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その方の被官を仕置したため、梟首

2021年08月01日 17:17

889 名前:1/2[sage] 投稿日:2021/08/01(日) 13:13:10.34 ID:rsFX6Ceo
小田原の役の時、上杉景勝の越後勢は碓氷峠を越えると、真田、蘆田ら信州衆の先に在る坂本に入った。

この時、越後勢において藤田信吉の相備えであった甘糟備後守(景継)の小荷駄の牛が放れ、
真田の陣所の馬草を食った故に、その牛を真田方へと奪い取った。
備後守はこれを聞くと、藤田に「この牛を取り返さなければならない」と相談した故に、藤田の方より。
先ずその牛を取った者の方へ使いを遣わし、

『此の方の小荷駄に付けた人夫が牛を取り放し、そちらの陣内に参ったのを捕らえ置いていると
言う事だという。こう言ったことは互いに有ることでもあり、お返しして頂きたい。』

このように藤田能登守が申したことを、夏目舎人方より申し遣わした。
ところがその者の返事に

『牛はこちらには参っていない。例え参ったとしても、そちらの作法が悪くて他陣に参った牛なのだから、
これを取っても苦しからぬ事であるのだから、返さないだろう。況やこちらには参っていない。』

と申し越したため、甘糟は「ならば無理にでも押し入って取り返すべし!」と申すのを、藤田が
これを抑えて、真田方へこれまでの経緯を申し遣わした所、執り成しの者よりの返事に
「安房守(昌幸)は散々の虫気(腹痛)にて臥せておりますので、その事については後ほど申し聞かせます。」
と申し越してきた。

このため藤田も立腹し、「牛一疋の事であるが、天下の大事である!甘糟も牛を奪われては堪忍ならず、
堪忍成らねば押し込んで取り返すべし。その時は真田は返し兼ねるであろうから、我らは真田を
踏み潰すより他無い。その所を分別できないような真田では無いはずだが、我々を浅く見てこのような
態度をとっているのだろう。この上は私が切腹に及んだとしても是非もない。押し入って取り返す!」

そして組中に触れを出したが、その内容は『物頭・物奉行の他は、刀脇差を初め刃物の携帯は無用である。
棒を持つように。』との事であった。

これは景勝公の御耳にも達し、「藤田の申し分尤もである。真田どもを一人も残さず踏み殺すように。」
と、加勢を仰せ付けられたが、「彼程度の者を殺すのに、藤田は加勢を請たのだ、などと言われるのも
如何かと思います。藤田の組中だけでやります。」と仰せられたのであるが、侍大将衆より若者共を
忍んで差し添えたという。

藤田の備え九千余り、何れも素肌(甲冑をつけない状態)になり、刃物を持たず、棒二、三本ほどを
腰に差し、手に持って真田陣へと押し寄せた。

そのような所に丁度、佐野天徳寺が景勝公見廻りとして坂本の町に参っており、真田は彼に景勝への
詫言を頼んだ。佐野天徳寺が藤田に会って申された
「真田は牛を取った本人一人を成敗すると申している。これで堪忍致されるように。」

藤田は同心申さなかったので、天徳寺は先ず真田陣へと向かう人数に、何れにも説得してその場に留めた上で、
景勝公に対面されて、直に真田よりの詫言を伝えた。これに対して景勝公は
「私が少しも関知する事では有りません。きっと藤田の覚悟なのでしょう。その事は藤田に仰せになって下さい。
関知しない事ですから、私が下知するわけにもいきません。」と仰せに成られた。

故に天徳寺はまた藤田の元へ行って申した、「景勝公さえ関知していない事なのだから、堪忍されるように。」
これに藤田は「この事のそもそもは、甘糟備後から起こった事であり、それは備後に仰せ聞かせて下さい。
私はともかくも備後次第です。」と申した。

