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沼尻の戦いのこと

2019年10月24日 17:12

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/24(木) 11:51:54.69 ID:XxIWfP8w
下野国、都賀郡壬生、鹿沼の両城主である壬生上総介義雄は、下総守綱房の息子で、初め彦五郎氏勝と
言い、宇都宮の幕下もあった。

ところがその上総介義雄が、近年勢い盛んとなった宇都宮の芳賀一族を憎むあまり、宇都宮の幕下を
離れて小田原北条氏の元へと走った。北条氏は大いに喜び、金山、館林、桐生、小股、壬生、鹿沼、
佐野、足利、栃木に至るまで悉く小田原の指揮下に入るということであれば、兼ねて懸念していた
皆川を落とす好機であると、天正十三年四月下旬、鉢形、岩槻、八王子、江戸、葛西および北武蔵の
軍勢を率いて野州表へと出陣し、都賀郡藤岡に陣を張った。

皆川山城守広照も諜者を放ってこれを察し、佐竹常陸介義重、多賀谷修理太夫重経に後詰を頼み、
七千余騎にて同郡大田原に陣を敷いて待ち受け、対陣と成った。
小田原方についた壬生上総介も、栃木の近藤出羽守勢を併せて栃木表へと押し出したが、皆川山城守は
これを追い払わんと自ら兵を率いて一戦し、難なくこれを追い払った。しかしその後、ここも
持久戦と成った。

(中略)

かくて対陣は百日に及び、敵も味方も長陣に退屈して、終に双方より和睦の話が起こり、小田原よりは
北条陸奥守氏照。佐竹よりは東中無少輔政義が出て話し合い、七月二十九日、勝負無しとして
互いに陣を引き払った。

その後、皆川山城守も何となく北条の幕下に成ったということである。

(関八州古戦録)

決戦のないまま双方引き上げという内容でありながら、結果的に北関東における北条の優位を導いたとされる
沼尻の戦いについてのお話。



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大関高増の逆心

2019年10月11日 16:11

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 13:55:59.33 ID:ODWSD4PY
下野国那須家には、党七騎(那須七党)と称する旗本が有った。いわゆる大関、大田原、芦野、福原、
千本、医王野、岡本である。中でも大関右衛門佐高増は智謀に優れ、七党の中でも抜きん出て、那須家の
柱石とも成っていた。しかし先年の小田倉原の合戦に先陣を切って手柄を立てて以来、党の他の輩からの
高増に対する妬みが増し、一方の福原弾正左衛門資経(那須資郡那須資胤の弟)の功のみを吹聴するので、
高増はそれが面白くなく、病と称して出仕しなくなった。

那須資胤はこれを怒り、また出る杭は打つに限ると思ったのか、大関の家人・松本美作守を呼び、
密かに高増を殺すように命じた。松本はやむなく了承して黒羽城へ戻ったが、その一部始終を高増へ語り、
御屋形様の命であり、これを断っては即座に誅せられると思い引き受けた、と言った。

大関高増はこれを聞くと
「罪なくして亡ぼされるのは無念である。そもそも殺す理由が不確かででたらめである。」
そう憤り、逆心を起こした。
彼はすぐに常州の佐竹義重に援軍を頼み、鳥山の那須資胤を攻撃することにした。この時佐竹と、
那須資胤を殺し、その二男である三郎義宗を迎えて那須家を継がせる内約を取っていた。

以後、黒羽の城に立て籠もって三年間、すなわち永禄六年の三月下旬より永禄九年夏まで、鳥山と
何度も繰り返し戦った。

(関八州古戦録)

大関高増の逆心について



506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 23:41:31.19 ID:TJDlXupl
黒羽城の芭蕉の館(奥の細道の際に芭蕉が黒羽に逗留したためこの名前)
の黒羽藩や大関氏一族の展示を見たら
外様にも関わらず江戸時代を通じて黒羽藩をずっと大関氏が支配していたからか
大関高増についてもここで言われてるほど黒くない印象だった。

展示されていた高増の伝記
・高増は大関弥五郎増次の養子であるが実は大田原資清の嫡男であった。
増次が戦死し、ほかに子供がいなかったため増次の父親の宗増は資清と和議して高増を大関氏の後継とした。
大関高増は資清が死んだ後は那須氏の重臣として政治的・軍事的に活躍した。
・>>503同様、活躍を妬んだ那須資胤により殺されそうになったため佐竹と組んで対抗。数年後資胤と和睦。
・和睦後、高増は未庵と号し、高僧・大蟲宗岑と問答。
自分自身を運命に翻弄されそうな存在とし、人生のあり方の悩みを宗岑に吐露したところ
「大切なのは過去ではなく今現在である」と諭される。
・主君の那須資晴に千本資俊・資政親子の討伐を命じられる。
高増は、資政に嫁がせていた娘を離縁されていたため、これ幸いと千本氏を殺害。
・小田原合戦の際、主君那須資晴に秀吉の元に参陣するよう説くが聞き入れられず、息子の晴増とともに秀吉のもとに出仕し、大関氏の所領安堵。

合戦も仕掛けず、人質も出さず、

2019年01月13日 17:40

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 15:43:00.78 ID:Zdhm48/O
石田三成らの挙兵により、徳川家康が宇都宮から江戸へと出立する際、佐竹義宣や秋田城介(秋田実季)
らは、石田三成に一味していると考えられていた爲、『上方と一味に候哉、そうではなく今回
我々に同心するというのであれば人質を出し、我らへの一味の験を顕すように。』と、花房助兵衛、
島田次兵衛の両人を使いとして佐竹へ仰せに成った。

これについて義宣は父親の義重に「これはどうするべきか」と相談した。義重はこう言った

「私は隠居であり、万事はお前の心次第にすべきである。しかしながら上方に既に妻子を人質として
置いているからといって、彼等を不憫に思い、心では家康に一味したいと思いながら、人質故に
上方に一味するような事は有ってはならない。戦国の頃は、人質を棄て義兵を起こす事が武家の習いであった。

もし又、とにかく上方に一味したいと考えているのであれば、上杉景勝、秋田実季と申し合わせ、
早々に軍を起こし家康を食い止めるべきだ。」

しかし義宣はこの言葉を用いず、合戦も仕掛けず、人質も出さず、徒に時を過ごした。

(武功雑記)



630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 19:33:32.84 ID:/HqfRDEu
>>626
後世の人間の感覚だと、関ケ原の頃はまだ戦国自体だけど、当時はもう戦国の世は終わったって意識だったんだな

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/13(日) 19:48:06.46 ID:mKSNkryl
太閤殿下のおかげやで

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 03:05:53.78 ID:MKG9TZe7
>>631
惣無事令の有無はさておき、小田原→奥州仕置で天下統一、各大名が実力で領土をぶんどるのはもうありえず、戦国は終わったという認識になるでそ。

ただまあ、戦国的な気風は綱吉が将軍になるまで続くわけだけど。

638 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/14(月) 09:53:34.15 ID:xO1Bprze
>>636
>ただまあ、戦国的な気風は綱吉が将軍になるまで続く

(改易しまくる)幕府が悪いよ幕府が~

ムダに浪人増やす事になったのもなぁ

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/14(月) 09:58:48.12 ID:IEDTryi4
改易しないと舐められるしなあ

640 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/14(月) 12:21:36.97 ID:2qBLxhgW
>>630
おれは60歳だが、

15歳で関ヶ原に従軍してから、

37年間、弓鉄砲を使う場面は1度もなかった。

夜々互いに往来し、昼は終日の合戦

2017年12月27日 22:36

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/26(火) 20:42:38.22 ID:0CHlz54H
佐竹義重蘆名盛隆との対陣の折、盛隆の弓矢を取っての器量のゆゆしさに、陣中にて
ひと目逢いたいと艶書を投じた。

