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広高には少しも悪しきことはなかった

2017年06月30日 16:56

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/30(金) 02:37:58.72 ID:k++An8Gf
松平肥後守正之(保科正之)の家士に、田中三郎兵衛(正玄)という人がいた。
この人四代の祖は寺沢広高の浪人である。

会津公は聞き及びなさって三郎兵衛を3千石で招きなさり、老臣となさった。
三郎兵衛は常に申して、

「先主・広高の行状を思えば、まことに感涙に堪えることなどが多いのである。
12万石の身分で奥方までも木綿の衣服であった。年始などの規式といえども、

塩魚、または干し魚を用いた。このように倹約かと思えば、千石取りの士が
40人いた。平素ともに万一の変事がある時にとして建てられた家法である。

それにもかかわらず、その子・兵庫頭殿(堅高)は父とは大いに違った人故に、
あの如く身の上を果たした。広高には少しも悪しきことはなかった」

と語った。

――『明良洪範続編』


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東北鎮護の為であり

2016年06月12日 17:24

829 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/06/12(日) 03:08:16.25 ID:CjzaKTNh
保科正之は寛永14(1637)年1月、江戸城二の丸留守居役として勤務していた。
同年10月、九州にて「島原の乱」が起こると、正之が将軍の名代として九州に派遣されるという風評が立ち、
正之は下命に備えて家臣達に派遣の準備を命じた。だが下った命令は

「二の丸留守居役を免じ、直ちに山形に帰国せよ。」というものだった。

期待していた大役とは違い、家臣らは失望したが、当の正之は至って機嫌が良く、かつて家康が秀忠に教えたという

「東国に変事ある時は西国を固め、西国に変事ある時は東国を固めよ。」という言葉を紹介した。

そして

「この帰国命令は東北鎮護の為であり、藩屏として信任されている証である。」

と家臣に語ったという。



831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/12(日) 11:09:15.52 ID:5v0A27iF
>>829
奥羽とは言うが東北なんて言葉あったんかね?

原田氏の転変

2015年08月02日 13:53

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 09:08:53.43 ID:S4HvM1GE
面白そうなスレだ……

天正十四年 豊臣秀吉の九州征伐が始まると信種は娘を逃し、自身は居城の高祖城籠城を決める。
しかし小早川隆景の軍に囲まれ、黒田官兵衛の降伏勧告を受諾。信種は秀吉の前に引き出された。

秀吉「僕に楯突くなんて中々やるじゃん。それで君の領地はどこだったかなぁ?」
信種(これはチャンス。過小報告すれば全部の領地を取り上げられずに済むぞ)「私は伊都のみを治めているものでございます」

信種の言葉を聞くと秀吉は急に恐ろしい顔つきになり、こういった。

秀吉「お前は嘘つきだ。事前調査でお前の領地は全て把握している。この場で嘘をつくなど、人の上に立つ器ではない」

信種は一言の失言により全ての領地を没収され、佐々成政の配下に組み込まれてしまった。
秀吉に嘘をつき、それが即バレした事が記録に残ってるおそらく唯一の人。

佐々が懲罰で切腹した後は、後釜の加藤清正配下となる。
朝鮮出兵の際は、清正に付き従い朝鮮へ従軍したが、名護屋城に信種をしたって五百人余りの旧臣が集結し、そのまま朝鮮へ帯同したという。
しかし帰国後、次代の原田嘉種が清正と対立し追放されてしまう。
原田家は次に寺沢広高の配下となった。
島原の乱の際は富岡城に立て篭り、城代が戦死すると、代わりに指揮を取り富岡城を守りぬく。
が、島原の乱の責任で寺沢も改易。
にっちもさっちも行かなくなった原田は江戸に出て天海に窮状を相談すると……

天海「原田が豊臣に反抗したのは、徳川に尽くしたのと同義だ」

そう言葉をいただき、会津の保科正之を紹介されその配下となった。
漢の霊帝を祖先と公称し、元寇で功を上げ、朝鮮出兵にも胎動した生粋の九州人が、
一言の過ちで秀吉の怒りを買い、ついには故郷を去ることになった顛末。

