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徳川家康、贔屓について語る

2023年01月18日 19:35

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/17(火) 22:06:13.58 ID:an6A5pJj
武家閑談」から「徳川家康、贔屓について語る」

権現様の御言葉によれば
「侍の贔屓強さといえば、今時のものは偽である。
まことの贔屓というのは佐竹義宣が石田治部(石田三成)を贔屓したようなのをいうのだ。
治部が結城少将(結城秀康)を証人として佐和山に送られる時、佐竹は
「道中で治部を討とうという者がいれば我らが相手となる」
と言って人数を出して待機していたいう」

「駿河土産」には「佐竹義宣は律儀なるもの」としてほぼ同じ話があるが、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11433.html
律儀なる佐竹義宣

「律儀」とはちがい「贔屓」だと特定の人物に対してだけ、となって意味が異なる気がする



569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/18(水) 20:24:02.20 ID:/Jl3ViJy
武家閑談」には、上の贔屓の話の前に秀忠の律儀の話に家康が正信を通じて苦言を呈した話もあった。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4879.html
徳川秀忠「内府様の嘘、自分の嘘」
(昔出ていたこの話では「嘘」とされてるが「武家閑談」では「何事を言っても」となっている)
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政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ

2022年10月06日 18:35

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/05(水) 21:09:37.08 ID:xyMAVVrP
伊達政宗の生前の言葉を書き残した『命期集』より
政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ
まとめにある話ですが、ディテールが抜けているので投稿

(政宗の)あるときの仰せでは、太閤が伏見におられたとき、城のなかに御学問所と名付けた座敷を造り、四隅に数寄屋(茶室)四つを設け、東西の諸大名に茶を振る舞った
亭主は四人で、太閤と家康公、前田利家公と私(政宗)だった
太閤も残る三人も良い葛籠を持ち寄り、自分たちで寝床を敷き、四人は枕を並べて夜もすがら、昔物語をして楽しんだ

さて、四つの数寄屋はくじ引きで決めてそれぞれ四人が受け取り、水屋以下、お勝手料理の間もそれぞれの数寄屋に設けられていたので、四人とも料理なども隠し合い、工夫をこらしていた
(秀吉から)客が誰かはまったく知らされていなかったが、次の日になると(政宗の客は)佐竹義宣浅野長政加藤清正上杉景勝であるとにわかに告げられ、仲の悪い衆ばかり客に仰せ付けられた
なんとか変わった趣向を行おうと思ったものの、にわかのことでなかなかできなかった
季節が若菜の芽摘みの時期だったので若菜汁ばかりつくり、できうる限り沸かし返し沸かし返し、熱くして出した
そのため、しばらく置いても冷めずに(佐竹らが)迷惑していたところ、早々と替えの汁を出してなかなか一口も飲めなかった上に、また先のごとく汁を替えて出した
まもなく酒を出し、始めから終わりまで迷惑した

振る舞いも終わって御学問所に四人は寄り集まり、その日の亭主としての接待ぶりを順番に語り合った
私(政宗)が「今日の客は一段の日頃からの知音(親友)だったのでどのような馳走をしようかと思ったのですが、うまくいきませんでした。(寒い冬の時期が)旬だったので若菜の汁をできるだけ熱くしてお出ししたのですが、飲んで一口目で怪我をしたのでしょうか、しばらく箸を唇にくわえたまま舌打ち(現代でいう舌打ちと、舌鼓を打つのダブルミーニング)をしてございました」と話した
太閤は「さてもさてもしてやったり、してやったり。一日の亭主だがこれは古参(のようなもてなし)である」と二度も三度も躍り上がり、腹を抱えて笑ったので、伺候の人々は座敷にいかね、腹を抱えてともに大笑いした
その末に次の日の客選びの相談をした
このように太閤が遊びをされたこと、天下の諸大名を組み合わせたことは、仲違いした者同士の仲直りをさせようという奥意があったと後に知ったと(政宗は)仰せられた



目前に味方を討たせ、見物する法があるものか!

2021年12月25日 15:20

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/25(土) 10:42:29.69 ID:VAMcHqsE
或る本に曰く、大阪冬の陣、今福の戦いにおいて佐竹義宣の軍が難儀に及んだ時、後陣に控えていた
堀尾山城守(忠晴)に援兵を要請した所、堀尾は「心得候」と返答した。
この時、幕府の御目付である安藤治右衛門がこの場に在り、堀尾に「(幕府の)御下知も伺わずに
人数を出す事、然るべからず。」と申し上げこれを制した。しかし山城守は

「御下知が無いからと言って、目前に味方を討たせ、見物する法があるものか!」

と、その勢二千計りを左右にして、勝ち誇っている木村重成の軍勢の所へ、会釈も無く駆け入ろうとした。
ところがその場は堀越にあり、駆け合う事は出来ず、彼等は徒に合戦を見物するのみであった。

堀尾はこの年十六歳にて、天下無双の美男であったと云われる。

新東鑑

堀尾忠晴、見物なんて出来ない!と言って出撃したのに結局見物してしまったというお話



256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/25(土) 14:26:31.47 ID:HufBNS07
この後のイケメンが気まずそうにしてる顔が見たい

合戦も仕掛けず、人質も出さず、

2019年01月13日 17:40

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 15:43:00.78 ID:Zdhm48/O
石田三成らの挙兵により、徳川家康が宇都宮から江戸へと出立する際、佐竹義宣や秋田城介(秋田実季)
らは、石田三成に一味していると考えられていた爲、『上方と一味に候哉、そうではなく今回
我々に同心するというのであれば人質を出し、我らへの一味の験を顕すように。』と、花房助兵衛、
島田次兵衛の両人を使いとして佐竹へ仰せに成った。

これについて義宣は父親の義重に「これはどうするべきか」と相談した。義重はこう言った

「私は隠居であり、万事はお前の心次第にすべきである。しかしながら上方に既に妻子を人質として
置いているからといって、彼等を不憫に思い、心では家康に一味したいと思いながら、人質故に
上方に一味するような事は有ってはならない。戦国の頃は、人質を棄て義兵を起こす事が武家の習いであった。

