陸奥守政宗は三方を頭に被って踊り申された

2017年09月30日 22:11

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/30(土) 02:43:45.97 ID:PbrYLDou
大献院様(徳川家光)は名誉な公方様でござった。御一代の内に御鷹狩をされ、
ならびに島津家へ仰せ付けなさり、犬追物を上覧された。

また安宅丸を仰せ付けなさり、諸大名を召し集められて御遊覧などをなさった。
大方、太閤秀吉の気風を御慕い遊ばされた御様子である。

その安宅丸御遊覧の時、諸大名が舞いを仕るなど、色々の音曲がござった。

松平陸奥守政宗(伊達政宗)は御酒宴のうえで三方を頭に被って踊り申された
という。興に思われる趣のあることであったとの由である。

松平越後守殿(光長)や新太郎殿(池田光政)もその座に御出の方で、以後に
相公様(前田綱紀)へ御参会の折に度々直に御物語りを聞こし召されたとの由、

同年(享保7年)1月12日に仰せになった。

――『松雲公御夜話』



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仙台では政宗生誕450年をお祝いしていたのに

2017年09月02日 21:10

199 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/02(土) 09:09:40.71 ID:LylpQUao
仙台では政宗生誕450年をお祝いしていたのに
http://imgur.com/ijijVa4.jpg
http://imgur.com/qB9oIlP.jpg
ijijVa4.jpg

qB9oIlP.jpg

生誕地の米沢では全く何もしていなくてギャップが面白かった
https://i.imgur.com/0Eb9VE7.jpg
0Eb9VE7.jpg

そして19人目に、

2017年08月04日 09:29

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 09:19:48.91 ID:im8VIwth
伊達政宗が、小田原に出馬した豊臣秀吉に謁するため向かった間、会津の留守は伊達成実に任された。
この留守の間、二、三夜ほど会津が以ての外に騒動した。『会津の内に心変りの者があって、越後の人衆を
引き入れる』との噂が広まったのである。この事を実尺という山伏が成実も告げたが、成実は
「一体何者がこれを言っているのか」と尋ねた。実尺は「世上隠れなき噂ですので誰とは特定できません。」
と答えたが、成実

「ともかく一人づつ名指ししろ。さもなくば汝を罪科に問う。」

このため山伏は、そう言っていた人間を一人づつ語り、成実は順次これを改めていった。
そして19人目に、伊藤七郎という者の屋敷に仕える下女にたどり着いた。

伊藤七郎は政宗の小田原行きに従っていた。そしてその屋敷の門の脇の長屋に、なにがしと言う若党が居たが、
彼が槍を持って広間から出てきたのを、かの下女が見て「さては何事かあったのか!?」と、この事を
出入りの魚売りに語ったというのだ。この話が広まり、そこに尾ひれがついて会津中の騒動になったと
考えられた。

これによって、成実はかの下女を成敗し、当面の戒めとした。

(士談)



35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 09:27:51.57 ID:pSJEYCRn
成敗しちゃったの!

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 09:33:34.04 ID:YjmFAJXA
おおごとにならないうちにな

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/04(金) 10:45:29.34 ID:wElgxufl
性売!

勇者の思い

2017年06月17日 10:00

岡左内   
37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/16(金) 20:39:16.21 ID:5Rqe2+am
関ヶ原の役の時、奥州において上杉景勝伊達政宗取合の時分、景勝勢は福島より二里出て
政宗と戦った。

この時。北川図書という者、元は蒲生氏郷に仕えていたが、氏郷没後は景勝に属し、
景勝より桑折の地を与えられ、その頃郡図書と名乗っていた。

図書はこの合戦で討ち死にを覚悟し、朋輩である岡左内に頼んだ。
「私の陣羽織を息子の久兵衛に遺したいので、討ち死にの際にはこれを遣わしてほしい。」

左内は受け取り、後に図書の子・久兵衛にこれを渡した。図書は討ち死にしたのだ。

この事について、後の人は様々に評した。
ある人
「同じく戦場に臨んで、我も人も必死をこそ旨とすべきなのに、どうして自分が必ず生き残ると思い、
人の形見を請け取るなど有るべきだろうか?」

これに対して、傍らに居た人が言った
「そうではない。互いに言い交わし話し交わした心友の間で、その人を見込んでこう言っているのに、
請け取らないということが有るだろうか?
自分が必ず生き残るから、受け取って渡す、と言っているのではない。彼の形見を我が預かり、
我が形見を彼に預けるというのは、勇者の思いを込めた行為というべきではないだろうか。」

この岡左内という人物は、後に越後と称し、類まれなる勇士で、数度の戦功を成した。
この時の戦でも、川中で伊達政宗と太刀打ちして、自分の猩々皮の羽織に、政宗の太刀傷二ヶ所まで
受けたと言われている。
彼も蒲生氏郷に属して、後に景勝に仕え、その経歴もあって北川図書と親しんでいたとか。

北川図書の子孫は、今も加賀太守(前田家)の家中にあるという。

(士談)


ある時、皇寛と申す唐人の話に曰く

2017年06月01日 12:24

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 04:08:34.17 ID:yPT0Gczf
ある時、皇寛と申す唐人の話に曰く、

