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蒲生氏郷、小田原役に際して

2019年10月30日 17:17

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 15:24:11.20 ID:CG1Gj3kI
蒲生飛騨守氏郷は、南伊勢五郡12万石を領する飯野郡松坂の城主であるが、今度秀吉の命で
一軍の将として、天正十八年三月二日居城を出て関東(小田原征伐)へと向かった。

出発に当たり氏郷は、領内で家中を整え勢揃いをした。前駆、後駆の手当もし、隊伍の備えも済ませ、
自身は家重代の鯰尾兜を近臣に持たせ、ここに居よと命じて軍勢の見聞をし、その場に戻った所
兜を持たせた家臣は居なかった。その最初の失態に氏郷は何も言わず、二度目の見聞の後、その場に戻ると
又もその家臣は居なかった。何かの事情でやむなく場を外したのであろうが、主人の命を二度まで
蔑ろにしたということで、氏郷は即刻太刀を抜いてその家臣を切り捨てた。これを見た諸士たちは
唇を震わせ恐れ、小田原及び奥羽の陣中。誰もが厳しく軍法を守り命に背く者は居なかった。

またこの当時、氏郷の馬印は熊の毛の棒であったが、今回関東に発向するにあたって、その馬印を止めて
三階笠を用いたいと、秀吉に願い出た。三階笠の馬印とは、越中の佐々内蔵助成政の馬印で、天下周知の
ものであるだけに、秀吉はこれを許さなかった。
氏郷が「では私の武勇は成政に劣ると言われるのでしょうか?。」と問うと、秀吉は
「今暫く待つように。小田原表での働き次第で許すとする。」と答えた。
氏郷は黙って引き下がったが、今度の出陣に命を捨てる覚悟であることが見て取れた。

氏郷は松坂を出発前に画工に命じ、綾の小袖を着し手に扇を持った自分の姿を旗指物に描かせ、
例の三階笠も内緒に仕立てた。そして門出に当たって重臣である町野左近将監繁仍の妻を呼んだ。
この女性は氏郷の乳母であった。

氏郷は彼女に語った
「私は関東に下って討ち死にする覚悟である。なのでこの旗を江州蒲生郡日野の菩提所に送り
納めるように。」
そう言って旗を渡した所、乳母は涙を流して
「殿は未だ歳もお若いのに、そのように、旗を菩提所に納めるなどというのは忌々しき事です。」
そう承知しなかったが、氏郷はこれを笑って
「この度はるばる関東に下れば、生死のほどはおぼつかない。もし予想したように討死したのなら、
我が子藤三郎秀行が成長の折、父の平生の姿を見たいと思うことも有るだろう。その時はお前が
長生きをして、この絵姿を見せ、また我が事もよく語り聞かせて欲しい。」
そのように言った。

また三階笠の馬印は、その後小田原攻めでの斉田口の夜討ちで戦功を立て秀吉より御感を賜り、
翌日三階笠の馬印を許されたという。

(関八州古戦録)

小田原役に際しての、蒲生氏郷の事



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 17:36:57.94 ID:c98Y6W1Y
小田原では死なないけどその数年後だよね
若くして死ぬのは乳母不幸でもあるな

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/30(水) 18:11:05.23 ID:ziwIggb6
工場長は人生が漫画チックだな。原哲夫にお願いしたい。

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/31(木) 06:23:50.17 ID:uednysj4
ぶった斬る前に叱ってやって欲しいよね...無茶苦茶腹を壊してたかもしれないしさあヽ(´Д`;)ノ
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或いは彼以前にはかつて見なかった事であった

2019年09月08日 17:13

羽柴筑前殿 Faxiba Chicugendono は日本全国の王 Vo (天皇)より最高の官位と名誉を授けられるため
都に赴いた。すなわち王の次の人である関白殿 Quambacudono となる事であった、信長の努力と勢力、
並びに王に対して尽くしたことも、彼が大いに望んだ右の称号を授けられるに足りなかった。

羽柴は更にその名を高くせんと欲し、老王(正親町天皇)が位を長子に譲るため(実際には孫の
和仁親王・後陽成天皇)、甚だ立派な宮殿を建築した(仙洞御所)。
羽柴は高貴なる大身の一女を養って子となし、実子として父の死後王室を継ぐべき王の孫に嫁しめた
(近衛前久娘・近衛前子)。

羽柴筑前守は甚だ微賤に身を起こし。富貴・名誉及び現世の光栄の頂点に達したが、多数の競争者は
彼が日本の習慣により、車が速やかに廻るように、没落に近づくことを期待している。日本の諸侯は
450年来、絶えざる変革に動かされていたのである。

羽柴筑前殿が右四ヵ国(四国)を占領するため軍を出した時、越中国 Yechu において名を虎之助 toranocuque
佐々成政のことであり、内蔵助の誤り)という他の領主が彼に背いた。彼の領地は70レグワ余り奥地にあり、
羽柴は遠方に居るため攻めて来る事はないだろうと考えた。然るに羽柴は軍隊が勝利を得て四ヵ国より
還った後、途中の労苦艱難を意とせず、自ら六万の兵を率いて彼を攻めた。敵はこれを聞いてその軍勢が
未だ到着する前に降伏し、大阪に到りて勤仕するため、所領の二国をその子に与えることを請い、
その子もまた臣従すると申し出、羽柴はこれを許した。
羽柴が軍隊を率いて北の地方へ行ったため、交盟を躊躇していた他の強力な王侯もまた降伏した。