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 09:11:44.02 ID:S4HvM1GE
戦国時代ではないが、それから数百年後……
慶応四年の幕末の戊辰戦争時、上は松平容保から下は兵卒の女房子供まで抱えて、会津藩は籠城戦を行った。
その中には原田氏の子孫、原田対馬がいて、彼はその優秀さから籠城戦突入時に家老にまで引き上げられていた。
戊辰戦争の会津の悲惨さは白虎隊などで伝えられている通りであるが、
実はそれ以上の悲劇が、籠城した城内で起こる寸前だった。
急な籠城戦になったため、食料の備蓄が足りなくなっていたのだが、
この解決方法を下問された家老が、口減らしのために
一緒に立てこもっていた婦女子全員を斬首することを提案し、あわやこれが実行寸前にまでなる。
その時、敢然と異を唱えたのが原田対馬であった。
原田の反対もあり婦女子の斬首は取りやめとなり、その後すぐに会津は降伏した。
なんとなく後の戦陣訓ってこの辺の東北の風土から出た気がするのと、
九州人は生きる事に意地汚いというお話し。

……というよりも原田氏からすれば、たかだか一度の籠城戦に敗れた程度で
死のう死のう団になる東北人が理解できなかったのかもしれない。

戦国時代までは悪い話だけれど、数百年後に会津の婦女子を救う、原田氏のいい話。



482 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 09:14:06.86 ID:S4HvM1GE
あ、前半の出典は糸島戦国史と糸島伝説集です。

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 09:52:34.57 ID:FR9tdf2C
いきなり信種と書かれても困っちゃうのう
ちゃんと原田信種と書いて欲しかったわさ

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 10:51:37.45 ID:pqHJNuIX
いや、分かるだろ

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 12:46:39.59 ID:tzOLS/j8
浅利信種「…俺の知名度って」

奥州会津の山中、人気絶えたる所に

2015年05月01日 18:20

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/30(木) 22:11:38.16 ID:jlGzf5m3
保科肥後守(正之)の領地、奥州会津の山中、人気絶えたる所に、福仏坊という者が居住していた。
樵がこの者を発見し、藩に届け出た。
そこで人を遣わし彼に仔細を尋ねると、この福仏坊曰く
「私は生国伊予の者である。しかしそこで悪事をし、関東へとやってきた。」

「それは何十年以前のことか?」

「覚えていない。年齢は15の時、関東に下る途中通った尾張熱田の宮に人が多く群参していて、
何事かと尋ねたところ、かの宮人が言うには、鐘撞き(新しい鐘を初めて打つ)である、と言っていた。」

熱田で鐘撞きが行われたのは何百年以前のことだろうか?鐘の銘も見えなくなっていて、考え難い。
かの老人は、見た目は70ばかりであったという。

(明良洪範)



886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 07:00:19.23 ID:RYqfc48w
戦国時代でも人気絶えたる所に不審者が居住する事案が発生すると通報されてしまうのか

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 08:01:05.04 ID:x9z/vdge
神社に鐘ってあったっけ?

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 08:16:40.28 ID:xHL5H/m+
あるよwお前ほんとに日本人かよ?w

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 08:24:12.71 ID:NtNrqz7S
そういえば松平信康とおぼしき老人が太平の世になってから現れたとかいうお話もあったような

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 08:43:23.44 ID:OhoTnviQ
鐘って寺にあるイメージ

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 09:23:01.58 ID:xE5hnb9Y
江戸時代までは神社も寺もいっしょくただったからね

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 09:45:09.37 ID:ejtq0vxo
>>889
「実は~だった!」系の話かと思ったらただの胡散臭い爺さんだった

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 09:55:01.15 ID:JNq/gG+v
ただの認知障害の徘徊老人じゃねぇか

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 10:24:41.01 ID:58r6477L
>>887
江戸時代の神社は寺の付属品
単独で神社なのってほぼ無い

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 10:56:30.94 ID:5/r2dG/y
熱田の場合は寺の方が付属品かと

