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桶狭間後日譚

2020年06月11日 17:03

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/11(木) 02:07:06.11 ID:HTSH4nvb
上総介信長は御馬の先に今川義元の首を持たせられ御急ぎなさり、その日の内に清州へ御出あって
翌日に首実検をなされた。首数3千余あり。そこへ義元の差された鞭と弓懸を持った同朋衆を、下
方九郎左衛門と申す者が生け捕りにして進上した。「近頃の名誉を仕った」との由で御褒美があり、
御機嫌ななめならず。

同朋衆は義元前後の始末を申し上げ、首々に一々誰々と見知り申す名字を書き付かせなさった。か
の同朋衆には、のし付きの大刀脇差を下された。そのうえ10人の僧衆を御仕立てになり、義元の
首を同朋衆に添えて駿河へ送り遣わされたのである。清州から20町南、須賀口・熱田へ参る海道
に“義元塚”という塚を築かせなさり、弔いのためと千部経を読ませ大卒塔婆を立て置きなさった。

今回、分捕りになった義元が日頃差されて秘蔵した、名誉の左文字の刀を召し上げられて何度も切
らせられ、信長は日頃差しなさったのであった。御手柄は言葉で申し尽くせない次第である。

――『信長公記 首巻』


桶狭間の戦場で義元の同胞衆の権阿弥という者は、義元の差された弓掛けと鞭を持っていた。下方
九郎左衛門という者はこの権阿弥を生け捕って大将へ奉る。(中略)大卒塔婆を立てなさり「信長
は情けある大将かな」と、近国までも沙汰しけり。

熱田大明神へも今回の御願成就があった奉幣を捧げ、御修理を加えなされた。また今回、義元が陣
中へ差しなさった松倉郷義弘の刀をこちらへ分捕りに取って差し上げると、「これは天下の重宝で
ある」と信長公は御秘蔵なされ、この刀を御差料になさった。

――『織田軍記総見記)』



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桶狭間の毛利新介と服部小平太

2020年06月10日 17:16

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/06/10(水) 01:56:53.83 ID:tKLQnxUk
(桶狭間の戦いの時)

毛利新助(良勝)、服部小平太(一忠)などを初め、高名の輩に一々恩賞を宛て行われ、いずれも
面目を施した。さても今回、服部小平太は早く義元を槍付けたが切り倒され、新助は遅かったが、
ついに義元の首を取って末代まで聞き伝える高名となり、これは只事ではない。天の恵み、仏神の
冥加に叶いたり。

先年の清州騒動の時、新助は未だ毛利十郎(実際は別人)といって若輩だったが、先武衛(斯波義
統)の若君を生け捕って御命を助け参らせた。「代々の国主にかようの大忠を致した故に、天道に
も叶ったのではないか」と、皆人は感じ褒め合った。

――『織田軍記(総見記)』


服部小平太は義元に掛かり合い、膝の口を切られ倒れ伏す。毛利新介は義元を切り伏せ首を取った。
これひとえに先年の清州城において(織田彦五郎が)武衛様をことごとく攻め殺した時、(一族の
毛利十郎が)御舎弟を1人生け捕って助け申され、「その冥加たちまち来て、義元の首を取り給う」
との、人々の風聞であった。

――『信長公記 首巻』

先年御腹めさせ候刻を佐渡覚悟を以て申延候

2020年05月27日 18:18

林秀貞   
93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/26(火) 22:55:16.97 ID:wLd/15L7
一、去る程に信長公の一大人(家老)の林佐渡守(秀貞)、その弟の林美作守(通具)、柴田権六
  (勝家)が申し合わせて、3人が勘十郎殿(織田信勝)を守り立てようとして既及逆心との由
  で、風説取り取りであった。

  信長公は何と思し召したことなのか、5月26日に信長と安房殿(織田信時)とただ2人で清
  州から那古野城の林佐渡の所へ御出になった。

  「よき巡り合わせなので、御腹を召させよう」と弟の美作守が申すのを、林佐渡守はあまりに
  面映ゆく存じたのか「三代相恩の主君をおめおめとここで手にかけ討ち申しては、天道が恐ろ
  しい。どのみち(信長は)御迷惑に及ばれるのだから、今は御腹を召させることはできない」
  と申して御命を助け、信長を帰し申した。

  一両日が過ぎてから御敵の色を立て、林の与力の荒子城が熱田と清州の間を取り切って御敵に
  なり、米野城と大脇城は清州と那古野の間にあってこれも林の与力であるため、一味して御敵
  を仕った。

