381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/24(日) 11:57:49.42 ID:QkJb/iy2
織田信長公が大坂(本願寺)を取り囲んでいた時、大坂は御当家(毛利)に対し
『是非とも頼み申す。兵糧が続くことが第一なのです。何分にも頼み奉ります。』
と頻りに要請があり、このため二度にわたって兵糧を大阪に入れ、そしてこのために
信長公と御当家の間は手切れと成った。
信長公は伊勢の九鬼大隅(嘉隆)に命じて、河口に大船二艘を据え置き、城のように
配備した。そこに毛利家は芸州の警護船を差し上らせた。そしてかの二艘の大船を共に切り崩し、
兵糧を入れた。しかしながら織田方は信長公の命により大阪周辺に数多の付城を作らせ、
特に茶臼山に塙九郎左衛門(原田直政)を置いて諸口を手堅く保たせており、この包囲を
破ることは出来ず、大坂方は逼塞した。これについて御当家も木津に一城を造らせここに
粟屋内蔵丞を置いた。児玉内蔵大輔は御家中の警護船の運用をよく知っており、度々大阪表に
詰めていた。兵庫花隈城もこちらに従う事になり、杉次郎左衛門を置いた。
そのような中、城介殿(織田信忠)がこの方面に出陣してきたため、乃美宗勝が淡路より
加勢として入った。同じく桂民部大輔も罷り越した。
城介殿は人数三百程にて未明に城近くまで寄り掛かり、これを攻略しようと考えていた。
城中の者達は攻撃を覚悟していたのだが、どうしたわけか、晩の七時(午後四時頃)に
撤退した。これに城中の者達は尽く寛いだ。
(老翁物語)
大坂本願寺攻め、特に第二次木津川口の戦いに対する毛利の認識。毛利としては、有名な信長の「大船」
は毛利の船団が切り崩し兵糧の搬入に成功した。ただし原田直政を中心とした陸上での包囲が固かった
ため攻勢に出ることが出来なかった。そのように受け取っていた模様。
織田信長公が大坂(本願寺)を取り囲んでいた時、大坂は御当家(毛利)に対し
『是非とも頼み申す。兵糧が続くことが第一なのです。何分にも頼み奉ります。』
と頻りに要請があり、このため二度にわたって兵糧を大阪に入れ、そしてこのために
信長公と御当家の間は手切れと成った。
信長公は伊勢の九鬼大隅(嘉隆)に命じて、河口に大船二艘を据え置き、城のように
配備した。そこに毛利家は芸州の警護船を差し上らせた。そしてかの二艘の大船を共に切り崩し、
兵糧を入れた。しかしながら織田方は信長公の命により大阪周辺に数多の付城を作らせ、
特に茶臼山に塙九郎左衛門(原田直政)を置いて諸口を手堅く保たせており、この包囲を
破ることは出来ず、大坂方は逼塞した。これについて御当家も木津に一城を造らせここに
粟屋内蔵丞を置いた。児玉内蔵大輔は御家中の警護船の運用をよく知っており、度々大阪表に
詰めていた。兵庫花隈城もこちらに従う事になり、杉次郎左衛門を置いた。
そのような中、城介殿(織田信忠)がこの方面に出陣してきたため、乃美宗勝が淡路より
加勢として入った。同じく桂民部大輔も罷り越した。
城介殿は人数三百程にて未明に城近くまで寄り掛かり、これを攻略しようと考えていた。
城中の者達は攻撃を覚悟していたのだが、どうしたわけか、晩の七時(午後四時頃)に
撤退した。これに城中の者達は尽く寛いだ。
(老翁物語)
大坂本願寺攻め、特に第二次木津川口の戦いに対する毛利の認識。毛利としては、有名な信長の「大船」
は毛利の船団が切り崩し兵糧の搬入に成功した。ただし原田直政を中心とした陸上での包囲が固かった
ため攻勢に出ることが出来なかった。そのように受け取っていた模様。
スポンサーサイト