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武功を挙げた盛政は

2019年04月13日 12:47

794 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 11:41:30.13 ID:8euuL6hJ
佐久間盛政は、1554年尾張国御器所に生まれた。
『佐久間軍記』によれば、長じては身の丈六尺(約182㎝)となったとある。
相当な巨漢だったらしい。
盛政は勇猛果敢な武将であったが、微笑ましい逸話も残されている。
『陳善録』によると、まだ18歳の頃のこと、前田利家の家臣村井長頼とともに敵将の首をとるという武功を挙げた盛政は、信長ではなく真っ先に叔父の柴田勝家に首を見せに行ったため、一番首の恩賞を信長からもらえなかったという。



795 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 11:48:49.39 ID:aHLiQiKX
>>794
確か比叡山焼き討ち直前の金ヶ森攻めの時のエピソードだよね?

796 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 11:53:12.45 ID:8euuL6hJ
>>795
よく知ってるな!どマイナーEpなのに...
盛政からしたら立場的に一段下の村井長頼と仲が良かったのは意外だったことは印象に残るて

797 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 12:41:34.23 ID:aHLiQiKX
佐久間盛政って面白い逸話多いよね~

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/13(土) 17:47:33.27 ID:w1OWPUsS
地下鉄で有名なあの御器所出身の人なんだ!
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まことに良将が軍を統べる故なり

2019年03月09日 21:24

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 18:40:43.12 ID:6ECJ3CPn
(賤ヶ岳の戦いの時)

清秀(中川清秀)はこれ以前に度々に及んで武辺に落ち度を取らず、勇力を世間に知られた侍なり。

「度々の晴れ戦、万一鈍兵の名を得ては生涯の不覚!」と思い定めた清秀は「運は天にあり、進ん
で退くことなかれ! 」と諸卒に言葉を掛け、1千余騎が塁を離れて突き出た。玄蕃助(佐久間盛
政)の兵はこれを見て、余さず漏らさず押っ取り込めて、数刻攻め戦う。

清秀は我劣らじと、兵5,60騎が弓手馬手に並び、散々に切り合い割り入り追い立てた。清秀は
一旦は勝利を得たものの、敵は多勢をもって手負い死人を顧みず、風の発するが如く河の決するが
如く乱入して、ついに清秀は討死した。

その時、玄蕃助は勝ちに乗じて太刀場を取り、前は鯨波が地を響かし後ろは狼煙が天をかすませた。
風はふるい、旌旗は光を添えて日に輝く。甲冑は影を並べ、その威光は誰をもって争えようか。

この時、清秀が速やかに引き取っていれば、一化先は敵の勝手をなすとしても“勢に因りて之を破
る”との諺をもって、その尽くが居陣となったものであろう。

秀長(豊臣秀長)の陣所を始めとして、先手の陣取りは各々堅固の備であった。一陣が敗れて残党
も無事ではないといえど、士衆は一致して軍は心を結んだ。これまことに良将が軍を統べる故なり。

そうして江北の戦は相果てた。事が済んだ時、それより羽檄をもって件の注進あり。秀吉はこれを
聞いて清秀が討たれたために、甚だ深く哀憐した。

――『天正記(柴田退治記)』



玄蕃助は罪多き故

2019年02月23日 17:24

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/23(土) 13:40:02.74 ID:HxtaoOXS
柴田勝家討伐後)

また勝家嫡男の柴田権六と佐久間玄蕃助(盛政)は先刻、越前府中の山林に馳せたところを生け捕ら
れて来た。そこで後日の戒めのために、隣国方々の城で引き回した(爲後證引廻隣國方々城)。

権六は近江佐和山で誅殺し、玄蕃助は今回の矛盾の主犯格にして罪多き故(玄蕃助今度矛楯張本人而
罪多故)、車で洛中を渡して六条河原で誅殺し、柴田権六の首と同じく獄門に掛けたものである。

――『天正記(柴田退治記)』

最期の美談で知られる佐久間玄蕃だが、柴田退治記には「大罪人だから処刑した」としか記述されず


勝豊は内々恨みを含んでいた

2019年02月21日 10:15

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/20(水) 19:51:45.68 ID:CW5ADGE9
(長浜城攻めの時)

かの地(長浜)は秀吉が長く居住した要害である。このため、秀吉は長浜の案内を知っており、敵の
痛所を思惟して付城を構え、内側を繰り破るべく列をなす。

勝豊(柴田勝豊)は越前の援兵を頼みにするも、頃日の雪は例年を超過した。寒威は実に綿を透かせ、
風力はまさに酒を凍らせんとす。住む者は籠り伏し、来る者を凍え殺し、ことこどく人馬の通行は絶
えた。ここに至って勝豊は釈近謀遠しても労をなして功は無く、秀吉へ降参に至ることを考えた。

ところで、勝豊の本素は他名なり。勝家(柴田勝家)の養子となしたものである。只今秀吉に降参し
て一味することは、すこぶる本意を失うようなものだ。しかしながら、佐久間玄蕃助盛政はかの分国
において権柄を執ること実に甚だしく、これによって勝豊は内々恨みを含んでいた。

秀吉はその由来を知って疑わせること無く勝豊を引き付け、すなわち美濃へ向かった。これに従った
面々は惟住五郎左衛門尉長秀(丹羽長秀)・筒井順慶・長岡越中守忠興(細川忠興)・池田紀伊守之
助(元助)・蜂屋伯耆守頼隆、その他諸国の軍兵を引率して都合3万余騎。これが大風を凌ぎ深雪を
分けて、岐阜に至り押し寄せた。

国中の凶徒は、あるいは追罰を加え、あるいは降参して従い、日を経ずして残るは一国一城となった。
信孝はこれに惨憺して、ひとえに和与を嘆き慕う。そうして信忠の御若君(織田秀信)に信孝の老母
と息女を添えて、人質に出したのである。

秀吉はこれを見て古を思い、なおも憐憫奉る志あり。秀吉は囲みを解いて12月29日に美濃を去り、
山崎城へと至って、かの地で越年した。

――『天正記(柴田退治記)』


同道し引き取れば良かったのではないか

2019年02月10日 17:41

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/10(日) 07:29:58.83 ID:4nGBoZpj
織田備後殿(信秀)からの、息子信長への遺誡のうちに、「大利を得た場合、其の勢いをよく養えば
敵国は自然に滅びるものである。」というものがあった。
この事を柴田勝家はよく知っていた故に、賤ヶ岳の戦いの際、中川清秀の砦の急襲に成功した
玄蕃允(佐久間盛政)に急ぎ引き取れと、使者数度に及んだが、玄蕃はそれを用いず自分の戦果を誇る
様子が見えた。

或いは曰く、このように玄蕃允が下知を用いないのであれば、勝家が早々に進み来て、玄蕃を引き立て
同道し引き取れば良かったのではないか。秀吉ならばそうしただろうと、心ある人は悔やんだという。

