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筆の初めという意味で

2019年10月17日 18:15

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/15(火) 10:53:53.87 ID:lRr5lqDI
丸森町の筆甫地区って政宗が検地の最初に書くから筆の初めという意味で
筆甫にしてるいい話あるやんけ。
地名残すも大事よ

SnapCrab_No-1740.jpg



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政宗最後の日光参拝

2019年09月05日 17:29

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/04(水) 22:33:31.12 ID:Pdzgd4fV
寛永十三年(1636)四月二十五日、六十八歳の伊達政宗は体調の不調をおしての、最後の江戸参府となる途、
政宗の希望にて日光東照宮を参拝する。
将軍徳川家光もこの情報を得ており、旗本・伊丹播磨守(康勝)にその案内を命じていた。
折しも二十五日は公家門跡衆御社参の日でも有り、そのもてなしのため四座の申楽による御能が、本堂の前に
敷舞台を拵え行われていた。

拝殿への参拝が終わると、政宗は伊丹播磨守により奥の院へと案内された。拝殿より左、五十四、五段の
石段を四回、三十七、八段の石段を三回上ると奥の院と成る。
政宗は最後の階段の、奥の院本堂まで後一段という所で転倒した。長袴のくくりの糸が緩み、足に
まとわりついたためだという。政宗が倒れようとした瞬間、右に伺候していた山路八兵衛、先に立つ形で
左に伺候していた青木忠五郎、そして後ろについて政宗の腰を抱えていた木村宇右衛門(この覚書の作者)が
とっさに政宗の体を支えた。このため大きな怪我はなかったが、左手の親指を石に少し擦り、少々出血した。
(御左の御手の大ゆびのふしを石にて少すらせ給ひてち少出る)

政宗は左手親指の血を懐紙にて拭き取りつつ、伊丹播磨守へここまでの案内に礼を述べ
「公方様(家光)への礼は改めて述べよう、あなたは先に御下向あるべし、我等は心静かに拝し、その上で
下向する。」と言い、伊丹を先に退出させた。

すると政宗は、負傷した指を包ませ、何ともなく四方を眺めながら、こう語った

「御本堂にあがり拝し奉るには及ばない。ここで戻ろう。倒れるはずのない場所で倒れたこと、
指より血が出て汚らわしいこと、日光に参るのもここまであるという、お告げなのだろう」
(御本堂へあがり拝し奉るにおよばず。是より御下向あるべし。たをれまじき所にてたをるる事、
ゆびよりち出てけがらはしき事、日光へも是ばかり参れとある御つげと見えたり。)

こう言うと、政宗は「はらはらと御落涙あそばし」、御暇乞いであるとして、三拝して下向された。

木村宇右衛門覚書)

伊達政宗の最後の日光参拝についての記録である。



179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/05(木) 08:35:20.55 ID:j+ZEv0M3
>>178
老いてなおかっこいい…

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/05(木) 08:51:04.22 ID:lXh1fFMP
政宗無駄にプライド高いからな

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/05(木) 15:25:38.19 ID:VP8PoBEg
政宗の男振りは老いて尚健在なのか
現代の老害達にも見習ってほしい

愛姫、服を仕立てる

2019年08月23日 15:21

愛姫   
152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/23(金) 01:26:55.82 ID:6jODTXIu
奥方(伊達政宗正室・愛姫)は常に儀式を正しく守ろうとされ、毎年正月、五月、九月にはおびただしい
服を仕立てられた、正月は晴れ着、五月九月は衣替えのためのものである。
公方様へ献上する服をはじめ、様々な方面に進上するための服は数え切れないほどであった。

この衣服を仕立てるため、御縫い物座敷では、左側は一通り表側を縫う衆(ひだり一とをりはおもてをぬい候衆)、
右側は一通り裏側を縫う衆(みぎ一とをりはうらをぬふ)、中央は綿を入れる衆(中とをりにてはわたを入のしたたむ)、
縁側はお召のものを縫う衆(えんがはにては御めしの物ぬいしゅ)と別れていた。
そして奥方は禿衆(近侍する少女たち)を相手に、お一人で布の裁断をして、それをご自身で縫製方に配られた
(おもてうら御一人にてたたせ給ふて、御自身さしくばらせ)。

この事は、ひとえにご恩返しとしての行為であった(是ひとへに御をんをくりなり)。

木村宇右衛門覚書)

伊達者として名高い伊達政宗の装束ですが、これらの多くを正妻の愛姫が主催する工房で自ら作ってたらしい、
というお話。



153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/23(金) 19:00:53.47 ID:K4Bqm8HE
滅亡した後の大友家の姫(実際は志賀家)が長崎で養蚕を教えて桑姫として名を残したりしてるし
姫というだけあって教養や手に職を持ってるんだな

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0904/index3.html

人々御固浅まに候得は気違物にて候

2019年07月25日 18:29

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/25(木) 18:23:13.15 ID:u1VAFNKy
正宗(伊達政宗)御死去の前、大献院様(徳川家光)が御成りになった。仰せには、御若年では
あるが天下の為になる事を何ぞ申し上げよ、とのことであった。

その時に正宗は、「御政道について申し上げるべき事は毛頭ございません。憚りながら、御旅行
の時に御宿陣を、非常に御用心仰せ付けなさるようにと存じ奉ります。人々の御固めが浅いよう
では気違うものです」と、申し上げなさったという。

