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どこもかしこもみなやけ申候

2019年01月05日 18:20

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:11:35.24 ID:+NkA4Ls3
どこもかしこもみなやけ申候


以下は元和7年1月に江戸の徳川義直の新邸から出火した火事について
13歳の池田光政が国元にいる父・利隆の乳母・栄寿尼に報じた手紙。

________________________________________

一ふて申し参らせ候。
こゝもと正月廿四日のなゝつぢぶんからおわりのちうなごん様(徳川義直)、
なへしま(鍋島)、くない(池田忠雄)、扨、まさむね(伊達政宗)、もりいまさか(森忠政)、
おれかやしきはかりやけす候、さこん殿(池田輝澄)、うきょう殿(池田政綱)、
てらさはしま(寺沢広高)、廿四日の七つちふんからひるの四つしふんまてやけ申候、
どこもかしこもみなやけ申候めてたく、かしく。

   正月廿四日        新太  幸隆(花押)
      うはゑいしゅ 参

     おわり(尾張)     みと(水戸)       きの(紀州)
       △            △            △
              このふたついゑはのこり候

めんめんに文にてもかへすかへす申候、はんすれとも
いそかしく候間まつ此むきにて候、かしく。
________________________________________

大名屋敷が25軒も燃える大火事で他にも上杉、毛利、島津などが焼けたらしい。



567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:35:36.19 ID:0RJw0w3F
子供にまで"まさむね"と書かれるのか
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慶長18年ローマ法王宛、伊達政宗書翰

2018年12月31日 17:59

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 05:28:17.14 ID:tCCcIX7y
慶長18年ローマ法王宛、伊達政宗書翰

広大な世界における御親、五番目のはつは はうろ様(パウロ5世)の御足を、日本における
奥州の屋形、伊達政宗、謹んで吸い奉り申し上げ候。

我が国においてサン・フランシスコの御門派の伴天連、フライ、ルイス、ソテロが、貴きデウスの御法を広めに
御越しの時、我らの所に御見舞にこられました。その口よりキリシタンの様子、何れからもデウスの御法の事を
承りました。それについて思案するほど、殊勝なる御事、真の御定めの道であると存じました。
それに従って、キリシタンになりたいと考えましたが、現在それは仔細あって、未だ成せない状況です。
ではありますが、私の分国中おしなべて下々までキリシタンに改宗するよう勧めたく、このために
サン・フランシスコの御門派の内に、わうせれはんしゃ(オブセルバンシャ:サン・フランシスコ派の一派)の
伴天連衆が御渡り下されます事が、何様にも殊勝大切と存じます。その伴天連衆には、万事に付、許認可の
権限を許されて派遣して下さい。彼等には我ら自身が寺を建て、万事に付き御馳走申します。

我が国の内において、貴きデウスの御法を御ひろめに成るためには、そうすることが良いと考えられる程の
事は、相定め預かるため、別して大いなる司(大司教)をお一人定めて下さりますように。そのように
いたせば、直ぐにでも皆々キリシタンに罷り成ること確実と考えます。
我々は如何様な申し出でも承りますので、御合力の事は少しもお気遣い無いように。これについては、
我々の存念は、このフライ、ルイス、ソテロ等が存じておりますので、それを貴老様(パウロ5世)御前にて
申すことを頼み入り、我々の使者として定め、渡海しました。彼等の言うことをお聞きになりますように。

このフライ、ソテロ等に差し添えて、我が家の侍である支倉六右衛門尉(常長)と申す者を、同使者として
遣わせました。私の名代としての御従いの印、御足を吸い奉る為に、ローマまで進上しました。
この伴天連ソテロ、途中の路にて突然果てても、ソテロが申し置いた伴天連を、同じように我々の使者と
思し召され派遣して下さい。
私の国とエスパーニャ(スペイン)の間は近国でありますから、今後エスパーニャの大皇帝とん・ひりつへ様
(フェリペ3世)と話し合い、その調整をして下してください。伴天連衆の渡海が成るよう、頼み奉ります。

なお、私の事については、貴きデウス天道の御前において、御内証にされますよう頼み入ります。なお
この国において如何様の御用であっても仰せ付けて下さい。随分に御奉公申し上げます。
そしてこればかりではありますが、日本の道具を恐れながら進上仕ります。なおこの伴天連、フライ、
ルイス、ソテロ及び六右衛門尉が口上にて申し上げます。その口上次第に成ります。
早々恐れ入り候。誠恐誠惶、敬白

                    伊達陸奥守(花押)
   慶長十八年九月四日             政宗(印)


伊達政宗、慶長六年(1601)四月二十一日付書条

2018年12月21日 22:38

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/21(金) 08:42:56.71 ID:c/bw3w7S
伊達政宗の有名な書条訳してみた

伊達政宗より今井宗薰に與へたる書(慶長六年(1601)四月廿一日)

