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内蔵助を攻める軍勢を出すべし

2022年11月21日 19:47

482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/21(月) 19:01:01.76 ID:kbOd9V3r
「越中国の佐々内蔵助(成政)は、秀吉が四国九州へと軍勢を出すならば、定めて隙きが出来たとして、
油断を突こうとするだろう。であるので、内蔵助を攻める軍勢を出すべし」と御議定した所に、
蜂須賀彦右衛門(正勝)が申し上げた

「内蔵助についてですが、彼は供の者六人を召し連れ、国を急に立って浜松に参ったと承っております。
供は佐々与左衛門、いたわ勘右衛門、松木内匠、その他計六人、そのように承っています。
御分別のため申し上げます。」

これに対し、秀吉公の御意には
「家康卿が律儀である所に目をつけ、内蔵助はすぐに合戦という状況で無いために、直談をすべしと
思ったのだろう。しかし今更家康卿に心置きをしようとするなど、口実を作って却って、
毛を吹いて疵を求むという事と同じだ。事が見えない先に聞き出すような沙汰は、必ず上手く
行かないだろう。

家康卿に表裏はない(家康卿表裏有間敷なり)。丈夫である家康を東の押さえに頼り置く事ができれば、
東国の気遣いは無くなる。であれば越中に馬を出そう。」
との御議定であった。

家康卿へは越中に、『御馬出候、加勢少可給者なり』と仰せ遣わした所、本多豊後に都合三千の兵、
そのうち鉄砲三百挺にて家康卿よりの御加勢として素早く上洛に及んだ。

これによって上様(秀吉)は大阪を、酉年(天正十三年)七月二十七日に出陣された。
この時の御分別には、「内蔵助とはこの間まで、肩を並べる傍輩であったのだから、定めて私に対して
疑いが深いだろう。例えこの秀吉に降参したとしても、悪我を張るであろう。
織田信雄は信長公の御実子であるから、信雄を私の旗本と定めよう。内蔵助は堅物であるから、
信雄に対して降参するだろう。」

そのように思し召し、軍勢の路地すがら信雄に対面した時、自身の御旗本のように執り扱ったのは、
その様子を越中に響かせるためであったと聞こえた。

川角太閤記



483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/22(火) 08:27:03.82 ID:1wYkIu2B
越前と美濃ですら連携に失敗してるのに越中と遠江なら尚更
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何事につけても、最も身が危うく見えるのは

2022年11月06日 18:50

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/06(日) 16:46:48.05 ID:XrQtncg6
(賤ヶ岳の勝利の後、柴田勝家の所領である越前を平定した羽柴秀吉は、彼に従属した前田利家が領する能登国へ入った。)
能登国中を巡検した秀吉は、越中との境目である末森城を取り立てるようにと言われ、さらに
七尾城も見られ、前田又左衛門(利家)に委しく言い含めた。

この時、前田又左衛門が申し上げた
「この勢いで、越中へ取り掛かり、内蔵助(佐々成政)を御退治されるべきです。」

秀吉は返答に
「その事について、思い出したことが有る。何かと言えば、天正三年五月二十一日に、甲斐国武田四郎(勝頼)と
三州長篠において信長公が御合戦成された時、頸数一万二千余り討ち取る大勝利を得たこと、貴殿も御供した
故に能くご存知であろう。

あの時、そのまま甲斐国へ押し込むのだろうと、私も人も考えていた。ところが信長公はそうせず、
そこから帰陣なされた。あの時、御勢い、御利運でこれ以上はないと思われたが、ああ言う時は
天魔の所業というものもあり、五,三年もそのまま捨て置けば、国内に謀反も出来、家中もまちまちに
成ることが聞こえるようにもなるだろう。その時に馬を出して退治するのだ、という御分別であったと
聞いている。

又左衛門殿も皆々も聞いてほしい。勝家に打ち勝った以上、この秀吉もこれに過ぎる安堵はない。
その上で心ならずも慢心することもあると覚える。その上、下々以下に及ぶまで勝ちに乗る体で、
早々勇み悦び、興に乗るような様子である。

佐々内蔵助は剛なる上に手聞の上手である。また合戦の習いとして、勝敗は人数の多少に必ずしも寄るもの
ではない。よって、これより一足先に引き取ろうと思う。その内に、秀吉が再び軍勢を募り出陣してきた時は、
位詰めに成るだろうと内蔵助も、またその家中の者達も考え出すであろうことは必定である。そうなれば
家中にも謀反者が出てくるだろう。

何事につけても、最も身が危うく見えるのは勢いが過ぎている時であり、だからこそ今引き取るべきである。」

そのように申して、加州村山城に入られ、加州半国と能登一国を前田又左衛門利家に与えた。
また能登に於いて長九郎左衛門(連龍)に対し、「前田又左衛門に付け置く。何事も利家次第とするように。」
と仰せ置かれた。

川角太閤記



当時の武将間の呼び名について

2022年09月29日 15:52

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/28(水) 19:20:21.19 ID:TRfck96B
大した話ではないし悪い話でもないが>>602の関連で
利家夜話』より
当時の武将間の呼び名について

越中魚津の城を北国の軍勢が柴田修理(勝家)を総大将にして取り巻いたとき、越後の上杉景勝が後詰めの軍勢を出してきた
その日の先手を求めて柴田伊賀、佐久間玄蕃、佐々内蔵介がいさかいを起こしていたので、(前田)利家が争いを納めようとした
そこに柴田がやってきてその話を聞くと、又左(利家)が仲裁に入っているのに「倅(せがれ)供」がなにを言うのかとお叱りになった

少なくとも織田家では寄り親のことを寄り子は「親仁(おやじ)」と呼び、寄り親は寄り子のことを「倅(せがれ)」と呼んでいた様子
いまも職人や渡世人の世界に色濃く残る疑制的親族関係ですが、戦国の時代はより濃厚だったのでしょう
こういう当時の口語的な呼び方が史料に残るのは比較的珍しいので、ご参考までに