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 11:16:45.93 ID:xE5hnb9Y
神社が本体のところも当たり前にある。現在神社なところは全部そうやね

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 11:36:56.70 ID:58r6477L
一之宮レベルだと流石に神社単体

有名な神社で元寺と言えば、鎌倉にある鶴岡八幡宮
江戸時代まで鶴岡八幡宮寺という神仏混淆の寺だったが、廃仏毀釈で
仏教的な施設は破壊され神社となった。

>>896
殆どの場合は寺が神社をついでに祭ってた
愛宕神社や戸隠神社なんかも元々は寺。

しかし、150年くらい前まで当たり前の事だったのに、
知らない人多いよな

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 13:36:13.76 ID:LK0yubLO
鐘・・・イチャモン・・・大阪・・・うっ、頭が・・・

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 14:39:14.74 ID:UocHn8Ys
五円玉お賽銭にぽいっ~して鐘をガラガラ~パン!パン!
するところだよな神社

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 15:43:07.88 ID:jh6RHEaS
鐘じゃなくて鈴やないかボケ

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 15:59:47.22 ID:OhoTnviQ
鐘は寺の坊さんが時間になったら叩きに行くものだよな

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/01(金) 16:10:54.51 ID:qZGYzXBG
いえ、字面をなんとかして豊臣を叩きに行くものです

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/02(土) 00:18:50.90 ID:dwlQFoiB
おっ鐘~な

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/02(土) 12:46:02.83 ID:g3dNRjR4
>>897
>しかし、150年くらい前まで当たり前の事だったのに、
>知らない人多いよな

おまえ885のジジイだろw

保科正之「これは私の誤りである。」

2015年02月21日 17:18

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/21(土) 01:07:40.74 ID:b0LrnURU
当時世の中では、会津の城主に長く続く者は無いと言われていた。
しかし保科肥後守正之が会津の城主に成ってより今に至るまで変わることがない。
ということはつまり、長短吉凶はその人に在り、その土地に在るわけではない、という事なのだろう。

その保科正之が会津を領有した時、家老を呼んでこのように言った
「今や大身になった以上は、国家(藩)の法令を改正すべきと考える。」
これによって家老衆が法令改正のための評議をしている中、正之が書き記した法度の條々を見せ、
「これはいかがか」と感想を求めた。その草案の中に『口論かたく停止為るべし』とあるのを、
安西八郎右衛門見て

「口論停止というのはいかがでしょうか?何故かといえば、軍事はもちろん、何かあった時、
重役や古参の者達が道理に合わない取り計らいや発言をしても、軽輩の者や新参の者達はその非理なる事を
論破することが出来ず、その意に従わねばなりません。
そうなれば政治にも自然と非理の事が出来てきます。政治が非理となるのは国家乱れる元です。

また、非理を論破したのに重役古参の者達がそれに伏せず口論となる時は、最終的に主君に言上に及びます。
その時主君が明白に決断なされれば、政治もまた正しくなります。
政治正しい時は、国家もまた平治と成ります。」

そう申し上げると、正之は
「これは私の誤りである。」と言ってその条項に墨を引いたとのことである。
(明良洪範)



643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/21(土) 02:03:33.49 ID:T6zTVkIY
蒲生工場長
直江とその傀儡
地味加藤

みんな大封で会津に来てるのに文句しか言ってない
歴代の城主で会津に喜んで来たのはDQN眼龍だけ...

644 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/21(土) 07:37:49.22 ID:xP9PKqKr
蒲生jrは旧領に戻れて嬉しかったんじゃね。

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/21(土) 13:43:10.50 ID:K+OzQoi7
>>642
「ならぬものはならぬ」は藩祖の考えに反していたのか

「轟!轟!轟!」

2013年02月02日 19:50

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/02(土) 18:36:09.17 ID:5X37aWTD
愚堂東寔の名声が天下に轟くと、将軍家光に江戸城に呼び寄せられ、
その他に保科正之、石川忠綱、松平親英らとも面会した。

