三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし

2016年06月07日 10:21

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/06(月) 23:49:04.88 ID:4n3eIB9n
日向伊東家家臣である山田土佐守匡得は、永禄元年、17歳の時に初陣として飫肥の行屋ヶ尾にて
薩摩の驍将亀澤豊前を討ち取り、同10年小越合戦に和田民部を討ち取った事などを初めとし、
伊東義祐の日向没落の後も、石ノ城にて粉骨を成し、薩将の伊集院肥前守と槍を合わせ、その名は
近国に聞こえた。

伊東義祐父子が伊予に渡海した後も、豊後に残り、同国梅牟礼の城主、佐伯太郎惟定の軍師となり、
益々の軍功があった。

天正14年7月23日、島津中務家久(良い方)が豊後に出兵して松尾山広福寺に陣し、この佐伯惟定と
一戦の時、家久は佐伯領の境の住民を一人捕えて、佐伯惟定の軍中の様子を尋ねた。その者応えるに

「惟定様は今年18歳になりますが、善く領民を撫育し、人心の帰伏すること父母のようです。
私は下賤の身であり、軍配の方便はわかりませんが、針も撃ち抜くほどの鉄砲の上手が、三千人在ると
聞いています。」

家久はこれを聞くと
「三千の鉄砲は遅るるに足らぬ。しかし山田土佐入道が今、佐伯惟定の家に在ると聞く。
彼は一騎当千の者なれば、私は深くこれを恐れる。」
そう語ったという。

(日向纂記)



スポンサーサイト

佐伯氏の栄光

2015年01月22日 18:42

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 01:45:49.13 ID:IbeNvmuu
佐伯氏の栄光

 豊後佐伯氏といえば祖母嶽大明神の末裔たる大神一族である。
 源平時代には、緒方惟栄が平家を大宰府から追いやる大活躍をしている。
 大友宗麟の元では惟教が活躍し、耳川合戦で戦死。
 島津の豊後侵攻の際には、惟定が佐伯を守って、島津家久指揮の島津軍を寄せ付けなかった。
 大友氏改易の後、惟定は藤堂高虎に仕え、安濃津藩の家老となった。
 そんな一族の伝承を、杉谷宗重という人物が記録している。

○鱗のこと
 蛇神である祖母嶽大明神の末裔である佐伯氏の当主には、代々鱗があった。
 佐伯惟定は、鱗が三つ出たという。
 また、惟定の子・惟重は、元和五年十一月二十日に出たので、私自身が記録した。

○旗のこと
 元和四年六月七日、緒方惟栄以来相伝する旗が、雷のように鳴動した。
 家臣たちが怪しんでいたところ、その三日後に惟定が亡くなった。

○神息の太刀のこと
 緒方惟栄が義経からもらった太刀であり、佐伯家に伝承された。
 元和九年、惟重が研ぐために京都へ上らせたところ、娘が急病で危篤となった。
 慌ててこの太刀を佐伯家の屋敷に戻したところ、娘の病気はたちまちよくなったという。

○巴作の太刀のこと
 藤堂高次がこの太刀を一覧したい、ということで、寛永三年十月十日、惟重は太刀を城中へ持っていった。
 高次はじかに持つことをおそれ、杉原紙を手に敷いた上で扱おうとしたが、刀が抜けない。
 仕方なく惟重が抜いて、高次に渡そうとしたところ、突然座が鳴動して、床板が崩れ落ちてしまった。
 翌朝、修理しようとしたところ、床板が崩れた形跡は少しも残っておらず、上下みな驚きかえったという。

 こんな由来のある佐伯家であるが、寛永の末に祖母嶽大明神から二十六代にして家が絶え、名字ばかりが続くだけになってしまった。
 それを悲しんで、これを記録するのである。

以上、『大友興廃記』より。
 名族というのは、やっぱり物持ちがいいのだなぁ、という話。




587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 06:07:09.84 ID:sdz2KnuV
>>586
鱗ってどこについてたんだろうか

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 07:31:40.56 ID:21LKpoSr
目じゃね?

589 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 08:50:06.53 ID:t06pxzlq
ただの皮膚病だろ

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/22(木) 20:34:21.68 ID:N4/2OkIR
>>586
大神一族は平家物語でも蛇神の末裔として書かれてる由緒ある中二病一族だよなあ
非業の最期を遂げた10代惟治は魔法使いだったり、祟りをおこしてトビノオ様と
いう神として神社に祀られたりしてるし、
惟定の弟の子孫に緒方洪庵がいたりと結構面白い一族なんだよな

佐伯家の剣だと他に飛龍の太刀、手鉾の太刀(不抜の太刀)、瀬上りの脇差、
小屏風長刀というのもあるね