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しかし松永の運が強かったのか

2021年08月31日 16:33

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/31(火) 01:23:01.55 ID:ik3gw1m9
細川記に曰く、永禄元年六月九日、松永弾正久秀は五千の軍勢にて将軍地蔵山に陣取り、
近江の六角義賢の勢に向かって合戦を始めた。互いに新手を入れ替え、終日戦し暮にかかった頃、
近江勢は討ち負け、五十三人が討ち死にした。

松永は勝ちに乗じて撤退する六角勢を追いかけ、「松永弾正久秀なり!」と名乗った所、
近江衆に竹林坊という、名を得た弓の上手が有り、松永を狙って丁と射た。

しかし松永の運が強かったのか、竹林坊が射た時、胸板に弦が擦れたために狙いが外れ、
その矢は松永が乗っている馬に当たった。馬はそのまま倒れたが、松永はとっさに弓手に
飛び降りて危うき命を助かったという。

武芸小伝

久秀の強運なのか、弓の名手も失敗したというお話



3 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/31(火) 16:43:33.83 ID:zZ4WraQL
松竹ウマでめでたい
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信長狙撃事件について

2020年10月29日 16:05

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/28(水) 22:11:22.91 ID:T0SBhEYQ
永禄十三年
五月二十二日
摂州、江州等よりの注進があった。六角入道(承禎)、同右衛門督(義治)らが、一昨日に甲賀の
石部城に出てきたという、その軍勢は二万ばかりという。
そして織田弾正忠(信長)が、甲津畑において、鉄砲四丁にて山中から撃たれたという。
ただし当たらず、笠の柄が打ち折れたという。言葉にも出来ない(不可説不可説)。

言継卿記

杉谷善住坊による信長狙撃事件についての、言継卿記の記事



将軍義輝の帰洛

2020年05月30日 17:08

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/30(土) 13:22:42.00 ID:pexHAR2w
明けて天文二十一年(1552)春になると、去年以来、佐々木六角義賢より三好筑前守長慶へ様々の計議を
廻らせて、公方家(足利義輝)御入洛の義を取り扱い、この春に又、楢崎某を使いとして猶この事を催した。
長慶方よりも、日野上人を使節として色々の陳答有り、徐々に和平が相調った。
この時、三好長慶の申し述べる趣きは

『私は公方家に対し、元より異心はありませんが、私の父の仇である細川右京兆晴元が猶も私を亡ぼそうと
される故に、度々合戦に及び、この時公方家も晴元に一味ましますに依って、私は心ならずも御敵と成った
事は、世の通知する所です。然れども、公方家の御命の危うい時は、私はわざと陣を引き去って忠志を立てた
事多い。

然るにかの晴元は、私の一族である宗三入道(三好政長)の讒言を信じて、亡父海雲入道(三好元長)が
忠功の者であるのに、忽ちに殺された。その恨みは骨髄に徹するものではありますが、元来晴元は主君の
筋目であり、その上、私は武功を以て宗三を討ち取ったので、先ず父の仇は報じたるものであります。

今は、晴元が世に望み無く隠居され、その御子に家督を譲った上でこの長慶に渡されるという事であれば、
三好家が後見してその御子を取り立て参らせます。そうなれば、我等は晴元の御命を失うまでの事は
要求しません。この条件に同心され、晴元が剃髪の姿と成って居館を開かれれば、現在の管領には
細川氏綱を申し成し、右京太夫に補任有らしめ、その後、晴元の御子成人の時、管領職を与奪せしめ、
再度かの御子に京兆の家を相続させ、管領に申すべきです。

この条件を受け入れ、公方家は元のように御入洛され、御政務有るべし。』

長慶が申す趣、愚ならずして、公儀御内談一決の上で、御約条を交わし、和睦はここに調った。
これによって、同正月二十八日、公方家は江州朽木谷を立って御帰洛され、元の如く二條の御所に
お入りに成った。

この時、細川晴元の嫡子・聡明丸(細川昭元)といって五歳であるのを御供に召し連れられ、人質のようにして
三好家に渡された。これは六角定頼の息女、義賢にとっては妹の儲けた一男である。二男は義賢の元に
預かり置かれた。この時、六角義賢も公方家の御供をして上洛し、御帰京の義を賀し申した。

細川右京兆晴元は、心ならずも髪を剃り、永川斎心月一清と名を改め、江州堅田より父子相別れて流浪した。
晴元の家人たちも、思い思いに髻を切り、出家の姿と成った者は八十人余りであった。
主従散り散りに落魄し、皆人に哀れを催した。