実は盛隆も同じように思っており、彼は佐竹の陣中に、夜更け人静まってから参会に及んだ。

それからは、夜々互いに往来し、昼は終日の合戦をした。
しかしこの事は隠し通すことは出来ず、それぞれの老臣たちが互いに和議を入れ、無事となった。

(武野燭談)



合戦において容赦の道は

2015年09月01日 16:19

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 00:10:18.75 ID:z/7p6W1K
天正3年、佐竹義重が白河結城義親の領地である陸奥国白河郡棚倉を攻め取ると、
翌4年4月27日、白河勢は小峰城にて逆襲の軍議を開き、棚倉を夜討ちすると決議した。
そして此の作戦が功を奏し、棚倉の佐竹勢は壊乱、主将の渋江内膳は逃亡した。

さて、白河勢が棚倉城内に突入し、佐竹勢を生け捕ること無く一人残らず討ち取っている中、
白河勢の斑目織部少輔、斑目能登守兄弟は、渋江内膳が置き残した2歳の女児を発見した。
兄弟はこれを見て思った

「侍の身として、この2,3歳の女児を敵だからといって、刺し殺さなければ
勝つべき戦が負ける、などということもあるまい。此のような少女を殺すのはあまりに情けない
振る舞いではないか。」

そういって、小貫五郎左衛門という者に兄弟は口上を言い含め、女児とともに渋江方へと送った。

斑目兄弟の使者は常陸太田に着くと渋江の館に入り、斑目の書礼、並びに2歳の女児を渡した。
渋江内膳はこれに大いに感動した

「さてさて、斑目兄弟は聞きしに勝る勇士である。これを送って来られたこと、その志忘れがたい。
この事は我らの大将に申し上げその上で返答を申す!」

そう言って佐竹義重に申し上げると、義重も
「敵ではあるが心優しい者である。直ちに返礼を遣わさねばならない。」と、書礼を認め渡した。
渋江は急ぎ館に帰るとかの使者にこれを渡した。

その後、天正4年7月3日、佐竹義重は再び大軍を発し白河へと攻め入った。
この陣には農民を集め、全員に手に鎌をもたせ
「青田を刈り取るのだ!白河の慶民を困窮に及ばせ、その飢饉の惨状に乗じて以後の戦いの利を得るべし!」
この青田刈りの奉行には、渋江内膳が任命された。

渋江は様々に思案した
「この4月、棚倉が夜討された時、私の2歳の娘を返した、東館の住人、斑目の志忘れがたい。
今度の合戦、彼の領地の青田は刈ることから除こう。」

そう思いたち、斑目のもとに使者を立てた
「あなたの領地の青田には、何でも良いので目印を立ててほしい。そうすればその場所は
刈ることはありません。」

斑目はこれを聞くと言った
「勇士たるもの、合戦において容赦の道はない!我ら斑目兄弟は不肖ではあるが、佐竹を頼るのは
道に非ず!2歳の女児を返したその縁で、今度の合戦に容赦を得るなど何たることか!
ただ運を天に任せるだけだ。返礼にも及ばぬ!」
そう激怒し、寄せてくる敵を待ち受けた。

佐竹勢は小野崎、大縄を先手として棚倉に攻め入った。大軍であったため白河勢の要害も
歯牙にも懸けず攻め入ったため、白河勢は防ぐ手段無く釜子まで侵入された。
渋江、刎石勢が青田を刈って通って行くのは情けない限りであった。
しかし彼らは、斑目兄弟の領地だけは、青田を刈らず通り過ぎた。
そして佐竹勢は常州へと引き上げた。

(白河関物譚)

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 17:03:46.91 ID:z/7p6W1K
>>640の続き

その後、佐竹の大軍が釜の子まで攻め入ったが、白河方は棚倉の保住大学を始めとして所々で防ぎ戦った。
しかし敵は大軍、味方は少勢であり完全に不利であり、さらに青田が刈り取られたことで大規模な飢饉も
起ころうとしていた。

所がそんな中、斑目の領分だけは青田が不思議と残されているとの注進が入った。
結城義親はこれを聞くと、「斑目兄弟は佐竹との境を守る者だが、定めて心変わりをしたのだろう。
かの兄弟を呼び寄せて討って捨てるべし!」そう考えて斑目兄弟を小峰城に呼び寄せた。

小峰城では、石井弥源太、箭内内蔵之介という、身分は軽いが心剛にして日頃より度々手柄を表した者達に
30人ほど兵を付けて待ち構えていた。

義親からの内輪の話だからと、斑目兄弟は密かに座敷に入れられた。と、ここで遣いの者が戸の側で
飛びかかった。斑目兄弟は「何事か!?」と刀を抜いて走り回ったが、そこに大勢が喚きながら掛かり
ついに両人は殺された。

こうして斑目兄弟が結城義親によって滅ぼされたため、棚倉に居住する者達は佐竹に追い詰められ、
度々戦い知略をめぐらしたものの、ついに棚倉、赤館まで佐竹の手に入った。

(白河関物譚)



648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 17:37:16.93 ID:eyPy9V51
>>640>>647
これっていい話なの?なんか渋江の内部分裂作戦がうまくいった風にも受け取れるけど?

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 18:40:48.10 ID:UiaD4USc
たぶん斑目兄弟の遺児が加賀藩に召し抱えられて、その子孫が猫侍になるなんて後日談があるんじゃ…

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/01(火) 23:48:35.17 ID:/1TGz7gC
白河の斑目さんも弱い物は殺せないんやねw

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/02(水) 09:45:32.99 ID:EayWawI5
>>648
良かれと思ってやった事がひどい結末になりましたってことでしかないのでは
いい話といえるかどうかは疑問だが

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/02(水) 09:54:49.73 ID:Ic3r2CMl
青田刈りを免れた時点で裏切りを考えないからこうなる

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/02(水) 11:25:48.00 ID:iTV8Jiyu
青田をば
刈られず己の
首刈られ

~斑目織部、心の俳句

佐竹傘下の鮭騒動

2014年08月22日 13:47

991 名前:sc→net未反映分のコピー[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 08:30:20.62 ID:k/wP8bZN
佐竹傘下の鮭騒動

久慈川には鮭が遡上し、石神領と額田領で秋月の半々を折半し、漁をする決まりが約定されていた
しかし天正4(1576)年の額田領ではほとんど鮭が獲れず、これをおかしいと感じた額田の民らが川を調べたところ、石上領側が川底に網を仕掛け、約定を無視し、鮭を獲りまくっていたことがわかった
額田領主・額田照通は石神領主・石神通長に文句を付けたが石神通長はのうのうと無視
さらに石神通長は「言い掛かりで武士の体面を汚された」と、額田氏にいやがらせを続けた

ある日額田照通佐竹義重を饗応する際に、家の子二人に久慈湊に鮮魚を買出しに行かせたが、この二人が使いの帰りに石神領を通る際にいざこざに巻き込まれ、斬首にされた
額田城では、使いに出した者が帰って来ず、料理の準備が間に合わず、来訪していた佐竹義重を大いに怒らせてしまった

堪忍袋の緒が切れた額田照通は石神城を攻撃

燃え盛る城の中で石神通長は自害して果てた

『石神後鑑記』




994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 09:07:24.21 ID:Ty8ilLKV
>>991
常陸でも鮭とれたんだ。江戸にも遡上してたんだっけ。

996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 09:39:48.11 ID:+ShZ5FQX
>>994
下総でも獲れる
九十九里からだったか香取海からだったかは忘れたが上がってきていたようだ
小さい頃に父親の田舎の秋祭りで炭のようになった鮭を風邪予防だといって食わされたのを覚えてる

997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 10:13:59.39 ID:/2QViTit
ハタハタといっしょに秋田に遡上の経路が変わってたりして