 追って飛脚にて申し上げます。さて庄内についてですが、昨冬最上に加勢した時、庄内衆も打ち出たのを、谷地と申す所に
庄内の城主取り籠め、命ばかりの体となり、懇望し、罷り出たため、庄の城も明け渡しました。しかる所に、川北に東禅寺と申す
城持ちがあり(志駄義秀)、これと交戦するため城を囲みましたが、かねてから最上の衆が少々遣わされており、合戦に及ばず
明け渡し、これによって庄内は悉く平定されました。
一昨日は山形より修理殿(最上義康)の飛札を預かりました。修理殿が今回のことで熱心に働かれた事、一方ならぬものでした。
この事は報告されるべきだと思います。

 このように庄内が平定されたのも、去る冬に我々が最上に加勢し、庄内城主のしも(下秀久)と申す者を押さえて置いた故です。
また修理殿の働きの顕れでもあります。それぞれの人々に詳しく伝えてはおりませんので、貴老より物語頂けますように。
出羽守(最上義光)の時代では中々このようにはかばかしくは行きませんでした。不思議なことです。

一、伏見に皆々お越しに成ったとのこと、珍重です。この上は大坂の御用心こそ重要だと、私は考えています。
  直接には(家康は)どのようにお考えに成っているのか、本多正信などにも良き折にお尋ねください。
一、とにかく私の願いは、秀頼様が幼少の間は、江戸か、もしくは伏見でも、内府様(家康)のお側でしっかりと置き、
   大人らしく御成人されたなら、その時はいかようにも内府様御分別次第に御取立もなされば良いという事です。
   又、いかに太閤様御子だといっても、日本の統治を行えるような人物で無いと内府様が判断されれば、二、三カ国を
   与えるに留めるべきです。秀頼様の今後の進退を長々と放置していては良くありません。
   今のように大坂にぶらりと置いておけば、時分によって世を乱そうとする者が出てきて、秀頼様をその盟主とし、
   謀反など起こすでしょう。それ故に何も知らぬ秀頼様を切腹させることに成れば、太閤様の亡魂の為にも、
   悪しきことと存じます。
一、私としては、さしあたってこの意見だけでも申し上げたく、第一秀頼様の為でもあると考えています。本多正信などに、
   戯言のようにでも、是非お話下さい、
一、大納言様(徳川秀忠)が江戸に下向されるのを待っています。
一、伏見に女房たちが早々に越してくるようにと、両人の所に申し遣わしました。それについて萬々御意見を頂けますように。
一、五月五日の帷子など、進上して頂けますように。各々へも進上するようにと申し遣わしました。

 丁度今、馬の調練をしてきたため、どうにも手が震え非常に読み辛い文章になってしまいました。どうか他見されませんように。
 恐惶謹言

 四月二十一日           政宗(花押)
   宗薰老へ(河内觀心寺藏)



591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 13:30:51.71 ID:4szgCXxf
>>584
慶長出羽合戦のあとか東北の人は長距離移動してて大変だな
今井宗薫はなぜそんなに政宗に片入りしてたのかね

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 14:52:36.78 ID:Os2XX0rx
>>584
これと同じ日の1601年4月21日付今井宗薫伊達政宗書状がもう一通あるよね
そっちでは政宗が諸大名の妻子は江戸に住まわせるべき
箱根や足柄に番所を置けばさしずめ広い籠の中にいるみたいなものだ
手始めに私から妻子を江戸に送りましょうかなんて言ってる

此大帝國(日本)に属する歳入

2018年12月11日 17:12

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/10(月) 21:02:33.37 ID:ldA590QC
最後に、此大帝國(日本)に属する歳入に関しては、フランシス・カイロンの取りたる日本の王公の歳入の公記によりて明なり。
歳入は日本風によればコキーン(Cockiens 古金?)を以て算ず。一コキーンは佛貨一クラウンに富る。

フランシス・カイロンが此地に住せし時は、最大の歳入を有せしエムペロル(将軍家)に次ける者はカンガ(Canga 加賀)、ゼッチュー(Zetchiu 越中)、
及ナッタ(Natta 能登)の王にして、カンゴナチューナゴン(Cangono Tsiunagon 加賀中納言)と称し、ランガ(Langa)城に住せり。年々の収入は
黄金百二十噸(トン)を下ること無かりき。(黄金一噸は一萬磅(ポンド)なり。)

スルガ(Suruga 駿河)、トト(Toto 遠江),ミカワ(Micauwa 三河)の國の王、スルアンゴダイナゴン(Suruango Daynangon 駿河大納言)は、
ファィチュー(Faytsiu 府中)の城塞に住す。オワリ(Owary 尾張)及ミノ(Mino 美濃)の両國の王オワリノダイナゴン(Owarino Daynangon 尾張大納言)は
ナンガイ(Nangay 名古屋)の城塞に住す。各年々七万磅を有せり。

マサニネ(Massanine)及オーチオ(Ochio奥州)の王センダイノチューナゴン(Sendayno Thiunangon 仙臺中納言)は堅固なるセンダイ城に住し、
年々黄金六十四噸以上を有す。

サツマ(Satsuma 薩摩)、オシナ(Ossina 大隅)、ヒューゴ(Fiungo 日向)及ルチオ(Luchio 琉球)の王サッマノンチューナゴン(Satsumanon Thiunangon
薩摩中納言)はカガシマ(Cangasima 鹿児島)城に住し、年々六万磅を得。