不仲の内蔵介に寝転がりながら

2022年09月27日 19:13

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/26(月) 23:23:57.94 ID:ESVq42kt
利家夜話』より
権六と又左、不仲の内蔵介に寝転がりながら意地悪する話

越前の国を柴田修理(勝家)が拝領(した頃の話)
さて、大納言様(前田利家)と佐々内蔵介(成政)、不破河内(光治)の三人が府中にいたとき、柴田は北之庄から、佐々は五部市から、不破も(前田邸に)やってきて一日一夜、振る舞いをしたことがあった
柴田はことのほか機嫌がよく、「匍匐」(腹ばい)になって寝転がりながら上方の話や信長の手柄話を語った
柴田が言うには「又左(利家)よく聞け。最近、表裏者の明智光秀が出世してきた。(信長が)指を折って数えられたように、俺の手柄で26度まで勝利を得、信長公よりお礼を賜っている。誰が出世してきても恐ろしくはないわ。お前も指を折ってみろ」
すると利家は「『親仁』(寄親=勝家、オヤジと呼んでいたのか?)は家来が多いから先手でたびたび勝利を得ましたが、(勝家も)端武者のごとくたびたび槍を振るったのは今の世で並ぶものはいないでしょう。では、私も指を折ってみましょう」と指を折り、あちこちでの18度の手柄の話をした
柴田はいっそう機嫌がよくなり、なんやかやと色々話をし、「世間ではたまたま二、三度手柄を挙げるものは多いが、心が猛くとも合戦がなければどうしようもない。今の世は武勇を挙げたければいくらでも機会がある。俺や又左は信長公にも同僚にも恥ずかしいところはない」と笑った
柴田と利家は佐々と仲が悪かったので、柴田は佐々への当て付けで話したのだろうと(利家は家臣に)語った
佐々は涙を流して何も話さなかった
柴田と利家はさらに「繰返繰返」同じようなことを話し続けた

古織と有楽にも寝転がってしゃべった逸話がありますが、そんなほのぼの感はまったくない話



603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/27(火) 01:43:25.44 ID:ulOgv5iB
勝家派閥でも嫌われてるとか、佐々は仲良い相手いないのか?

604 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/27(火) 10:37:42.00 ID:thuJaFyX
ならなんで遊びに行ったんだろう

605 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/27(火) 19:51:33.44 ID:X6fAHDOq
成政も実戦経験豊富だったよね?
称賛された手柄も結構あったような

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/28(水) 22:19:39.72 ID:TRfck96B
>>605
利家は夜話の中で「俺は19度槍を合わせた、佐々は3度だけだ」とか散々佐々をディスってるんですが、越中攻めのときは「佐々もさすがの武将だから」みたいなことを言って、二筋ある攻め口の佐々正面側の攻撃をやめさせたりしてます
そもそも不仲になった原因は、利家が切った茶坊主(このせいで利家は浪人に)と佐々が仲良しだったから
別に佐々が信長に訴えたりしたわけでもなく、茶坊主は信長とも懇意だったので、信長自身が激怒して「犬(利家)を成敗せよ」とか口走ってるんですけどね

一方で、勝家とは関係性がよく見えます
しかし武将の評価としては「勝家は戦場で、鉄砲が飛んできても立っていて、弾なんぞに当たるわけがないから立っておけと家臣に叫ぶ。森可成と坂井政尚は当たるときは当たるんだから伏せておけ。敵陣に懸かるときになったら開き直って遮二無二突っ込めと言う。一軍を率いる大将とは後者であるべきだ」という趣旨の話もしていたようです

北陸道の大蛇

2021年10月26日 18:13

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/26(火) 16:16:39.66 ID:7icELIdo
佐々内蔵助(成政)殿が越中を領せられ、国が繁盛するようにと思われて北陸道の道を
作られたのだが、この街道の半ばに両方が山の深い淵があり、谷底において三十間(約55メートル)
ばかりあると思われ、下は青淵にて非常に深いと見えた。内蔵助殿はこれに大橋を架けて往来の
旅人を心安く通さんと考えられていた所に、その土地の住人が申すには

「昔よりこの淵には大蛇が棲んでおり、必ず一年に二、三人づつ取らぬ年は有りません。
その事を諸国の者達も聞き伝え、この街道を取りません。」

「それは本当なのか」

「この事は近年に始まったことではなく、昔より続いてきた事です。」

内蔵助殿はこれを聞くと怒った
「何という憎き奴だろうか!昔はそれをやっていたとしても、今この地は私の領分である。
どうして往還の妨げを成す必要があるのか。ならば急ぎ退けん!」

そしてこの淵の傍に井楼を上げて石火矢を仕掛け人数を寄せて、内蔵助殿は申された

「いかに淵の底なる大蛇、物を聞け!我はこの国の主としてこの街道を心安く行き来し、旅人を
通そうと思うに、汝はこの淵に在って毎年人を喰む事、奇っ怪である!急ぎこの淵より何処でも
罷り退くように。退かなければ悪しかるべし、先ず手並みの程を汝に見せよう!」

そう言うと石火矢を天地も動くばかりに淵の底へと撃たれた。すると淵は逆波立って振動し、
俄に霧が降りて暗闇と成ったが、淵の底より一直線に辰巳の方へ十六、七町(約1800メートル)飛んで
山の尾根の先に落ちると、大地振動してその場所は五十間四方の深々とした淵と成り、そして大蛇は
そこに棲んだ。これによって先の淵には橋が架けられ、心安く行き来が出来るように成った。

まことに夥しき大蛇と雖も道理によって折れたのであり、また石火矢を恐れたのであろう。
不思議にぞ覚える。

義残後覚

佐々成政の大蛇退治
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6712.html

おそらくこれの元ネタですね



739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/26(火) 16:28:43.21 ID:Tap1+08u
佐々成政と大蛇といえば
佐々成政の居城の近くのあまが池に大蛇が出るというので
信長が「池の水ぜんぶ抜く」作戦を実行して大蛇の不在を確かめてたっけ

