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すなわち鬮取りにされたという

2021年02月06日 17:58

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/06(土) 14:53:10.50 ID:CAEJcein
大阪冬の陣の時、伊勢の大将であった本多美濃守(忠政)殿の陣屋に、組の人々を集めて、
天王寺表での、それぞれの陣場の配置を渡した。

その時、古田大膳(重治)殿は病気で、家来の原十兵衛が名代として来ていた。
十兵衛は陣場の割付、地形、剣難を見渡して
「このような御割付については、ひとまず大膳に申し聞かせないことには請け取ること出来ません。
願わくば鬮取りにて仰せ付け下されますように。」
と申した。

この言葉に、本多殿は以ての外に腹立たれ、あれこれと議論したが、十兵衛は少しも臆せず
「いかに仰せられましても、この分にては請け取れません。」と申しきったため、話が進まず、
その場も苦々しい様子に見えた所に、分部左京(光信)殿が進み出て十兵衛に向かい

「其の方などの身として、美濃守殿の御言葉を言い返すなど、慮外千万、沙汰の限りであるぞ。」
と戒められ、また美濃守殿に向かい

「十兵衛の申す所は、一途に己の主人を大事に考えていることで、その身分を忘れ、御前を憚らず
慮外を申し上げたのだと思います。それを思召し分けられ、御赦免なされ、鬮取りを仰せ付けられれば、
十兵衛にとっても当座の面目、一代の名誉となるでしょう。」

そう、理を尽くして申すと、本多殿も機嫌を直し、すなわち鬮取りにされたという。

この原十兵衛は、後に森内記(長継)殿の家に仕えたという。

備前老人物語



汝は古田彌惣だな!

2021年02月04日 18:31

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/04(木) 14:30:23.87 ID:ETpTvNyE
中西彌五作と古田彌惣は並びなき友であったが、賤ヶ岳の戦いの時、戦いあい、彌五作は鑓にて
彌三を突き伏せ、兜を引き明け、既に首を取ろうとしたが、よく見ればそれは彌惣であった。

何という事かと思い、押しくつろげて、「汝は古田彌惣だな!」と言うと、彌惣は下から

「そう言うのは中西彌五作だな!かかる時に臨んで、言われざる名乗りである!早く首を取れ!」
と言った。しかし彌五作は

「どうしてそんな事ができるものか。」と、取って引き起こし、彌惣の鎧の塵を打ち払って
「不思議なこともあるものだ。」と笑って立ち別れたという。
彌五作は秀吉公の御方、彌惣は柴田殿の方であった。

その後、大和中納言殿(豊臣秀長)に仕え、終には古田兵部少輔殿(重勝)の家老となった吉田惣左衛門
という人こそ、かの彌惣の事である。

(備前老人物語)



今はこれまでぞ。さらば、さらば。

2021年02月03日 18:01

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/03(水) 14:52:38.05 ID:Hr476j/4
吉村又右衛門は人の知りたる武勇の人である、と申されていた。

私(著者)が中国へ罷り下ろうとしていた頃、暇乞いとして、彼が夜中に来た。
「又いつ会えるか知れないから。」と言って、酒を飲んで過ごし、様々な事を心静かに語った。
そして「もう夜も深くなってしまった。では。」と言って帰ろうとし、私はそれを門の外まで送り、
「命あらば、又逢おう。」と言って立ち別れようとすると、吉村は名残惜しげに、私の手を取って
「今少し送れよ。」と言った。そこで二、三町ばかり語らいながら歩いていると、この時吉村は
こう語った。

「人が終わろうとする時、必ず一言を残すものだという。私は老いた。これは今生の御暇乞いである。
その方は年が若い。相かまえて、”つらくつなき”者からは遠ざかるように。尤も主人童僕であっても
その心得があるべきだが。貴人も賤しきも、人を知るという事を、心得るべきだ。