キノ(Kino 紀伊)及びイセ(lche伊勢)の王にしてワカヤマ(WakaJamma 和歌山)の城を支配するキノクニダイナゴン(Kinocouny Daynangon 紀州大納言)は
年々五十五万磅を有す。クマモッテ(Knumamotte 熊本)城に在るヒゴ(Fingo 肥後)のカットー・ヒゴノカミ(Catto Fingonocamy 加藤肥後守)及
フカサ(Foucasa 福岡か)城に在るスンキセン(SunKicen 筑前)のマツェンデイロ・エムノスコ(Matsendeyro Iemnosco 松平右衛門佐:黒田忠之か)及
オエクデ(Oecde)の城塞を守るエチェセン(Ietchesen越前)のマツェンディロ・イノカミ(Matsendeyro Inocamy松平伊予守?:松平忠昌か)の諸王も
大抵同様の収入あり。

ハギ(Fangy 萩)城に住するソヴァ(Sova 周防)のマチェンデイロ・ナガト(Matsendeyro Nangato 松平長門)、及ミト(Mit 水戸)の城塞に在る
ヒタイツ(Fitayts 常陸)のミトンスチューナゴン(Mittons Thiunangon 水戸中納言)、ロギオイス(Logioys)城を支配するヒジェン(Fisien 肥前)の
ナビシマシナノ(Nabissima Sinano 鍋島信濃)、タカハム(Takaham 高濱)城塞に在るイナバホキ(lnabafoky 因幡、伯耆)のマチェンデイロ・シンダイロ
(Matsendeyro Sindairo 松平新太郎:池田光政か)は年々三十一磅を収む。
其他第二位の諸侯、即ち候に富るもの、第三位の諸侯即ち伯に當るもの等、以下差異あり。
(モンタヌス日本誌)

ここでも政宗だけマサムネ(マサニネ(Massanine))なのか。地名と勘違いされてる気もするが。



553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/10(月) 22:57:00.38 ID:Ir5UCqmt
このアルファベット表記によって読みが確定した地名人名が多くて記録としてありがたい

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/10(月) 22:57:00.38 ID:Ir5UCqmtこのアルファベット表記によって読みが確定した地名人名が多くて記録としてありがたい

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/11(火) 19:36:54.06 ID:wAqoyPCo
「紀州大納言」は「きのくにだいなごん」だったんだな。

伴天連関係の資料は興味深い。

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/11(火) 20:57:53.12 ID:VBgdkID0
>>554
国内のしがらみに左右されない、ある意味客観的な資料だしな
キリスト教の教義に基づく偏見はあるにしても

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/11(火) 23:07:06.81 ID:OUa8tKsd
>ロギオイス(Logioys)城
>オエクデ(Oecde)の城塞

ドラクエかな?

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/12(水) 10:22:47.72 ID:B4YntS6f
佐賀と福井の筈だがどうしてこうなった

ニュース【ミス・ワールド日本代表に伊達政宗直系21代目の伊達佳内子さん】

2018年08月29日 18:58

233 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/08/28(火) 22:11:02.89 ID:EvVT2odV
ニュース【ミス・ワールド日本代表に伊達政宗直系21代目の伊達佳内子さん】
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180828-00000036-tospoweb-ent


自分に政宗の血が通っている部分については「負けず嫌いなことと、眉毛が太いことでしょうか」

「負けず嫌い、眉毛が太い」
「負けず嫌い、眉毛が太い」
「負けず嫌い、眉毛が太い」



234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 23:17:27.94 ID:0m4UqgFR
>>233
この娘さんに「寝るから起こすな」と言われたのに起こしたりすると
寝起きが悪くて刀片手に追いかけ回されたりするのかな

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 00:19:31.10 ID:j2Tx7DuF
>>233
父系だと空気な加藤さん、母系で政宗に繋がるけれど十数代目・・・
父親の名前だけを頼りにした調査が正確ならこの結果

まぁ江戸期以降の名家には違いないけれど

伊達ノ士濱田治部ノ忠勇

2018年08月05日 18:06

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 21:46:26.95 ID:c/zRkiu+
伊達ノ士濱田治部ノ忠勇

伊達政宗は能士を持たれた人である。浜田治部は武功ある者であった。政宗が会津表へ出陣なさった時、
家康公より御使者をもって「早く会津表を引き払い、岩手沢へ帰陣されよ」と御指示があったので、

政宗は家老の片倉備中(景綱)を呼び、「白石城を攻め落としていながら捨て退くのもいかがなものか。
かといって城代を残し置くのも危うい。どうしたものか」と仰せになった。

これに片倉が「近ごろ、白石城に置かれている浜田治部を召して城代を仰せつけると良いでしょう」と
申したことにより、政宗が「浜田を呼び出して言い渡せ」と仰せになったので、片倉は畏まって治部に

言い渡され「白石城において貴辺の武功が優れていることにより、かの城に留め置かれることになった。
此度、内府公の御下知により岩手沢へ御引き取りなさるようにと議定された。これによって白石城を

捨て置くのも口惜しき御事なれば某に守らせるべきかといえども、諸事を御相談のうえで某は召し置かれ
がたいとの仰せである。そこで、御辺をかの城に留め置かれるとの御内談である。望み申す輩も多き中で
御辺がこの城に留まることは武士の本意であろう」

