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三田村の後殿

2018年11月09日 09:34

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 02:54:07.70 ID:y13JWHDr
(姉川の戦いの直前)

織田弾正忠信長は浅井父子が朝倉に一味して前約を変じたのを深く恨み憤り「ならばまず朝倉を捨て置いて浅井を
誅すべし!」と、その5月21日、毛利新助秀詮(良勝)を使者として、援兵を徳川家へ請われた。神君は少しも
御辞退なく御了承になられて早々に軍勢を催促なされたところ、まず3千余騎が援兵となったという。

(中略)

6月17日、信長は数万の大軍を引き連れて岐阜城を発向され、近江へと向かわれた。これより先に近江では浅井
父子がかねてよりこの事を心得て防戦の用意をし、南郡苅安・長比両城を構えて越前の勢を分けて籠め置き、

鎌刃城には堀次郎(秀村)と後見に樋口三郎兵衛(直房)と多羅尾右近を籠め置き、本江の要害には黒田長兵衛を、
横山城には大野木土佐守・三田村左衛門・野村肥後守・同兵庫頭を籠め置いた。浅井父子は小谷城にあって色々と

手配りし織田勢が寄せ来るのを遅しと待ち受けた。江北は要害堅固で急に攻め入るのは難しく、信長は出陣以前に
木下藤吉郎秀吉に内意を含め、竹中半兵衛重治に内々樋口と語らわせた。重治は樋口と数年来の知音なので樋口の

方へ赴き、理を尽くして誠を現し諸々語らうと、ついに樋口も得心し同列の多羅尾に相談して信長方に一味した。
この城が織田方へ降参したと聞いて苅安・長比両城に籠っている越前勢も浅井には一言の伝えもなく3千余騎は皆

越前へ逃げ失せた。信長はこれを聞いて近江へ攻め入り18日に坂田郡柿田村の西山に陣を張り、19日に横山城
を巡見された。この城の押さえとして水野下野守信元・織田上総介信包・丹羽五郎左衛門長秀ならびに堀次郎の勢

を残し置かれ、信長は坂井右近(政尚)・森三左衛門(可成)を両先手とし数万の軍兵を引き連れて小谷の向かい
虎御前山に備えて雲雀山の方より森・坂井、尊勝寺の方より柴田・内藤らが攻め入って小谷の町中を所々放火した。

この時、浅井備前守長政は「城より打って出て一戦せん!」とはやったが、「城兵は小勢で信長の大軍には当たり
難し。越前の加勢を待ちなされ」と、家老どもが諫めて出陣せず。よって織田勢は西は馬上、東は小室・瓜生まで

焼き立て、その夜は矢島に野陣して明朝には早々に龍ヶ鼻へ本陣を引き横山表へ向かわんとした。長政はその機を
察して「明朝に打って出て信長の退口を追討せん!」と申したが、この時も父・下野守久政も家老どもも、

「とにかく越前の加勢を待って合戦すべし」と申して長政の申すところを用いず。しかし長政の家人の若者どもは
あまりに無念に思って2百騎ほどが打って出ると、織田勢の佐々内蔵助(成政)・中条将監(家忠)の陣に弓鉄砲

を撃ち掛けて多くの敵を討ち取ったのである。織田方でも佐々・中条ならびに簗田左衛門次郎(広正)が奮戦し、
柴田勝家も味方を救って引き取らせた。これを“三田村の後殿”といい、当時美談とした。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』


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首の臍

2017年07月24日 18:06

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/24(月) 14:55:04.07 ID:0xK7yMrw

織田と美濃斎藤家との軽海合戦の折、斎藤龍興の老臣である稲葉又左衛門を、池田庄三郎(恒興)、
佐々内蔵助(成政)が同時に討ち果たした。
織田信長が実検あって首帳に記す時、佐々内蔵助は「これは相(同時)討ちではありません。池田の功名です。」
と主張し、池田は「佐々の功名です」と主張して互いに譲り合った。

この光景がなんとも美しすぎて(何とやらん美し過ぎて)、信長の機嫌はどんどん悪くなっていった。

この頃、信長の元で出頭した僧に、島蔵主という者があった。当時の尾張では、皆が金言のことを「蔵主」と
呼ぶほどの人物であった。
彼は信長の機嫌がどんどん悪化しているのを見ると進み出て申し上げた

「この首は池田が取ったものでも、佐々が取ったものでもありません。両人の申す所、実に尤もであると
存じます。」

信長は呆れ
「ならば、両人の内どちらかが取らずして、一体何者がこの首を取ったのだ?不審である!」

「何の事もありません。これは瓜のように、首の臍、自然と落ちたものなのでしょう。」

この返答に小姓たちが笑いだし、信長もつられて笑い、この場は平穏に済んだ。

(近古武事談)


「又左衛門は、まったく只者にあらず」

2017年01月19日 18:23

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/19(木) 02:50:23.03 ID:G4L3SlP9
蔵人殿(前田利久)の御知行は右の如く、信長公の御意で利家様へ下され、荒子を
御受け取りになった故、御兄弟ではあるが、すぐに御敵対のように御仲は悪くなった。

それにつき、柴田修理殿(勝家)、佐久間右衛門殿(信盛)、森三左衛門殿(可成)、
佐々内蔵助殿(成政)、利家様などが御参会し、色々の御話しのなかで、

「又左殿は御手柄度々のこと故、前田の惣領を御継ぎになったのはもっとものことと
存ずる」とのことで、御続けに御舎兄の蔵人殿のことを、皆々謗り口に御話しした。

その時、利家様は、「まことにかたじけない」と、御挨拶した。そのうえに、「蔵人殿は
武道もぬるい」とのように、とりどりに言葉の端から出ていたので、

利家様は押し跪きなされ、「蔵人は聞こえぬ分別を仕る故、跡目は私に下されました。
かたじけなく拝領仕り、前田の惣領は私が持ち申しております。ただし、蔵人の武道
のことは、私めの前で御申しになることは御免頂きたい」と、けわしく御申しになり、

