID:rR8W1qw3
面白さ優先で事の真偽がどうでもいいとされやすいパターンで
本人は恐らくある程度分別つけたうえでのツイートだったけど、確かに周りがそう思い込みだしそうな感じでちょっと危ういなとは思った

不覚者、兵家に用無し

2020年04月23日 18:19

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/23(木) 01:19:38.08 ID:a5yXEBU0
大阪御陣の時、上総様(松平忠輝)は軍功を挙げられず、そのため大阪落城後「御謀叛をなされるか」と
色々御詮議あり、その議論し難かったが、水野日向守殿(勝成)御前に罷り出て申し上げた

「上総殿には、毛頭御逆心などありません。ただ少し御不覚であったのです。」

これによって、上意に「不覚者、兵家に用無し」とて、信州へ御改易と成ったのである。

これを世上に、上総様は伊達政宗の御聟たるによって、内談して御謀叛と云うが、それは全て推量である。
何故なら、御謀叛であるなら、御不憫の御子を御流しになり、他人の政宗をどうして許すだろうか。
ただ不覚は、兵家の大悪なのである。

松永道齋聞書



伊達輝宗の遭難と二本松義継の滅亡

2020年03月04日 18:06

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/04(水) 15:10:08.64 ID:ip48Zz9x
伊達輝宗・政宗御父子が大内定綱を塩松に攻め、早速手に入れられると。輝宗公は近日、この大内定綱と姻戚関係にある
二本松へ御出馬されるべく、その周囲の要害を詰め落とした。

この伊達の急激な動きに、二本松義継は、重臣である二本松四天王の面々に向かって宣うた
「私が小勢を以て大敵と戦った場合、勝負は運に依るだろうか。」

「大勢に一人向かうのは益がありません。小を以て大に敵するといいますが、今当家の力を以て、伊達・田村の
大敵と対峙するのは、頗る以て難しい事です。」

こう言われ、義継はまた宣った
「それならば、私は兜を脱いで降人となり、輝宗の元に出仕して兄弟の交わりを成し、婚姻の義を約して、
先ずは事を無為にするように謀ろう。すると私が帰る時には、輝宗は悦び必ず見送るため座を立つであろう。
その時の輝宗の胸ぐらを無手と取り、縁より引き落として九寸五分の脇差を輝宗に指し当てて舘より引き出せば、
伊達家の者達もどうしてこれを阻もうとするだろうか。」

そう言って、天正十三年十月八日に、二本松義継は降人となって伊達輝宗の元に出仕した。
この態度に輝宗は斜め成らず悦び、義継を饗応する事、限りないほどであった。しばらくして事終わり、
義継は暇乞いをして帰ろうとした所、案の如く輝宗は、御門送りの御礼に立った。

ここで義継は輝宗の体を無手と取って縁の下に引き落とし、輝宗の口先に脇差を脇差を突きかけ、舘より引き出した。
そして鹿子田和泉守を始めとした一人当千の兵二、三人が輝宗を取り囲んで進んだ。

伊達側は数千の軍勢が充満してその後に袖を連ねたが、輝宗を救おうにも方法が無くただその後を追い、輝宗公に対して
逆心が犯せられた事を嘆き悲しんだ。輝宗からは他に言葉もなく、義継に脇差を突きつけられ「申すな申すな!」と
言われており、もし奪い取ろうとすれば輝宗公の御命は無いであろう。

伊達勢は驚周章騒してどうして良いのか進退を失った。その時、嫡子である政宗は御鷹野に他行していたのだが、
御鷹野場に人二人を走らせ急ぎこの事を知らせ奉ると、政宗は御物具をも帯びず、取るものもとりあえず御鷹野より
直に追いかけ、早くも平石の内、アハノスはで十里という所で政宗は一行に追いついた。

政宗はこの時とっさに考えた
二本松義継が川を渡り二本松に戻ってしまえば、政宗がどれほど心猛くとも、輝宗公が擒となり、二本松の城にて
戒めを蒙り、捕らえて盾の面に当てられれば、伊達と二本松が戦っても、伊達が戦に勝つことは出来ない。

だからといって政宗が降参し、父親の命を請うたとしても、二本松に留め置かれ伊達に帰ることは万に一つも無いだろう。
そして二本松の旗下に成ってしまえば、伊達家の滅亡もその時である。

不孝には三つ有るという。その中でも跡継ぎの無い事が最も大きな不孝であるとされている。
そういう事であるなら、父一人を捨て、子々孫々まで伊達の御家一族繁盛させるのは、却って一家への忠孝である!』