(御宿陣を随分御用心被仰付候様にと奉存候人々御固浅まに候得は気違物にて候(注釈:本マヽ)
と被申上候由)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 08:45:48.13 ID:TiDSc5n9
>>113
常在戦場っぽくていいなぁw

115 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 09:54:37.73 ID:wvtnv1Jv
まあ当然だよね
ゆるくしてたら民の気までゆるんで言う事聞かなくなる

脇差を御取り寄せて御覧になれば、中身は竹

2019年07月24日 16:32

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/24(水) 01:11:16.70 ID:qdiUyKEx
ある時、正宗(伊達政宗)は御夜話に登城し御酒宴は長くなったところ、正宗が御見え
申さぬので(徳川家光は)「また外したか」と仰せになった。

しかし、御次の間に脇差があったので退出仕ってはいまいとのことで、所々を探したが
見え申さず、中の御門へ聞きに遣わした。すると、とっくに退出したとの趣を言上した
ので脇差を御取り寄せて御覧になれば、中身は竹だったので御笑い遊ばされたという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



政宗「さてさて珍しきなり!紅の肩衣というものは」

2019年07月17日 15:37

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 20:50:33.27 ID:3XPLdlvt
松平陸奥守様(伊達政宗)は御合口(相手として調子のあうこと)で不意に登城し、御夜話にも
御出仕した。

ある時に御前約で出仕し、正宗は異風を好んだのでいずれも替わり装束であったという。忠秋公
阿部忠秋)も紅茶裏の御上下を召しなされた。そんな折に、正宗は御酒宴中に御次に御立ちに
なったところ、忠秋公を見なさって、

「さてさて珍しきなり! 紅の袴を着ることは往古ありきたりではあるが、紅の肩衣というもの
はこの歳まで見たことがない! 初めて一覧した!」との由で、かように興じ申されたという。
その時、忠秋公は御脇差に御手をかけ、御憤怒の様子で御睨め付けになられたという。

(原注:正宗は曲者で諸人を嘲り、その上に唾吐きを仕掛け申されたという。向かい仕る兼松某
若松又七郎か)と申す方は唾を吐き掛けられ、堪忍なりがたく扇子で正宗の顔を強かに打った
という。その時、正宗は「堪忍堪忍!」と申され、「殊勝な若者かな!」と笑い申されたという)

――『石道夜話(石岡道是覚書)』

参考
小姓衆まで裸で御給仕致した


267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 22:08:15.99 ID:+SP1oFkm
>>266
あやうく刃傷沙汰じゃねーかw

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 22:36:46.11 ID:tH1GGutY
政宗もう60くらいだろ
いいかげん落ち着け

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/16(火) 23:52:24.77 ID:G0uW+Lhr
つまり血の気からやっていた事ではなく単に面白そうだからとかカッとなったとかそんな理由ということなのか
自制心が弱くなるから年とった方がむしろヤバくなる人間

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 07:06:41.88 ID:Ga9W4yxv
政宗はよくも暗殺されなかったレベル。なかには親の敵と勘違いされて斬られてしまった人もいるのに

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 08:23:52.41 ID:THuUE6L7
>>266
>忠秋公は御脇差に御手をかけ、御憤怒の様子で御睨め付けになられたという。
煽られてプルプルしてるAAが思い浮かんだw

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 09:05:06.66 ID:jCJ77sYW
かの名老中、阿部忠秋をここまで激怒させる腐れ爺…。
阿部忠秋じゃなければ、切り捨てていたんじゃないか?

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 15:27:54.93 ID:ZijLCe+2
辱めを受けた御家人の岩松又七郎は扇子で頬先を殴り正宗に褒められたそうな
そして主人を守らなかった側にいた小姓を正宗は切腹させた

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/17(水) 15:37:43.86 ID:nRszZZgX
葉隠だと若松又七郎になってるけどどうも兼松正尾という人みたいだね

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 08:37:42.59 ID:5gA42Ipr
>>273
ひどすぎる

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 02:24:54.45 ID:z7/Ij/C3
政宗は酒が入るとやらかして後になって謝罪の書状を送ったりしてるからなw

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 11:41:02.99 ID:o6qNcdqI
(`●∀・)まあ俺という存在そのものがやらかしみたいなもんだしな

この吟味を三四郎に仰せつけられたのは

2019年06月28日 18:52

48 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/06/28(金) 18:19:00.29 ID:dyezkOlD
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8784.html
これの若干異なるバージョン

(酒井)忠勝様から伊達政宗様へ送られた書状を右筆が封じ違えており、他へ送る書状であったため政宗様は添え書きをなされお返しになった。
忠勝様は立腹され、役人を召し「すぐに吟味するように。右筆の糾明は北条三四郎に申し付けるように」とお命じになり、この書状を居間に置かれてご登城になった。
三四郎は筆跡を吟味する体を装いこの書状を焼却した。
ご退出の後忠勝様は吟味の様子をお尋ねになった。
三四郎は「筆跡の吟味をすれば筆者が誰か分かるでしょうが、(右筆のミスは)誤ってのことなので無益の吟味だと思い、書状は焼却しました」と申し上げた。
忠勝様は「軽率なことだ。しかしあの書状がないのなら吟味する手がかりもない」と仰って事が済んだ。
この筆跡の吟味を三四郎に仰せつけられたのはお考えがあってのことに違いないとご家中は感心した。