ある時、保科邸にいた際に儒士の某が「儒家は雷を陰陽によるものと見る。
仏家はどのように見るのか」と質問した。

愚堂は背後の歩障を叩いて「轟!轟!轟!」と声を出し「斯くのごときものじゃ」
と、答えた。某は口をつぐんで退いた。

――『近古禅林叢談』



386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/02/02(土) 18:53:06.12 ID:yc3dpVV8
「江!江!江!」

大御所「それは恐ろしい」

保科正之と白岩一揆

2011年10月25日 22:00

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/25(火) 03:24:09.48 ID:ZE2qT58l
保科正之と白岩一揆

珍しく保科正之に悪いイメージがつく話。

寛永10年(1633年)、500戸ほどの出羽国村山郷白岩で領主酒井氏の圧制により1000人余りの餓死者が出た。
白岩領の農民が一揆を起こしている間に国表を離れた10人ほどの百姓代が23条の訴えを持って江戸の奉行所に
苛政を訴えた。

結果
百姓代2名打ち首、国元でも百姓総代36名は死罪となり、百姓130人が捕らえられ磔になった。

ある木箱が山形県最上地方に江戸時代から伝わっていた。
いよいよ立ち行かなくなったら開けよ。
それ以外は、開けてはならねえという木箱。

平成になって、歴史学者がそれを開けてみたら、一枚の紙がでてきた。
それは江戸時代の寛永年間に起きた、
月山のふもと白岩一揆の訴状の写しだった。
いよいよ立ち行かなくなったら、この訴状をみて
一揆を起こしなさいという、祖先の遺言状だったわけである。

幕府の白岩裁定を決めた人物こそ徳川の寵児、保科正之

先に亡くなった山形藩主鳥居忠政に続き、白岩領主酒井忠重もこの後数奇な運命を辿り、ついには辻切りに遭って
落命したという。

山形の民は最上の善政を懐かしみ、「祟りじゃ祟りじゃ」と囁きあったという。





幸せについて

2011年04月18日 00:00

717 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 15:32:21.08 ID:tF1cXnKq
幸せについて

会津藩主・保科正之は家臣に尋ねた。
「お前たちにとって幸せとは何か?」

近臣の小櫃与五右衛門答えて曰く、「二つあります。一つは貧しいため、贅沢を知らないことです。
貧乏生活を楽しませていただいております。」

正之「もう一つは?」

与五右衛門は躊躇する。
「えー、そのですね、何というか・・・」

「一体何なんだ?」

「それは、大名に生まれてこなかったことを心から幸せに思っているのです。」

すなわち、大名は家臣が馬鹿にしてしまう。軽輩なら恩人や友人がいろいろ注意してくれるが、大名に
そんなことを言う人はいない。
主君に逆らえば出世に響くし、褒めるときはとにかく褒めたおす。結果、大名はわがままになってしまうのだ、と。

小櫃与五右衛門の忠言といえばいい話なのだが、当時の大名たちのレベルが垣間見られる悪い話ということで。




718 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 15:44:45.45 ID:SGH09vmX
>>717
これって昔だけの事じゃないんだよな。
今だって組織の中で偉くなると気がついたら周りがをイエスマンばかりにしちゃって悪い情報が入らなくなる、
なんてことはよくある話で。

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 15:53:06.12 ID:tF1cXnKq
>>718
この前まで病院で休んでた人もそうだったのかもね。

720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 15:56:42.24 ID:dVGclR8O
松本 「何故か俺の回りには「イエスマン」がいない。
お世辞ばっか言う奴とか、腰巾着みたいなんが全っ然おらん。」
高須 「そうやなぁ」
松本 「他のベテランの芸人とか、あえて名前出さんけど
もう周りをイエスマンで固めて裸の王様みたいな。」
高須 「ほんまやでぇ」

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 17:02:04.03 ID:3kLtW3Wa
>>720
よく知らんがそれだけ見てると高須がイエスマンな件

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 18:18:55.09 ID:DrzFzizQ
>>722よ……。

724 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/17(日) 19:21:16.76 ID:eHktAmZo
>>722

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 19:42:59.46 ID:s+/z338z
>>717
> 当時の大名たちのレベルが垣間見られる悪い話ということで。

保科正之がそれだけ酷評されたら、ほかの大名はどうなってしまうんだ?