故に甘糟の元に行って仰せられると、甘糟の返答は「私は切腹するしか無いと思い極めての事であり、
この件を起こした本人一人ばかりにての御詫言では承服出来ません。牛を取った本人の傍輩は申すに及ばず、
その主人と、また藤田方より真田方への使いの時、虫気に返事をした取次の者、これらを我が方へ渡し、
真田昌幸がここまで出て降参を仕れば、これほどに思いつめた事ではありますが、和尚様の御詫言もあり、
又合戦前でもあるのですから、堪忍いたします。」と、天にかけて誓った。

890 名前:2/2[sage] 投稿日:2021/08/01(日) 13:14:26.83 ID:rsFX6Ceo
天徳寺は真田方に戻り、様々に申し繕われた事で、先の三ヶ条の内、虫気の返事は真田昌幸自身が
申したことであったので、実行することは出来ないと、天徳寺よりまたこれについて御詫言があった。
残りの二ヶ条は甘糟の望み次第に任せるとの事であったので、藤田はたって甘糟に申して、彼に
堪忍させた。

天徳寺はこの事を真田に伝え、そうしてあの牛を曳かせ、牛を取った科人、その主従八人、
そのうち本人には縄をかけ、残る七人を放囚人にして、刀脇差を差させ、真田家家臣の丸子が同道して
召し連れて参った。甘糟はこれを請け取り申すべしと望み、自分の家臣の豊野伝左衛門、五十嵐十助などという
覚えの者十人を申し付けた。藤田方よりは検使として増毛田島、夏目舎人が出た。

両人、丸子と挨拶仕る内に、縄をかけた本人を、甘糟の小者である伝吉という者に請け取らせ、
残る七人の放囚人を、甘糟の衆が請け取りに出た時、七人の者共、一度に刀を抜いて斬り掛かってきた。
あの科人の主人は、増毛、夏目、丸子が相談している所に斬り掛かった。増毛は老功であったので、
その方を見向きもしなかった。夏目組の伊藤太佐衛門が立ち会い、この者に刃向かい、脇から
かの者を組み留めた。
その他の六人の放囚人の内、三人は即刻成敗し、三人は豊野、五十嵐、上坂藤兵衛、并びに舎人組の
者共が組み留め、主人共に四人を生け捕った。
藤田旗本の神保五左衛門も、この時甘糟に色々申して請取手に出、放囚人一人を斬り留めた。
神保も含めて味方十一人、真田方放囚人七人を請け取った様子は、このようであった。

さてまた、天徳寺が同道して、真田安房守(昌幸)は半途(両陣の中間)まで降参に出た。
この場に藤田、甘糟も出て、先に生け捕っておいた五人を安房守の眼前に引き出し成敗し、
一礼して帰った。その後科人八人の首を真田陣前に獄門に梟け、札を添えた。ここには
真田方への口上として『その方の被官を仕置したため、梟首した。』と断りが書かれていた。
故にさすがの真田と雖も、これを取り捨てることは出来なかった。

管窺武鑑

最初は甘糟景継が怒ってるのを藤田信吉が間に入って穏便に済ませようとしたのだろうけど、
相手の態度が気に入らず余計こじれているのがまた



891 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/01(日) 16:17:59.07 ID:KEXzl7pS
私のために争うのはモウやめて!

     AA
  /⌒▼⊂・・つ
*~L● ( (_ω)
  UU~UU

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輝虎越後より出陣と聞くと、敵も味方も恐れて

2021年06月12日 18:01

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/12(土) 01:54:01.55 ID:mFfvZ2t0
佐野天徳寺が、江戸御城において、上杉弾正大弼定勝に向かってこのように語った

「あなたの御祖父である謙信公の御武勇の威勢は、兎角の言葉で表現できるものではありませんでした。
私が若き時分には、佐野は謙信公の御旗本でありました。

輝虎公が越後より上州厩橋城に御着になると、二、三日人馬を休め、それから関東筋へ打って出て、
縦横に働かれました。その、或いは五十日、或いは七十日の間は、例えば大雷があって夕立が降った
時の如く、敵も城外に打って出ること叶いませんでした。