もし又、とにかく上方に一味したいと考えているのであれば、上杉景勝、秋田実季と申し合わせ、
早々に軍を起こし家康を食い止めるべきだ。」

しかし義宣はこの言葉を用いず、合戦も仕掛けず、人質も出さず、徒に時を過ごした。

(武功雑記)



630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 19:33:32.84 ID:/HqfRDEu
>>626
後世の人間の感覚だと、関ケ原の頃はまだ戦国自体だけど、当時はもう戦国の世は終わったって意識だったんだな

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 19:48:06.46 ID:mKSNkryl
太閤殿下のおかげやで

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 03:05:53.78 ID:MKG9TZe7
>>631
惣無事令の有無はさておき、小田原→奥州仕置で天下統一、各大名が実力で領土をぶんどるのはもうありえず、戦国は終わったという認識になるでそ。

ただまあ、戦国的な気風は綱吉が将軍になるまで続くわけだけど。

638 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/14(月) 09:53:34.15 ID:xO1Bprze
>>636
>ただまあ、戦国的な気風は綱吉が将軍になるまで続く

(改易しまくる)幕府が悪いよ幕府が~

ムダに浪人増やす事になったのもなぁ

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 09:58:48.12 ID:IEDTryi4
改易しないと舐められるしなあ

640 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/14(月) 12:21:36.97 ID:2qBLxhgW
>>630
おれは60歳だが、

15歳で関ヶ原に従軍してから、

37年間、弓鉄砲を使う場面は1度もなかった。

律儀なる佐竹義宣

2018年08月13日 18:45

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 17:37:35.92 ID:edUVcuNz
権現様(徳川家康)が駿府城にあった時、御伽衆の一人が「誰々は殊の外律儀な人だ」と語った所、
これを聞いた家康は

「律儀なると者というのは極めて稀なものだ。私はこの歳に成るまで、律儀なる人というものは、
佐竹義宣以外に見たことがない。」

そう仰せに成った。しかしこれを御伽衆の者達は皆合点できなかった所、御前に居た永井左近が
「義宣殿を左様に思われるのはいかなる理由でしょうか?」
と申し上げた所、

「その方なども知るように、先年大阪にて石田治部と7人の大名たちの出入りの時(七将襲撃事件)、
治部は大阪を立ち退き、我等を頼み伏見に参った。この時大阪からの道中を佐竹義宣が警護して
上がった。その後、石田治部が佐和山に蟄居と成った時も、その道中において大名たちが語らって
彼を討ち果たすとの風聞があった、そのため私は三河守(結城秀康)に道中の見送りを申し付けたが、
これを義宣は聞き及び、『治部を大名共に討ち果たさせては一身の一分が立ちません!』と、
道中に目付け物聞きを置き、何か事が起これば即座に馳せ出して三河守と一手になって治部を
救援すると、上下とも軍装のまま待機していたという。となれば、律儀の人の実仁に紛れもない。

その後関ヶ原の一戦の時も、大阪方にも我々にも付かず、心底がわからず訝しいと思い、しかし
そのままには置いておけなかった。もし我等に一味して関ヶ原表に出勢し、戦功などあれば、朝熊も
先祖代々の領地であったし、水戸の安堵は相違無かったはずなのに、残念な事であった。

人が律儀というのは、褒めるべき資質で随分良いことでは有るのだが、律儀すぎると、
事に臨んでは一思慮無ければならぬものなのだ。」

そう仰られた。
(駿河土産)

自分も律義者と言われていた家康の考える律儀No.1は佐竹義宣なのね



152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 18:51:56.64 ID:2MDI+lEV
佐竹が関ケ原で東軍について戦功挙げたら、関東と南東北に合わせて100万石クラスの
大大名が登場するわけで、徳川にとって危険極まりないわけだが…

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:12:25.13 ID:2pUDfcy6
その場合は中国か九州あたりで大封を与えるんでないの

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:17:19.99 ID:edUVcuNz
佐竹は秀吉に臣従した時は25万石だったのが、太閤検地で領地そのままなのに一気に54万石にされちゃってるんだよなあ。
単純に軍役倍って事だから、豊臣政権ってホントエグいと思う。

155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 19:49:33.76 ID:k3r0B2xw
下手に東軍で活躍して大大名になってたら大阪の陣のあと血眼になって粗探しされて改易されてそう

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:16:21.87 ID:AaT6or0e
義宣ならやらかさんとは思うが
まあ突っつくなら配下の徳川氏とかか
あそこは将軍家に憚ることなく徳川を名乗り続けたよね

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:33:31.48 ID:Fqze60QX
>>155
関ケ原後に川井事件とか、お家騒動やらかしているしねい。
佐竹って小田原後、豊臣大名になってから中央集権化にやっと取りかかれて、
関ケ原後に転封されてからが改革の本番という感じだったから、
まだ家内統制取れていない段階で、しかも転封されずに大封になったら、
いったいどんなことになるやら…

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 20:38:52.18 ID:T7fOEd4M
人間万事塞翁が馬だな!

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/13(月) 21:24:11.74 ID:wsGVjBat
>>154
無役16万石が設定されたから倍にゃなってない
島津の時もそうだけど検地の打出し分で大名の蔵入りを増やすのが主目的だしね

163 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:12:30.83 ID:BRAOGxPy
>>157
関ヶ原後に転封なし加増ありで大封というと前田氏、最上氏、伊達氏くらいかな
その後を見てると結局は運次第かねぇ

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:16:13.37 ID:i/S8w+GS
>>163
基本、どれも田舎の藩だなぁ。

165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 11:26:50.19 ID:uVBU3cE+
>>163
加藤

167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/14(火) 13:34:42.18 ID:+D6JsEd6
>>151
朝熊って伊勢のだよね?ここが先祖代々の領地ってどういうことなの?