彼はこのようにして、漸次日本全国の絶対の君とならんとしている。これは今日まで甚だ稀な、
或いは彼以前にはかつて見なかった事であった。

(1585年11月13日(天正十三年九月二十二日)付、パードレ・ルイス・フロイス書簡)

四国征伐前後の、秀吉についての記事



188 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/08(日) 15:37:48.97 ID:g09xnFYg
ファクシバ チクジェン ドゥノ

神速無比の人なり

2019年02月12日 18:11

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/11(月) 20:06:12.81 ID:GR8PkkoR
太閤は柴田勝家を征伐した時、城に火の手が上がるのを見てそのまま越中に赴き佐々陸奥守(成政)を征
伐した。勝家の首を見なかったが、そのような事をも何とも思われなかったのである。神速無比の人なり。

(中略)

太閤は万時早速なり。ある時に右筆が醍醐の“醍”の字を忘れた。太閤は指で“大”の字を地に書き曰く、
「汝は知らぬのか。このように書け」ということである。

また高麗の軍中に奉書などを下される時にも「継いだ紙に書け。あるいは悪いところは墨で消してこれを
持って行け」と遣われたという。(原注:一本には「『俊傑の人はこのような小枝には心を掛けぬものだ』
とのことだったという」とある)

――『老人雑話』


柴田勝家自害の時)

秀吉が北ノ庄城の天守が焼け上がるのを御覧になって、「又左衛門殿(前田利家)はどのように御観察に
なるか」と仰せられれば、又左衛門殿は「勝家は自害致されたか、または武略でもござるのかこの二つと
存じます」とのことであった。

秀吉がこれを御聞きになられて「武略の様子とは如何に」と仰せなされば、又左衛門殿は「勝家は天守に
火を掛け自害したように見せかけ、自身はひとまず落ちたのかもしれません」との御答えであった。さて
秀吉は、

「勝家ほどの者が居城の天守に火を掛けるということは、私も人もそうだが、城持ちほどの者にとっては
天守一つであっても運を開くための天守である。それに火を掛けるほどならば、とりわけての何かはあるまい。
ただ単に勝家の自害は必定である。(それに火をかくる程ならは別條候まし但自害は必定也)


又左衛門殿が仰せられたように、たとえ一旦落ちて山林へも入り、その後に尊氏などのようにまた重ねて
義兵を挙げようとの判断であろうとも、あの体をなすまでに成り行っては、2年3年の間に義兵を挙げる
ことはできないのである。その間に私が聞き出して、尊氏のようにはならずに勝家は縛り首にあうだろう。

『首を見る』『遺体を探し出す』などと申していては、3日5日は日柄が立ってしまうのは必定である。
首遺体は見ること不要の物だ(頸死骸見候はん事不入物候)。いざや、ただちに加賀国に押し込む!」

と仰せになって、かの石橋(北ノ庄の石橋)を又左衛門殿が真っ先に押し渡り、秀吉は城を横目にして加
賀国へと御馬を速められた。

秀吉は御使番衆を召し寄され、「下々の者どもを町屋に入れて、2泊分の米・塩・味噌を用意させよ。馬
の飼料以下も同様である。その他の物でも、乱取りしようと心を入れてはならぬ。その通り下々へ触れよ」
と仰せになり、その夜は船橋を御渡りとなって、御陣取りを一夜で御据えになった。

――『川角太閤記』


秀吉は紅梅の色の布団を敷き、ビロードの枕をして

2018年11月27日 17:11

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/27(火) 16:26:27.35 ID:3QZcjrrA
佐々成政は越中に在城して秀吉に敵対したが、秀吉の軍が越中に侵攻すると、やむを得ずして降を乞い、
剃髪して編綴(軍事や行政文書をまとめたもの)を著し出仕した。

この時秀吉は紅梅の色の布団を敷き、天鵞絨(ビロード)の枕をして仰向けに寝て、成政をその御座所に
召し出し、良き分別なりと笑談し、色々懇ろをつくし、越中一郡(26万石)を与えた。

(士談)

変に雰囲気のあるベッドルームに寝たまま成政を招き入れる秀吉。



531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/28(水) 00:24:45.02 ID:n4LZlX5q
これがそこらの大名だったら尻の危機を感じるところだが
秀吉だからその辺は安心だな

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/29(木) 14:27:22.27 ID:k46ENbCe
藤吉郎にこんな態度取られて、どんな気分だったろうな

謙信の武勇などいか計りの

2018年11月26日 17:45

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/26(月) 17:40:01.92 ID:KK3kfl/4
佐々陸奥守成政が越中の守護職であった時、彼は越中外山に在城していた。

何保という所に、菊池入道と号す者があり、彼は元は長尾(上杉)に属し、現在は佐々に随心して、我が子を
成政の傍に使わし、常に外山に出仕して、越中の昔のことなどを物語した。

ある時、酒宴たけなわで成政も興に乗じている時分、常にもてはやしていたナマズの盃を取り出し、これに
酒をつがせ飲むと、次に菊池入道へさした。入道三度これをかたむけ成政へ返し、腰に挿していた脇差、これは
波平であったが、それを捧げ

「慮外ながら献上仕る。これはかつて長尾(上杉)謙信より受納した物ですが、どうか謙信にあやかり給うように。」

そう言ったところ、成政は大いに怒った

「何事をあやかるというのだ!?謙信の武勇など、いか計りの事があるというのか!」

入道を怒鳴りつけ、脇差を投げ捨てた。入道はこれに

「武勇のことではありません。謙信は九ヶ国の管領でありました。ですので、果報いみじくましますように、との事です。
この入道も老耄して、酒興故にこのような事をしました。この脇差はどうぞ御小姓衆へ。」