999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/22(金) 13:14:01.35 ID:Ty8ilLKV
>>996
ってことはあの辺までは鮭がとれたのか。秀元はどこで手に入れたんだろうか。

越甲相(ついでに佐も)の外交戦

2013年12月20日 18:55

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 22:07:55.23 ID:7QhCaGbC
ついでにつまらない小話をひとつ。越甲相(ついでに佐も)の外交戦。

1580年三月、北条と交戦状態になった武田勝頼織田信長との和与の道を探していた。
運良く佐竹義重が信長との和議を媒介すると言ってきたので、それに乗っかることにした。
複雑な経緯を経て武田の人質状態となっていた信長五男の信房をも織田に返還した。
ところがこの経緯を上杉景勝に知られ「織田との一和は我等と一統の上と決めたはずだ」
と怒られてしまった。「いや義重が頻りに取り持つと言ってきたもんだから」勝頼は弁解した。
「上杉も織田に使者を送ってると聞くが我等はそんな雑説は信用してない。
誓書も交わしたし今後も入魂で行こう」と牽制したりもした<跡部勝資書状写/歴代古案>。
と言いつつ勝頼は翌月も織田と交渉していたようだ<柴田勝頼書状写/信長文書の研究補遺208>。
勝家は「従甲州御詫言之使者<中略>無御許容候」と記す。佐竹義重の面目も丸つぶれという話。

さて同じ頃、北条氏政は関東八州を織田の「御分国に参る」として、
織田に対して従属の意思を表明していた<信長公記巻十三>。
信長はこれに上機嫌だったようで、氏政の使者を労い、京都見物や琵琶湖で舟遊をさせた。
氏政が何処まで本気だったのかは知らない。
或いは北条は、織田に対して徳川同然の立場をと考えていたのかもしれない。<おわり>





天庵様が天羽鉄斎の諫言を聞かなかった話の詳しい内容

2013年09月17日 20:44

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/17(火) 05:40:12.00 ID:pwMBEeys
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3198.html
これの、天庵様が天羽鉄斎の諫言を聞かなかった話の詳しい内容

常州の小田天庵親子(氏治、守治)は、先年居城小田城を太田三楽斎に乗っ取られた後、
家臣・赤松疑渕斎(則実)の守っていた手子丸に移り、何とか小田城を取り返そうと策をめぐらしたが、
兵数に劣りなかなか思いを果たせないまま、虚しく時を過ごしていた。

そうであったが小田家には、四天王と呼ばれた土浦の菅谷左衛門大夫、海老ヶ島の平塚石見守、
木田余の赤松疑渕斎、藤沢の飯塚美濃守を始めとして、他にも天羽源鉄斎江戸山城守、大藤小太郎、
尾上、只越、月岡といった、世に知られた勇将、知将が有り、かつては周囲を囲む反北条派の
佐竹義重、多賀谷、真壁、梶原なども、これを攻め落とすことができなかったのである。

ところがこの年、小田家の知将と名高い天羽源鉄斎が明日をも知れぬ様態となり、天庵親子が駆けつけた。
天羽源鉄斎は老衰していても頭ははっきりとしており、天庵親子に寝たまま手を合わせて
見舞いの礼を述べ、そして苦しい息の下から氏治に言った

「我が小田家は、多年多賀谷、佐竹と矛を交え争い、片時として安堵の思いをしたことはありませんでした。
それは全て、こちらが小国であり、相手が大国であったためです。
ただ策を以って、これまで支えてまいりました。

御屋形様、私が死んでも策は同じです。決して城を出て、平地で戦ってはなりません。
必ず、城にこもって闘いぬくのです。籠っている内に、後詰めとして土浦、藤沢、海老ヶ島などの諸城より
援軍が来て、これを追い払うことが出来るのです。」

氏治はこれに
「よくわかっておる。源鉄斎老人の采配の通り、これからもその戦術を以って望むつもりだ。」

「およそ険に寄りて守れば、一人で20人の敵を防ぐことが出来ます。一人が一人と戦っては、
佐竹の多勢にどうして抵抗することが出来るでしょうか?
返す返すも、敵の誘いに乗って野戦をなさってはなりません。どんな事があっても、籠城して防戦一途の
戦いこそが御寛容ですぞ!」

天羽源鉄斎は繰り返しそう言って死んだ。
源鉄斎は誠に軍配知略の老武者で、小田家にとっては高き山、深き海とも頼む支えであり、それが朝の露と
消えた今、小田家中では誰一人として肩を落とさぬ者はいなかった。

ところが、この源鉄斎の死は瞬く間に近隣に聞こえ、中でも佐竹義重は「時ぞ来たれり」と、源鉄斎の
死の直後、9月下旬には早速三千余騎にて手子丸へと押し向かった・
小田氏治はこれを聞くや、なんと、直ちに兵を出して途中で迎え撃とうと人数を集めたのである。
重臣の江戸山城守は直ちにこれを諌めた。しかし氏治は怒り

「何故止めるのか?佐竹の手の内はかねて知るところだ。恐るるに足らず!」
「しかし敵は多勢、味方は無勢です。それを要害もない平地で迎え撃つのは、源鉄斎殿が遺言したように
危険です。」

「お前もまた源鉄斎か!その言葉、耳にたこができるほど聞いた。
源鉄斎が死んだ後だからこそあえて出て戦うのだ!
籠城をしていては負けることはなくても、いつまでも勝つことは出来ない!
まして、小田城を奪った太田三楽斎の一族も、佐竹軍の中にあるときく。今こそ運を天に任せて一戦せん!」

「しかし、みすみす敗れる戦いを」

「弓馬の家に生まれたものが何をいう!?負けるも勝も時の運である。敗れてもそれは恥辱ではない!
不満ならお前一人籠って城を守れ。私は城を出て敵を迎え撃つ!」

そう言って氏治は一千騎で城を出て、手子丸山を後ろに三ツ州浜形の紋所の旗印を立て、堅陣を敷いて待ち構えた。
(関八州古戦録)

結果↓
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3828.html





331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/17(火) 08:09:34.98 ID:qzNqXkT7
すごいなもうほとんど落語だなw

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/17(火) 09:05:20.85 ID:CVlsAicP
天庵様は勝ち負けなんて既存の価値観には囚われていないのだろうw

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/17(火) 10:27:01.67 ID:Ms3Rn8aK
だから智将の遺言無視は死亡フラグだとあれほど…

334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/17(火) 10:33:36.39 ID:Hju/o4aU
残機数=菅谷さんの残息子数

この分だけ天庵さんはコンティニュー可能です

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/17(火) 16:40:15.75 ID:UV3pihuF
天庵様の馬耳東風スキルは上限値です
これ以上は上げられません

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/17(火) 17:23:36.36 ID:ZsSfSWx2
私が出陣したと聞けば城を出てまいりましょう

とか三楽に見透かされてる可能性すらあるからなぁ・・・

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/17(火) 19:23:58.87 ID:rvEnV6IU
別の織田さんが寡兵で大勝したウワサを聞いていたのだろう

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/17(火) 19:26:55.98 ID:lvu9nkbE
ゆるふわおつむの愛され系大名 小田天庵

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/17(火) 22:23:06.22 ID:sIuN1FPa
天庵様には台風一過なみの清々しさがあるな

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/17(火) 22:34:09.07 ID:Ml3ywiVR
後始末する人間の身にもなってみろ的な意味でだな

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/18(水) 01:05:57.59 ID:zmdLB0WI
人が死んでんねんで!

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/18(水) 17:30:50.19 ID:ncvSfgl5
死んだ者たちの想いを背負い次こそは勝てるはずとの力強いコメント頂きましたー

343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/18(水) 18:05:57.33 ID:HaeJ4URT
もうやめて!
菅谷さんの息子の残りは0よ!