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/26(火) 16:47:42.64 ID:oNvdwBUh
池の水を抜くテレビ企画すっかり振るわなくなったな

河田豊前守が勇智深き故に

2021年07月25日 17:18

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/24(土) 23:51:38.51 ID:Gcr6Dmv+
天正十年の夏(筆者注・天正九年の誤りか)、河田豊前守(長親)は越中松倉城に籠もった。
織田信長の軍勢が五万余の兵で押し寄せたが、河田の武勇に恐れ、二方より遠巻きした。

この時、城中の神保肥後守という者、越中先方の侍大将にて、河田の相備えであったのだが、
彼には敵と内通しているのではないかという疑いがあった。しかしその証拠となるような
ものはなく、ここにおいて、河田は自分の家臣の中で頼もしき勇士を一人、下郎の出で立ちにさせ、
夜忍んで敵陣へ遣わした。即ち敵はこれを捕らえて怪しみ問うと、彼はこのように答えた

「私は城内の神保肥後守の透破である。どのような内容かは知らないが、佐々(成政)殿への
一通の書状を持って出た。城中の者に取られないようにして、佐々殿へ奉れと申し付けられた。
ところが近くの森の中の道にて若侍五、七人に出会い、彼らに刀、脇差、羽織、そしてかの書状を
入れた打飼袋まで剥ぎ取られ、ようやくここまで逃げ参った。あの書状がその後この陣に来ているので
あれば問題はないが、城中の者達に取られたのであれば大事である。このこと調べられるように。」

これに対し、敵方も警戒をし、後途の様子を見るまでとし、その上「心を許すな」と、彼を
搦め置き陣中の穿鑿をしたが、彼の言ったような者はおらず、如何と思案する内に、城中より
矢文が射られた。抜いてみれば、河田豊前守より佐々に宛てた書状であった

『当城の神保に対しての密議の計略は既に露見した。その身柄は獄に籠め、首を刎ねようと
欲している。これは武道不功、軍理未熟によるものであり、弓箭の恥辱、末代までの汚名となること、
どうして疑いがあるだろうか。
しかしながら神保は十年以来の新たに仕えた者であり、立場が定まっていたわけではない。
頻りに赦しを乞うており、その身柄をそちらの陣に引き渡そうと決まった。回答を待つ。』

これについて敵は寄り合い、返事をすべきか、ただ置いて返事をしないでおくか
決断しなかった。城内に於いては矢留の幕を打ち、二時ばかり返礼を待ったが来なかった。

河田の考えには
「返書が来たなら、その文体によって真偽を知ることは簡単であった。然るに返報が来ない以上、
神保の逆意は明らかである。何故なら神保が内通して居ないのであれば、さっそく返書し、その
文面にあやをなして、内部の和を破る手段として吉兆であると、急ぎ返事をするはずである。
そうせずに返答が遅いのは、どうにかしてこの陰謀が顕れないよう、事を誤魔化すべしと
談合しているであろうこと、疑いない。」

こうして、河田は神保を召すとこれを虜にし、その家老、身近の者合わせて七人、主従妻子ともに十三人、
城外の堀際でこれらを磔にした。神保が首に懸けていた守袋の中に、佐々、柴田(勝家)両判にて、
「今回の儀が終結した後、松倉城に五万石を添えて充てがうべし」との一状があった。
河田豊前守が勇智深き故に、この陰謀を察し擬慮を定めること、斯くの如し。

(管窺武鑑)



346 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/25(日) 07:26:47.45 ID:3Kt+VyKp
>>345
織田陣に入った河田方の勇士はどうなったんだよ えーっ?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/26(月) 18:44:33.74 ID:lfSNcW2A
>>346
勇士は荼毘に付したよ…
骨はある場所に置いてある

348 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/27(火) 07:24:20.51 ID:OvNmFwAu
>>347
ふぅん、そういうことか

信長公の御眼力も相違していたかのように

2021年07月14日 17:45

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/14(水) 15:20:34.80 ID:5gAw/g0d
佐々内蔵助成政は秀吉の越中征伐の結果降参し、命を助けられ、同朋衆となって二年ほどあったが、
この時秀吉公は思し召された

「昔、信長公に召し仕われた時には、私よりも上位の者であったが、今はこのようになった。
これは私の弓矢の威光故である。もはやこのように成った以上、このまま差し置いていては、
信長公の御眼力も相違していたかのようになってしまう。」

こうして九州平均の後、天正十五年六月、肥後一国を成政に賜り、陸奥守と改めて、肥後熊本に
在城した。

ところが佐々は、国の政道悪しく、諸事逆絽である故に、肥後国菊池郡の隈部親永・親泰父子が
一揆を催し、佐々を追い払おうとした。
佐々は単独でこれを鎮定する事ができず、秀吉公はこれを聞かれ、梁川城主の立花飛騨守宗茂、
その頃は左近将監と申したが、加勢を仰せ遣わされ、押し向かって勇功を顕した。
その後浅野弾正(長政)を遣わされ、一揆悉く退治有って、肥後国を加藤虎之助(清正)に賜り、
佐々は摂州尼崎まで呼び上げられ、彼の地に於いて切腹仰せ付けられた。

管窺武鑑

佐々成政を敗将の立場のままにしておくと信長の権威にも傷がつく、みたいな発想もあったですね。



846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/15(木) 00:53:04.43 ID:Wi+6/tQp
成政を肥後の統治者にするにあたっての箔付けや
周囲からの反発を抑える意味合いもあったんじゃないか?
秀吉は成政に期待して肥後を与えたようだけど
抜擢に対して名分的な物があるにこしたことはないだろうし

秀吉からの和平の呼びかけについて

2021年07月13日 18:35

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/13(火) 17:47:39.63 ID:YdDzYbfJ
羽柴秀吉公は越後柏崎・妙楽寺の御坊をお頼みになり。木村弥一右衛門(吉清)を差し副え、上杉景勝公へ
和平についての御取扱を仰せ越された。