(甫庵太閤記)


佐久間玄蕃の最期

2019年02月07日 09:39

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/06(水) 19:54:36.66 ID:Ofct1FS2
(柴田勝家自害後)

秀吉卿より諸侯大夫、その他馬廻小姓中へと端午の祝儀として美酒肴がおびただしく下し賜れた。

秀吉卿は坂本に10余日御滞留されたが「権六郎(柴田勝家の子)と玄蕃(佐久間盛政)は洛中を
引き渡して六条河原で生害するように」との旨を浅野弥兵衛尉(長政)へ仰せ出されたことにより、
その沙汰に及んだ。権六は是非に及ばず、その様子は骨髄に徹して見えたのであった。玄蕃は曰く、

「中川(清秀)を討ち取った後、勝家の下知に任せ早々に本陣へ引き取っていたならば、どうして
この期に及んだだろうか。戦功をまっとうして上方勢を侮らなければ、秀吉を今の私のようにして
いたというのに。果報甚だしき筑前であることよ」

と言ったので、浅野はこれを聞いて数々の悪口をすれば、玄蕃は振り仰いで、

「大忍の志をおのれらに言って聞かせるのもどうかと思うが、そもそも頼朝は虜の身となり池の尼
(池禅尼)の便りで許しを受け、後に平家を攻め平らげて父の仇を報じたのだ。生きて封候を得ず、
死して五鼎に煮られようとも侮らない。これが偉丈夫の志ではないのか! 知らぬのだな!」

と言って浅野を睨み付け大いに叱り、「あっぱれ大剛の者なり!」と人は皆感心し合ったのである。
玄蕃は「所詮夢なり」と言って硯を乞い、一首をこう詠んだ。

「世の中をめくりも果ぬ小車は 火宅の門を出るなりけり」

玄蕃は途中で表情を変えることもなく首を打たれた。“鬼玄蕃”と言われたこともあったというのに
(このような最期を迎えてしまった)。

――『賤嶽合戦記』



秀吉は越前を丹羽長秀に、加賀を前田利家に与えて上洛した。山口甚兵衛(宗永)と副田甚左衛門
(吉成か)は佐久間盛政を警固して上洛する。秀吉は浅野長政を使者にして盛政に曰く、

「私は汝の大功を知っているので誅するに忍びない。怨敵の心を翻して私に従うのだ。九州の諸将
は未だ私に属してはいない。汝に肥後国を授けて九州を征伐させよう」

盛政は答えて曰く、

「命を助かり、あまつさえ大国を授けられることは後代の誉れである。私が九州に赴けば、これを
討ち治めるのは1年の内に実現することであろう。しかし、私が上洛して秀吉に対面すれば、必ず
や憤怒を生じ、思わず秀吉を切ることだろう。そうでなくとも肥後に下って謀叛を起こすであろう。
命が助かる恩も国主となる恩も報じずに、かえって災いをなしても良いのだろうか。殊の外の恩で
はあるが、早く死罪にするべきである(返テ禍ヲナサハ可乎トテモノ恩ニハ早死罪ニ可行也)」

長政は帰って秀吉にこれを告げ、秀吉はまた長政を使者にして曰く、

「私に謀があると思うのか。天の照覧に任せて私は偽ってはいない。早く私を求めて従うのだ」

盛政はこれに、

「まったく秀吉に謀があるとは思っていない。勇士たる者、一言を出して翻してはならない。私は
明日必ず車に乗って洛中を一見し、河原で誅されるものである」

と答えたという。秀吉はこれを聞き「勇士の一言は綸言(綸言汗の如し)。もう一度言い聞かせた
としても、従いはすまい」と盛政に最期の衣装を賜った。盛政は白小袖の上に、染物の赤裏が付い
た大広袖を着て車に乗った。その姿は身長6尺、血眼で面は曲見、頬には髭があった。

5月12日。盛政30歳。盛政は洛中を渡り、世に聞こえる“鬼玄蕃”を見ようと貴賤上下は馬車道
に横たわって男女は巷に立ち並んだ。これを見て盛政は睨み回し行き、河原で討たれたという。

――『佐久間軍記』


668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/06(水) 20:07:43.45 ID:Ofct1FS2
秀吉が佐久間玄蕃(盛政)を御教訓されるために、蜂須賀彦右衛門(正勝)を槇島へ御使者に立て
られて仰せになったことには、

「勝家(柴田勝家)は以上の次第なれば、必ず是非もなしと思いなさるのだ。早く後のことは何事
も目算して捨てられよ。やがて年が明ければ、多くの国が手に入ろう。その時に大国を一国与える
ものである。この上は秀吉を勝家と思いなされば、秀吉も満足するものである」

ところが、思いの外の玄蕃の返事であったと聞いている。

「仰せの次第は承り届けました。合戦の勝ち負けは世間の習いであるものです。勝家に合戦の御利
運があったなら、秀吉を私めの成り行った姿になされたと存じます。しかし、勝家が自害した以上、
玄蕃は浮世に留まりたとえ天下を下されようとも、秀吉と勝家を思い替えるなど思いも寄りません。

自害したく存じますが、心で考え直すと『どのような糾明を受けるかと悲しんで自害したのだよ』
と取り沙汰されれば、屍の上の不覚であるため自害は留まったのです。死罪の体を如何様にも行わ
れよ。さあ早く早く!」

玄蕃はこのような御返事に及んだ。その返事の次第を申し上げれば秀吉は「それは玄蕃に似合った
返事だな。心底を残しなさらぬ事の神妙さよ。君子に二言は無い故、重ねての教訓には及ばず。そ
れならば腹を切らせよ」と、森勘八(毛利高政)を御使者に立てられた。すると玄蕃は申されて、

「秀吉に一言の訴訟あり。ここで首を刎ねられては密かに死んだようなものです。願わくば車に乗
せて縄下の体を上下に見物させ、一条の辻から下京に引き下げさせなさって頂ければ、忝く存ずる
ものなり。その上であれば、秀吉の威光も天下に響き渡るのではないか」

秀吉はこれを聞こし召され「玄蕃の遺言に任せよ」と仰せになり、玄蕃を京に召し寄されて「車の
次第は粗相にしてはならぬ。潔く飾り立てよ」との仰せで、玄蕃の所には「これを着なされ」と御
小袖2重を遣しなさった。玄蕃がこれを見て申し上げたことには、

「忝く存じます。しかしながら、紋柄仕立ての様は気に入り申しませぬ。大紋の紅物の広袖で、裏
は紅絹紅梅の小袖を賜りたく存じます。これを着て車の上に乗り、目立って『あれこそ玄蕃よ!』
と見られるためなり。軍陣の時の大指物ように人目に掛かり申したいのである。紋柄の小袖では、
軍陣の時の鉄砲の者などの指物に似ているようなものである」