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/18(水) 18:16:33.22 ID:khhtk1VM
従兄弟とか居るだろ、大丈夫、大丈夫

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/18(水) 19:25:37.66 ID:Ot7COYJP
安心、納得の天庵様クオリティ


伊達政宗の弁明

2013年03月18日 20:00

930 名前:1/2[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 00:07:17.45 ID:dElQWAOG
天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原征伐。
ここに奥州より伊達政宗がついに参陣し、秀吉に対し臣従の礼をとった。

しかしそのことだけで政宗のこれまでの不穏な動きが見逃されるわけではない。
政宗の身柄はしばらく底蔵という山中の宿舎に置かれ、そのまま沙汰もなく、伊達家中の者達は
何か不測の事態が起こるのではないかと薄氷を踏む思いで居た所、秀吉から
浅野弾正少弼(長政)、宮部善祥坊(継潤)、施薬院(全宗)が派遣され、政宗に対し尋問を行った。

「そもそも会津の地は、先の三浦介(蘆名)盛隆が、亡君信長公に臣従して以来、常に金上遠江を
代官として上洛させ、完全に君臣の礼を取っていたのだ。であるのに汝は雅意に任せてそれを押領し、
誠に傍若無人の振る舞い、言語道断である!
汝が自身の非を明白に弁明できないのなら、速やかに厳罰を申し付ける!」

これに政宗、畏まって
「去年私が(摺上原の戦いにより)会津を押領つかまつった事、偏に私の暴虐なる振る舞いと
お考えになっているのでしょう。しかし、その事の仔細を申し上げます。

過去からの経緯を申し上げます。
私の郎党に大内備前と申すものが居たのですが、私に対して野心を含み、会津の蘆名に属したのです。
これを私は強く無念に思い、即座に誅せんと考えましたが、蘆名義広は思いもよらぬことに
かの大内備前に合力し、あまつさえ佐竹義重、磐城常隆らまで、義広に一味して、事態は私にとって
大変困難なものとなりましたが、幸運にもかの大内備前を退治する事が出来ました。

そして二本松についてですが、かつて、私の父親である輝宗は二本松の畠山義継に不慮の参会で討たれました。
二本松の者共はその父の仇の末であります。ですので打ち続いて二本松を攻めようとしましたが、
ここでも蘆名義広の企てで、佐竹義重、磐城常隆、相馬義胤らまで一同に二本松に集結し、私一人を敵にして、
度々合戦を仕掛けてきたのです!ですが、不思議に一戦の利を得て、結果的に会津を横領する形になって
しまったのです。

そうでありますが奥州では、大崎義隆、磐城、相馬の者共を始めとして、出羽には最上義光、常陸には佐竹義重
等に至るまで、皆私一人を敵にし、隙を伺っていたため、昼夜を問わず彼らへの対応に追われ、京都に対し
臣従することも、今まで引き延ばしになってしまったのです。」

これを、3人の使者はそのまま秀吉に伝えた。すると秀吉から重ねての諮問があった。秀吉の疑問は唯一つ

931 名前:2/2[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 00:08:43.26 ID:dElQWAOG
『政宗に敵対しているのは全て政宗の肉親親戚の者達だ。
政宗は肉親親戚全てに見捨てられ、隣国に一人も心を合わせたものがいない。
これは甚だしく不審なことである。』

実にご尤もな疑念である。政宗はこれに

「ご疑念、承りました。先ず、最上義光は、勿論これは我が叔父であり、特に所領も隣接しているのですが、
私がその国境に置いた鮎貝藤太郎という者をそそのかし、私に対して野心を持つように仕向け、彼の者はついに
義光の元に亡命しました。私はその頃若年で、しかも父を亡くしたばかりで何の支えもない身であったのに、
よりによって叔父である義光がこのような振る舞いをしたこを、激しく情けなく思い、敵同士になったのです。

次に相馬ですが、父輝宗存命の頃は度々争っていましたが、私の代になって和睦いたしました。ところが
私の舅、田村清顕と申す者が亡くなると、私の郎党・石川弾正という者が相馬義胤にそそのかされ、
私に対して野心を企てたため、軍勢を出してこれを退治せんとした所、義胤は彼の者に合力し、後詰を
してきたため、短期間での討伐が不可能となリました。そのため私が、所領の中にある大森城に暫く
引き退いたところ、義胤はよりにもよって田村清顕の郎党たちと語らい、田村領を奪う企てを起こしました。
しかしそれは、田村清顕に忠節であった者達が私に味方したため、陰謀はならず義胤も相馬に引退きました。
これにより石川弾正も力を失って相馬領に亡命しました。
すなわち、相馬義胤こそがこの政宗に対して敵対したのであって、私が相馬に対し敵対したわけでは
ありません!

それから大崎義隆と合戦に及んだのは、累年、国境線についての論争が有り、それが徐々に双方の確執と
なったからなのです。

このような事は皆、政宗の不幸であります!
この面々の悪巧みにより、今のようなご不審の中にある以上、私の真心を伝えるのが大変難しい状況です!
私は何を否定し、何を肯定すれば良いのでしょうか!?」

そして使者に向かい
「仰ぎ願わくば、真実をその言外から受け取り、嫌疑を目前に決せられ、この政宗の悲嘆の眉を
開いていただくのは、偏にあなた方の聡明さに任せるより他ないのです!」

使者たちは再び秀吉にありのままに伝えたが、秀吉はこれを聞いて重ねての諮問は無く、
ただ押領した会津・仙道領は残らず没収され、本領だけは安堵ということになった。
政宗は不思議にも大難を免れたのである。
(会津四家合考)

以上、伊達政宗、弁明についての話である。




932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 00:11:56.31 ID:WrevTh1S
     俺たちは皆親戚だー´
 ∩∩                                             V∩
 (7ヌ)     っ                                        (/ /
 / /     っ            .∧_∧                         | |
/ /  ∧_∧     .∧_∧  _( ´A`  )  ∧_∧    ∧_∧    ∧_∧ / /
\\( ´Д`;)―--( ´∀` ) ̄       ⌒ヽ( ´∀` )―--( ´∀` )   ( ´∀`)./
  `。:、       /⌒   ⌒ ̄ヽ 蘆名  /~⌒      /     ⌒丶/    /
   |岩城  | ー、 相馬  / ̄|    //`i  伊達  /ー、 最上 /ヽ /.\\ /
.   .|      |  . |      /  (ミ   ミ) |     l Λ_Λ   // / 留守 \\
   |    | |     | / Λ_Λ\ |  __  _( ´∀` )  ミ)//      l(_)
   |    |  )    / __( ´∀` ) \ | ( .|/,     ⌒ヽ\/   /\ \ 
   /   ノ | /  ヽ ヽ、_      .⌒ _)/ ニ)ノ        /\ ).\ / \  \
'  |  |  | /   /|   / |  佐竹  |  | | ニ) |  田村 ヽ / ,/ / | 二階堂 ||  |

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 00:13:40.22 ID:YpyoLUsz
>ですが、不思議に一戦の利を得て、結果的に会津を横領する形になってしまったのです

言い訳が斜め上過ぎてお茶吹いたw

935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 00:25:12.20 ID:4ToNuic4
電車が急ブレーキで止まった際、
不思議に手が前に立っていた女子高生のパンツの中に入ってしまい、
結果的に痴漢した形になってしまったのです。
ほんと不思議に...

