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父の仇の子であるのに

2021年06月20日 19:08

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/20(日) 13:30:45.22 ID:gkgsN5cq
天正十二年八月、上杉景勝自ら新発田重家を攻めた、八幡表の戦いでのこと。

この時、前の琵琶島城主・宇佐美駿河守定行(定満)の子、民部少輔勝行は、
彼の父が生害し、本領没収され、浪人となり、また景勝からも勘当され、小千谷五泉あたりに
逼塞していたのであるが、いかにもして景勝より勘当を赦され、本領に還住せんと志し、
朱傘に金の短冊の指物、宿月毛の馬に乗って新発田陣へ懸かり入り、屈強の敵二騎と懸かり合わせ。
一騎は切って落とし、一騎は引き組んで討ち取り、その兜首二つを提げ、その身も馬も血だらけになって
景勝の旗本に馳せ来ると、平林内蔵助(十八歳にて小姓であった)を頼み

「御勘当御免なされ、この高名の首を御実見に入れるため、御目見えいたしたい!」

と望んだため、この事を景勝に申し上げると、景勝は気色俄に変わり、目は松明のようになって
平林をはたと睨みつけ、しかし何の言葉もなく、これには平林も頭を垂れ、重ねて申し上げる事も
出来なかった。
これに宇佐美民部も、討ち取った二つの首を捨て置き、泣く泣く立ち上がって退いた。

景勝としては「実父政景を殺した宇佐美駿河の子であるのだから、父の仇の子であるのに、どうして
勘当を赦せるだろうか。」との事であった。

これを取り次いだ平林内蔵助は長命で、当家(上杉)播磨守綱勝の傅役に付けられ、近年まで
存命しており、彼が直に物語ったものである。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



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仙桃院は謙信に向かって

2021年06月19日 18:08

仙桃院   
813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/19(土) 17:09:21.70 ID:si1lQCOP
畠山入庵(義春)室は、上杉謙信の姪である。十一、二歳の頃、謙信より殊の外愛され、
関東御陣(越山)の時は、少年の出で立ちをして、小具足の上に、長絹の直垂を着、太刀、刀を
挿させ、馬に乗って、老女三人が介添えに付いて、謙信の供として連れられたという。
この姪は、即ち畠山下総守義真の御母の事である。父は長尾政景、母は謙信妹、後には仙桃院と号された。

永禄七年の秋、信州にて、長尾政景を宇佐美駿河守定満が殺した時、それが謙信の内意であることは
粗方知られていた。それ故に、仙桃院は謙信に向かってこのように言った

「越前殿(政景)が果てられたのは、偏に戦場において御用に立ったのと同じ事です。
義景、景勝は申すに及ばず、娘二人も御見捨てあるまじ!」

そう申したために、これによって宇佐美駿河守の遺跡は強く潰され、子の民部についても、深く二代まで
勘当させられた。現在に至るまで、宇佐美駿河の事は、当家(上杉家)においては忌まれ、沙汰しない。
先祖の仇である故なり。

(信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記)



景勝の知慮は、凡人の及ぶところではない

2021年06月18日 19:03

268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/18(金) 16:17:46.48 ID:S4rXSrWM
新発田因幡守治長(重家)、同道如斎、同源太治時、五十公野采女が申し合わせ、天正十年の春より
織田信長に内通し、「信長公が品濃口、越中口より攻め入られた時は、会津の蘆名盛隆と共に
下越後より攻め上がり、景勝を攻め滅ぼすべし」と謀を定めたのだが、その年、信長公生害となり、
想定は崩れ、上杉景勝は軍勢を差し向け新発田を攻めた。度々の合戦が有ったが、勝負はまちまちであった。
これは蘆名盛隆より密かに兵糧、玉薬を運送し、新発田に合力あった故で、彼らは六年の間持ちこたえた。

会津の越後境の津川城に、金上兵庫が居住しており、金上方より、赤谷城の小田切三河守方を
絆ぎの城として、蘆名が新発田に加勢していることを景勝は察し、天正十五年の秋に、新発田表を
踏み越えて赤谷城を攻め落とし、小田切三河守をはじめ八百余人を討ち果たし、会津からの合力の
通路を遮断し、直ぐに新発田城へ景勝が向かうと発表した。