秀吉は聞こし召され届けて「最期まで武辺の心を忘れずにいることよな。惜しい惜しい」と仰せに
なり、望みの如くのような小袖を2つ用意され、1つは白の小袖でいずれも広袖である。それを玄
蕃の宿へ遣されて差し上げ、玄蕃はこれを戴き紅物の横紋を着た。さて車を差し寄せた時に玄蕃は、

「わざと縄を掛けよ。越前敦賀の在郷で百姓めらに召し捕らえられた時、玄蕃に縄を掛けたことは
天下に隠れなき事である。縄を掛けずに渡されたならば『玄蕃は縄の詫び言を致したか』と見物の
者も不審を思い立てるであろう」

と縄に掛かって車に乗り、一条の辻から下京まで玄蕃の遺言に任せて渡した。京中の上下見物衆は
取り囲んで群衆をなすこと限りなし。玄蕃は「さて、下京の町屋に入れ置け」と申し上げた。

秀吉の仰せには「夜に入ってからまた槇島に玄蕃を遣しなさり、御成敗の次第を昼に行うことは無
用である。夜に首を刎ねよ」と仰せ出され、また森勘八に仰せ付けられて「槇島に着いたらすぐに
野に敷皮を敷かせる。ただちに御切腹召されよ」と、脇差を扇に据えて玄蕃に差し出した。

すると玄蕃は「腹を切るなどということは、世の常のよくあることでしょう。腹を切るくらいなら、
どうして今日の車の上で縄を掛けようか。この上から縄を後ろ手に回して、よく縛められよ」と申
されたが、昼の高手小手の縄で縛めたまま、玄蕃の首を刎ねた。勘八殿は玄蕃の遺体を念を入れて
よく納め置き、この後に石堂を据えて玄蕃の墓印に定め置かれた。

秀吉が玄蕃を槇島に長く御置きになったのは、玄蕃を惜しく思し召され「長く置けば心も和らぐだ
ろう」と思し召されたためと聞いている。秀吉直々の御教訓をなされれば、おのずと玄蕃が申し上
げることもあるだろうとのことであった。しかしそうはならず、この通り彦右衛門を遣されて君子
に二言は無しと思し召されてこのあらましと、相聞こえ申し候事。

――『川角太閤記』



667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/06(水) 20:03:01.87 ID:J4Ys0hA7
>>666
面白い違いだ

彼藤吉猿面郎カ方ヘ我ヲツレ行一言可云事アリ

2019年02月02日 20:01

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/01(金) 23:31:44.36 ID:wYso0K98
佐久間玄蕃允盛政は21日の合戦(賤ヶ岳の戦い)では険阻を隔てて勝家(柴田勝家)に通じる
ことができず、蔵王社を出て北之庄城の後巻のために加賀へと赴いたが、そのようなところに中
村の郷民が赴いて、盛政を取り囲んだ。盛政はこれを見て、

「私はすでに運命尽き、また戦おうとも利はあるまい。かの藤吉猿面郎の所へ私を連れて行け!
一言申すべき事がある!(彼藤吉猿面郎カ方ヘ我ヲツレ行一言可云事アリ)」

と申し彼らに捕らわれた。その後、北之庄でこれを見た浅野弥兵衛長政は「あなたは“鬼玄蕃”
と言われた人ではないのか。どうして死ぬことができなかったのだ」と申した。盛政は笑って、

「汝は愚かだな。源頼朝は大庭景親に負けて節木の中に隠れ、義昭将軍(足利義稙か)は細川政
元に捕らわれてその囲みを受けるも、ついには免れて大功を立てたのだ。将たる者が、どうして
容易く敵に死を許すことあらんや!」

と申し、聞く者は皆舌を鳴らして感嘆したという。佐々源六勝之(佐久間勝之)は勝家に従って
北之庄に至り、その後に盛政のことを聞き加賀尾山へ赴いて北之庄の後詰をしようしたが、兵は
集まらず越中に帰ったという。

――『佐久間軍記』


百姓には似合わぬ事を致したものだな。

2019年01月31日 17:27

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/30(水) 19:25:29.45 ID:MBkW3Zlu
(柴田勝家の自害後)

秀吉は越前の国まで御上りになられ、越前一国と加賀半国を丹羽五郎左衛門殿(長秀)に進ぜられた。

そういうわけで、佐久間玄番(盛政)は賤ヶ岳の御合戦より越前敦賀の奥の在郷へと主従3人で百姓の
家へ立ち寄ったが、山路を伝った故に、ときを踏み杖にすがり、百姓にもぐさを貰ってときの口に灸を
致した。

家中の者は主人を装って「あの者は我々が召し連れている者で、ことのほか草臥れているから食べ物を
買い申したい。早く早く焼いてくだされ」と頼んだ。すると百姓めらは、「あのときを踏んでいるのは
主人だ。2人の者はとき踏みの家中の者か」と心中で見及び、「食べ物を焼かせて売りましょう。その
間に御休みなされ」と申して騙したのである。

そして百姓らに言い聞かせ、主従を棒で押さえ付けて召し捕らえたところ、推量したようにとき踏みは
佐久間玄番で2人は玄番の家中の者だった。

召し捕らえたことは同国北之庄に注進された。秀吉の御心には「無情にも縄を掛けたものよな」と思し
召されたが、是非に及ばぬ事の成り行きである。

秀吉は御心をもって玄番の縄を解きその身をゆるゆるとさせ、乗り物に乗せて道中を良いように労り、
それから「ただちに上らせよ。場所は宇治の槇島に置けよ」と仰せられて、道中を良く労わって玄番を
槇島に置いた。しかしながら、御番は堅く仰せ付けられた。

秀吉はその百姓めらを召し寄され、「百姓には似合わぬ事を致したものだな。見せしめのために、褒美
として機物にあげよ」と仰せになり、その時の12人を磔になさった。(>>700

――『川角太閤記』

“とき踏み”って何だろ…



706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 10:52:12.23 ID:a/3DMyKC
流れからして、鋭い物かな?
「鋭き」って「とき」とも読むらしいけど。

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 14:15:07.03 ID:hUh1KEi1
>>700>>705
百姓カワイソス…

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/31(木) 14:44:27.80 ID:CgHfjAJq
>>705
文脈からだと刺じゃね

褒美として機物にあげよ

2019年01月28日 17:51

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/27(日) 20:25:23.11 ID:RsuwMCIe
(賤ヶ岳の戦い敗戦後)

佐久間玄番(盛政)は賤ヶ岳の御合戦より越前敦賀の奥の在郷へと赴き、主従3人で百姓の家に立ち
寄ったが、百姓めらに棒ずくめにして召し捕らえられた。

秀吉はその百姓めらを召し寄されて、褒美なされようとした。「手伝い致した百姓めらも皆々参れ」
と仰せになり、百姓は御褒美を望んで「我も手伝いました!」「我も我も!」と申し、その召し捕ら
えた家に入っていたような者12人を召し寄せられた。

