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まことに献上したいと考えているのであれば

2021年05月27日 17:43

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/27(木) 15:30:27.01 ID:JHjlPZpJ
豊臣秀吉の時代)有馬の温泉は、湯山善福寺、池坊佐吉、中坊左進右衛門という三人が支配を
していた。太閤(秀吉)は、百五十石収納の領地をこの三人に託しておいて、湯治に行った時の
入用にさせた。また湯の山の上に御殿があって、太閤はここに滞在したのである。

天正八年三月に湯治に行った時は、池田輝政、福島正則が供をしていた。
それより、文禄三年に行った時は、木下大膳大夫という名で、以下のような達しが出た

『太閤様湯治の時、当所地下人が、酒肴等、何であってもそれを買って(秀吉に)進上する事、
堅く御停止とされる。その他のものも無用に思し召されているが、まことに献上したいと
考えているのであれば、大根、ゴボウ、また餅などといった手作りの類は、理由次第で
進上してもよい、と仰せに成られている。』

とあり、この時太閤より有馬が賜った物は、八幡太郎義家の鎧の袖、太閤の旅櫛に、函鏡を
二面添え、黒塗り金紋の杖、茶湯道具一式、であった。今も存在しているのだろうか。
二度目の湯治には小早川隆景、有馬法印も供をしている。
わずか百五十石の米を年々収納させ、それを湯治の時の入用に供させるなど、太閤が経済の上手なること、
以て知るべし。

伝説研究・歴史之謎



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早川弥三座衛門の先見

2021年05月25日 17:10

232 名前:1/2[sage] 投稿日:2021/05/25(火) 15:57:25.60 ID:0lkDvxNO
早川弥三座衛門の先見

小牧山対陣の時、秀吉が『中入り』の策を立てて失敗し、池田(恒興)、森(長可)を戦死させたことは
前に記したため、大略ご承知であろうが、この時、徳川家康の内部に関する異聞がある。
この事は山鹿(素行)先生の物語として、山鹿流に伝わった口授であるから、世上では知らぬ話である。

先生曰く、大軍を引き廻すこと至って難しいものであるが、羽柴(秀吉)殿は五万六万の人数を自由に
引き廻される大将である。小牧山に東照公(家康)御籠もりになられた時、秀吉は五万ばかりの人数を
七、八段に立て小牧を引き包むように人数を勧められた。これに東照公は大いに急かれて
「平八!平八!」と本多忠勝を頻りにお呼びに成り、

「秀吉のやりようは我等を踏みつけにした仕形である。我等がこの城にあるのを知りながら、
かの体は何事ぞ。平八、出て蹴散らすように。」

との上意であった。この時、酒井忠次は脇目も振らず秀吉の人数の進退を見ていたが、
「平八出るな!」と、忠勝を制した。東照公は「平八早く出て追い散らすように!」とひたすら
仰せに成る。平八郎も如何すべきか途方に暮れた体であった。

その内に秀吉の旗本より黄母衣の使武者が七、八騎乗り出し、先手に命を伝えた様子が見えた。
すると忽ち、貝の音高くあがり、一の備えは左に押し廻して退く、その次へ二の備え入れ替わると
見る中に、これも左に押し廻す。その跡へ三の手また押し出す。斯く段々に進みて繰り引きに引く
様子は、あたかも糸を付けて引いているようで、この人数の遣い方には、徳川方の人々も感心して
鳴りを鎮めて見物していた。

東照公は忠次に尋ねた、「その方は敵の人数が引き取ることをどうして存じていたのか。」
本多忠勝を制していたのは、それ故だったのだ。忠次は云った

「(早川)弥三座衛門が申したのです。あの人数は必ず引き取ります、と。
彼は甲州の言葉で『隠れ遊び』という軍法によく似ていると見切りました。それ故に平八を止めたのです。」

東照公はその弥三座衛門を呼ぶようにと云い、彼を召した。この早川弥三座衛門は甲州武士にて、
馬場美濃守の部下であり、長年教訓を受け、軍事にかけては最も老巧の人であった。

