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「しずのおだまき」

2016年05月12日 14:37

612 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/05/12(木) 14:21:46.75 ID:2HZR3jHL
薩摩には「しずのおだまき」と題名のある本が2冊あり、そのうちの一冊は「賤のおだまき」
「賤のおだまき」というのは、「容色無双」と呼ばれた美少年の平田三五郎宗次(槍の達人)と、文武両道に秀でた吉田大蔵清家
(清盛ともいう、弓の名手)の男同士の愛の契りの物語である。
時代は関ケ原合戦の前年の慶長4(1599)年、島津家の筆頭老中だった伊集院幸侃が島津忠恒に伏見で上意討ちにされたため、
幸侃の嫡男忠真は都城を中心とする庄内12城にこもって反旗をひるがえした。庄内の乱である。
三五郎と清家はともに12城のひとつ、大隅財部城を攻める軍勢に加わった。出陣した2人は帖佐のあたりで辻堂のそばを通りかかり、
その柱に「共に庄内一戦旅(いちせんりょ)に赴く」と筆で書き、ともに千に一つも生きて帰らじと誓った。
庄内へ出陣の途中に門倉薬師堂(現在は醫師神社(いしじんじゃ))に立ち寄り兵士たちが堂の壁にそれぞれ志・辞世の句を書き残した。
そこへ遅れて平田三五郎と吉田大蔵が通り、2人も堂へ筆を入れた。しかしすでに堂には平田三五郎が筆を入れる隙も無く
吉田大蔵に抱えられ、堂の高い所に辞世の句を残した。
平田「書置くも 形見となるや 筆の跡 吾れは何処の 土となるらん」
吉田「命あれば 又も来てみん 門倉の 薬師の堂の 軒の下露」
 財部で2人は一緒に戦っていたが、ある日、乱戦のなかで離れ離れになってしまい、三五郎は清家の討ち死にを知らされる。
清家の遺骸をかき抱いて号泣した三五郎は「今は力なし、合戦に隙(ひま)なふ(なく)して後れしこと無念なれ、今生の対面是迄なり」
と告げると、馬にひらりと打ち乗り、敵陣に駆け入って古井(こい)原で討ち死にした。三五郎は清家との愛に殉じたのである。
この物語はほぼ史実に基づいており、三五郎も清家も実在の人物である。「本藩人物誌」は三五郎を
「時に十五歳にて卯花威(うのはなおどし)の鎧を着せると云々」、清家についても「慶長四年庄内乱ノ時於財部戦死二十八歳」と、
それぞれ記している。また「殉国名薮抄」という庄内合戦の戦死者名簿には、11月28日条に清家と三五郎の名前が並んで出ていることから、
2人は同日に亡くなったことがわかる。
2人の討ち死には島津方の間で静かな感動を呼んだらしい。歌詠みとしても知られる新納忠元も庄内合戦に出陣したが、
三五郎の死を聞いて「かれは無双の美童なり」と哀傷し、一首を手向けている(「盛香集」)。
「きのふ迄誰か手枕にみだれけん よもきが元にかゝる黒かみ」
(昨日まで誰かの手枕の上で乱れていた黒髪が、いまは荒れ果てた陣所に(遺髪として)かけられていることよ)−という大意だろうか。
 忠元が詠んだように、薩摩武士にとって衆道は不道徳なものではなく、士道の精華として称揚された面もあった。
その理想像こそ三五郎であり、二才たちの間で三五郎に仮託される形で遺風が伝わったのかもしれない。 
(さつま人国誌、薩摩琵琶歌の形見の桜など)

「賤のおだまき」は森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」にも登場しております。
「賤のおだまき」が明治17、8年に「美本仕立て」で出版されたが発禁になったことがその当時の新聞に書かれています



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これを見た城攻め諸将は、驚愕した

2011年10月02日 22:00

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 15:17:56.46 ID:dKp7WdtW
慶長4年(1599)3月、伏見島津邸において、島津忠恒が家老の伊集院忠棟を殺害した。国許でこの報を受けた
忠棟の子・忠真は自領の都城および勢力下の12城をもって蜂起。いわゆる庄内の乱が起こった。