皆々は、「もっともである」と御申しになって、物申す人はいなかった。これも柴田殿や
森殿だけであれば、御知音なので苦しからぬことであったが、右衛門殿や内蔵助殿、
その他2,3人が御越しであったので、

右の通り仰せになったと、利家様は御物語りになられた。この事はまたひとしお、
「又左衛門は、まったく只者にあらず」と言い習わされ、信長公の御耳にも入り、
信長公は御感心であったとのことである。

その後に、柴田殿と三左衛門殿も利家様へ御謝罪になり、また、大納言様(利家)も
御両人に御謝罪し、ますます御間柄は良くなりなさったと利家様は御物語りなさった。

――『亜相公御夜話』




成政の治水

2015年12月11日 07:33

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/11(金) 02:09:45.15 ID:eZBB58jF
天正8年秋、富山では長雨が連日止まず、大いに出水した。
旧来、神通川は呉服山の麓を流れたが、この時から河身は東に転じ、
富山城の後ろに傾注したという。

また常願寺川も氾濫して富山城を浸し、家屋は漂流して人馬の溺死も
数え切れなかった。城主・佐々成政は大いにこれを憂いて、その後の
水患を除こうと望み、被害地を巡検して大いに治水に力を尽くした。

成政は馬を馬瀬口に進めて自ら人夫を指揮し、土石を運搬させ、
記念として巨岩に自分の氏名を刻み、これを河底に埋めて、その上に
堅固な石堤(敷石25間)を築いた。

また新たに洪水のために分派した支川を鼬川と名付け、原野を開墾して
禾穀を植えさせた。

――『富山市史』




何事も変わり果てたる世の中に

2015年11月30日 07:20

696 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/11/30(月) 02:01:57.71 ID:jPpIu+lP
何事も変わり果てたる世の中に

佐々成政は、日本アルプスを踏破して12月1日、信州上諏訪に到着した。
諏訪頼忠からの第一報を受けた徳川家康は、この予想だにしなかった来客の報に驚き、
乗馬50匹・伝馬100匹を迎いとして出立させたという。
成政は駿府で一旦歓待された後、間を置かず遠州浜松に移動し、12月4日いよいよ対面となった。
結果はよく知られているように、家康側は外交的な辞令に終始し、
落胆した成政は信雄に謁見するため12月10日頃、清須に向かった。
成政は「将来必ず織田家の立場は危うくなる」と根気強く説得したが、
信雄は態度を左右するのみで、徒に月日は過ぎていった。
成政は滝川勝利とも面会し、滝川家を通じて信雄の再挙兵を促そうとした。
が、小牧・長久手合戦後、伊勢の所領を失い零落していた滝川家の近況を見知るにつけ、
成政は反・羽柴陣営の再構築が完全に困難であることを痛感し、相当な衝撃を受けた。
 
望みを絶たれた成政一行は、12月26日清須を出立。
来た道を引き返しながら、浜松城を経由し、再び越中へ戻ることになった。
その前に、成政と共に越山した佐々政元、前野勝長(前野長康の弟)等は、
最後の帰郷になるかもしれないと各々の故地に立ち寄っている。
ある者は付き従った従僕を留め置き、ある者は以下のように悲壮な思いを語っている。
「末森合戦の結果、主人・内蔵助の娘は大坂で磔にされております。殿の頭からは姫子を見捨てて、
織田家を取ったのだという思いが強いようです。ここに至っては、越中に立て籠って
筑前守と最後の一戦を交わし、越中武者の忠節を上方に思い知らせるのみです・・・」。

得るものもなく、再び厳寒の日本アルプスを前にした時、成政の頭には何が過ぎったのだろうか。
家康の当り障りのない対応、煮え切らない信雄、滝川家の零落、見殺しにした娘、そして信長。
本能寺の変からまだ3年と経たず、世の中はあまりに大きく変化してしまった。
そんな思いを胸に、成政をこの時、以下のような詩を詠んだという。

「何事も 変わり果てたる世の中に 知らでや雪の白く降るらん」

(武功夜話、家忠日記など)

※この詩については、成政降伏後に詠まれたとの説もありますが、成政降伏時は1585年8月。
真夏の盛りに詠むかな?と私は思いましたので、さらさら越え後に詠まれた説を支持したいと思ってます。
第一、その方がロマンチック。



705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/30(月) 21:54:25.33 ID:ht74SbzR
>>696
「信長が亡くなった後、日本の大部分は動揺し混乱した。
 そして諸国、環境、また個人の上にあまりにも多くの変化があったので、あたかも突如として別世界が出現した観があった。」

フロイス日本史

こうして成政は肥後国にはめ置かれた。

2015年10月16日 13:40

494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/15(木) 20:43:33.97 ID:RVfz5yB3
豊臣秀吉は九州征伐を終えると、思った
「肥後の国を平和な人間に与えた場合、たちまち一揆が起こること必定である。
であれば佐々内蔵助(成政)を召し出し、この国にはめ置こう。」

そして佐々成政を召し出し、抜け目なしに一国を宛てがった。
また肥後国内の一揆の四人には、1万2,3千石づつ与えた。

その上で秀吉は、一度没落した佐々成政の人数は、方々に散っているであろうと考え、

『成政を召し出すので、成政がかつて抱え置いていた者達は、彼は国大名になるので
帰ってくるように』

との制札を、九州から京、堺まで立てた。このため成政の旧家臣は残らず成政のもとに
戻り集まった。

また、武具鉄砲以下は越中を没落した時、居城であった富山に残し置いていたのを、
秀吉が前田利家に申し付けたところ、諸道具は成政が残した時と少しも違わず、そのまま
大阪に差し上げられた。

それから、成政は肥後に船で向かった。大阪より2万石の米が、転封の費用として
援助された。また銀子千枚、鞍置き馬50疋が成政に拝領された。
こうして成政は肥後国にはめ置かれた。

(川角太閤記)

