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続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」

2023年02月07日 19:11

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 18:36:01.12 ID:m1SOtcLP
続武家閑談より「洛中放火の企て顕れて悉く斬戮の事」

古田織部正は徳川方の陣から敵に内通し、味方の事情を矢文で城中に送っていた。
その事は権現様はご存じでなく素知らぬようになさっていたため、大坂方はこれ幸いと間者に用いなさっていた。
権現様が大坂夏の陣にお立ちになる時、織部は茶友の宗喜に「大坂方から洛中に放火せよとのことだ」と実行を頼んだ。
しかし法制が厳しく、尾張義直(徳川義直)の陪臣である甲斐庄三郎、金井伊兵衛両人に放火犯二人をからめとられた。
成瀬隼人正(成瀬正成)に言上させ、伊賀守勝重(板倉勝重)が五更から明け方にかけて罪人を召し捕り、七日のうちに徒党をことごとく斬刑にした、
ほかにも助力している者どもがいるだろうということで、五月三日より上杉景勝に命じ八幡山に布陣させ、遊軍させなさった。

甲斐庄三郎は「管窺武鑑」「佐久間軍記」などでは甲斐庄三平のようで(甲斐庄が苗字)
続武家閑談の作者・木村高敦か書写した人物が「甲斐庄」という苗字を知らず「甲斐・庄三郎」と思ったのかもしれない

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/07(火) 18:50:43.34 ID:m1SOtcLP
冒頭は「続武家閑談」だと
古田織部正は吾陣より敵へ内通し味方の事城中へ矢文ありしけれども其事権現様御ぞんじなかりしが左あらぬ様になされこれを幸ひと間者より用ひ給ふ也」で

管窺武鑑」だと
「此織部、旧冬の御陣の時、御方にて御供し、味方の事を聞いて、矢文を射て城中へ告げたるを、権現様御存なれども、御存じなき体になされ、御武術になさる。
是れ反間を用ひなさる御名将の微妙なり。」

「給うなり」がついてるから「管窺武鑑」のように反間という意味が正しいと思います。
「ぞんじなりし」を「ぞんじなかりし」と間違えたのかもしれない



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かの藤吉猿面郎が方へ連れ行き

2020年12月18日 18:10

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 15:21:42.04 ID:Z7QWz4kr
佐久間玄蕃允盛政は、二十一日の合戦(賤ヶ岳の戦い)では、険阻を隔てて、柴田勝家と合流することが
出来なかったため、蔵王の社を出、北ノ庄城の後巻(救援)のために加州に赴いた所で、中村の郷民たちによって
取り囲まれた。盛政はこれを見ると
「我既に運命尽き、又戦ったとしても利はない。かの藤吉猿面郎が方へ連れ行き、一言云うことが有る。」

そう言って彼等に捕われた、そして北ノ庄に連行されると、これを見た浅野弥兵衛長政は云った
「君は鬼玄蕃と言われたほどの人ではなかったのか?何を以てか死することを得ないのか。」

これを聞いた盛政は咲って云った
「汝は愚かである。源頼朝は大庭景親に負けてふし木の中に隠れ、義昭将軍(原文ママ・義稙の事か)は
細川政元に囚われて幽閉されたが、ついに免れて大功を立てた。将たるもの、どうして容易く敵に死を
免ずる事をするだろうか。」
(汝ハヲロカヤ、源頼朝ハ大庭景親ニマケテフシ木ノ中ニカクレ、義昭将軍ハ細川政元ニトラハレテ
ソノカコミヲウクトイヘトモ終ニマヌカレテ大功ヲ立テタリ。将タル者何カ容易ク敵ニ死ヲ免スコトアランヤ)

聞く者皆、舌を鳴らしたと云う。

佐久間軍記



768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 15:45:49.31 ID:h8twP6Rp
舌を鳴らすって当時はどういう気持ちの表れなんだっけ
今だとねこを呼ぶ気持ちの表れだが

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 17:59:33.49 ID:Z7QWz4kr
>>768
この場合はおそらく、佐久間盛政が秀吉軍の前で不敵なことを言ったので舌打ちした、という感じかと。

770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/18(金) 18:31:59.74 ID:a6o/ts1Y
>>769
なるほど、不快で舌打ちしたったことね

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/19(土) 09:50:00.40 ID:re0CaR1W
賞賛だろうに

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/19(土) 12:50:51.45 ID:V1a9YlEB
賞賛だよね

天正五年十月、和州信貴山城攻め顛末

2020年04月16日 17:15

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 00:12:26.93 ID:FJJW3kJb
天正五年十月、和州信貴山城攻めがあった。
この城主である松永弾正少弼久秀は、大阪の附城を守っていたのだが、信長公に恨みを含み、本願寺門跡、
雑賀の兵を語らい、大阪を退き信貴山城に立て籠もった。それにはこのような理由があった。

家康公御登城の時、久秀も参会したのだが、信長公が家康公に向かってこのように言った

「この翁は松永久秀である。彼については天下に及び難い事が多い。彼は公方足利義輝を弑し奉り、
主君三好義長(義興)を毒殺し、三好一家(三人衆)と戦い東大寺を焼いて大仏を滅ぼした。
また三好長慶次男義継(実際には養子)を欺いて永禄八年より同十一年まで天下を守り大いに奢り、
終に義継を離れこれを殺した。」