936 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 07:57:44.25 ID:5AfH8JXe
大難とは打首のことかな?
でも苦労して切り取った領地かなり没収されてるから大難だな

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 10:00:09.46 ID:uAzwk/RO
せっかく残った本領も翌年には巻き上げられるし

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 17:05:51.32 ID:OYbNrBs8
太閤殿下も亡君信長公の弔い合戦に利を得て、結果的に天下を差配する形になってしまわれた
いや実に不思議なことがあるものですなあニヤニヤ

まで読んだ

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 22:24:57.03 ID:4/hoyBeF
>幸運にもかの大内備前を退治する事が出来ました。
(今は私の家臣に納まってるんですけどね!)

流石は政宗公

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 22:32:55.97 ID:7aqBVfiX
政宗が幕末に仙台藩の藩主だったら迷わず
会津と米沢攻めて領土拡大狙っただろうに…

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/18(月) 23:50:32.42 ID:XwnGIj9m
政宗が大戦中に生きてたら満州あたりに行って部隊率いて暴れまわっただろうに

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 00:05:30.78 ID:p7+Npn/g
でも政宗は家臣への手紙では凄く細やかに気を使ってるんだよなあ
気を使って丁寧な言葉を選んでおかしな計画を語る

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 00:07:36.91 ID:hj2dJNea
政宗は教養があるから(嘆息

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 00:55:03.50 ID:agq1cYgD
>>946
なるほど
では順ちゃんは生まれ変わりだな

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 12:34:13.11 ID:MKu8LUIR
>>949
華族から馬賊へ華麗なる転身
間違いなく伊達の血のなせる業だよね

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 15:32:32.03 ID:1yCE392A
伊達順之助だけはガチ。
しかも直系子孫なんだよな。
家系的には華族の超ボンボンお坊ちゃんなんだけど、
人間の人生てどうなるかわかんないよな

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/19(火) 19:26:17.30 ID:pzjZLk/S
伊達順之助って、愛姫の子孫でもあるなら、漢の霊帝の子孫ってことに一応なるから
大陸では劉姓名乗って漢帝国でもつくればよかったのに

人取橋の戦い・その夜

2013年03月13日 19:55

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/12(火) 21:49:23.77 ID:+UJq/Rto
天正13年(1586)11月、伊達政宗と、佐竹・会津諸侯連合の戦った、いわゆる人取橋の戦いでの事である。

17日、伊達軍を一方的に打ち破り追い詰めた佐竹・会津諸侯連合軍は、日暮れにより追撃を止めたものの、
翌早朝より伊達本営へ押し寄せ、勝負を決するべしと決議し、その作戦も綿密に立てられた。

が、その夜も信じられない事が起きて、合戦を行うこともなく、全軍は未明から撤退を始め、皆本国へと帰還した。
それは、このような理由からであった。

今回の合戦に当たり、佐竹より小野崎義昌佐竹義重叔父)という者を大将として、大軍を派遣した。
ところでこの小野崎義昌という者は、常日頃より人に超えて馬を労る人物であったのだが、特に明日は
大事の敵に逢う馬であるからと、陣屋の前に下郎を呼んで、自ら立ち会って馬の足など洗わせていたのだが、
この時心に叶わぬことがあり、下郎の一人を、木沓を履いたまま蹴り倒した。

蹴り倒された者も、下郎ながら短気であり、蹴った足を引く前に、刀を抜きざま、義昌の心臓を刺し貫いた。

無残なことに義昌は二の息もなく死んだ。陣中は、これは何事かと大騒ぎになり、やがて事の仔細が
各陣営に伝えられると、会津諸侯の面々も

『これはどうするべきか。明日の合戦で伊達との勝負を決しようと強く決意していたが、それはそもそも、
佐竹勢を頼もしく思っていたためだ。
それなのに大将の義昌殿がこのような事になった以上、佐竹勢の雑兵達はこの夜のうちにも本国に向けて
帰っていくだろう。

そうなっては、残る我等が軍勢だけで雌雄を決する戦いが出来るとは思えない。
そもそもこんな事件が起こり気後れした軍勢で合戦を行なっては、とても我等に利があるとは考えられない。
ここは一先ず黒川に引き返し、体制を立て直すことこそ、後日の軍の利もあるというものだ。』

この様な結論にいたり、これを格陣営に知らせ合い、まだ夜中のうちから本国に向けて退却をしたのである。


一方伊達政宗の軍は、そのような事など夢にも思わず、本宮に置いてあった物見から
『一体どういうわけか、会津勢が合戦を仕掛けてくる様子はなく、それどころか徐々に撤退をしています!』
との急報が入り、一体い何が起こっているのかまるで解らず、追々物見を出して状況を確認すると、
やはり敵勢は、どういうわけか撤退しているというのが明らかとなり、そこで本宮まで移動した。

(会津四家合考)

伊達政宗が絶体絶命となった、人取橋の戦いについての逸話である。




905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/12(火) 23:29:20.33 ID:/s6mj3XF
言い訳つけて帰りたかったんだなー


先代‥先々代の恐ろしさ

2011年08月22日 23:00

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/22(月) 10:52:49.66 ID:u9qyDYfN
佐竹義宣の養子義隆は、徳川家康に「律儀に過ぎる」と言われた養父にならい、常に紋付袴をまとい、
人と話す時は家臣であっても必ず正座、朝起き、飯を食い、政務を執り、晩に奥で眠る時刻を
一日たりとも変えない、という暮らしぶりだった。

「いや~我らが殿の謹厳実直なることよ!御前で下手な真似をすればどうなるか、
恐ろしゅうて殿の前ではロクに物も言えぬわい。」
「まことに、まことに。」

小姓たちのグチを聞いていた老臣の一人が、おかしくなって彼らの会話に割り込んだ。

「殿が恐ろしいものかよ!先代の義宣様と比べれば、猫のようなものじゃ。わしらの若いころは、
義宣様の前で物言うどころか、あのお方の顔もまともに見たことが無いわい。

先々代の義重公はなお恐ろしく、戦に臨んで勇猛果断なること鬼神の如し。あれが常陸の鬼義重よ
と、家中どころか関東中の、敵も味方も恐怖したものじゃ。」(秋藩温故談)


佐竹家歴代の威厳を示すいい話…ではあるのだが、「へうげもの」で義宣の茶席に呼ばれた家臣が
ビビりまくったあげく漏らしてたの思い出した。




176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/22(月) 20:00:56.63 ID:14mtRMja
>>173
そういえば佐野天徳寺が「武田信玄や上杉検診の前に出たら恐ろしすぎて顔も上げられなかった。
それに対して秀吉様は自分たちにも気軽に声をかけて親しく接してくれる。だから秀吉様は
天下を取れたんだ」みたいなこと言ってたなあ。

佐野天徳寺の言うことの是非はともかく、戦国真っ最中の武将の言うのはとにかく怖かったようだ。

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/22(月) 20:28:35.57 ID:LeErMJHC
謙信には唐沢山城攻められて殺されそうになったし、
信玄には理不尽な理由で弟殺されたからだろ、
太閤殿下の方が恐ろしいはわ

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/22(月) 20:53:31.14 ID:bceoqKQC
殿下はニコニコ顔で恐ろしいこと言うから油断ならねぇw
でも親しみやすい雰囲気ではあったんだろうな

179 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 00:35:53.14 ID:5fiVScwc
太閤殿下はニコニコしながら誰とでもすぐに仲良くなって、そのまま笑顔で相手を刺し殺せるんだろうなぁ

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 00:49:28.90 ID:bgcvNuHW
勝新秀吉思い出しちゃう

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 01:36:45.85 ID:XfRyRlVv
秀吉は逸話一つ一つを抜き出して見ると、
「良くも悪くも個性的な人だったんだなあ」っていう感想を持つことが多いけど
全体を通して見ると腹の内が全然読めなくて怖い

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 01:37:39.28 ID:ARP0znoU
>>180
ありゃどう見ても信玄だわw

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 01:40:12.38 ID:HyUQH3XY
秀吉は信長の悪い部分を反面教師にして天下取ったからな
そして家康も秀吉の悪い部分を反面教師にして天下を治めたと

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 18:19:07.32 ID:bqosklXE
>>181
そうか?

