佐久間兄弟の関ヶ原

2015年01月21日 18:51

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/20(火) 19:27:31.69 ID:RqNqgsT1
慶長五年(1600)、濃州関ヶ原合戦の時、佐久間久右衛門(安政)、同源六(勝之)の兄弟は
徳川家康に従い、会津征伐へと従軍していた。下野国小山に至り、家康は兄弟にこのように言った

「汝ら兄弟は、石田治部少輔の居城である佐和山の近くに妻子を置いており、さぞ心もとなく思っているだろう。
早く上方へ上り、これを助けると良い。」

これに兄弟は答えた
石田三成は、このように申していました。『もしもの時はそなた達を頼むために、我が城の近くに
兼ねてから領地を渡しておいたのだ。今度も我等と一味仕るように、』
そうして再三にわたり、今度の会津征伐に同行しないよう言ってきましたが、このように従軍する上は、
もし三成が我が妻子を人質に取ろうとしたなら、刺し殺して渡してはならぬと、家臣たちに申し置いて
参りました。どうか、心やすく存じ上げますように。」

そして彼らが江戸城に詰めている時、先に清須へと上った諸将は八月二十三日、岐阜を攻め落とし
城主である中納言(織田)秀信を生け捕り、城兵を尽く討ち捕らえた。これにより首などを御実検頂くため
進上した。そのための使者は八月末日江戸に到着し、家康はこれを聞いて、九月一日、江戸を出立、
佐久間兄弟もこれに供奉した。

佐久間兄弟は関ヶ原において、石田三成の備に向かって攻め入った。
そこで自身も高名し、家臣たちにも敵を討たせた。時に佐久間源六は三成と馳せ合い、言葉もかけたのだが、
兄の久右衛門が深く攻め入り傷を負ったのを見て、三成を捨て久右衛門の所に行き従った。

またその後、近江国高島郡でも働きがあり功を賞された。
(佐久間軍記)

佐久間軍記より、佐久間兄弟の関ヶ原での働きについての逸話である。




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蒲生氏郷と伊達政宗の対面

2015年01月16日 18:40

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/15(木) 20:18:33.55 ID:L+YjOFig
天正十八年(1590)、葛西大崎一揆が起こると、会津の蒲生氏郷はこの平定のため出撃し、
一揆方の名生城を攻め落とすと西高清水に陣取った。
ここに、伊達政宗が味方するためと参上した。

しかし、氏郷はそれまで政宗に、使いを以って『一揆を攻められるべきである』と、再三に渡り伝えたにも
かかわらず、全く戦おうとしなかったため、政宗の心底を見ようと、氏郷は政宗の陣所へと向かった。
政宗はこれを喜んだ。その座は、左の上座に氏郷、次いで佐久間久右衛門(安政)、前田慶次(利益)、
佐久間源六(勝之)、蒲生源左衛門。
右の上座は政宗、次いで武田・田村・茂庭・片倉であった。

この時、酒乱に及び、政宗は座を立って乱舞した。そして「肴を取ってくる」と勝手の方に入ろうとしたが、
ここで佐久間源六が政宗を抑えて「このような座敷で、大将が勝手に入るような真似はせぬものです!」と
元の座に戻し、「私が肴を取ってきます。」と勝手の方を見に行くと、そこには数百の兵が控え、事有れば
打って出るという気配に満ちていた。

源六は勝手より肴を持って出ると政宗の右手に近づき、「お酒を注ぎましょう。氏郷の前に杯がありますから、
政宗殿がお納め下さい。」と進めた。
そして酒宴も収まり、氏郷は退出した。久右衛門と源六の佐久間兄弟、および前田慶次は残って、
政宗と京や田舎の物語をし、氏郷が充分逃げ延びた間合いを見計らってから退出したという。
(佐久間軍記)

佐久間軍記による、蒲生氏郷伊達政宗の対面の模様である。



260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/16(金) 17:13:29.67 ID:7WkErP5W
>そして「肴を取ってくる」と勝手の方に入ろうとしたが、

怪し過ぎるわwwww
もうちょっと自然に席を立てよwwww