もしかして肥後国人一揆が起こったのって、秀吉が変に気を回して成政の家臣団みんな呼び戻したせいでは
ないだろうか…




495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/15(木) 21:05:23.53 ID:Lpm+lIzk
まぁそりゃ新参の家臣主体じゃ佐々も困るだろうけど
最後の文読むまではいい話に見えた

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/15(木) 23:02:10.72 ID:9FyttcUj
>>494
それはない
奥州の木村をみてみろ

この事態に神保は

2015年07月12日 17:30

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/11(土) 19:58:51.58 ID:UheazMzI
上杉謙信は天正6年(1578)の3月9日に患いだし、5日後の13日に49歳にて他界した。

他界したその13日から、本国である越後は騒ぎたった。その理由は、謙信は小田原北条氏政の舎弟・三郎を
養子とし景虎と名付け、また甥の喜平次をも養子とした。
謙信は、自身の存生はまだ久しいと思っていた。末々国を沢山に治めれば、跡を二旗に分けて
支配しようと考えていたのだ。しかし人間は不定の世界であり、3月13日に謙信は49歳にて死んだ。
14,15日には喜平次と三郎は謙信の跡を争い、春日山城において、本丸と二の郭で互いに弓鉄砲の
競り合いがあった。

この時、春日山城下には織田信長より謙信の下に、上方への御用のためと詰め置いていた、
佐々権左衛門が在った。彼は謙信との御用によって伊豆守と成っていた。
佐々は「いつまでも我らは越後に罷りあります。」と申していたにも関わらず、それを即座に翻して
暇乞いもなく上方へと脱出し、途中の道より『謙信御他界疑いなし』と飛脚を立てた。

佐々伊豆もやがて安土に着き、越後の模様を詳しく報告すると、信長大いに喜び、柴田右馬之丞という者を
召し寄越し、『越後をその方に取らせる』と書かれた書付を自筆にて出した。

このようであったので、越後における喜平次と三郎の争いは諸国に隠れないものとなり、謙信の他界は
10日の内に聞こえ、信長は加賀、越中、能登へ工作の手を入れた。
そうして加賀は信長の家来の佐久間玄蕃に与えられた。これも柴田修理(勝家)の甥であると聞く。
能登国は前田又左衛門(利家)に、越前は柴田修理に給わった。

越中は謙信他界を聞き、神保(長住)が運を開いた。かねてより信長が密かに謙信に対して盾をついていたのは、
この神保が信長の妹婿に成ったゆえだからである。

然れども、信長はおおかたならぬ表裏の大将であったから、末々神保を滅ぼそうと、佐々内蔵助(成政)という、
信長の家臣で柴田修理に劣らぬ剛の武士を神保の介添えに差し寄越すと、事に寄せて神保の権限を奪い、
越中は佐々内蔵助に給わるということになった。

この事態に神保はどこにも頼る相手がおらず。結局は敵の謙信の他界を悔やんだそうである。

(甲陽軍鑑)

前田利家夫人、および奥村永福夫人のこと

2015年05月25日 18:37

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/24(日) 18:30:13.16 ID:yG6n96NO
天正12年(1584)、佐々成政は、前田利家の重臣・奥村助右衛門永福の守る、能登末森城を囲んだ。
世に言う末森城の戦いである。

成政は旗本を以って前田利家の後巻(救援)を抑え厳しく攻め立て「この城を打ち破れば
能登一国は即座に我々に従う。後巻が来ない内に乗っ取れ!」と下知した。

奥村はわずかに300ばかりの兵でここを守っていたが、あまりに激しく責め立てられたため、
「もはやこれまでである。自害しよう」と言い出した。

ところが、この奥村の妻は、小袖をたすき掛けにし鉢巻をして、刀を横たえ粥を煮て、
手桶に入れて下女に持たせ、城内の人々に手ずから汲んで食させながら、こう言って回った

「昔、楠木という大将は日本国を敵に受けて籠城したと聞き伝えられています。
明日には金沢より後詰めの軍が到着するでしょうから、今宵、ただ一夜だけ防いで下さい!」

奥村はこれを見て「今日の振る舞い男子にも優っている。さりながら女の力によってこの城を
持ちこたえるというのは口惜しいことだ。」とつぶやいた。

一方、佐々成政方は負傷者も増え、敵も容易くは落城しそうもないのを見て、これは火攻めに
すべきだと進言するものもあった。しかし成政は
「この城の大手の門を取って富山の城門とするのだ。また石動山の衆徒も私に心を合わせた。
慌てて火攻めを行う必要はない。」と下知し、既に二、三の丸を攻め取って夜が明けるのを待っていた。

この末森城から前田利家のいる金沢まで九里ばかり。その日の酉の刻(午後6時頃)、末森城より、
夜が明けるまではなんとしても城を守るという注進が入った。

前田利家はこの報告を聞くや金沢城の広間に出て、嫡子利長を呼んで
「汝はこの城の留守をせよ!」と命じた。しかし利長は

「いいえ、私が真っ先に出て佐々を打ち破ります!ここに残り留まるなど思いもよりません!」

これを聞くと利家
「ならば父子で打ち向かおう。敵の不意を打ってこそ利もあるだろう。兵を整える必要はない、
馬に鞍を置き次第一騎がけに打ち出よ!一足でも早く出る事こそ今夜の功だと思え!」
そして富田与五郎に
「おまえは津幡に行って不破彦三に末森の後巻きの先手をするように申せ」と下知した。
富田は直ぐに自宅に戻って馬を引き出し、不破彦三の元へと駆けた。

利家は士卒に「皆汁をかけて飯を食え!」と言いつつ具足を着て庭に自身の黒毛の馬を用意させていた。
この時、前田利家の婦人(芳春院)が三方にのし鮑を入れて入ってくると、利家・利長父子に従う者達に
向かって語りかけた