今はこれまでぞ。さらば、さらば。返すがえすも命あらば。」

そう言って立ち別れた。その時のことは、老後の今も忘れがたい。
眼にも耳にも残っている。

”つらくつなし”とは俗語で、例えば我儘で、異見も聴き入れないような、気儘な者の事を言うのだと理解している。

備前老人物語



912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/03(水) 20:41:30.83 ID:cMyRziqo
吉村又右衛門さんって福島の家老から極限の貧乏に転落した人か

君臣親子の情、真実の道理を表わされた

2021年02月02日 17:20

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/02(火) 15:34:17.64 ID:0c9HIEwf
伯耆の守護である南條中務殿(南条元忠カ)は、代々武辺の家であると言い伝わっている。
かの家の例にて、毎年正月二十日ぶが、具足の餅の祝いがあり、侍共が残らず城に集まった、

南條は甲冑を帯びて出られ、床几に腰を掛け、大土器にて酒宴があった。
ある時、何条は続けざまに二盃かたむけて、「おもい指しなり。其の方もおもい指しせよ!」とて、
家老に盃を指した、彼は「有り難く存ずる」と押し頂き、たっぷりと酒を受けて飲み、またたっぷりと
受けて、手に持って暫く思案する様子が見えた。

座に在る者共、誰に指すのだろうかと待っていた所、彼は頭を延ばしてかなたこなたと見巡らせ、
我が子を呼び出し、

「この土器にて、おもい指しをせよとの仰せを蒙り、暫く思案したのだが、殿様に献ずるのも
なにやら面映ゆく、汝に勝って思う人も居ない。」

そう言って土器を指した。息子は「傍若無人なり」とは思ったが、親の命であるので「忝なく存じ候」と
引き受け、二盃傾けたが、この様子が南條殿の笑壺に入り

「よく指したり、飲みたり、肴なくてはかなわじ」と、その時具足の上から差していた脇差に、
熨斗鮑を添えて与えた。

君臣親子の情、真実の道理を表わされた。末頼もしき風情であると、これを嫉む人は居なかった。

(備前老人物語)




908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/02(火) 16:39:59.22 ID:asYGmJ2t
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4866.html
伊達政宗「上様、思い差し仕るっ!」


http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4872.html
島津豊久の『思い差し』


この二つの逸話のせいで「思い差し」て聞くと衆道を先に連想してしまう

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/02(火) 19:48:37.88 ID:J9QJFelH
備前老人ってヘロドトスみたいなタイプなんだろうな
逸話好きすぎて変な事まで大量に書き残す

思うに、返らぬことでは有るが

2021年02月01日 18:11

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/01(月) 16:37:00.04 ID:s06oUcHl
関ヶ原の合戦の前に、石田治部少輔(三成)は、一騎駆にて佐和山より大阪に馳来たり、
増田右衛門尉(長盛)に参会し、密に談ずるべき事ありとして、数寄屋に入って物語をした。

初めは何事を語っていたのか、やがて三成は
「せめてこの上は五畿内の諸浪人共を集め、無二無三の合戦を行わねば叶いがたし、いかが考えるか。」
と言った。

これに右衛門尉は
「尤も然るべき事であるが、それではこちらから企んだような事となる。とにかく時節が至るのを
待って、天道に任せることこそ然るべきである。」
と応えた。

治部少輔は微笑して言った
「太閤様の患いが御快気されていた時、貴殿や我らたちを召され、『汝らに百万石づつ下そう。
何故ならば、私は今度の病気中に様々なことを考えた。汝らを大名にしておけば、万事心安かるべしと
思ったのだ。』と仰せになった。

その時皆々目を合わせ、『さても有難き仰せかな。何と申すべき言葉もありません。ですが、
人の口も有ること故、重ねてこそ仰せをば奉ります。』と、その時はたって辞した。その事を
思うに、返らぬことでは有るが、くやしき事である。あの時百万石を領していれば、現在、
何の不足があっただろうか。とにもかくにも、私は人数を持っていない以上、思うに益なし。
口惜しき次第である。」

