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「鑓合わせ」について

2022年04月16日 18:53

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/16(土) 15:32:47.72 ID:zIGJ4adC
或る本に、大阪夏の陣での大阪落城の時、細川玄蕃頭興元が、鑓を合わせたという事を
家康公が聞き召され、仰せになられた

「鑓を合わすという事は、再々に有るような事ではない。
かつて、この茶臼山の北に見える勝曼院の山に、佐久間不干(信栄)、筒井順慶、荒木村重が籠もって、
大阪の門跡が攻めてきた時、鑓を合わせたと聞いた。
その他に上方において、鑓を合わせたという話は聞き及んでいない。」

この時、佐久間備前守(安政)が罷り出て言った

「上意の如くに御座候。その日は、私は同姓不干の手に付き、両度の鑓がありました。
天正六年五月三日の事です。
朝は茶臼山の西に見える、難波の貝塚での合戦において。不干の与力の、佐久間久右衛門、同葵之助、
梶川弥三郎、水野源太夫、永岡小三郎、この六人(本文ママ)が鑓を合わせ、その晩、勝曼院の山において、
不干家中の志水天市、江原弥助、浮貝藤助、長瀬弥五右衛門の四本、鑓を合わせました。
長瀬は、只今は小右衛門と申し、加賀に居ります。」

と、申し上げたという。

新東鑑


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世上で金銀がたくさんとなったのは

2019年06月25日 15:44

44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 00:35:13.79 ID:Qzaauj/K
世上で金銀がたくさんとなったのは、今から50年以来のことである。

台徳院殿(徳川秀忠)の時、作馬不閑(不干斎。佐久間信栄)という者が所持する“雲山”と
いう茶入を金森法印(長近)が黄金百錠で求めた。これが台徳院殿の御聴に達し「その価を
与えよう」と宣った。

折しも金30錠はあったが70錠は不足していたという。今の世と甚だ相違している。

南都東大寺の奉加で頼朝(源頼朝)は「金50両を寄進する」と言われたけれども、その年
は干ばつで調わなかったいうことが『東鑑』に見える。

――『老人雑話』



45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 08:35:45.23 ID:ZgS036DP
太田牛一「秀吉公が出世ののち日本国中に金銀山野に湧き出で」

今の深志、山より高く海よりも深い

2018年09月13日 21:13

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/12(水) 23:03:17.23 ID:O4tw1YtI
織田信長は佐久間信盛・信栄父子へ折檻状を下し、楠長庵、宮内卿法印、中野又兵衛の三使を以て
配所の定めもなく、ただ急ぎ天王寺を出よとの命令故に、多年蓄えた無量の珍宝を振り捨て、
はどうにか持って出れたのは黄金二十枚のほかは、腰に指した刀大小のみであり、また彼らに従う
者もなく立ち出た。心中を察するも哀れである。しかしこれは、日頃筋なき福を強いて求めてきた
その報いでも有るのだろう。久しく相馴れた召使いも、常々の情が浅かったのか、皆己のために
様々に散っていった、利を独り占めして何かを行えば恨みが多いと言われるが、それはこの事だろう。
大将たる人は、衆と好悪を同じくすることこそ重要である。

然しながら、高野山までは三人ほどが、僅かに志を遂げ付き従ったが、これも、彼らには世間から
去り難い馴染みがあると考えられており、その人々から批判を受けないことを考えただけで、心から
行ったことではなかったのだろう、そのうちの二人は高野山で暇を乞うた。

こうして高野の居住も叶い難くなり、それまでは二万余騎の大将も、一僕に手を引かれ、父子すごすごと、
未だ夜深き中を辿り出るのは、鹿ケ谷事件で平清盛により流罪とされた藤原成親卿の左遷の旅も、
このようであったかと哀れであった。

高野山の辰巳に、相郷という柴を結んだ民家が僅かに4、5軒ある場所に辿り着き、暫くの安を得た。
ここに山岡道阿弥入道、その頃は八郎左衛門尉と言ったが、平井阿波入道安斎も伴って、剣難の
山路を凌いて訪れ、信盛父子との再開を果たした。

これに信盛父子は涙を押さえて
「今の深志、山より高く海よりも深い、何に例えればよいのか。これは夢だろうか、夢だろうか」と、
手に手を取って懐かしげに見まえた。

山岡も平井も、かつては遥かに下がった場所から信盛父子に接していたが、今はこのように、同胞の
親しみにも勝ったように見えると、見る人の魂を感動させ、聞く人は涙で袖を絞った。
誠に信盛が世にあった頃は、皆がその恩を慕い少しでも交わることを望んだものだが、今はその
影すら無い。そのような中での両人の志は、誠に浅からざりし事であると、世の人これに感じ入ったのである。