(仰景録)



伊達の子息は太郎信勝と同年である。これは不思議なり

2019年06月23日 16:46

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 01:25:56.85 ID:ISi17C3o
永禄10丁卯年(1567)に太郎義信(武田義信)自害なされて後は、信玄公の跡を継ぎ
なさるべき惣領はおられず。

しかしながら、またその年に誕生された四郎勝頼公の嫡子を信玄公は養子になさり、吉田左
近助(信生)を御使として御曹子を太郎信勝(武田信勝)と名付け参らせられ、武田の重代
(家宝)である行平の御太刀・左文字の御腰物を譲り、武田28代目と定められた。

子細は、四郎勝頼公の母は諏訪の頼茂(頼重)の娘、勝頼公の御前は美濃国の岩村殿という
織田信長の姨(おば)の息女(龍勝院)である。「四郎の父はいやしくも信玄であるから、
例えどこへ頼ろうとも、これは然るべきことだ」と仰せの事により、信玄公の跡目にと今の
御曹司を定められた。

(勝頼公御前は美濃国岩村殿とて織田信長姨の息女也、四郎が父は苟も信玄なれば、いづか
たへたよりても是は然るべしとあるの儀にて、信玄公の跡目にと今の御曹司を有之)

そうしてこの太郎信勝は7歳で信玄公と離別参らせられたので、信勝21歳までの15年間
は父の勝頼公が陣代となされたのである。(中略)

また奥州より、高崎織部と申す牢人がこの頃甲州へやって来た。この人の物語りによると奥
州の侍大将・伊達(輝宗)の子息(伊達政宗)は太郎信勝と同年である。これは不思議なり。

(政宗は)万海という行者の生まれ変わりで、その事の成り行きはまさしくその通りとの話
を奇特と存じて、紙面に表す。

(奥州の侍大将伊達が子息に太郎信勝と同年なる是れは不思議なり、萬海と云ふ行人の生れ
がはり、その首尾まさしく候由奇特と存じ紙面にあらはす)

後の考えのためにこのようにするのであると、高坂弾正これを書く。(後略)

――『甲陽軍鑑(品第四十下 石水寺物語)』

「いづかたへたよりても」に難しい判断を感じる



189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/23(日) 07:58:39.53 ID:Yd8e5GYv
武田家の跡取りってかなり大変そうだ
信玄も各武将も優秀すぎて

191 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/24(月) 13:09:15.22 ID:DJIUpD3b
>>189
晴信が板垣や甘利を失ったように合戦で殺せばええんやで

【ニュース】政宗と有楽斎、親密な証し

2019年03月21日 18:03

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 17:57:21.50 ID:nRNRXshP
政宗と有楽斎、親密な証し 河北・永昌寺所有、2人交わした書状と判明 山形新聞2019年03月20日

河北町の永昌寺(布川昱哉(いくや)住職)が所有する仙台藩主・伊達政宗の書状が、織田信長の弟で茶人の
有楽斎(うらくさい)に宛てた物と判明した。政宗と有楽斎が交わした書状は全国で2通発見されており、これで
3通目となる。解読した鈴木勲町郷土史研究会長は「2人の親密な関係が伝わる貴重な史料だ」とし、その価値を
県内外に広めたいと話している。

書状は布川住職が主催する茶会の掛け軸として、約20年前に東京美術クラブで手に入れた。政宗が書いた物だと
いうことは分かったが、宛先や内容が分からなかったため、長らく押し入れにしまっていた。
昨年末に鈴木会長が寺を訪れた際に、布川住職が解読を依頼。宛名や特徴的な花押などが手掛かりとなり、政宗から
有楽斎に宛てた手紙だと分かった。入間田宣夫東北大名誉教授(日本中世史)にも鑑定を依頼し、本物とのお墨付きを得た。

書状は縦約32センチ、横約41センチ。「羽越前正宗(政宗)」とあることから、1591(天正19)年~1602(慶長7)年の6月に書かれた物とみられる。
内容は有楽斎が政宗の元を雨の中訪れたことへのお礼で、政宗は書家としても知られ、流れるような筆跡からは趣が感じられる。


伊達政宗の書状 解読文】
            外不申候
             かしく

即御撚、却而御隔心之至候
 (手紙を頂いたが、かえってもどかしく思う)

誠ニ今日者、御出雨中と申
 (そう思っていたところ、きょうは雨の中おいでいただき)

何之興無之候処、緩々と御
 (何のお構いもできなかったが、ゆっくり打ち解けて話ができてとても良かった)

咄候而、外実共辱次第、書餘以
 (書面に書けなかったことは)

拝面御礼可申候、恐惶謹言
 (直接お会いしてお礼申し上げたい)

林鐘廿日    〈花押〉

     (6月20日     政宗)

http://yamagata-np.jp/news/201903/20/kj_2019032000350.php?keyword=%E4%BC%8A%E9%81%94%E6%94%BF%E5%AE%97

正宗と政宗の書き間違い、誤変換はよくあることですが
本人もそう書いてんならいくら間違っても許されるよね?