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 20:25:43.74 ID:keOis7QZ
>>725
つ黒田忠之

島原の乱では家臣が誰もいう事を聞いてくれず、出奔した家臣が「うちの殿が幕府に対して謀反を目論んでます」と
言ったら、「ワロス。あのバカにそんな人望も才覚もねえよ」で
返された逸材

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 23:01:10.18 ID:v3PUarFD
>>726
加藤の若殿といい悪久といい、なんでこの人の息子がこんなのに?っての結構多いよな

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 23:41:21.12 ID:JkTFXmce
>>732
毛利輝元は同時代的にも決して評価は高くない大名だったが、その息子の秀就はさらにダメで
支藩を纏められず独立運動起こされたり幕府へも上手く取り入ることが出来ず
細川忠興さんあたりからも「毛利家って本当に駄目だなプゲラ」なんて嗤われる始末。

その息子の綱広にいたってはもっとダメで、母親が徳川秀忠養女(結城秀康娘)で、
正妻も越前松平忠昌の娘で、しかも11歳の時父の急死で後を継いだため本来なら
当主幼少ということで領地の削減などもあるはずだったのに、幕府の特別のはからいで
領土保全してもらい、あまつさえ成人するまで幕府から派遣した親戚衆による委任統治を
してもらっていたにもかかわらず、「毛利元就の玄孫であるボクが徳川家に従うのは納得行かない!」
とか言い出して登校拒否ならぬ登城拒否なんかをして、家臣団もさすがに
「こいつ何とかしないと毛利家滅びるな」と押込をやって強制引退させた。

これで毛利が滅びなかったのは偏に家臣団が頑張ったからで、ここから
当主が君臨すれども統治せず、という毛利の家風が出来て行ったそうな。

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 23:51:19.25 ID:3mIRdKWH
官兵衛や直茂みたいに息子は厳しく躾けないとね

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 00:02:05.90 ID:919GXkDs
>>732
うけた教育が戦国時代基準だけど求められる能力が違うからストレスたまるんじゃね?
旗本奴とかそんな感じだったみたいだし

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 06:44:30.60 ID:Yd9WPi5k
>>732
悪久は、嫁への仕打ちとやり方は直裁的でえげつないけど、
関ヶ原戦後処理とか戦国大名家から近世大名家への変換はちゃんとこなしているじゃん

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 19:25:17.20 ID:ajqaNjWO
私生活ではクズ野郎でも統治者としてまともなら
その逆のパターンよりはずっといいわな

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 21:22:16.37 ID:zGastDzI
輝元の行政手腕は悪くなかったんじゃないか?

739 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/18(月) 21:39:05.89 ID:Gh0rIOh7
>>733
>当主が君臨すれども統治せず、という毛利の家風が出来て行ったそうな。
毛利家藩主の経歴を見ると自ら進んで改革をやってる藩主の方が多いぞ

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 22:28:25.06 ID:e81juQpK
厳密に言うとできる家臣を抜擢して丸投げ、家臣の指示に逆らわない、かね?

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/18(月) 23:16:19.46 ID:wFKVcqIZ
毛利さんちのTERU君は親と爺ちゃんが凄すぎて霞んじゃってるんだよなぁ
内政合戦なんでもござれな陰謀魔王爺や
歩くブラックカードな内政ネ申なパパに
合戦モンスターな叔父達
こんなんに比べられたらそれなりに優秀くらいじゃだめな子扱いもされるだろw

目黒に置いて、将軍徳川家光による鷹狩が行われた時

2011年03月29日 00:01

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 22:03:41.86 ID:1VpqS5H/
江戸近郊の目黒に置いて、将軍徳川家光による鷹狩が行われた時のことである。

この目黒には、成就院という寺院があったのだが、そこに4,5人の武士が尋ねてきた。
住職が何事か聞けば
「我々は将軍家御鷹狩のお供の者なのだが、大変くたびれてしまってな。すまんが、少しここで
休ませてもらえないだろうか?」