さて、謙信公が関東での働きを終えられると、厩橋に帰城され、方々の仕置に十日余りかけられ、
その後越後に帰陣されました。

謙信公が猿ヶ京を過ぎて越後路に入ったという情報を聞くと、関東中の北条方、武田方の敵城は申すに
及ばず、上杉殿旗下の城々も安堵の思いを成し、「最早心易し」と悦びました。
逆に輝虎越後より出陣と聞くと、敵も味方も恐れて、安心が有りませんでした。」

この座に在った酒井讃岐守忠勝、阿部対馬守重次を始め、列座の大名、小名はこれを聞き、
感じ入られたという。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

敵が恐れるのはともかく、味方も恐れるというのはどういう状況なのだろうか。
あと佐野天徳寺は慶長六年に死去しているので、この話が実際にあったとすれば、
天徳寺の養子の佐野信吉が、義父から伝え聞いた話を語った、とかですかね。
阿部重次に至っては慶長三年生まれだし。

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/12(土) 02:01:03.71 ID:mFfvZ2t0
いやそもそも上杉定勝が慶長九年生まれだわ



惣じて殿下の大胆闊達な事は

2019年12月07日 16:55

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:00:50.62 ID:RNLP5dbp
天正十八年七月十三日、小田原開城の後、豊臣秀吉公は小田原城に入られ、最前に笠懸山で約束した
通りに、徳川家康公に伊豆相模武蔵上総下総上野下野安房の八ヶ国を参らせ、また家康公の上京の
折々における旅中の用途の為として近江国伊香、野洲の両郡、また海道筋にて一万石を与えた。
そして旧領である東海の五ヶ国は殿下が受納され、諸将に今回の勲功の賞として分け与えた。

そのような処置の後、陸奥出羽の両国も平均なさしむべしとて、同十四日に秀吉公は小田原を発した。
前田利家父子、宇喜多秀家、蒲生氏郷が秀吉公より先陣の命を蒙り、その他の諸大将も先隊後躯の
列を守り、順々に打ち発った。数ヶ国の大軍が昼夜を分かたず野も岡も平押しに押し行き、
五里七里の間には、神社仏閣市店農家に軍勢の宿と成らない所は無かった。

そういった中、長岡幽斎法印玄旨は病気によって休暇を賜り、同十五日足柄竹ノ下より甲斐国に入り、
信濃路を経て京へ戻った。

秀吉公の方は、「このついでに鎌倉を一見したい。」と、相州藤澤駅より駕を枉げられ鶴ヶ岡の
八幡宮に参詣された。参詣が終わって右大将家(源頼朝)の廟所を尋ねられ、白旗の社(白旗神社)で
あることを申し上げると、そちらに詣でられ戸帳を開かれると、頼朝卿の影像をつくづくと眺められ

「おおよよ微賤より起こって天下一統に切り従え、四海を掌に握った者はあなたとこの秀吉のみである。
しかしながらあなたは多田満仲の後胤であり、王氏より出てからもそう隔たっていない。その上、
先祖に伊予守頼義、陸奥守義家が相続いて関東の守護をなし、故に国侍に馴染みも多く、被官の筋目が
有るのを以て流人の身であるといっても、義兵を挙げるや否や旧好を追って東国武士が属従し、
速成の大功を建てられた。

一方で私は氏も系図もない匹夫より出て、茂みの中から世上を靡かせたのだから、あなたよりこの秀吉の
創業の方が大なること明白である。しかし何れにしてもあなたと私は天下友達と言うべきであろう。」