新発田も、これで最期であると覚悟したが、家人の羽多野忠右衛門という大力の剛の者が申し上げた
「もはや合戦では叶いません。しかし赤谷表より新発田までの道筋に、三淵という大切所があります。
そこで待ち伏せをして、景勝が一騎打ちに通られるのを引き掴んで、下の崖より大河の淵に落ちて
共に死んで、主の本意を達します!」
このことは議定され、彼は三淵に出て、景勝が来るのを待ち受けた。

三淵という切所は、山腹の切通で、馬も一騎でしか通れない路であった。上は青山がそびえて苔むし、
路より下は数千丈の石岩が剣のごとく、屏風を立てたる如く、さらにその下は大河がみなぎり流れる
淵であった。その道端に岩穴が有り、羽多野忠右衛門はそこに隠れて、景勝が通りかかったところを
躍り出て引き掴み景勝とともに崖の下の淵に飛び墜ち、ともに死せんと企んだ。

この時、景勝は赤谷を立ち、新発田に推し進もうとしていた。家臣たちは「直路であり、殊に近道と
なるのだから、三淵の方に進まれるだろう。」と皆申していた所、景勝は思案して

「大将は危うき所を行かないものだ。近道だからと言って切所を行けば、どうしても越度が有ること多い。
迂を以て直とし、患を以て利とする事、兵法用捨の大事である。廻り道であっても、足場の良い方を
進もう。」

として、迂回して本道を進んだことで、三淵を通ることはなかった。故に羽多野の計画も相違して、
本意を失った。景勝の知慮は、凡人の及ぶところではない。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

たまたま「やっぱ足場の良いところを通ろう」と言ったら暗殺を免れた、という事か。



269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/18(金) 18:16:30.25 ID:Pm9hueO+
近道をして落馬した誰かさんとはえらい違いやね

上杉家の旗印について

2021年06月17日 18:54

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/17(木) 16:24:27.90 ID:Jbj8xrvS
上杉謙信の頃には、家の旗が無かった。紺地に朱の日の丸の四半のものが一本、
白地に黒で「毘」の字の四半一本、何れも五幅の懸けであった。

後に白地に「無」の字を書いた四半を仕立てられ、気に入っておられたが、
城意庵(景茂)が謙信の気に背き、甲州に逃亡して武田の家人と成ると、白地に無の字を書いて
指物とした。これに謙信は大変に怒り「是非とも意庵をうつべし!」と、合戦の度に下知した。
それ故に自分の無の字の旗は用いることを停止した。

景勝の代に、秀吉公の御意により「上杉家に馬印を仕るべし。」と、直に仰せ付けに成った。
その座に家康公が居られたため、景勝はこのように申し上げた

「そういう事でありましたら、家康公の、扇の御印を申し受けたく存じます。」

そう所望した。これを聞いた家康公は御機嫌にて

「であれば、我が馬印は金であるので、色を変えられるように。」

との御意にて、上杉は浅黄の扇となった。現在も当家は、浅黄の扇の馬印である。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

上杉家の旗印について



264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/17(木) 20:31:35.44 ID:7ymAEE9O
城氏って源平のときの城氏か

槍坊主

2021年06月16日 19:01

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/16(水) 17:29:38.56 ID:MWIGdXND
当家(上杉家)に、西方院という真言宗の法師武者があった。彼は数度の槍をした故に、異名を
「槍坊主」といった。上杉景勝より朱の武具を免し給わっていた。

彼は一代四十余度の武辺をなし、遂に手傷を蒙らなかった。景勝より六千石の知行を給わったが
これを受けず、

「疋如(するすみ:財産も係累もない身の上であること)の身にて知行を取るなど、一つも必要ない」

と言って、越後から会津に供した。そして遂に米沢にて病死した。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

上杉家系の逸話は所領や金に拘らない人が讃えられてるの多いな。



屋形腹筋、いやいや

2021年06月15日 17:55

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/15(火) 16:37:37.15 ID:cRE8Iylx
上杉景勝は生まれつき言葉少なく、一代の間に笑顔を見た者も無かった。常に刀・脇差を
手にかけて居られた。

ある時、景勝に常々懐いて、飼っている猿が、景勝が脱いで置いていた頭巾を取り、木の上に登ると
座って、手を揃えて、座敷の景勝に向かってうなずいたのを見ると、にっこりを笑われた。
それが近習の者達も初めて見た笑顔であったという。