そのように語ったとのことだ。

このような大事の事を、一体誰が聞き伝えたのだろうか。しかし私は確かに、人が語っているのを聞いた。
不審なることである。

備前老人物語



もとより信長公の異形不思議の御振舞に

2021年01月31日 17:53

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/31(日) 15:11:36.42 ID:jIZQT6cw
織田信長が安土に御座されていた頃、荒木摂州(村重)より仔細の事があり、使者を参らせるとして
家中より人選した所、荒木彌助でなければ使者にすべき者は無いとして、この彌助を安土へ派遣した。

彼は菅屋九郎右衛門(長頼)の取次によって御前に召された。使いの事が終わった後、信長公は
こう仰せになった

「汝は荒木彌助という者であるか。その名は内々に聞き及んでおる。これへ、これへ」
と、食籠にあった餅を二つ三つ脇差にて貫かれ、それを彌助の前に差し出された。

これに彌助は「畏まって候」と、己の脇差を抜き、腹ばいになって這い出て口を開けて
餅を賜らんとした。
この様子を御覧になって、信長公はにっこりと笑われ、その餅を御脇差ごと打ち捨てられたのを、
彌助が取って押し頂いて退き、餅を皆うち食らい、御脇差を袖にて拭うと、小姓衆にこれを渡した。

小姓衆は受け取って、鞘に収めて再び信長公に参らせると、脇差はそのまま、彌助が賜った。
彌助はこれを三度頂いて退出した。

もとより信長公の異形不思議の御振舞に、荒木のとっさの対応、古今珍しき事であると、その頃の人々は
申しあったという。

備前老人物語

脇差に指した餅の事、ここでは村重ではなくその家臣の話なんですね



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/31(日) 15:28:00.66 ID:77Y0ikbF
信長ってめんどくさい人だよな
こういうピエロじみた振る舞いも好きだし
謹厳居士もそれはそれで嫌いじゃないし
その時の気分次第か
秀吉は気分を読むのが格段にうまかったんだろうな

898 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/31(日) 15:37:47.65 ID:Vtd2rZqU
家康も信長に負けず劣らずの相当な気分屋に見えるけどな

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/31(日) 17:17:39.84 ID:IK6o6DfY
そういう無茶振りに対応できる人は有能だからね
名人Q太郎とか秀吉を重用したのも分かる
常識人の光秀には出来ない腹芸だよ

これも鑓同前に

2021年01月30日 18:26

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/30(土) 16:17:40.34 ID:/QYGEpXb
長久手合戦の時、鑓(一番鑓)を入れたのは家康公の御方では、平松金次郎大脇七兵衛であった。
但し七兵衛は弓であった。

合戦後、家康公の仰せに「今度の鑓は平松金次郎である。」として、御座をお立ちになった所に、
七兵衛が御跡に付いて申し上げた
「私もその場に在りましたが、弓を仰せ付けられていたため、その役を守り矢を二筋放ちました。
これも鑓同前に成らないのでしょうか?」

家康公は御思案され、
「いかにも、汝が申す通りである。その証拠にせよ」
と、丁度手に持っておられた矢二筋を下されたという。
大脇七兵衛は良く申し上げたものである。

これは前田二郎兵衛という武功の人が語った事である。

備前老人物語



武士の道、殊勝である

2021年01月26日 17:12

森長可   
874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/26(火) 16:26:05.31 ID:qq6aRlXV
長久手合戦の折、森勝蔵(長可)殿がその場の穿鑿をされた時、
「今度の一番鑓は山田八右衛門千田主水の両人である。」と定められた。

その時、千田主水進み出て
「一番鑓は八右衛門であり、その次が某です。」
と申したため、八右衛門に尋ねると
「その時はどのようであったか、私の周りは騒がしく、しかと覚えておりません。」
と申した。たって尋ねられると
「私の鑓の石突に物の触わったような覚えがありますが、一番か二番かは存じません。」
との事で、これに対し人々は

「互いに、有り体に申しており、武士の道、殊勝である、」

と沙汰した。

備前老人物語



名人左衛門督

2021年01月25日 17:10

堀秀政   
868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/25(月) 12:45:04.84 ID:Q9O+iPhz
越後の堀左衛門督(秀政)の家中の諸士へのあてがい、百姓町人以下への作法等が悪しきとして、
何者かが越後の城下の町の辻に大札を立て、そこには『堀左衛門殿悪敷仕置の条々』として、
二十二、三ヵ条が書きつけられていた。