さて、三好長慶は日時を移さず公方家に出仕を勤め、洛中に権威を振るった。
同二月二十六日、細川次郎氏綱が上洛有って、故武州禅門常桓(細川高国)の跡目と号し、則ち家督を
相続して管領職に備わると、同三月十一日には右京太夫に補任された。舎弟の四郎藤賢も同日、右馬頭に
任じられ、典厩の家を相続した。誠に栄枯一時に変じ、皆人奇異の思いを成した。

續應仁後記

将軍足利義輝の帰洛について。



義昭公の御果報のほどこそ

2019年04月18日 16:17

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 07:15:51.40 ID:nuv0nMir
足利義昭公は「どうしてもこの信長を滅ぼさねば、公方の家は成り立ち難い」と思し召され、江州の
佐々木(六角)承禎、浅井備前守(長政)などと語らうと、彼らは即時に同心したため、「何時なりとも、
出陣に於いてはあらかじめ内意を聞かせる。」と申し下した。こうして両人は加勢を催し、昼夜暇なく
信長に対する敵対行動を行った。これに拠って義昭公は心強くなられ、いよいよ信長との一戦を決意した。

こうして義昭公は、御領分の人数ならびに京勢を加えて、四千騎ばかりにて都を立たせ給い、山田、
矢橋、志賀、唐崎、比良、小松、和邇、堅田などの漁船を奪い取り、数百艘にうち乗り、これにてすぐに
安土へと発向すると聞こえた。

この情報に信長は驚き、「忠が不忠になるとはこの事ではないか。しかし今日このごろの公方の御身で、
この信長を倒すなどというのは、まさに蟷螂の斧であり身の程を知らない。しかしそうは言っても、
佐々木、浅井が手を合わせるのなら、(比叡山の)山法師たちもこれに加わることにも成るだろう。
万が一公方に多勢が付いては大変である。ならばすぐに打ち立ち追い散らさん。」
そして三万余にて馳せ上り、公方勢を散々に蹴散らし、公方勢が接収した船共も悉く元通りに繋がせ、
義昭公も都へ移し、そこに警護を数多付けられた。

信長は帰陣してつらつら案ずるに「とかくこの君を都に置いていては、私の出世の妨げと成る。」と思われ、
堺に下して或る寺に追い籠め奉り、番を堅く付けて置かれた。義昭公の御果報のほどこそ、おもいやられて
あわれである。

(室町殿物語)



880 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:25:29.89 ID:hrCSpIgA
>忠が不忠になるとはこの事ではないか

将軍をナチュラルに家臣扱いしててくっそ笑うw

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:41:45.66 ID:/+XOGeZR
公方謀反とか主上御謀反とか
謀反とはなんぞや

883 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/18(木) 11:44:02.74 ID:8GdWClx3
>>882
後鳥羽上皇「せやせや」

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 11:57:13.59 ID:LDmTFWvv
>>880
忠誠を尽くしてきたのに、将軍に裏切られたってことだと思うよ

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/18(木) 12:42:16.48 ID:QnIcR7fO
>>882
既存の秩序体制を乱す行為

名門貴族の人々はよくよく心得なさるべきことではないか

2018年11月21日 16:43

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/20(火) 19:32:26.29 ID:nigKKgzI
・佐々木六角左京太夫入道承禎とその子・弾正少弼義弼(義治)は観音寺城にあって箕作城へ敵が押し寄せれば
後詰して救おうとかねてより思い設けていたが、美濃三人衆がその道筋を取り切ったのでどうすればよいかと心
を苦しめた。そこへ箕作城は落城して和田山城も開け退いたと聞こえ、今や防戦の頼みもなく興ざめていた折に

織田家の大軍が勝ちに乗じて観音寺城に押し寄せると聞こえて承禎父子は大いに狼狽し、ついに堪りかねて城を
落ち失せ、甲賀の山中に逃げ入ったのである。入道父子が落ち失せたと聞けば、承禎がかねてより設けて置いた
国中の城々18ヶ所は一夜のうちに尽く落去した。織田殿の武威は破竹の如く、1日の間に近江を切り靡き

13日に観音寺城に入り給えば、国中の輩は皆々が降参して人質を献上し、柴田修理亮(勝家)・森三左衛門
(可成)・坂井右近(政尚)・蜂屋兵庫頭(頼隆)などへ命じられ、功を賞し罪を罰し、国法を沙汰された。