彼が城下八幡小路を乗物にて通られている所に、陪臣の徒士の若党が、伊達染めの帷子にて参り懸かり、
畏まっているのを景勝は見られ、

「好き若者である。立って歩むべし。男振りを見よう。」

と宣われたため、かの者立ち上がり、二反(約四メートル)ほど歩んで、また畏まったが、
景勝は俄に機嫌が変わり、大いに怒る有様にて「あ奴を牽いてまいれ!」と、徒侍に命じ、
両手を掴ませて前に引き寄せ

「己め、景勝を嘲弄せん事奇怪である!『屋形腹筋、いやいや(大笑いの御屋形様である、いやはや)』と
いう大紋を附けていたな!」

と、抜き打ちに誅殺された。
この若党は帷子の肩に「一手鏑矢」を付け、腹に「大筋」を付け、裾に射捨てた矢を紋に附けていたのを、
見咎められたのだという。
(つまり「鏑(矢)」が(肩)に、大(筋)が(腹)に、(射)捨てた(矢)、という事)

景勝は普段より、軍陣の時は勿論、或いは上洛、或いは江戸参府の時も、籠廻りは申すに及ばず、
供の者達まで、咳払いもせず、数百人の上下が無言で、足音ばかりにて通過した。行儀の正しきこと、
世に類なかった。

富士川の船渡にて、供の者達は舟に過分に乗ったため、川の途中で舟が沈もうとした時、
景勝が怒って杖を振り上げられると、それと同時に川の中に皆々飛び込み、泳いで渡ったため
召し船は恙無かった。士卒共が景勝を恐れること、このようであった。
長旅の途中であっても、馬にかける声の他は無言であった。

大坂の陣の信貴野口にて、先手の士寄り見物として、景勝の近習非番の輩が忍んで行った跡から、
景勝が一騎にて巡見に来られたのを見て、彼らは咎められるかと恐れ、鉄砲の玉が降り注いでいる
竹束の外に出て隠れた。敵よりも景勝を恐れたのである。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

多分これはいい話として記録されているのだろうけど、極端な。



片目の頭は、我々が太刀の切っ先にかけて

2021年06月14日 18:59

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 13:20:14.98 ID:gXgD925U
上杉弾正大弼定勝と、蒲生下総守忠郷は、無二の入魂にて、兄弟の契約をしていた。
忠郷は蒲生氏郷にとっては孫、秀行の嫡子にて。家康公の御外孫、会津六十万石の領主であった。
定勝は米沢三十二万石であり、互いにその領内の百姓まで、双方申し合わせ、境目も睦まじく往来した。
南部信濃守利直も、忠郷と殊の他に懇意であった。

仙台の伊達政宗とこの三人の衆は仲が悪かった。そのため何時でも政宗が出てくれば、
蒲生、上杉、南部の三家言い合わせ、「政宗を立ち挟んで討ち果たすべし」と、密々に堅く
言い合わせていた。

定勝、忠郷、利直の三人が同道して。上野の天海大僧正の元に夜咄に行った帰り、三人ながら
馬を乗り連ねられた。その途中にて南部殿の馬が荒々しく勇んだ。この時南部殿は大声で忠郷、定勝に
呼びかけた

「相公(忠郷宰相)、羽林(定勝左少将)、この馬の勇んでいるのをご覧候へ!
明日にも何事かあれば、この馬に乗り、ご両人と申し合わせ、彼奴(政宗)を立ち挟んで討ち果たすべし!」
と申された。これに忠郷、定勝もからからと笑われ

「仰せらるるにも及ばぬ事なり!片目の頭は、我々が太刀の切っ先にかけてご覧に入れ候はん!」
と宣われた。三家中の供の輩は皆、これを聞いたという。

蒲生忠郷は寛永三年(正確には寛永四年)正月に薨ぜられたが、定勝は大変に嘆き悲しみ、
三十五日精進され、上杉家中の士卒は申すに及ばず。米沢領内は十四日の間殺生禁断となり、
追善の法事が有った。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

なんで政宗こんなに嫌われているのか



808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 18:07:06.66 ID:gTgcpvPU
むしろ南部、蒲生、上杉から見て政宗を好きになれる要素があるのかと