186 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/23(火) 18:47:41.87 ID:LnNVAI9i
やっぱラスボスより家康のほうがいいと思うわ。
佐竹家と違ってめんどくさい人たちのおかげで忠言愚痴切腹騒ぎなんでもあり。
本人は短気だったみたいだけど家康に忠言して恨まれたとか左遷されたって話聞いたことがないわ。

187 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/23(火) 19:12:46.10 ID:YPkKUyu8
家康はその場で即断するというより、
根回しをしっかりやるタイプだからな。
だから太閤の指示をあっさり翻すなどの大きな腹黒さはあっても、
小さな所ではあまり言ったりしないね。

降参峰

2011年07月10日 23:32

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 01:03:56.49 ID:Jxnn7roW
降参峰


永禄9年(1566年)8月24日、佐竹義重大関高増の持ちかけた義重の弟義尚が那須家の家督を継ぐという策に乗り、
重臣佐竹義堅(東義堅)を大将として那須家討伐の兵を下野に派遣した。
佐竹軍は佐竹義堅の軍勢2000に加えて宇都宮家からの援兵1000、更に大関ら上那須衆300の総勢3300に対して、
大関の引き抜き工作などで伊王野・蘆野など有力な国衆にも離反された那須家は総動員を掛けても兵が集まらない。

佐竹勢は茂木城、千本城を順調に落とし、那須家の本拠である烏山城に迫る。
上那須衆も烏山城の事はよく知っているので彼らの情報で佐竹軍は的確に防御に穴のある烏山城の西側に布陣した。

一方で那須家はなんとか集めた兵で反撃の機会を伺っていた。もう烏山の目前まで兵が迫っている事もあり背水の陣である。
烏山のすぐ西の治武内山へと向かって南から佐竹勢、西から宇都宮勢、北から上那須衆が三隊に分かれて進軍していたが
那須勢はまず兵数の少ない上那須衆に標的を定め出馬した。
動きを察知された上那須衆は佐竹・宇都宮と急ぎ合流しようと南下し、那須軍出馬の報告を受けた佐竹義堅
宇都宮勢に上那須衆との合流を急がせたが
那須の動きは速く、上那須衆は合流前に高瀬の地で那須軍に捕捉されてしまう。

追いつかれてはやむなしと上那須衆も応戦したが、4倍の敵相手に何の策もなく勝つのは無理であった。
しばらくすると宇都宮勢もようやく追いついたが既に上那須勢は崩れており少々遅かった。今度は那須の軍勢が
宇都宮勢に襲いかかる。
宇都宮勢ももちろん反撃しようとしたが敗走してくる上那須の兵などが逃げこむとどうにも士気が上がらない上に
むしろ混乱が生じた。
結果として決死の那須の兵の攻撃を支えきれずついには宇都宮勢も敗走した。

場面は変わって治武内山を制圧した佐竹義堅はそこで高瀬の戦いで上那須衆・宇都宮が敗走した報告を受けるが、
それがまた混乱を呼んだ。
なんと「大関の家紋の軍勢が那須側に寝返って敗走する宇都宮を追撃し、今度はこちらに向かってきている」
というのである。
この報告、実は大関家が一枚岩では無く大関家を乗っ取った高増をよく思わない本来の大関の一門が
那須軍に参加していただけだったのであるがこれがまた佐竹軍の戦意を萎えさせた。

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 01:05:32.67 ID:Jxnn7roW

義堅も備えを固めて那須の軍勢を迎え撃ったが、ここを抜かれればもう後がない那須軍は反撃されても
突撃を繰り返した。
だんだんと日が落ちて暗くなるにつれて元々士気の高くなかった佐竹軍も那須軍の度重なる突撃に
不安に駆られ始める。
「敵の数は我が方の倍らしい」「宇都宮は既に敗れて撫で斬りにされた」など根も葉もない噂が飛び交い出すと
いよいよ統率がままならなくなってきた。

勝手に戦線を離脱する者なども出始める始末でこれでは戦にならない。
義堅は家臣の大窪秀光の「ここは一度退いて再起を図るべし」との進言を受け入れて撤退を始めた。・・・が
判断が遅かったらしい。
この頃には義堅も周りには馬廻や旗本など数百程度しか付いておらず、これを見た那須家臣千本資俊の
執拗な追撃を食らった。

そしてついに義堅は烏山城の南の千束台という場所で千本資俊に完全に包囲されてしまう。もう護衛は
20人程度しか居なかった。
資俊は和議を持ちかけ「ここで降服して軍をまとめて常陸に帰って頂けるなら命は取らない」と義堅に宣言する。
もう戦っても勝ち目は無い上に総大将が討たれた佐竹軍が追撃を喰らえば被害はより深刻なものとなる事は
明らかなので義堅も提案を受け入れて降伏する他はなかった。


以後、この地は『降参峰』という佐竹軍にとって不名誉な名で地元民に呼ばれるようになった。




949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 01:16:03.78 ID:tyyRP2Po
大関さんは裏切っても不思議では無い奴だと佐竹にも思われてたんだな。

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 03:42:38.29 ID:9Uno5LPh
随分綺麗に各個撃破が決まったな
那須家の強さもあるだろうけど

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 08:39:09.96 ID:C5saOIz6
追い詰められた時の那須家の強さは異常w

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/10(日) 21:09:44.16 ID:0TTBYdH+
迎撃側だといつも強いな

佐竹義重の秋田転封と伊達政宗

2011年07月08日 23:02

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 21:38:19.97 ID:A2xBlLDI
関が原の戦いの後、佐竹家は転封を命じられ、佐竹義重も奥州路を通り一路、新天地・秋田へ向かった。
途中、白河は滑津まで来たところで武装した集団に出会った。伊達政宗が、陣を構えていた。

「さては旧怨を報いんとてか、それとも別の魂胆あっての事か?誰ぞ政宗に談判して参れ!」
義重は家臣に伊達軍との交渉を命じたが、苛烈をもって知られる政宗と、背後に控える軍容を恐れて
誰も名乗り出ようとしない。

ついに、末席に控えた小姓の和田十二郎が、しばしためらった後に使者の役を買って出た。
ただ一騎、十二郎は思い切って伊達軍の中を駆け抜け、中央に位置する陣幕の中へ乗り入れた。
「狼藉者め、何奴じゃ!?」
床机に腰掛け、眼光鋭く睨みつける政宗を前に、十二郎は馬を飛び降り、平伏した。

「突然の無礼、失礼致しました。拙者、佐竹義重配下の者。ただ今、義重が秋田へ向かうに及び、
大勢で待ち受けるは、野伏り等が追剥ぎせんとの企みなり。追い散らせとの主命により、参った次第。あに図らんや、伊達殿のかかる振舞いは、義重を妨げ、通さずとの心にございますか?」

「いや、これは義重殿が途中にて不慮の事あれば、政宗これを保護せんとの心。いざ心安く通られよ。」

「武門たる家が、他家の保護を受けて秋田へ赴いたと言われては、末世までの恥辱になり申す。
ご好意の程は主にお伝え致しますゆえ、速やかにお引き取りあるべし。もし引かずば、義重もこの道を
動くまじ。さすれば、互いに遺恨が残りまする。」

政宗は十二郎を見据えて考え込んでいたが、やがて立ち上がった。「よし、引き上げじゃ!この政宗に異心なき事、お主の口から義重殿によーく伝えよ。それにしても、
お主は年若く見えるに、大事の使者を良く成し遂げた。名を聞いておこう。年はいくつじゃ?」

「拙者は、和田昭為が孫・十二郎。生年は十八!!」
「家老の和田安房が孫か!道理で・・・よし、これをやろう。」
十二郎の態度に感心した政宗は、褒美としてみずからの替鎧を与えた。

堂々たる大将の鎧をかつぎ、意気揚々と佐竹家の一団に戻った十二郎は、事の次第を義重に報告した。
「よくやった!しかしお前確か、年は十六じゃろ?なぜ十八歳などと偽ったのだ?」

「はっ、えー、いや、そのぅ、十六歳と言って、もし政宗に小僧扱いされたらシャクだと思い・・・」
破顔一笑した義重は、厚く十二郎を賞してやった。(秋藩温故談より)





517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:00:44.99 ID:Dh3NzgPM
結局政宗は何しにきたんだ?
佐竹との遊び収め?