と片倉は浜田に申された。この時、政宗も「近頃の無理な所望ではあるが、他に残し置くべき者もいない
ので其の方が白石の城番を勤めてくれよ」と申された。治部はこれを承るも、「人多き中で若輩の某を

召しなさり、敵地に残し置かれるとは冥加に叶ったことではございますが、もとより不肖の某ですから
どうか功者を残しなさって、某はその指図を受けて城を守り申したく存じます」と言った。

しかし、政宗も片倉も同音に「ただ其の方一人しか留まるべき者はいない」とのことだったので、治部は

「このうえは仰せに任せます。敵がもし攻め掛かってきたなら突き出て討死するか腹を切るまでのこと。
何よりも易きことでございます。このどちらも苦しからぬことですから畏まり申した」と、申し上げた。

政宗は聞きも終わらぬうちに「突き出るのは謀のないようなものだ。堅固に城を持ち抱えて叶わなければ
腹を切ってくれよ。三日籠城してくれれば私が後詰する。愛宕八幡も照覧あれ、見殺しはしない」

と仰せになった。治部はまた返答申して、「某を救うために御出馬されれば内府と御誓約を違えましょう。
ただ御捨て殺しくださるとのことならば御受け申し上げます」と言った。

これに片倉備中が聞きも終わらぬうちに、「そちはそち、殿は殿の勤めをなさることだ」(そちはそち、
殿は殿の勤め有べし)と言うと、浜田は了承して退出したということである。

――『日本戦史 関原役補伝(校合雑記)』


お陰を以って天下に面目を

2018年06月14日 18:18

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/14(木) 17:07:32.39 ID:MnYHqCft
天正19年(1591)、豊臣秀吉は隠居し、天下並びに聚楽城を猶子である三好中納言秀次へ譲った。
その官位昇進のため、同年12月28日、秀吉秀次以下天下の諸大名は、位次第に車にて参内を
することとなった。

この時秀吉は、蒲生氏郷の次に伊達政宗、その次に山形出羽守(最上)義光と定めた。
ところが氏郷は御前に進み出て

「山形(最上)は源氏の縁であり、その上政宗にとっては母方の叔父にあたります。
政宗の後にすべきではありません。」

このように申し上げたところ、秀吉も「そういう事なら」と、最上義光を政宗の前に立てた。

これを知った義光は謹んで氏郷に申し上げた
「お陰を以って天下に面目を雪ぎました。この御恩はいつの世に忘れることが有るでしょうか。
氏郷殿御一代、それがし一世の間に、会津に何事か有れば、その御用に立ちましょう。
その証拠として人質を進上しましょう。」

それより子息の一人駿河守(家親)を、氏郷の生きている間は差し置いた。

(氏鄕記)



11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/14(木) 17:10:00.88 ID:NpoWDhvU
氏郷が、最上家の取次だったのかな。わざわざ人質まで送るとは。

セキレイの目

2018年06月13日 17:53

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 16:12:05.73 ID:jXBncqBZ
葛西大崎一揆が終結すると、蒲生氏郷は二本松城へと帰陣した。ここで秀吉より派遣された
浅野長政と対面した。長政は「今回の働きは大変な誉れでした」と氏郷を讃え、今後のことを
相談し、先ずは伊達政宗より取った人質を連れて上洛し、今回の事態に至った経過を申し上げると
決まった。去年のうちに出した飛脚も京都に到着し、豊臣秀吉は浅野に加えて石田三成をも
会津に下すとの事であった。

このような所に、何を思ったのか伊達政宗が「私もあなた方と相伴して上洛したい」との旨を
二本松に伝えてきた。両人は「一段然るべし」とこれを許諾し、先に浅野長政が出立し、
その次に伊達政宗が立った。氏郷は「この上は必要ない」と、政宗からの人質を返した。

しかしこの時の政宗の風情は聞くも恐ろしいものであった。死に装束の出で立ちで、金箔を貼った
磔ものの杭を馬の先に持たせて上洛したのだという。

政宗の後に氏郷も出立し、上洛すると秀吉の御前にて一揆の様子を順々に申し上げ、並びに
政宗の家来であった山戸田八兵衛、牛越宗兵衛が持参した、葛西大崎一揆を政宗が扇動した
証拠となる證文を渡した。
秀吉は氏郷に「今度の手柄に勝ることはない」と激賞し、「こんな事があるかも知れないと思って、
御辺を名代として会津に置いたのだ。」と語りかけた。

その後、政宗への尋問が行われたが、政宗は
「今度逆心を起こした山戸田、牛越と申す者たちは、彼らが幼少の頃より身近くにあり、
また祐筆も申し付けていたので、今回は私への恨みのままに、偽判をしてしまったのでしょう。」
り申し上げた。これを聞いた人々はみな「嘘くさい言い分だ(実しからぬ云分かな)」と言ったが、
政宗は
「疑われるのなら、その判を御見せ候へ」
と請うてこれを見ると

「さてこそ、これは偽判です。私の判は、セキレイの形を模しておりますが、これには、その目が
ありません。本物の判には目が付いています!」

そう陳述した。これにより秀吉は、諸大名小名を詮索し政宗の書状を取り寄せたが、それらには全て、
確かに目が付いていた。
伊達政宗の謀は非常に奥深いものだと感じられた。