と、酌に立った小姓に遣わした。これを見て成政も機嫌が直り、「小姓どもへのあやかり物としては丁度いい。」と
言って笑った。

(士談)



475 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/26(月) 19:12:47.85 ID:Yfv/hYw6
佐々成政はほんと状況読めないし小物だし…
なぜ没落したのかがよくわかる。

476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/26(月) 19:35:45.98 ID:bNDBxVrQ
>>474
切れた上司に対するフォローがすげえw即興でこんな返しができるようになりたい…。

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/27(火) 15:13:01.25 ID:T+B7ABYS
魚住城攻めで勝家と大喧嘩したんだっけ

三田村の後殿

2018年11月09日 09:34

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:54:07.70 ID:y13JWHDr
(姉川の戦いの直前)

織田弾正忠信長は浅井父子が朝倉に一味して前約を変じたのを深く恨み憤り「ならばまず朝倉を捨て置いて浅井を
誅すべし!」と、その5月21日、毛利新助秀詮(良勝)を使者として、援兵を徳川家へ請われた。神君は少しも
御辞退なく御了承になられて早々に軍勢を催促なされたところ、まず3千余騎が援兵となったという。

(中略)

6月17日、信長は数万の大軍を引き連れて岐阜城を発向され、近江へと向かわれた。これより先に近江では浅井
父子がかねてよりこの事を心得て防戦の用意をし、南郡苅安・長比両城を構えて越前の勢を分けて籠め置き、

鎌刃城には堀次郎(秀村)と後見に樋口三郎兵衛(直房)と多羅尾右近を籠め置き、本江の要害には黒田長兵衛を、
横山城には大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭を籠め置いた。浅井父子は小谷城にあって色々と

手配りし織田勢が寄せ来るのを遅しと待ち受けた。江北は要害堅固で急に攻め入るのは難しく、信長は出陣以前に
木下藤吉郎秀吉に内意を含め、竹中半兵衛重治に内々樋口と語らわせた。重治は樋口と数年来の知音なので樋口の

方へ赴き、理を尽くして誠を現し諸々語らうと、ついに樋口も得心し同列の多羅尾に相談して信長方に一味した。
この城が織田方へ降参したと聞いて苅安・長比両城に籠っている越前勢も浅井には一言の伝えもなく3千余騎は皆

越前へ逃げ失せた。信長はこれを聞いて近江へ攻め入り18日に坂田郡柿田村の西山に陣を張り、19日に横山城
を巡見された。この城の押さえとして水野下野守信元・織田上総介信包・丹羽五郎左衛門長秀ならびに堀次郎の勢

を残し置かれ、信長は坂井右近(政尚)・森三左衛門(可成)を両先手とし数万の軍兵を引き連れて小谷の向かい
虎御前山に備えて雲雀山の方より森・坂井、尊勝寺の方より柴田・内藤らが攻め入って小谷の町中を所々放火した。

この時、浅井備前守長政は「城より打って出て一戦せん!」とはやったが、「城兵は小勢で信長の大軍には当たり
難し。越前の加勢を待ちなされ」と、家老どもが諫めて出陣せず。よって織田勢は西は馬上、東は小室・瓜生まで

焼き立て、その夜は矢島に野陣して明朝には早々に龍ヶ鼻へ本陣を引き横山表へ向かわんとした。長政はその機を
察して「明朝に打って出て信長の退口を追討せん!」と申したが、この時も父・下野守久政も家老どもも、

「とにかく越前の加勢を待って合戦すべし」と申して長政の申すところを用いず。しかし長政の家人の若者どもは
あまりに無念に思って2百騎ほどが打って出ると、織田勢の佐々内蔵助(成政)・中条将監(家忠)の陣に弓鉄砲

を撃ち掛けて多くの敵を討ち取ったのである。織田方でも佐々・中条ならびに簗田左衛門次郎(広正)が奮戦し、
柴田勝家も味方を救って引き取らせた。これを“三田村の後殿”といい、当時美談とした。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


首の臍

2017年07月24日 18:06

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/24(月) 14:55:04.07 ID:0xK7yMrw

織田と美濃斎藤家との軽海合戦の折、斎藤龍興の老臣である稲葉又左衛門を、池田庄三郎(恒興)、
佐々内蔵助(成政)が同時に討ち果たした。
織田信長が実検あって首帳に記す時、佐々内蔵助は「これは相(同時)討ちではありません。池田の功名です。」
と主張し、池田は「佐々の功名です」と主張して互いに譲り合った。

この光景がなんとも美しすぎて(何とやらん美し過ぎて)、信長の機嫌はどんどん悪くなっていった。

この頃、信長の元で出頭した僧に、島蔵主という者があった。当時の尾張では、皆が金言のことを「蔵主」と
呼ぶほどの人物であった。
彼は信長の機嫌がどんどん悪化しているのを見ると進み出て申し上げた

「この首は池田が取ったものでも、佐々が取ったものでもありません。両人の申す所、実に尤もであると
存じます。」

信長は呆れ
「ならば、両人の内どちらかが取らずして、一体何者がこの首を取ったのだ?不審である!」

「何の事もありません。これは瓜のように、首の臍、自然と落ちたものなのでしょう。」

この返答に小姓たちが笑いだし、信長もつられて笑い、この場は平穏に済んだ。

(近古武事談)