一、(信勝との和睦の時)

  林佐渡守のことは、これまた召し出されまじきことではあったが、先年御腹を召させるという
  時のことを、佐渡は覚悟をもって申し延べた(先年御腹めさせ候刻を佐渡覚悟を以て申延候)。
  その子細を思し召し出されて、このたび御宥免なされたのである。

  ――『信長公記 首巻』



94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/27(水) 11:03:28.43 ID:LokIAzXC
秀吉の信雄三家老懐柔を思い出した

ついに武蔵守殿を生害し奉りけり

2020年05月25日 18:21

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/24(日) 19:26:51.09 ID:wRe4BRWs
織田信勝誅殺の時)

これより信長は作病を御構えになり一切表へ御出にならず、御兄弟なので勘十郎殿(織田信勝)に
「御見舞いしてしかるべき」と、御袋様(土田御前)ならびに柴田権六(勝家)が意見申すにつき、
清州へ御見舞いに御出になった。

そして清州北矢倉天守の次の間において、弘治4年戌午(1558)霜月2日、河尻青貝に仰せ付
けられて御生害なされた。この忠節を仕ったことにより、後に越前大国を柴田に仰せ付けられた。

――『信長公記 首巻』


柴田勝家の密告を)信長公は聞こし召されて隠密の智謀を柴田に仰せ聞かされ、その夜に勝家を
末森へ返された。さてそれより信長公は病気と称して虚病を構え、長く籠居なされた。同年の冬に
村井民部を御使として御母堂へ仰せ上げられるには、

「某の病気は日を追って盛んになり、治ることは有り難く覚えます。いまだ子を持ち申しませんの
で家督を武蔵守信行に譲ろうと存じます。早く武蔵守方へ迎えを遣されては頂けませんか」

と真らしく仰せ遣わされた。御母堂は事実と思し召して一先ず御嘆きなされたのを早く早くと勧め
申せば、難無く迎えを遣されて(信勝に)子細を仰せ聞かされた。

武蔵守殿は心浅き人で、この事を真と思し召したため、同11月2日に清州城へ入りなされて信長
へ御対面なさりたいと御寝所の矢倉へ通らせなさったところを、この矢倉の天守の次の間であらか
じめ信長が仰せ付けおかれた如く、討手の人々の山口飛騨守、長谷川橋介、河尻、青貝、この者ど
もは小志津の御刀を預かっていて初太刀を強かに打ち付けると、信行はそこを切り抜けなさって、
御母堂の御座所へ走り退きなさった。

そこを、その方向の受け手である池田勝三郎信輝(恒興)が引き組んで三刀刺し、ついに武蔵守殿
を生害し奉りけり。

――『織田軍記総見記)』



下郡半国も過半は御敵となったのである

2020年05月11日 17:37

161 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/11(月) 02:53:00.32 ID:2m/XX9y0
(長良川の戦い後)

戦が終わり首実検をすると(斎藤義龍は)信長の御陣所である大良口へ人数を出した。信長は大良
から30町ほど駆け出て、および河原で戦い合う足軽合戦があって、

山口取手介 討死
土方喜三郎 討死
森三左衛門(可成) 千石又一に渡し合い、馬上で切り合って三左衛門は脛の口を切られ引き退く。

しかし、山城(斎藤道三)も合戦に切り負け討死の由なので、信長は大良の御本陣まで引き入った
のだった。ここで大河を隔てていたので、雑人・牛馬をことごとく退かせなさり、殿は信長がなさ
るとの由で全ての人数に川を越させなさり、上総介殿(信長)の乗られる御舟1艘を残して各々は
川を打ち越えた。

すると馬武者少々が川端まで駆けて来た。その時に信長は鉄砲を撃ちなさり、敵はそこから近くに
は寄らず、信長はそこを去って御舟に乗られて御越しになった。

そのようなところで、尾張国半国の主・織田伊勢守(信安)は濃州の義龍と申し合わせて、御敵の
色を立てる。信長の館・清州の近所、下の郷という村を放火したとの由が追々注進された。信長は
御無念に思し召し、ただちに岩倉口へ御遣わしになって岩倉近辺の知行所を焼き払い、その日の御
人数は御引き取りになった。