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 18:46:58.98 ID:nRNRXshP
署名の「羽」ってつい出羽の方かと思っちゃったけど、羽柴の方だったのね

>官位履歴[編集]
>天正19年(1591年)3月 - 侍従に遷任し、越前守を兼任。羽柴の苗字を関白豊臣秀吉から授かる[23]。
>慶長2年(1597年) - 従四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。越前守如元。
>慶長13年(1608年)1月 - 陸奥守を兼任。越前守任替。松平の苗字を第2代将軍徳川秀忠より授かる[39]。



ちなみに山形新聞のサイトはパソコンから閲覧すると無料ですが、スマホからだと登録制有料になるという仕組みなんでご注意を



738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/21(木) 21:12:05.59 ID:v8i+Zr09
政宗が他の大名から「政宗なら正宗の脇差持ってるよな?」とからかわれて
正宗じゃない刀を正宗てことにして脇差にするために削った話を思い出した

この時の政宗の行装美麗を尽くし

2019年03月18日 17:35

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/18(月) 08:34:58.63 ID:hnlS8kPs
寛永三年、台徳院様(徳川秀忠)御上洛の時、伊達政宗の従僕たちは美々しき衣類を着ており、
この時都に集まった諸国の人々と非常に違っていたため、当時、風流の人を見ると『伊達者』と
言い習わしたという。

この時の政宗の行装美麗を尽くし、真紅の糸を以て馬轡を作ったという。これにてその他も
推して知るべし。

(安斉随筆)

江戸時代から、伊達者の政宗語源説あったのね。



政宗が無理に取ってしまいました

2019年02月07日 09:40

725 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/02/07(木) 00:59:18.95 ID:3cF+4286
元和六年二月五日付
長舟十右衛門宛 細川忠利書状より

吉田にていただいた水差しですが、政宗(原文ママ)が無理に取ってしまいました。
不便で迷惑しております。
もし国産の水差しができましたら、一ついただきたく思います。
いつもいただいている御道具で数寄を嗜むことができ、忝いことです。

伊達政宗細川忠利から水差しを奪っていたという話。



726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/07(木) 05:35:29.89 ID:RuVOwh95
呼び捨てw

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/07(木) 14:25:34.01 ID:lGDi4mrv
>>725
ワロタw

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 10:11:00.86 ID:JqmSKtn5
DQN四天王迷惑w

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 10:27:57.27 ID:daUYsr3e
中に小便を入れて返すまでがデフォ

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 12:04:18.83 ID:CuHW1AF+
>>725
こいついつも人の物パクってんな
732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 23:42:54.67 ID:WGPZr6ec

>>725
ここは喧嘩両成敗ということで半分にして双方で持とう

どこもかしこもみなやけ申候

2019年01月05日 18:20

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:11:35.24 ID:+NkA4Ls3
どこもかしこもみなやけ申候


以下は元和7年1月に江戸の徳川義直の新邸から出火した火事について
13歳の池田光政が国元にいる父・利隆の乳母・栄寿尼に報じた手紙。

________________________________________

一ふて申し参らせ候。
こゝもと正月廿四日のなゝつぢぶんからおわりのちうなごん様(徳川義直)、
なへしま(鍋島)、くない(池田忠雄)、扨、まさむね(伊達政宗)、もりいまさか(森忠政)、
おれかやしきはかりやけす候、さこん殿(池田輝澄)、うきょう殿(池田政綱)、
てらさはしま(寺沢広高)、廿四日の七つちふんからひるの四つしふんまてやけ申候、
どこもかしこもみなやけ申候めてたく、かしく。

   正月廿四日        新太  幸隆(花押)
      うはゑいしゅ 参

     おわり(尾張)     みと(水戸)       きの(紀州)
       △            △            △
              このふたついゑはのこり候

めんめんに文にてもかへすかへす申候、はんすれとも
いそかしく候間まつ此むきにて候、かしく。
________________________________________

大名屋敷が25軒も燃える大火事で他にも上杉、毛利、島津などが焼けたらしい。



567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/04(金) 21:35:36.19 ID:0RJw0w3F
子供にまで"まさむね"と書かれるのか

慶長18年ローマ法王宛、伊達政宗書翰

2018年12月31日 17:59

610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 05:28:17.14 ID:tCCcIX7y
慶長18年ローマ法王宛、伊達政宗書翰

広大な世界における御親、五番目のはつは はうろ様(パウロ5世)の御足を、日本における
奥州の屋形、伊達政宗、謹んで吸い奉り申し上げ候。

我が国においてサン・フランシスコの御門派の伴天連、フライ、ルイス、ソテロが、貴きデウスの御法を広めに
御越しの時、我らの所に御見舞にこられました。その口よりキリシタンの様子、何れからもデウスの御法の事を
承りました。それについて思案するほど、殊勝なる御事、真の御定めの道であると存じました。
それに従って、キリシタンになりたいと考えましたが、現在それは仔細あって、未だ成せない状況です。
ではありますが、私の分国中おしなべて下々までキリシタンに改宗するよう勧めたく、このために
サン・フランシスコの御門派の内に、わうせれはんしゃ(オブセルバンシャ:サン・フランシスコ派の一派)の
伴天連衆が御渡り下されます事が、何様にも殊勝大切と存じます。その伴天連衆には、万事に付、許認可の
権限を許されて派遣して下さい。彼等には我ら自身が寺を建て、万事に付き御馳走申します。