(甫庵信長記)


山口重政は申し触れて廻った

2017年07月11日 17:39

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 12:47:58.44 ID:F9sSnusY
佐久間不干斎(信栄)が織田信長の叱責により高野山へと立ち退く時、その道中に
野伏が殊の外起こり、通行が非常に困難となった。

この時、佐久間不干の側には唯一人、当時16歳であった山口修理亮重政が付いていた。
彼は飛脚のように先行し、先々で所の名主にこう申し触れて廻った

「佐久間不干が明日、ここを通られる!罪過はご赦免されているため、郷人どもがもし
一人でもこれに手を出せば、後日御詮索あって、必ず罪を問われようぞ!」

翌日、佐久間不干の通行を妨げる者は無かった。

(士談)



90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/11(火) 19:58:20.11 ID:I0EiXcXu
>>88
これ信長の威光の話だよねw

佐久間軍記より、佐久間信盛親子追放

2015年02月25日 18:42

445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/25(水) 00:31:24.52 ID:FByVptBU
天正八年(1580)7月、近衛殿、勧修寺殿の御扱いにて、大坂本願寺の門跡が、織田信長と和睦した。
大阪を退き、紀州の雑賀に移った。
本願寺門跡と信長との戦いは、元亀元年よりこの年まで11年に及び、大阪を堅固に守っていたが、
彼らは毛利輝元、武田信玄と志を通じ、荒木村重をして本願寺を救うと硬く約束していた。
しかし信玄は病死し、荒木も滅亡したため、この度降伏したのだと言われた。

同年8月、信長は門跡が退去した大阪に向かい、城内を見聞すると、その後一書を以って、
佐久間信盛・信栄父子に対し

『多年に及び兵を曝し、衆を労して功を成すこと無かった。急ぎ天王寺を出よ』

というような内容を仰せ付けた。御運も末に成るかのような仰せである。
信盛、信栄は陳謝することも出来ず熊野に籠居した。

世の人々は言った。信長公16歳の御時より、佐久間信盛が先陣を勤め、近年は信栄が大阪を硬く守った。
信長が強敵に向かう時には必ず、信盛の先鋒があった。
しかし織田信長という人には、臣下の功を嫉むことがあった。
また当時、織田配下の中で国持大名に為るべきは先ず信盛であったのに、この大阪の押さえという役割は
彼には不足であったため、心中勇まなかった。
こういう時に、いかなる讒言があったのだろうか、数年の忠功を捨てる事となり、口惜しき次第である、と。


保田久右衛門安政(佐久間安政)はエツタカ城を退き、紀州根来に引きこもった。
(佐久間軍記)

佐久間軍記より、佐久間信盛親子追放についての記事である。




蟹江城と漢たち

2014年02月23日 18:59

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 19:34:10.18 ID:wlbpESpp
蟹江城と漢たち

小牧・長久手の戦いにおいて惨敗を喫した羽柴秀吉は、方針の変更を迫られることとなった。
両軍の陣地構築により膠着状態となった尾張北東部から伊勢・尾張南部に目を向ける。
当時、徳川家康は尾張の清洲城、織田信雄は伊勢の長島城に拠って各々指揮を執っていた。
秀吉は両者の連絡を断ち切るため、清洲・長島の中間にある蟹江城の奪取を計画する。

この計画の実行者にふさわしい者が陣中にいた。蟹江城の元城主で、先年秀吉に敗れ軍門に
降っていた滝川一益である。

一益はまず志摩水軍の九鬼嘉隆を調略で味方につけ、海上からの攻撃を可能なものとすると、
蟹江城内部の工作に取り掛かった。

この時、蟹江城を守っていたのは、佐久間信盛の子佐久間信栄である。折りしも信栄は信雄
の命により、伊勢萱生砦の修築に赴いており、城主不在の状態であった。城主留守の蟹江城は、
本丸を信栄の叔父佐久間信辰(信直)が、二の丸を信盛の妻(おそらく信栄の母)の弟である
前田長定(種定)が守り、その周辺の支城には、前田城に長定嫡子の前田長種、下市場城に長定
弟の前田長俊(利定)、大野城に信栄股肱の家臣である山口重政がそれぞれ配置されていた。
また、蟹江城本丸には信栄の妻子とともに、人質として各支城の家族が集められていた。
肉親と股肱の家臣に留守をまかせた信栄であったが、実はこの肉親は敵方の肉親でもあった。
前田長定は秀吉方として北陸で戦っている前田利家の本家にあたり、かつ嫡子長種の妻は利家
の子幸姫であった。信栄はこの点を考慮すべきであったかもしれないが、やむを得ないだろう。
つい数年前までは同じ織田家中で敵と戦っていたのである。攻める側の滝川氏でも一益の娘婿の
滝川雄利が信雄家老としているのであるから。