堀家の目付、出頭人などが談合し、これを左衛門殿に見せ参らせ
「かかるいたづら者をば、きっと御穿鑿あって、懲らしめのためにも法度を行われるべきです。」
と申し上げた。

左衛門殿はこの札をつくづくと読むと、ふと立ち上がって袴を着け、手水を使い、うがいをして
かの札を三度頂くと言われた

「一体どこに、これ程の諫言を私に言ってくれる者がいるだろうか。これは偏に、天が与えさせ
給わったものであろう。この札は、我が家の宝である。」

そうして札を結構なる袋に入れ箱に納め、その後、諸奉行・代官等を集め、それぞれに善悪を糺し、
家中の作法、知行割、扶持方の渡し様、町人百姓に至るまで、憐憫を加え、仕置尽く宜しく改められた。

それ以降、世の人々はこぞって彼を、名人左衛門督と云った。

備前老人物語



869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/25(月) 17:19:42.84 ID:Kw6qKn9S
Q太郎は何をやっても名人と頭に付けられるのか

秀吉が落首事件で同じことをやってたら人気が上がったのかな

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/25(月) 18:01:21.17 ID:8fTafSj5
政治批判だけならともかく
秀頼が秀吉の子を怪しむ落書だったら
こんな対応が取れるわけが

あれを見よ、退屈せぬ奴原かな。

2021年01月19日 17:47

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/19(火) 13:25:26.00 ID:yJCIqhGj
太閤秀吉公の御陣の時、御馬廻りの衆の陣小屋を見廻られたが、そこに、小謡うたい、小鼓を打っている
所があった。秀吉公は立ち寄られ、垣の隙間から中を伺うと、内に武者が三人有った。
一人は具足櫃に腰掛けて鼓を打ち、一人は扇を持って謡をうたった。いま一人は盃をひかえ居た。
各々皆、甲冑を帯びていた。

これを見られ、「御気色を悪くされるのではないか。」と、お供の人々は心配していた所、
そのような事はなく

「あれを見よ、退屈せぬ奴原かな。」

と、笑みを含ませられ、

「それぞれの奴原に酒を取らせよ。あまり飲みすぎて酔うなどしないように言え。」

と宣われてその場を打ち過ぎられた。

備前老人物語



これにて尋常に討死すべし。皆々見物せよ!

2021年01月18日 18:20

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/18(月) 16:45:11.64 ID:BDVowD8z
岐阜での合戦で城方が負けて、城中に兵を取り込む時、津田藤三郎という者が殿をした。
彼が城まで戻ると城門は閉じられていたため、門を叩いて「ここを開けよ!」と言った。
しかし門番は
「門を開ければ寄せ手が城内に入ってしまう。壁を乗り越えて入るように。」
と言った。

藤三郎はこれを聞くと
「このように取り込んだ話になるだけでも口惜しいのに、壁を乗り越えて逃げ入るなど、
大変見苦しい事である。これにて尋常に討死すべし。皆々見物せよ!」
と言って馬より降り鑓を取り直し、足拍子を踏んで立った。
すると城内より

「さても見事な振る舞いではないか!かかる兵を目前に討たすべきには非ず。さあ、門を
開くのだ!」
との声が上がり、門を開いて入れさせた。

後に津田将監(信任)と名乗る人物が彼である。

(備前老人物語)



846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/18(月) 16:53:24.85 ID:NRVdS6IN
洛中千人斬りした人?

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/18(月) 16:55:07.66 ID:NRVdS6IN
洛外だった失礼

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/19(火) 17:17:03.48 ID:d6PfSSOp
>>848
初代太閤立志伝みたいだな

>>848
初代太閤立志伝みたいだな

初代太閤立志伝みたいだな

851 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/01/19(火) 23:01:38.29 ID:ayOYwNf+
千人斬りってすげーな
歴史に残したほうがいいんじゃないの

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/19(火) 23:41:51.20 ID:U73AQl1n
津田与左衛門信任は関が原の頃には改易隠居済み、後に将監と名乗るわけがない
津田藤三郎は秀信に仕えて大番頭、8千石(『岐阜落城記』)

津田藤三郎と津田信任は十中八九別人
津田将監=信任という註釈が間違ってる

もし敵が出ているなら、それがしが一番鑓である!