これによって言い分が一つ立ち、また秀吉としても、政宗がこのように京都にいる以上
おかしな動きはできないと、再び柔和を加えて、政宗は京都に押し止め、長く在京させたのである。

(氏鄕記)

有名な「セキレイの目」の逸話



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 17:08:15.98 ID:NO0axVvC
一応、言い訳はできたけど、信用はされなかったわけね。政宗自身が人質になったようなものか。
しかし、よく取り潰しにならなかったなあ。もっと薄弱な理由で改易された大名は多かろうに。
秀吉を機嫌よくすれば勝ちなのだろうか。

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:37:04.33 ID:EXL6zAuI
その後、ラスボスのお気に入りになったからな。なにかを感じたんだろうw

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:49:34.96 ID:9Iw3leKK
伊達家潰して新たな騒動の火種を作るより火中の栗を拾わせたほうがマシってことじゃね

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:59:59.61 ID:TpbmBOju
>>856
お気に入りと言っても、減封の上さらに僻地に転封し、その上、中央の政局には一切関わらせないようにしたわけで。

関ヶ原まではプライベートで叫んでいるだけの存在。

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 20:28:35.17 ID:EXL6zAuI
東北勢みんなそうやろ。

給人衆頭の討ち死に

2018年01月17日 16:18

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/17(水) 03:14:57.92 ID:eUuC9HcM
大阪での合戦の折、伊達政宗の配下において、給人衆百人の頭である草刈源内秋保掃部という者たち
両人が討ち死にに及んだ。

帰陣後政宗は、この事に憤慨した
「給人衆の内、頭両人を討たせて、組の者が一人も損なわれなかったというのは、組の奴原が
不覚と言うべきである!百人とも今後の見せしめとして、皆殺しにせよ!」

この時、「両人の討ち死には私の責任です」と、給人衆の内の、丹野善右衛門が申し出た。
彼はこのように言った

「川向うに味方の備があったのを、源内が敵と思って攻めかかりました。
私は給人衆の組頭ですが、彼にこう言いました。『和殿は何に目がくらんで、味方を敵と見間違えるか』
そうあざ笑ったため、源内は怒り私を斬りつけようとしたのを、秋保が身を乗り出し、
間に入って二人を隔てたため事なきを得ました。

しかしこれによって心が急いてしまったのでしょう、源内は無二に敵陣に乗り込み、討ち死にをしました。
秋保も続いて乗り込み、討たれました。

この事は私の誤りのためですから、皆の代わりに私一人を罪科に処せられるべきです。」

これを聞いて政宗は、百人の罪を許した。
しかし政宗は一生、城下のうち給人衆の住む街を通ることをせず
「不義非道の奴原にて、主人頭を見殺したのだ!」
そう憎んだという。

給人衆とは伊達家の言葉で、他家でいう足軽の類の事である。

(士談)



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/17(水) 07:20:49.18 ID:cwSBNEqI
大人になったな、政宗

主人を裏切った天罰でしょう

2018年01月10日 18:14

470 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/10(水) 09:24:14.09 ID:dL0PHSS6
伊達政宗が会津を速やかに制することが出来たのは、会津代々の家老、平田、松本、佐世、
富田といった、世に蘆名四天王と呼ばれる人々を始めとして、多くの重臣たちが謀反した
ためであった。

中でも安積郡の押さえとして猪苗代という城があり、ここに猪苗代弾正(盛国)といって、
蘆名数代の臣下があったが、欲に心を奪われ代々の主人に逆意して、政宗を引き込み
彼を猪苗代城に入れた事が、蘆名滅亡に直接つながったという。

かくして政宗は会津を存分とし、知行割をして功臣を賞した。
この時猪苗代盛国は伊達安房守成実を通して申し上げた

「かねがね会津別心の時、三ヶ条の望みとして申し上げていました通り、北方の半分を
下されますように。」

政宗は尋ねた
「弾正は北方にどれほどの所領を持っているのか?そなたに半分与えるとは聞いていないが…」

「私は北方には、領分少しもありません。恥じ入ることですが、譜代の主人に逆意仕ったのも
身のためであります。」

そして盛国の家臣である薄源兵衛と申す者が発言した。
「それがしが、その書付を書きました。”半”の字が無ければ切腹いたします!」

そこで政宗がその書付を取り寄せると、そこには『北方分』とだけ書かれており、『半』の
文字は無かった。

盛国は驚愕し
「主人を裏切った天罰でしょう」
そう言って猪苗代へと帰った。

しかし彼が伊達勢を引き入れなければ、会津はこのように速やかに奪うことできなかったと、
政宗は北方において五百貫の加増を盛国に与えたという。



472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/11(木) 22:14:30.48 ID:RtY44ibW
>>470
で薄原は切腹したの?