そう思し召したのであろう、正宗公は馬に乗り掛かられると
「親共に討ち取れや者共!」
と下知した。

伊達衆はこの下知に一斉に競り掛かり、義継主従を真ん中に取り囲み、逃さぬ構えをとった。
この時、二本松義継の運命は既に尽きていたのだろう。実は義継は予め迎えの合図を定めており、二本松の兵たちは
この合図によって大勢が出てきていたのであるが、どういう間違いが有ったのか、沼によって道が隔てられた
別の場所に出てしまい、この場に一人も間に合わなかったのである。運の末とはこういう事なのであろう。

こうして二本松義継は滅亡し、そのまま政宗は二本松へ馳せ向かいこれを攻めたが、留守居の新城弾正、同名新庵が
堅固に持ち堪え降参しなかった。十一月十五日に政宗は再び攻めたが落城しなかった。このため塩松に陣を引き、
翌年三月十一日、二本松方の簑輪玄蕃、遊佐源左衛門、本宮の遊佐丹波、伐江新兵衛の四人、この他四、五人が
二本松に対し逆心し、箕輪舘まで片倉小十郎を引き込んで、本町、杉田町に火を掛けて焼き払い攻め上るのを、
城中より出向い、簑輪舘の片桐小十郎勢を散々に切り立て十人ばかりを打ち取った。
二本松は七月十五日まで籠城したが、結局開城し、そこには政宗の伯父にあたる成実が入った。

藤葉榮衰記

伊達輝宗の遭難と二本松義継の滅亡について。



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/04(水) 18:33:57.72 ID:KljVSlqr
>政宗の伯父にあたる成実
そういや父系だと成実は一世代上だっけか

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/04(水) 19:58:27.30 ID:sqTtV4Sg
政宗の従兄弟であり叔父である成実
ややこしいな

882 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/03/05(木) 00:53:28.09 ID:8eN+y0vz
おじではないよね
成実の父は晴宗の弟(つまり輝宗の叔父)、母は輝宗の妹

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/05(木) 01:39:47.06 ID:1pXv6WeJ
成実からみて
政宗は年長の父方のいとこ甥かつ母方のいとこ
母親は父方のいとこ
正室は父方のいとこ姪
継室は父方のいとこ姪かつ母方のいとこ

伊達家の家系図は複雑怪奇

安房守の死と大坂の陣の左衛門佐

2020年02月28日 16:37

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/28(金) 01:22:07.17 ID:eWP8eY2H
或いは云う。真田安房守(昌幸)は大阪の一戦(大坂の陣)の三年前に、高野山の麓、瀬良という場所で病死した。
その死に至ろうという時、息子の左衛門佐(信繁)にこのように語った

「私が今から三年存命していれば、秀頼公へ容易く天下を取って進上すべきものを。」

左衛門佐はこれを聞くと、「いかにして天下が秀頼公に服させるのでしょうか?」と尋ねた。
しかし安房守は
「重病故に、心乱れて筋無き事どもを申してしまった。どうやって、今や乞食同然に成り果てた私が、
天下を取って秀頼公に進上するというのか。」と、答えなかった。

左衛門佐これに
「私に対して御慎みはあるまじき事です。是非、思っておられることを仰せ聞かせて下さい。これは懺悔の御物語とも
なるでしょう。」と、たって所望したため、安房守は

「そういう事であれば、懺悔の物語として聞かせよう。おそらくここ三年の内に、家康は叛逆して軍兵を催し、
秀頼と討ち果たそうとする事は必定、掌の如くである。その時私が存命ならば、人数三戦ばかりを引き連れ勢州
桑名を越えて備えを堅く立てれば、家康は私が数度手並みを見せているので、真田が出向くと聞けば家康も
容易く懸け向かう事は無い。そして暫くこれを相支える内に、太閤の御恩賞の諸大名多ければ、大阪へ馳せ集まる
人も多いであろう。そして家康勢が押しかかって来れば、桑名へ撤退し、また先のように相支え、又押し懸けて
一戦せんとするならば、さらに撤退してそこで支える。そのようにしている内に、こちらは悉く人数が集まるであろう。

さて、我等は勢多まで撤退し、勢多の橋を焼き落とし、こちら側には柵を付けて相支えれば、数日ほども経す内に
畿内の人数が馳せ集まる事、掌の如きである。然らば天下を治めること、手の裏に有り。