「おのおの、よく聞いて下さい。私は利長の母です。今日の後巻きは誠に大事の軍です。
それぞれ心を合わせて功名して下さい。

もし、末森城を敵に取られたなら、皆々、討ち死にしなさい。
私も人手にはかかりません!」

そして利長の側近くに進んで我が子に対し「末森が落城したなら、あなたも討ち死にしなさい。」と言った。
利長これに「生死の別れですね。」と答えた。

利家はこれを見て「荒心であることよ。成政を打ち破ること必定である!」と言い放つやいなや、
具足の上帯を締めて、結ぶ端を切り捨てて馬に打ち乗り出撃した。
この時前田父子の兵はわずかに100人余であった。利家は馬上で
「味方が少数である事こそ吉事である!佐々が思いもよらない所に斬りかかって打ち勝つであろう!
奥村を死なせては生きる意味もない!」と叫んだ。
(明良洪範)

末森城の戦いにおける、前田利家出陣までの逸話である。




成政、諸国より勇士を集めること

2015年03月17日 18:31

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 01:55:43.08 ID:VZePkvoA
成政、諸国より勇士を集めること

 佐々内蔵助成政の領国の越中は大国と申せども、過分の数の軍兵を召し抱えられていることは不審に思われるのも最もであった。
 その故は成政は謀反の心を抱き、尾張内府(織田信雄)と徳川(家康)殿に加担し、
『北国の大将』と呼ばれたいと心中に思われたからである。
越中は山の多い国であるから、知行の内に、山野までも含めたり、
或いは、上方から知行五千石と約束して呼び出し六千石、七千石、
又は、千石と言って千五百石を判形(知行を与える際の署名)で保証したりしたので、我も我もと越中を志して下ったのである。
 ところが所付(領知の内訳を記した文書)を見ると石高は一割五分から二割足らないものであったので、
人に知られた侍達は暇を乞い上洛したり、あるいは加州利家卿に認められ暇を出す者も多かった。
その内に加賀越中に争いが生じたので、さすがに兵達も成政を見捨て上洛もし難く、そのまま留まらざるを得なくなり、
越中勢は思いの外人数が多かったのである。
(末森記)

成政の浪人採用事情の裏話



575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 09:56:22.71 ID:qqL96DcH
ブラックと社畜ですね

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/17(火) 18:16:19.16 ID:VyNDIpmW
銭をけちって兵を集められなかった前田家が佐々よりも兵が少なかった言い訳をしているみたいw

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/18(水) 02:37:23.95 ID:987CuGCF
前田側の資料だし悪く書かれるのは当然だよな

円隆寺とさんさい踊り

2015年02月10日 18:45

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 11:26:39.59 ID:KT02FOvC
円隆寺とさんさい踊り

 本寺は正覚山円隆寺と称する天台宗のお寺で、初代富山藩主、前田利次公の富山城入り以来、
代々前田家の祈願所としての格式をもっていた。はやり病を払うという京都の祇園さまや、女性の川流れ除けの神とされ、
「かわうそ大明神」の呼び名で親しまれている如意輪観世音菩薩坐像を祀り、特に女性の参詣が多い。
 さんさい踊りは、毎年七月十四・十五日の両日円隆寺の祇園会の宵に、
同寺の境内を中心にくりひろげられる盆踊りで、女の子だけの盆踊りということで全国的にも珍しい民衆芸能といえる。
この踊りの起源は、利次公が初代藩主として入城した寛永十六年(一六三九年)頃であろうと伝えられる。
「サーンサンサイ、ヨンサノヨヨナーイ」というはやしことばには、
「もう佐々(成政)の世ではない」という、前田家の治世を謳歌する意味合いがこめられているという。

富山県富山市の円隆寺前の立て看板より




佐々が越中にいたのって精々数年だし、
寛永のころにはもう一昔前の人だと思われてそうだが

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/10(火) 14:23:14.82 ID:xMugn9Xw
忠興「呼んだ?」

佐々成政という人は大変な人傑である

2014年08月11日 19:13

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 00:11:51.56 ID:Z2oXRHJt
佐々成政が、いわゆるさらさら越をして、密かに浜松の徳川家康の元に辿り着いた時のこと。
家康は家臣の高力與次郎正長を召して
佐々成政という人は大変な人傑である。ああいった人物とは知人と成って、その様子を
見習うように」と命じた。

さて、家康は佐々に
「私は元より秀吉と遺恨はありません。しかし信雄殿の衰弱を見るに忍びなく、故織田殿の
旧好を忘れかね、わずかにこれを助けたのみなのです。ですが、信雄殿が秀吉と
和議を結んだと聞けば、私のこれまでの信義も、詮無きことに成りました。

さりながら成政殿が旧主の為に義兵を起こすというのであれば、私からも援兵を出しましょう。」
そう言って懇ろに饗した。

この後、成政は家康との物語の中に、家康を武田信玄に、自身を上杉謙信に比して
大いに自負の念を披露した。

酒井忠次は、この佐々の自負を聞いて大変に腹を立て
「ああいう馬鹿者に御加勢なさることは無用です!」と家康に詰め寄った。
しかし家康は

「彼は元より大剛の士であるのだから、その勇気に任せて、失言をしてしまうのも仕方がない。
そんな事を気にしてはいけない。」

と語った。

(柏崎物語)

家康が、佐々成政を非常に高く評価している逸話である。




505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/11(月) 06:58:20.07 ID:JPzfnsZ7
>>501
評価してると言うより、短所があるからと言って長所まで否定しない話に見える

肥後国人一揆始末

2013年11月29日 18:52

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 19:42:16.73 ID:KgkoP3EX
天正15年(1587)、肥後国人一揆が勃発する

肥後の国主であった佐々成政は元来勇将なのだが、国中で蜂起した敵があまりに大勢であるので防ぎかね、
隣国の加勢を受けてようやく敵を鎮めることが出来た。

小早川隆景、黒田官兵衛などは豊臣秀吉の命を受け、肥後で反逆した国人たちを、
柳川・小倉の両所に預け置いて、『反逆した理由はなにか?』と糾明させた。

国人たちは皆、このように答えた

「我々は、天下に対して叛こうなど考えもしていません。ただ、国主である佐々成政の仕置が
あまりに非道なものであったため、それに対して叛逆をしたのです。」

この内容を隆景・官兵衛は報告した。
秀吉はこれを聞いて、どう考えたのであろうか、肥後の乱を起こした国人たちを尽く殺させた。

肥後国はこれ以降、平穏となった。

(黒田家譜)