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 19:11:51.94 ID:jObLku2y
政宗がいじめっ子で南部蒲生上杉はいじめられっ子って感じか。
しかもいじめたほうは全然覚えてなかったり身に覚えがない態を装う。

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 19:30:58.80 ID:gTgcpvPU
虐めっこっていうか迷惑な隣人というか…
現代的にいうなら騒音が煩いとかゴミ出しの時間守らないとか
人の家の庭に出入りしてくるとかそういう感じの厄介さじゃないかと

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 19:46:49.68 ID:JsZl/HXh
蒲生と南部は姻戚関係の親族だから、普通仲の悪い隣接した領地の上杉と仲いいってのが
よっぽど伊達に問題があったような

輝虎越後より出陣と聞くと、敵も味方も恐れて

2021年06月12日 18:01

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/12(土) 01:54:01.55 ID:mFfvZ2t0
佐野天徳寺が、江戸御城において、上杉弾正大弼定勝に向かってこのように語った

「あなたの御祖父である謙信公の御武勇の威勢は、兎角の言葉で表現できるものではありませんでした。
私が若き時分には、佐野は謙信公の御旗本でありました。

輝虎公が越後より上州厩橋城に御着になると、二、三日人馬を休め、それから関東筋へ打って出て、
縦横に働かれました。その、或いは五十日、或いは七十日の間は、例えば大雷があって夕立が降った
時の如く、敵も城外に打って出ること叶いませんでした。

さて、謙信公が関東での働きを終えられると、厩橋に帰城され、方々の仕置に十日余りかけられ、
その後越後に帰陣されました。

謙信公が猿ヶ京を過ぎて越後路に入ったという情報を聞くと、関東中の北条方、武田方の敵城は申すに
及ばず、上杉殿旗下の城々も安堵の思いを成し、「最早心易し」と悦びました。
逆に輝虎越後より出陣と聞くと、敵も味方も恐れて、安心が有りませんでした。」

この座に在った酒井讃岐守忠勝、阿部対馬守重次を始め、列座の大名、小名はこれを聞き、
感じ入られたという。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

敵が恐れるのはともかく、味方も恐れるというのはどういう状況なのだろうか。
あと佐野天徳寺は慶長六年に死去しているので、この話が実際にあったとすれば、
天徳寺の養子の佐野信吉が、義父から伝え聞いた話を語った、とかですかね。
阿部重次に至っては慶長三年生まれだし。

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/12(土) 02:01:03.71 ID:mFfvZ2t0
いやそもそも上杉定勝が慶長九年生まれだわ



一人を赦して、天下の人の心を安んずるべき

2021年06月11日 19:02

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/11(金) 17:11:10.28 ID:bexE1HJ7
関ヶ原の御陣の後、直江山城守兼続を誅伐すべきであると大御所様(家康)は思し召されていたが、
「そのような事をすれば、他国にも兼続の例に当てはまる者も多い、一人を赦して、
天下の人の心を安んずるべきであろう。」と御遠慮あって御助けなされ、剰え本多上野介正純の
弟である長五郎(本多政重)を婿養子として直江に下され、御懇意にされた。

関ヶ原で治部(三成)方をした諸大名の家老たちはこれを見て、「治部と心を合わせ、謀反の
張本である直江さえ御免なされた。まして我々のような末々は気遣いなし。」と、皆安堵したという。

寛永五年十二月十九日に直江山城守兼続死去。法名英貔院殿達三全智居士。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

これも既出の内容ですが出典が無かったので

関連
徳川家康の直江兼続処分


親類二人を迎えに越し申し候

2021年06月10日 16:45

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/10(木) 10:06:50.60 ID:EvlcOtgV
直江山城守兼続は、木曽(義仲)殿四天王の樋口次郎兼光の末である。
ある時、聚楽御城中において、諸大名列座されている中、伊達政宗が懐より金銭を取り出し、
直江山城を呼んで、

「城州、これを見よ。昔にはない物である。このように金銀にて銭を鋳る。見事なるものである。」
と、直江にこれを渡して見せた。
山城守は扇を抜き、少し開いて金銭を請けて、跳ね返しながら見て「実に珍物に候。」と言った。
この様子を政宗見て「城州、手に取って見よ。」と言われた。これに直江は申した

「私は輝虎(謙信)の目利きにて、用にも立つべきものと思われ、景勝に付けられました。
何時であっても采配を執る手であり、このようなむさき器は触らぬものであります。」
そう言うと金銭を畳の上に、扇より移した。これに政宗は赤面し、一言の返答も無かったという。