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 19:35:32.39 ID:wlbpESpp
さて、一益は当然のことながら、味方に繋がりのある前田長定に狙いをつけた。事前に加賀
前田家からの工作もあったかも知れない。長定はあっさりと内応を承諾した。自身だけでなく、
前田城の長種、下市場城の長俊も誘い、前田一族総出で裏切ることにしたのだ。だが大野城の
山口重政には事前勧誘をしてはいないらしい。裏切りの可能性は低いと見たのであろう。

天正12年(1584年)6月16日、長定が上げた狼煙を目指し、九鬼水軍の軍船に分乗した滝川軍
三千が蟹江城に迫った。長定の誘導によりそのまま二の丸を占拠する。そして、本丸の信辰に
城の明け渡しを要求した。激怒したのは信辰である。信栄の妻子を刺し殺し、城に火を放ち
自身は自害すると言い放ち、要求を突っぱねた。一益・長定としては、一刻も早く城を奪取
したい。交渉を繰り返し、長定の子を人質に出し、信栄の妻子の安全を保障することで本丸
確保に成功する。信栄の妻子は信辰に守られてこの日のうちに城を脱出した。

蟹江城陥落と同時に前田・下市場両城とも秀吉方となり、残るは大野城である。重政の母を
人質にとった長定は使者を遣わし重政に寝返りを勧める。だが重政は「信栄に対して二心は
抱けぬ。我が志を分かって母は殺されても恨みはしまい。己は城を守り信栄の恩に報いる」
と答え使者を追い返した。と同時に、信栄・信雄・家康に急を報せた。

報せを受けた家康は折りしも入浴中であったが、すぐに浴衣を着込むと馬を駆った。後を
追えた者は井伊直政ただ一人であったと言う。往時の織田信長を髣髴とさせる動きである。
信雄もことの重大さをよく分かっていたのだろう。いつもの彼らしからぬ(笑)機敏な動きで
駆けつけた(まとめ・信雄の奮戦 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6917.html)。

滝川一益らも手を拱いていた訳ではない。援軍到着前に大野城を落とそうと川を遡上して
攻撃したが、船に松明を投げ入れられ数隻が沈没、上陸した部隊も城兵と井伊直政の軍に
破れ撤退し、一益は蟹江城、九鬼嘉隆は下市場城に逃げ込む。

早くも6月18日夜には、下市場城が陥落、嘉隆は海上に逃げ、裏切組の長俊は斬られた。
23日には前田城が落ち、長種は逃亡、織田・徳川方により海上は完全に封鎖された。
信栄を先陣に22日より始められた蟹江城包囲戦は、篭城した一益らの奮戦により多くの
死傷者が出たが、早急な援軍が見込めないと悟った一益は和睦を受け入れ、7月3日に
至り開城した。人質となっていた重政の母は無事開放された。一益も無事退去できたが
裏切りの張本人である長定は命を全うできなかった。逃げる途中で妻子ともども殺害
されたのである。後世の史料では一益の命令で斬られたということに変えられてしまって
いるが…。

こうして蟹江城は奪還された。秀吉は7月半ばに尾張西部から総攻撃をかけるつもりで
いたが間に合わなかった。

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 19:37:05.41 ID:wlbpESpp
だがしかし、戦いの後、佐久間信栄は織田家中における家老の地位を守り抜くことは
できなかった。蟹江城失陥の責任を問われたためではない。蟹江城の戦いのおよそ
一月前の5月、京都で謀反が発覚し、多くの公家が逮捕されるという事件が起きた。
首謀者は佐久間道徳、信栄の弟とされる人物である。秀吉は影で道徳を操っていたのは
信栄に違いないと考え、織田信雄との和睦条件に信栄の自害を加えてきたのである。
このため、信栄は信雄のもとを離れ、佐久間家の旧領三河国笹原に隠れ住んだ(三河の
うち現豊田市中心部は以前から織田領であり佐久間氏が勢力を扶植していた)。
こうして信栄は武将としての人生を終えた。後に赦され豊臣、徳川と仕えるが茶人、
御咄衆として仕えたのであり、武将としてではない。居城失陥が彼の戦績の最後であった。