秀吉の御思案には「合戦の勝ち負けは世間の習いである。秀吉が負ければ、今日は人の身の上、明日
はまた自分の身の上である」と思し召しなされ、「百姓には似合わぬ事を致したものだな。見せしめ
のために、褒美として機物(磔用の刑具)にあげよ」と仰せになり、その時の12人を機物に御あげ
になられた。

これは明智を討った百姓の時とは異なっておられた。討手に罪の軽重があったからである。

(中略)

三七殿(織田信孝)は野間の内海で御切腹を仰せ付けられた。その時の御辞世に、

「むかしより主をうつみのうらなれは むくいをまてやはしはちくせん」

――『川角太閤記』


羽柴秀吉と柴田勝家の戦いは

2018年04月30日 17:49

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/29(日) 22:05:21.88 ID:u2Lcbudr
羽柴秀吉と柴田勝家の戦いは、その権勢の争いともいい、また信長公の御妹であるお市御料人が
その言われであるとも申す。

彼女は淀殿の御母であり、近江国浅井(長政)の妻であり、浅井と死別し、その母と
一所におられたのだが、天下一の美人の聞こえ有り、秀吉は彼女へ御臨みをかけられたのだが、
柴田勝家が岐阜に参り、三七殿(織田信孝)と心を合わせ、お市御料人を迎え取り己の
妻とした。

秀吉はこのことを聞くと激怒し、柴田を越前には帰さないと近江国長浜へ出陣した。
しかしここに丹羽長秀、池田勝入が扱いに入り、柴田勝家はお市御料人を同道して
越前への道を通った。

翌年三月、柴田方より近江柳瀬に出陣した。秀吉は大阪より出て近江長浜に砦を築き、
互いに足軽の合戦をしていた。

ここで佐久間玄蕃(盛政)が「かように日を暮らしていては意味がありません。」と柴田に進言し、
賤ヶ岳の下の湖畔を通り高山右近の出城を攻め落とし、玄蕃が直にその城に籠もった。

柴田は玄蕃に「深入りである。早く引き取れ」と伝えたが、玄蕃は「弱きことを言われるものだ、
旗下にて出城の一つも二つも攻め落とすべきなのに、急いで引けとは何事か。」
と引かなかった。

この時の事について、後にこう言われた
『玄蕃は柴田の指図のように引いておけば良かったのである。そこから5日のうちに、
秀吉方に謀反人が出て、柴田方の利運に成るはずであったのに、玄蕃が要らざる強味を出して
しまった』と。

実は筒井順慶が柴田と心を合わせ、秀吉を裏切るよう定めていたのだ。
順慶は其の頃大和伊賀両国を領する大名であり、返す返すも残念なことであった。

(祖父物語)

祖父物語の時点でもう、お市に「天下一の美人の聞こえ」があったなんて書かれていたんですね。
あと賤ヶ岳の時筒井順慶が秀吉裏切ろうとしていた、なんて話は珍しい。



698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/29(日) 22:08:58.58 ID:dJFLIRdd
賤ヶ岳で洞ヶ峠を決め込んだのか

【佐久間盛政、前田利家に戦功を譲る】

2016年08月11日 13:48

55 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2016/08/10(水) 20:06:22.68 ID:kv4aHxC0
佐久間盛政前田利家に戦功を譲る】

清須会議の後、能登では有力寺院の天平寺が織田家に敵対し、越後へ亡命していた国人衆を呼び戻して挙兵した。
天平寺は要害の石動山を本拠地とし能登の国人衆に強い影響力を及ぼした強大な組織であり、北陸で猛威を振るった一向一揆が能登国に浸透しなかったのは、天平寺の存在があったからだった。
織田信長が存命だった頃、織田家は天平寺の寺領の大半を没収した。
また能登国人衆の温井家や三宅家などは織田家に降ったが、彼らに恨みを持つ長連龍に攻撃されて逃亡し、故郷へ戻る機会を窺っていた。
上杉景勝は能登へ戻る国人衆に兵を貸し、さらに後詰の軍勢を派遣する準備を進めた。
反織田家の軍勢は、能登と越中の国境にある石動山と荒山に籠り、荒山では既存の砦の改修工事を始めた。

当時の上杉家は宿敵だった北条家と和睦の交渉を進めて背後を固めていた。
上杉家が越中・能登の反織田勢力を糾合して北陸方面軍と対決するには都合の良い時期だった。
本能寺の変の直後に信長の元馬廻り衆だった前田利家が明智討伐よりも能登に留まることを選んだ事実を考えると、北陸の情勢は深刻で荒山合戦は北陸の勢力図を塗り替える可能性が
あったかもしれない。

天平寺が挙兵すると、前田利家は柴田勝家と
佐久間盛政に応援を要請した。
要請を受けた盛政からも柴田勝家に事態を報告すると共に、情勢が逼迫していたため直ちに出陣した。
盛政と拝郷家嘉は、僅か二日で兵を集めて荒山の近くの高畠という土地に入った。
この時点で荒山の砦の工事はほとんど進んでいなかった。

拝郷家嘉の居城は加賀南部の大聖寺城で、
兵の召集から現地入りまで二日は驚異的
な速さになる。
おそらく盛政たちは天平寺の挙兵に備えて、
予め兵を集めていたのだろう。

盛政と拝郷は現地の人々の協力を取り付け、荒山の砦改修の情報を知ると、直ちに出陣して荒山へ向かった。盛政は斥候を出して状況を把握すると、反乱軍の主力数千人が籠る荒山を猛攻撃した。佐久間勢の猛攻を受けて敵軍の指導者は尽く戦死。
指揮官を失った敵軍は敗走して石動山へ向かったが、退路に回り込んだ拝郷勢に捕捉されて壊滅した。

友軍を失い孤立した石動山は前田利家
制圧して反乱を鎮圧。
上杉軍が送った援軍は間に合わず撤退した。
合戦の結果、織田家は能登と越中北部から
上杉家の影響力を排除することに成功した。
その後は佐々成政と傘下の越中国人衆が
独力で上杉軍を抑え込み、
北陸の情勢は安定した。

荒山合戦における佐久間盛政の働きは、
350年後に日本陸軍の戦史研究チームから絶賛された。
『第九師団管古戦史』では、参考にした
史料群から佐久間盛政の働きについて、
・事態を想定していた。速やかに出陣した
・現地の住民を味方につけた
・戦機を見逃さなかった
・諸将とよく協力した
・手柄を前田利家に譲った
(佐久間勢が討ち取った敵将たちの首を、
盛政は前田利家に譲った。
能登を安定させるためか)
等々を挙げ、盛政の采配と戦術眼を高く評価した