また、慶長三年、会津に景勝が移封される砌、横田式部という者が、召使いの茶道坊主を斬罪とした。
しかし、元よりこの茶坊主には誤りが無かったため、坊主の親類大勢が決起した。

丁度この頃、国改として京より前田徳善院玄以、石田治部少輔三成が当地に下向しており、
かの親類達はこの両人に対して訴えた。玄以、三成は「その事は直江方に申すべし。」と指図したため、
彼らは直江方に詰めかけた。

兼続は彼らに対面し「皆々の申し分は尤もである。であれば、主人である横田式部より、
詫び言として銀五十枚を出させるべし。それにて堪忍せよ。」と扱った。しかし訴訟人たちは
これに納得せず、怒って帰っていった。そして再び玄以、治部に訴えたが、彼らはこれを
取り合わなかった。そのため又山城守方に詰めかけた。

直江は「そう言うことであるのなら。銀七十枚を出させよう。」と扱いをしたが、彼らは
「七十枚が七百枚であっても、死したる人が帰ってくるでしょうか。中々分の無いことを
申される!」と、ごねた。
兼続はその時、札を一枚取り寄せ、一筆書きにて、直に持って出て、彼らに対し「訴訟人共の内、
張本人は幾人あるか」と尋ねた。「その坊主の兄と伯父であります。」と、両人出た。
彼らに対し山城守

「どのように扱おうとも、汝らは納得しない。もはやこの上は、かの坊主を再び今生に
呼び還さねば、汝らの心に叶わないであろう。ではあるが、誰であっても呼び返すための
使いが無いので、その者の兄と伯父の二人を、迎えに遣わそう。
この高札を持って早々に地獄に参り、閻魔王に見せて、かの坊主を召し連れて帰るべし。
乃ちその文を聞け」

と、山城守は高札を読んだ

『未だ御意を得ずと雖も、一筆申し入れ候。されば横田式部が召し使っていた茶道坊主を、親類どもが
呼び戻したいとたって申すに付き、即ち親類二人を迎えに越し申し候。きっと御返信有るべく候。
恐々謹言

                    直江山城守兼続
二月十日
  閻魔大王殿 参』

そう書き付け、読み聞かせ、かの張本の二人をその場にて斬罪し、かの高札を前に立てて、
二人の首を獄門にさらした。それ故にかの徒党達は蜘蛛の子を散らすように逃げ失せ、
以後国中で嗷訴(大勢で喧しく訴え出る)するもの一人もなく、静謐となった。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



266 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/06/18(金) 12:03:01.16 ID:6npJKe2o
>>260
直江兼続って金の価値わかってないからただの馬鹿だねってエピソードだね
(樋口兼光の子孫というのも自称であって確証がない。これは俺は武田だから武田信玄の末裔だというレベル)

そもそも政宗の叔父の伊達実元が越後守護の上杉家の養子で謙信の長尾家は守護代
家の格が伊達家>長尾家

267 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/06/18(金) 12:07:04.04 ID:6npJKe2o
さらに上田長尾家(景勝)で相手にならない

政宗は伊達宗家の跡取りである他に三浦氏の蘆名義高の子孫でもある(女系)し結城氏の子孫でもある(女系)
母親の家は斯波氏の流れを汲む最上氏で
近隣大名を分家化している立場で、樋口某がどうこうってレベルじゃないんだけどね。

これね結局のところ戦で上杉が伊達に勝ったことない
輝宗のせいで新発田の乱がおきて
政宗のせいで白石城奪われて
伊達家は上杉領を浸食して撤退戦はしているけど伊達領は上杉に戦で奪われていない
事に関しての後米沢藩士たちの妄想日記なんだよ

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/18(金) 18:22:31.81 ID:aEvDc5Pw
>>266-267
左京大夫乙

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/19(土) 05:27:22.71 ID:G/F/j9ep
>>266
実元が養子って、新しい資料でも出て養子入り頓挫ってのが覆ったのか?