…と云うものの、これは皆妄念の戯言である。長物語に、胸が苦しくなった。水を飲もう。」

そう言って水を飲み干すと、そのまま死んだという。

その後、左衛門佐は大阪に籠城した折、安房守の末期の一句の謀術を献案したものの、諸将の評議紛々となり、
その意に任せることが出来なかった。秀頼校も諸将の言に迷い、左衛門佐の申すに任せなかった。

そのような中、左衛門佐が柱にもたれていた所、武見の者来て、「大和口より猛勢が押し入りました。
伊達陸奥守(政宗)です!」と申す所に、また一人来て「陸奥守の勢の跡より猛勢が押し入りました。
越前少将(松平忠直)です!」と報告した。しかし左衛門佐は少しも変わる気色無く、

「よしよし、悉く入り込ませ、一度に打ち殺そう。」

と、さにあらぬ体であったので、諸士、その器量を感じたという。その後、左衛門佐が人数を出した所、伊達の
先手騎馬鉄砲と言って、馬上にて鉄砲を撃つ兵五百騎が、鉄砲を並び立てて、敵の向かってくる所に馬を乗り入れ、
駆け乱た所に、後ろの勢が押し込んで切り崩すという備えであった。
左衛門佐はこれを見て士卒悉くを伏せさせ、鑓衾を作り前に鉄砲を並べて打ち立てさせ、そのしおをみて
一度にどっと、牛起きに起きて突き懸れば、騎馬鉄砲は却って敗軍した。

左衛門佐は勝って兜の緒を締めた。伊達方の兵再び集まり向かって来る間に、左衛門佐は諸卒に下知して曰く
「炎天の事なれば、皆々兜を脱げ」
と言って兜を脱がせたのだ。伊達勢が近々となった時、諸卒は兜を着けようとしたが、左衛門佐はそれを着けさせ
なかった。敵との間が一町の内に及んだ時、
「では兜を着けよ!」
と下知した。その時悉く兜を着けたが、心が金石のように成り、その勢いで切って懸かると、伊達の備えを
切り崩したという。

この他、左衛門佐の数々の軍略は、人の耳口にあまねき事であるので皆記すに及ばず。
大阪合戦で諸将の働き、秀でたる事ども有りと言えども、左衛門佐が第一に秀でていたのは、
その器量ある上に、平生より武術の学びを怠らなかった顕れであると、人皆感ずる事也。

眞田記



花村勾当

2020年02月27日 17:19

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 17:08:33.13 ID:Rg/hXWRW
盲僧の官位は検校から順に、別当、勾当、座頭と大別されていた。

さて江戸時代初期のこと、勾当の位にあった盲僧・花村正一は、奥浄瑠璃(御国浄瑠璃)の名人であり、また狂歌をも良くする、たいへん機転の利く盲僧であった。
あるとき、藩主・伊達政宗公が馬に乗り威風堂々と行列している様子を道場に座り、じっと伺っている一人の盲僧。その姿が馬上の政宗公の目に留まる。

(●∀・)「汝はなんという名前か」

このように尋ねる政宗公。
これに対して盲僧は即座に狂歌をうたって返す。

「なに一字違いありとてことごとし、君は政宗、我は正一」

政宗公はこの即妙な歌に感心し、正一を寵愛して屋敷をあたえ住まわせたという。
以来、正月になると盲僧の代表が青葉城に参上し、御浄瑠璃「御所の的」「仙台状」を演奏して言祝いだという。

正一は花村勾当と称されたことから屋敷の付近は勾当台と呼ばれ、屋敷跡は仙台都心部にある勾当台公園となっている。



696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 19:57:32.91 ID:kVXW8JkY
この前の政宗のプロパガンダの話のまとめのコメント欄に

>お国浄瑠璃は主に盲目の法師が演じていた
>政宗は仙台藩がお国浄瑠璃を保護することで
>盲目の人が自立出来る環境を作り
>庶民に支えられて昭和のはじめまで続いた

こんなコメントがあったのを思い出した

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 22:52:58.51 ID:YSmj2dqr
其夜目盲法師の琵琶をならして
奥上るりと云ものをかたる。
平家にもあらず
舞にもあらず
ひなびたる調子うち上て
枕ちかうかしましけれど
さすがに辺土の遺風忘れざるものから殊勝に覚らる。

松尾芭蕉『おくのほそ道』


大坂の人形浄瑠璃って、劇場があってお金を貰ってっていう現代的なエンターテインメントだけど
東北の奥浄瑠璃は盲法師への福祉政策として庶民が支えるためにやってた節もあって
それが仙台藩を中心に盲法師や巫覡によって昭和初期まで神社仏閣で演じられてたって、ちょっと意味がわからないことやってんだよな
文化をプロパガンダにも利用したとはいえ、根っから好きじゃないとここまでの保護は出来ないし
京や大坂に勝るとも劣らない東北独自の文芸文化の基礎を、盲法師を保護しつつ作り上げた伊達政宗は民俗学的にはかなりやべーやつ(褒め言葉)