「又左衛門は、まったく只者にあらず」

2017年01月19日 18:23

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/19(木) 02:50:23.03 ID:G4L3SlP9
蔵人殿(前田利久)の御知行は右の如く、信長公の御意で利家様へ下され、荒子を
御受け取りになった故、御兄弟ではあるが、すぐに御敵対のように御仲は悪くなった。

それにつき、柴田修理殿(勝家)、佐久間右衛門殿(信盛)、森三左衛門殿(可成)、
佐々内蔵助殿(成政)、利家様などが御参会し、色々の御話しのなかで、

「又左殿は御手柄度々のこと故、前田の惣領を御継ぎになったのはもっとものことと
存ずる」とのことで、御続けに御舎兄の蔵人殿のことを、皆々謗り口に御話しした。

その時、利家様は、「まことにかたじけない」と、御挨拶した。そのうえに、「蔵人殿は
武道もぬるい」とのように、とりどりに言葉の端から出ていたので、

利家様は押し跪きなされ、「蔵人は聞こえぬ分別を仕る故、跡目は私に下されました。
かたじけなく拝領仕り、前田の惣領は私が持ち申しております。ただし、蔵人の武道
のことは、私めの前で御申しになることは御免頂きたい」と、けわしく御申しになり、

皆々は、「もっともである」と御申しになって、物申す人はいなかった。これも柴田殿や
森殿だけであれば、御知音なので苦しからぬことであったが、右衛門殿や内蔵助殿、
その他2,3人が御越しであったので、

右の通り仰せになったと、利家様は御物語りになられた。この事はまたひとしお、
「又左衛門は、まったく只者にあらず」と言い習わされ、信長公の御耳にも入り、
信長公は御感心であったとのことである。

その後に、柴田殿と三左衛門殿も利家様へ御謝罪になり、また、大納言様(利家)も
御両人に御謝罪し、ますます御間柄は良くなりなさったと利家様は御物語りなさった。

――『亜相公御夜話』




成政の治水

2015年12月11日 07:33

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/11(金) 02:09:45.15 ID:eZBB58jF
天正8年秋、富山では長雨が連日止まず、大いに出水した。
旧来、神通川は呉服山の麓を流れたが、この時から河身は東に転じ、
富山城の後ろに傾注したという。

また常願寺川も氾濫して富山城を浸し、家屋は漂流して人馬の溺死も
数え切れなかった。城主・佐々成政は大いにこれを憂いて、その後の
水患を除こうと望み、被害地を巡検して大いに治水に力を尽くした。

成政は馬を馬瀬口に進めて自ら人夫を指揮し、土石を運搬させ、
記念として巨岩に自分の氏名を刻み、これを河底に埋めて、その上に
堅固な石堤(敷石25間)を築いた。

また新たに洪水のために分派した支川を鼬川と名付け、原野を開墾して
禾穀を植えさせた。

――『富山市史』




何事も変わり果てたる世の中に

2015年11月30日 07:20

696 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/30(月) 02:01:57.71 ID:jPpIu+lP
何事も変わり果てたる世の中に

佐々成政は、日本アルプスを踏破して12月1日、信州上諏訪に到着した。
諏訪頼忠からの第一報を受けた徳川家康は、この予想だにしなかった来客の報に驚き、
乗馬50匹・伝馬100匹を迎いとして出立させたという。
成政は駿府で一旦歓待された後、間を置かず遠州浜松に移動し、12月4日いよいよ対面となった。
結果はよく知られているように、家康側は外交的な辞令に終始し、
落胆した成政は信雄に謁見するため12月10日頃、清須に向かった。
成政は「将来必ず織田家の立場は危うくなる」と根気強く説得したが、
信雄は態度を左右するのみで、徒に月日は過ぎていった。
成政は滝川勝利とも面会し、滝川家を通じて信雄の再挙兵を促そうとした。
が、小牧・長久手合戦後、伊勢の所領を失い零落していた滝川家の近況を見知るにつけ、
成政は反・羽柴陣営の再構築が完全に困難であることを痛感し、相当な衝撃を受けた。
 
望みを絶たれた成政一行は、12月26日清須を出立。
来た道を引き返しながら、浜松城を経由し、再び越中へ戻ることになった。
その前に、成政と共に越山した佐々政元、前野勝長(前野長康の弟)等は、
最後の帰郷になるかもしれないと各々の故地に立ち寄っている。
ある者は付き従った従僕を留め置き、ある者は以下のように悲壮な思いを語っている。
「末森合戦の結果、主人・内蔵助の娘は大坂で磔にされております。殿の頭からは姫子を見捨てて、
織田家を取ったのだという思いが強いようです。ここに至っては、越中に立て籠って
筑前守と最後の一戦を交わし、越中武者の忠節を上方に思い知らせるのみです・・・」。

得るものもなく、再び厳寒の日本アルプスを前にした時、成政の頭には何が過ぎったのだろうか。
家康の当り障りのない対応、煮え切らない信雄、滝川家の零落、見殺しにした娘、そして信長。
本能寺の変からまだ3年と経たず、世の中はあまりに大きく変化してしまった。
そんな思いを胸に、成政をこの時、以下のような詩を詠んだという。

「何事も 変わり果てたる世の中に 知らでや雪の白く降るらん」

(武功夜話、家忠日記など)