この妙楽寺は日蓮宗の智識であるため、景勝公も御懇になされ、御出陣の時に彼も具足を着て、
日蓮上人自筆の曼荼羅を差物にして供を仕り、武道も標準以上の巧者であり、合戦で斥候として
敵を見積もられた事も、二度三度とあった。

しかし、この秀吉からの和平の呼びかけについて、景勝公はこのように思し召された
「謙信公が切り従えられた国々の内、未だ五分の一も自分の手に属していない中、
現在天下に猛威を振るう秀吉と和平を結べば、それ以後、その国々を切り取ったとしても、
世間では景勝の鋭鋒のためとは言わず、秀吉の太刀影を以て。そのようなことが出来たのだと
評価されるであろう、」

そして秀吉方より使者が再三仰せ越されたのだが、その儀に応じなかったのであるが、
この年の九月上旬、また木村を以て仰せ越された。その内容は

 一、内々に申し入れていた通り、和平を是非御同意して頂きたい。もし疑わしく思し召されて
   いるのであれば、秀吉自信がそちらに罷り越してでもその疑いを解こう。無二に
   申し合わせたい心中である

として、熊野牛王に誓詞を認めて差し越された。

 二、和平が出来なくなれば、北国筋の働きはどうするのか。越中の佐々内蔵助(成政)は、
   信長公の厚恩を受けながら弔い合戦にも罷り上がらなかった。私が君敵の明智を誅伐
   したのだから、私に対しても一応の礼儀があるべきなのに、そのような事もなく、
   信長滅亡を却って悦び、柴田、滝川と言い合わせ、各々の居館に引き籠もり、私を
   非難すること、法外であり人倫の道ではない。であるので、去年正月、滝川を悉く
   仕詰め、長島一城に追い込んだ時、柴田が江州に討って出た故に、賤ヶ岳に馬を向け、
   一戦を遂げ勝利を得、直ぐに越前北ノ庄に追い詰め成敗したこと、これも去年四月である。
   偏に上を軽んじ、我が身の邪欲に引かれた逆心の不義は、天刑遁れ難く、あのようになったのだ。
   佐々も同罪であるので、成敗するのだが、その時に佐々が隣国を頼るとして、上杉家に対し
   御加勢を乞うてきても、御同心の無いように、一向に頼み入る。

この二ヶ条を申し来た事について。景勝公はこのように仰せに成った
「越中への加勢の事は、秀吉公より言われるまでもないことだ。去々年の夏、魚津城において
佐々成政の攻撃のため、私の家臣たちが自害したことについては、秀吉も聞き及んでいるだろう。
その弔い合戦のため、我々こそ早々に越中へ攻め寄せるべき所に、信州への出馬、国内での
新発田との戦い、そして今年、佐渡への働きも中途であり、遅々に及んだことは、心外の至である。

越中は謙信が切り取った国であるので、本来なら景勝の手柄によって切り従えたいものなのだが、
佐々の不義の様子を委しく仰せ越された以上、秀吉の働きを抑えるのもいかがなものか。

ではあるが、景勝が働きを止めてしまうと、「遂に越中へ手勢を遣わさず、秀吉に渡した」と
言われることも無念である。そこで今度、越中へ出馬し、越後家の弓矢を木村弥一右衛門に見物させ、
上方への土産の物語とするように。」

と仰せに成られた。

管窺武鑑

和平には消極的だが佐々成政に与しない姿勢を見せた、という事かと



蒲生氏郷、小田原役に際して

2019年10月30日 17:17

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 15:24:11.20 ID:CG1Gj3kI
蒲生飛騨守氏郷は、南伊勢五郡12万石を領する飯野郡松坂の城主であるが、今度秀吉の命で
一軍の将として、天正十八年三月二日居城を出て関東(小田原征伐)へと向かった。

出発に当たり氏郷は、領内で家中を整え勢揃いをした。前駆、後駆の手当もし、隊伍の備えも済ませ、
自身は家重代の鯰尾兜を近臣に持たせ、ここに居よと命じて軍勢の見聞をし、その場に戻った所
兜を持たせた家臣は居なかった。その最初の失態に氏郷は何も言わず、二度目の見聞の後、その場に戻ると
又もその家臣は居なかった。何かの事情でやむなく場を外したのであろうが、主人の命を二度まで
蔑ろにしたということで、氏郷は即刻太刀を抜いてその家臣を切り捨てた。これを見た諸士たちは
唇を震わせ恐れ、小田原及び奥羽の陣中。誰もが厳しく軍法を守り命に背く者は居なかった。

またこの当時、氏郷の馬印は熊の毛の棒であったが、今回関東に発向するにあたって、その馬印を止めて
三階笠を用いたいと、秀吉に願い出た。三階笠の馬印とは、越中の佐々内蔵助成政の馬印で、天下周知の
ものであるだけに、秀吉はこれを許さなかった。
氏郷が「では私の武勇は成政に劣ると言われるのでしょうか?。」と問うと、秀吉は
「今暫く待つように。小田原表での働き次第で許すとする。」と答えた。
氏郷は黙って引き下がったが、今度の出陣に命を捨てる覚悟であることが見て取れた。

氏郷は松坂を出発前に画工に命じ、綾の小袖を着し手に扇を持った自分の姿を旗指物に描かせ、
例の三階笠も内緒に仕立てた。そして門出に当たって重臣である町野左近将監繁仍の妻を呼んだ。
この女性は氏郷の乳母であった。

氏郷は彼女に語った
「私は関東に下って討ち死にする覚悟である。なのでこの旗を江州蒲生郡日野の菩提所に送り
納めるように。」
そう言って旗を渡した所、乳母は涙を流して
「殿は未だ歳もお若いのに、そのように、旗を菩提所に納めるなどというのは忌々しき事です。」
そう承知しなかったが、氏郷はこれを笑って
「この度はるばる関東に下れば、生死のほどはおぼつかない。もし予想したように討死したのなら、
我が子藤三郎秀行が成長の折、父の平生の姿を見たいと思うことも有るだろう。その時はお前が
長生きをして、この絵姿を見せ、また我が事もよく語り聞かせて欲しい。」
そのように言った。