況や郡邑など

2017年12月02日 16:49

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/02(土) 09:49:53.84 ID:pZFOXZaq
小田原の役のおり、伊達政宗は奥州より越後を越え、甲斐に出て相州箱根へと至り、
豊臣秀吉に謁した。

この時政宗は24才、片倉小十郎一人を召し連れて、広野において礼を行う。
秀吉は床几に腰を掛け、政宗に言った

「上杉景勝は既に使節を以て礼を行い、佐竹も使者を送って来た中、政宗一人そうせず、
漸くにして今日礼を行う。その罪は甚だ重い。
汝の横領した地を速やかに返上すべし。ただ本領の三十万石は安堵しよう。
これに同意できないのなら汝は直ぐに帰国し我に敵すべし。汝が会津に至る頃合いには、
我は必ず北条を族滅し、そこから直に会津に進み、汝と対面するだろう。」

政宗は元来度量豪傑の勇者であり、聊かも恐れる様子無く答え申し上げた

「私は今、匹夫の姿で唯一人御前に参りました。生死も又命のままであり、
況や郡邑など御意のままであります。返上いたします。」

これに秀吉は大いに喜び、政宗に暇を与えて返した。

秀吉の左右の者達は皆異議を申し上げた
伊達政宗は必ず、奥州に帰れば仇をなすでしょう。速やかにここで討つべきです!」

秀吉は大いに笑って言った
「お前たちは豎子であるなあ。共に謀るに足らぬ。」

(士談)



479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/02(土) 10:59:45.08 ID:oTw3QgRm
政宗にエンターティナーの素質があると一目でわかったのか、さすがラスボス。

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/02(土) 11:30:45.38 ID:+W+OTzwU
秀吉の左右「討つべきです、と范増のような提言をしたら項羽扱いされた」

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/02(土) 11:45:59.97 ID:9aRr4QWn
家康も単身で助けを求めてきた治部を守ったでしょ
王者てもんはそういうものさ

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/02(土) 14:24:55.78 ID:JrO/NKpY
>>478
>聊かも恐れる様子無く答え申し上げた
これがカッコイイ

これ士の見せしめである

2017年11月15日 17:19

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/15(水) 12:32:23.31 ID:vEgaCA4Q
大阪の陣の時、伊達政宗が奈良において、全ての足軽大将を集めて鉄砲を釣瓶撃ちさせたが、
加藤太という足軽大将の足軽たち300ばかりが鉄砲を撃たなかった。

この事を糾明したところ、加藤太は
「道中にて火を持っていれば、火縄を入れておく意味はない。火薬を足軽に預ければ道にこぼして多く
廃ってしまう。」
そう言って火縄、火薬ともに荷に包み小荷駄に付けて後より来るようにしたため、この時の釣瓶撃ちに
間に合わなかったのだという。

政宗は激怒し
「職分を忘れて、役人の出納を気取るか!?これ士の見せしめである!」
そう言うと自ら斬って棄てた。

また足軽たちに命じて、一斉に刀を抜かせ木を切らせた。
この時、一人錆びた刀を差し、木を切ることできなかった。これも糾明したところ、足軽が病のため、
人足を雇って代わりに役を勤めさせた。そのためそのような刀を持っていたのだと答えた。

政宗はこの足軽大将も成敗し、諸卒に示した。

(士談)



308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/15(水) 13:37:17.20 ID:ujGD9s1O
>>307
大阪の陣の頃になると実践遠ざかって久しいから、経済を優先させちゃう輩も増えたんだろうなぁ…
関ヶ原の頃ですら、朝鮮行かなかった大名は結構な期間実戦やっていなかったし。

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/15(水) 13:43:04.94 ID:tw7Qdp6q
鉄砲の件はもっともだが、刀で木を切るのはやめた方が

陸奥守政宗は三方を頭に被って踊り申された

2017年09月30日 22:11

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/30(土) 02:43:45.97 ID:PbrYLDou
大献院様(徳川家光)は名誉な公方様でござった。御一代の内に御鷹狩をされ、
ならびに島津家へ仰せ付けなさり、犬追物を上覧された。

また安宅丸を仰せ付けなさり、諸大名を召し集められて御遊覧などをなさった。
大方、太閤秀吉の気風を御慕い遊ばされた御様子である。

その安宅丸御遊覧の時、諸大名が舞いを仕るなど、色々の音曲がござった。

松平陸奥守政宗(伊達政宗)は御酒宴のうえで三方を頭に被って踊り申された
という。興に思われる趣のあることであったとの由である。

松平越後守殿(光長)や新太郎殿(池田光政)もその座に御出の方で、以後に
相公様(前田綱紀)へ御参会の折に度々直に御物語りを聞こし召されたとの由、

同年(享保7年)1月12日に仰せになった。

――『松雲公御夜話』



仙台では政宗生誕450年をお祝いしていたのに

2017年09月02日 21:10

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/02(土) 09:09:40.71 ID:LylpQUao
仙台では政宗生誕450年をお祝いしていたのに
http://imgur.com/ijijVa4.jpg
http://imgur.com/qB9oIlP.jpg
ijijVa4.jpg

qB9oIlP.jpg

生誕地の米沢では全く何もしていなくてギャップが面白かった
https://i.imgur.com/0Eb9VE7.jpg
0Eb9VE7.jpg

そして19人目に、

2017年08月04日 09:29

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 09:19:48.91 ID:im8VIwth
伊達政宗が、小田原に出馬した豊臣秀吉に謁するため向かった間、会津の留守は伊達成実に任された。
この留守の間、二、三夜ほど会津が以ての外に騒動した。『会津の内に心変りの者があって、越後の人衆を
引き入れる』との噂が広まったのである。この事を実尺という山伏が成実も告げたが、成実は
「一体何者がこれを言っているのか」と尋ねた。実尺は「世上隠れなき噂ですので誰とは特定できません。」
と答えたが、成実