2021年01月15日 18:08

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/15(金) 16:13:29.20 ID:STTwyufl
小西摂津守(行長)が宇土を居城にしていた時、加藤肥後守(清正)、さる仔細あって押し寄せ
攻められたことが有った。この時清正は、仕寄り場を巡見して、「今夜城より夜討ちに打ち出る事も
有るだろう。面々の持ち口用心有るべし。」と下知して本陣へ帰られた。

この時期は夜寒の頃であり、軍勢は皆具足の上に、或いは夜着を着、或いは小袖を着ていたが、
その中に、名字は忘れたが、その名は長兵衛といった兵は、具足の上に蒲団を打ちかけて居た。

城中より俄に、どよめく声が上がった。かねて予想されたことであったので、「すわ、敵こそ
出れ!」と、我も我もと騒ぎ立ち懸け出ようとするが、上に着ていた夜着や小袖が具足にまとわりついて
すぐに脱げず、もたついている間に、長兵衛は上にかけていた蒲団を投げやり、一番に馳せ出、
「もし敵が出ているなら、それがしが一番鑓である!」
と、声高に名乗った。

およそ、常に心かけていた武辺は、真実の武辺である。
そうではない武辺は、たまたまの仕合に過ぎない。
武士のことは言うに及ばず、農工商、出家沙門に至るまで、その道を嗜み、心懸有る上で
不幸になってしまうのは、力が及ばなかったという事なのだろう。
長兵衛は常に心懸けがあった故に、その時、鑓を出そうとした者は多かったが、一番鑓になったと
言うことである。

備前老人物語



その二人のうち一人は、

2021年01月14日 17:52

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/14(木) 16:33:59.89 ID:kqJ4+uC9
いずれの城を攻めた時であったか、寄せ手の大将が兵二人を召し、
「先手の竹束は堀際までどれほど付いたか、これらの他、様子をよく見てくるように。」

そう命ぜられると、一人は竹束の陰を忍び忍びに見ていった。
もう一人は、「剛の者には鉄砲は当たらぬものと言い伝わっている。それのみ成らず、運は転にあるものだ。」
と言って、竹束の外を、臆せずはばからず駆け巡り、二人ながら先手の人々に大将の仰せを伝え、
様子を見届けて帰った。

初め竹束の陰を忍び行った者は、立ち帰る時には竹束の外を帰り、竹束の外を行った者は、竹束の内を
通って帰り、それぞれ先手の有様を詳しく申し上げた。

この事は、後に人々も評し、大将も感じ給わった。
その二人のうち一人は、羽柴左衛門大夫(福島正則)殿の侍、可児才蔵(吉長)と言う者であった。

備前老人物語



843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/14(木) 19:16:41.13 ID:b4jaZeeO
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-890.html
これだと可児才蔵
「本当は自分も、早くたどり着く外を通りたかったが、
途中で撃ち殺されれば使者の役目を果たせなかっただろう。それでは軍律違反になるので控えた。
だが、もはや使者の用は終ったので、今は撃ち殺されても別に差し支えはない」
って言ったことになってた

「今の鉄砲の音、心許なし。急いで見てくるべし。」

2021年01月13日 17:50

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/13(水) 13:24:58.78 ID:2u+d5loY
関ヶ原の合戦で、筑前中納言(小早川秀秋)殿は少々高き所に陣を取られていた。
麓の方から怪しい鉄砲の音が聞こえたため、その日の使番である二宮與三右衛門を召して
「今の鉄砲の音、心許なし。急いで見てくるべし。」
と仰せに成り、「畏まって候」と馬を引かせ、徒立って麓に下りると、麓よりも武者が一騎上ってきて、
二宮に行き向かい