「それがしが国にいた時、ここかしこで物心の付いた小倅などは、誰が教える
ともなく政宗公(伊達政宗)と聞いては物事に恐れをなし申した。

未だ幼き子供がその母の懐に抱かれて嘆いているのを何と慰めても止まない
時に、母が怒って、

『日本の政宗が只今この国へ来るそうだぞ! 嘆くのを止めなさい! 泣いて
政宗に捕まるな!』と制すれば、

(日本の政宗、只今此國へ来ると云ふぞ、なげきを止めよ、泣きて取らるるな
と、制すれば、)

その子はすぐに泣くのを止め、流れる涙を止めて、むしろ母に取り付き、顔を
隠して恐れ申す」とのことあった。古今御座無き御事かなと、感じ奉る。

――『命期集』



809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 10:43:21.09 ID:ZxIfVxi9
正宗って文禄の役で朝鮮行ってたんだな。

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 11:03:46.49 ID:MAtG1P6q
張遼じゃあるまいし

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/01(木) 12:38:29.46 ID:79OXoLCr
史料の性格が知りたいところだ

中里介山「大菩薩峠」の「伊達政宗と細川忠興で半分こ」

2017年05月30日 18:10

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/30(火) 15:31:13.86 ID:RaAvraES
伊達政宗=文化財クラッシャーってことで王羲之の書をまっ二つにしたことがネタにされてるけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-376.html
「伊達政宗と細川忠興で半分こ・いい話?」

>政宗と忠興と言えば、朝鮮出兵時に漢陽(ソウル)の王宮で見つけた
>王義之の書(写本)を取り合って、結局山分けして半分ずつ持ち帰った話が
>2人らしいエピソードで印象深い

中里介山「大菩薩峠」を読んでたらこのエピソードが載っていて、その内容は
細川三斎の部下甲がソウルの王城で王羲之の孝経(李世民親筆の序つき)を見つける。
伊達政宗の部下乙もそこに来て、甲に伊達に譲るよう言うが、早い者勝ちということで甲が自軍に持って帰る。
→乙から聞いた伊達政宗が細川三斎の陣を訪れて、王羲之の孝経を見ようとする
→細川三斎が「このままでは政宗に持っていかれる」と思い、政宗に両家の結婚話を出す。
→政宗が両家の婚姻を承知する。
→細川三斎が王義之の孝経を2つに裂き、両家が一つずつとり結納代わりとする。
この後
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-845.html
のとおり、細川宗孝が板倉勝該に人違いで斬殺された際に伊達宗村(小説では父親の吉村)が機転を利かせて
細川家取り潰しを回避し、恩を感じた細川家から王羲之の書が伊達家に与えられ、王羲之の孝経がもとに戻る。

てことになっていた。
これだと三斎様のほうが文化財クラッシャーになってしまうけど、もともとの話ではどうだったんだろう。
中里介山の創作がここで戦国エピとして語られたんじゃなきゃいいが


その勇功といい義を守ることといい

2017年05月02日 18:07

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/02(火) 14:23:41.27 ID:GWMsMAq8
天正18年に、蒲生氏郷豊臣秀吉より奥州会津を賜り、木村伊勢守(吉清)が葛西大崎を賜った。

その冬、木村の領分にて一揆が蜂起したとの知らせが氏郷の元に入った。
氏郷は雪中にも拘わらず、急ぎ妙佐沼へと救援に向かった。
この時、この一揆は伊達政宗が起こしたものだという風聞があった。

氏郷は速やかに出陣して所々の一揆を追い落としたが、ここに新国上総という者、彼は永沼の城主であり、
元は蘆名に属し、その後伊達政宗に従った人物であったのだが、彼が氏郷に面謁して言った

「この度の一揆は、悉く伊達政宗が扇動したものです。しかし現在雪中であり、分国の通路すら
自由にならず、また蒲生様は未だこの土地の案内も詳しくご存知ありません。であればこのような
救援の軍はうまくいかないでしょう。」

これを聞いて氏郷は答えた
「汝の言うことも尤もである。しかし、太閤殿下が奥州の背炙山まで御動座あって、奥州の仕置を
仰せ付けられたとき、木村伊勢守と私を左右に置いて立たれ、二人の肩をつかみ

『伊勢守は氏郷を兄と存じ、氏郷は伊勢守を弟と存じて、奥州のこと、互いに相談して仕置をするように。』

そう命ぜられたのである。であれば、たとえ途中においてこの氏郷が一命を失ったとしても、伊勢守を
見捨てては君命を蔑ろにし、義理を失ってしまう。
私は確かに昨今この土地に至り、地利を知らず、また雪中の時期であり、人馬の苦しみは言葉にならないほどだ。
しかし、だからといって伊勢守を棄てるというのは、義において欠ける行為である。
伊勢守が討たれて私の命が残っても、一体何の面目があって太閤殿下にお目通りできるだろうか。

これが、私が兵を起こして救援に向かう由縁である。」

そして氏郷は遂に勝利を得て、思いのままに一揆を退治し奥州を平均せしめた。
その勇功といい義を守ることといい、共に武士の本意に当たると言えるだろう。

(士談)


1616年(元和2年)、イスパニヤ国王より伊達政宗に贈りし書簡

2017年04月07日 09:11

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/06(木) 20:25:55.13 ID:7i7Ye65s
1616年(元和2年)、イスパニヤ国王より伊達政宗に贈りし書簡