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/28(金) 00:55:40.29 ID:UwbTSFZx
秀吉の時代には興業が京都であって、その後すぐ江戸でも流行しているからどっちかで見に行っていたんでしょうね
なんか、へうげものの絵柄で想像してしまうw

700 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/28(金) 20:43:28.45 ID:zh9u3JPO
>>697
毛利元就「ワシも彼らの琵琶には良く助けられたよ」(意味深)

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/28(金) 22:56:43.22 ID:Ne+C+WL+
琵琶は精力剤として古くから知られてきたからなあ
タネが大きいから子宝に恵まれるという意味があるし

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/29(土) 00:18:06.55 ID:9ddTuuOa
夜食べると毒(意味深)

703 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/29(土) 05:54:13.35 ID:xpFpoS5N
元就は浣腸して各地に琵琶法師送ってたんだっけね。

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/29(土) 06:44:30.96 ID:SJV5Muzh
元就「この下痢グソ痴態バラされたくなきゃ情報あつめてこい

伊達政宗とプロパガンダの影響

2020年02月21日 17:30

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/21(金) 11:58:53.50 ID:MhfiBKEZ
伊達政宗とプロパガンダの影響

天正18年に発生した葛西大崎一揆のあと、葛西・大崎13郡は伊達政宗に与えられたが、地元民による伊達氏への怨恨はあまりにも強かった。
そこで政宗は伊達氏の領下で盛んに演じられていた御国浄瑠璃(奥浄瑠璃)を利用することを思い付く。
当時の葛西・大崎13郡となる陸奥国中部では安倍氏の時代以来、坂上田村麻呂の本地仏を毘沙門天とする田村信仰が盛んであったこと。
また正室の愛姫が坂上田村麻呂の子孫を称していたことから、室町物語『田村の草子』を伊達氏に結びつける形で改編、御国浄瑠璃『田村三代記』を陸奥国中部で演じさせた。
例えば『田村の草子』では悪路王を討伐するため陸奥国へと赴いた藤原俊仁(=藤原利仁)が陸奥国田村郷の賤女と契りを交わして田村丸俊宗(=田村麻呂)が誕生する場面がある。
これを悪路王を討伐するため陸奥国へと赴いた田村利光が陸奥国三春の悪玉姫と契りを交わして田村丸利仁(=田村麻呂と利仁)が誕生すると改編した。
理由は演じられた地域の神社やお寺の縁起を『田村三代記』に合わせて書き換えるため。
他にも鈴鹿山の大嶽丸を陸奥霧山の大嶽丸へと変更し、清水寺の建立を陸奥国に田村大明神として現れる(=田村信仰へと結びつける)物語にすることで、プロパガンダを通じて伊達氏が支配の正統性を植え付けた。
この政宗によるプロパガンダの影響は甚大で、戦国時代中期に仙台藩の社寺の縁起を調査した仙台藩士・佐藤信要が『封内名跡志』で「事実を弁せず妄りに田村の建というは尤も疑ふべし」と匙を投げるほど50を超える寺社の縁起が上書きされていた。
プロパガンダが効きすぎて、地域の歴史を遡れなくなったのである。

東北地方で田村麻呂を利用したプロパガンダは有効であったようで、慶長4年に盛岡城へと移った南部信直と南部利直親子も行っている。
こちらは鎌倉御家人・工藤氏から続く岩手山祭祀を南部氏による支配に合わせて改編した。

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/21(金) 12:05:26.80 ID:MhfiBKEZ
政宗による戦後プロパガンダはここ数年で東北の大学を中心に論文がちらほら出始めてて面白い
北上川流域の毘沙門天信仰の地域では田村麻呂で上書きしつつ
そこから離れた領内では田村麻呂の母親で上書きしてる
子安地蔵は田村麻呂と立烏帽子の娘にしてたり
地域全体を使ってのプロパガンダを行えたのが凄いとかなんとか

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/21(金) 12:09:19.65 ID:MhfiBKEZ
あまりにも見事に上書きしてしまってるから戦国時代中期の仙台藩の学者や
平泉雑記を書いた相原友直が「田村麻呂しかでてこねーじゃねーか」って本を残しまくる事態に陥ってる
大半の神社や仏閣の本来の歴史が「政宗から3代くらいの間に書き換えられた」しか判明しなくて残念だと



