真の忠義

2015年04月11日 16:31

660 名前:1/2[sage] 投稿日:2015/04/10(金) 23:38:30.07 ID:cQs6fhQ9
毛利元就は多年尼子氏の幕下に従っていたが、民部太夫晴久の代に至って。元就の武功近国にその名高く、
『このままだと、後には尼子とても毛利家の麾下に属するだろう』と、人々は皆評判していた。
晴久に対しても、今元就退治の謀略をしなければ、今後尼子家の為、臍を噛むことに成るでしょうと
讒言するものが有り、晴久もこれを「尤もである」と信用して、それより元就を疎んじ、常に不快の色が
顕れていたため、元就も常々これを憤っていた。

こんな折節、この尼子と毛利の間が不快であるということが大内家にも漏れ聞こえ、大内義隆ならびに
陶尾張守(隆房)より、大内の味方に属するよう懇ろに申越した。
これに元就

「私は尼子と縁者の好によって、一旦麾下に属してより戦功を上げたこと多年に渡る。
しかるに今、讒舎の佞言を信じて、ややもすれば私に害心を抱かれている。これは言われもないことである!」

そういって大内に対し、一味する旨の返事をし、あわせて児玉木工充を山口に遣わし、その盟約を述べた。

さてまた、元就より人質として尼子に付け置かれ、富田に在った赤川十郎左衛門、光永中務の両人に
密かにこの旨を通達し、急ぎその地を引き取るよう伝えた。よって両人密かに富田を立ち退いたが、
尼子の者達はこれを察知し追手を遣わし同国の大東という場所で難なく追いつかれた。

661 名前:2/2[sage] 投稿日:2015/04/10(金) 23:39:31.27 ID:cQs6fhQ9
赤川、光永は引き返し暫く防ぎ戦い、一旦敵を追い散らしたものの、もとより追っ手多数である上、
光永は深手を負い、両人が無事に切り抜けることは不可能に思われた。
ここで光永は赤川に言った

「私はこのように手を負い、ことに老身でもありもはや一緒に立ち退くことかなわない。
私はここで討ち死にしよう。追手の勢は未だ再びこちらに攻めかけてこない。今のうちにそなたは
急ぎここを立ち退かれよ!」

これを赤川十郎左衛門聞くと猛反対した
「両人一緒に在有って敵に逢い、一人踏みとどまって討ち死にするのを見捨てて、私ひとりここを立ち退いては、
弓矢の恥辱、これに過ぎたものはない!重ねて人にこの面を向けることもできなくなる!
そのようなことは全く、思いもよらぬ!」

しかし光永
「一端の道理はそうだ。しかし今ここで両人一緒に死んだとて、主人に対しさしたる忠義にはならない。
いかにもして一人だけでもここを切り抜け本国に帰り、近年雲州に在って見聞きした尼子家の様子を
つぶさに主君に伝え、今後の戦忠のために一命を投げ打つ事こそ、真の忠義であるのだから、片時も
早く、急ぐのだ!」

そうしきりに諌め、諭すと、赤川もその道理に屈服し、しぶしぶそこを立って別れ落ちた。

その後、光永中務は敵がかかってくるのを待ち受け。馬を引き寄せ打ち乗って、
「毛利家の侍、光永中務光重である!」
と名乗り、近づく敵を待ち受けた。

尼子勢はこれを少数と見ていたので、我先に討ち取らんと総勢一度に攻めかかる。光永は討ち残された
郎党10人ばかりを左右に従え、敵陣に駆け入り、駆け破り駆け通り、取って返しては討ち払い、
死狂いに攻め戦えば、今まで付き従った家人も次第に討ち死にして、主従2,3人となり、
その身も戦い疲れ、『今は赤川も、定めて遥かに落ち延びただろう。』と思い、そのまま、
馬に乗りながら刀の切っ先を口に当て、「とう」と馬より真っ逆さまに落ち、その刀に貫かれて死んだ。

赤川十郎左衛門は無事吉田に帰り着き、雲州の様子をつぶさに伝え、今回、大東で追手と戦い、光永を見捨て
面目なくも引き帰ったことも詳しく述べた。
元就はこれを聞くと

「光永は深手を負ったのだから、引き帰ることができず討ち死にしたのも仕方のない事だ。
赤川が無益の討ち死にを遂げず、光永の意見に従って帰ったこと、これこそ忠義の志を忘れぬ故である。」
そう言って特に感賞したという。

(芸侯三家誌)




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