一つ提灯

2018年01月24日 18:36

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/24(水) 05:54:22.06 ID:oHBascNf
北条左衛門大夫(綱成)家中に、相州甘縄の住人、三好孫太郎という勇士があり、彼は指物に
提灯七つを付けており、「孫太郎が七つ提灯」と言って、隠れない物であった。

そのころ松山肥後守寄騎に山下民部左衛門尉という者がいたが、彼の指物は六つの提灯であった。

天正十三年の秋、北条氏直佐竹義宣が下野において対陣を張り戦ったが、この時、
三好孫太郎山下民部の六提灯の指物を見て馬を寄せ、尋ねた

「其方の指物に、何か仔細はあるのか?」

「提灯に何の仔細があるものか。我の好みだ。」

これを聞くと孫太郎は憤った
「武功を積まずして六ッ提灯は指して良いものではない!あれは天文十五年頃、上杉と
北条氏康公が武州において合戦した時、私は一番槍の誉れあり、氏康公より褒美の感状があり、
その時私は、一つ提灯を指物として頂いた。その後また忠ありて、二つ提灯を指す。三度功ありて
三つ、四度五度六度七度忠勤を抜きん出て、重ね重ねの功により、この七つ提灯を授かったのだ。
故に、孫太郎が七つ提灯と名が付けられ、関八州に隠れないものとなったのだ!」

馬上にてこのような問答となった。

その日の競り合い戦に、佐竹方に大石八郎という者、釣り鐘の指物を指すていたが、彼は名乗りを
上げると

「諸人に先立ち、我と思わん者あらば組んで腰部を決せよ!」

そう言って長刀にて斬って回る所に、山下民部馳せ合わせ、馬上から組んで双方落馬した。
民部は大力であったので、八郎を組み伏せ首を取った。

この時、ふと気が付き、自らの指物のうち、提灯五つを切り捨て、一つ提灯にして指した。
人々はこれを見て、「民部左衛門は問答してから時を移さず誉れを顕し、一つ提灯を指すこと、
かつて聞いた孫太郎の武勇にも劣らない!」
そう賞賛したという

(北條五代記)



592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/24(水) 23:37:21.30 ID:ztqaLHlA
ちょっとカッコいい話だな

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 00:34:38.71 ID:kYpqHmCq
山下(あっこれ面倒くさい人だ、次にアピールしとかないとなあ)

賞賛してるのが人々で、三好さんの評価が無いのも気になる

「その方、先に下に降りろ」

2017年08月27日 22:57

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/27(日) 22:52:38.35 ID:d6s6yIK8
茂木山城(茂木治良か?)という者、下総茂木山城の城主にて、佐竹に属していた。
朝鮮征伐の時、佐竹に従って西国に至った。

佐竹の人数を集めて、老臣たちが手配をしている時、佐竹の家老が縁の上に立って、他の者達はすべて
軒下に降りるよう下知した。しかし皆、これに従おうとしなかった。

この様子を見て茂木山城は、その家老に言った
「その方、先に下に降りろ」(其方先下に居よ)

人を下知するなら手前を慎むのが、古よりの戒めである。
(士談)


85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 00:23:20.76 ID:tb33UCMO
下総じゃなくて下野茂木なんじゃないかな
佐竹が下総と接点あるのは北総・東総あたりだろうけど茂木氏はちょっと記憶にない

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/28(月) 03:07:52.48 ID:IAXy0+oW
これ人名はもぎやましろで城がもぎやまじょうなのか

阿波殿へは御感状を下された

2017年05月19日 08:31

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/19(金) 06:57:41.17 ID:33GwbRVH
阿波殿(蜂須賀至鎮)の家来・朝比奈右衛門と同右京という者は、
馬口労ヶ淵で下知して功があった(大坂冬の陣・博労淵の戦い)。

佐竹殿(義宣)は家来の働きは良かったが、義宣の支配(指揮か)
は(徳川家康の)御意に入らなかったのだろうか。

阿波殿へは御感状を下されたが、佐竹殿へは家来にだけ下された。

――『武功雑記』


どうしてかつての仇敵に縁のある人々を率いて

2016年09月10日 09:01

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/10(土) 07:36:06.71 ID:jkkgXYN4
佐竹義宣石田三成と親しかったのは、理由の有ることであった。
常陸国には三十三館(南方三十三館)といって、名家の末があったら、年来義宣の下知に
従おうとしなかった。石田三成は関白秀吉の覚えめでたい人物であったので、義宣はこの人に
付いて「三十三館の者共が、関白の仰せを軽んじています。」と訴えた。

三成は秀吉の側にあり、これを取り次ぐと、秀吉は「下知に背くものは尽く誅すべし。」と
仰せ下した。
義宣はこれを受け、三十三館の者達を招き寄せると、そこに武士を伏せておき、尽くこれを殺した。
そして彼らの城々に討手を遣わしてその一党を攻め滅ぼし、所領尽く併呑した。

関ヶ原の後、佐竹は出羽国に転封となった。
この時佐竹家臣の群馬丹波守猛虎という者は義宣を諌めた

「君にはどうして、唯々諾々と先祖伝来の地を他人に渡されるのですか!?
ここには恩顧普代の侍が5万人あり、兵糧の蓄えも、10年ほどは不足しません。
さらに、この城(水戸城)は要害堅固であり、天下の兵を集めて攻められたとしても、
一気に落とされるようなことはありません!
しかし一旦ここを去ってしまえば、もうどうにも出来なくなるではありませんか。」

しかし義宣は言った
「お前の言葉は理あるに似ている。だがな、佐竹義久が内府のことを天の許せる英雄であると言ったのは
違っていなかった。

私は先に、三十三館の者たちを滅ぼし、その領地を尽く取り上げた。
今日、私に従っている者達の中には、その親族遺臣が少なからず居るが、彼らが背き離れようとしないのは
私を畏れるためではない。内府の威を憚っているからだ。

お前は私のために命を惜しまぬと言うが、どうしてかつての仇敵に縁のある人々を率いて、
天の許せる人に歯向かうことが出来るだろうか?戦が始まる前に、内乱が起こればそれこを
どうしようもなくなる。」

こうして、佐竹義宣は七十余騎のを率いて累代の地を去り、秋田城へと入った。
しかし群馬丹波守猛虎は

「よしよし、大腰抜けの大将の手に従って、何の功があるだろうか!我のやり方を見よ!」
そう言って手の者を率いて旧領に立ち返り、徳川家の代官を夜討ちしようとしたが、事表れて
捕縛され斬られた。

(話園)



67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/10(土) 08:06:35.79 ID:nMnnQhTV
車か