912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 20:13:33.92 ID:7m2D2NNc
黒田さんとこも城井と呼応する勢力出てきたらヤバかったよね。

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 20:20:39.80 ID:F23O/WeV
まあ成政がどうこうじゃなくて、豊臣政権が征伐した国って大軍が去った後は
土豪の一揆が発生しやすいからなぁ

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/28(木) 20:21:08.35 ID:FrPYCRZ1
その国主を任命したのは誰かって話だしそんな論法が通るなら何度でも反逆できるものな
他国で詮議を受けたことでちょっと期待しちゃったのかもしれないが

奥村永福の妻

2013年05月02日 19:50

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 18:18:59.52 ID:m+xnMj9D
佐々成政は八千の兵を率いて前田家の侍大将・奥村助右衛門永福が守る能登末森城を囲み、
成政は本陣をもって後巻を抑え、厳しく攻めた。成政は「この城さえ破れば能登一国は即座に
打ち従うことだろう。後巻のないうちに乗っ取れ!」と命じた。

末森城はわずか二、三百ばかりの士卒で敵を防いでおり、永福は「これほど強く攻められては、
もはやこれまでだ。自害しよう…」と悲観的であった。

しかし、その妻は小袖を掻き取り、鉢巻をして刀を横たえ、鹿をたくさん煮て下女に持たせ、
塀内の人々に自ら配り食べさせていた。

そして「昔、楠とかいう大将は日本国を敵にして籠城したと聞きます。
明日は金沢より後詰のあることでしょう。ただ、一夜を防ぎなさい」と励まし廻っていた。

これについて永福は「今日の振る舞いは男子よりもすぐれている」と言った。

――『責而者草』




169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/02(木) 21:47:00.01 ID:xLl5yIBO
末森城では、鹿の養殖でもしていたのだろうか。

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 08:57:08.53 ID:ZVfYmyJK
以外に数がいるし増えやすいのが鹿なので山に入れば豊富にとれたのかも

佐々成政の滅亡について

2012年12月30日 19:50

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/30(日) 17:58:24.40 ID:6swtotlv
佐々陸奥守は柴田などと同じく織田信長譜代の家である。信長の死後、
太閤を討つも降参して坊主になり大津へやって来た。この時、太閤は
大津城にいて陸奥守の礼を受ける。

さて陸奥入道は、大津の城中で武道の談話があった時に浅野弾正殿を
散々に叱った。「武道の事はお前などが知ることではない」とのことで、
聞いた人は皆「後々不味いことになるだろう」と言った。

太閤は肥後半国を陸奥守に与えた。入部の後に一揆があって状況は
悪くなり遂に陸奥守は身を滅ぼした。弾正殿の妨げもあったという。
陸奥守の入道号は道閑、尾崎の寺にて自滅。尾崎に石塔があるという。

――『老人雑話』




945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/30(日) 18:30:24.49 ID:jGus6LDt
日本人が他人の間違えを訂正するときついでに人格否定になってしまうのはいつからの伝統なんだろう?

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 08:53:40.44 ID:i/jmB30T
浅野さん宇都宮でも何かやらかしてるし
権勢をかさに着たこの種の横柄な公私混同は豊臣の家風なのかね?

昔懐かしい某大河ドラマだと豊臣の天下が終わった途端
恨みを我慢してた伊達さんから出入り禁止食らってたじゃん

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 09:10:08.90 ID:FQuRrf3p
伊達が逆恨みしてただけじゃねーのw

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 09:14:22.76 ID:yEczM5Nn
内匠頭の事を考えると、家風ってのも納得できちゃう

956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 15:15:03.10 ID:GPkwHloS
浅野って北条攻めで小勢ばっかり攻めて恩賞貰えなかったり、九戸に圧倒的兵力で
歯が立たなかったりで戦ではろくなイメージが無いな

挙げ句宇都宮の件に加えて佐々まで・・・

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 16:33:27.76 ID:di0KPi6D
長政ってどういうわけか地味に嫌われてるよな

958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 16:43:39.54 ID:xzIqKjG7
長政自身の問題もあるかもだけど
立ち位置的に恨まれやすい立ち位置だったという気もする

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 16:51:10.22 ID:hcZfLqjy
伜どもの活躍で浅野家に悪いイメージはない

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:03:09.32 ID:di0KPi6D
思えば奥州仕置あたりも汚れ役もいいとこだよなぁ
「とりあえず奴のせいにしておけば丸く収まる」的ポジションだったのかねぇ・・・

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:25:51.52 ID:c0om2kDi
>>953
それだけ豊臣という権力が急進且つ不安定だった、というのもあったとは思う。
制圧する手段に信服させる段取りが追いついてなかったというか。

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:29:20.71 ID:rsk1zaCt
豊臣風なんてものはない、全て誰かの猿真似なんだから。

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:57:39.65 ID:pay35FP+
戦国時代の浅野家に悪いイメージは無い
だが赤穂浅野テメェーはダメだ、知れば知るほど殿様は擁護できなくなる

964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:11:14.54 ID:SeZsMtLu
電柱に子猿、電柱に子猿!