『神の恩寵によりイスパニヤ、ナポリ、シシリヤ、エルサレム、東西インド、太平洋中の諸島及び大陸の王、
アウストリャの大公爵、ブルゴーニュ、ブラバント及びミラン公爵、ハプスブルク、フランデル及び
チロル伯爵を兼ねたるドン・フェリペ(フェリペ3世)

支倉六右衛門、サン・フランシスコ洗足派のフラル、ルイス、ソテロとともに当宮廷に来たりしにより、
喜んでこれを引見し、貴国において、我等の主、イエス・キリストの神聖なる真の教えを善とし、これを
奉ぜんとする賀すべき考えであることを聞きて、特に喜び、また国王(政宗)がその国を平和に治め、
その幸福を増進せんと欲するがゆえに、双方にとって好き結果があることを認め、彼らに対して善き待遇を
与え、イスパニヤ滞在中、並びにローマの庁への旅行中、必要なるものを支給し、帰国の際、乗船を
与えることを命じた。

朕はこの旅行の結果として、キリスト教が弘布され、貴国の住民の霊魂が救われるに至るべきことを信じて、
大いに悦んでいる。

朕が宣教師、その他キリスト教徒を厚遇されることを切望する事は、親しく大使(支倉常長)に語り、
日本全国の君に書簡を以って伝えた、

神が奥州の王を護り、その正しき意図に大いなる成功を与え給わんことを祈る。

 1616年7月12日(元和2年5月29日) マドリッドに於いて。
                            朕国王(親署)』
(異国叢書)

スペイン国王来日記念に


支倉常長、スペイン国王宛書簡

2017年04月01日 13:23

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/01(土) 10:12:09.50 ID:+GLeDb+v
支倉常長、スペイン国王宛書簡

『昨年私の主君である奥州の王に宛てた、陛下の答書を与えられることを願いましたが、艦隊の出港までに
これに接することが出来なかった故に、随員は同艦隊にて帰国の途につきましたが、私はこれに乗り込むこと
出来ませんでした。

その後、去る5月到着の報知船によって、日本よりの報告および書簡を得ましたが、これに寄れば国王(政宗)は
キリスト教を保護し、その領内の会堂及びキリシタンを支持したるのみならず、諸人に対し恐れること無く
信仰を継続すべきことを諭し、その領内に逃れ来たりし者は皆、これを保護しました。
日本国中においてこれ程の事を成し得た王は、我が君及び、皇帝(徳川家康)が戦を行いたる国君(豊臣秀頼)の
他、一人もありません、

皇帝は偽神の助けにより、戦争に勝利を得ようと欲してキリスト教への迫害を成しましたが、その目的を
達すること能わざりき。よって我が君並びにかの君国はいよいよキリスト教を喜び、これを保護するに至りました。

我が君、並びに日本のキリシタン全体は、本使節が使命を全うして、宣教師、及び司教を伴い帰る日を
待ちて、その善き計画を実行せんとしています。これ故に、私は昨年乗船すること無く、既に決定している
通り、宣教師を派遣することを陛下が命じ、また司教については法王の定めたことを実行されることを
請願するのは、神の摂理による物であると信じます。

また日本の皇帝が、マニラその他の地方に放逐した宣教師等が、服装を変じて密かに、前に居た地に
帰っているという話が伝えられましたが、奥州は日本の極端ですから、特にその地に向けて派遣された者の他は
その地に到着することは出来ないでしょう。

陛下の希望は正統なるキリスト教の隆盛に他ならず、そして彼の国においては先に述べたように希望と意向とを
有するが故に、これを述べることは、我が君なる王ならびに彼の国その他キリシタンのため、私が為した
請願が入れられた事で、最も有効なる動機となるでしょう。
また私に対しては、速やかにこの旅行を終え、彼の地に帰りて陛下より受けた恩寵を語るという栄光を
得せしめられる事を信じます。

もし新イスパニア(メキシコ)と日本との通商が許されないのであれば、イスパニヤとの直接の通商の許可が
あらんことを請う。
またフィリピン諸島の長官には、我が君なる王と特別の親交通信を命ぜられることを請う。

我が君が、陛下のためいかなる事をも辞さない事は、前に陳述しましたが、再びこれを陳じます。
神が陛下を護り、多年の間栄せしめ給わることを祈る。

1617年4月24日
           セビーリャに於いて

 陛下の僕 ドン・フェリペ・フランシスコ・ハセクラ
       とん、ひりへえ、ふらいせすこ(日本語)
         支倉六右衛門長経(常長) (花押)』

(異国叢書)

秀頼のことを書いていますが、この日付だと2年前にすでに豊臣家は滅びていますね。
支倉はそのことを知らされていたのかどうなのか…。


伊達政宗、豊臣秀吉公へ初見之とき謡ひし歌付政宗豊公へみへし考

2017年02月11日 17:04

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 13:33:08.22 ID:UqUUIrB4
伊達政宗豊臣秀吉公へ初見之とき謡ひし歌付政宗豊公へみへし考

何かの時ある人と雑談した折に出た話である。

伊達政宗豊臣秀吉公と初めて見えたとき、
その後には酒宴でもあったのだろうか、
政宗が謡った歌として今も仙台の領地では士庶ともに歌うという。

四海波風治る御世は、さざれいはほに亀遊ぶ

秀吉が「もうひとつも」と請われたので、政宗はすぐに

さんさしぐれかかや野の雨か、おともせできてぬれかかる

と歌われた。
 『秀吉記』と『武功雑記』の二書によると、
この二謡は政宗が豊公に見えた後、もしかしたら宴席があり、
その席上のことであろうか。

(甲子夜話三篇)