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/10(土) 10:01:45.01 ID:FHiD7+jV
団吉さんの先祖か

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/10(土) 11:36:58.85 ID:6O+I42Iv
猛虎魂を感じる

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/12(月) 13:19:51.55 ID:BBC0j9Np
>>66 悪名高い三十三館のだまし討ちですね。

佐竹(東)義久の事

2016年09月09日 20:58

174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/09(金) 08:50:50.12 ID:zP/Tqzz+
東下総守政義(佐竹(東)義久の事か)といえば、佐竹義宣の老臣であった。
戦国の時の武士は先陣に進み一番に敵の首を得るをのみ心として、己の主人のために利害得失を
深く考える者は少なかった。佐竹義久は打物を取っては人に優れるほどの功名は無かったが、常に
謀略を考案し、主のために益有ることが多かった。

慶長の関ヶ原の事が始まる前、徳川家康は会津の上杉景勝を征伐せんと出兵したが、この時
佐竹義宣は、那珂郡に陣して、徳川の背後から攻めようとした。義久はこれを聞くと、義宣に向かって言った

「私がこのところの徳川殿を見るに、彼には今、天の授ける幸運がついています。それはほとんど
人の力ならざる物です。我が君がこの人に従って会津征伐に参加されれば、当家の幸運もこの上ないでしょう。
しかしもし、眼前の利に迷って、戦後になってからその疑いをかけられれば、ゆゆしき御大事に
なりかねません。」

そう諌めたが、義宣はもともと石田三成と親しい仲であり、義久の諫言を用いず、そのままの方針で日を送っていた。

ところが、徳川家康は上方に兵乱が起こったとの情報を得ると、下野より軍勢を引き返した。この時使者を佐竹に送った

『和殿は、先に仙道より会津に攻め入られると約束したが、いま水戸を去ること数里にて軍勢を止めているのはどういう事であろうか。
今の天下の情勢を見るに、御身の勢力では、その進退によって天下の軽重を為すのは無理である。
いまこの時に、よく考えられるべきだ。東西の何れにも従わないというのは、先祖より伝来されし所領もどうなるかわからない。

会津を攻められるとも、人質として親族を出されるとも、また子息らを我が軍に従わさせるとも、御身の望む所に任せる。』

この書状に対し義宣は
『私は内府を恨む所はありません。であればどうして背くことがあるでしょう。
ですが義宣の子息どもは、おおかた大阪に参らせていて、今こちらには参らすべき者一人も
おりません。もしそういう者がいれば、どうして仰せを待つような事をするでしょうか。』

そう返書した。この佐竹義宣の態度に徳川家の人々は怒り
「憎き佐竹の申状かな!その義であれば踏み潰して後、西に向かうべし!」との意見が多く出た。
しかし家康はこれを押し留めた
「そうではないぞ。樹木を以ってこれを例えるなら、石田三成は根であり、その他は枝葉にすぎない。
その根を刈り捨てれば、枝葉はどうにもならない。」

そして、皆川下妻の勢を以って佐竹の押さえとし、急ぎ引き返した。この時、佐竹義久は進み出て

「内府、西軍の挙兵を聞いて俄に引き返しました。いま、そこに従軍している者達は合戦の考えはありません。
追撃すれば勝利疑いありません!」

そう進言したが、佐竹義宣は雄々しからざる性格であったので、この案を用いようとしなかった。
義久は歯噛みしながら
「ああ、危うい!我が君既に徳川殿に従わず、もし徳川が勝利すれば必ず我らの災となります!
また西方にしっかりと従わない以上、かの軍もこの情報を得れば、我が君を疑うでしょう。
これは一挙にして両失というものです!」

義宣は尋ねた「ならばどうすれば良いのだ?」
「当面は数百騎を東軍に派遣して、二心無き事を示すべきです。」
義宣はようやくその議に従った。

関ヶ原の合戦が終わり西軍が敗北すると、佐竹義宣は大いに恐れ、徳川家康の前に伺候し
「窮鳥懐に入る時、猟者もこれを許すと承ります。どうか重き罪を許していただきたい。」と訴えた。家康は打笑い

「乱世の時は各々その国によって敵の隙を伺うのは豪傑の為す所であり、誰がその是非を批判すべきだろうか。
佐竹が今回したことは、東西両道をかけた汚き心であり、赦すべきものではない。
であるが、佐竹義久の謀略は世に得難き優れものである。あの男が世にあるかぎりは、今までどおりにおこう。」

そう言って許した。
しかし慶長7年、佐竹義久が病死すると、義宣は常陸から出羽へと移された。
「国の柱石とは義久の事だ。」義宣はそう悔い思ったという。
(話園)



175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/09(金) 09:25:54.18 ID:iZKY3YXj
これでブチ切れて人材という人材(美人含む)を秋田に連れ去ったのか。

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/09(金) 15:45:29.51 ID:FxmGZWdl
>>174
>あの男が世にあるかぎりは、今までどおりにおこう
ほんとにその通りにしてんじゃねーよw

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/10(土) 07:23:09.47 ID:QjJSiX+F
流石は大御所様、信賞必罰有言実行の名君であらせられるw

政宗の思惑

2015年03月05日 18:36

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 05:22:14.90 ID:nfbRX8pP
政宗の思惑

慶長5(1600)年6月11日、徳川家康は景勝反逆の知らせを聞くと大坂を出、
7月2日に江戸城に入り伊達政宗最上義光南部利直らに「月の末をもち会津入りを果たす。軍議をよく成し上杉領へ乱入いたされよ。家康父子も前後し進発云々」と書をしたためた

7月19日、上方で石田三成の挙兵が江戸に居る徳川家康の元に伝わったが
家康は21日に会津表に向けて出発

陸奥で書を受け取った伊達政宗は「よし!上杉に奪われた父祖伝来の地を取り返す良い機会ぞ!いくさの支度じゃ!」と気を吐き、
兵を南下させると24日に上杉方の白石城攻めを開始した

一方同じ24日に小山に着いた家康は会津攻めの姿勢をはっきりとさせていなかった常陸の佐竹義宣に「上杉攻めの先鋒を務めよ
さもなくば小山に集まっている兵にて常陸を攻める」と使者を出した