残された佐久間家の人々は織田信雄に仕え続けた。信雄改易後は、蟹江での戦いが縁と
なり、徳川に仕え、佐久間信辰は後に館林城の留守居役となった。その息子は信栄の養子
となっている。山口重政は苦労に苦労を重ね大名の地位を維持した(まとめ・ある若者の
その後の運命 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8237.html)。

敗者のうち前田長種は加賀国に逃れ、加賀八家の一つ前田対馬守家の祖となった。後年、
微妙公こと前田利常を養育している。

滝川一益はまもなくこの世からふっと消えていった…
(まとめ・滝川一益の最期 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3242.html)


夏草や 兵(つはもの)どもが 夢のあと


蟹江城は翌天正13年(1585年)の天正地震により壊滅し、今はただこの地にかつて城が
あったことを示す石碑が立つのみである。




570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:20:02.12 ID:Y7fu0rke
ここはいつからチラシの裏になったの?

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/22(土) 20:36:11.08 ID:f27vMd/J
>>567-569
原典ないけどこれ小説なの?

572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 00:58:26.11 ID:JJQL3nwu
創作物の投稿は守備範囲外だよなぁ

573 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/02/23(日) 06:11:57.79 ID:pfIwyu7K
前投稿された藤堂高虎の主君替えシリーズもほとんど小説ぽかったような

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/23(日) 07:51:14.88 ID:7Kqo9BzW
なんか創作っぽいやつは高確率で徳川が絡んでんだよなあ

ある若者のその後の運命

2014年02月10日 19:14

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/10(月) 18:07:05.63 ID:MPRjJTKC
ある若者のその後の運命

天正8年(1580年)8月、佐久間信盛・信栄親子は対石山本願寺戦における怠慢を
叱責され、織田信長より追放処分を受けた。持ち場であった天王寺の砦から
すぐに退去せよ、という命令であったため、手持ちにあった黄金20枚ほどを持ち、
とりあえず高野山を目指した。当時、信盛は七カ国の兵を動員する権限を有し、
それは織田家中で最大の軍事力といってよかったらしい。それが一枚の譴責状で
このざまである。つき従う者もわずか三人。周囲が信長を恐れたためか住む所も
なかなか見つからず、天王寺を出てから一ヶ月後にようやく落ち着き先を得る
ことが出来た。親子はそこで頭を丸め、信長の怒りがおさまるのを待った。
このとき、いまや乏しくなった懐から半分を出し、落ち着き先の金剛峰寺の
坊主に食事など身の回りの世話を依頼している。そして、こうも頼んだ。

「この身に不測の事態が起きたならば、お預けした金子で石塔を建てて下され」
(震え声)( TДT)

哀れである。しかし、信長の怒りは解けない。
「高野山に住まうこともまかりならぬ」

わずか10日後、親子は新たな落ち着き先を求め旅立つ。去り際に、もしもお怒りが
解けて復帰がかなったら200石寄進します、と連名で認めて坊主に渡しているのが
わびしい。事態がここまで悪化すると、つき従っていた供の者も「こりゃあかん」
と親子を見捨てて逃げてしまったらしい。お先真っ暗、どん底である。

だが、僅かな光明が灯された。
親子を慕って一人の家臣が駆けつけてくれたのである。
その若者はまだ十七歳。少し前に父親を亡くし、近江国で喪に服していたが、
主親子が追放と聞いて、いてもたってもいられず、高野山に向かい、方々捜して
ようやく熊野に向かう途中の親子を見つけ出すことができたのである。若さって
すばらしい。信盛はその忠心に涙し、何も与えることができぬ、せめて我が姓を
受け取ってくれ、と佐久間姓を名乗ることを許したという。
さて、高野山を離れた親子は、最終的に現在の十津川村に落ち着き、この地の
温泉(湯泉地温泉)で湯治をすることとなった。若い信栄はともかく、既に老境
に入っていた信盛は、追放により精神的にも肉体的にも相当なダメージを受けた
と思われる。悲しいことに養生にもかかわらず、追放からおよそ1年後、信盛は
息子と若者に看取られながら十津川で没する。涙する若者 (;´Д⊂)

信盛の死から半年、さすがに哀れに思ったのだろう、信長は信栄を呼び戻し、
赦免を与え再び出仕することを命ずる。喜ぶ信栄の横にはまたまた涙する若者の
姿があった。

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/10(月) 18:08:49.85 ID:MPRjJTKC
およそ三十年後、幾多の武功により大名に列せられていたかつての若者は、ある
政争に巻き込まれ、所領没収のうえ、息子とともに寺への蟄居を命ぜられる。
彼の脳裏に、旧主の姿がありありと映し出されたことだろう。だが、彼は旧主の
ように「待ち」の姿勢をとらず、己の運命を変えるべく親子して「攻め」に出たのだ。