また三階笠の馬印は、その後小田原攻めでの斉田口の夜討ちで戦功を立て秀吉より御感を賜り、
翌日三階笠の馬印を許されたという。

(関八州古戦録)

小田原役に際しての、蒲生氏郷の事



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 17:36:57.94 ID:c98Y6W1Y
小田原では死なないけどその数年後だよね
若くして死ぬのは乳母不幸でもあるな

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 18:11:05.23 ID:ziwIggb6
工場長は人生が漫画チックだな。原哲夫にお願いしたい。

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/31(木) 06:23:50.17 ID:uednysj4
ぶった斬る前に叱ってやって欲しいよね...無茶苦茶腹を壊してたかもしれないしさあヽ(´Д`;)ノ

或いは彼以前にはかつて見なかった事であった

2019年09月08日 17:13

羽柴筑前殿 Faxiba Chicugendono は日本全国の王 Vo (天皇)より最高の官位と名誉を授けられるため
都に赴いた。すなわち王の次の人である関白殿 Quambacudono となる事であった、信長の努力と勢力、
並びに王に対して尽くしたことも、彼が大いに望んだ右の称号を授けられるに足りなかった。

羽柴は更にその名を高くせんと欲し、老王(正親町天皇)が位を長子に譲るため(実際には孫の
和仁親王・後陽成天皇)、甚だ立派な宮殿を建築した(仙洞御所)。
羽柴は高貴なる大身の一女を養って子となし、実子として父の死後王室を継ぐべき王の孫に嫁しめた
(近衛前久娘・近衛前子)。

羽柴筑前守は甚だ微賤に身を起こし。富貴・名誉及び現世の光栄の頂点に達したが、多数の競争者は
彼が日本の習慣により、車が速やかに廻るように、没落に近づくことを期待している。日本の諸侯は
450年来、絶えざる変革に動かされていたのである。

羽柴筑前殿が右四ヵ国(四国)を占領するため軍を出した時、越中国 Yechu において名を虎之助 toranocuque
佐々成政のことであり、内蔵助の誤り)という他の領主が彼に背いた。彼の領地は70レグワ余り奥地にあり、
羽柴は遠方に居るため攻めて来る事はないだろうと考えた。然るに羽柴は軍隊が勝利を得て四ヵ国より
還った後、途中の労苦艱難を意とせず、自ら六万の兵を率いて彼を攻めた。敵はこれを聞いてその軍勢が
未だ到着する前に降伏し、大阪に到りて勤仕するため、所領の二国をその子に与えることを請い、
その子もまた臣従すると申し出、羽柴はこれを許した。
羽柴が軍隊を率いて北の地方へ行ったため、交盟を躊躇していた他の強力な王侯もまた降伏した。

彼はこのようにして、漸次日本全国の絶対の君とならんとしている。これは今日まで甚だ稀な、
或いは彼以前にはかつて見なかった事であった。

(1585年11月13日(天正十三年九月二十二日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

四国征伐前後の、秀吉についての記事



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/08(日) 15:37:48.97 ID:g09xnFYg
ファクシバ チクジェン ドゥノ

神速無比の人なり

2019年02月12日 18:11

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/11(月) 20:06:12.81 ID:GR8PkkoR
太閤は柴田勝家を征伐した時、城に火の手が上がるのを見てそのまま越中に赴き佐々陸奥守(成政)を征
伐した。勝家の首を見なかったが、そのような事をも何とも思われなかったのである。神速無比の人なり。

(中略)

太閤は万時早速なり。ある時に右筆が醍醐の“醍”の字を忘れた。太閤は指で“大”の字を地に書き曰く、
「汝は知らぬのか。このように書け」ということである。

また高麗の軍中に奉書などを下される時にも「継いだ紙に書け。あるいは悪いところは墨で消してこれを
持って行け」と遣われたという。(原注:一本には「『俊傑の人はこのような小枝には心を掛けぬものだ』
とのことだったという」とある)

――『老人雑話』


柴田勝家自害の時)

秀吉が北ノ庄城の天守が焼け上がるのを御覧になって、「又左衛門殿(前田利家)はどのように御観察に
なるか」と仰せられれば、又左衛門殿は「勝家は自害致されたか、または武略でもござるのかこの二つと
存じます」とのことであった。

秀吉がこれを御聞きになられて「武略の様子とは如何に」と仰せなされば、又左衛門殿は「勝家は天守に
火を掛け自害したように見せかけ、自身はひとまず落ちたのかもしれません」との御答えであった。さて
秀吉は、

「勝家ほどの者が居城の天守に火を掛けるということは、私も人もそうだが、城持ちほどの者にとっては
天守一つであっても運を開くための天守である。それに火を掛けるほどならば、とりわけての何かはあるまい。
ただ単に勝家の自害は必定である。(それに火をかくる程ならは別條候まし但自害は必定也)


又左衛門殿が仰せられたように、たとえ一旦落ちて山林へも入り、その後に尊氏などのようにまた重ねて
義兵を挙げようとの判断であろうとも、あの体をなすまでに成り行っては、2年3年の間に義兵を挙げる
ことはできないのである。その間に私が聞き出して、尊氏のようにはならずに勝家は縛り首にあうだろう。

『首を見る』『遺体を探し出す』などと申していては、3日5日は日柄が立ってしまうのは必定である。
首遺体は見ること不要の物だ(頸死骸見候はん事不入物候)。いざや、ただちに加賀国に押し込む!」

と仰せになって、かの石橋(北ノ庄の石橋)を又左衛門殿が真っ先に押し渡り、秀吉は城を横目にして加
賀国へと御馬を速められた。

秀吉は御使番衆を召し寄され、「下々の者どもを町屋に入れて、2泊分の米・塩・味噌を用意させよ。馬
の飼料以下も同様である。その他の物でも、乱取りしようと心を入れてはならぬ。その通り下々へ触れよ」
と仰せになり、その夜は船橋を御渡りとなって、御陣取りを一夜で御据えになった。