我が国の内において、貴きデウスの御法を御ひろめに成るためには、そうすることが良いと考えられる程の
事は、相定め預かるため、別して大いなる司(大司教)をお一人定めて下さりますように。そのように
いたせば、直ぐにでも皆々キリシタンに罷り成ること確実と考えます。
我々は如何様な申し出でも承りますので、御合力の事は少しもお気遣い無いように。これについては、
我々の存念は、このフライ、ルイス、ソテロ等が存じておりますので、それを貴老様(パウロ5世)御前にて
申すことを頼み入り、我々の使者として定め、渡海しました。彼等の言うことをお聞きになりますように。

このフライ、ソテロ等に差し添えて、我が家の侍である支倉六右衛門尉(常長)と申す者を、同使者として
遣わせました。私の名代としての御従いの印、御足を吸い奉る為に、ローマまで進上しました。
この伴天連ソテロ、途中の路にて突然果てても、ソテロが申し置いた伴天連を、同じように我々の使者と
思し召され派遣して下さい。
私の国とエスパーニャ(スペイン)の間は近国でありますから、今後エスパーニャの大皇帝とん・ひりつへ様
(フェリペ3世)と話し合い、その調整をして下してください。伴天連衆の渡海が成るよう、頼み奉ります。

なお、私の事については、貴きデウス天道の御前において、御内証にされますよう頼み入ります。なお
この国において如何様の御用であっても仰せ付けて下さい。随分に御奉公申し上げます。
そしてこればかりではありますが、日本の道具を恐れながら進上仕ります。なおこの伴天連、フライ、
ルイス、ソテロ及び六右衛門尉が口上にて申し上げます。その口上次第に成ります。
早々恐れ入り候。誠恐誠惶、敬白

                    伊達陸奥守(花押)
   慶長十八年九月四日             政宗(印)


伊達政宗、慶長六年(1601)四月二十一日付書条

2018年12月21日 22:38

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/21(金) 08:42:56.71 ID:c/bw3w7S
伊達政宗の有名な書条訳してみた

伊達政宗より今井宗薰に與へたる書(慶長六年(1601)四月廿一日)

 追って飛脚にて申し上げます。さて庄内についてですが、昨冬最上に加勢した時、庄内衆も打ち出たのを、谷地と申す所に
庄内の城主取り籠め、命ばかりの体となり、懇望し、罷り出たため、庄の城も明け渡しました。しかる所に、川北に東禅寺と申す
城持ちがあり(志駄義秀)、これと交戦するため城を囲みましたが、かねてから最上の衆が少々遣わされており、合戦に及ばず
明け渡し、これによって庄内は悉く平定されました。
一昨日は山形より修理殿(最上義康)の飛札を預かりました。修理殿が今回のことで熱心に働かれた事、一方ならぬものでした。
この事は報告されるべきだと思います。

 このように庄内が平定されたのも、去る冬に我々が最上に加勢し、庄内城主のしも(下秀久)と申す者を押さえて置いた故です。
また修理殿の働きの顕れでもあります。それぞれの人々に詳しく伝えてはおりませんので、貴老より物語頂けますように。
出羽守(最上義光)の時代では中々このようにはかばかしくは行きませんでした。不思議なことです。

一、伏見に皆々お越しに成ったとのこと、珍重です。この上は大坂の御用心こそ重要だと、私は考えています。
  直接には(家康は)どのようにお考えに成っているのか、本多正信などにも良き折にお尋ねください。
一、とにかく私の願いは、秀頼様が幼少の間は、江戸か、もしくは伏見でも、内府様(家康)のお側でしっかりと置き、
   大人らしく御成人されたなら、その時はいかようにも内府様御分別次第に御取立もなされば良いという事です。
   又、いかに太閤様御子だといっても、日本の統治を行えるような人物で無いと内府様が判断されれば、二、三カ国を
   与えるに留めるべきです。秀頼様の今後の進退を長々と放置していては良くありません。
   今のように大坂にぶらりと置いておけば、時分によって世を乱そうとする者が出てきて、秀頼様をその盟主とし、
   謀反など起こすでしょう。それ故に何も知らぬ秀頼様を切腹させることに成れば、太閤様の亡魂の為にも、
   悪しきことと存じます。
一、私としては、さしあたってこの意見だけでも申し上げたく、第一秀頼様の為でもあると考えています。本多正信などに、
   戯言のようにでも、是非お話下さい、
一、大納言様(徳川秀忠)が江戸に下向されるのを待っています。
一、伏見に女房たちが早々に越してくるようにと、両人の所に申し遣わしました。それについて萬々御意見を頂けますように。
一、五月五日の帷子など、進上して頂けますように。各々へも進上するようにと申し遣わしました。

 丁度今、馬の調練をしてきたため、どうにも手が震え非常に読み辛い文章になってしまいました。どうか他見されませんように。
 恐惶謹言

 四月二十一日           政宗(花押)
   宗薰老へ(河内觀心寺藏)



591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 13:30:51.71 ID:4szgCXxf
>>584
慶長出羽合戦のあとか東北の人は長距離移動してて大変だな
今井宗薫はなぜそんなに政宗に片入りしてたのかね