自らの不遇を利用して、敵方勢力に味方すると見せかけ、相手の懐に飛び込んだ
うえで敵大名を暗殺してみせる、この献策が入れられぬと分かると、今度は息子の
方が勝手に寺を抜け出して戦に参加しようとする。関所で見破られ送り返される
と、あらためて通過のしやすい商人に成りすまし関所を突破、戦場へ駆けつけるが、
戦は和議が結ばれた後だった… ( TДT)

和議が破れ、再び戦が始まると、好機到来とばかりかつての同僚の軍勢に親子して
加えさせてもらい再起を懸ける。合戦が始まり敵勢目掛けて突進するも、前に出過ぎて
息子及び同道した弟は討ち死に……(;´Д⊂)(;´Д⊂)(;´Д⊂)

だが、彼等の死は無駄死にではなかった。失脚から15年、息子らの戦死から13年も
経っていたが、かつての若者、既に60歳を超えた老将は罪を許され、大名への復帰に
成功したのである。感涙を流す周囲の者を見つめ、はて、いつかどこかで見た風景…
と彼が思ったかどうか…。

彼の子孫は、二度と領地を手放すことはなかった。小さいながらも大名として存続し
続け、明治の代を迎えた。


牛久藩初代藩主、山口重政のお話。




340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/10(月) 20:51:02.60 ID:lkxvww1I
後のサクマ式ドロップアウトである

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/11(火) 01:08:01.70 ID:U74Vycw/
>>339
ドラマだねえ
しかし懐に忍び込んで暗殺してみせる敵大名って豊臣秀頼のことだよね、色々と凄いこと言うね

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 16:32:39.93 ID:1JpDUISN
>>338>>339
ではここで山口さんが苦労するに至った、関係の深い方に伺いましょう。
いかがですか、このお話の御感想は?


正純「ふむふむ、で、佐久間信栄殿は200石を寄進されたのですかな?」

346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 22:00:29.59 ID:eCUrkUs7
信長の小姓の山口飛騨も同族なんかねぇ

信栄の茶の湯の手前、ことのほか上手であった。しかし

2013年10月25日 19:07

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 00:07:38.83 ID:yrwsuMaa
佐久間信盛・信栄の親子が石山本願寺を包囲している時、織田信長が陣中を訪れた。
佐久間親子は茶会を開いて信長をもてなした。
信長は京に戻ってきてからこう言った。
「信栄の茶の湯の手前、ことのほか上手であった。しかし羨ましいとは思わない」




408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 00:13:38.61 ID:ptmj4Qfe
で信長折檻条につながると
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4448.html
一、貴様(親子)が本願寺を包囲している間に手柄を立てた話は聞いたことがない。
二、もっと臨機応変に戦うべきなのに、貴様は包囲一辺倒で工夫がない。
十二、貴様の息子はろくでなしだ。

信栄が茶の湯より戦に励んでいればよかったものを

409 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 01:38:10.58 ID:D7rKQx7m
「お前もそうだが息子も茶の湯にばっかり励みやがって、武士なら戦に励めコラ」
と。
まあでも信盛にしてみりゃ、ウッカリ動いて負けでもしたら自分が討ち死にせずとも塙直政一族みたく潰されるんじゃないか、とか考えてたんじゃないかなあ

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 01:40:12.78 ID:tdHrFcQD
そりゃ首になっても仕方ない

411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 09:04:31.68 ID:4d91IT6u
>>408
信盛「貴様の息子は舞は事の外上手だが要らん戦仕掛けて負けてくるろくでなしだ。」

412 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/25(金) 10:55:51.70 ID:2xlYhFig
でも信盛が死んだ後、息子は旧領戻してもらえたよな

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 12:39:13.22 ID:D7rKQx7m
ちょっと切れ気味でキツいハッパかけたつもりがまさかアッサリ引っ込むとまでは思ってなかったとか
それに家臣も散ってるし、何より腐っても織田の重鎮の一人だった信盛と違って、息子だから戻しても問題ないかなとかじゃないの
敵に内通した、とかの疑いじゃないしね

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 19:06:11.52 ID:sVFaAJ4L
魔王さま領地を取り戻した水野の息子の方がろくでなしなんですけど、しかも筋金入りの

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/25(金) 19:20:25.93 ID:7A29hjLT
鬼武蔵は人でなしというか鬼畜だけど、ノブのお気に入りです