すると佐竹義宣は「家康公に逆らうつもりはありませんが、大坂で妻を人質を取られているために会津攻めに協力する事はできません」と答えた

家康は佐竹家を監視する兵を割き、いざ上杉を攻めようと評が決したところに、上方の伏見城が石田方に攻められているとの早馬が到着した

7月25日、わずか一昼夜で伊達政宗は白石城を奪取
(●∀゚)「家康が来るまでに奪えるだけ城を取っておくぞ!」

その頃小山では上方から立て続けに来る諸家の早馬や使者からの情報から家康は進退を量りかねていた

家康「…会津攻めは一度止め、上方に兵を返そう
結城秀康を殿に置き、残り全軍今より上方へ向かう
使者よ伝えよ、伊達政宗最上義光は北から上杉を牽制せよと」

数日後伊達政宗の下に家康からの早馬が届いた

(●Д゚)「ちょ!待っ!家康の言う通りに上杉攻めしてたのに、家康が来ないって何だよ!?ふざけんな!
小山まで来たならとっとと上杉降して、背後を確保するのが筋道だろ!?」

徳川の使者「…お言葉ではございますが、すでに軍議は決し、各将西に向けて移動しているはずです」

先制パンチを効かせながらタイミングの悪かった政宗の話

「伊達治家記録」「奥羽永慶軍記」「最上記」ほか





佐文にはどういうわけなのか

2014年07月20日 19:01

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 17:07:48.67 ID:3Wfshzas
佐竹義宣の家士に忠野佐文という者がいた。弓馬槍剣に熟達し、
そのうえ猛勇大力の士である。

しかしながら、佐文にはどういうわけなのか礼義というものが
まるで無く、諸人に疎まれて誰一人として交わる者も無かった。
そうではあるが、戦場へ出ては度々とび抜けて優れた働きがあった。

この佐文は、戦場へ出る時は大指物を用いた。その指物は白木綿に
『一足不去忠野佐文』と大文字で書いた幟の指物である。

ある合戦で佐竹勢が敗軍した時、佐文は敗軍の兵士に押され、
心ならず一、二町引き退き、道端の川の水を飲もうとした。

その時、自分の大指物が水に映り、佐文はその文字を見て一、二町
引き返したことを残念に思い、ただ一人取って返して敵の大軍の中へ
突入し、大勇戦をして兜首を三つ取った。

けれども、佐文は平生きわめて不行跡な我儘者であるためか、
生涯二百石で終わった。

――『明良洪範続編』




735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 17:18:08.90 ID:rqgpDVeb
ただの数人、ならともかく大軍相手に
忠野の名がすたると考えるとは

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 17:37:00.99 ID:n8qrhaPF
大ふへん者

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/20(日) 17:41:06.36 ID:lkmgnqtr
どことなく三河武士っぽさを感じる

佐竹義宣、ついうっかり

2014年01月30日 19:14

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:04:57.33 ID:eZ/ti//Q
慶長5年(1600)、徳川家康公は上杉景勝征伐のため東下し、7月21日に江戸を出立。24日には
下野の小山に到着した。

この頃、常陸国の佐竹右京大夫義宣は敵とも味方ともはっきりしなかったため、家康公より
島田治兵衛が遣わされ、その趣きを聞かせた。

佐竹義宣は島田に対し、この様に答えた
「我々は家康公に対し別心はありません。しかしながら大阪に人質を置いているため、会津に
出陣することは出来ないのです。」

島田はこの答えを不思議に思った
「現在、上方は平穏ではありませんか。それなのにどうしてそのように仰るのでしょうか?」

これに義宣は
「上方において石田治部少輔(三成)が軍を起こし、関ヶ原へと攻め下るのだから、そう申すのです。」
と答えた。

これより以前に、石田三成が家康公関東御下向の後で陰謀をめぐらし反逆を企てる、という話は
風聞としてはあったのだが、ここまで確かに顕れた証拠はなかったのだ。
そしてこの24日に上方より小山に飛脚が到着し、石田が家康公を討とうと謀りをめぐらし、
諸国の軍勢を集め家康公の味方の城へ軍勢を派遣したという事を伝えた。

(黒田家譜)

佐竹義宣、ついうっかり三成の挙兵を言ってしまったお話。




422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 20:21:50.67 ID:3S0k67iN
おい、三成は最初から関ヶ原へしか行かないつもりだったのかよw

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 21:32:30.04 ID:XoDdgJfy
>>421
西軍って岐阜城を背にして清洲まで攻める計画じゃなかった?

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 22:12:27.78 ID:4N27C86U
会津征伐に参加した諸侯が普通に味方してくれるとか期待してたっぽいけど

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 22:15:47.93 ID:utcKB+T2
>>425
島津義弘が国元に送った書状ね。「奉行たちは自分たちが決起すれば家康について東下した連中は
みんな頭下げて畿内に戻ってくるって言ったのに、誰一人帰ってこない。どうなってるんだ!?」って内容の。

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/29(水) 22:17:12.13 ID:Qc5ZAT+e
兄ちゃんもそんな手紙見せられたんじゃ、援軍送りたくないわな
実際送らずに正解だったし

秀忠のお気に入り(?)メンバー

2013年11月18日 19:33

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/18(月) 07:45:44.51 ID:n4gZmj0J
このメンバーちょっと面白いな

> 575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 15:50:47.14 ID:3em9xmQH
> 1621年9/12に江戸城で能があって、秀忠が景勝と義宣と政宗を呼んで楽しんでたり
> 10/14に秀忠が数寄に、またこの三人を呼んでいるんだよね。
> ワリとこの4人ってウマがあったのかねぇ。
> 景勝は1623年3月に死去するから、このメンバーが集ったのはレア。
> 1622年9月に最上改易で景勝は山形へ兵を送っているが、あるいはこの時に政宗にあっているのかも試練ね。

> 583 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/11/17(日) 21:44:30.10 ID:DFFunjVq
> >>575
> みんなで若い時の話をして盛り上がってたのかもね。
> 秀忠も含めて東国組って感じだしな。