田村男猿の事

2020年01月05日 18:12

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 01:09:06.02 ID:y6J6oEnE
田村宗顕が改易されて牛縊定顕と名乗り、白石城下で隠棲していたときに次男が産まれた。愛姫たっての希望により仙台城で養育され、伊達政宗や重臣が列座するなか、愛姫から田村男猿と名付けられ、政宗からも我が子同様に可愛がられた。
10歳にして頭脳明晰、武芸万般も剣道、乗馬、砲術はすでに皆伝であった。特に鉄砲は百発百中で、失踪するケモノを苦もなく撃ちとり、政宗や仙台城内では「さすがは坂上田村麻呂の後裔」と評判になった。
政宗、愛姫、片倉重長が相談して14歳で元服すると田村清顕の軍神愛宕尊像、新藤五国光の宝刀、幸村の描いた掛軸を下賜されて、兄とともに片倉喜多の名跡を継いで片倉三右衛門良種を名乗って白石城へと戻った。

ある秋の夜、白石城から屋敷に帰る途中に稲荷の祠の前で白狐が玉を転がして遊んでいるのを見て草履を投げつけた。驚いた白狐は玉を捨てて逃げ去ったので、玉を持ち帰った男猿は夢を見た。「あの玉は稲荷の宝物だから返してほしい。お礼にひとつだけ願い事を叶えてやる」
翌日の夜に稲荷の祠へいくと白狐が待っていた。玉を返して、ケモノより速く走れる秘伝を授けてほしいと願うと、秘伝を授かった。

二代藩主忠宗が巻き狩りのときに男猿は山案内を勤めたが、大猪七頭が忠宗本陣をめがけて疾走してきた。マタギ十数人が撃っても一頭も倒せない。
男猿は手錬の早撃ちで七頭をことごとく仕留め、忠宗は面前の神業に褒美を与えて、磐司磐三郎の再来であるので青葉流マタギを名乗らせて開祖とした。

郷土史に載ってたので。片倉を継ぐまでは三春の田村氏墓の墓誌から。
五郎八姫といい男猿といい政宗愛姫のセンスがパない



485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/05(日) 07:55:35.49 ID:G16h3Wor
>>484
>ケモノより速く走れる秘伝
願い事が男子小学生みたいな純粋さで草

486 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/05(日) 10:04:26.93 ID:PRAHKvZB
>>484
田村姓時代の男猿でなんて読むんだろう?
おざる?だんざる?だんえん?

幼名にしても、凄い名前だ…

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 06:06:37.62 ID:LiBSrxXT
>>486
Wikipediaだと おざる になってた
愛姫が命名して養育したり、伯母として田村家を気にかけてたいい話

492 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/06(月) 07:29:11.52 ID:o9oNLRMr
>>491
愛姫「まぁこの子、お猿みたいで可愛いわ(キャッキャ)」

命名:男猿

こうですか?

493 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/06(月) 07:30:38.68 ID:o9oNLRMr
┌○┐ハハ
│男│゜ω゜ ) ←愛姫
│猿│//
└○┘(⌒)
  し ⌒

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 13:44:01.69 ID:c7V7TmsI
愛愛 男猿さんだよー

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 18:44:37.17 ID:fGVLO4dY
隆顕┬清顕-愛姫-忠宗   -田村宗良
   └氏顕-宗顕┬片倉定広
            └片倉良種(男猿)

田村氏の家督を継ぐのは愛姫の子ってのが伊達家の規定路線(実際に継ぐのは孫の宗良)であり
田村家を改易に追い込んだのは他ならなぬ政宗という事情もあるし
伯母としての愛情もあるだろうが、予想外の火種にならないよう手許で囲ったような気がしないでもない

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 20:01:36.39 ID:47UdXgtu
片倉喜多は伊達政宗の養育係で、愛姫付きだし
田村定広と田村男猿を手元で囲って喜多流を継がせるのは規定路線だったのかもね

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/06(月) 20:42:59.58 ID:Ayc/p8i+
田村家を使って仙台藩内の神社とお寺で盲目法師に奥浄瑠璃を演じさせることで、伊達家が管理すべき藩内の祭祀を田村家-坂上田村麻呂-藩内の神社に投げたり
頼朝が鎌倉御家人の工藤行光に作らせた岩手山-頼義義家-工藤-頼朝の祭祀が邪魔で盛岡支配に悩んだ南部信直が、三戸から盛岡に連れてきたお寺に塗り替えさせて岩手山祭祀の管理問題を丸投げしたり
政庁に坂上氏を抱えていたのにそこに気付けなかった奥州藤原氏の利用が下手くそなだけで