233 名前:2/2[sage] 投稿日:2021/05/25(火) 15:57:50.30 ID:0lkDvxNO
東照公は彼に命じた
「只今、敵の人数は引き取ったが今後の様子は覚束ない。楽田、羽黒辺りへ言って見て参れ。」
早川畏まって、一騎敵陣近くまで乗り寄せ、篤と見届けて立ち返り、

「敵は味方を兼ねたる体にて候」

と云う。東照公「味方を兼ねたる敵とは何事を言っているのか。」とお尋ねになると、
「されば、敵は土手を築き柵を結い廻し厳しく備えを固めております。これを『陰の敵』と申します。」
東照公これを聞かれ

「ということは、敵は我等を柵際に引き寄せ、鉄砲にて撃ちすくめんとする手立てをしていると
いうことか、思いもよらぬことだ。」と仰せになった。これに早川

「いやいや、信長公が長篠にて柵を付けて甲州勢に打ち勝ったのは近年のことであり、天下の人、
皆知る所ですから、今更その故智を真似て勝利を得ようとは致さないでしょう。
これはおそらく、我々を憚っての用心でありますから、『味方を兼ねたる敵』と申すのです。
楽田、羽黒辺りにて合戦は無いでしょう。この小牧山を攻めることも勿論無いでしょう。」

「では今度は戦は起こらないのか、又は何方にて始まるか、その方はどのように考えるか。」

「長久手山辺りにて、御合戦になるでしょう。その仔細は、池田の聟の森武蔵は、先日八幡林にて
打ち負けたため、是非にもこの遺恨を晴らさんと考えているでしょうし、また池田は賤ヶ岳にて、
秀吉に疑われた事があり、なにか一手柄現して秀吉の機嫌を取りたいと考えています。池田、森が
このように張り切っている以上、殿様(家康)がここに居られるのを幸いに、岡崎の御城下へ押し込み、
焼き働きなど仕るでしょう。秀吉としては、他に手段もありません。」

そう述べると、東照公「これは能き心付なり」とて、篠木。柏井辺りの重立ちたる百姓に金銀を遣わして
内通を頼み、森の陣に間者を入れ、近辺に巧者の物見を出し置いたところ、池田、森が忍びやかに
篠木、柏井に一泊し長久手の方に押し通ったのを。百姓たちが直ちに小牧山に内通した。ここにおいて、
小牧より先手、旗本の二備えの人数を密かに出して、池田、森を追跡して大勝利を得たのである。
全く早川の巧者の見地によって無類の御勝利となる云々、とある。

この事、徳川家の歴史には無き所である。

伝説研究・歴史之謎

真偽不明ながら、小牧・長久手の戦いに関する伝承。



槍下手の本多平八郎も面白し

2021年05月21日 16:58

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 13:13:57.45 ID:5HKrj848
本多家の譜代の士、小野某の家の記録に云う、

(本多)忠勝様は世に名高き蜻蛉切の槍にて数十度と功名、天下にその聞こえあれど、
槍術は至ってお下手なり。ご隠居後、桑名にて家中の若侍相手に槍の試合をなさる。いつも
入身をなさるに、殊の外拙にて、まだろくろく修行も積まぬ若者にも突かるる事あり。
ある時入身を突きたまうに、槍先不器用にて一向に利かず、遂にその時も負けたまう。

林氏の物語に
『忠朝様、表書院にて槍の師匠と頻りに稽古をなされ候。そこへ忠勝様御出なされ、かの者は
いずれの者なるや、家中には見覚えぬ顔なりと仰せらる。その者平伏して居れば、傍らより
忠朝様、これは槍の指南仕り候、何某と申す者にて、信州の浪人に御座候、と申し上げる。

槍の指南なら拙者相手なるべしと仰せらるる。世に名高き忠勝様の御事故、槍の師匠も遠慮致して
御相手を致さず。「是非立ち会い候へ」とひたもの御勧めにて、「少しも遠慮なく突き候へ」と
仰せられ、御立ち会いなされたるに、最初は互角の槍と見え候ところ、忽ち忠勝様胸を突かれ、
続いて槍をはね飛ばされ、尻もちをつきたまふ。