上杉家に於いては直江山城守兼続一人で

2021年06月09日 18:31

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/09(水) 15:06:41.23 ID:m8ajUsaT
上杉景勝、定勝の代まで、上杉家に於いては直江山城守兼続一人で、万事国の仕置(行政)、
公事(裁判)沙汰までした。訴訟があると、山城守一人にて、傍の人を払い、刀を傍に置いて、
百姓、町人は白沙へ呼び対決させ、侍は座上に呼んで様子を尋ね、何事であっても大方
その場で裁き賞罰を行った。家中の訴訟も、手形・証文の判形も、兼続一人で事を済ました故、
物事が停滞するということがなかった。

直江は学問多智の分別者故、正しく動理に適っている事が多かった。
彼は元より謙信の傍にて生い立ち、武功も重ねたため、世の覚え、人の信用も厚く、
秀吉公にも重用され、また大御所様(家康)、秀忠様からも重用された。

会津に於いては三十二万国を領していたが、米沢に景勝が移封されると、六万石を賜った。
この時、自身は一万石を領し、五万石は諸傍輩に分配し、さらに一万石の私領からも五千石を分けて
家中に与え、自身は五千石であったのだが、景勝より新田を開き与え、また一万石となり、
その頃死去した。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



賤が植うる 田歌の聲も都かな

2021年06月08日 17:10

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/08(火) 12:48:59.84 ID:bZSdvN0k
慶長三年、会津に上杉景勝が入部した時、蒲生家の浪人数百名を召し出した。栗生美濃守、外池甚五左衛門、
岡野左内、布施次郎右衛門、北川図所、高力図所、青木新兵衛、安田勘助、小田切所左衛門、
横田大学、正木大膳、長井善左衛門、佐野源太、堀源助、等である。
この時関東浪人には、山上道及、上泉主水、車丹波守、等数十人、
上方者には、水野藤兵衛、前田慶次郎、宇佐美弥五左衛門など数十人が召し抱えられた。

このうち前田慶次(利益)は、加賀(前田)利家卿の従弟である(実際には甥)。
彼が初めて景勝に礼を申し上げたときは、穀蔵院ひよつと斎と名乗った。
その夏頃であったか、高宮の二幅袖の帷子褊綴を着し、非常に異形なる体であった。
また、彼は詩歌の達者であった。直江山城守兼続も学者であった故に仲良く、
直江宅にて慶次は論語の講釈をいたし、又は源氏物語の講釈をした。

慶長五年九月、景勝の名代として、直江山城守が四万余にて最上に出陣した砌、慶次は黒具足に猩々緋の羽織、
金のいらたか念珠(修験者の用いる角のある108の珠を用いた数珠)を頭に懸けたが、念珠の房には
金の瓢箪が付けられ、背に下るようにかけられた。
河原毛の野髪、大しだの馬に、金の兜巾を冠らせて打ち乗り、三寸計りの黒の馬に、緞子の袋に
干し味噌、乾飯を入れ鞍壺に置き、種子島ニ挺付けて、乗り換えとして引かせた。

最上からの上杉勢の退き口の時、敵勢と槍を合わせて、その高名は耳目を驚かせた。
水野藤兵衛、藤田森右衛門、溝口左馬助、韮塚理右衛門、宇佐美弥五左衛門と慶次と、以上五人が、
一所にて槍をした。

この時、最上義光は伊達政宗よりの加勢を一手に合わせて、上杉勢の退き口を追撃したため、
中々大事に及び、杉原常陸介、溝口左馬助らが種子島八百挺にて防ぎ戦ったが、最上勢は激しく
攻撃してきた。これに直江山城守は怒り出し

「味方が押し立てられて足を乱し、追い打ちに遭うのはもはや間もなくの事だろう。さても口惜しい。
腹を切らん!」

と言い出したところを、前田慶次が押し止め

「言語道断!左様に心弱くて大将が出来るでしょうか。私におまかせ候へ!」

と言うと取って返し、先の通り、水野、韮塚、藤田、宇佐美と、この慶次の五人にて槍を合わせ、
最上勢を突き返し、能く引き払い、何事もなく引き取った。

関ヶ原御陣過ぎて、景勝が米沢に移封された時、慶次を諸方より欲しがり、高い知行にて呼んだが、
「我が主は景勝より他は無し」とて、一生妻子も持たず、寺に住居しているかのように生活し、
在郷に引き込んで、弾正定勝の代に病死した。