伊達政宗ほど坂上田村麻呂の利用法が上手かった人物はいない
政宗と愛姫のいい話の裏には坂上田村麻呂を政治的利用してたものが幾つかある
ttp://miharu-megohime.com/read/read09.php
これとか征夷大将軍の末裔である愛姫を上座に座らせる、という政宗が東北の歴史を重んじたいい話だけど
あえて江戸で流布させてる意図は征夷大将軍というフィルターを通して徳川将軍へのパフォーマンスとも言える
田村男猿と忠宗のいい話もあとあと奥浄瑠璃のネタに使われてる

筆の初めという意味で

2019年10月17日 18:15

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/15(火) 10:53:53.87 ID:lRr5lqDI
丸森町の筆甫地区って政宗が検地の最初に書くから筆の初めという意味で
筆甫にしてるいい話あるやんけ。
地名残すも大事よ

SnapCrab_No-1740.jpg



政宗最後の日光参拝

2019年09月05日 17:29

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/04(水) 22:33:31.12 ID:Pdzgd4fV
寛永十三年(1636)四月二十五日、六十八歳の伊達政宗は体調の不調をおしての、最後の江戸参府となる途、
政宗の希望にて日光東照宮を参拝する。
将軍徳川家光もこの情報を得ており、旗本・伊丹播磨守(康勝)にその案内を命じていた。
折しも二十五日は公家門跡衆御社参の日でも有り、そのもてなしのため四座の申楽による御能が、本堂の前に
敷舞台を拵え行われていた。

拝殿への参拝が終わると、政宗は伊丹播磨守により奥の院へと案内された。拝殿より左、五十四、五段の
石段を四回、三十七、八段の石段を三回上ると奥の院と成る。
政宗は最後の階段の、奥の院本堂まで後一段という所で転倒した。長袴のくくりの糸が緩み、足に
まとわりついたためだという。政宗が倒れようとした瞬間、右に伺候していた山路八兵衛、先に立つ形で
左に伺候していた青木忠五郎、そして後ろについて政宗の腰を抱えていた木村宇右衛門(この覚書の作者)が
とっさに政宗の体を支えた。このため大きな怪我はなかったが、左手の親指を石に少し擦り、少々出血した。
(御左の御手の大ゆびのふしを石にて少すらせ給ひてち少出る)

政宗は左手親指の血を懐紙にて拭き取りつつ、伊丹播磨守へここまでの案内に礼を述べ
「公方様(家光)への礼は改めて述べよう、あなたは先に御下向あるべし、我等は心静かに拝し、その上で
下向する。」と言い、伊丹を先に退出させた。

すると政宗は、負傷した指を包ませ、何ともなく四方を眺めながら、こう語った

「御本堂にあがり拝し奉るには及ばない。ここで戻ろう。倒れるはずのない場所で倒れたこと、
指より血が出て汚らわしいこと、日光に参るのもここまであるという、お告げなのだろう」
(御本堂へあがり拝し奉るにおよばず。是より御下向あるべし。たをれまじき所にてたをるる事、
ゆびよりち出てけがらはしき事、日光へも是ばかり参れとある御つげと見えたり。)

こう言うと、政宗は「はらはらと御落涙あそばし」、御暇乞いであるとして、三拝して下向された。

木村宇右衛門覚書)

伊達政宗の最後の日光参拝についての記録である。



179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/05(木) 08:35:20.55 ID:j+ZEv0M3
>>178
老いてなおかっこいい…

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/05(木) 08:51:04.22 ID:lXh1fFMP
政宗無駄にプライド高いからな

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/05(木) 15:25:38.19 ID:VP8PoBEg
政宗の男振りは老いて尚健在なのか
現代の老害達にも見習ってほしい

愛姫、服を仕立てる

2019年08月23日 15:21

愛姫   
152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/23(金) 01:26:55.82 ID:6jODTXIu
奥方(伊達政宗正室・愛姫)は常に儀式を正しく守ろうとされ、毎年正月、五月、九月にはおびただしい
服を仕立てられた、正月は晴れ着、五月九月は衣替えのためのものである。
公方様へ献上する服をはじめ、様々な方面に進上するための服は数え切れないほどであった。