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/23(日) 14:52:36.78 ID:Os2XX0rx
>>584
これと同じ日の1601年4月21日付今井宗薫伊達政宗書状がもう一通あるよね
そっちでは政宗が諸大名の妻子は江戸に住まわせるべき
箱根や足柄に番所を置けばさしずめ広い籠の中にいるみたいなものだ
手始めに私から妻子を江戸に送りましょうかなんて言ってる

此大帝國(日本)に属する歳入

2018年12月11日 17:12

552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/10(月) 21:02:33.37 ID:ldA590QC
最後に、此大帝國(日本)に属する歳入に関しては、フランシス・カイロンの取りたる日本の王公の歳入の公記によりて明なり。
歳入は日本風によればコキーン(Cockiens 古金?)を以て算ず。一コキーンは佛貨一クラウンに富る。

フランシス・カイロンが此地に住せし時は、最大の歳入を有せしエムペロル(将軍家)に次ける者はカンガ(Canga 加賀)、ゼッチュー(Zetchiu 越中)、
及ナッタ(Natta 能登)の王にして、カンゴナチューナゴン(Cangono Tsiunagon 加賀中納言)と称し、ランガ(Langa)城に住せり。年々の収入は
黄金百二十噸(トン)を下ること無かりき。(黄金一噸は一萬磅(ポンド)なり。)

スルガ(Suruga 駿河)、トト(Toto 遠江),ミカワ(Micauwa 三河)の國の王、スルアンゴダイナゴン(Suruango Daynangon 駿河大納言)は、
ファィチュー(Faytsiu 府中)の城塞に住す。オワリ(Owary 尾張)及ミノ(Mino 美濃)の両國の王オワリノダイナゴン(Owarino Daynangon 尾張大納言)は
ナンガイ(Nangay 名古屋)の城塞に住す。各年々七万磅を有せり。

マサニネ(Massanine)及オーチオ(Ochio奥州)の王センダイノチューナゴン(Sendayno Thiunangon 仙臺中納言)は堅固なるセンダイ城に住し、
年々黄金六十四噸以上を有す。

サツマ(Satsuma 薩摩)、オシナ(Ossina 大隅)、ヒューゴ(Fiungo 日向)及ルチオ(Luchio 琉球)の王サッマノンチューナゴン(Satsumanon Thiunangon
薩摩中納言)はカガシマ(Cangasima 鹿児島)城に住し、年々六万磅を得。

キノ(Kino 紀伊)及びイセ(lche伊勢)の王にしてワカヤマ(WakaJamma 和歌山)の城を支配するキノクニダイナゴン(Kinocouny Daynangon 紀州大納言)は
年々五十五万磅を有す。クマモッテ(Knumamotte 熊本)城に在るヒゴ(Fingo 肥後)のカットー・ヒゴノカミ(Catto Fingonocamy 加藤肥後守)及
フカサ(Foucasa 福岡か)城に在るスンキセン(SunKicen 筑前)のマツェンデイロ・エムノスコ(Matsendeyro Iemnosco 松平右衛門佐:黒田忠之か)及
オエクデ(Oecde)の城塞を守るエチェセン(Ietchesen越前)のマツェンディロ・イノカミ(Matsendeyro Inocamy松平伊予守?:松平忠昌か)の諸王も
大抵同様の収入あり。

ハギ(Fangy 萩)城に住するソヴァ(Sova 周防)のマチェンデイロ・ナガト(Matsendeyro Nangato 松平長門)、及ミト(Mit 水戸)の城塞に在る
ヒタイツ(Fitayts 常陸)のミトンスチューナゴン(Mittons Thiunangon 水戸中納言)、ロギオイス(Logioys)城を支配するヒジェン(Fisien 肥前)の
ナビシマシナノ(Nabissima Sinano 鍋島信濃)、タカハム(Takaham 高濱)城塞に在るイナバホキ(lnabafoky 因幡、伯耆)のマチェンデイロ・シンダイロ
(Matsendeyro Sindairo 松平新太郎:池田光政か)は年々三十一磅を収む。
其他第二位の諸侯、即ち候に富るもの、第三位の諸侯即ち伯に當るもの等、以下差異あり。
(モンタヌス日本誌)

ここでも政宗だけマサムネ(マサニネ(Massanine))なのか。地名と勘違いされてる気もするが。



553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/10(月) 22:57:00.38 ID:Ir5UCqmt
このアルファベット表記によって読みが確定した地名人名が多くて記録としてありがたい

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/10(月) 22:57:00.38 ID:Ir5UCqmtこのアルファベット表記によって読みが確定した地名人名が多くて記録としてありがたい

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/11(火) 19:36:54.06 ID:wAqoyPCo
「紀州大納言」は「きのくにだいなごん」だったんだな。

伴天連関係の資料は興味深い。

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/11(火) 20:57:53.12 ID:VBgdkID0
>>554
国内のしがらみに左右されない、ある意味客観的な資料だしな
キリスト教の教義に基づく偏見はあるにしても

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/11(火) 23:07:06.81 ID:OUa8tKsd
>ロギオイス(Logioys)城
>オエクデ(Oecde)の城塞

ドラクエかな?