そう言って影像の肩先をほとほとと叩き、からからと笑って立ち下がられた。扈従の者達も興に入り
「誠に活気の大将である。」と言わぬものは居なかった。

惣じて殿下の大胆闊達な事はこの話だけではない。宇都宮に出馬された砌に、御伽衆が侍座して
夜話をしていた折に、佐野天徳寺上杉謙信の、信州川中島の戦い、常州山王堂の戦いなどを語り、
「彼が勝れて剛絶なる大将であった証拠は、輝虎が関東へ越山するとの話が聞こえれば、諸家の
輩は一人ひとり身構えて手袋を引き弓矢を伏せた。そして謙信が帰陣して三国峠を越えたと聞くと、
大夕立と雷鳴が過ぎ去った跡のように、ようやく息をついて安心して座したものであった。」
と話した所、殿下はこれを聞かれると

「天徳寺よ、その信玄謙信の両入道も早くに死んで幸せであったな。今まで生きていたなら
私の今度の帰洛の時に、乗輿の先に立たせ、朱柄の傘、大長刀を担がせ力者として供をさせた
だろうに、早世して外聞も能く名を残せた。何が座備、車懸りか、戯言である。」

そう宣われた。これには天徳寺も言葉を失い苦笑するより無かった。

(関八州古戦録)



401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:10:30.46 ID:JKruuVtX
関連
5875
『秀吉の大器』


9758
車懸りや座備が何だというのか


402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/07(土) 10:20:18.14 ID:JKruuVtX
これも関連に追加
846
豊臣秀吉、成り上がり者の心意気・いい話

3207
豊臣秀吉、天下人の自信

修理は多才の者である

2019年03月28日 18:13

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/28(木) 18:07:25.83 ID:oA8LGetC
上野の佐野は殊の外富んで豊かな地である。太閤は東照宮(徳川家康)を関東に封じて後、佐野
修理大夫(房綱)をここに封じた。修理は多才の者である。上野半国を修理に与えたとはいって
も、佐野が彼に属すれば一国すべて取ったと同じことである。

――『老人雑話』



佐野天徳寺は先手を望むも

2018年06月03日 17:03

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/02(土) 20:01:45.70 ID:ymnEiec5
豊臣秀吉が五畿内の軍勢数万騎にて小田原の北条氏直を攻めると、諸軍勢に軍法を下された頃、
佐野天徳寺はこう申し上げた
「今度の小田原攻め、御先手をそれがしに申し付けください。」

秀吉はこれを聞くも
「貴老は人数も持たないではないか、一人では何も出来まい。」

しかし天徳寺
「今回、御先手を申し付けていただければ、野州佐野へ申し遣わし、故宗綱の家来が
五百騎ばかりが居りますので、彼らを呼び寄せ、御先手を仕ります。」

しかしながら、秀吉は考え深き大将であり
「いやいや、佐野に残った侍と言っても、もはや数年前の事であるから、今は思い思いに散らばり、
そのように働く事が出来るとも思えない。もしそのような状況ならばどうする?」

「宗綱の侍は代々譜代の者たちですから、他国を頼んで出ていくことなどありません!」
そう、達って申し上げたため、秀吉も「そういうことなら貴老の望み通り、先手をせよ」
と仰せになった。

そこで天徳寺は早速佐野に、この旨を伝えたが、天徳寺の考えに相違し、秀吉の考えの如くに、
佐野の侍たちは方々へ散り散りとなり、あるいは小田原に人質として入り、集めることの
出来るのは百人以下という有様であった。

天徳寺はこの現実を見て、さても是非無き次第かなと、面目を失った。
それより少し、秀吉公の御前に思し召される事が無くなったという。

(唐澤老談記)



837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/02(土) 20:30:31.43 ID:f/1CtrpU
ほんとに悪い話だ。
関東の国衆って、けっこう小田原に入って、滅亡した家が多い感じ。

838 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/06/02(土) 20:37:35.91 ID:gKbDChEG
天徳時さんの目利きの甘さと秀吉の読みの鋭さよ…
せめて人を集めてから申し出るべきだったな

