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佐伯氏にまつわる奇瑞

2022年09月09日 19:10

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/09(金) 18:29:09.73 ID:XSLFTUOS
栂牟礼実録」の「剣の巻」から佐伯氏にまつわる奇瑞

・瀬登り脇差:佐伯惟勝の代の時に、船遊びの途中で海に誤って落としたことがあったが、脇差みずから城下の瀬まで登り、水底で光ったため惟勝に発見された。
佐伯惟治の乱の時にも所持されていたが、近頃は行方知れずになっている。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13613.html

・飛龍の太刀
この太刀を鞘から抜くとハバキから刃に龍の形が移動し、鞘に刺す時には龍がハバキの元へ帰る

・佐伯氏出陣の時にいつも雨が降るが、蛇の子孫であるため吉例としている。

・佐伯氏は祖母嶽大明神(蛇神)の子孫であるため代々鱗があり、佐伯惟定には三つあった。
惟定嫡男の惟重には元和五年(1619年)十一月二十日に腋の下に一つ鱗が出現したという。

佐伯惟定が元和四年(1618年)六月九日に伊勢で没する三日前、佐伯惟康以来伝来の旗を入れた箱が鳴るという不思議があった。



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静御前の薙刀

2022年09月08日 19:13

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/08(木) 17:56:38.17 ID:9uwm008Y
豊後佐伯氏について書かれた「栂牟礼実録」「剣の巻」から「静御前の薙刀」についての話

源義経は京都堀川から緒方惟栄とともに鎮西に下った時に緒方惟栄に長刀(薙刀)を下賜した。
文治元年(1185年)に土佐坊昌俊が源義経を堀川の御所で夜討ちした時、静御前がこの薙刀をふるい敵を退けたといわれるもので、小屏風と名付けられていた。
穢れのある者がこれに触れると、身がすくむことがたびたびあった。
佐伯惟定の息子、佐伯惟重の時、元和八年(1622年)夏、少し錆び付いてきたため甚三郎という者が三日の精進の後に錆を落とした。
甚三郎は三日目に死んでしまった。
人々は薙刀のためだと言い合ったという。

なぜ弁慶ではなく静御前なのだろう



豊後の佐伯太郎惟定は、驍勇智謀の将であった

2022年01月31日 17:10

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/31(月) 12:35:08.62 ID:H6kEBq4H
豊後の佐伯太郎惟定は、驍勇智謀の将であった。

豊薩合戦の際、島津兵庫頭義弘は、その甥である島津中務大輔豊久をして使いを遣わし、
彼に降伏することを説いたが、惟定はこれを聴かなかった。
豊久は再び使いを還し、利を以てこれを誘ったが、惟定はこの使いを斬って大友宗麟
二心無きことを示した。豊久は怒り、多兵を以てこれを攻めた。

惟定は使いを斬ってから、豊久が必ず来襲することを慮り、その策臣である山田土佐入道匡徳と計り、
伏兵を置いてこれを待った。
先ず、徒歩の者を三ヶ所に置き、一見深く隠しているようにして、少しばかりその形成が顕れるようにした。
豊久は斥候を以て探索し、三ヶ所の伏兵を発見し、直ぐにこれを攻撃した。

三ヶ所の伏兵たちは、惟定が兼ねて命じていたとおりに、攻撃を受けると急ぎ走って逃げ去った。
三ヶ所の伏兵は命に従って死を免れた。そして薩摩の者達は、これによって他に伏兵はいないと考え、
再び探索することをせず、佐伯惟定を軽んずる思いを持った。

この時、惟定は騎士の伏兵を道路より二、三十町下がった山間に置き、豊久の軍が通過するのを待って、
廻ってその後ろに出た。

豊久の軍に対し、惟定は地の利を利用してこれを防いだ。豊久の軍は破ること出来ず徐々に疲労した。
これを窺って合図の法螺が吹かれた。一の騎馬の伏兵、法螺を聞いて左より俄に起き、豊久軍の横を
断とうとした。豊久の兵がこれに当たろうとすると、ニの騎馬の伏兵右より起こり、それぞれが
左右を衝こうとすると、そこに三の騎馬の伏兵が中より起こった。
ここで本陣の匡徳正兵となり惟定奇兵となって即座に進んで縦伐した。
豊久の兵は目が眩み志奪われ、大いに敗れ潰走した。

志士清談

佐伯惟定の策謀について



3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/31(月) 13:46:28.92 ID:7kjVdDgC
戦国期、西国は騎兵使わない戦闘が多いと聞くが、この物語だと騎兵使ってるのね