このようであったため、下郡半国も過半は御敵となったのである。

――『信長公記 首巻』



162 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/11(月) 15:47:24.33 ID:YxnV2kQk
土岐のご落胤なんてのは取って付けた名分であって実際は国人領主に担ぎ上げられた義龍が道三を討っただけ
伊達も武田も似たようなものでしょう

“はんか(范可)”

2020年05月10日 16:45

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/10(日) 10:08:14.32 ID:Bhm2267u
山城(斎藤道三)には子息に一男・新九郎(斎藤義龍)、二男・孫四郎、三男・喜平次の兄弟3人がい
た。父子4人ともに稲葉山に居城していた。

およそ人の惣領たる者は、決まって心が緩々として穏当なものである。道三は智恵の鏡も曇り「新九郎
は耄者(愚か者)」とばかり心得て弟2人を「利口の者かな」と崇敬し、三男の喜平次を一色右兵衛大
輔になしながら位官を進められた。そのようであるために弟どもは勝ちに乗じて奢り蔑む如く応対した。

新九郎は体裁を無念に存じ、10月13日より作病を構えて奥へ引き入り養生したのである。霜月22
日、山城道三は山下の私宅へ下られた。ここで伯父の長井隼人正(道利)を使いにして、弟2人の方へ
申し遣したことには「現在、急病で時を期すことになった。対面して一言申したきことがあるので来て
ほしい」と申し送った。

長井隼人正は巧みを廻して意見申すと、同心して2人の弟どもは新九郎の所へ来たのである。長井隼人
正が次の間に刀を置くと、これを見て兄弟の者も同じように次の間に刀を置き奥の間へ入った。良き盃
をと振る舞いを出し、日根野備中(弘就)は名誉の物切のふと刀“作手棒兼常”を抜き持ち、上座にいた
孫四郎を切り伏せた。また右兵衛大輔(喜平次)を切り殺し、年来の愁眉を開いたのであった。

すなわち山下にいた山城道三方へ右の趣が申し遣され、仰天致して肝を消すこと限りなし。ここで法螺
を立てて人数を寄せ、四方の町末より火を掛けことごとく放火して井口を裸城になし、長良川の川を越
えて山県という山中へ引き退き、明くる年4月18日、鶴山へ取り上って国中を見下ろし居陣した。

信長も道三の婿なので、手合わせをして木曽川・飛騨川を舟で渡り、大河を打ち越えて大良の戸島東蔵
坊の構に至って御在陣された。すると銭亀がいてここもかしこも銭を敷いたようであった(戸島東蔵坊
構に至て御在陣。銭亀爰もかしこも銭を布たる如く也)。

4月20日辰刻、戍亥へ向かって新九郎義龍は人数を出した。道三も鶴山を降り下り、長良川の端まで
人数を出された。一番合戦に竹腰道塵(道鎮)6百ばかりが真ん丸になって中の渡りを打ち越え、山城
道三の旗本へ切り掛かった。散々に入り乱れ相戦ってついに竹腰道塵は合戦に切り負け、山城道三は竹
腰を討ち取って床木に腰を掛け、母衣を揺すり満足した。

そんなところで二番槍に新九郎義龍の多くの人数がどっと川を越え、互いに人数を立てて備えた。義龍
の備の中から武者一騎、長屋甚右衛門という者が進み掛かる。また山城の人数の内より柴田角内という
者がただ一騎進み出て長屋に渡し合い、真ん中で相戦って勝負を決し、柴田角内は晴れがましき高名を
なした。

双方より掛かり合って入り乱れ火花を散らし、相戦ってしのぎを削り鍔を割り、ここかしこで思い思い
の働きあり。長井忠左衛門(井上道勝)は道三に渡し合い、太刀を押し上げむずと抱き付き、山城を生
け捕りに仕らんというところへ荒武者の小真木源太(小牧道家)が走り来たり、山城の脛を薙ぎ伏せて
首を取った。忠左衛門は後の証拠のためにと山城の鼻を削いで退いた。

合戦に打ち勝って首実検のところへ道三の首を持って来た。この時(義龍は)「身から出た罪である」
と得道したのであった。これより後に新九郎は“はんか(范可)”と名乗った。故事があって、昔唐のは
んかという者は親の首を切った。それは父の首を切って孝となったのだという。(それに比べて)今の
新九郎義龍は不孝重罪恥辱となったのである。

――『信長公記 首巻』



60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/10(日) 12:39:32.94 ID:HKYSxrCU
織田としてはそうせざるを得ないわなw