※この詩については、成政降伏後に詠まれたとの説もありますが、成政降伏時は1585年8月。
真夏の盛りに詠むかな?と私は思いましたので、さらさら越え後に詠まれた説を支持したいと思ってます。
第一、その方がロマンチック。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/30(月) 21:54:25.33 ID:ht74SbzR
>>696
「信長が亡くなった後、日本の大部分は動揺し混乱した。
 そして諸国、環境、また個人の上にあまりにも多くの変化があったので、あたかも突如として別世界が出現した観があった。」

フロイス日本史

こうして成政は肥後国にはめ置かれた。

2015年10月16日 13:40

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/15(木) 20:43:33.97 ID:RVfz5yB3
豊臣秀吉は九州征伐を終えると、思った
「肥後の国を平和な人間に与えた場合、たちまち一揆が起こること必定である。
であれば佐々内蔵助(成政)を召し出し、この国にはめ置こう。」

そして佐々成政を召し出し、抜け目なしに一国を宛てがった。
また肥後国内の一揆の四人には、1万2,3千石づつ与えた。

その上で秀吉は、一度没落した佐々成政の人数は、方々に散っているであろうと考え、

『成政を召し出すので、成政がかつて抱え置いていた者達は、彼は国大名になるので
帰ってくるように』

との制札を、九州から京、堺まで立てた。このため成政の旧家臣は残らず成政のもとに
戻り集まった。

また、武具鉄砲以下は越中を没落した時、居城であった富山に残し置いていたのを、
秀吉が前田利家に申し付けたところ、諸道具は成政が残した時と少しも違わず、そのまま
大阪に差し上げられた。

それから、成政は肥後に船で向かった。大阪より2万石の米が、転封の費用として
援助された。また銀子千枚、鞍置き馬50疋が成政に拝領された。
こうして成政は肥後国にはめ置かれた。

(川角太閤記)

もしかして肥後国人一揆が起こったのって、秀吉が変に気を回して成政の家臣団みんな呼び戻したせいでは
ないだろうか…




495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/15(木) 21:05:23.53 ID:Lpm+lIzk
まぁそりゃ新参の家臣主体じゃ佐々も困るだろうけど
最後の文読むまではいい話に見えた

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/15(木) 23:02:10.72 ID:9FyttcUj
>>494
それはない
奥州の木村をみてみろ

この事態に神保は

2015年07月12日 17:30

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/11(土) 19:58:51.58 ID:UheazMzI
上杉謙信は天正6年(1578)の3月9日に患いだし、5日後の13日に49歳にて他界した。

他界したその13日から、本国である越後は騒ぎたった。その理由は、謙信は小田原北条氏政の舎弟・三郎を
養子とし景虎と名付け、また甥の喜平次をも養子とした。
謙信は、自身の存生はまだ久しいと思っていた。末々国を沢山に治めれば、跡を二旗に分けて
支配しようと考えていたのだ。しかし人間は不定の世界であり、3月13日に謙信は49歳にて死んだ。
14,15日には喜平次と三郎は謙信の跡を争い、春日山城において、本丸と二の郭で互いに弓鉄砲の
競り合いがあった。

この時、春日山城下には織田信長より謙信の下に、上方への御用のためと詰め置いていた、
佐々権左衛門が在った。彼は謙信との御用によって伊豆守と成っていた。
佐々は「いつまでも我らは越後に罷りあります。」と申していたにも関わらず、それを即座に翻して
暇乞いもなく上方へと脱出し、途中の道より『謙信御他界疑いなし』と飛脚を立てた。

佐々伊豆もやがて安土に着き、越後の模様を詳しく報告すると、信長大いに喜び、柴田右馬之丞という者を
召し寄越し、『越後をその方に取らせる』と書かれた書付を自筆にて出した。

このようであったので、越後における喜平次と三郎の争いは諸国に隠れないものとなり、謙信の他界は
10日の内に聞こえ、信長は加賀、越中、能登へ工作の手を入れた。
そうして加賀は信長の家来の佐久間玄蕃に与えられた。これも柴田修理(勝家)の甥であると聞く。
能登国は前田又左衛門(利家)に、越前は柴田修理に給わった。

越中は謙信他界を聞き、神保(長住)が運を開いた。かねてより信長が密かに謙信に対して盾をついていたのは、
この神保が信長の妹婿に成ったゆえだからである。

然れども、信長はおおかたならぬ表裏の大将であったから、末々神保を滅ぼそうと、佐々内蔵助(成政)という、
信長の家臣で柴田修理に劣らぬ剛の武士を神保の介添えに差し寄越すと、事に寄せて神保の権限を奪い、
越中は佐々内蔵助に給わるということになった。

この事態に神保はどこにも頼る相手がおらず。結局は敵の謙信の他界を悔やんだそうである。

(甲陽軍鑑)

前田利家夫人、および奥村永福夫人のこと

2015年05月25日 18:37

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/24(日) 18:30:13.16 ID:yG6n96NO
天正12年(1584)、佐々成政は、前田利家の重臣・奥村助右衛門永福の守る、能登末森城を囲んだ。
世に言う末森城の戦いである。

成政は旗本を以って前田利家の後巻(救援)を抑え厳しく攻め立て「この城を打ち破れば
能登一国は即座に我々に従う。後巻が来ない内に乗っ取れ!」と下知した。

奥村はわずかに300ばかりの兵でここを守っていたが、あまりに激しく責め立てられたため、
「もはやこれまでである。自害しよう」と言い出した。

ところが、この奥村の妻は、小袖をたすき掛けにし鉢巻をして、刀を横たえ粥を煮て、
手桶に入れて下女に持たせ、城内の人々に手ずから汲んで食させながら、こう言って回った