617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 20:19:53.17 ID:X+Odj8cp
四海波…サボテン?┌|∵|┘

水野勝成宛消息

2017年01月22日 17:17

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/21(土) 19:49:01.33 ID:k/8ijvKT
水野勝成宛消息

http://gallery-so.co.jp/artistwork/%E3%80%8C%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%8B%9D%E6%88%90%E5%AE%9B%E6%B6%88%E6%81%AF%E3%80%8D
datemasamune_nagainaokiyoshosoku-1.png

伊達政宗から勝成への手紙といえば、こんなのもあるらしいが
俺には読めない
だれか偉い人翻訳してくださいな



謎の手紙

2017年01月18日 10:11

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 20:20:58.62 ID:hCLw+O8A
謎の手紙

伊達政宗は、権力者に取り入るのが上手である
それは天下人だけではなく、天下人の取り巻きにも媚びを売るのが上手だからだ
ということで、政宗は、家康の取り巻きである水野勝成にも、いろいろと媚びを売っていたらしい。政宗から勝成へのお手紙が三通残っているとのこと。

・冬の陣の陣立てのときに、政宗が勝成に「そっちはいまどこですか、うちは枚方に明日つくかなってかんじです」という書状とか。

・平和な江戸時代にも、政宗は勝成に「鷹狩りいかない? だれか一緒つれてきてもいいし」というメールを送っている。

まぁ、これはいいのだが、不思議すぎるメールが一通ある

政宗文書番号1598
 慶長19年12月21日付
 ちなみに大坂冬の陣の和睦が、慶長19年12月20日。つまり、翌日、政宗から勝成に出されたお手紙。

かの牢人にお手紙を書いてくれてありがとう。なお重ねて様子を教えて。
いま岡山にいく途中なんだ。

意訳するとこんな感じらしい

かの牢人ってだれ?
勝成は大坂城内の牢人と連絡する手段を持っていたってこと?

空想が広がるお手紙である



518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 21:04:41.00 ID:/3OBSLpx
又兵衛じゃないの?

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/17(火) 22:16:37.51 ID:/3OBSLpx
宮本武蔵じゃね?

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/18(水) 04:50:36.50 ID:DYIdIhBH
岡山つながりで明石とか

522 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/01/18(水) 19:42:55.94 ID:gHO+4z/w
>>517
今回の、第11話『この想い届け☆八丈島にっ!』はお楽しみ頂けましたでしょうか?
次週最終話『ひどくない?江戸幕府って修羅の道なんだよ?』もお楽しみに!!

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/18(水) 21:50:48.88 ID:BFUgJEUg
>>522
まーくんは八丈島のあの人にも手紙書いてたのかw

我々の内実は、

2017年01月03日 16:42

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/03(火) 14:12:08.99 ID:NcThKzBi
関が原が始まろうとする頃、伊達政宗は自領への帰還を急ぎ、相馬領を通過する。
ここで政宗の家臣である片倉小十郎景綱は、政宗を迎えるためと、鹿島町に先行してそこの宿泊した。
この鹿島町は田中城の近辺であり、田中城には相馬家当主・相馬義胤の父、盛胤の居城であった。

片倉小十郎は草野左馬充、鈴木掃部左衛門を案内として、盛胤の家老である佐藤左近を呼び出し対面した。
左近を通して盛胤に刀、次郎郷胤に脇差しを進上し、その上で左近にこう語った

「今度、政宗は領地への下向につきこう命じました。

『冨塚近江は上下1500の人数にて岩城領に向かえ。我々片倉父子は上下1000人にて御領内の鹿島に
向かえ、矢田勘解由兵衛は上下3000の人数にて駒ヶ嶺領に向かうべし。』

これについて考えるに、世上の浮説ににおいて、佐竹、岩城、相馬、那須の面々が、長尾景勝に同意され、
石田治部少輔に与して家康公に敵対されると言われています。
これに対し我が主君政宗は無二の家康公の御方ですので、これらを警戒する必要があるのです。

憚り多きことですが、相馬と伊達は代々の縁類ですから、私ごときでもそのお為良かれと考え、
全く粗略にすることはありません。

もしも、一旦治部少輔にお志があったとしても、それはお諌めになるべきです。
何故ならば、今天下に、家康公に比するような大将は誰も居ないからです。
治部少や景勝が時の威勢に誇ってとやかく申されようとも、彼らが末まで全う出来る事はありえません。
それに与した人々の家は、滅亡するでしょう。

家にとって大切なのは社稷であり、主人は一代のものですから、時に至っては義を失っても
それは仕方のない事です。ただ期して末の所をよく吟味して頂きたいのです。」

左近はこれに
「底意を残さぬ懇切なお話、委細承りました。これについて先ず、盛胤に聞いてまいります。」
そう答えて退出し、田中城の盛胤に、片倉小十郎の語ったことを逐一申し上げた。
盛胤はこれを聴くと