654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/19(火) 01:25:26.18 ID:xcnBUlmi
>>646
こんな逸話が→http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6258.html
秀忠の茶会でもやらかしてるくさいあたり。将軍様の茶会なのに~。
ん?1607年に家康もこの三人呼んで茶会やってる?何か話残ってないかな。あの人参加だし。
(というか秋田に飛ばされても付き合わされる義宣さん…。

伏見城、御学問所の茶会

2013年07月28日 19:09

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 20:46:19.88 ID:MbCsF4HX
伊達政宗公が、ある時のお話に

「昔、太閤殿下(秀吉)が伏見におられた時に、御城の内に御学問所と名付けたお座敷を建てられてな、
その御殿は4つの隅に御数寄屋を付けられていて、そこで東西の諸大名衆に御茶を下されたことがあった。
亭主は4人、太閤様、家康公、加賀の利家、そして私であった。

その夜は太閤様も他の3人にも、夜着と葛籠1つづつ持たせ、床を敷いて枕を並べ、
終夜様々に昔物語などして楽しんだ。

翌日、数寄屋の場所などを4人がクジをとって決め、担当の数寄屋の掃除など準備をし、
台所もそれぞれに設置してあったので、出す料理についても互いに隠し合うように決めた。

客は一体誰なのか一切知らされていなかったが、茶会の始まる直前に仰せ付けられたのが、
私の担当する数寄屋へは、佐竹義宣、浅野弾正(長政)、加藤肥後(清正)、上杉弾正(景勝)などという、
私が絶交した連中ばかりを客に仰せ付けられたのである。(中絶の衆ばかり客に仰付けられ候)

そういう事なので何か変わったことをしたいと思ったのだが、にわかの事なのでどうしたものかと悩んだ、
その折はつまみ菜の旬で、御汁につまみ菜を調理していた。これだ!と汁を沸かし返して熱々にし、
先に作っていた汁が暫く置いていたため冷めているので、客にも迷惑だろうと、このぐつぐつに煮えた汁と
素早く取り替えて出した。

この御汁を吸った客達は皆、一口も飲み込めず吐き出したが、又同じように御汁を出し、
間もなく盃酒を出したため、客は皆、終始迷惑した様子であった。

さて、4ヶ所の数寄屋での茶会が終わり、御学問所へ再び4人の亭主が集まり、それぞれその日の
客の有り様などを段々と語り、私の番になって

『今日の客は皆々、私にとって一段とよく知った人々でしたので(一段と知音の衆に御座候間)、
何か特別な馳走をしたいと考えましたがそうもいかず、時期ですのでつまみ菜を御汁にして
熱くして出した所、口を付けた途端に火傷をしたようで、暫くは箸にて唇をかかえ、痛みに舌打ちを
していましたよ。』

と物語した所、太閤様は

「さてもさても!したりしたり!」

と、3つ4つ躍り上がり、腹を抱えて爆笑され、伺候の諸人も座敷に居かねるほど腹を抱えて
大笑いされた。

その後、翌日の客の御相談をしたのだが、太閤様がお考えになったのは、天下の諸将を
様々に組み合わせ、またいろいろ手を加えられ、絶交している者達の仲をご自身でお直し
されようという御奥意があったのだと、これは後に気がついたことだ。」
(政宗公御名語集)

既に↓で出ている話ですが、おそらくこれが出典で、内容もまとまっていたので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-308.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3521.html

しかしこれはいつ読んでも、客全員の唇を火傷させた時の政宗の会心のガッツポーズが
見えてくるような逸話ですねw




96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/27(土) 23:25:16.38 ID:CgDRu7b5
>>95
>その夜は太閤様も他の3人にも、夜着と葛籠1つづつ持たせ、床を敷いて枕を並べ、
柊夜様々に昔物語などして楽しんだ。
>と、3つ4つ躍り上がり、腹を抱えて爆笑され、伺候の諸人も座敷に居かねるほど腹を抱えて
大笑いされた。

修学旅行中の中学生・・・

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/28(日) 10:29:00.78 ID:XVHoPB3S
花の慶次のオールスター温泉みたいなことやってたんか

相馬義胤、大阪遅参

2013年04月12日 19:50

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 19:40:46.52 ID:j1BlCTDN
慶長20年(1615)3月、江戸の幕府は再びの大阪攻めのため全国の大名に参集するよう命じた。
大阪夏の陣の勃発である。

奥州の相馬利胤もこれに応じ上方へと上ったが、駿府において病にかかり、十死一生というべき
重体に陥った。無論病臥したまま軍勢を動かすことは出来ず、それ故急遽、隠居していた
父・義胤が人数を率いて参陣することとなった。

4月、義胤は隠居所である標葉郡(現・、福島県浜通り)泉田の城を出立し、まず江戸に向かった。
この時義胤が近習や外様の面々に言ったことには

「太閤様以来、天下一統して安静の世になったため、我が身も畳の上で朽ち果てることに成るのかと、
毎晩眠る時に口惜しく思っていたのだが、このように不意の出来事によって、天下の武将の御為に
命をかけて戦うことになった!
これは誠に老いの果報!老後の大幸、一体何事がこれに優るだろうか!?枯れ木に再び
花が咲くというのはこの事である!」

そのように大いに喜ぶこと限りなかった。
義胤は次男の左近及胤、そして3男の越中久胤(この時16才)を伴い進軍した。

義胤はこの年66歳であったが、その頃下々は喜胤の事を
「謡の平家物語を聞かれるにも、常に修羅場を好んで聞かれて、その時は御心も浮き立っているようであった。
この度は真の修羅場であるのだからその浮き立ちもひとしおであろう。」と言い合っていた。
その時分は家中にも戦場を駆け巡った老巧の者達が存命していて、義胤と共に従軍していた。

さて、相馬義胤の軍勢は5月9日、近江草津に到着した。ところがここで衝撃的な情報が

「大阪城は一昨日の7日に落城しました。」

諸勢は既に帰陣を始めており、兵卒たちも口々にこのことを語っていた。

これには義胤を始め老若上下、進み勇んでいただけにガックリと力を落としたが、

「と、とにかく大阪までは参陣しよう!」

そう言って先へと進んだが、その道々で人々に
「なんだこの軍勢は?戦場の掃除に行くのだろうか?それとも城番に行く者達だろうか?」
などと言われ、一行は恥ずかしさのあまり顔を見られぬよう、横向きになって通ったのだという。