「昔、楠木という大将は日本国を敵に受けて籠城したと聞き伝えられています。
明日には金沢より後詰めの軍が到着するでしょうから、今宵、ただ一夜だけ防いで下さい!」

奥村はこれを見て「今日の振る舞い男子にも優っている。さりながら女の力によってこの城を
持ちこたえるというのは口惜しいことだ。」とつぶやいた。

一方、佐々成政方は負傷者も増え、敵も容易くは落城しそうもないのを見て、これは火攻めに
すべきだと進言するものもあった。しかし成政は
「この城の大手の門を取って富山の城門とするのだ。また石動山の衆徒も私に心を合わせた。
慌てて火攻めを行う必要はない。」と下知し、既に二、三の丸を攻め取って夜が明けるのを待っていた。

この末森城から前田利家のいる金沢まで九里ばかり。その日の酉の刻(午後6時頃)、末森城より、
夜が明けるまではなんとしても城を守るという注進が入った。

前田利家はこの報告を聞くや金沢城の広間に出て、嫡子利長を呼んで
「汝はこの城の留守をせよ!」と命じた。しかし利長は

「いいえ、私が真っ先に出て佐々を打ち破ります!ここに残り留まるなど思いもよりません!」

これを聞くと利家
「ならば父子で打ち向かおう。敵の不意を打ってこそ利もあるだろう。兵を整える必要はない、
馬に鞍を置き次第一騎がけに打ち出よ!一足でも早く出る事こそ今夜の功だと思え!」
そして富田与五郎に
「おまえは津幡に行って不破彦三に末森の後巻きの先手をするように申せ」と下知した。
富田は直ぐに自宅に戻って馬を引き出し、不破彦三の元へと駆けた。

利家は士卒に「皆汁をかけて飯を食え!」と言いつつ具足を着て庭に自身の黒毛の馬を用意させていた。
この時、前田利家の婦人(芳春院)が三方にのし鮑を入れて入ってくると、利家・利長父子に従う者達に
向かって語りかけた

「おのおの、よく聞いて下さい。私は利長の母です。今日の後巻きは誠に大事の軍です。
それぞれ心を合わせて功名して下さい。

もし、末森城を敵に取られたなら、皆々、討ち死にしなさい。
私も人手にはかかりません!」

そして利長の側近くに進んで我が子に対し「末森が落城したなら、あなたも討ち死にしなさい。」と言った。
利長これに「生死の別れですね。」と答えた。

利家はこれを見て「荒心であることよ。成政を打ち破ること必定である!」と言い放つやいなや、
具足の上帯を締めて、結ぶ端を切り捨てて馬に打ち乗り出撃した。
この時前田父子の兵はわずかに100人余であった。利家は馬上で
「味方が少数である事こそ吉事である!佐々が思いもよらない所に斬りかかって打ち勝つであろう!
奥村を死なせては生きる意味もない!」と叫んだ。
(明良洪範)

末森城の戦いにおける、前田利家出陣までの逸話である。




成政、諸国より勇士を集めること

2015年03月17日 18:31

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 01:55:43.08 ID:VZePkvoA
成政、諸国より勇士を集めること

 佐々内蔵助成政の領国の越中は大国と申せども、過分の数の軍兵を召し抱えられていることは不審に思われるのも最もであった。
 その故は成政は謀反の心を抱き、尾張内府(織田信雄)と徳川(家康)殿に加担し、
『北国の大将』と呼ばれたいと心中に思われたからである。
越中は山の多い国であるから、知行の内に、山野までも含めたり、
或いは、上方から知行五千石と約束して呼び出し六千石、七千石、
又は、千石と言って千五百石を判形(知行を与える際の署名)で保証したりしたので、我も我もと越中を志して下ったのである。
 ところが所付(領知の内訳を記した文書)を見ると石高は一割五分から二割足らないものであったので、
人に知られた侍達は暇を乞い上洛したり、あるいは加州利家卿に認められ暇を出す者も多かった。
その内に加賀越中に争いが生じたので、さすがに兵達も成政を見捨て上洛もし難く、そのまま留まらざるを得なくなり、
越中勢は思いの外人数が多かったのである。
(末森記)

成政の浪人採用事情の裏話



575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 09:56:22.71 ID:qqL96DcH
ブラックと社畜ですね

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 18:16:19.16 ID:VyNDIpmW
銭をけちって兵を集められなかった前田家が佐々よりも兵が少なかった言い訳をしているみたいw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/18(水) 02:37:23.95 ID:987CuGCF
前田側の資料だし悪く書かれるのは当然だよな

円隆寺とさんさい踊り

2015年02月10日 18:45

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 11:26:39.59 ID:KT02FOvC
円隆寺とさんさい踊り

 本寺は正覚山円隆寺と称する天台宗のお寺で、初代富山藩主、前田利次公の富山城入り以来、
代々前田家の祈願所としての格式をもっていた。はやり病を払うという京都の祇園さまや、女性の川流れ除けの神とされ、
「かわうそ大明神」の呼び名で親しまれている如意輪観世音菩薩坐像を祀り、特に女性の参詣が多い。
 さんさい踊りは、毎年七月十四・十五日の両日円隆寺の祇園会の宵に、
同寺の境内を中心にくりひろげられる盆踊りで、女の子だけの盆踊りということで全国的にも珍しい民衆芸能といえる。
この踊りの起源は、利次公が初代藩主として入城した寛永十六年(一六三九年)頃であろうと伝えられる。
「サーンサンサイ、ヨンサノヨヨナーイ」というはやしことばには、
「もう佐々(成政)の世ではない」という、前田家の治世を謳歌する意味合いがこめられているという。