965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:19:01.75 ID:bsCCajT9
お前ら、何度も既出だが「長政」って略すなw

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:22:16.19 ID:ForaGXAd
ちくしょうw
うちの方リアルに猿ときどき出るから普通に電柱に登る子猿想像しちまって「?」てなったw

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:23:13.97 ID:Df2MEhDu
黒田のほうはNGMSと略すと決まっているし、
木沢や山田はほとんど出てこないし、
浅井は浅井でだいたい出てくるし、
弾正を使うとだとこのスレでは爆死と決まってるから長政でおk

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:32:48.82 ID:SeZsMtLu
高坂「…」
真田「…」
保科「…」

決めつけイクナイ

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 19:41:30.56 ID:Df2MEhDu
その三人は弾正だと三弾正の誰かわからないから、
受け弾正、攻め弾正、槍弾正で弾正単独では出てこない
[ 続きを読む ]

前田利家「だから追わなかったのだ」

2012年10月20日 19:59

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 12:44:03.97 ID:LeYLfUYG

末森城の戦いの時、前田利家は素早く末森城を後援したために佐々成政は敗軍した。
この戦いで本多正重は武者修行をして利家の備えを借りていたが、利家が士卒を
制して隊列を固めているのを見ると、馬を乗り寄せて声高に、

「恐れながら勝ちに乗るとは今ですぞ! 敵は崩れて一足も返しません!
御下知あるべき所なり!」と言った。しかし、利家は「お前に何が分かる!」と
大いに罵って城に入り兵を収めた。佐々軍が引いて後、利家は子息利長に話すべき
ことがあると、同道して七尾に帰った。

「私が正重の諌めを用いなかったのは思慮があったからだ。およそ武者修行の者は
自分の功を立てるのを目的とし本当の忠がない。あれは自分の一言で敵を追わせて
利を得たのだと他家の誉れにしようとしたのだ。もし私が負けたとしても正重の負け
にはならないし、仮合の徒である正重にとって損にもならない。

その上、道の往来を考えた時に後援の兵が三千から四千程度だと分かるところを、
その推測ができなかったのは成政の失敗だった。一旦は不意にあって敗れ去るとしても、
成政の志なら後援の兵が少ないと知れば、私が追わなくても兵を返してきたことだろう。
ましてや急に追ったなら総返しにされた。そうなれば味方の負けは必定であろう。
だから追わなかったのだ」

――『名将言行録』




6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 13:17:21.96 ID:8exgBFE5
金銀をケチって兵力が足りていなかったというオチが無ければ名将なのに

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 13:20:21.23 ID:g2VVUmd0
金銀をケチって譜代を増やしてなかったから
渡り奉公同然に主君を変えていく奴に
軍勢の一翼任せる羽目になってるんだろうな

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/20(土) 13:40:39.84 ID:yebQoZPm
こ、これは南蛮渡りの「あうとそーしんぐ」と言ぅてだな…

佐々成政の最期

2012年09月01日 20:57

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 01:37:12.60 ID:eWA0Nf07
肥後国人一揆も概ね制圧されると天正16年(1588)、秀吉は上意によって佐々成政に畿内に上がるよう命令した。
そこで成政は直ぐに尼崎まで上がり、その地の法華寺にて命を待っていた所、遺恨のある弾正殿(浅野長政)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6740.html参照)が支障を申し立てたわけでは無いのだろうが、
藤堂和泉守(高虎)が検使として派遣され、秀吉の御意を伝えた。それには

『去年九州に馬を出し(九州征伐)、西国においてはめでたく相治まったはずなのに、そこで肥後に一揆が蜂起したのは、
すべて内蔵助(佐々成政)が時分をわきまえず厳しい施政を行ったためである。それにより天下の騒ぎを
起こしてしまった!
小早川隆景も統治の難しい国に遣わしたが、彼は何事も神妙に仕置きしたため、見事に鎮めたと聞いている!

私はやがて東国に出馬しようと考えているというのに、西国の統治が動揺しているように東国に伝わり、
東国に私の政権能力に対し疑問を抱かせた、そして諸大名への今後の見せしめのため!』

切腹を命じた。


成政はこれに従い、庭の泉水の所まで行き石に腰掛け家臣の主馬を呼び出し、金30枚、その他身の回りの衣装など
すべて主馬に渡し、自分の座っている石を見て

「この石は内蔵助腰掛岩と呼び伝えよ!!」

そう言うと腹を十文字に掻っ切り臓腑を掴み出し「時分は良いぞ!」と、己の頸を差し出した。
そこを、藤堂高虎が介錯したとも、また小姓が介錯したのだとも後に沙汰された。
(川角太閤記)

秀吉の言うことによれば、http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6744.htmlで小早川隆景が一揆を起こさなかった事も、
成政切腹の理由になったのですね。

佐々成政の最期についての逸話である





肥後国人一揆と小早川隆景

2012年08月31日 20:51

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:07:44.76 ID:tFvJch7s
天正15年(1587)、肥後国人一揆が起こる。この影響は小早川隆景の領する筑前にも波及するかに見えた。

そもそも肥後の一揆は佐々成政の手荒い施政が原因であった。検地をし、さらには、
昔から港より運搬する荷物を運ぶ使役を、三里とされていた所は五里に、五里とされていたところは八里運ばせる
ようにした。このように荒い仕置を行ったために、一揆が起こったのだ。

小早川隆景は肥後に一揆が起こったことを聞くと、この筑前でも一揆が起こりうると判断し、すぐさま国中に
制札を立てた。

『筑前においては、年貢も、津出し(港への荷物運搬の使役)も、小物成(その他の雑税)にいたるまで、
全て昔のままの年貢沙汰とする。』

この制札が出ると、筑前において一揆を計画していた者たちもそれを取りやめ、結果小早川領の筑前は
何事も起こること無かったとのことである。

(川角太閤記)





280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:30:20.06 ID:H8ISDO8/
筑前煮が混ざってるぞw

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:34:50.59 ID:tFvJch7s
ギャー
1行目、×筑前煮 ◯筑前に
筑前煮が波及するってどんな状況だおいw

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:38:01.23 ID:RwWMsq13
隆景さん優秀

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:41:38.61 ID:Dgbgg3U3
>>281
食い物の恨みは怖いってことよ

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/30(木) 23:58:10.37 ID:5KBE0rBQ
>>281
筑前煮大好き。


285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 00:00:33.55 ID:Ig40vyu0
秀吉は筑前煮派
三成は治部煮派
家康は関東炊き派

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 00:16:07.24 ID:hCx3MmD6
肥後は九州平定まで国人が残ってたからねぇ

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 00:36:09.45 ID:Os0dBdgZ
>>285
文字通り、うまいこと言いおってからに

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 00:36:26.87 ID:xkQJplq/
肥後一揆は隈部等国人衆、豊前は城井家、天草一揆は天草五人衆が
残ってたから起きたけど、秋月種実、原田信種、宗像氏貞等がいなくなった
筑前で反乱おこしそうなのは誰だろ?