忠恒は、忠真領の最前線にある山田城の攻略を島津中務大輔豊久らに命じ、6月23日、城攻めが開始された。

豊久軍は卯の刻(午前6時)から午の刻(午前12時)まで激しく攻め立てたが城方を崩せず、逆に戦意が
衰えたところに痛烈な反撃を食らい、あろうことか城方に軍旗を奪われてしまった。

「はっはっはっ、見よ!名将家久公の子、他国にも聞こえし島津中書とて、何ほどの事やあらん!」
城方は、奪った軍旗を城内に立てて晒し物にした。

これを見た城攻め諸将は、驚愕した。
「あれは…まさか?」「ば、バカな!」「豊久様の旗が城内に?!」「なんと…何という事じゃあ………」



「早や、豊久様が一番乗りを果たされたわ!」「さすがは豊久様じゃあああ!」
「者ども、後れをとるなーっ!」「ヒャッハー!豊久様に続けえええええ!」

激しく勘違いした諸将は奮起、先を争って城へ攻め入ると、一気に本丸まで駆け上がった。

豊久(………まぁ良か。)

その日の内に山田城を攻め落とした豊久軍は、主将の長崎休兵衛・副将の中村兵左衛門まで
討ち取る大功を立て、豊久には忠恒から感状と太刀が与えられた。(本藩人物誌)




162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 15:21:59.25 ID:uHes0Hqa
こ、これは・・・日頃の行いのおかげってやつなのか?w

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 16:39:49.50 ID:eGAkfVrt
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3133.html
これ思い出した

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 17:09:03.30 ID:qtrqLuxi
なんというポジティブシンキング

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 17:27:05.05 ID:pA0SKBKG
これはむしろ良い話なんじゃねwww

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 18:58:53.82 ID:Mp2Ndoir
薩摩隼人たちのちょっと頭の悪い話








ちょっとではないがw

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 19:24:06.80 ID:pUNnaBkx
豊久の、皆からの評価が良い話でもある…かな

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 23:00:17.13 ID:UgOmrvZ8
これが殺魔か

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 23:21:49.83 ID:BAOI441A
大津城攻防戦の時もこんな展開なかったっけ

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 23:22:32.99 ID:BAOI441A
ってもう>>163で出てたね ごめん
九州勢はこんな展開ばかりなのか

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/02(日) 23:44:41.13 ID:mFNLsfLQ
関ヶ原必勝法思いついた

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/03(月) 02:44:26.47 ID:DH+e49Xo
ドリフターズの豊久みたいのがいっぱいいるなww

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/03(月) 14:18:02.24 ID:zADSqG1O
乃木と豊久なぜ差がついたのか…

174 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/10/03(月) 17:07:39.99 ID:Sg259wIJ
これだから島津は…
まともなのは義弘だけだな

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/03(月) 18:40:21.93 ID:kkOtqHJj
薩摩の者はみんな脳筋じゃのう

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/03(月) 18:43:30.14 ID:nkkWuIIH
>>173
旗を取られたのが薩摩隼人か、旗を取ったのが薩摩隼人かの違い

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/03(月) 19:02:20.72 ID:80WCHAnD
逃げるのに敵の真ん中通っていく鬼島津がまともと思えるのはなんかに毒されないかいw
・・・ところで宴会で一番デンジャラスなのはどこだろ?まーくんのとこなら面白ければマミらないとは思うけど
三才さんのとこはなんかおっかない気が



187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 13:19:45.25 ID:igl6I+jS
>>177
市松さんのところに決まってるだろwww
間違いなく市松さんに酒が入るんだから

188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 17:46:59.47 ID:31nrBJx/
市松さんが目上の人との酒席で酒乱になったはなしって聞かないけどあんのかな

189 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 17:54:08.45 ID:xq11bl7t
流石に目上と同席では自重しないと
死ぬ

190 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/04(火) 18:14:18.92 ID:iz8G2cpW
他家の使者相手に時々やらかすくらいかな、市松