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/12(水) 10:22:47.72 ID:B4YntS6f
佐賀と福井の筈だがどうしてこうなった

ニュース【ミス・ワールド日本代表に伊達政宗直系21代目の伊達佳内子さん】

2018年08月29日 18:58

233 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/08/28(火) 22:11:02.89 ID:EvVT2odV
ニュース【ミス・ワールド日本代表に伊達政宗直系21代目の伊達佳内子さん】
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180828-00000036-tospoweb-ent


自分に政宗の血が通っている部分については「負けず嫌いなことと、眉毛が太いことでしょうか」

「負けず嫌い、眉毛が太い」
「負けず嫌い、眉毛が太い」
「負けず嫌い、眉毛が太い」



234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 23:17:27.94 ID:0m4UqgFR
>>233
この娘さんに「寝るから起こすな」と言われたのに起こしたりすると
寝起きが悪くて刀片手に追いかけ回されたりするのかな

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/29(水) 00:19:31.10 ID:j2Tx7DuF
>>233
父系だと空気な加藤さん、母系で政宗に繋がるけれど十数代目・・・
父親の名前だけを頼りにした調査が正確ならこの結果

まぁ江戸期以降の名家には違いないけれど

伊達ノ士濱田治部ノ忠勇

2018年08月05日 18:06

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 21:46:26.95 ID:c/zRkiu+
伊達ノ士濱田治部ノ忠勇

伊達政宗は能士を持たれた人である。浜田治部は武功ある者であった。政宗が会津表へ出陣なさった時、
家康公より御使者をもって「早く会津表を引き払い、岩手沢へ帰陣されよ」と御指示があったので、

政宗は家老の片倉備中(景綱)を呼び、「白石城を攻め落としていながら捨て退くのもいかがなものか。
かといって城代を残し置くのも危うい。どうしたものか」と仰せになった。

これに片倉が「近ごろ、白石城に置かれている浜田治部を召して城代を仰せつけると良いでしょう」と
申したことにより、政宗が「浜田を呼び出して言い渡せ」と仰せになったので、片倉は畏まって治部に

言い渡され「白石城において貴辺の武功が優れていることにより、かの城に留め置かれることになった。
此度、内府公の御下知により岩手沢へ御引き取りなさるようにと議定された。これによって白石城を

捨て置くのも口惜しき御事なれば某に守らせるべきかといえども、諸事を御相談のうえで某は召し置かれ
がたいとの仰せである。そこで、御辺をかの城に留め置かれるとの御内談である。望み申す輩も多き中で
御辺がこの城に留まることは武士の本意であろう」

と片倉は浜田に申された。この時、政宗も「近頃の無理な所望ではあるが、他に残し置くべき者もいない
ので其の方が白石の城番を勤めてくれよ」と申された。治部はこれを承るも、「人多き中で若輩の某を

召しなさり、敵地に残し置かれるとは冥加に叶ったことではございますが、もとより不肖の某ですから
どうか功者を残しなさって、某はその指図を受けて城を守り申したく存じます」と言った。

しかし、政宗も片倉も同音に「ただ其の方一人しか留まるべき者はいない」とのことだったので、治部は

「このうえは仰せに任せます。敵がもし攻め掛かってきたなら突き出て討死するか腹を切るまでのこと。
何よりも易きことでございます。このどちらも苦しからぬことですから畏まり申した」と、申し上げた。

政宗は聞きも終わらぬうちに「突き出るのは謀のないようなものだ。堅固に城を持ち抱えて叶わなければ
腹を切ってくれよ。三日籠城してくれれば私が後詰する。愛宕八幡も照覧あれ、見殺しはしない」

と仰せになった。治部はまた返答申して、「某を救うために御出馬されれば内府と御誓約を違えましょう。
ただ御捨て殺しくださるとのことならば御受け申し上げます」と言った。

これに片倉備中が聞きも終わらぬうちに、「そちはそち、殿は殿の勤めをなさることだ」(そちはそち、
殿は殿の勤め有べし)と言うと、浜田は了承して退出したということである。

――『日本戦史 関原役補伝(校合雑記)』


お陰を以って天下に面目を

2018年06月14日 18:18

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/14(木) 17:07:32.39 ID:MnYHqCft
天正19年(1591)、豊臣秀吉は隠居し、天下並びに聚楽城を猶子である三好中納言秀次へ譲った。
その官位昇進のため、同年12月28日、秀吉秀次以下天下の諸大名は、位次第に車にて参内を
することとなった。

この時秀吉は、蒲生氏郷の次に伊達政宗、その次に山形出羽守(最上)義光と定めた。
ところが氏郷は御前に進み出て

「山形(最上)は源氏の縁であり、その上政宗にとっては母方の叔父にあたります。
政宗の後にすべきではありません。」

このように申し上げたところ、秀吉も「そういう事なら」と、最上義光を政宗の前に立てた。

これを知った義光は謹んで氏郷に申し上げた
「お陰を以って天下に面目を雪ぎました。この御恩はいつの世に忘れることが有るでしょうか。
氏郷殿御一代、それがし一世の間に、会津に何事か有れば、その御用に立ちましょう。
その証拠として人質を進上しましょう。」

それより子息の一人駿河守(家親)を、氏郷の生きている間は差し置いた。

(氏鄕記)



11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/14(木) 17:10:00.88 ID:NpoWDhvU
氏郷が、最上家の取次だったのかな。わざわざ人質まで送るとは。