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:05:51.67 ID:DTb+47mN
禍根ある相手が自領を通るんだから狼藉略奪を警戒しての行動なんじゃね?

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:07:55.34 ID:huLOkJw5
白河って伊達?

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:08:05.61 ID:K7A2lEAM
>>517
まあ史実かどうかはともかく、キャラクター的に言えば政宗のことだから、
半ば嫌がらせでそれに対し佐竹が怒ってなにか仕掛けてきたら、これ幸いと
自分の勢力拡大のために何らかの手をうとうとした、ってあたりかねw

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:16:43.84 ID:CUF0qj+e
さすがに具体的に何かしようってのはないだろう、どっちもそんな馬鹿じゃない。
地方に飛ばされていく旧敵を眺めてにやにやしたかっただけだろうな。

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 22:21:52.33 ID:QAJpI4rj
明らかに嫌がらせだな。
でも、ただの嫌がらせが、ちょっと対応間違えると血腥いことに。

523 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/08(金) 23:29:06.70 ID:Kc80vtsS
暇だなー正宗

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/08(金) 23:36:44.40 ID:05Kpxf63
政宗個人がやるのは構わんが、そんなことのために軍隊動かすのは何だかな

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 01:39:29.15 ID:AxlGhnwt
多少の流血沙汰は期待してたかもしれんね



526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 01:42:21.45 ID:Jykh43aO
国分盛重を引き渡せ、と迫ったりしてw
まぁ、居なくなってもらった方が政宗には都合が良いか。
これが叔母(義重室)への敬慕故の行動だったらロマンティックなんだけど。
実際はニヤニヤするために出張って来た、ってのが妥当かな。
義宣と従兄弟なんだから仲良くしろw

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 04:18:39.45 ID:56pNIyFm
佐竹をそのまま素通りさせるのはシャクだぜ、な空気が伊達家中にもあったけど
大仰に事を構えたように見せかけて実質的には東北らしい馴れ合いで済ませたぜ
なんて所じゃないかね

政宗時代の伊達家中ってノリも主君に毒されているような気がしてならん

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 07:51:01.09 ID:Py3a/zpv
ねぇねぇ、代々の領国から北の果てに飛ばされるけど
今どんな気持ち?
        ∩___∩                     ∩___∩
    ♪   | ノ ⌒  ⌒ヽハッ    __ _,, -ー ,,    ハッ   / ⌒  ⌒ 丶|
        /  ×   (●)  ハッ   (/   "つ`..,:  ハッ  ×   (●) 丶     今、どんな気持ち?
       |     ( _●_) ミ    :/       :::::i:.   ミ (_●_ )    |        ねぇ、どんな気持ち?
 ___ 彡     |∪| ミ    :i        ─::!,,    ミ、 |∪|    、彡____
 ヽ___       ヽノ、`\     ヽ.....:::::::::  ::::ij(_::●   / ヽノ     ___/
       /       /ヽ <   r "     .r ミノ~.    〉 /\    丶
      /      /    ̄   :|::|    ::::| :::i ゚。     ̄♪   \    丶
     /     /    ♪    :|::|    ::::| :::|:            \   丶
     (_ ⌒丶...        :` |    ::::| :::|_:           /⌒_)
      | /ヽ }.          :.,'    ::(  :::}            } ヘ /
        し  )).         ::i      `.-‐"             J´((
          ソ  トントン                             ソ  トントン

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/09(土) 09:26:08.40 ID:L8rv7rTO
>>528
政宗も、秀吉時代にやられてるじゃないか

534 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/07/09(土) 11:26:16.07 ID:pDQPVeAA
こういうヤツだから100万石もらえないんだろうな> 政宗w

那須家の分裂

2011年01月18日 00:00

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/16(日) 22:52:39 ID:SsqYAh33
那須家の分裂(1)

小田倉の戦い(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4685.html)は大関高増の活躍によって那須・佐竹の
勝利に終わったが、
那須家当主資胤の高増への拭い難い不審感を生んだ。
また、他の那須七党たち(一部除く)も高増を恨んで福原弾正左衛門資郡(資胤の弟)の戦功ばかりを言い立てたため、
高増は怒って出仕を止めてしまった。

これを好機と捉えた資胤は、高増の家人松本美作守を密かに呼び出し、高増を誅殺するよう命じた。
仕方なく了承した松本だが、黒羽城に帰ると当然高増に打ち明ける。
「罪もなく殺されるのは納得いかないだろ^^;」
と、高増は逆心し、佐竹義昭に助けを求めた。

義昭の次男義宗を那須家の当主として迎えるという約束のもと、佐竹家重臣東左近将監政義率いる
宇都宮・大関合わせて三千余騎が烏山西方二十余町に布陣、
それに対し那須側は資胤兄弟をはじめとする一千二百余騎で迎え撃った。
数に劣る那須家であったが、千本秋縄斎・蘆野意教斎・秋元越前守らの奮戦により宇都宮・大関勢を押し込め、
那須勢を大軍と見誤った政義は降伏して常陸へ逃げ帰った。
(義政が那須勢を大軍と見誤ったのは那須八幡大菩薩が那須家を守護するために霊験を現わしたのだと
人々は噂した)

その後那須勢は高増の籠る黒羽城に攻め寄せたが、高増の指揮のもと城兵が奮戦し、さらに高増の弟
大田原綱清が高増救援に駆け付けたため、那須勢は囲みを解いて撤退した。


那須家の分裂(2)

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/16(日) 22:55:07 ID:SsqYAh33
那須家の分裂(2)

先の戦いの翌年、大関側の要請によって佐竹義重の陣代長倉遠江守当は茂竹左馬介・川井甲斐守・助川周防守ら
常州兵を率いて烏山東方三十余町のところに出陣した。
佐竹勢は川を前に陣取っていたが、那須の者たちにとってはよく知る川、難無く渡り佐竹・大関の間に割って入った。
那須勢は重代の家臣から野伏・一揆衆まで命を捨てて動き回ったので佐竹勢は壊乱し逃げ出した。

この時大関勢は「地元だけど在所から遠いから地形がわからない。長倉殿は攻めの案内者なのだから
殿よろしく^^」といって先に引いてしまった。
これを見た資胤は
「大関の連中は元々那須家の家来、最後には降参してくる。そのまま逃がしてやれ。常州の連中は
一人も打ち漏らすな!」
と息もつがず攻め続けたので、佐竹勢の大半は討死、長倉も負傷して引いた。
大河井の流れは四・五日も血に染まり、紅の楯を並べたように見えたという。

那須家の内乱は永禄六年(1563年)より足掛け6ヵ年も続き、討死・負傷した者は数を知れない。
永禄十一年(1568年)、金剛寿院の住職尊瑜法印が仲介に入り、和議が成った。
資胤の嫡男資晴が使者として黒羽城に入り、高増もこれ以上主家に弓を引くわけにはいくまいと、
正式に和睦を結んだ。
ここに周辺勢力を巻き込んだ那須家の内乱は一応終結した。





424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/16(日) 23:15:49 ID:hXEvT0hD
烏山中心に守りに入った那須家のしぶとさは異常

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/16(日) 23:40:38 ID:JElKcTQC
政治的に失脚したと思ったら復活するのが大田原党

この後も何事も無く重臣

426 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 00:36:25 ID:qkQrjqxi
北関東の戦いはいつも相手の止めを刺さないで政治決着で終わるな

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 00:53:26 ID:gWIIiGjx
>>426
洞中社会というのはそういうものだからな。
逆に言えばそういう社会の中で近隣をガンガン潰し回った政宗がどれだけ
異常な存在だったかと言うこともw

428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 01:00:32 ID:c+m7gPcR
政宗はフナとかコイしかいない池に放たれたブラックバス

429 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 09:20:36 ID:UGRJdrcA
ドロリとした独特な味のドラマが生まれやすいので嫌いではないよ、洞の中の大名たちの逸話。

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 09:24:32 ID:DEOvGZBc
那須の当主は戦上手いの揃ってるしなぁ。
策謀上手いの揃ってる一族も抱えてるが…むしろ抱えられてるのか?