56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 20:38:48.25 ID:BlSChZfX
>>55
>・手柄を前田利家に譲った
ほんまかいな…?家臣や兵士が反乱起こしそう。

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 22:02:11.36 ID:0rKTAGi4
柴田が諭したんじゃね

58 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2016/08/10(水) 23:46:30.98 ID:Aep4nCw4
>>56
書いてあるとおり能登を安定させるためじゃないかな~

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 02:48:55.26 ID:d07OqDCz
で 350年後の陸軍の連中はこれを手本と出来たのかね

60 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2016/08/11(木) 03:09:01.69 ID:u+mu/5nD
>>59
どうだろうね。

彼を味方に引き入れよ

2015年02月02日 18:44

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/02(月) 17:18:46.62 ID:v46v+ulg
賤ヶ岳の合戦の前、羽柴秀吉は湯浅甚助を呼び出しこう命じた
「汝は長浜に参り。柴田勝家の養子の、伊賀守勝豊の与力共に近づき、弁舌を以って彼を味方に
引き入れよ。伊賀守は、内々、佐久間(盛政)と不和であり、それ故に勝家にも恨みを持っていると聞く。
これ畢竟の幸いである。

何故汝を差し寄越すかといえば、前に長浜城を引き渡す時、伊賀守の家老与力らと、互いに親しく
語り合っていたためであり、それ以上に深い仔細があるわけではない。」

これに湯浅畏まり、長浜表に至って、勝豊の家老・徳永石見守、並びに与力の大境藤八、疋田左近、
山路将監、木下半右衛門、神谷越中守らに対面して、

『今度味方に参られれば、皆様は大名に取り立てられます。ことさら伊賀守様に対しては、
秀吉からは、以前より内々ご入魂に語り合う仲で、今以って些かも疎遠にしようと思っていないので、
各々が進めて秀吉に力を合わせるということになれば、先ずは当分の賞として越前国を参らせ、
その上で時期を見て、北國の総大将に取り立てたいと考えていると言われました。
それ故に、このようにあなた方に申し入れたのです。』

甚助はそのように弁舌を振るい、朝夕に親しく語りかけたので、やがで各々も同心し、主人勝豊に
秀吉の考えを詳しく申し述べて、それに同調するよう勧めた。
しかし勝豊はこれを聞くと
「秀吉がいかに懇切に申されると言っても、父に向かって弓を引く道理があるべきものか。」と
それを喜ぶ気色は全く見えなかった。

それでも右の者達は、勝豊の前に代わる代わる進み出て
「殿の仰る通り、父子に仲違いが在ったからと、敵方に与力遊ばされるのは、我々が無道であるかのように
思われることでしょう。

ですが、殿にはご病身であられる故に、かねがね勝家公の御前も遠ざかられ、父子の御仲も疎遠に
なられたように見えます。
一方で佐久間(盛政)殿は、加州表で優れた働きがあったため、大身と成られ、家中の者達も
甚だ以って尊崇しております。

それに引き換え、殿は勝家公には疎まれ、家中の面々にも、有り甲斐もなく思われており、何の
御面目がありましょうか。

その上勝家公には、御実子である権六殿もいらっしゃいますから、行く末も良き事はないでしょう。
また、勝家公は武略知謀も類ない方ですが、現在は御簾中と成られた小谷の御方(お市)の容色に
耽られ、軍の駆け引きも、以前と違いはかばかしいご方便も無いように見えます。

一方の秀吉公の業績を見るに、知謀勇決は古今に優れ、民を憐れむこと堯舜の如くであり、
殿が日頃から彼と昵懇であるのは幸いの事です。今度の招きに応ぜられ、御合力なされば、秀吉も、
よもやその恩賞を忘れることはないでしょう。行く末北国の総大将と成り給われば、誠に以って
目出度き事ではありませんか。
例え殿がご立身なさらなかったとしても、今度の合戦に秀吉公がお勝ちになる事、鏡に映すように
見えております。
また、無道の父を討ってその子を取り立てる事も、和漢にその例多くあります。

とにかく、行く末頼もしからぬ勝家公に従うよりも、秀吉に与する事こそ、然るべきと存じます。」

このように、様々な言葉で勧めたため、勝豊も終に欲心に引かれ本性を取り失い、
「私もよく考えて見れば、汝らが言うところ、尤もに思う。この事、良きに取り計らうように。」
と認めたため、家老与力の面々大いに喜び、急ぎ湯浅を招いて同心する旨を語り、宜しきように
頼み入ると述べたため、甚助は「仕済したり」と早々に帰り秀吉に報告すると、大いに喜ばれ、
勝豊に来國實の太刀に金子三百両を添えて贈り、その他家老・物主(指揮官クラス)達にも、名作の太刀に
黄金を相添えて先々の事も含めて、当座の褒美として贈った。
(余吾庄合戦覚書)

秀吉による、柴田勝豊寝返り工作についての記事である。



352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/02(月) 18:37:02.40 ID:QJ6jOJwH
秀吉「幼君担いじゃったけど、異心とかないから。」
柴田「異心ないなら、お前さんの近江の本拠地である長浜城もわしによこせよ」
秀吉「おうあげる。ただしお前さんの息子の勝豊さんを城主にしろ」
柴田「いいとも。よっしゃ、秀吉の居城を奪ったったわw」

秀吉「ねえ、ぶっちゃけ俺と組まない?」
勝豊「えっ」
秀吉「あんたにあげた長浜城って長年俺の城だったからさー、あんたが知らない城の弱点とか抜け道とか全部知ってるんだよね」
勝豊「えっ」
秀吉「戦になったら一瞬で城を奪えるってことよ。親父さんは雪で支援にも来れないしさ、降伏して俺の仲間になんない?」
勝豊「えっ」
秀吉「知ってるよー、親父さんと折り合いがよくないってこと。後継者レースで旗色悪いんだってね。俺のとこに来たら柴田の家督はあんたに継がせるけど。」
勝豊「降伏します」
秀吉「よっしゃよっしゃ」

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 19:55:20.58 ID:wH2fpVQL
>>352
映画 清州会議見た後だとやっぱ勝家ってアホだなと思ったw

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 20:15:23.98 ID:9SXo73QX
そりゃ映画はそういうキャラ造形してるだけの話だから

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 20:52:28.59 ID:VHdjDGxt
信雄ェ…

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/03(火) 21:44:47.01 ID:UPmazaXR
信雄なんてうつけを演じて生き永らえたからな
お陰で阿呆の役柄になっとる

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/04(水) 12:49:50.16 ID:8X7Rn/qa
>>357
うつけを演じてなければ大織田家の跡取りになれたかもねww

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/04(水) 13:00:16.44 ID:LIUZm0by
やっぱ鼻の毛が足らんかったんや