「世上の浮説について、そういうものも有るだろう。だが我々は全く治部少輔に与していないし、佐竹や
景勝にも与していない。我々の内実は、小十郎も推察しているだろうが、累年の合戦のため諸士はおおかた死に、
今漸く、その子供たちを養育している段階であり、人数を持っていないのだ。なので家康公のお為といっても、
一体何が出来るだろうか?万一、家康公より御催促があれば、その時は50,30であっても召し連れて
参ずるつもりである。

政宗が家康公の御方に参るのならば、伊達との国境に番士を置くべきではない。また伊達家の人数の往来の自由も
認めよう。もし伊達方が相馬に対して隔意を持たれてはどうにも出来ない。内々にこの旨を伝えるように。」
そう語り、佐藤左近は立ち戻りこれを小十郎に詳しく申し聞かせた。

小十郎は
「そういう御心入であれば御家長久、珍重であります。しかし返す返すも、お諌め申し上げるべきです。
義胤公へのお諌めこそ第一です。」
そう申し、政宗に対しても盛胤の考えを伝えた。

片倉小十郎はこの地に1日滞留して、2日目に政宗のお供をして帰っていった。
その後程なく、景勝領であった白石を、政宗が攻め取った。

(奧相茶話記)



二本松家相伝の旗

2016年12月19日 17:27

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/19(月) 17:23:39.42 ID:GFAqlQ5c
天正13年、二本松義継による伊達輝宗謀殺事件(粟之巣の変事)を受けて、伊達政宗による
二本松攻めが行われると、わずか11歳であった義継嫡男国王丸(二本松義綱)は、伊達の大軍に対し、
義継の伯父である新庄弾正正、新庄尾張、新庄左衛門、箕輪玄蕃の補佐を受け籠城した。

10月15日、伊達政宗の軍は押し寄せてきた。先鋒の片倉小十郎は栗刀迫より池ノ入、亀ヶ谷を取り巻いた。
田村清顕は西谷口に廻り龍泉寺の前まで攻め入り、伊達成実は城の艮の口に攻めかかった。

ここで不思議な事が起こった。

二本松家には祖先より代々相伝の旗があった。これは天子より賜った錦の旗であった。
二本松家が難儀に遭った時、この旗を開いて再拝すると、いつも祥瑞があった。

新庄尾張はこのことを思い出し、本丸に上り、杉の枝にかけてこれを再拝した。
すると、雪がちらちらと降り始めた。これは卯の刻(午前6時頃)の事であった。

伊達政宗の軍は片倉小十郎を先手に揉み立て攻めてきたが、二本松城は大木を切り倒して
逆茂木とし、普段から気心の知れた朋輩たちばかりで籠城していたため、互いに恥はかけぬと
手を砕いて防いだため、伊達軍の上下士卒は攻めあぐねた。
新庄尾張は卯の刻の初めから伊達の攻勢が終わるまでの間に、敵が逆茂木際まで寄せ来て水の手を
取ろうとするのを17度まで追い払った。

そしてその夜、亥の刻(午後10時頃)より大風大雪起こり、18日まで降り続いた。
このため政宗は21日、小濱へと帰陣した。

(奧相茶話記)

伊達政宗による二本松城攻めについてのお話。



429 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/19(月) 22:33:15.06 ID:vUIXaLyh
南無八幡大菩薩

「松川合戦 政宗福島城を攻める事」および東国太平記について

2016年11月15日 21:29

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:40:54.84 ID:GNgMpSHW
東国太平記巻之十五
「松川合戦 政宗福島城を攻める事」
政宗は度々上杉に打ち負かされていたため無念この上なかった。
前年七月に江戸から中沢主税が(家康によって)遣わされ「この度は景勝と合戦することはならん」
と堅く制止されていたのだが、慶長六年四月十七日、片倉景綱、伊達成実、国分盛重、
伊達阿波守、屋代景頼、茂庭綱元、高野壱岐守、桑折宗長など二万五千を引率し、白石城に到着した。
ふたたび福島城を攻めようと、誰か物見に遣わそうとしたところ
伊達成実が名乗りいで、十騎ばかり鉄砲三十挺ばかり引き連れて、上杉の守る福島城についた。
成実は、城から十三町(1.4km)手前に味方を残し、自分だけ城の堀端に乗り付け大音声で
「私は政宗の物見の者である。政宗様から城中の将兵の名を尋ねて参れ、と命令を受けた。
名のある者は名乗りいでよ」と呼ばわった。

上杉方の士卒は「なんという剛の者だ」と感心し、矢鉄砲で狙うのをやめた。
すると櫓に上杉の将である本庄繁長、その息子の充長、甘糟景継、杉原親憲、
百川(芋川?)縫殿助、岩井信能、鉄上野が各々名乗りいでたため、伊達成実は静々と帰っていった。

