観音寺騒動のはじまり、後藤賢豊父子誅殺事件

2018年04月15日 21:18

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/14(土) 18:35:54.55 ID:htFx1fy8
その年(永禄6(1563))、近江の佐々木六角氏にも動乱のことが有った。

六角氏の家老といえば、目賀次郎左衛門、樽崎太郎左衛門尉、三上孫三郎、三雲新左衛門、
蒲生下野守といった人々であり、それに加えて、両門客として佐々木刑部太夫と田中四郎兵衛の
二家があった。その他に、京極、朽木、鞍智、大原と言った一門があったが、彼らは
京の将軍家直参であったため、格別であった。

このような譜代相伝の家臣の他に、後藤(賢豊)という者があった。船岡合戦以来六角家に
忠功を尽くし、賞は他を越え、威勢を振るい家老の列に加わり、頻りに鷹揚の思いがあった。
また、これはその身が滅ぶ端相であったのか、彼の申すことは大小にかかわらず、屋形である
六角承禎(義賢)は、良きことと聞き、全てを彼一人に評定させて他の者の申すことは用いなかった。

こうして後藤は六角家中の大勢力となり、一門家老を差し越えて、家中上下を己の下に
立たせんと欲した。
己の心にかなう者には賞を申し与え、罪を免らしめた。このようであったので六角家の侍の過半は
後藤に従い付いた。

去る永禄五年、六角義賢は隠居して、家督は子息の右衛門督義弼(義治)と成ったが、
後藤の威もさらに増し、飛ぶ鳥を地に落とすほどであった。
義治はこの有様に、「もし後藤但馬守が逆意を思い立てる事があれば、我が一門や家来も
皆彼に従って私に背く事疑いない。主人の威がこのように軽いこと以ての外の次第である。
何事か機会があれば、後藤を誅殺せねばならない。」
そう密かに考えていたが、国中で最大の権勢を前に打つ手を見つけられず、悩んでいた。
そして義治の近臣である種村、建部というものを呼び寄せ、このことを打ち明け相談した。
両名は驚き

「後藤は承禎様の寵臣であり、国中の大名家老の多くが彼の縁者です。誅殺出来たとしても
きっと後難が降りかかるでしょう。先ずこのことを承禎様の伺い奉り、その後誅するべきです」

そう答えたが、これに義治は大いに怒り
「汝らを頼もしいと思いこの一大事を打ち明けた事こそ我が落ち度であった!父屋形に申して
御免有るものか、却って後藤達に漏れ聞こえ、我が禍となるであろう。
この上は力及ばず。今夜うち立ち、自ら後藤を討ち果たし存分を遂げるべし!」

そういって一人で襲撃の準備をしようとするのを、種村、建部は止めて
「暫時、お待ちになってください。それほどに思し召すのであれば、明日後藤を召し寄せ、
そこで誅殺いたします!」
そうはっきりと約束すると、義治も斜めならず悦び、明日を待った。

後藤但馬守とその子息又三郎は、このような事を夢にも知らず、屋形より使いがあると聞いて
早朝、観音寺城に出仕した。
そこを待ち受け、種村、建部両人は数多の若者たちを引き連れ、四方より後藤父子を取り囲み、
終に彼らを討ち取った。後藤父子は陳謝しようにも罪がなく、力なく無実の罪にて討たれたのである。

六角承禎はこの報を聞いて大いに仰天し対処しようとしたが、その甲斐もなく、先ず後藤の供を
していた者達が国中に走り散ったことで、様々な雑説がしきりと囁かれた。

一方義治の方は、かくて我が身の一大事成ったと、家老たちを呼び集め、今回の事態を説明し
国中を静めようと、家老たちの方へ遣いを立て『後藤父子は過分の驕り身に余り、逆心を
思い立ったため誅殺したのだ。その仔細を詳しく申し聞かすため各々登城するように』と
呼びかけたが、老中は皆後藤の親類縁者であり、「きっと我々も誅殺するための、偽りの
お遣いなのだ」と驚き騒ぎ、進藤山城守貞治、目賀田、三井、馬淵三右衛門、楢崎太郎左衛門、
伊達出羽守、平井加賀守、永原大炊助、池田伊予守、横山、木戸、荒井、三雲三郎左衛門といった
者達が、取るものも取りあえず各々の知行地へ引き籠った。これは誠に、六角家滅亡の端相であった。
(足利季世記)

六角氏の観音寺騒動のはじまりである後藤賢豊父子誅殺事件について



668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/14(土) 19:43:19.29 ID:huHkP8C6
先代の寵臣を次代が更迭あるいは謀殺するのはままあること
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蒲生氏郷は昔を思って

2014年03月17日 19:08

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 13:16:19.32 ID:vZJIuX8Q
蒲生とは江州の士であり、佐々木承禎(六角義賢)の家臣であった。後に信長に属し、また太閤(秀吉)に仕えた。

蒲生氏郷は優れた人物であった。初めは伊勢松坂で12万国を所領し、その直後に会津120万石を領した。
これは太閤の時代のことであり、その時彼は40歳ほどであった。

佐々木承禎は江州一国を領した大名であったが、織田信長に滅ぼされて江州を取られた。承禎の子は四郎殿(六角義治
と言って、太閤の時代には咄の者(御伽衆)となって二百石であった。
蒲生は元々その家臣であったのだが、その時は百万余石を領していた。

しかし、伏見などで太閤の御前に侍り、退散の時、氏郷は昔を思って、六角四郎殿の刀を持って従われる事もあったという。

蒲生が江州で承禎の家臣だった時代には、日野を領していた。氏郷の父(蒲生賢秀)は頑愚にして天性臆病の人であった、
その頃、俗人の間では小歌に

『日野の蒲生殿は、陣さえ云やへをこきやる』(日野の蒲生殿は、戦と聞いただけで臆病風にふかれる)

と言ったのは、この人のことを指しているのである。

(老人雑話)

蒲生氏郷が、旧主六角氏にも義理を通していた、という逸話である