佐久間盛政の処刑

2012年09月22日 20:29

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 07:34:28.08 ID:/3atuCBe
柴田勝家を滅ぼした羽柴秀吉は、越前を丹羽長秀に、加賀を前田利家に与え戦後処理を終えると帰洛。
捕縛された佐久間盛政も山口甚兵衞、副田甚左衞門に警護され京へとその身を移された。

秀吉は浅野長政を使いに立て盛政にこう言った
「私はお主の大功を知っているので、殺すに忍びない。そこで怨敵と言う思いをひるがえして、私に従ってはくれないか?
九州の諸大名は未だ服属していない。私はお主に肥後を与え、九州の討伐を任せたいと考えているのだ。」

盛政はこれを聞くと
「命を助けてもらい、その上大国を与えられるということ、これは後代までの名誉である。
私が九州に行けば1年のうちに平定するだろう。平定を終えて上洛をして、秀吉に対面すれば、
その時私は必ず憤怒の感情が生じて、思わずとも秀吉を斬り捨てるだろう。
そうでなくても肥後に下って、反乱を起こすだろう。私は秀吉とはそれほど相容れないのだ。

命を助けてもらった恩、国主としてもらった恩を返すこと無く却って災いになるというのはどうかと思うだろう?
恩というなら、速やかに死罪にしてもらいたい!」

長政は帰って秀吉にこれを報告すると、秀吉は再び長政を盛政の元に使いさせた

「もしかしてお主は、私が何かはかりごとをお主に対して企んでいると考えているのではないか?
私はそんなことはしない!その事は天のご照覧に任せる!とにかく、早く私に従って欲しい。」

盛政は答えた
「私は秀吉にはかりごとが有ると考えてはいない。そもそもそういう話ではない。
勇者たるもの発した言葉を、再び翻すべきではない!
私に対しては明日、必ず車に乗せて洛中を一見させて、河原にて殺されるのが良いだろう。」

秀吉もこれには
「勇者の一言というものは俚諺にもあるように、もはやとても、私に従うような事はないだろう。」
と、ついに盛政の助命を諦め、彼に最期の衣装を与えた。

佐久間盛政は自らの小袖の上に染物の赤い大広袖を着て車に乗った。
その姿は、身長六尺(約180センチ)、顔は紅潮し、頬髭があったと云う。

天正11年(1583)5月12日、年齢は30、車にて洛中を引き回れた。
世に聞こえた鬼玄蕃を見ようと貴賎上下を問わず馬車道に横たわり、
男女が巷に立ち並んでこれを見た。

盛政は引き回されながら彼らを睨みつけ、河原において処刑されたとの事である。
(佐久間軍記)

以上、佐久間軍記に見える、佐久間盛政の処刑に至る様子である。





517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 08:51:18.05 ID:lu9U/Xis
肥後はアカン

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/22(土) 09:24:56.87 ID:LIK4VB4Q
ここで素直に部下になっても、佐々のようになるのがオチか

あの藤吉猿面郎にひとこと言っておきたいことがある

2012年09月21日 20:39

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 18:03:47.66 ID:MHus+mKZ
賤ヶ岳の合戦で柴田軍が討ち負け崩壊すると、佐久間玄蕃允盛政はともかくも合流しようと加賀まで
向かったところで、中村と言う場所で落ち武者狩りの郷民に取り囲まれた。
盛政は彼らを睨みつけ

「私の命運はここに付きた!再び合戦をしても勝機はないだろう。
お前たち、あの藤吉猿面郎のところへ私を連れて行け!ひとこと言っておきたいことがある。」

こうして盛政はこの郷民たちに捕われ、北の庄の浅野長政のもとに連行された。
長政は盛政を見て、彼を侮るように言った

「あなたは鬼玄蕃とまで言われた人ではないか!どうして未だ死なずにいるのか!?」

盛政はこれを聞くと
「汝はなんと愚かなことか。かつて源頼朝は大庭景親に負けて伏木の中に隠れ、将軍足利義稙(原文では義昭)は
細川政元に捕われ幽閉されたが、後についに脱出し大功を立てたではないか!
将たるものが、どうして容易く敵に自分の死を許すことがあろうか!」

これを聞いた人たちはみな、盛政の凄まじい気魂に舌を巻いたという。

(佐久間軍記)




504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 18:18:55.37 ID:61LT6kna
それなら素直に捕まえろと言わず、うまく買収でもすべきなんじゃ…

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 19:02:33.25 ID:2M0Px8yd
問答無用で竹槍や妖怪首置いてけの餌食にならんかっただけマシか

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 19:29:48.96 ID:ggKjd+3g
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4596.html
郷民も身ぐるみはぐより褒美をもらうほうが得だと思ったんだろうね

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 20:10:46.61 ID:eEqRxYjX
>>505
(諦めが)悪いように見せかけていい話かな

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 21:15:12.12 ID:Dhfzjym2
連れてきた連中の玄蕃さんの扱いがあまりに酷いので秀吉が処罰したとかなかったっけ?

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/21(金) 21:20:11.71 ID:N7QhuWx+
>>509
>>507に書いてある

虎姫の戦い

2012年04月26日 21:14

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/25(水) 20:57:25.11 ID:sev6+b2r
虎姫の戦い

賤ヶ岳で有名な鬼玄蕃・佐久間盛政が滅んだ時、一人娘である虎姫が残された。

盛政を高く評価していた秀吉は、この虎姫の結婚の仲立ちをした。
結婚相手は何と、その佐久間盛政が賤ヶ岳においてその陣を急襲し討ち死にさせた中川清秀の次男、
中川秀成であった。
秀成の兄、播州三木城・6万6千石の中川秀正が文禄二年(1594)、朝鮮水原城のほとりで
鷹狩りをしていたところを毒矢で射かけられて没すると、秀吉は秀成に家督を継ぐことを
認めると同時に、この結婚を命じたのだ。

中川家では佐久間盛政との戦いで、清秀を始めとして多数の死者を出したこともあって、この結婚に
大いに不満であったが、秀吉の命には逆らえず、秀成は虎姫を迎えた。

しかしこの夫婦の仲は至って良く、嫡男久盛をはじめ、多くの子宝に恵まれた。

慶長15年(1610)1月、7人目の子を妊娠した虎姫は、夫・秀成に願い事をした

「もし今度の子供が男子ならば、その子に盛政の佐久間家を継がせたいのです。」

はたして生まれた子は男子であった。ところが虎姫は産後の肥立ちが悪く、間もなく死んでしまう。
しかし秀成は妻との約束を守った。彼は生まれた子を内記と名付けると、これを佐久間盛政の弟、勝之
(鬼玄蕃の弟たちのその後http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6335.htmlこの話の佐久間源六)
に養子に出した。勝之はこの甥を養育し、元服すると『佐久間勝成』を名乗らせ、自分の娘と結婚させた。
ここに盛政流佐久間家の復興は成った。

この後、この新生佐久間家は中川家の親族衆として存続、明治まで至る。

余談だが、虎姫は息子である嫡男の中川久盛にも一つ頼みごとをしていた。それは父、佐久間盛政
菩提寺を建立して欲しい、ということであった。

彼も母の死後、その約束を果たした。その菩提寺の名は『英雄寺』という。


佐久間盛政の娘、虎姫の、佐久間家のための戦いであった。





842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/25(水) 21:26:20.78 ID:esZJkMB/
またもイイ話

映画化されてもいいくらいだと思うが
賤ヶ岳の戦犯にされてるから
あまり世間受けしないのかな?

