岩龍島由来

2016年01月16日 17:58

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 12:26:07.11 ID:jASBeQfw
岩龍島というのは昔は舟島と称した。宮本武蔵之助という刀術者と佐々木岩龍が
武芸の論をして、この島で刀術の仕合をし、岩龍は宮本のために打ち殺された。
縁の者がいて岩龍の墓を建てたことにより、土地の住民は岩龍島と呼ぶ。

赤間が関で土地の住民の言い伝えを聞いたが、板本に記される内容とは大いに
異なる。佐々木は武蔵之助と約束し、伊崎から小舟を借りて舟島へ渡ろうとした。
浦人たちが岩龍を止めて言うには、

「武蔵之助は門人を数多引き連れて、先達て舟島に渡りました。“大勢に手なし”
というように1人では叶いますまい。今日は御渡海は無用です」とのことであった。

岩龍曰く、「武士は言を食まず。固く約束したことゆえ、今日渡らないことは武士の
恥辱である。もし大勢で私を討てば、恥辱は彼にあって私にはない」と言い、強いて
島に渡った。すると、浦人の言ったように門人の武士4人が与力しており、ついに
岩龍は討たれた。

はじめに止めた浦人が岩龍の義心に感じて墳墓を築いたことにより、岩龍島と称する
ようになったのだ。その虚実は分からないが、土地の住民の物語りを記すものである。

ある人が言うには、宮本の子孫は小倉の御家士にいるという。宮本の墓もあって、
岩龍に相対しているという。

――『西遊雑記』




972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/16(土) 13:11:31.86 ID:LYMUNCzg
吉岡一門「いかんのか?」
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巖流と宮本武蔵との仕合について

2015年11月19日 06:59

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/19(木) 02:02:18.43 ID:eRBqyffB
中村守和曰く、巖流と宮本武蔵との仕合について、昔日に老翁から聞いた物語によれば、
その期日に及んだ時、貴賎とも見物の巖流と宮本武蔵との仕合についてために多くの人が船島に渡海した。

巖流も船場に至って乗船した。巖流は渡守に「今日渡海する人がとても多いのはどうしたことだ?」
と言った。渡守は「あなたは知らないのですか? 今日は巖流という兵法使いが、宮本武蔵と船島で
仕合するのです。だから見物しようと未明から渡海する人が引きも切らずなのです」と、答えた。
これに巖流は、「私がその巖流だ」と言った。

渡守は驚き、巖流に囁いて「あなたが巖流ならば、この船を他所につけるべきです。早く他州へ
お去りなさい。あなたの術が神の如くといえども、宮本の党はたいへん多いのです。絶対に命を
保つことはできません」と、言った。

これに巖流は、「お前の言う通りで、今日の仕合で私は生き延びることを望んではいない。とはいえ、
堅く仕合を約束したのに、たとえ死ぬとしても、約束を破るのは勇士のする事ではない。私はきっと
船島で死ぬであろう。お前は我が魂を祭って水をそそげ。賤夫とはいえ、その志には感じたぞ」と言い、
懐中から鼻紙袋を取り出して、渡守に与えた。渡守は涙を流して、その豪勇を感じた。

やがて船島に到着した。巖流は舟から飛び降りて武蔵を待った。武蔵もまたここにやって来て、
ついに刺撃に及んだ。巖流は精力を励まし、電光の如く、稲妻の如く術を振るったが、不幸にして
船島に命を留めたということである。

――『本朝武芸小伝』



武将感状記が伝える巌流島の決闘

2015年10月26日 18:50

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/26(月) 02:11:33.31 ID:v7c2s4a3
宮本武蔵は二刀を好んだ。細川忠利に仕え、京都から豊前の小倉へ赴く時のこと。
巌流という剣術者が、下関で待って武蔵に試合をしようと言い遣わしてきた。

武蔵は「心得た」と言って、棹郎に櫂を請い、それを2つに割って手元を削り、
長いものを2尺5寸、短いものを1尺8寸にして、舟から上がって巌流と闘った。

巌流の刀は3尺余りであった。下関の者たちは、残らず囲んでこれを見物した。
武蔵が二刀を組んで巌流にかかると、巌流は拝み打ちに斬りかかったが、
武蔵はこれを受け外して巌流の頭を打とうとした。

しかし、巌流は身を振ったので左肩に当たった。巌流はその勢いのまま踏み込んで
横に払った。武蔵は足を縮めて飛び上がり、彼の皮袴の裾が3寸ほど切れて落ちた。
武蔵は全力を出して巌流を打ち、彼の頭は微塵に砕けて即座に死んだ。

巌流は墓が築かれて、今もその跡がある。

――『武将感状記』

武将感状記が伝える巌流島の決闘という話。