住職は「ああお安いこと、どうぞどうぞ」と寺の内に入れた。
「将軍家様の御鷹狩で、このあたりは大変な騒ぎですよ」「そうであろうな」
などと言いながら寺の客殿に通した。と、そこの壁には菊が見事に、まるで絵画のように美しく飾ってあった。

一番身分の高いらしい、若い侍がこれに感心し
「失礼ながら、このような田舎でこんなに素晴しい生花を見るとは思わなかった。この寺は良い檀家を
持っておられるようだな。」

そう尋ねると住職
「いえいえ、ここは江戸より遠く、然るべき檀家というものも無いのですが、ただ保科幸松殿と申せし方の御母上が、
時々祈祷のことなどお頼みされるのですが、そちらもお台所苦しく、布施のものも、豊かではありません。」
「ふむ…、その他には?」
「ははは、その他はもう皆、物の数に入らぬような…。ああそうだ、こちらにいらっしゃる皆さんは
将軍家の御家人であられるそうなので、恐れ多いことなのですが…」

住職、内緒話と声を低くし、その武士に少し近づいて語り出す

「その保科幸松殿と申す方は実は、今の将軍家の正しき御弟君だと承っております。
であるのに僅かの領地しか無く、貧しくされているのはなんといたわしい事でしょうか!?
たとえ賤しき身分の者であっても、兄弟が親しみ深くするのは世の習いだというのに、
一体どうして、あのように身分の高い方が情けなく出来るものなのでしょうね?」

と、これを聞いてその侍、少し顔色を変えたが、他の者達の方に向き直り

「さて、もう出かけよう。そろそろ上様がお帰りの時間である。」そして住職に
「御僧のお情けで足を休めることが出来た。また参ることもあるだろう。」と声をかけ、寺を出て行った。

しばらくして

成就院に大勢の、将軍家に付き従う武士達が押し寄せた!
住職が挨拶もする間もなく、その者達叫ぶ

「上様は!?上様はいずこにおられる!?」

「う、上様?わ、我らは上様のことなど一向に知りません。ただ先ほど、鷹狩の
お供の方がこちらでお休みに…」

これを聞いて押しかけた者たち唖然
「ば、バカモーーーン!その御方が上様だ!!」

住職驚愕
「な、なんですってー!?」

「未だ遠くには行かれていないはずだ、追いかけるぞ!」「ははっ」
武士達は一斉に家光たちが向かったという方を追いかけた。
哀れなのは住職である。これを聞いてから「ああ何ということだ、私は上様になんて失礼なことを。
いかなる罪を仰せつかるのであろうか?」と恐怖し、それから一月程、門の外に足音高く
人が通り過ぎるのを聞くだけでも、魂が消えるような思いをしたという。

さて、一方保科幸松、改め保科正之、この事から程なく家光より多くの領地を与えられ、家光の信頼厚く
やがて山形を領する。正之はこれを成就院の恩として、かの寺に土地など多く寄進したという。

徳川家光、鷹狩の最中のお忍びで弟正之の存在を知る、という一席。
ビビりまくった住職さんがちょっと可愛そうだったのでこっちにw




361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 22:17:43.39 ID:KdZYUSkC
そりゃあ、焦るわな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 23:10:23.89 ID:Rty+LYv9
やっぱり坊主は目黒に限る

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/27(日) 23:23:19.49 ID:OFPp8sjC
しかし保科正之自身は神道に傾倒していて会津では廃仏毀釈してたんだよね

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 00:12:59.73 ID:iJZYvXIS
保科正之は晩年神道にはまったけど、廃仏毀釈なんてあったか?

365 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/28(月) 00:18:19.44 ID:0pc7QKM6
しかし、その坊さんは若い侍の着物に葵の紋に気付かなかったのかな?時代劇とかだと着物に付いてるけど。

373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/28(月) 10:53:24.68 ID:UOMnrPhJ
>>と、そこの壁には菊が見事に、まるで絵画のように美しく飾ってあった。

家光…ゴクリッ