佐野祐願寺顛末

2013年09月12日 20:00

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/11(水) 21:04:40.21 ID:iG+KXh3w
佐野天徳寺の弟に、祐願寺という武者法師が居た。

この祐願寺、背が高く筋骨たくましい、大変な暴れ者で、弓、馬、長刀、槍と、
どれを取っても名人であり、ふだん、真紅の綱袋を腰に下げ、その中にいつも砥石を入れていた。
これは戦場で敵を2,3人斬ると、直ぐに武器を研いで次の戦いに備えるためであった。

彼は武者修行のため佐野を出て諸国を廻っているうちに、甲府に来て武田信玄の庇護を受けた事が
あったが、ところがこの時、祐願寺は自分の素性を明かさず、あまつさえ千貫の知行を望んだ。
信玄は面白い奴が来たと思い、近くに召して生まれた地を尋ねたが、祐願寺は

「ともかく一働きしてから」

と、姓名すら明かさなかった。
そのうちに戦があり、祐願寺は得物をとって走り回り、世人を驚かすほどの手柄を建てた。

信玄は再び彼を呼び
「もうそろそろ名乗っても良いのではないか?」
と聞くと、祐願寺もこれ異常黙っていることは出来ないと思い
「拙僧は、佐野の天徳寺了伯の弟で、祐願寺と申します。」
と、初めて名乗った。

信玄はこれを聞くと
「そうか、只者ではないと思ってはいたが、それにしても千貫を要求するのはいかがであろうか?」
「それに値する者だと思っていますが…」
「いや、千貫匁をどうこう言っているわけではない。わしにとって千貫は大した数字ではないのだ。
しかし、わが家譜代の者達に二貫、三貫、あるいは四、五貫程度で賄っているのに、例え名字正しき
ものとはいえ、他所者の、それも新参のそなたにいきなり千貫をつかわしては、旧来の家臣たちの
憤りをも招き、家の害ともなってしまう。

時に今、東国においてそなたのような覚えある者を大禄で抱え、ひと角の武将に取り立てうるものは、
この甲斐の信玄、そして越後の上杉謙信の他にはあるまい。急ぎ越後へ行って訪ねてみよ?」

そう言って信玄は彼に、太刀一振り、鞍馬一匹、更に旅費として黄金十枚を与えた。
祐願寺はその足で甲府を発って春日山に行くと、この事を吹聴した。
上杉謙信はこれを聞くと即座に彼に千貫匁の知行と与力の役を与え、自分も時々、彼から長刀の
指南を受けた。

ところが、この頃春日山に、やはり武者修行して上方より来たという何某という槍の名人が居た。
彼は越後にとどまり、直江大和守実綱、その嫡子神五郎を始め、上杉家歴々の者達に
槍の指南をしていた。しかし祐願寺は彼の腕前を見て、正面から堂々と、その未熟さをあざけった。

このことが謙信の耳に入り、二人は公開の場で真剣勝負を行うこととなった。
祐願寺はこれに勝ち、何某は御前にて屍を晒した。

しかし、これ以後何某に指南を受けていた直江を始めとした歴々の者達が折にふれて
祐願寺を悪しざまに言ったため、謙信も家中の和を保つために、結局祐願寺を殺した。

このことが関東の佐野天徳寺に聞こえ、かれは謙信に恨みをいだき、彼は佐野の幼主である
小太郎宗綱を説いて北条方へと寝返った。
(関八州古戦録)

佐野天徳寺の弟、祐願寺の顛末である。





上杉謙信の武勇

2011年06月12日 00:00

上杉謙信の武勇

上杉謙信 佐野天徳寺 上杉定勝


606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/11(土) 19:20:09.96 ID:FZoJDsvR
佐野天徳寺は、江戸城内で上杉定勝に向かい、
祖父謙信の武勇は、とても言葉では表せないと褒めた。