この様にどうしようもない状況であったため、醍醐の方に宿陣すると、佐藤丹後を使いに立て、
佐竹義宣に「どうすれば良いだろうか?」と尋ねた。

義宣からは「とにかく人数のうち過半は国元に返して、義胤殿はそのまま醍醐に居てください。
遅参についての詳細は私の方から幕府の老中に伝え、両御所様(家康・秀忠)のお耳に達するよう
取り図っていただきます。」との返事であった。

そうしている内に利胤も病から回復し、上洛したのであるが、彼も醍醐で父と合流した。
こうした所で、大御所様並びに将軍家からも「特に気にしていない(無御別心由)」とのことで、
佐竹義宣が同道して、二条城において相馬家父子4人お目見えがかない、その後親子ともども
帰陣したとのことである。
(奧相茶話記)

相馬義胤大阪遅参、というお話





225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 21:25:10.60 ID:1xdXtEFu
おれは平家物語の修羅場だと『信連』が好きかな
長谷部信連が1人で300人迎え撃つ話
信連は長続連たち能登長氏の先祖

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 22:49:38.68 ID:NLBTYAWT
>そう言って先へと進んだが、その道々で人々に
>「なんだこの軍勢は?戦場の掃除に行くのだろうか?それとも城番に行く者達だろうか?」
>などと言われ、一行は恥ずかしさのあまり顔を見られぬよう、横向きになって通ったのだという。

カワユスw

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 22:54:44.90 ID:eEJD0fni
相馬さんガンバ

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/11(木) 23:50:04.41 ID:9j5yzmzt
横向きってまさか蟹歩き…
まあ、顔背けてるだけかw

岡部権太夫の指物

2013年03月11日 20:02

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 21:36:00.72 ID:ozCl1eoC
天正13年(1585)の秋、北条氏直の軍と佐竹義宣の軍とが、下野国の大和田と藤岡という所にて
対陣をしたが、大合戦にはならず、200騎ばかりでの小競り合いが起こった。

この中に北条方の岡部権太夫と言う者、黒糸縅の鎧に、同じ毛の兜を付け、猪の指物をして一陣に
進み出、あまたの敵と戦ったが、ある敵と引き組んで馬から落ち、上になり下になって
転がったが。終に岡部が上になって敵の首を取り、これを拾って味方の陣に帰ろうとした。

と、その時、彼は自分の指物を落としたことに気がついた。敵にこれを拾われるのも無念の事と
思い、自分の討った首を引っさげて、再び敵陣の方へと向かったのだ。

この岡部権太夫の動きに敵も見方も怪しみ訝しんだ。このよ行動は、心変わりをして
敵に降参するようにしか見えなかったためである。

岡部は敵陣近くまで来ると馬を停め、大音を上げて言った

「ここに在るは下総国の住人、岡部の権太夫と云うものである!
先陣の駆け引きにおいて敵と組み、首をひとつ取ったのであるが、我が指物を落としてしまった!
紋は猪である!

されば、この首は未だ大将の実検に供していない!
我が指物を拾われた御方、どうかこれと取り替えて頂きたい!」

敵はこれを見て、なんとけなげな侍の心ばせだろう。ならば彼に返してやるべきだ、
などと話していた所に、河中喜平次と云うもの、岡部の指物を持って出てきて

「あなたの御心ばせに、やさしくも感じ入りました。これは、お返しいたします。」

と言って差し出した。

これに岡部は
「武士としてその情を深く感じ入っています。出来ればもうひとつご芳志に、指物を指し筒(背中で
指物を固定する筒)に指していただけないでしょうか?」

と言って馬の口を引き返し、後ろ向きになって敵に指物を指してもらい、それから
首を河中喜平次に渡して、味方の陣に静かに帰っていった。

これには敵も味方も、稀代の剛の者かと、岡部を褒めぬ者は居なかったという。
(軍人頓智叢談)




706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 22:58:28.39 ID:1vD1W6ZD
猪の紋ってどんなのだろうw

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 23:13:51.74 ID:j0aLHUcX
~にしか見えなかった、って・・・
味方の首持って来た奴の降参を受け入れるの?

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/11(月) 07:40:00.46 ID:MN3iRA3L
>>706
真壁氏の旗指物がちょうど猪。
ttp://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/topics/news/photo/h22/07/7-12.html
072302.jpg

珍しい旗指物だとは思うけど佐竹、北条の境界で珍しいかと言われたら
真壁さんが泣いてしまうと思う。

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/11(月) 13:03:44.36 ID:65W20Li6
>>708
おお、乙事主様的かっこよさ


712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/12(火) 20:18:03.83 ID:Xx6Ke432
>>705
既出だな
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-785.html
当時のランキングで2位になるほどの話(一位は出世の白餅)
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-821.html
もう4年も前のレスだが

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/13(水) 07:56:50.81 ID:K8khZqNi
俺はもう四年もスレに張り付いてたのか…(絶句

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/13(水) 12:31:07.32 ID:e6sbVAIy
>>713
いい話だ


佐竹義宣、肥前名護屋にて

2013年01月22日 19:52

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/22(火) 02:48:10.79 ID:JhwoqoZl
文禄二年(1593)、朝鮮出兵のため肥前名護屋城に在陣していた佐竹義宣が国元の重臣・和田昭為へ送った
面白い書状が残っている。

(追而書き)

なおなお、重ねて桃源へ申します。(肥前名護屋の)陣中では茶の湯の流行ること、並々ならぬ次第です。

太閤様などは一日はお城を出られて方々へ出向かれ、私なども同じように数寄のため
方々の陣へ出向いております。
まつほ(茶器か?)なども二十余見ました。

そうそう、また茶の湯の稽古をしたので、関東で一番の数寄者でもなければ、私の前では
茶でも湯でも、貴方などには口を開かせませんよ?
(原文:関東ニおゐてハ一之すきしやたらす候ハゝ、それかしまへなとにてハ、茶とも湯共、
其方なとハ口ハあかせ申ましく候)
今はただただ茶の湯一つばかりをしております。
(原文:たゝ/\きさ一ハかりハすかるへく候)
以上。