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 06:27:05.49 ID:X/ieVMuz
>>279
隆景さんさすがやで
どおりで秀吉に唐入りの最前線を任せられるわけだ

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 09:44:36.53 ID:VY1J2o8S
>>288
新体制にすくい上げられなかった、そのあたりの残党が相当残ってただろうね。

浅野長政は佐々成政に意趣があった

2012年08月31日 20:50

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 17:29:06.91 ID:VY1J2o8S
浅野長政佐々成政に対して意趣があった。
その理由はこの様なところにあったという。

天正13年(1585)、秀吉の越中攻めに、織田信雄の仲介によって降伏した成政であったが、越中において
秀吉との対面はならず、引き上げの途中、大津で5日間滞留していいた所に成政は後から追いつき、
大津において秀吉に対し降伏う受け入れられたことへの御礼申し上げるため、城に上り書院までやってきた。

ここで多くの者達が成政を出迎え、取持衆は「御対面成されるまで、どうぞここでゆっくりとお待ちください」
との丁重な挨拶。敵対したとはいえ織田家の猛将であった成政に対し、彼を尊敬する気持ちは、秀吉の家中でさえ
強かった、ということであろうか。

そこに浅野長政が現れた。成政は、長政が秀吉から内々に何か聞き届けた事でもあったかと思い、声をかけると、
長政は

「内蔵助(成政)殿は上様(秀吉)に対し謀反をした者である!御対面は御無用!
私は今も、あなたを切腹させるよう申し上げてきた所である!」

そう言い放った。
これを聞いた成政は、長政を睨みつけると

「弾正(長政)よく聞け。私は秀吉とは、たった今まで肩を並べた朋輩であった。そうであるからこそこの内蔵助も、
信長公の御切腹後は、天下の覇権を心がけたのだ。
秀吉の家来であれば謀反ということも可能だろう。だが私はそうでなかった以上、弾正(長政)の申し様は
全く聞こえないものである!」

そう怒鳴り、荒々しく長政をやり付けた。
その後成政は秀吉との対面を果たし、丹波の野瀬郡に召し置かれた。
(川角太閤記)

佐々成政浅野長政に遺恨が出来た由来である




228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 19:21:44.62 ID:QJ6Gd40w
えっと、嫌われ役をやったということか?

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 20:00:28.72 ID:wvf3GtKf
意趣があった理由…
ていうよりこの時既にあるとしか思えないw

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 20:29:18.27 ID:sZFl0lgP
嫌われ役も何も、和睦の礼にやって来た者にわざわざ面と向かって言う必要も無いわな

231 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 21:00:25.07 ID:FeSilS2c
浅野長政は九戸政実一族皆殺しの謀略に関わってるし宇都宮家改易にも噛んでるし結構エグい人
「独眼竜政宗」の時に林与一氏が演じたイメージとは違ってる

この話は浅野に無礼に対して堂々と怒鳴りやり返した佐々の武辺者らしい男前ないい話にも見える

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 22:16:26.24 ID:J18DFBdy
浅野長政って「他の奉行達とは違って良識派」みたいな
イメージが強いが割と諸大名とトラブル起こしてるよなあ。

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 22:18:12.01 ID:Y39JoAuw
>>232
???「そうだそうだ!だからこっちから絶交してやった!オレは悪くない!!」

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 22:40:11.23 ID:EOVWZrzs
ちょっと政宗は黙ってて!

235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/31(金) 23:17:46.76 ID:X4lm6gRt
>>232
浅野長政はかなりのトラブルメーカーでもある。

ただ、喧嘩した相手自体もアレな人が多い。
例えば、政宗とか広家とか

237 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 00:09:17.54 ID:Rj3NcUa6
>>235
三成もそうだしな。
仲が良かったのは家康あたり。

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 01:13:13.71 ID:V/70pHoJ
みっちゃんの場合は木っ端役人フィルター掛けすぎってな逸話も多いから実際な所何ともいえない。
アホの子フィルターかけられまくってるTERUとか市松にも同じ事が言えるが。

佐々成政の大蛇退治

2012年08月22日 20:51

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 17:19:36.77 ID:W4C+cbjW

佐々成政が越中を支配していた頃、国中を栄えさせるために古道を改修することにした。
ある所に両方を山に囲まれた三十間ばかりの大きな淵があった。谷底を廻って行く
難所だったので、成政はここに橋を掛けて、安心して往来できるようにしようと考えた。

ところが住民によると「昔からここには大蛇が住んでいて、毎年必ず犠牲者が出ます。
旅人はその話を聞いてここを通ろうとはしません」ということだった。

「それは本当か。なんて悪い奴だ。昔は好き勝手できたのだろうが、今は私の領地だ。
往来の邪魔は許さぬ。それならば早く追い出してしまおう」と言うと成政は淵に

石火矢を仕掛け、兵を集めて「私はこの国の守護として、この街道を昔のように
旅人が安心して通れるようにしようとしている。お前が毎年人を喰らっていることは
けしからんことだ。早くここから立ち去れ。何処へなりとも人の迷惑にならない所へ

行け。出て行かないなら酷いことになるぞ。まずは手並みを見せてやろう」と
石火矢数挺を天地も響くばかりに淵の底に打ち込ませた。

すると水面が逆波を立てて震動し始めて突然霧が降り、四方は暗くなった。
そして底より大蛇が長い竿のように出でると、それは一直線に十六、七町飛んで
山の尾崎に落ちた。この時、大地は大きく震動して山は崩れ、五十間ほどの
淵ができた。大蛇はそこを新しい棲みかとした。

この出来事の後、初めの淵に橋が掛けられ、往来は便利になったということだ。

――『名将言行録』

日本昔ばなしみたいな逸話。
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2174.html
上の逸話とは何か関係があるのかな?