「貴殿は今の鉄砲の音について、麓の有様を見よとの御使いであろうか。私はその事についての、
中納言様への使いである。
今の鉄砲は薬が湿ったため、既に打ち捨てており、少しもお気遣いする事では有りません。
御心安く思し召されるように、との事ですので、もはや御出に及ぶべからず。
この旨を仰せ上げられるように。」

そう言った。二宮は聞いて、「其の方も使い、私も使いである。あれに平岡石見守(頼勝)が居られる。
石見守に仰せ入れて頂きたい。」と言った。

相手は、再三に及んで無用であると言って留まっていると、二宮は「互いに使いであれば、それぞれ埒が
明くのが良いではないか。」と、愛想無く言い捨てると立ち別れ、麓の様子を見聞きすると、あの使いが
言っていた事に変えて、彼は少し心得が有ったので、戦場の難しき体をよくよく見届けて立ち帰り、
この旨を詳しく申し上げると、中納言殿は聞き召され、「よくこそ見て参った。」と感じ入られ、
褒美などを給わった。

その時々の状況によるべきではあるが、使いたる者の心得はかくあるべきであると、
坂崎半兵衛は語った。
またこの二宮與三右衛門は、若い時には二宮千太郎と云った者である。彼は大坂の陣の時は、
天王寺口において御宿越前守と一所で討ち死にしたと、坂崎は又語った。

備前老人物語

このお話もしかして、問鉄砲の原型ですかね。



平塚因幡守の討死の様子

2021年01月11日 17:19

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/11(月) 12:34:05.76 ID:OYdq351k
平塚因幡守(為広)の、関ヶ原での討死の様子を人が語った所によると、関ヶ原の合戦で、味方敗軍に
及んだ時、因幡守は馬を脇に引き退け、自害するような様子に見えた所に敵が来て、

「筑前中納言(小早川秀秋)の小姓、横田小半助!」

と名乗り、歩行にて馬上の因州を一鑓突いた、しかし因幡守は、突かれながら自身の十文字の鑓にて
横田を一打ち二打ち打って、「せがれ(若造)め!」と罵ると、小半助は鑓を引き抜き、又掴みかかろうと
した所に、因州は素早く馬より飛び降り、馬を盾にして小半助と戦い、終に小半助を突き伏せ、
若党に首を取らせ、「この首せがれながら志の者と見えた故に討ち取った。互いにこれが暇乞いである。」と、
大谷刑部少輔(吉継)へ言い遣わした。

その後、因州は殊の外に疲れて、田の畦に腰を掛けて息をつき、自害しようとしていた所に、
山内対馬守(一豊)殿の侍、柏井太郎兵衛(樫井太兵衛)と言う者が馳せ来て鑓にて突いた。

この時、因州は自分の鑓を投げ突きにし、「汝が宝にせよ。」と言って、その場を去らずに討ち死にした。
もし小半助が、一度突いた鑓を抜かなければ、彼が利を得ただろうと言われた。

備前老人物語



『天狗の雑説』という事があるもので

2021年01月09日 17:35

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/09(土) 13:36:18.29 ID:uXyU3sPj
小田原陣の時、韮山城を囲んでいた際に、森右近(忠政)殿は味方の人と先を争って、城際まで
竹束を付けられたが、一体誰が言い出したのか、「やがて城中より敵が打ち出る様子である、
皆々旗本に集合して一手になって戦うべし!」と触れられたため、味方の勢は我も我もと後先になって
引き退いた。

その中で若尾弥平次という鉄砲頭は、彼に付けられた二十人の足軽たちに下知した
「私の下知が有るまで、この場所を去ってはならない。もしこの下知に違う者は罪有るべし!」
そう言ったが、みな耳にも入らず、終に残り留まったのは七人だけと成った。

「場所はここを立ち去るべからず。敵が来ると見えれば下知をする。その時鉄砲一撃ちして、その後
私が一番に鑓合わせをする。」と、鑓を取り手ぐすねを引いて居た所、後ろから小声にて
「そこに居られるのは誰か」との声が聞こえた。
「若尾弥平次これに有り。そなたも鑓すべしと思われるのであれば、これへこれへ!」と言って
返り見ると、それは右京という者であった。名字は忘れたので記さない。