セキレイの目

2018年06月13日 17:53

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 16:12:05.73 ID:jXBncqBZ
葛西大崎一揆が終結すると、蒲生氏郷は二本松城へと帰陣した。ここで秀吉より派遣された
浅野長政と対面した。長政は「今回の働きは大変な誉れでした」と氏郷を讃え、今後のことを
相談し、先ずは伊達政宗より取った人質を連れて上洛し、今回の事態に至った経過を申し上げると
決まった。去年のうちに出した飛脚も京都に到着し、豊臣秀吉は浅野に加えて石田三成をも
会津に下すとの事であった。

このような所に、何を思ったのか伊達政宗が「私もあなた方と相伴して上洛したい」との旨を
二本松に伝えてきた。両人は「一段然るべし」とこれを許諾し、先に浅野長政が出立し、
その次に伊達政宗が立った。氏郷は「この上は必要ない」と、政宗からの人質を返した。

しかしこの時の政宗の風情は聞くも恐ろしいものであった。死に装束の出で立ちで、金箔を貼った
磔ものの杭を馬の先に持たせて上洛したのだという。

政宗の後に氏郷も出立し、上洛すると秀吉の御前にて一揆の様子を順々に申し上げ、並びに
政宗の家来であった山戸田八兵衛、牛越宗兵衛が持参した、葛西大崎一揆を政宗が扇動した
証拠となる證文を渡した。
秀吉は氏郷に「今度の手柄に勝ることはない」と激賞し、「こんな事があるかも知れないと思って、
御辺を名代として会津に置いたのだ。」と語りかけた。

その後、政宗への尋問が行われたが、政宗は
「今度逆心を起こした山戸田、牛越と申す者たちは、彼らが幼少の頃より身近くにあり、
また祐筆も申し付けていたので、今回は私への恨みのままに、偽判をしてしまったのでしょう。」
り申し上げた。これを聞いた人々はみな「嘘くさい言い分だ(実しからぬ云分かな)」と言ったが、
政宗は
「疑われるのなら、その判を御見せ候へ」
と請うてこれを見ると

「さてこそ、これは偽判です。私の判は、セキレイの形を模しておりますが、これには、その目が
ありません。本物の判には目が付いています!」

そう陳述した。これにより秀吉は、諸大名小名を詮索し政宗の書状を取り寄せたが、それらには全て、
確かに目が付いていた。
伊達政宗の謀は非常に奥深いものだと感じられた。

これによって言い分が一つ立ち、また秀吉としても、政宗がこのように京都にいる以上
おかしな動きはできないと、再び柔和を加えて、政宗は京都に押し止め、長く在京させたのである。

(氏鄕記)

有名な「セキレイの目」の逸話



855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 17:08:15.98 ID:NO0axVvC
一応、言い訳はできたけど、信用はされなかったわけね。政宗自身が人質になったようなものか。
しかし、よく取り潰しにならなかったなあ。もっと薄弱な理由で改易された大名は多かろうに。
秀吉を機嫌よくすれば勝ちなのだろうか。

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:37:04.33 ID:EXL6zAuI
その後、ラスボスのお気に入りになったからな。なにかを感じたんだろうw

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:49:34.96 ID:9Iw3leKK
伊達家潰して新たな騒動の火種を作るより火中の栗を拾わせたほうがマシってことじゃね

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 19:59:59.61 ID:TpbmBOju
>>856
お気に入りと言っても、減封の上さらに僻地に転封し、その上、中央の政局には一切関わらせないようにしたわけで。

関ヶ原まではプライベートで叫んでいるだけの存在。

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/13(水) 20:28:35.17 ID:EXL6zAuI
東北勢みんなそうやろ。

給人衆頭の討ち死に

2018年01月17日 16:18

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/17(水) 03:14:57.92 ID:eUuC9HcM
大阪での合戦の折、伊達政宗の配下において、給人衆百人の頭である草刈源内秋保掃部という者たち
両人が討ち死にに及んだ。

帰陣後政宗は、この事に憤慨した
「給人衆の内、頭両人を討たせて、組の者が一人も損なわれなかったというのは、組の奴原が
不覚と言うべきである!百人とも今後の見せしめとして、皆殺しにせよ!」

この時、「両人の討ち死には私の責任です」と、給人衆の内の、丹野善右衛門が申し出た。
彼はこのように言った

「川向うに味方の備があったのを、源内が敵と思って攻めかかりました。
私は給人衆の組頭ですが、彼にこう言いました。『和殿は何に目がくらんで、味方を敵と見間違えるか』
そうあざ笑ったため、源内は怒り私を斬りつけようとしたのを、秋保が身を乗り出し、
間に入って二人を隔てたため事なきを得ました。

しかしこれによって心が急いてしまったのでしょう、源内は無二に敵陣に乗り込み、討ち死にをしました。
秋保も続いて乗り込み、討たれました。

この事は私の誤りのためですから、皆の代わりに私一人を罪科に処せられるべきです。」

これを聞いて政宗は、百人の罪を許した。
しかし政宗は一生、城下のうち給人衆の住む街を通ることをせず
「不義非道の奴原にて、主人頭を見殺したのだ!」
そう憎んだという。

給人衆とは伊達家の言葉で、他家でいう足軽の類の事である。

(士談)



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/17(水) 07:20:49.18 ID:cwSBNEqI
大人になったな、政宗