久秀は赤面し、額に汗し、頭より烟を立て、その憤りを以て謀反を企んだ。これによって十月、
城介(織田)信忠は大軍を率い和州に御発進され、佐久間信盛、明智光秀、筒井順慶らも大阪の
対城を出て河州より向かい、その通り道であり、久秀の従党である片岡城を攻め落とし、城主・森、海老名を
討ち捕らえ、十月五日に信忠と合流し信貴山城の久秀久通父子を攻めた。

しかし松永父子は激しく防戦し、味方が不利と成った時、佐久間信盛筒井順慶と相談し、雑賀の兵であると
謀って、信盛の兵を交えて城中に入れたいと告げた。そして雑賀の兵に扮した信盛の兵が、順慶の兵と
追いつ返しつつ挑み戦った所に、久秀は予てより雑賀の者と謀り合っていたので、城門を開いて彼らを
引き入れた。

十月十日、信盛、順慶は、先に入れた兵の手引きにより城に入ると火を放った。久秀は天守に上り、
「たとえ骨と成っても信長の最後を見届けようぞ!(タトヘ骨トナリテモ信長ヲ見ハテン物ヲ)」と
言って自殺した。右衛門佐久通は生け捕りと成って斬られた。久秀の悪逆積り、東大寺を焼き
大仏を滅ぼしたのも十月十日であり、その日に滅亡した事も、世に不思議を成すと云われた。

佐久間軍記



980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 11:49:48.22 ID:O4ZY5yYd
義継を攻め滅ぼしたのは誰だったからしらw

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 21:34:47.03 ID:SRx78Wxe
ノブさんの脳内ではそうなってるのかもしれん…

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/16(木) 22:01:43.47 ID:nEUH2pgM
ダンジョー多過ぎ問題

983 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/04/18(土) 17:35:20.90 ID:25IT3XhX
佐久間軍記だから当然かも知れんけど、信盛さんの活躍が記されてるね

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/18(土) 23:30:44.65 ID:tlLr7j1U
石田軍記には三成の活躍が?

985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/19(日) 15:49:05.80 ID:/eXYOJJ0
ある意味「活躍」は描いているな

佐久間軍記の三方ヶ原の戦いの模様

2020年04月14日 18:14

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 00:34:32.23 ID:UAOt+l7t
元亀三年十二月二十二日、遠州三方ヶ原合戦が有った。
これは、足利義昭公が信長の救いを以て武将(征夷大将軍)に備え給わったと雖も、
信長公は自己の繁栄を先とし守禦の忠、日を逐って衰えたため、義昭公は信長を誅せんと、
密かに武田信玄を招き給うた。信玄は喜び、この年十月軍勢三万を率い遠州へ出、二俣城を攻めた。

この事態に、家康公より信長公へ加勢を請われたため、佐久間右衛門尉(信盛)を大将と成し、
七頭(佐久間信盛に付けられた七ヵ国の寄騎)を差し越させた。

そのような中、信玄は二俣城を攻め落とし、十二月二十二日、三方ヶ原へと進出した。
家康公は浜松を出た。この付近に城が有り、家康公の御備はサイカカケ(犀ヶ崖)に付いて右に有り、
佐久間信盛は七頭を従えその左の備であった。

信玄は大勢で以て信盛の備を手厚く押さえ、家康公の御勢に向かって合戦した。御家勢は終に敗北し、
家康公は犀ヶ崖より引き入れ東の御門より入った。甲州兵はその跡を追い掛かったが、犀ヶ崖へ落ち
人馬重なり死んだ。その間に家康公は浜松の本城に入り、御旗を立てられた。家康公の軍士たちは
浜松へ馳せ入り城を固めた。佐久間信盛、同久六安政も、手廻りばかりにて城中に籠もった。
信玄は城の堅固を見て攻め入らず、二十四日に兵を引き取ると云々。

佐久間軍記

佐久間軍記の三方ヶ原の戦いの模様



978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 01:44:59.17 ID:stkZ0XZE
あ、ちゃんと城を固めたって話になってるんすね
空城の計使ったみたいな話は何が初出なんだろ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 01:52:57.03 ID:j+0zRzqo
佐久間軍記は大坂の陣の後の、割と早い段階で成立したらしいね。

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 09:27:50.35 ID:RcQtnd87
信玄がここできっちり徳川にトドメを刺す方向へ決断してたら、後の日本史は大きく変わったに違いない。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 09:47:50.96 ID:wKITc2tn
陣没する場所が浜松になっただけ

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 09:52:14.17 ID:Jf7xcUU/
家康が死んでりゃ、毛利幕府が成立したかもしれないだろ

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 10:18:30.10 ID:0xdSiPIL
鞆幕府で毛利が義昭に養子を取らせて
その後京都に復帰
形式上は足利幕府存続だったり

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/14(火) 13:07:49.42 ID:jIv+KTSX
鞆幕府臣の槙島昭光なんか、義昭、秀吉、秀頼、細川忠興をわたり歩いてるくらいだか、象徴のような人がいれば誰でも良かったんじゃない。