その時右京の言った事は、「何とは無しに人々引き退いたので、私も人並みに引いたのだが、あまりに
心もとなく、帰り来て見るに其の方だけが居られた。一体どういうことなのか。」
弥平次これを聞いて「どういう理由でこうなったのかは知らない。しかし、皆々慌てふためいて
引き退くと言っても、私の方には何の使いもなく、まして鉄砲などを預かっている者が、事の実否を
聞き定めずに立ち去るべきではなく、その事を足軽に下知したのだが、臆病者どもにて大方引き退き、
わずかに七人だけが残った。もし敵が出てくるのなら、せめて残った足軽たちに一撃ち撃たせて、
これにて一番に鑓を仕るべし、そなたも鑓を致さんとするのなら、ここに居られよ。」
そういうと、「尤もに候」と、一つ所に加わった。

この右京は大身の鑓を横たえて、弥平次の右側に居た。弥平次はこれを見て「貴殿の鑓の持ちようは、
敵が来ればその鑓に私を躓かせて、自分が一番鑓をしようとする心得と見た。中々おかしき事かな。
ここに留まったのは私一人であり、私の力があってこそ其の方もここに来たのだ。その鑓の持ち様は
侍の作法ではない。きたなし。その鑓引かれよ。」と言った。
右京は「その心得では無いが、鑓を引こう」と引いた。

「それにてこそ侍れ」として、一所に有った所に、森家の家老である各務兵庫(元正)が、前線の様子が
心許ないと、長刀を杖につき来ており、二人の後ろにしばし立ち居て、かれらの先の問答の様子を
つくづくと聞き、「さては聞くに及ぶ若尾の言葉である。」と、後々まで返すがえす感じ入ったという。

その後、城より敵が打ち出ることもなかったので、面々はそれぞれの持ち口へと戻った。
「惣じて陣所においては、『天狗の雑説』という事があるもので、しっかりと、確かに聞き届けないうちは
進退はせぬものである」と、若尾は語った。

彼は十八歳から高名があり、森武蔵守(長可)殿より感状三つ、その他信濃にて森右近殿よりの感状もあり、
されば色々、心がけの事多い人であった。彼は後に作州を去って福島殿に仕え、近年紀伊の御家(徳川頼宣)
に召されて終に病死した。その頃は佐々木善兵衛と名乗っていた。

(備前老人物語)



834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/09(土) 14:23:21.22 ID:yK/TwY+e
三河者か

貴殿の名には三つの不審がある

2021年01月08日 18:41

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/08(金) 16:26:54.69 ID:Ve91bGh0
織田内府(信雄)の家臣である、生駒萬兵衛と言う人が新参の頃、ある人が、初めて彼を知ったので、
このように尋ねた

「貴殿の名には三つの不審がある。萬兵衛の読みは『ま兵衛』なのか、『まん兵衛』なのか、
それとも『まんひょうえ』なのか、しかと承りたく存ずる。」

これに萬兵衛は申した
「不審される事、余儀ありません。しかしどのように言って頂いてもかまいません。それは
その人の服中に虚実の有る故なのです。

腹が空虚のときには、はねて言うような力がないので、『ま兵衛』と言われます。
また腹中充満して、酒気など盛んな時は、『まんひょうえ』とはねて言われます。
その本名は、生駒萬兵衛と申す者也。」

これに、かの問うた人々は又言うべき言葉も無く、「さわらずして味のある返答なり」と、
人々はみな言った。

備前老人物語



831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/08(金) 21:43:50.68 ID:fMGW7tlw
戦国の頃の人って(西郷隆盛もそんな感じだから明治ぐらいまでも?)
名前に頓着しないよね
現代人はアイデンティティとして漢字も読みも大事にするからちょっと不思議な感じ
まあ幼名、元服、諱といくつもあってさらにカジュアルに改名するから