この衣服を仕立てるため、御縫い物座敷では、左側は一通り表側を縫う衆(ひだり一とをりはおもてをぬい候衆)、
右側は一通り裏側を縫う衆(みぎ一とをりはうらをぬふ)、中央は綿を入れる衆(中とをりにてはわたを入のしたたむ)、
縁側はお召のものを縫う衆(えんがはにては御めしの物ぬいしゅ)と別れていた。
そして奥方は禿衆(近侍する少女たち)を相手に、お一人で布の裁断をして、それをご自身で縫製方に配られた
(おもてうら御一人にてたたせ給ふて、御自身さしくばらせ)。

この事は、ひとえにご恩返しとしての行為であった(是ひとへに御をんをくりなり)。

木村宇右衛門覚書)

伊達者として名高い伊達政宗の装束ですが、これらの多くを正妻の愛姫が主催する工房で自ら作ってたらしい、
というお話。



153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/23(金) 19:00:53.47 ID:K4Bqm8HE
滅亡した後の大友家の姫(実際は志賀家)が長崎で養蚕を教えて桑姫として名を残したりしてるし
姫というだけあって教養や手に職を持ってるんだな

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0904/index3.html

人々御固浅まに候得は気違物にて候

2019年07月25日 18:29

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/25(木) 18:23:13.15 ID:u1VAFNKy
正宗(伊達政宗)御死去の前、大献院様(徳川家光)が御成りになった。仰せには、御若年では
あるが天下の為になる事を何ぞ申し上げよ、とのことであった。

その時に正宗は、「御政道について申し上げるべき事は毛頭ございません。憚りながら、御旅行
の時に御宿陣を、非常に御用心仰せ付けなさるようにと存じ奉ります。人々の御固めが浅いよう
では気違うものです」と、申し上げなさったという。

(御宿陣を随分御用心被仰付候様にと奉存候人々御固浅まに候得は気違物にて候(注釈:本マヽ)
と被申上候由)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 08:45:48.13 ID:TiDSc5n9
>>113
常在戦場っぽくていいなぁw

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 09:54:37.73 ID:wvtnv1Jv
まあ当然だよね
ゆるくしてたら民の気までゆるんで言う事聞かなくなる

脇差を御取り寄せて御覧になれば、中身は竹

2019年07月24日 16:32

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/24(水) 01:11:16.70 ID:qdiUyKEx
ある時、正宗(伊達政宗)は御夜話に登城し御酒宴は長くなったところ、正宗が御見え
申さぬので(徳川家光は)「また外したか」と仰せになった。

しかし、御次の間に脇差があったので退出仕ってはいまいとのことで、所々を探したが
見え申さず、中の御門へ聞きに遣わした。すると、とっくに退出したとの趣を言上した
ので脇差を御取り寄せて御覧になれば、中身は竹だったので御笑い遊ばされたという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



政宗「さてさて珍しきなり!紅の肩衣というものは」

2019年07月17日 15:37

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 20:50:33.27 ID:3XPLdlvt
松平陸奥守様(伊達政宗)は御合口(相手として調子のあうこと)で不意に登城し、御夜話にも
御出仕した。

ある時に御前約で出仕し、正宗は異風を好んだのでいずれも替わり装束であったという。忠秋公
阿部忠秋)も紅茶裏の御上下を召しなされた。そんな折に、正宗は御酒宴中に御次に御立ちに
なったところ、忠秋公を見なさって、

「さてさて珍しきなり! 紅の袴を着ることは往古ありきたりではあるが、紅の肩衣というもの
はこの歳まで見たことがない! 初めて一覧した!」との由で、かように興じ申されたという。
その時、忠秋公は御脇差に御手をかけ、御憤怒の様子で御睨め付けになられたという。

(原注:正宗は曲者で諸人を嘲り、その上に唾吐きを仕掛け申されたという。向かい仕る兼松某
若松又七郎か)と申す方は唾を吐き掛けられ、堪忍なりがたく扇子で正宗の顔を強かに打った
という。その時、正宗は「堪忍堪忍!」と申され、「殊勝な若者かな!」と笑い申されたという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

参考
小姓衆まで裸で御給仕致した


267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 22:08:15.99 ID:+SP1oFkm
>>266
あやうく刃傷沙汰じゃねーかw

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 22:36:46.11 ID:tH1GGutY
政宗もう60くらいだろ
いいかげん落ち着け

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 23:52:24.77 ID:G0uW+Lhr
つまり血の気からやっていた事ではなく単に面白そうだからとかカッとなったとかそんな理由ということなのか
自制心が弱くなるから年とった方がむしろヤバくなる人間

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 07:06:41.88 ID:Ga9W4yxv
政宗はよくも暗殺されなかったレベル。なかには親の敵と勘違いされて斬られてしまった人もいるのに

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 08:23:52.41 ID:THuUE6L7
>>266
>忠秋公は御脇差に御手をかけ、御憤怒の様子で御睨め付けになられたという。
煽られてプルプルしてるAAが思い浮かんだw

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 09:05:06.66 ID:jCJ77sYW
かの名老中、阿部忠秋をここまで激怒させる腐れ爺…。
阿部忠秋じゃなければ、切り捨てていたんじゃないか?