――『川角太閤記』


秀吉は紅梅の色の布団を敷き、ビロードの枕をして

2018年11月27日 17:11

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/27(火) 16:26:27.35 ID:3QZcjrrA
佐々成政は越中に在城して秀吉に敵対したが、秀吉の軍が越中に侵攻すると、やむを得ずして降を乞い、
剃髪して編綴(軍事や行政文書をまとめたもの)を著し出仕した。

この時秀吉は紅梅の色の布団を敷き、天鵞絨(ビロード)の枕をして仰向けに寝て、成政をその御座所に
召し出し、良き分別なりと笑談し、色々懇ろをつくし、越中一郡(26万石)を与えた。

(士談)

変に雰囲気のあるベッドルームに寝たまま成政を招き入れる秀吉。



531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/28(水) 00:24:45.02 ID:n4LZlX5q
これがそこらの大名だったら尻の危機を感じるところだが
秀吉だからその辺は安心だな

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 14:27:22.27 ID:k46ENbCe
藤吉郎にこんな態度取られて、どんな気分だったろうな

謙信の武勇などいか計りの

2018年11月26日 17:45

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/26(月) 17:40:01.92 ID:KK3kfl/4
佐々陸奥守成政が越中の守護職であった時、彼は越中外山に在城していた。

何保という所に、菊池入道と号す者があり、彼は元は長尾(上杉)に属し、現在は佐々に随心して、我が子を
成政の傍に使わし、常に外山に出仕して、越中の昔のことなどを物語した。

ある時、酒宴たけなわで成政も興に乗じている時分、常にもてはやしていたナマズの盃を取り出し、これに
酒をつがせ飲むと、次に菊池入道へさした。入道三度これをかたむけ成政へ返し、腰に挿していた脇差、これは
波平であったが、それを捧げ

「慮外ながら献上仕る。これはかつて長尾(上杉)謙信より受納した物ですが、どうか謙信にあやかり給うように。」

そう言ったところ、成政は大いに怒った

「何事をあやかるというのだ!?謙信の武勇など、いか計りの事があるというのか!」

入道を怒鳴りつけ、脇差を投げ捨てた。入道はこれに

「武勇のことではありません。謙信は九ヶ国の管領でありました。ですので、果報いみじくましますように、との事です。
この入道も老耄して、酒興故にこのような事をしました。この脇差はどうぞ御小姓衆へ。」

と、酌に立った小姓に遣わした。これを見て成政も機嫌が直り、「小姓どもへのあやかり物としては丁度いい。」と
言って笑った。

(士談)



475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/26(月) 19:12:47.85 ID:Yfv/hYw6
佐々成政はほんと状況読めないし小物だし…
なぜ没落したのかがよくわかる。

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/26(月) 19:35:45.98 ID:bNDBxVrQ
>>474
切れた上司に対するフォローがすげえw即興でこんな返しができるようになりたい…。

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/27(火) 15:13:01.25 ID:T+B7ABYS
魚住城攻めで勝家と大喧嘩したんだっけ

三田村の後殿

2018年11月09日 09:34

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:54:07.70 ID:y13JWHDr
(姉川の戦いの直前)

織田弾正忠信長は浅井父子が朝倉に一味して前約を変じたのを深く恨み憤り「ならばまず朝倉を捨て置いて浅井を
誅すべし!」と、その5月21日、毛利新助秀詮(良勝)を使者として、援兵を徳川家へ請われた。神君は少しも
御辞退なく御了承になられて早々に軍勢を催促なされたところ、まず3千余騎が援兵となったという。

(中略)

6月17日、信長は数万の大軍を引き連れて岐阜城を発向され、近江へと向かわれた。これより先に近江では浅井
父子がかねてよりこの事を心得て防戦の用意をし、南郡苅安・長比両城を構えて越前の勢を分けて籠め置き、

鎌刃城には堀次郎(秀村)と後見に樋口三郎兵衛(直房)と多羅尾右近を籠め置き、本江の要害には黒田長兵衛を、
横山城には大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭を籠め置いた。浅井父子は小谷城にあって色々と

手配りし織田勢が寄せ来るのを遅しと待ち受けた。江北は要害堅固で急に攻め入るのは難しく、信長は出陣以前に
木下藤吉郎秀吉に内意を含め、竹中半兵衛重治に内々樋口と語らわせた。重治は樋口と数年来の知音なので樋口の

方へ赴き、理を尽くして誠を現し諸々語らうと、ついに樋口も得心し同列の多羅尾に相談して信長方に一味した。
この城が織田方へ降参したと聞いて苅安・長比両城に籠っている越前勢も浅井には一言の伝えもなく3千余騎は皆

越前へ逃げ失せた。信長はこれを聞いて近江へ攻め入り18日に坂田郡柿田村の西山に陣を張り、19日に横山城
を巡見された。この城の押さえとして水野下野守信元・織田上総介信包・丹羽五郎左衛門長秀ならびに堀次郎の勢

を残し置かれ、信長は坂井右近(政尚)・森三左衛門(可成)を両先手とし数万の軍兵を引き連れて小谷の向かい
虎御前山に備えて雲雀山の方より森・坂井、尊勝寺の方より柴田・内藤らが攻め入って小谷の町中を所々放火した。

この時、浅井備前守長政は「城より打って出て一戦せん!」とはやったが、「城兵は小勢で信長の大軍には当たり
難し。越前の加勢を待ちなされ」と、家老どもが諫めて出陣せず。よって織田勢は西は馬上、東は小室・瓜生まで

焼き立て、その夜は矢島に野陣して明朝には早々に龍ヶ鼻へ本陣を引き横山表へ向かわんとした。長政はその機を
察して「明朝に打って出て信長の退口を追討せん!」と申したが、この時も父・下野守久政も家老どもも、