慶次は連歌を嗜み、紹巴が評価した句も数多あるが、その中より覚えているものを記す

『賤が植うる 田歌の聲も都かな』

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/08(火) 14:53:36.83 ID:KzHVeQpO
花の慶次の名場面だったな

そこから時々光る物が出て

2021年06月07日 18:22

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/07(月) 14:38:41.61 ID:KGNkhzBX
永禄七年七月五日に、宇佐美駿河守定満と、長尾越前守政景とが、信州野尻城下の池にて生害した後、
そこから時々光る物が出て来るように成り、その上に魚がいなく成ったのだという。
確かな事であるので、ここに書き記すものである。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

長尾政景溺死事件の現場、後々いろいろあったらしい。



798 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/06/07(月) 22:14:22.49 ID:L+YEwMPm
>>797
             彡 ⌒ ミ
    ユッフォー>(´・ω・)               彡 ⌒ ミ
              / つ¶つ¶     デケデデッ>(・ω・`)
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荻田主馬の待遇

2021年06月06日 17:44

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/06(日) 14:57:38.93 ID:hS/VC2gz
荻田主馬(長繁)は、童名孫十郎といい、上杉謙信の小姓であった。後に與騒兵衛と言った。
上杉景勝の代に、旗本の武者奉行となったが、文禄の頃、景勝への不足を言って立ち退き、
後に結城宰相秀康卿に召し出され、その後越前に御供して参った。

この主馬の事を。古い傍輩の筋目である故に、城和泉守(昌茂)が駿府に於いて徳川家康に対し、
その待遇について様々に執り成しを申し上げた。大御所(家康)はお聞きに成ると、

「その方の親の意庵(城景茂)は越後に居たが、その方は甲州にて生まれ、それで上杉家中のことを
どうして知っているだろうか。途方も無いことを申している。
総じて武辺のことは、その家に居て、見聞きした人の言うことが実である。
他国に伝わった評判、又伝、又話では、疑うべき事である。」

そう言ってお叱りに成られた。
その座に畠山入庵(義春)、その子伊勢守(畠山義真)が居たため、上意に
「荻田のことは入庵は存じているであろう。語り申すように。」と仰せに成られた。
入庵は承り

「荻田は、我が組に罷り在りました。彼が孫十郎と申していた時、越中の陣にて、敵味方が
堤・土手を挟んで睨み合っていた時、孫十郎は一番に走り出て、槍を打ち込み、合戦を始めた
手柄が在りました。また三郎景虎と景勝が戦った時(御館の乱)、北条丹後守に槍を付けた事と、
この二度の武辺がありました。その他の武功は、それぞれの合戦で少しずつの事です。」

と、憚り無く申し上げた所、大御所は

「さてこそ、和泉の申し分とはうらはらに違っている。ではあるが、景勝家にて口をも聞くほどの
者であったというのに、越前に於いてそのように小身では、人材を粗末にしてしまう事となるのに、
越前の息子は合点の行かぬ者である。」

との御意故、その後荻田主馬を越前に於いて、一万石に成されたという。

(信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記)



252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/06(日) 23:30:21.40 ID:2BcYQFS/
上杉家中の切り崩し

上杉景勝は小男であったが

2021年06月04日 18:34

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/04(金) 16:38:42.41 ID:KbVm5Tt3
上杉景勝は小男であったが、ともかくその面魂が、何百人の中にあっても無類なる大将であった。
彼は一代の間言葉少なく、笑った事がなかった。

その跡を継いだ弾正定勝は慈悲なる人であり、士卒を憐れむ故に、家中上下が懐き従うこと浅からなかった。
彼は謙信・景勝の二代の間に、上杉家を立ち退き、又は死に失せ、追放に遭った譜代の侍共の子孫を
大方呼び返した。それ故に諸人悦んだ。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

景勝が無口で笑わなかったという話の元ネタは、この辺りなんですかね。



景勝は譜代の主でありますから

2021年06月03日 16:55

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/02(水) 21:58:52.39 ID:ElcQNDgE
上杉家家臣の甘糟備後守清長(景継)は、越後上田衆の出で、槍一本の身上であったが、大剛の働きがあり、
主君覚えの者であった故に登用され、一手の大将となり、上杉景勝が会津に入部の時には、甘糟備後守は
二万三千石余りにて、伊達政宗領との境である大事の所であるからと、白石城に差し置かれた。