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 21:34:53 ID:+uZPg+Gn
千本や伊王野は思っただろうな

「あの時滅ぼしておけば良かった」と



関連
高増暗躍
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5377.html

上杉景勝、佐竹義重への書状・いい話

2008年10月16日 13:17

47 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/15(月) 18:24:08 ID:x1hhTK1R
有名だと思うが若き景勝が佐竹義重に送った手紙。

「こちらのことは心配いりません。
私は良い時代に生まれました。
もはや武田は滅び、私は越後一国で日本60余州と戦います。
もし生き残ることができれば古今無双の英雄となるでしょうし、
死んでも歴史に長く名を残すでしょう。
まこと武門の家に生まれた者として果報なことです」

国内では新発田が織田に通じて反乱、
信州からは森長可、関東からは滝川一益が越後に攻め入る動きを見せ
中立だった葦名は織田に恭順。
越中からは柴田・前田の大軍が押し寄せており
最早国内の守備で完全に手を回せなくなった越中魚津城の将兵には
「織田に降伏していい」と書状を送った、
どっからどう見ても120%積んでいる状態での手紙である。
結局本能寺の変が起こり織田軍は引き上げていったので
景勝の決死の覚悟は果たされることはなかった。

それから20年ほど後、今度は徳川相手に同じ事やって
再び目の前で敵に反転され決戦はやっぱり果たされなかった。

運命の女神に愛されてるような愛されてないような微妙な男の話。
来年の大河でやらなきゃ嘘だろう。




48 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/15(月) 20:11:57 ID:GlOxd3J7
景勝はいつもギリギリのところで生き残るな
あと無口キャラ

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/15(月) 20:58:46 ID:BjBqVykj
そういう人の家老が「人間死ぬ気でやれば案外なんとかなる」と
書き残すわけですね


50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/15(月) 21:25:11 ID:M1nJot/K
まあ、本当に何とかなって、生き残っちゃったからねえw

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/09/16(火) 15:31:01 ID:Mp0m1+mv
何とかなった人しか記録のこせないからな
万骨枯れてる万骨のほうはあの世で
「先人や先生が人間努力次第だし死ぬ気でやればどうにでもなるなんていってけど
あれ嘘ですよよね~」って談笑してるだろう

佐竹義重の書状と浜野正杞・いい話

2008年10月16日 10:53

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/16(土) 00:44:08 ID:JuFABJ3e
佐竹義重の配下に、浜野正杞と言う侍がいた。彼は天正12年(1583年)の沼尻の合戦で武功を上げ、
義重は政杞に、直々に戦功をたたえた書状を与えた。

時は過ぎて関ヶ原合戦のあと、佐竹家は出羽に国替えとなった。この頃政杞は既に老齢で、
「もうお供も出来ません」と、佐竹義宣から暇を取り、下総で帰農した。やがてこの地で死ぬが、
その時
「何かの役に立つ事もあるだろう」
と、義重だけは後に残した。しかし、彼には娘一人しかおらず、この娘は結局嫁に入り、
浜野の家名は断絶した。

その下総に、新たに水野忠光が領主として入ってきた。彼は、どこかからかこの義重の書状の話しを知り、
「鬼義重と呼ばれたほどの武将の筆、是非拝見したい」と、自ら娘の嫁ぎ先にまで出向き書状を見た。
これによりその書状は有名になり、佐竹義宣まで父親の文章を見るために、参勤交代の折わざわざ立ち寄った。

そうして、沼尻の合戦からおよそ100年後、元禄11年(1698年)の佐竹藩の家臣名簿に、浜野久兵衛という名前が現れる。
浜野家は、佐竹藩において再興されたのだ。

侍の命がけの武功とは、子々孫々にまで影響を与えるものだ、と言うお話。




683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/16(土) 05:51:20 ID:MbkgHhMr
( ;∀;)イイハナシダナー

684 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/08/16(土) 07:01:51 ID:ynOi68BW
(;∀;)いいスレだなぁ

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/16(土) 14:33:18 ID:ht+w5s3g
久兵衛は娘の子?

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/16(土) 16:31:41 ID:JuFABJ3e
>>685
娘の子の血筋

佐竹義重と小豆長光・いい話

2008年10月15日 14:18

63 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/11/02(金) 23:49:39 ID:Ypc2+khU
郡山城には人柱の代わりに百人一心の石碑が埋まっている。
伊達輝宗の遺徳を慕い殉死が相次いだ。その中には低い身分から異例の出世をした者もいた。

謙信が佐竹義重の武勇をみて「我が武略を真に継げる人物はあなただけです。
この長刀は老後に杖として使うつもりでしたがあなたに託そうと思う」と言って刀を贈った。
しばらくして手取川で織田軍5万を2万で破った謙信は死去した。義重はこの宝刀を大切に想い
武神の魂としていつも手入れを欠かさなかった。

義重もいつしか歳をとり息子の義宣に我が武略の魂として長刀を与えた。
少し経ってから義宣に会った義重は何やら見た事がある刀を見かけて不思議に思って聞いてみた。
「なんだその刀は見た事あるな?」

すると義宣はニコニコしながら答えた。「あぁこれは過ぐる日に父上からもらった長刀です。
なんか長すぎて柄に収まりづらくて使いづらいから短く切断しました♪だいぶ使い易くなりましたよ!」

それを聞いた義重は悲しい表情をして空を仰いで「あぁ我が武神も去ったか」と嘆息した。その後義宣は
常陸一国から転封され出羽秋田に飛ばされた。




64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/11/03(土) 12:13:20 ID:2G+Lmnvj
>>63
それがかの有名な「小豆長光」なんですか?
だとしたら哀しすぎる。・゜・(つД`)・゜・。

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/11/04(日) 01:33:49 ID:luPKBsQo
ニコニコしながらではそんなふうになるのも無理はないな。

66 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/11/04(日) 03:36:49 ID:RhVo/1S4
まあ、その頃の武者達も長い古刀を扱いやすいように短くしていたのは事実だが、
一国の大将が扱い易さを優先って・・・。

大将が刀持って戦う時点で負け戦な訳で・・・。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/11/04(日) 05:00:54 ID:ZvUB45gz
>>66
たしなみとして大名が剣術をやるのはおかしいこととは思わんが

むしろ自ら切りかかって北条勢を七人だか討ち取った義重のほうが実際は・・・
関ヶ原の時も義重が口出ししたせいでどっちつかずな態度になってしまったしな

68 名前:人間七七四年[] 投稿日:2007/11/04(日) 05:30:53 ID:fpD70y5F
>>66
それやる人の違いで受け取られ方も違うんじゃない?
家康とかなら常に対処を怠らない例とかにされそう