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/25(水) 21:41:29.74 ID:GEiclbes
シエや山内妻の活躍なんかが捏造されるのに比べて
こういう実際にあった女性の働きが埋もれるのはもどかしいな

鬼玄蕃の弟たちのその後

2012年04月19日 21:29

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/19(木) 19:01:26.39 ID:ozqURuq1
賤ヶ岳で秀吉相手に勇猛に戦った、鬼玄蕃こと佐久間盛政には二人の弟、安政と源六があった。

彼らも兄に劣らぬ勇者であり、賤ヶ岳の後も秀吉に反抗し続け、佐々成政に、成政が秀吉に降服した後は
徳川家康に仕えた。
が、天正14年(1586)、秀吉が妹朝日のみならず、母親大政所まで送ってきたことに、家康もついに
秀吉への臣従を決意。そして家康は、安政と源六の二人を呼ぶと、申し訳なさそうにこう語った

「そういうわけで私は、秀吉に従うことと成った。このままわしに仕えては、そなた達の、
秀吉に復讐するという願いは叶わないだろう。
そこでそなたたちさえ良ければ、北條殿に仕えてはどうか?」

家康は重臣の榊原康政を北條に派遣し、わざわざ安政と源六の召し抱えを頼んだ。

北條で、二人は大いに厚遇された。北条氏政は彼らの勇猛さを大いに気に入り、また彼らも、
佐竹義宣との常陸江戸崎の合戦、皆川広輝の籠る下野大平城攻めなどで高名をなした。

しかし天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐により、ついに北條も滅びる。

安政は弟源六に言った
「我々はいつも秀吉に背いてきた。小田原にあって6年、既に氏政公は御生涯なされた。
われら兄弟が死ぬ時は今であろう。兵たちは、思い思いに逃がすべし。」
源六もこれに同意したが、しかし家人たちは「我々は黄泉までお供をしたいのです!」と、一人も逃げなかった。

彼らは小田原の自分の屋敷の周りに鉄砲狭間を切り、鉄砲揃えた。戦闘の準備である。
間もなく豊臣軍の接収の兵が来る。彼らは武士らしく、それと戦って討ち死にすることを求めたのだ。

と、そこに一人の武士が、屋敷の方に向かってきた。「豊臣の検使がもう来たか!?」一斉に銃を向ける。ところが
「佐久間殿!わしだ!」「榊原殿!?」
それは榊原康政であった。彼は銃で固めたこの屋敷に臆すること無くつかつかと入ると、佐久間兄弟に
「殿のおっしゃったとおりだ。」「殿?徳川様が!?」「そう、殿はお主たち二人を殊の外ご心配なさっていたのだ。

『このように成ったからには彼らは、もはや死ぬしか無いと思いつめているであろう。しかしわしはまだ、彼らを
死なせたくない』

そうおっしゃって、わしをお主らのところに遣わしたのだ。殿はお主たちに、富士の麓に隠れ家も用意された。
まだ死ぬべき時ではないぞ!生きよ!」

佐久間兄弟は感激し、家康の勧めに従って小田原を退去した。
それからしばらくして、佐久間兄弟が生きている事を知った秀吉は、二人の罪を許し(おそらく家康の口添えがあったのだろう)
その後蒲生氏郷に仕え、蒲生家減封の際、秀吉の直臣と成った。関ヶ原では兄弟揃って家康に従い、石田三成の陣に
勇猛に攻め込んだ。その功で大名となり、隣り合った信濃飯山藩、長沼藩の藩祖と成った。

鬼玄蕃の弟たちの、賤ヶ岳のその後、のお話である
(佐久間軍記)





659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/19(木) 22:47:24.93 ID:hcDwOApk
>>658
何このマンガのようなイイ話( ;∀;)

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/19(木) 23:08:49.96 ID:oFtmBiPu
佐久間兄弟も家康も康政も氏政も、みんなかっけぇ

村井又兵衛長頼、夢のお告げで

2011年01月07日 00:02

150 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/06(木) 20:16:33 ID:d9Gr09Yv
織田信長が近江、金ヶ森城を攻めた時のこと

城攻めの前夜、前田利家の家臣、村井又兵衛長頼が軍営地の小屋で寝ていると、その夢に山伏が出てきて、
又兵衛に語りかけた

『時もよし!絶対に左の道を行くのだぞ!』

又兵衛、驚き目を覚ますと

「さてはわしが日頃から愛宕山を信仰している故に、このようなお告げを頂いたのだな!」
と愛宕権現に感謝し水垢離を行い、すぐに具足を付け大喜びで主君前田利家の陣所へと駆けつけた

「又左衛門(利家)様ー!合戦の準備できましたよー!」

「何刻だと思っているんだバカヤロウ!」
出てきたのは寝入ったところを起こされ不機嫌この上ない前田利家

「まだ一番鶏すら鳴いていないじゃないか!もう少しあとになってから来い!」
「ちぇ~」

村井又兵衛、仕方なく小屋に帰り二度寝をはじめると、その夢にもまた山伏が出てきて
『良いな、左だぞ。左に付くのだぞ』
と語りかけた。愛宕権現、なかなかしつこい。

さて、夜明け前信長の本陣より一番貝が轟いた!合戦の始まりである!
織田軍の先陣は一斉に金ヶ森城に押し寄せた!その中に当然村井又兵衛も居る。
彼らが城下にたどり着くと道が左右に分かれていた。織田軍はみな右の道へと進んだ。又兵衛も
皆と一緒に進んだが途中で「いやいや、愛宕山のお告げがあったではないか!それに従うのだ!」
と、分かれ道のところまで取って返し左の道を進むと、空堀と柴折垣で防御されている場所に出た。

と、その柴折垣の側に、誰とも知れぬ4,5人の男達がいる。又兵衛が

「そこにいるお前たちは敵か、味方か!?」と問いかけるとその中の一人
「ここに居るのは柴田修理(勝家)の甥、佐久間玄蕃(盛政)という者だ!」

「わたしは前田又左衛門(利家)の家来、村井又兵衛です!」

「又左殿の家来か。前からその名を承ってはいたが、この合戦場で初めてお会いできるとは実に喜ばしい。
夜が明ければ共にこの柴折垣を切り、ここから侵入しようではないか。」