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:42:37.80 ID:GNgMpSHW
政宗は二十一日、白石城を立ち、小山というところに出陣。
上杉方は杉原、甘粕、本庄、岩井、鉄上野、岡野左内ら六千騎で福島城を立ったが
途中で商人と高野聖が来て「伊達の軍勢は三万ばかり、これでは小勢すぎます」
と言ってきたため、はたして防戦すべきか、こちらから間の松川を渡るべきか
と論争になったが、伊達軍が川を途中まで渡った時に奇襲しようということになった。
しかし岡野は、杉原や宇佐美が制止したにもかかわらず、四百ばかりで川を渡り、
向こう側の河原にいた伊達軍に大音声で名乗りいでて突入していった。
岡野の奮戦に激怒した政宗はただ一騎で岡野と太刀を交えたが
岡野に太刀を折られ、二、三間(4,5m)後退。
岡野は具足から葉武者だろうと思い、追撃せず戻っていった。
その後上杉勢は伊達勢と交戦するも多勢に無勢で敗色が濃くなり福島城に逃亡。
政宗は後を追ったが、青木新兵衛の十文字槍により兜の三ヶ月を折られてしまい、
政宗はいそいで引き返した。
逃げる伊達軍を、福島城から出撃した本庄繁長が二千余で追い、隈川で散々に打ちすえ
伊達軍二百余を討ち取った。
その頃、会津にいた上杉景勝は、政宗が小山に出陣したという報告を受けたため、
八千騎の軍勢で援軍にかけつけた。
それを知った政宗はわずか十騎で、取るものもとりあえず白石城へ逃げていった。
この際、伊達軍は本庄親子・杉原をはじめとした上杉勢により首級七百余を討ち取られ、
辺り一面、伊達の人馬の死骸や着物や槍や刀で足の踏み場もなくなってしまった。
上杉軍のこのたび得た伊達方の首は千二百九十余で、上杉家の手柄は天下の美譚として語られた。

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:44:09.26 ID:GNgMpSHW
・・・と「東国太平記」には書かれているが、この「東国太平記」、
江戸後期の本屋松沢老泉によれば「仙台藩に版木が買い取られ絶版になったと聞いている」そうだ。
また、紀州藩の漢学者、榊原篁洲によれば
「北越太平記、東国太平記は紀州の宇佐美竹隠というのが名前を隠して書いたものであり、
宇佐美駿河守(定満)の末裔なので、東国太平記で宇佐美を褒めまくっている」
とのこと

要は宇佐美流軍学を流行させるために上杉家、宇佐美ageのデタラメを軍記に
書いたということらしい。
政宗にとっては子孫や考証家のおかげで恥ずかしい話が広がらずにすんだいい話ってことで。



368 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/01(木) 12:12:38.69 ID:J2ItkSTT
>>323
この当時の伊達成実は石川昭光の預かりだったはず
国分盛重は既に佐竹氏に出奔している

理由としては、成実が伊達氏の分家で一番の家柄で石高も一番高かったのだが
外様大名だった叔父の昭光が、奥州仕置で改易されて、伊達家中に入ることになって
成実の伊達分家が、二番目の家柄になった。また、伊達領が秀吉によって3分の1に
減らされたのに昭光の石川家を抱えることになって家臣団が困窮した。
会津討伐で一番手柄をかけた伊達分家と、
政宗からすれば、人取橋で、敵側にいたとはいえ調停役を引き受けて伊達家を救った
昭光の石川家が対立。
伊達分家が伊達宗家に謀反を起こして、成実の配下は撃ち取られるも
成実は政宗も昭光も一族なので、謀反を起こさず出奔した。
政宗とは歳も近く兄弟のように育った国分盛重は、伊達宗家から国分氏に養子に行くも
大崎合戦の後、家中がまとまらず、政宗が会津を秀吉から取り上げられると
国分領のすぐ近くの北目に軍事拠点を置いたことから、国分家の家臣団は
危機感を覚え反抗する。政宗は、苦肉の策として、盛重に忠節を誓う面々と
ライバルではあるが、盛重の妹正室の佐竹氏に行くことをすすめ
盛重に反抗する国分一族を討ち果たし、国分氏の城であった千代に城を移す。
もちろん、盛重の長男は手厚く保護して、古内氏の養子となり
後の仙台藩の名家老古内主膳になる。

政宗の黒漆塗五枚胴は雪下胴と呼ばれ

2016年11月07日 09:44

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/06(日) 15:14:46.21 ID:WnhtVHEx
先日、横浜市の馬の博物館で伊達家甲冑研究の第一人者である竹村雅夫氏の講演がありました
そこから多少つらつらと

・政宗の有名な黒漆塗五枚胴は雪下胴と呼ばれ、北条氏治下の鎌倉雪下の職人が製作したと思われていたが、
蘆名氏が会津入部に伴った雪下出身の鍛冶の子孫が、雪下と名乗って製作したと明らかになった

・雪下胴を当時の記録などで解胴(ほときどう)と呼ぶが、これは蝶つがいを外すと5枚の鉄板になって畳んで
持ち運びできるから

・政宗が雪下胴を初めて入手したのは天正16年(1588年)の岩城氏からの贈り物で、人取橋の戦(1586年)には
まだ持っていない

・政宗は異常に甲冑好きで贈るのも貰うのも大好き、家臣の鎧を召し上げて代りの鎧を渡したり、甲冑商人を
二日間留め置いて見聞したり、敵味方問わず使者へも甲冑を贈った

・天正16-17年の間に贈った甲冑が26領、貰ったのが14領、買ったのが10領

・政宗の甲冑好きは南奥羽諸大名の常識だったので、政宗への贈答品には甲冑がよく用意された

・会津制圧後は政宗が雪下胴を全てかき集めたので、上杉・蒲生家臣でこれを持つものは数えるほど

・雪下家は大阪の陣頃までは会津で甲冑を製作していたが、その後は松平家の普通の下級武士になった

・いわゆる仙台胴は雪下胴をモデルに仙台でつくらせたもので、厳密には違いがある

・雪下胴はその重さと長い草摺もあって、やはり馬上用

・政宗は「上方の連中は騎乗しても槍を手に馬から降りて立ち働くが、奥州武者(奥士)は馬上で槍をとって戦え、
鎧を着たままでは素肌武者(軽装)にも後れをとる、馬から降りるな」「奥武者の我が家は末代までも上方の真似すんなよ」
と言い残している

井伊直政は雪下胴を小田原戦以降に手に入れ、関ヶ原で着用したのは実は政宗と同タイプのこれである(現存)



305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/08(火) 21:26:03.72 ID:Sn33jf/C
>>301
つまり関ヶ原では赤備えじゃなくて黒備えだった・・?