「ともかく一人づつ名指ししろ。さもなくば汝を罪科に問う。」

このため山伏は、そう言っていた人間を一人づつ語り、成実は順次これを改めていった。
そして19人目に、伊藤七郎という者の屋敷に仕える下女にたどり着いた。

伊藤七郎は政宗の小田原行きに従っていた。そしてその屋敷の門の脇の長屋に、なにがしと言う若党が居たが、
彼が槍を持って広間から出てきたのを、かの下女が見て「さては何事かあったのか!?」と、この事を
出入りの魚売りに語ったというのだ。この話が広まり、そこに尾ひれがついて会津中の騒動になったと
考えられた。

これによって、成実はかの下女を成敗し、当面の戒めとした。

(士談)



35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 09:27:51.57 ID:pSJEYCRn
成敗しちゃったの!

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 09:33:34.04 ID:YjmFAJXA
おおごとにならないうちにな

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 10:45:29.34 ID:wElgxufl
性売!

勇者の思い

2017年06月17日 10:00

岡左内   
37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/16(金) 20:39:16.21 ID:5Rqe2+am
関ヶ原の役の時、奥州において上杉景勝伊達政宗取合の時分、景勝勢は福島より二里出て
政宗と戦った。

この時。北川図書という者、元は蒲生氏郷に仕えていたが、氏郷没後は景勝に属し、
景勝より桑折の地を与えられ、その頃郡図書と名乗っていた。

図書はこの合戦で討ち死にを覚悟し、朋輩である岡左内に頼んだ。
「私の陣羽織を息子の久兵衛に遺したいので、討ち死にの際にはこれを遣わしてほしい。」

左内は受け取り、後に図書の子・久兵衛にこれを渡した。図書は討ち死にしたのだ。

この事について、後の人は様々に評した。
ある人
「同じく戦場に臨んで、我も人も必死をこそ旨とすべきなのに、どうして自分が必ず生き残ると思い、
人の形見を請け取るなど有るべきだろうか?」

これに対して、傍らに居た人が言った
「そうではない。互いに言い交わし話し交わした心友の間で、その人を見込んでこう言っているのに、
請け取らないということが有るだろうか?
自分が必ず生き残るから、受け取って渡す、と言っているのではない。彼の形見を我が預かり、
我が形見を彼に預けるというのは、勇者の思いを込めた行為というべきではないだろうか。」

この岡左内という人物は、後に越後と称し、類まれなる勇士で、数度の戦功を成した。
この時の戦でも、川中で伊達政宗と太刀打ちして、自分の猩々皮の羽織に、政宗の太刀傷二ヶ所まで
受けたと言われている。
彼も蒲生氏郷に属して、後に景勝に仕え、その経歴もあって北川図書と親しんでいたとか。

北川図書の子孫は、今も加賀太守(前田家)の家中にあるという。

(士談)


ある時、皇寛と申す唐人の話に曰く

2017年06月01日 12:24

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 04:08:34.17 ID:yPT0Gczf
ある時、皇寛と申す唐人の話に曰く、

「それがしが国にいた時、ここかしこで物心の付いた小倅などは、誰が教える
ともなく政宗公(伊達政宗)と聞いては物事に恐れをなし申した。

未だ幼き子供がその母の懐に抱かれて嘆いているのを何と慰めても止まない
時に、母が怒って、

『日本の政宗が只今この国へ来るそうだぞ! 嘆くのを止めなさい! 泣いて
政宗に捕まるな!』と制すれば、

(日本の政宗、只今此國へ来ると云ふぞ、なげきを止めよ、泣きて取らるるな
と、制すれば、)

その子はすぐに泣くのを止め、流れる涙を止めて、むしろ母に取り付き、顔を
隠して恐れ申す」とのことあった。古今御座無き御事かなと、感じ奉る。

――『命期集』



809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 10:43:21.09 ID:ZxIfVxi9
正宗って文禄の役で朝鮮行ってたんだな。

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 11:03:46.49 ID:MAtG1P6q
張遼じゃあるまいし

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 12:38:29.46 ID:79OXoLCr
史料の性格が知りたいところだ

中里介山「大菩薩峠」の「伊達政宗と細川忠興で半分こ」

2017年05月30日 18:10

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/30(火) 15:31:13.86 ID:RaAvraES
伊達政宗=文化財クラッシャーってことで王羲之の書をまっ二つにしたことがネタにされてるけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html
「伊達政宗と細川忠興で半分こ・いい話?」

>政宗と忠興と言えば、朝鮮出兵時に漢陽(ソウル)の王宮で見つけた
>王義之の書(写本)を取り合って、結局山分けして半分ずつ持ち帰った話が
>2人らしいエピソードで印象深い