彼の弟の登坂式部も覚えの者であったのだが、関ヶ原御陣の時に、甘糟備後守は会津の景勝の元に
行っており、留守をしていた式部は、伊達政宗に謀られ、逆心して白石城を政宗に明け渡した。
それ故に景勝はその兄である備後守を勘当同然に致し、非常に冷遇した。

その頃、家康様より、畠山下総守(義真)に対して、『甘糟が景勝に冷遇されているというのであれば、
上杉家を立ち退くように。私が五万石にて召し出すであろう。』と仰せに成られた。そして御上洛の時、
下総守は屋敷に甘糟備後守を呼び寄せ、その事を伝えた所、彼は

「忝なく存じますが、景勝は譜代の主でありますから、その上意については罷り成りません。」

と言い切った。これに下総守も「尤も」と申され、その事はこれにて止んだ。

ところがこの事を景勝が聞きつけると、以前に弟の事で半ば勘当として悪感情をいだいていた上に、
いよいよ今度の事に、景勝は非常に不愉快になり

「私が義絶、不通の長門守(畠山下総守の事)の所に忍んで参った事、不届きである!」

と、以降言葉もかけずいよいよ疎外した。備後守死去の後は、その子たちに相続を許さず、彼らは
南部か津軽かに浪人して行ったという。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

同内容のものは既に出ていましたが出典が違いかなり詳しいので。



その他の注進状は、皆偽作と見え、

2021年06月01日 18:12

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/01(火) 15:07:35.12 ID:K4eUfYaZ
近年、世間に出ている記録を見るに、当家(上杉家)に於いて、嘗て聞いたこともないものが多い。
川中島合戦を、公方(足利)義輝公に注進した書状という物が有るが、みな後世の人の偽作である。

ただし、天文二十二年霜月二十八日、川中島下米宮での合戦(第一次川中島合戦)の次第を、
京都の大館伊予守(大舘晴光か)方へ書き付け送られた書状は、真の書状であり、実物が京都にある。

この内容は横田源助、武田大坊、坂垣三郎、穴山主膳、半菅善四郎、粟田讃岐守、染田三郎左衛門、
帯兼刑部、并びに駿河今川よりの加勢・朝比奈左京進、武田飛騨守などを始め、五千余騎を討ち取った、
という文言である。この書状は確かなる本物である。その他の注進状は、皆偽作と見え、信用なり難い。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記



車懸りの陣について

2021年05月31日 18:28

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/31(月) 15:28:14.54 ID:PkbNsYg0
第五度目の、最後の川中島合戦は、永禄四年九月十日であった。この次第は別巻に註する故これを略す。

総じて近年、世上において『車懸り』という手立てを、川中島合戦で上杉謙信が用られ、それは
いく廻り目にて、旗本と敵の旗本が打ち合いをする手立てであるのだという。
これについて、当家上杉方においては、遂に聞いたことがない。

尤も、家の法に車懸りという、備えの懸け方がある。これは、敵が戦地に先立って備えを立ち固めており、
我が方は行き懸かりに押しかけつつ、備えを立てようとする所を、敵が待ち受けて、我が方が
備えを立てるため軍の形が変化する所を、敵が打とうと企んでいる、という場合において、
我が方が車懸りという手立てで備えを懸ければ、その事によって、備えを立てるために変化した所に、
敵が打とうと懸かってきても、返って我が方の大利となり、遂に勝利を得るという秘術である。

されども、五度目の川中島合戦で謙信がこのような車懸りをしたという事は無い。
但し、第三度目の弘治二年三月二十六日、川中島合戦の退き口に、謙信が「車返し」という手立てにて、
武田信玄方を引き包んで打ち取り、戦に勝ったことを、聞き誤って言い伝えられているのではないだろうか。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

寛文元年(1661)二月十三日の奥書のある、上杉家家臣、丸太左門友輔が著したとされる記録より、
車懸りの陣について



790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/31(月) 22:01:12.30 ID:EIPAA98W
乃至政彦説だと村上義清の上田原合戦の戦法をヒントに
第四次川中島で兵種別編成を整えた謙信が信玄の首を狙ったところ
信玄がわざと「車懸かり」と由緒ありそうな名前をつけて
上田原合戦での苦戦を想起させないようにさせただけで
上杉家では「車懸かり」という名前など徳川時代になるまで知らなかったとか書いてたっけ