176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 18:00:19.63 ID:H2BgoqMO
追い出すだけで退治はしてくれなかったのか…

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 18:54:50.14 ID:gIVvrAPU
特に悪さもしていない巨大すっぽんを虐殺した鬼武蔵とどうして差がついたか

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 21:52:43.38 ID:CXChx6EW
佐々と蛇といえばあまが池での信長暗殺未遂(´・ω・`)

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 22:27:22.59 ID:FHB3GzUE
佐々とか勝家の歌は綺麗だよな
オレの偏見だけど愛知人て芸術性には疎い感じがするけど、
信長配下の歌は素晴らしいのが多い
まあ、戦国時代は愛知が一番輝いていた時代だからな

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 22:58:11.04 ID:juAjoS+I
まあでも尾張人と三河人では結構違いあると思いますし

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 23:14:52.55 ID:FHB3GzUE
三河って東国気質だよね
今でも名古屋人てより静岡人っぽいもん

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/22(水) 23:39:47.10 ID:/ZQR3Cu5
東三河と西三河でも結構ちがうからなあ

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 00:25:34.85 ID:MPz4H9Ho
>>180
徳川宗春「もっと金を大放出じゃ! 篝火を焚け! 飲めや、歌えや、名古屋をもっと輝かせるのじゃ!」

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 01:37:04.84 ID:JVi/jbOU
尾張の歌は雅やか
三河の歌は土ストレートだよな
鳥居さんとか忠勝さんとかw
三河の歌は幕末で言うと土方さんみたいな感じ
技巧はないけど、なにを言いたいかは物凄く伝わってくるw

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/23(木) 07:08:58.56 ID:S2SfW5cB
信秀がやたらと貴族を引っ張ってきて勉強会を開いていたからでしょ?

佐々成政「謙信などという者は」

2012年06月14日 21:07

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/13(水) 20:52:17.68 ID:vpGfu2C7
ある時、富山城の佐々内蔵助成政は、城内に桜の馬場が完成したというのでそこに出向くことにした。
そしてこの時、氷見郡阿尾城主であった菊池伊豆入道(武勝)にも出仕するよう申し付けた。

菊池入道は「私はもう隠居した身です。どうぞお許し下さい」と申し上げたが、たっての事だと言われ、罷り出ることになった。

さて、出仕してみると成政は御機嫌で酒など飲んでおり、菊池入道を見つけると、”なますの盃”という秘蔵の盃を取り出し酒を注がせ入道を呼び

「其方、この盃で一献指すがよい」

と言う。菊池入道は喜び「忝き次第です。生前の大慶、これに過ぎることはありません。成政様が
常々おっしゃっているように、この盃は常にはお出しすることのない物です。有難いことです。」

と一盃飲み干し、盃をそこに置いて立ち下がろうとした。と、ここで成政
「その盃をこちらにも指さないか。」

返杯をせよ、というのである。しかし盃を交わすというのは同格かそれに近い者の間ですることである。これには菊池入道恐縮し

「いかに成政様の仰せと言えどもそれは憚るべきことです。どうかお許し下さい。」などと必死にこれを
断ろうとした。しかし成政は

「其の方は常の人並みの者ではない。ただ、私に返杯するのだ。」

これには菊池入道も「重ねて御辞退するのも、憚りのあることです。」
この待遇に感激した菊池入道は、御前に自分が飲んだ盃を置くと

「さてさて忝き次第。この度の返杯の仰せ付け、吾が家の威光となるものでございます。
このためわたくし、御前を憚らず御肴を進上したいと思います。

そう言うと指していた脇差を抜き

「この脇差は鬼神大王と言いまして、上杉謙信が当国に討ち入られました時に私に下されたものです。
上杉謙信は、7ヶ国の管領となりました。殿様もどうか、謙信に御あやかりください。」

と、成政に進上した。ここまではいい話である

これを聞くと成政はみるみる機嫌を損じた
「さてさて年寄りめ途方に暮れ、うつけたことを言い出したものよ!
あの謙信などという者は、私の足元にも及ばない人物だ!それにあやかれとは、どういうことだ!?」

そのように激しく叱りつけた。この時菊池入道は脇差を下げることもできず、だからと言って
進上することも出来ない状況で申し上げたことには

「御尤も千万でございます!上様(織田信長)がお亡くなりになり、今や御前(成政)が天下を得ること、
疑いありません。この年寄り、うつけを申し上げてしまいました。

しかしながらこの脇差を引けとは仰らないでください。お酌をしている小姓の方に、これを差し上げたいと思います。
小姓殿、殿様は天下の主。あなたは殿様の御太刀かげにて、謙信にあやかり、7ヶ国取り給え。」
そうして盃も脇差も小姓に渡した。

「私も頼もしいことです。殿様太刀かげにて一国の主にもしていただけるでしょう。」

これに成政、たちまち機嫌を直し
「尤もである!あれらは謙信にあやかるのが良い!」そう笑った。

さて、菊池入道がその座を立って帰宅するという時、傍輩にこんな事を言い残した
「今日も面目を失ってしまったよ。是非もないことだ。これは私が老耄してしまったせいであり、
今後はもう、公の場所には出ないようにするよ。とすればこの富山城も、今日が見納めか…。」

菊池伊豆入道武勝が佐々成政から前田利家に寝返ったのは、それから間もなくのことであった。
(菊池文書)




899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/13(水) 21:22:16.49 ID:B3IkbAH6
信長が死んでよほどうかれてたんだな 佐々

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/13(水) 22:34:31.62 ID:Mz61eB0V
惜しいな佐々
ちょっと足りない

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/14(木) 13:52:04.49 ID:f2rPJSJg
>>899
ノブが死んでうかれる?
佐々,前田、丹羽は、ノブが死んで秀吉が出しゃばって、内心残念な気分では

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/14(木) 14:04:27.17 ID:nKUDRsxz
そんな気持ちはさらさら越え