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/10(日) 18:29:45.58 ID:8Umn3I9A
>>831
立花宗茂なんて理由がわからんぐらいコロコロ名前変えすぎてて
仮に大河やったら元服したらそく「宗茂」にしそう

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/13(水) 10:15:26.32 ID:5q8DtHMz
>>831
家によって○○新左衛門××とか△△萬弥□□と言う感じで昔は真ん中の呼び名で呼ばれてた事が多かったとか

語るに飾り無く

2021年01月07日 18:21

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/07(木) 17:15:47.53 ID:VGqIU3AW
ある時、古田大膳(重治)が青木民部少輔(一重)に向かって言った
「あなたは越前の真柄(隆基)を討ち取られたと聞きます。その時の様子を語って頂けないでしょうか。
私はそれを承りたく思います。」

これに対し青木は
「真柄という人物は、大剛大力の者であり、本来私などに討たれるような人物では有りませんでした。
しかし折ふしの仕合良くて、真柄が手負い、くたびれていた所に行き掛かって討ち取ったのです。
何の、様子と言うほどのこともありませんでした。」
と答えた。

これに、「語るに飾り無く仰られることだ」と、古田大膳を初め聞く人たちは皆感じ入ったという。

備前老人物語



能ある鷹は爪を隠す

2021年01月06日 18:30

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/06(水) 17:21:27.53 ID:hk6W+Ej8
織田信長公の家に、弓好きの人が有り、的を射て当たらぬということがなかった。

ある時信長公がその様子を見たい言われ、日を定めてそれを見たが、他の人は的に当てるのに、
その者は当てることが出来なかった。そのうちに日が暮れ、信長公が的場より帰られる時、
「人の言うのと見る事とは違うものかな。」と仰せになった。

その後、一揆が蜂起したため人々馳せ向かったが、かの弓好きの人、信長公の馬先に進み、
さし詰め引き詰め敵を射ると、ほとんど外れた矢はなかった、そして味方はこれによって勝利を得たため、
信長公も悦ばれること斜め成らず、

「能ある鷹は爪を隠すという事がある。先の的場での事は、このような時を思って当てなかったのだな。
たしなみ深し。」

そう感じ入られ、褒美の物を給わった。
物と時によって、その種類は多いだろうが、人の芸はこのように慎むべき事なのだと、
弓をよく知れる人が言っていた。その時、かの弓を射た人の名も聞いていたのだが、忘れてしまった。

備前老人物語



827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/06(水) 18:44:07.62 ID:9ZqabgiX
本多忠勝のように普段は下手だけど戦場だけ強いのかと思った

かるかやに 見にしむ色は なけれとも

2021年01月05日 17:37

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/05(火) 15:34:53.17 ID:hOMWL+6l
今川義元が戦場において、何某とやらを召し「先手の様子を見て急ぎ罷り帰るように。」と命じたが、
先手では早くも戦の半ばであるのに行き合い、逃れがたい状況であったので、鑓を入れて首一つを
取って帰り、義元の見参に入れてその成り行きを語った所、義元は大いに怒り

「様体を見計らって急ぎ帰れとこそ言ったのに、その身の働き、私に対して忠の所は少しも無い!
軍法に任せて、きっと計らうべし!」

そのように仰せに成られた。かの使いの者はしおれたような顔で、謹んで義元の前に侍ふ人に向かい、
小声で藤原家隆の歌をつぶやいた

「かるかやに 見にしむ色は なけれとも 見てすてかたき 露の下をれ」
(秋の苅萱は、心惹かれるような色ではありませんが、露の光るしなだれた様子を見れば、捨て難いものなのです)

この様子に義元はさらに怒り、「何を言っているのか!?」と怒鳴ると、近習の者がそれを申し上げた。
これを聞いて義元は暫く考え、気色和らぎ、

「とどかざる仕形であるが、急なるに臨み、奇特に家隆の歌を思い出した事は名誉である。」

として赦したという。
昔の人はこのようにやさしき事があった。ただし、「時によるべき事である。一様には定めがたい。」
という人も有る。

備前老人物語