「とにかく越前の加勢を待って合戦すべし」と申して長政の申すところを用いず。しかし長政の家人の若者どもは
あまりに無念に思って2百騎ほどが打って出ると、織田勢の佐々内蔵助(成政)・中条将監(家忠)の陣に弓鉄砲

を撃ち掛けて多くの敵を討ち取ったのである。織田方でも佐々・中条ならびに簗田左衛門次郎(広正)が奮戦し、
柴田勝家も味方を救って引き取らせた。これを“三田村の後殿”といい、当時美談とした。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


首の臍

2017年07月24日 18:06

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/24(月) 14:55:04.07 ID:0xK7yMrw

織田と美濃斎藤家との軽海合戦の折、斎藤龍興の老臣である稲葉又左衛門を、池田庄三郎(恒興)、
佐々内蔵助(成政)が同時に討ち果たした。
織田信長が実検あって首帳に記す時、佐々内蔵助は「これは相(同時)討ちではありません。池田の功名です。」
と主張し、池田は「佐々の功名です」と主張して互いに譲り合った。

この光景がなんとも美しすぎて(何とやらん美し過ぎて)、信長の機嫌はどんどん悪くなっていった。

この頃、信長の元で出頭した僧に、島蔵主という者があった。当時の尾張では、皆が金言のことを「蔵主」と
呼ぶほどの人物であった。
彼は信長の機嫌がどんどん悪化しているのを見ると進み出て申し上げた

「この首は池田が取ったものでも、佐々が取ったものでもありません。両人の申す所、実に尤もであると
存じます。」

信長は呆れ
「ならば、両人の内どちらかが取らずして、一体何者がこの首を取ったのだ?不審である!」

「何の事もありません。これは瓜のように、首の臍、自然と落ちたものなのでしょう。」

この返答に小姓たちが笑いだし、信長もつられて笑い、この場は平穏に済んだ。

(近古武事談)


「又左衛門は、まったく只者にあらず」

2017年01月19日 18:23

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/19(木) 02:50:23.03 ID:G4L3SlP9
蔵人殿(前田利久)の御知行は右の如く、信長公の御意で利家様へ下され、荒子を
御受け取りになった故、御兄弟ではあるが、すぐに御敵対のように御仲は悪くなった。

それにつき、柴田修理殿(勝家)、佐久間右衛門殿(信盛)、森三左衛門殿(可成)、
佐々内蔵助殿(成政)、利家様などが御参会し、色々の御話しのなかで、

「又左殿は御手柄度々のこと故、前田の惣領を御継ぎになったのはもっとものことと
存ずる」とのことで、御続けに御舎兄の蔵人殿のことを、皆々謗り口に御話しした。

その時、利家様は、「まことにかたじけない」と、御挨拶した。そのうえに、「蔵人殿は
武道もぬるい」とのように、とりどりに言葉の端から出ていたので、

利家様は押し跪きなされ、「蔵人は聞こえぬ分別を仕る故、跡目は私に下されました。
かたじけなく拝領仕り、前田の惣領は私が持ち申しております。ただし、蔵人の武道
のことは、私めの前で御申しになることは御免頂きたい」と、けわしく御申しになり、

皆々は、「もっともである」と御申しになって、物申す人はいなかった。これも柴田殿や
森殿だけであれば、御知音なので苦しからぬことであったが、右衛門殿や内蔵助殿、
その他2,3人が御越しであったので、

右の通り仰せになったと、利家様は御物語りになられた。この事はまたひとしお、
「又左衛門は、まったく只者にあらず」と言い習わされ、信長公の御耳にも入り、
信長公は御感心であったとのことである。

その後に、柴田殿と三左衛門殿も利家様へ御謝罪になり、また、大納言様(利家)も
御両人に御謝罪し、ますます御間柄は良くなりなさったと利家様は御物語りなさった。

――『亜相公御夜話』




成政の治水

2015年12月11日 07:33

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/11(金) 02:09:45.15 ID:eZBB58jF
天正8年秋、富山では長雨が連日止まず、大いに出水した。
旧来、神通川は呉服山の麓を流れたが、この時から河身は東に転じ、
富山城の後ろに傾注したという。

また常願寺川も氾濫して富山城を浸し、家屋は漂流して人馬の溺死も
数え切れなかった。城主・佐々成政は大いにこれを憂いて、その後の
水患を除こうと望み、被害地を巡検して大いに治水に力を尽くした。

成政は馬を馬瀬口に進めて自ら人夫を指揮し、土石を運搬させ、
記念として巨岩に自分の氏名を刻み、これを河底に埋めて、その上に
堅固な石堤(敷石25間)を築いた。

また新たに洪水のために分派した支川を鼬川と名付け、原野を開墾して
禾穀を植えさせた。

――『富山市史』




何事も変わり果てたる世の中に

2015年11月30日 07:20

696 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/30(月) 02:01:57.71 ID:jPpIu+lP
何事も変わり果てたる世の中に

佐々成政は、日本アルプスを踏破して12月1日、信州上諏訪に到着した。
諏訪頼忠からの第一報を受けた徳川家康は、この予想だにしなかった来客の報に驚き、
乗馬50匹・伝馬100匹を迎いとして出立させたという。
成政は駿府で一旦歓待された後、間を置かず遠州浜松に移動し、12月4日いよいよ対面となった。
結果はよく知られているように、家康側は外交的な辞令に終始し、
落胆した成政は信雄に謁見するため12月10日頃、清須に向かった。
成政は「将来必ず織田家の立場は危うくなる」と根気強く説得したが、
信雄は態度を左右するのみで、徒に月日は過ぎていった。
成政は滝川勝利とも面会し、滝川家を通じて信雄の再挙兵を促そうとした。
が、小牧・長久手合戦後、伊勢の所領を失い零落していた滝川家の近況を見知るにつけ、
成政は反・羽柴陣営の再構築が完全に困難であることを痛感し、相当な衝撃を受けた。
 