須賀川の城落つる事

2016年09月08日 17:36

阿南姫   
63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/08(木) 08:59:52.56 ID:Zv8WSUbD
須賀川の城落つる事


二階堂盛義の正室大乗院(一般には阿南姫と呼ばれる)は夫の盛義と次男の行親が相次いで
没したため、天正10年(1582年)から須賀川城主となっていた。
阿南姫は伊達晴宗の長女で政宗から見れば伯母にあたる人物だが
蘆名盛隆(実は蘆名氏に養子に入った阿南姫の長男)とその子が没したときに
伊達側が政宗の弟小次郎を養子に送り込もうと画策し失敗したことが
禍根となり伊達家とは絶縁状態であった。

天正17(1589)年、伊達政宗が摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼした後
親蘆名だった二階堂家の須賀川城にも数日中に攻め寄せる風聞が立った。

評定の席で家臣たちが阿南に
「伯母なのだからきっと悪いようにはしない(命は助けてくれる)でしょう」
と降伏をすすめると阿南は
「いや、そうではない。はかない女の身ながら一途に思い入れていることがある。
我が身が盛義と離れてから九年になるが、思うようにならず暮らしていたところを
田村清顕が浅ましくも小倉・松ヶ鳥屋に押し寄せてきて河東の郷を奪い取ろうとし
防戦したとは言え関河内まで難なく清顕が入ってきたとき、嬉しいことに
佐竹義重が大軍を後詰めに出してくれたため清顕を追い返すことが出来たのだ。
松ヶ鳥屋のあたりを今まで無事に領しているのはひとえに義重のおかげである」
「我が身を安々と政宗が手中に収めてしまえば、仙道筋の諸将であの者に逆らおうと
する者はいなくなるだろう。そうなれば横柄な政宗は上見ぬ鷲の挙動してすぐにも
義重に仇をなすだろう。我が身だけはせめて一日でも歯向かい義重の恩に報いたいのだ」
と訴えた後、重恩の郎党共を召し寄せて
「風聞通りなら間もなく政宗が大軍で押し寄せてくるだろう。そうなれば多勢に無勢の習いで
安々とこの城は落ち甲斐なく討たれることは必定だろう。また命を惜しみいずこへ落ち延びたところで
草葉を分けて探しだされ妻や子どもにさらに憂き目を見せるだけになるのではないか。
ここはそれぞれ思うように降り政宗に奉公してほしい。少しも恨むことはない」
「我が身は女ながらも思うことがあるので、一人でもこの城でこらえて政宗が寄せてくるのを
待って自害する。冥途まで一緒にと思う者は伴をせよ。そうでない者は暇を得させよう」
と目を涙でいっぱいにして訴えたので、そこにいた家臣たちも袂を顔に押し当ててしばらく
涙に咽んでいたが、少しあってから
「そこまで思い定めなさっているのに、誰が恩を忘れ見捨てることがあるでしょうか。
たとえどのようなことになってもまず私達が討死してからの御身のことだと思って下さい」
と頼もしげに言ったので、阿南もとても嬉しそうにしていた。

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/08(木) 09:00:44.01 ID:Zv8WSUbD
しかし政宗が侵攻してくるという沙汰が頻繁になってくるといつしか家臣同士も不和となり
早くも降る人間も出始め、重臣の守屋筑後守も伊達側と裏切りの密約を交わした。
侵攻してきた政宗は、敵側の死狂いに味方が駆り立てられ死傷者が増えるので攻めあぐねていたが
そこで守屋が自分の指物を抜いて部下に合図し長祿寺という禅寺の便所に火を付けさせたところ
西風が激しく吹き城中の役所に燃え移り四方に焔を吹いて軒を連ねた舘共々、炎上した。

阿南はこの成り行きを見て守屋の謀反を悟り、城中にいた守屋の妻を呼んで
「守屋め、譜代重恩の身を忘れこのようなことをするとは情けない」
と言ってさめざめと泣いたので、守屋の妻は応えて
「まことお恨みの程、愚かな我が身にもこれ以上はないと思います。この上は
御胸を晴らす為に某をどのようにでもしてください、露ほども恨みはしません」
と涙ながらに言ったので、腹をすえかねた阿南が襟を掴み刺し殺そうとすると
流石に女の儚さでそばにいた女房が袂に取り付いて妨げたので、阿南は小刀で
自害しようとし、大勢でとどめることになった。