「我らの幼き頃、佐野は謙信公の旗下にあった。
謙信公は越後から上州の厩橋にお着きになると、
人馬を数日休められた。
それから関東へ打って出て縦横無尽の
働きをなされたが、五十日から七十日の間は、
大雷夕立が来たように敵も
城外へ出ることができなかった。
そして戦いが終わると謙信公は厩橋に帰城なされて、
十日ばかり方々の仕置きをなされたのち
越後へ帰陣なされた。
謙信公が猿原をすぎて越後に入ったとの報せを聞くと、
関東の北条方、武田方の敵城はいうまでもなく、
上杉方の城もホッと胸をなでおろした。
このように謙信公が越後から出陣したと聞くと、
敵も味方も恐れおののいたということである」

その場にあってこれを聞いた酒井忠勝、阿部重次はじめ
諸大名も謙信の凄まじさに感じぬ者はなかったという。




607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/11(土) 20:55:26.53 ID:ubCwah1w
災害か何かなのか謙信公は。

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/11(土) 21:41:50.22 ID:ZbsVbo7N
さすが毘沙門天の化身やでぇ・・・

大貫越後、筋を通す

2011年04月02日 00:00

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/31(木) 22:06:01.27 ID:/wQ98w3M
佐野宗綱の、お正月だよ!足利侵攻!!・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1555.html

この話のように、天正13年(1585)、佐野宗綱は足利の長尾顕長を攻め、単騎突出した挙句討ち死にした。

さて、そこで問題になったのは佐野家の後継ぎである。佐野宗綱には女児しか無かったのだ。
そこで佐野家の家中では、「小田原の北条氏はこの下野国でも日々勢力を増している。ここは北条氏より
その一族の一人を養子として迎え、佐野家を継いでいただくのが良いだろう。」
と言う意見が主流を占めた。

だが佐野宗綱の弟で僧侶の佐野天徳寺は、これに猛然と反対した。
彼は言う、「北条ではなく常陸の佐竹より養子を迎え、佐野家を継がせるべきである!」

しかし佐野家の重臣、大貫越中、竹澤源三郎、山上美濃、飯塚兵部を始めとした佐野家中の殆どは
天徳寺の意見には従わず、家中一同が連署した起請文を小田原の北条氏政の元に差し出し、
「佐野一門、家中上げて北条家の子弟に佐野の家を継がせることを望んでおります!」と申し込んだ。
氏政は当然ながら大いに喜び、弟である北条氏忠を派遣。佐野天徳寺はこれに大いに怒り
佐野の地を去った。


時は流れ天正18年(1590)。豊臣秀吉による小田原の役、起こる。
佐野に攻め寄せる豊臣の大軍の中に、佐野天徳寺の姿もあった。

天徳寺は唐沢山城に籠る佐野家の者達に、すみやかに自分の麾下に加わるよう伝えた。
この時、当主佐野(北条)氏忠は小田原にあり、城中の兵たちはみな、見込みのない戦をするよりも、
天徳寺の命令に従うべきだと言った。

が、大貫越後一人、それに同意しなかった

「私は最初、和尚(天徳寺)の言う事に従わず、左衛門佐(北条氏忠)殿を主君とした!
既に一度主君となし家臣となった者として、今事態が急変したからと言って忽ちに心変わりするのは
勇者の本意ではない!
それがしに於いては、氏忠様の御為に討死つかまつる!」

と、唐沢山城から詰城へと移りそこに籠城した。
残った佐野家の者達は天徳寺に帰服。彼を大将としその詰城に押し寄せる。

ここで大貫越後、櫓の上に登り攻め手の軍勢に向かって大音を上げた!

「私の元にあるこの少勢で、どうして戦うことができようか!
命は義によって軽し!私はそう承っておる!

これを見給え人々!!」

と、自らの首を掻き落として、死んだ。



佐野家重臣大貫越後の、筋の通し方である。