望みを絶たれた成政一行は、12月26日清須を出立。
来た道を引き返しながら、浜松城を経由し、再び越中へ戻ることになった。
その前に、成政と共に越山した佐々政元、前野勝長(前野長康の弟)等は、
最後の帰郷になるかもしれないと各々の故地に立ち寄っている。
ある者は付き従った従僕を留め置き、ある者は以下のように悲壮な思いを語っている。
「末森合戦の結果、主人・内蔵助の娘は大坂で磔にされております。殿の頭からは姫子を見捨てて、
織田家を取ったのだという思いが強いようです。ここに至っては、越中に立て籠って
筑前守と最後の一戦を交わし、越中武者の忠節を上方に思い知らせるのみです・・・」。

得るものもなく、再び厳寒の日本アルプスを前にした時、成政の頭には何が過ぎったのだろうか。
家康の当り障りのない対応、煮え切らない信雄、滝川家の零落、見殺しにした娘、そして信長。
本能寺の変からまだ3年と経たず、世の中はあまりに大きく変化してしまった。
そんな思いを胸に、成政をこの時、以下のような詩を詠んだという。

「何事も 変わり果てたる世の中に 知らでや雪の白く降るらん」

(武功夜話、家忠日記など)

※この詩については、成政降伏後に詠まれたとの説もありますが、成政降伏時は1585年8月。
真夏の盛りに詠むかな?と私は思いましたので、さらさら越え後に詠まれた説を支持したいと思ってます。
第一、その方がロマンチック。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/30(月) 21:54:25.33 ID:ht74SbzR
>>696
「信長が亡くなった後、日本の大部分は動揺し混乱した。
 そして諸国、環境、また個人の上にあまりにも多くの変化があったので、あたかも突如として別世界が出現した観があった。」

フロイス日本史

こうして成政は肥後国にはめ置かれた。

2015年10月16日 13:40

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/15(木) 20:43:33.97 ID:RVfz5yB3
豊臣秀吉は九州征伐を終えると、思った
「肥後の国を平和な人間に与えた場合、たちまち一揆が起こること必定である。
であれば佐々内蔵助(成政)を召し出し、この国にはめ置こう。」

そして佐々成政を召し出し、抜け目なしに一国を宛てがった。
また肥後国内の一揆の四人には、1万2,3千石づつ与えた。

その上で秀吉は、一度没落した佐々成政の人数は、方々に散っているであろうと考え、

『成政を召し出すので、成政がかつて抱え置いていた者達は、彼は国大名になるので
帰ってくるように』

との制札を、九州から京、堺まで立てた。このため成政の旧家臣は残らず成政のもとに
戻り集まった。

また、武具鉄砲以下は越中を没落した時、居城であった富山に残し置いていたのを、
秀吉が前田利家に申し付けたところ、諸道具は成政が残した時と少しも違わず、そのまま
大阪に差し上げられた。

それから、成政は肥後に船で向かった。大阪より2万石の米が、転封の費用として
援助された。また銀子千枚、鞍置き馬50疋が成政に拝領された。
こうして成政は肥後国にはめ置かれた。

(川角太閤記)

もしかして肥後国人一揆が起こったのって、秀吉が変に気を回して成政の家臣団みんな呼び戻したせいでは
ないだろうか…




495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/15(木) 21:05:23.53 ID:Lpm+lIzk
まぁそりゃ新参の家臣主体じゃ佐々も困るだろうけど
最後の文読むまではいい話に見えた

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/15(木) 23:02:10.72 ID:9FyttcUj
>>494
それはない
奥州の木村をみてみろ

この事態に神保は

2015年07月12日 17:30

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/11(土) 19:58:51.58 ID:UheazMzI
上杉謙信は天正6年(1578)の3月9日に患いだし、5日後の13日に49歳にて他界した。

他界したその13日から、本国である越後は騒ぎたった。その理由は、謙信は小田原北条氏政の舎弟・三郎を
養子とし景虎と名付け、また甥の喜平次をも養子とした。
謙信は、自身の存生はまだ久しいと思っていた。末々国を沢山に治めれば、跡を二旗に分けて
支配しようと考えていたのだ。しかし人間は不定の世界であり、3月13日に謙信は49歳にて死んだ。
14,15日には喜平次と三郎は謙信の跡を争い、春日山城において、本丸と二の郭で互いに弓鉄砲の
競り合いがあった。

この時、春日山城下には織田信長より謙信の下に、上方への御用のためと詰め置いていた、
佐々権左衛門が在った。彼は謙信との御用によって伊豆守と成っていた。
佐々は「いつまでも我らは越後に罷りあります。」と申していたにも関わらず、それを即座に翻して
暇乞いもなく上方へと脱出し、途中の道より『謙信御他界疑いなし』と飛脚を立てた。

佐々伊豆もやがて安土に着き、越後の模様を詳しく報告すると、信長大いに喜び、柴田右馬之丞という者を
召し寄越し、『越後をその方に取らせる』と書かれた書付を自筆にて出した。

このようであったので、越後における喜平次と三郎の争いは諸国に隠れないものとなり、謙信の他界は
10日の内に聞こえ、信長は加賀、越中、能登へ工作の手を入れた。
そうして加賀は信長の家来の佐久間玄蕃に与えられた。これも柴田修理(勝家)の甥であると聞く。
能登国は前田又左衛門(利家)に、越前は柴田修理に給わった。

越中は謙信他界を聞き、神保(長住)が運を開いた。かねてより信長が密かに謙信に対して盾をついていたのは、
この神保が信長の妹婿に成ったゆえだからである。

然れども、信長はおおかたならぬ表裏の大将であったから、末々神保を滅ぼそうと、佐々内蔵助(成政)という、
信長の家臣で柴田修理に劣らぬ剛の武士を神保の介添えに差し寄越すと、事に寄せて神保の権限を奪い、
越中は佐々内蔵助に給わるということになった。

この事態に神保はどこにも頼る相手がおらず。結局は敵の謙信の他界を悔やんだそうである。

(甲陽軍鑑)