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 15:27:54.93 ID:ZijLCe+2
辱めを受けた御家人の岩松又七郎は扇子で頬先を殴り正宗に褒められたそうな
そして主人を守らなかった側にいた小姓を正宗は切腹させた

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 15:37:43.86 ID:nRszZZgX
葉隠だと若松又七郎になってるけどどうも兼松正尾という人みたいだね

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 08:37:42.59 ID:5gA42Ipr
>>273
ひどすぎる

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 02:24:54.45 ID:z7/Ij/C3
政宗は酒が入るとやらかして後になって謝罪の書状を送ったりしてるからなw

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 11:41:02.99 ID:o6qNcdqI
(`●∀・)まあ俺という存在そのものがやらかしみたいなもんだしな

この吟味を三四郎に仰せつけられたのは

2019年06月28日 18:52

48 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/28(金) 18:19:00.29 ID:dyezkOlD
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8784.html
これの若干異なるバージョン

(酒井)忠勝様から伊達政宗様へ送られた書状を右筆が封じ違えており、他へ送る書状であったため政宗様は添え書きをなされお返しになった。
忠勝様は立腹され、役人を召し「すぐに吟味するように。右筆の糾明は北条三四郎に申し付けるように」とお命じになり、この書状を居間に置かれてご登城になった。
三四郎は筆跡を吟味する体を装いこの書状を焼却した。
ご退出の後忠勝様は吟味の様子をお尋ねになった。
三四郎は「筆跡の吟味をすれば筆者が誰か分かるでしょうが、(右筆のミスは)誤ってのことなので無益の吟味だと思い、書状は焼却しました」と申し上げた。
忠勝様は「軽率なことだ。しかしあの書状がないのなら吟味する手がかりもない」と仰って事が済んだ。
この筆跡の吟味を三四郎に仰せつけられたのはお考えがあってのことに違いないとご家中は感心した。

(仰景録)



伊達の子息は太郎信勝と同年である。これは不思議なり

2019年06月23日 16:46

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 01:25:56.85 ID:ISi17C3o
永禄10丁卯年(1567)に太郎義信(武田義信)自害なされて後は、信玄公の跡を継ぎ
なさるべき惣領はおられず。

しかしながら、またその年に誕生された四郎勝頼公の嫡子を信玄公は養子になさり、吉田左
近助(信生)を御使として御曹子を太郎信勝(武田信勝)と名付け参らせられ、武田の重代
(家宝)である行平の御太刀・左文字の御腰物を譲り、武田28代目と定められた。

子細は、四郎勝頼公の母は諏訪の頼茂(頼重)の娘、勝頼公の御前は美濃国の岩村殿という
織田信長の姨(おば)の息女(龍勝院)である。「四郎の父はいやしくも信玄であるから、
例えどこへ頼ろうとも、これは然るべきことだ」と仰せの事により、信玄公の跡目にと今の
御曹司を定められた。

(勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郎が父は苟も信玄なれば、いづか
たへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹司を有之)

そうしてこの太郎信勝は7歳で信玄公と離別参らせられたので、信勝21歳までの15年間
は父の勝頼公が陣代となされたのである。(中略)

また奥州より、高崎織部と申す牢人がこの頃甲州へやって来た。この人の物語りによると奥
州の侍大将・伊達(輝宗)の子息(伊達政宗)は太郎信勝と同年である。これは不思議なり。

(政宗は)万海という行者の生まれ変わりで、その事の成り行きはまさしくその通りとの話
を奇特と存じて、紙面に表す。

(奥州の侍大将伊達が子息に太郎信勝と同年なる是れは不思議なり、萬海と云ふ行人の生れ
がはり、その首尾まさしく候由奇特と存じ紙面にあらはす)

後の考えのためにこのようにするのであると、高坂弾正これを書く。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』

「いづかたへたよりても」に難しい判断を感じる



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 07:58:39.53 ID:Yd8e5GYv
武田家の跡取りってかなり大変そうだ
信玄も各武将も優秀すぎて

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/24(月) 13:09:15.22 ID:DJIUpD3b
>>189
晴信が板垣や甘利を失ったように合戦で殺せばええんやで