三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし

2016年06月07日 10:21

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 23:49:04.88 ID:4n3eIB9n
日向伊東家家臣である山田土佐守匡得は、永禄元年、17歳の時に初陣として飫肥の行屋ヶ尾にて
薩摩の驍将亀澤豊前を討ち取り、同10年小越合戦に和田民部を討ち取った事などを初めとし、
伊東義祐の日向没落の後も、石ノ城にて粉骨を成し、薩将の伊集院肥前守と槍を合わせ、その名は
近国に聞こえた。

伊東義祐父子が伊予に渡海した後も、豊後に残り、同国梅牟礼の城主、佐伯太郎惟定の軍師となり、
益々の軍功があった。

天正14年7月23日、島津中務家久(良い方)が豊後に出兵して松尾山広福寺に陣し、この佐伯惟定と
一戦の時、家久は佐伯領の境の住民を一人捕えて、佐伯惟定の軍中の様子を尋ねた。その者応えるに

「惟定様は今年18歳になりますが、善く領民を撫育し、人心の帰伏すること父母のようです。
私は下賤の身であり、軍配の方便はわかりませんが、針も撃ち抜くほどの鉄砲の上手が、三千人在ると
聞いています。」

家久はこれを聞くと
「三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし山田土佐入道が今、佐伯惟定の家に在ると聞く。
彼は一騎当千の者なれば、私は深くこれを恐れる。」
そう語ったという。

(日向纂記)



佐伯氏の栄光

2015年01月22日 18:42

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 01:45:49.13 ID:IbeNvmuu
佐伯氏の栄光

 豊後佐伯氏といえば祖母嶽大明神の末裔たる大神一族である。
 源平時代には、緒方惟栄が平家を大宰府から追いやる大活躍をしている。
 大友宗麟の元では惟教が活躍し、耳川合戦で戦死。
 島津の豊後侵攻の際には、惟定が佐伯を守って、島津家久指揮の島津軍を寄せ付けなかった。
 大友氏改易の後、惟定は藤堂高虎に仕え、安濃津藩の家老となった。
 そんな一族の伝承を、杉谷宗重という人物が記録している。

○鱗のこと
 蛇神である祖母嶽大明神の末裔である佐伯氏の当主には、代々鱗があった。
 佐伯惟定は、鱗が三つ出たという。
 また、惟定の子・惟重は、元和五年十一月二十日に出たので、私自身が記録した。

○旗のこと
 元和四年六月七日、緒方惟栄以来相伝する旗が、雷のように鳴動した。
 家臣たちが怪しんでいたところ、その三日後に惟定が亡くなった。

○神息の太刀のこと
 緒方惟栄が義経からもらった太刀であり、佐伯家に伝承された。
 元和九年、惟重が研ぐために京都へ上らせたところ、娘が急病で危篤となった。
 慌ててこの太刀を佐伯家の屋敷に戻したところ、娘の病気はたちまちよくなったという。

○巴作の太刀のこと
 藤堂高次がこの太刀を一覧したい、ということで、寛永三年十月十日、惟重は太刀を城中へ持っていった。
 高次はじかに持つことをおそれ、杉原紙を手に敷いた上で扱おうとしたが、刀が抜けない。
 仕方なく惟重が抜いて、高次に渡そうとしたところ、突然座が鳴動して、床板が崩れ落ちてしまった。
 翌朝、修理しようとしたところ、床板が崩れた形跡は少しも残っておらず、上下みな驚きかえったという。

 こんな由来のある佐伯家であるが、寛永の末に祖母嶽大明神から二十六代にして家が絶え、名字ばかりが続くだけになってしまった。
 それを悲しんで、これを記録するのである。

以上、『大友興廃記』より。
 名族というのは、やっぱり物持ちがいいのだなぁ、という話。




587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 06:07:09.84 ID:sdz2KnuV
>>586
鱗ってどこについてたんだろうか

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 07:31:40.56 ID:21LKpoSr
目じゃね?

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 08:50:06.53 ID:t06pxzlq
ただの皮膚病だろ

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 20:34:21.68 ID:N4/2OkIR
>>586
大神一族は平家物語でも蛇神の末裔として書かれてる由緒ある中二病一族だよなあ
非業の最期を遂げた10代惟治は魔法使いだったり、祟りをおこしてトビノオ様と
いう神として神社に祀られたりしてるし、
惟定の弟の子孫に緒方洪庵がいたりと結構面白い一族なんだよな

佐伯家の剣だと他に飛龍の太刀、手鉾の太刀(不抜の太刀)、瀬上りの脇差、
小屏風長刀というのもあるね