大いにご立腹して、「ヤア誰かある、蜻蛉切をもて参れ」と呼びたまふ。師匠吃驚したり、はや
逃げ出し候事に御座候』

とあり。槍下手の本多平八郎も面白し。

また信州の保科弾正(正俊)は、世に槍弾正と呼ばれ、戦場にてはこの人の槍先に向かう者、
必ず斃れずという事なし。然るに家中の者を集めて稽古するに、いつも勝ちたる事なし。
稽古は至極拙なりと承り候と、『長谷川運平筆記』にあり。
実地の事は全く別なりと知るべし。
道場で叩き合う剣術、槍術すべて華法なれば、実地に臨んでは何に役にも立たぬものなり。

伝説研究・歴史之謎



745 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/21(金) 20:32:13.92 ID:ZuSEJof4
>>744
可児才蔵には宝蔵院流槍術を学んだばかりの頃はむしろ槍が上手く使えなくなったって言う話があったかな。
道場の教えが本当に実地では役に立たないのか合わなかったのか?何なんだろね

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 21:44:39.04 ID:k7YOddEN
稲富「稽古で下手なのに実地で上手く出来るのかな?」

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 21:56:18.10 ID:+qedGPpg
>>744
こういう話はよく聞く。
戦国武将からは外れるけど新選組の近藤勇、
道場ではどっちかてえと不器用な竹刀捌きだったそうだが実戦では滅法強かった。

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 22:08:34.33 ID:BMBwzAZo
>>745
才蔵の場合は無手勝流の時は怖いものなしでガンガン突っ込んでいけたけど
なまじある程度槍を習ったら恐怖を感じ取れるようになってびびっちゃった
って事だったような

道場の教えが実戦で役に立つとか立たないという単純な話ではなく
個人戦と集団戦では強みが違ってくるという事だろう

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 22:16:41.06 ID:i6H2cVOe
>>747
どっちかっていうと、天然理心流は柔術や他の武具術も含めた総合的な体系だからじゃねえかな。
竹刀だけに特化した剣術家と竹刀で試合したら、そら分が悪い。

総合格闘技の選手とプロボクサーを国際式ボクシングルールで試合させるようなもん

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 22:53:40.71 ID:By0VHP+h
>>749
なるほど。
良い喩えで解り易い。ありがとう。
本多忠勝の件も何かその辺のことがあるのかな。

751 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/22(土) 15:59:31.94 ID:YXS2jksv
加藤清正が吉岡憲法に全く勝てなかったが、実戦では違うと槍甲冑を持ちだしたら、恐れ入ったように
憲法が振る舞ったって話はどこで聞いたんだっけかな

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/22(土) 20:22:30.66 ID:/PHcjahT
黒田家家臣、野口一成の槍術・いい話
の逸話でもあるけど
ゴッツイ籠手付けて左手で敵の攻撃を受け止めて
頑丈で切っ先だけ鋭い太刀で突き殺すなんて戦法
こんなの剣術的には大問題だけど
戦場じゃ有効だった訳だしな

江戸期の武田信玄への評価について

2021年05月20日 16:55

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/20(木) 13:30:02.90 ID:/pV1gHPB
武田信玄は父・信虎を追出して自立したり、悖戻(はいれい)不義、言語道断の不孝者なりと論難されて居た。

中井積善(竹山:江戸時代中期の儒学者)の逸史には、信玄悖戻にして権謀を好むと断じ、
室鳩巣(江戸時代中期の儒学者)は、悖戻不義と罵り、水戸の安積老牛(澹泊:江戸中期の儒学者、
『水戸黄門』の渥美格之進のモデルとされる)も、信玄は不孝の人なり、終身論語を手にせざるは、
自ら愧ずるところある故なりと論じている。頼山陽(江戸後期の歴史家、『日本外史』作者)も
同じ筆法で悖戻を攻撃している。

史家みな、斯く信玄を悖戻不義と罵り、中に飯田忠彦(幕末の国学者・歴史家、『大日本野史』作者)
のみは、よく事実を調べしと見えて、野史の信玄の賛には悖戻だの不義だのとは言わず

 国人信虎の凶暴を厭ふ、信形、虎泰、飫富虎昌等今川義元と通じ信虎をして駿河へ赴かしめ
 還るを得ざらしむ。信虎如何とも能わず。

と記したは公平なる書法である。

伝説研究・歴史之謎

江戸期の武田信玄への評価について