中里介山「大菩薩峠」を読んでたらこのエピソードが載っていて、その内容は
細川三斎の部下甲がソウルの王城で王羲之の孝経(李世民親筆の序つき)を見つける。
伊達政宗の部下乙もそこに来て、甲に伊達に譲るよう言うが、早い者勝ちということで甲が自軍に持って帰る。
→乙から聞いた伊達政宗が細川三斎の陣を訪れて、王羲之の孝経を見ようとする
→細川三斎が「このままでは政宗に持っていかれる」と思い、政宗に両家の結婚話を出す。
→政宗が両家の婚姻を承知する。
→細川三斎が王義之の孝経を2つに裂き、両家が一つずつとり結納代わりとする。
この後
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-845.html
のとおり、細川宗孝が板倉勝該に人違いで斬殺された際に伊達宗村(小説では父親の吉村)が機転を利かせて
細川家取り潰しを回避し、恩を感じた細川家から王羲之の書が伊達家に与えられ、王羲之の孝経がもとに戻る。

てことになっていた。
これだと三斎様のほうが文化財クラッシャーになってしまうけど、もともとの話ではどうだったんだろう。
中里介山の創作がここで戦国エピとして語られたんじゃなきゃいいが


その勇功といい義を守ることといい

2017年05月02日 18:07

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/02(火) 14:23:41.27 ID:GWMsMAq8
天正18年に、蒲生氏郷豊臣秀吉より奥州会津を賜り、木村伊勢守(吉清)が葛西大崎を賜った。

その冬、木村の領分にて一揆が蜂起したとの知らせが氏郷の元に入った。
氏郷は雪中にも拘わらず、急ぎ妙佐沼へと救援に向かった。
この時、この一揆は伊達政宗が起こしたものだという風聞があった。

氏郷は速やかに出陣して所々の一揆を追い落としたが、ここに新国上総という者、彼は永沼の城主であり、
元は蘆名に属し、その後伊達政宗に従った人物であったのだが、彼が氏郷に面謁して言った

「この度の一揆は、悉く伊達政宗が扇動したものです。しかし現在雪中であり、分国の通路すら
自由にならず、また蒲生様は未だこの土地の案内も詳しくご存知ありません。であればこのような
救援の軍はうまくいかないでしょう。」

これを聞いて氏郷は答えた
「汝の言うことも尤もである。しかし、太閤殿下が奥州の背炙山まで御動座あって、奥州の仕置を
仰せ付けられたとき、木村伊勢守と私を左右に置いて立たれ、二人の肩をつかみ

『伊勢守は氏郷を兄と存じ、氏郷は伊勢守を弟と存じて、奥州のこと、互いに相談して仕置をするように。』

そう命ぜられたのである。であれば、たとえ途中においてこの氏郷が一命を失ったとしても、伊勢守を
見捨てては君命を蔑ろにし、義理を失ってしまう。
私は確かに昨今この土地に至り、地利を知らず、また雪中の時期であり、人馬の苦しみは言葉にならないほどだ。
しかし、だからといって伊勢守を棄てるというのは、義において欠ける行為である。
伊勢守が討たれて私の命が残っても、一体何の面目があって太閤殿下にお目通りできるだろうか。

これが、私が兵を起こして救援に向かう由縁である。」

そして氏郷は遂に勝利を得て、思いのままに一揆を退治し奥州を平均せしめた。
その勇功といい義を守ることといい、共に武士の本意に当たると言えるだろう。

(士談)


1616年(元和2年)、イスパニヤ国王より伊達政宗に贈りし書簡

2017年04月07日 09:11

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/06(木) 20:25:55.13 ID:7i7Ye65s
1616年(元和2年)、イスパニヤ国王より伊達政宗に贈りし書簡

『神の恩寵によりイスパニヤ、ナポリ、シシリヤ、エルサレム、東西インド、太平洋中の諸島及び大陸の王、
アウストリャの大公爵、ブルゴーニュ、ブラバント及びミラン公爵、ハプスブルク、フランデル及び
チロル伯爵を兼ねたるドン・フェリペ(フェリペ3世)

支倉六右衛門、サン・フランシスコ洗足派のフラル、ルイス、ソテロとともに当宮廷に来たりしにより、
喜んでこれを引見し、貴国において、我等の主、イエス・キリストの神聖なる真の教えを善とし、これを
奉ぜんとする賀すべき考えであることを聞きて、特に喜び、また国王(政宗)がその国を平和に治め、
その幸福を増進せんと欲するがゆえに、双方にとって好き結果があることを認め、彼らに対して善き待遇を
与え、イスパニヤ滞在中、並びにローマの庁への旅行中、必要なるものを支給し、帰国の際、乗船を
与えることを命じた。

朕はこの旅行の結果として、キリスト教が弘布され、貴国の住民の霊魂が救われるに至るべきことを信じて、
大いに悦んでいる。

朕が宣教師、その他キリスト教徒を厚遇されることを切望する事は、親しく大使(支倉常長)に語り、
日本全国の君に書簡を以って伝えた、

神が奥州の王を護り、その正しき意図に大いなる成功を与え給わんことを祈る。

 1616年7月12日(元和2年5月29日) マドリッドに於いて。
                            朕国王(親署)』
(異国叢書)

スペイン国王来日記念に