・さてさてこの度、佐々木六角承禎が大軍を有し数多の城々堅固に備え、国は富んで兵は強くありながら僅かに
一両日も支えられずたちまち没落したことは代々将軍家に不臣の乱逆挙動をした天罰ではないかと世上の評する
ところである。その故は常徳院義尚将軍の時にあたって大膳太夫高頼の子・弾正少弼定頼は武命を蔑如し上洛も

なさず、そのうえ将軍家近付きの御家来たちの領地を侵略した。常徳院は御憤りあって、長享元年(1487)
9月、近江鈎の里まで御動座されて3年まで攻め給えば、定頼は叶い難く甲賀の山中へ逃げ隠れた。明応元年
(1492)8月、恵林院義稙将軍が常徳院殿の御志を継がれて再度近江へ御動座された時もまた甲賀山中へ

逃げ入って頭をも差し出さず。永正5年(1508)6月、恵林院殿が周防国山口より大内義興を供奉し御上洛
された時には、定頼は細川左馬頭政賢・三好奇雲斎(之長)などと一味して京都へと攻め上り、これを阻まんと
するが打ち負け近江へ引き返した。光源院義輝将軍が北白川に城郭を構えておわした時は、今の承禎入道が大軍
を引き連れ京都へ乱入し、光源院殿を追い出し奉った。天文16年(1547)7月のことである。

また永禄8年(1565)に三好・松永が乱逆を振舞った時も内々承禎はその与党であったので、義昭が矢島に
おわして、しばしば御頼みあっても表では了承しながら内々では三好・松永と謀を通じて義昭を亡きものにせん
とし、今度の義昭上洛の道をも遮り留めようとした。

このように代々不忠不臣を振舞ったので数代の名家が一朝に失われたのも天命の然らしむる所とぞ知られける。

(原注:案ずるに足利殿は有力の人を頼んで怨敵を滅ぼして後に、またその功ある者を嫌って他人を頼み、その
功臣を滅ぼすことをもって代々の家風とされ、その旧轍を改めず。義昭は信長の功を忌み嫌われて朝倉・武田・
北条などを頼んで信長を滅ぼさんとしてついに天下を失うに至る。佐々木六角は攻められれば甲賀の山奥へと

逃げ入って、敵が去る時には首を差し伸ばして自国へ立ち帰るのを万古不易の謀計と代々思っていたのである。
よって今度も甲賀へ逃げ入ったが、時代は変じてその誼もまた異なり、ついに再び旧轍を踏むことはできずに
長くその家を失ってしまった。琴柱に膠して旧弊に因循し、改革の時を失う類は古今少なからず。

名門貴族の人々はよくよく心得なさるべきことではないか)

――『改正三河後風土記』


下瀬九太夫と茨木兵太

2018年10月18日 19:31

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 21:29:26.72 ID:dTQ+W14S
東国の人である下瀬九太夫という武士が、上方へ上り、しかるべき人が有れば主取りをしたいと考えていたが、
近江で佐々木承禎(六角義賢)に認められ、その家臣と成った。

そうして一年ばかり過ぎたある時、六角家中の人々が寄り集まって様々な物語をする中、茨木兵太という者が
このように申しかけてきた

「九太夫殿は遠国よりはるばると上方まで上ってきたその志、誠に大切なことです。
そうであれば、弓箭の道にも定めて通じられていることでしょう。」

下瀬は答えた
「太刀打ちの勝負、弓法の事などは、侍の身につける基本的な所作ですから珍しいことではありません。
その他の芸がある事こそ大切だと思います。」

それでも茨木は望んだ
「そうは言われますが、兵法弓法は侍の所作なれども、私は不調法で身についていない者ですから、少し
ご指南を受けたいのです。」

「歴々たる御身代をお持ちの貴殿が、どうしてそのような事があるでしょうか。その様に仰るからには、
貴殿は私には無い、珍しきことを様々に身に付けているのでしょう。私こそご指南を望みたい。」

このように少し言いあいに成りかけた所で、側に居た人々が
「わかったわかった、武芸は武士の嗜道と決まっているが、総じて諸芸に付いて善悪の評価は有るものなのだから、
あまりそういう論議をするべきではないよ。」