富山県富山市の円隆寺前の立て看板より




佐々が越中にいたのって精々数年だし、
寛永のころにはもう一昔前の人だと思われてそうだが

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 14:23:14.82 ID:xMugn9Xw
忠興「呼んだ?」

佐々成政という人は大変な人傑である

2014年08月11日 19:13

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 00:11:51.56 ID:Z2oXRHJt
佐々成政が、いわゆるさらさら越をして、密かに浜松の徳川家康の元に辿り着いた時のこと。
家康は家臣の高力與次郎正長を召して
佐々成政という人は大変な人傑である。ああいった人物とは知人と成って、その様子を
見習うように」と命じた。

さて、家康は佐々に
「私は元より秀吉と遺恨はありません。しかし信雄殿の衰弱を見るに忍びなく、故織田殿の
旧好を忘れかね、わずかにこれを助けたのみなのです。ですが、信雄殿が秀吉と
和議を結んだと聞けば、私のこれまでの信義も、詮無きことに成りました。

さりながら成政殿が旧主の為に義兵を起こすというのであれば、私からも援兵を出しましょう。」
そう言って懇ろに饗した。

この後、成政は家康との物語の中に、家康を武田信玄に、自身を上杉謙信に比して
大いに自負の念を披露した。

酒井忠次は、この佐々の自負を聞いて大変に腹を立て
「ああいう馬鹿者に御加勢なさることは無用です!」と家康に詰め寄った。
しかし家康は

「彼は元より大剛の士であるのだから、その勇気に任せて、失言をしてしまうのも仕方がない。
そんな事を気にしてはいけない。」

と語った。

(柏崎物語)

家康が、佐々成政を非常に高く評価している逸話である。




505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 06:58:20.07 ID:JPzfnsZ7
>>501
評価してると言うより、短所があるからと言って長所まで否定しない話に見える

肥後国人一揆始末

2013年11月29日 18:52

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 19:42:16.73 ID:KgkoP3EX
天正15年(1587)、肥後国人一揆が勃発する

肥後の国主であった佐々成政は元来勇将なのだが、国中で蜂起した敵があまりに大勢であるので防ぎかね、
隣国の加勢を受けてようやく敵を鎮めることが出来た。

小早川隆景、黒田官兵衛などは豊臣秀吉の命を受け、肥後で反逆した国人たちを、
柳川・小倉の両所に預け置いて、『反逆した理由はなにか?』と糾明させた。

国人たちは皆、このように答えた

「我々は、天下に対して叛こうなど考えもしていません。ただ、国主である佐々成政の仕置が
あまりに非道なものであったため、それに対して叛逆をしたのです。」

この内容を隆景・官兵衛は報告した。
秀吉はこれを聞いて、どう考えたのであろうか、肥後の乱を起こした国人たちを尽く殺させた。

肥後国はこれ以降、平穏となった。

(黒田家譜)




912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 20:13:33.92 ID:7m2D2NNc
黒田さんとこも城井と呼応する勢力出てきたらヤバかったよね。

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 20:20:39.80 ID:F23O/WeV
まあ成政がどうこうじゃなくて、豊臣政権が征伐した国って大軍が去った後は
土豪の一揆が発生しやすいからなぁ

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 20:21:08.35 ID:FrPYCRZ1
その国主を任命したのは誰かって話だしそんな論法が通るなら何度でも反逆できるものな
他国で詮議を受けたことでちょっと期待しちゃったのかもしれないが

奥村永福の妻

2013年05月02日 19:50

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 18:18:59.52 ID:m+xnMj9D
佐々成政は八千の兵を率いて前田家の侍大将・奥村助右衛門永福が守る能登末森城を囲み、
成政は本陣をもって後巻を抑え、厳しく攻めた。成政は「この城さえ破れば能登一国は即座に
打ち従うことだろう。後巻のないうちに乗っ取れ!」と命じた。

末森城はわずか二、三百ばかりの士卒で敵を防いでおり、永福は「これほど強く攻められては、
もはやこれまでだ。自害しよう…」と悲観的であった。

しかし、その妻は小袖を掻き取り、鉢巻をして刀を横たえ、鹿をたくさん煮て下女に持たせ、
塀内の人々に自ら配り食べさせていた。

そして「昔、楠とかいう大将は日本国を敵にして籠城したと聞きます。
明日は金沢より後詰のあることでしょう。ただ、一夜を防ぎなさい」と励まし廻っていた。

これについて永福は「今日の振る舞いは男子よりもすぐれている」と言った。

――『責而者草』




169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 21:47:00.01 ID:xLl5yIBO
末森城では、鹿の養殖でもしていたのだろうか。

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 08:57:08.53 ID:ZVfYmyJK
以外に数がいるし増えやすいのが鹿なので山に入れば豊富にとれたのかも

佐々成政の滅亡について

2012年12月30日 19:50

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/30(日) 17:58:24.40 ID:6swtotlv
佐々陸奥守は柴田などと同じく織田信長譜代の家である。信長の死後、
太閤を討つも降参して坊主になり大津へやって来た。この時、太閤は
大津城にいて陸奥守の礼を受ける。

さて陸奥入道は、大津の城中で武道の談話があった時に浅野弾正殿を
散々に叱った。「武道の事はお前などが知ることではない」とのことで、
聞いた人は皆「後々不味いことになるだろう」と言った。

太閤は肥後半国を陸奥守に与えた。入部の後に一揆があって状況は
悪くなり遂に陸奥守は身を滅ぼした。弾正殿の妨げもあったという。
陸奥守の入道号は道閑、尾崎の寺にて自滅。尾崎に石塔があるという。

――『老人雑話』




945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/30(日) 18:30:24.49 ID:jGus6LDt
日本人が他人の間違えを訂正するときついでに人格否定になってしまうのはいつからの伝統なんだろう?