そうしているうちに後から、後備の味方も駆けつけてきた。そこで又兵衛は玄蕃と声を掛け合いながら
柴折垣を斬り倒し、両人共に即座に敵の首を取った。

さて、このとき前田利家は、信長の居る本陣にいた。

又兵衛が利家に首を見せるとその姿が信長の目に止まり

「兼ね兼ねからの事だが又兵衛、手柄を立ておったな!」
と、陣所に置いてあった吊し柿を手ずから又兵衛に下し、また「並々ならぬ働きの験だ」と
南蛮からの献上物も又兵衛に与えたそうだ。


ところで同時に首をとった佐久間玄蕃。

彼は信長の本陣から離れた場所にいた、柴田勝家に首を見せに行っていたため、その首を
信長のお目にかけたのはかなり遅くになってからだったという。


村井又兵衛長頼、夢のお告げで手柄を立てる、と言うお話。




褒美の磔

2010年09月05日 00:01

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/03(金) 22:25:43 ID:y008qv+E
賤ヶ岳の合戦を生きのびた佐久間盛政は、変装して越前の山奥を二人の家臣と共に放浪していたが、
盛政が山道に足を痛め杖にすがらねば歩けぬほどになったので、一軒の百小屋に立ち寄り
もぐさを借りて灸を焼いた。

この時盛政はこの家の主人に

「外の二人はともに旅をしている者達だが、殊の外草臥れているようなので、すまないが早急に飯を炊いて、
彼らに与えてくれないだろうか?」

百姓たちはこれを聞いて『この男は主人で、外の二人はこの足を痛めた男の家来だな』と察し、
盛政に

「わかりました。直ぐに食事の用意をするので、飯が炊けるまでみなさんどうぞ、中でお休みください。」

と、家の中に入れ、彼らが休んでいる間に村の他の百姓たちに声をかけて集め、大勢で棒で持って
よってたかって殴り倒し盛政ら3人を召し捕った。

百姓たちの思ったとおり、足を痛めた男は佐久間盛政、他の二人は盛政の家来であることがわかった。
彼らは直ぐに北之庄の秀吉のもとに注進した。

秀吉は捕縛され連行されてきた佐久間盛政の姿を見ると、『なんと無情に縄をかけたことか。しかし是非に
及ばぬことである。』と、その後は縄を解かせ乗り物に乗せ、宇治の槇島へと身柄を移させそこに監禁させた。
そして盛政を捕縛した百姓たちには

「褒美を与えるので捕まえた者も、それを手伝った者も皆参るように。」

と命じた。褒美という言葉に我も我もと、盛政捕縛時にその百姓の家に入った12人全員が秀吉の前に
罷り出た。
これに秀吉、こう声をかける

「この秀吉の理解している事には、合戦に勝ち負けが生ずるのは世の習いというべきものである。
仮に秀吉が負けておれば、今日は人の身明日は我が身、わしがお前たちにあのように、無情に縄を
かけられたわけだ。

そう考えればお前たちは百姓の身で、なんと不似合いなことをしたものかな!
今後の見せしめのため、お前たちには褒美として、磔を与えてやろう!」

と、この12人の百姓を全員、磔にして殺したとのことである。

しかしこれは明智光秀を殺した百姓を褒めたたえ、多くの褒美を与えたこととは全く逆の扱いであった。だが
『百姓に討たれた者の方の、罪に軽重があったためである。』

そう、当時言われたと言うことだ。

褒美の磔、と言うお話。




758 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [] 投稿日:2010/09/03(金) 22:30:46 ID:F5VPl35J
おお悪い。

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 08:42:36 ID:cWJe6ZmH
佐久間を捕らえた奴が秀吉にヌッコロされた話は既出な気がするが
足を痛めたくだりは無かった気がしないまでもない気がする

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 13:02:58 ID:MQLXHEhp
横入りすまないが・・・
明知の首取った百姓の名は伝わっておるのであろうか・・。


762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/04(土) 14:08:08 ID:yqVJQXbe
>>760
一応「中村長兵衛」という名前が伝わってる>光秀の首を取った百姓

766 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [] 投稿日:2010/09/04(土) 22:40:48 ID:yiHG4oSL
>>762
それが中村なら、信長はタダの同族争いに巻き込まれた頓死かも知れんねと。

豊臣秀吉と佐久間盛政・いい話

2008年10月15日 14:36

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/02/12(火) 13:24:58 ID:Ae8IrA+b
賤ヶ岳戦の終了後、怪我をしていた佐久間盛政が褒美狙いの農民に捕らえられ引き出された
縄を打たれた盛政を見た秀吉は慌て、繰り返し謝罪し縄を解くよう御側衆に命ずる
秀吉は賤ヶ岳の盛政采配に感激し家臣になってくれと二時も口説き続けた
秀吉 「加賀、越後、関東好きなところをやる。頼む俺の家臣に加わってくれ」
盛政 「筑前殿の計らい誠に嬉しく思いますが、こたびの敗戦は某の責任でござる」
    「勝家殿の恩を忘れる事も出来ず。某の命数が続けば必ず筑前殿の首を取ります」
ここまで明確に否定されて、さすがの秀吉も家臣化を諦め死罪を言い渡す
切腹を命ずるも断固拒否。市中引き回しの上磔を所望する盛政でした
そこへ盛政に討たれた中川清秀の息子が秀吉呼ばれ
秀吉 「この男がお前の父を殺したのだ。憎いだろう?」
息子 「いえ父上を討つ事の出来る武将は大変立派な武将と思います。勝も負けるも兵家の常、憎いなどと思いません」
盛政 「なんと立派な御子息をお持ちか。この方が我が娘の婿なら嬉しいかの」
数年後秀吉の勧めで仇同士の子供だった二人が婚約する事になりました
天国の盛政からみると「なんだあのサル結構いい奴じゃん」と思っていた事でしょう

※盛政を捕らえた農民ですが厳しい褒美が出されました
秀吉「農民の分際でなんと言う事をしてくれたのだ。お前らへの褒美は磔よ」
と全員死罪となりました




143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/02/12(火) 13:41:18 ID:6zB4poEt
最後のが無ければ「サル結構いい奴」で終わるのになw

144 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/02/12(火) 13:47:50 ID:EF2T3KE/
>>142
いい話なのだが、これを見るだけでも太閤が百姓の出というのは、
ちょっと無さそうだな。

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/02/12(火) 14:18:18 ID:nvqDIdHl
>>142
その「盛政の娘」つーのが中川清秀の息子より10歳も年上だったというのも付け加えてやって下さいw
※ただし、年齢についてはガセ説もあり