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/22(火) 02:49:25.91 ID:JhwoqoZl
(本文)
重ねて手紙にて申し遣わします。
こちらは別段何事もなく、高麗(朝鮮)のことも順調である、などと聞こえております。
ただ、今のまま相済む、などという事は無いでしょう。
度々申し遣わしている事ですが、当春は太閤様が自ら朝鮮へ御渡海される事になるでしょうから、
中の丸の事は少しも油断してはなりません。
年貢についても引き詰めて催促するようにして下さい。
普請は三月から申し付けるようお願いします。

それから、人見主膳の所に置いてある鼓の筒(どう)を返事の際に大小ともに寄越して下さい。
大鼓は瓜の蒔絵、小鼓はたんぽぽの蒔絵のものですよ。

ああ、小鼓は皮も一緒に添えて送って下さい。大鼓は筒だけで結構です。

そうそう、笛が館にありますからよくよく尋ねて送って下さい。
主膳の所にも笛が一つあるはずですから、これもまた送って下さいね。
主膳の所にないなら宗叱の所にあるでしょう。

太閤様は日々御能をされますから、陣中では乱舞が流行っております。
重臣共はこぞって狂言をしているので、私も稽古をしてやろうと思います。
狂言の相手には桃源、玄喜、伊賀などを寄越して下さい。
唐へ渡って無事に帰ったら、国元で能の興行を考えておりますから、何事においても諸法度以下、
油断無く申し付けて下さい。謹言。

正月十九日 義宣(花押)
和田安房守殿

(『阿保文書』)


陣中では秀吉の影響で能と茶の湯が流行っており、茶の湯や乱舞を楽しむ大名も多かったようだ。

義宣は国元の仕置きだけでなく鼓、笛に関してもあれこれと細かい指示を出しており、
追伸にあたる追而書きでも茶の湯の腕前についても自信満々に述べていて、あの肖像画からは
伺い知れない佐竹義宣像が浮かび上がってくるような書状である。




161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/22(火) 06:02:00.85 ID:PNOCPoXy
太閤様は日々仮装コント大会をされますから、陣中ではコスプレが流行って云々…

まーくんから従兄弟殿へのちょっとした(?)お願いの手紙 

2012年11月07日 19:56

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 22:39:42.36 ID:qW1WTpFy
まーくんから従兄弟殿へのちょっとした(?)お願いの手紙 

伊達政宗の真筆書状 発見される

能代市では(個人名の為 伏字)さんが、伊達政宗(一五六五~一六三六)から
初代藩主佐竹義宣に宛てたと見られる書状を発見。
県立図書館文書係の鑑定の結果本物と判明したものの、宛名が失われており文面から
佐竹宛と推定された。しかし、伝承経路は不明のようだ。

 本文には「…大砲の火薬の質や量、あるいは矢蔵の定め書きなどを給わばありがたい。」などとある。

1976年(昭和51年)4月1日発行 秋田県広報あきたより抜粋 
秋田県広報ライブラリー 当該記事へのリンク ttp://common.pref.akita.lg.jp/koholib/search/html/167/167_046.html

※転載ここまで

親戚でありながら敵対していた筈の佐竹義宣宛にDQN政宗からの、見様によっては
とんでもない文面の手紙である。しかも直筆!
単純に「分かんないから教えてクレクレ!」なのか「お前、どんだけ武器弾薬貯め込んでんの?
ニヤニヤw」と、邪推しそうになる文

恩讐を乗り越え「かつての敵とも、腹を割って何でも話せるようになった」義宣と政宗の
「俺達マジ親友!」の、仲のいい話…なのか
「…政宗め。こんな文が幕府に露見したらヤバイだろ!油断のならない奴め!」と、
宛名を失わせた義宣の手筈の良い?話でした




329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/07(水) 18:46:49.33 ID:MXd1EikK
>>324
受け取った佐竹義宣のイヤそうな顔が目に浮かぶ
ろくな事は企んでないだろうと思わせる手紙だw

佐竹義宣が八郎潟で猟をした後

2012年03月18日 23:39

336 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/03/18(日) 02:56:39.11 ID:24AxVwLe
佐竹義宣が八郎潟で猟をした後、義宣が撃った弾が白鳥に命中したものの、死なずに
泳いで逃げたうえ、後を追っていた家臣も白鳥を取り逃がしてしまった。これに苛立った義宣は

「白鳥を取り逃がすとは使えん奴だ!儂が撃ち殺してやる!」

と、この時同行していた家臣の宇都宮帯刀に銃に弾を込めるように命令した。
しかし、帯刀は銃に紙の弾を込めた為に発砲しても家臣は死なず、義宣は益々怒ってもう一度弾を込めるように指示。
すると帯刀は

「銃は平時に人を撃つものではございませんぞ。」

と諫言した。この言葉に我に返った義宣は、家臣を許し、帯刀を

「猟に出て家臣を一人得たのはお前の功績だ」

と称えたという。




337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 03:00:03.41 ID:HcujyE4w
白鳥の後を追っていた家臣っていうのも
実は捕まえる気が無かったんじゃね?

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 03:02:45.97 ID:GnNxOBxs
干潟とはいえ泳いで逃げたから追った家臣は船でもねぇと追いつかないだろうしな

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 07:01:34.27 ID:mqjLXVLP
鶴のお吸い物って聞くけど
白鳥って食べてたのかな?

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 08:14:55.09 ID:OVCW5fx9
>>336
いい話か?…w

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 09:29:54.04 ID:uyfew7X6
>>339
秀吉が博多の茶会で食べてるらしいよ
あと会津辺りにも記録があるらしい
そんなに珍しいことでもなかったみたい?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 20:54:32.89 ID:Yh2hzR8m
>>339
塩漬けにして、主に贈答品に使われたらしい
「しろとり」と呼ばれていたようだ

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 22:29:52.20 ID:mzZLnm0k
鮭様が仮病をはじめたようです

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/18(日) 22:52:28.03 ID:BGiYtDlP
>>347
まむし「なんと!」
爆弾正「これは縁起の良い」
八丈島「早速父上に献上せねば」