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 08:53:40.44 ID:i/jmB30T
浅野さん宇都宮でも何かやらかしてるし
権勢をかさに着たこの種の横柄な公私混同は豊臣の家風なのかね?

昔懐かしい某大河ドラマだと豊臣の天下が終わった途端
恨みを我慢してた伊達さんから出入り禁止食らってたじゃん

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 09:10:08.90 ID:FQuRrf3p
伊達が逆恨みしてただけじゃねーのw

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 09:14:22.76 ID:yEczM5Nn
内匠頭の事を考えると、家風ってのも納得できちゃう

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 15:15:03.10 ID:GPkwHloS
浅野って北条攻めで小勢ばっかり攻めて恩賞貰えなかったり、九戸に圧倒的兵力で
歯が立たなかったりで戦ではろくなイメージが無いな

挙げ句宇都宮の件に加えて佐々まで・・・

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 16:33:27.76 ID:di0KPi6D
長政ってどういうわけか地味に嫌われてるよな

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 16:43:39.54 ID:xzIqKjG7
長政自身の問題もあるかもだけど
立ち位置的に恨まれやすい立ち位置だったという気もする

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 16:51:10.22 ID:hcZfLqjy
伜どもの活躍で浅野家に悪いイメージはない

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:03:09.32 ID:di0KPi6D
思えば奥州仕置あたりも汚れ役もいいとこだよなぁ
「とりあえず奴のせいにしておけば丸く収まる」的ポジションだったのかねぇ・・・

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:25:51.52 ID:c0om2kDi
>>953
それだけ豊臣という権力が急進且つ不安定だった、というのもあったとは思う。
制圧する手段に信服させる段取りが追いついてなかったというか。

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:29:20.71 ID:rsk1zaCt
豊臣風なんてものはない、全て誰かの猿真似なんだから。

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:57:39.65 ID:pay35FP+
戦国時代の浅野家に悪いイメージは無い
だが赤穂浅野テメェーはダメだ、知れば知るほど殿様は擁護できなくなる

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:11:14.54 ID:SeZsMtLu
電柱に子猿、電柱に子猿!

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:19:01.75 ID:bsCCajT9
お前ら、何度も既出だが「長政」って略すなw

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:22:16.19 ID:ForaGXAd
ちくしょうw
うちの方リアルに猿ときどき出るから普通に電柱に登る子猿想像しちまって「?」てなったw

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:23:13.97 ID:Df2MEhDu
黒田のほうはNGMSと略すと決まっているし、
木沢や山田はほとんど出てこないし、
浅井は浅井でだいたい出てくるし、
弾正を使うとだとこのスレでは爆死と決まってるから長政でおk

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:32:48.82 ID:SeZsMtLu
高坂「…」
真田「…」
保科「…」

決めつけイクナイ

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:41:30.56 ID:Df2MEhDu
その三人は弾正だと三弾正の誰かわからないから、
受け弾正、攻め弾正、槍弾正で弾正単独では出てこない
[ 続きを読む ]

前田利家「だから追わなかったのだ」

2012年10月20日 19:59

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 12:44:03.97 ID:LeYLfUYG

末森城の戦いの時、前田利家は素早く末森城を後援したために佐々成政は敗軍した。
この戦いで本多正重は武者修行をして利家の備えを借りていたが、利家が士卒を
制して隊列を固めているのを見ると、馬を乗り寄せて声高に、

「恐れながら勝ちに乗るとは今ですぞ! 敵は崩れて一足も返しません!
御下知あるべき所なり!」と言った。しかし、利家は「お前に何が分かる!」と
大いに罵って城に入り兵を収めた。佐々軍が引いて後、利家は子息利長に話すべき
ことがあると、同道して七尾に帰った。

「私が正重の諌めを用いなかったのは思慮があったからだ。およそ武者修行の者は
自分の功を立てるのを目的とし本当の忠がない。あれは自分の一言で敵を追わせて
利を得たのだと他家の誉れにしようとしたのだ。もし私が負けたとしても正重の負け
にはならないし、仮合の徒である正重にとって損にもならない。

その上、道の往来を考えた時に後援の兵が三千から四千程度だと分かるところを、
その推測ができなかったのは成政の失敗だった。一旦は不意にあって敗れ去るとしても、
成政の志なら後援の兵が少ないと知れば、私が追わなくても兵を返してきたことだろう。
ましてや急に追ったなら総返しにされた。そうなれば味方の負けは必定であろう。
だから追わなかったのだ」

――『名将言行録』




6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 13:17:21.96 ID:8exgBFE5
金銀をケチって兵力が足りていなかったというオチが無ければ名将なのに

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 13:20:21.23 ID:g2VVUmd0
金銀をケチって譜代を増やしてなかったから
渡り奉公同然に主君を変えていく奴に
軍勢の一翼任せる羽目になってるんだろうな

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 13:40:39.84 ID:yebQoZPm
こ、これは南蛮渡りの「あうとそーしんぐ」と言ぅてだな…