その後政宗の元から迎えの人間が十四、五人来たので女房八人侍九人が阿南に付き添って
炎の中から泣く泣く出てきたことは、哀れといえるだろう。

――『会津四家合考』

その後阿南は政宗によって保護されたが伊達側が用意した食事には手を付けず、政宗のことを嫌って
甥の岩城常隆を頼ったが常隆が亡くなると、さらに甥の佐竹義宣の下に身を寄せた。
慶長7(1602)年佐竹家の転封に伴い出羽国に赴く途中、須賀川付近で病を得て亡くなったという。



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/08(木) 14:06:48.26 ID:jEld/eEc
>>63-64
嫌になるぐらいリアルだ…現実は小説や映画のようにかっこよくはいかないなぁ…。

隣接していた主の政宗とやらが

2016年09月04日 14:17

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/04(日) 10:31:28.65 ID:dE41Oe15
南部の地を仙台侵せしときのこと并侵地の広さ

奥州の南部の人がいる。
今青山大膳侯の家臣である。岡本祐助と称す。
彼は予の小臣の小楠十乃助なる者に以下の事を語った。

「南部侯の領内は広々と開けているので、
昔はあたかも限りが知れないと思われるほどの地であった。
ある頃の主は幼稚であったので、
隣接していた主の政宗とやらが、
徐々に領界の傍示を南部領へ移し立て、
仙台領を広めて、ついに大河がある辺りまで領境を及ぼした。
南部では大いに驚いたが、幸いにしてその河辺りに大洞窟があったのでそれを拠点にして、
この中に人衆を屯し弓銃を備え、仙台から人が来たら防御を専らとするようにしたら、
仙台の侵奪が止んだ。
今なおその穴の中に従卒を三十人ほど置いていて、
古昔からそのことは替わっていない。
なので今に至っても、交守して長城の塞兵の如しである。」

また言う。
「かの河向かいの、かつて仙台が侵略した地はおよそ二十万石とか。
今、目で全てを見渡すことができない大広田である。
今その所には、仙台侯の土着の士が多い。
それなのに南部侯の領有の地名を苗字にする者がいるのは、
彼らはかつて南部から仙台に従った、不義の輩であろう。」

以上は小人の話なので、実否は疑わしい。
(甲子夜話三篇)

バス停コピペを思い出す

バス停コピペ

バス停
かつて、バス停を毎日ちょっとずつ家の方に近づけていた。
苦労して毎日コツコツとやったのに、ある日一気に元の位置に戻された。
ふざけんな。




59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 12:22:55.41 ID:A8Sc2ruY
本にすると面白いね

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 13:31:03.55 ID:WluS7hFV
初対面の額を平手打ちして激昂した相手に仕返しされる逸話が好き

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 13:32:33.87 ID:vV2TbTzk
政宗の逸話はしょうがねえなーって感想ばかりだw

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 22:35:33.44 ID:ZYCSMBwN
>>58
なんかほのぼのとしてワロタw

梃子でも動かない男

2016年08月18日 13:36

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 18:32:46.28 ID:O49atqFZ
梃子でも動かない男

寛永5(1628)年7月14日、江戸城において能があり諸大名が見物していた。
その時大地震が起こり、驚いて能舞台の周りの白洲に降りてしまう人が多かった。
森忠政は嫡男の忠広と共に座っていたが、向かいにいた忠広がすぐに(逃げようと)
立ち上がろうとしたのに気づくと忠広を思い切り睨みつけたので忠広は立ち上がれなかった。
忠政の隣に座っていた堀尾忠晴も立ち上がったが、忠政が袴の合引をつかみ座らせた。

伊達政宗は(逃げようと)端まで出てしまっていたが、忠政父子が(揺れていても)座っているのを見て
「御前が近いのに大騒ぎではないか、最早揺れも鎮まったのでみな席に戻られよ」
と差していた扇を開き、白洲に降りた人を取り鎮め自らも席についた。

翌日、堀尾は森家に来て忠政に
「昨日の御心付けは生生世世忘れがたいことです」と礼を言ったという。

――『森家先代実録』

……政宗がちょっとかっこ悪かったのでこっちに。




14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 19:11:30.95 ID:zg4l8qgT
>>13
政宗せっかく取り繕ったのにばれてるw

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 19:35:39.02 ID:WgAt7fYc
>>13
以前読んだのは、忠政と家康以外みんな逃げたが、
逃げようとした政宗は、忠政と家康が微動だにしないのを見て、逃げるのを止めた。
だったと思ったが、1628年なら家康死んでるな。

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 19:42:28.89 ID:q/ilRzTo
凡人と偉人のラインの
ギリギリ偉人側にいるのが政宗

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/17(水) 21:32:27.65 ID:WgAt7fYc
堀尾忠晴って、前田利常の彼氏だったな。

仙台政宗老後の事

2016年08月09日 21:03

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/09(火) 07:12:45.26 ID:1yesd62a
仙台政宗老後の事

仙台中納言政宗は、御治平後になり年老いて言うに、
「武士は戦場を忘れてはいけない。」
と。また折には水を浴びられたという。

後病が重く床に臥せていたとき、御尋の上使が下された。
政宗は殊に恭しく思われたが、なかなか起き出ることが叶わなかった。
しかし是非ともと、人に助けられてようやく表座敷に出て上使に対面し、
御厚恩を拝謝を申したとか。
この時も礼服を着て出られたが、その大病中にもやはり水を浴びて出たという。
(甲子夜話)



54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/09(火) 09:51:55.40 ID:I0gSKK9M
年寄りの冷や水