そう言い紛らわしてその場は止んだのだが、これ以降下瀬と茨木は、表面上何も気にしていないようでも、内面には
心にかかるものが残った。

それから五十日程過ぎて、六角承禎は鷹野に出て終日狩りを行い、そのまま「猪狩をすべし」と、
侍衆三百余人を引き連れ、郷人達を勢子として獲物を追い立てさせ、狩りをしている所、大山の茂みより
巨大な猪が勢子に驚き、峰からまっすぐ下へと駆け下りた。
茨木これを見つけ、良い折だと弓を射たが、猪の前脛の高骨に当たり、矢は空へと蹴り飛ばされた。

猪は矢の当たったことなど物ともせず谷へ向かって駆け下りていたのを、下瀬も見つけ、射掛けた所、
その矢は脇腹を貫き、猪はたまらず岩のある方へ逃げた。

ところがこの時、茨木の者たちが下りてきてこの猪を捕ろうとした。当然下瀬の者たちも下りてきて捕ろうとした事で
互いに口論となり、茨木兵太は駆け寄ってきて、下瀬の者たちを弓で散々に打擲した。
下瀬はこれを見て馬にて駆け寄り、内々に意趣を持っていたため

「いかに茨木殿、猪狩りの法を未だ貴殿は知らないのか!?二の矢にて仕留めた猪を奪い取ろうとするのみ成らず、
私の者たちを打擲までしたこと、奇っ怪である。猪がほしいのなら取らせよう。」

これを聞くと茨木は
「人の猪を奪おうとしたから打擲したのだ!取らせようなどと、誰に向かって言っているのか!」
そう怒鳴るや、二寸七尺の太刀を抜いて打ちかかってきた。
下瀬も抜き合わせ、即座に茨木の弓手(左)の肩をしたたかに打ち付けた。
すると茨木の郎党たちがすかさず寄ってきて、下瀬の腰を切りつけたが、切りようが甘かったか、物ともせずに
平打に打ってまわり、たちまち五、六人を切り捨てた。
しかしそうしている内に、人々が彼を囲み、遠矢にて、まるで雨にように矢を射掛けたため、ついにこれにて死んだ。

(義殘後覺)



331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/18(木) 15:18:31.26 ID:8UF/z1Jw
>>322
この後どうなったんだ、お咎めは…?

今の武将(将軍)は有名無実なり。

2018年08月10日 18:59

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 16:54:32.36 ID:Wo/D1KX8
天分22年(1553)正月3日、六角義秀朝臣が元三会を勤行された。精進代
雞足院導賀、浅井久政が代官として登山した。

7月28日、将軍家(足利義輝)の許容により、前右京大夫晴元父子が上洛した。
これは佐々木左京大夫義賢(六角義賢)があらかじめ申しなしたからである。

久政はこれを嘆いて「ああ、これは乱のもとか。今の武将(将軍)は有名無実なり。
足利家の滅亡はほとんど近きものとなった」と言った。

8月朔日、三好長慶は前の右京大夫晴元父子が許されて上洛したと聞き、摂津・
河内両国の兵2万余人を引き連れて上洛した。将軍家は防戦に

及ばず、京都を去って丹波国山国に下りなさった。同13日、義藤公(義輝)は
勅命により上洛された。

――『浅井日記』

浅井日記は久政を悪く描いてないのは面白いけど六角義秀がバンバン出てくるし、
久政隠居もスルーされててうーんとなる。



24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 17:58:55.02 ID:knCl25iW
存在してると都合が悪いから抹消されたんだろうな
秀吉に

25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 18:59:07.54 ID:1tByHFeu
>>24
つまらん。ありえん。

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/10(金) 19:22:17.15 ID:RFs/7dHc
もう六角家中の人間にしか見えん

観音寺騒動のはじまり、後藤賢豊父子誅殺事件

2018年04月15日 21:18

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/14(土) 18:35:54.55 ID:htFx1fy8
その年(永禄6(1563))、近江の佐々木六角氏にも動乱のことが有った。

六角氏の家老といえば、目賀次郎左衛門、樽崎太郎左衛門尉、三上孫三郎、三雲新左衛門、
蒲生下野守といった人々であり、それに加えて、両門客として佐々木刑部太夫と田中四郎兵衛の
二家があった。その他に、京極、朽木、鞍智、大原と言った一門があったが、彼らは
京の将軍家直参であったため、格別であった。

このような譜代相伝の家臣の他に、後藤(賢豊)という者があった。船岡合戦以来六角家に
忠功を尽くし、賞は他を越え、威勢を振るい家老の列に加わり、頻りに鷹揚の思いがあった。
また、これはその身が滅ぶ端相であったのか、彼の申すことは大小にかかわらず、屋形である
六角承禎(義賢)は、良きことと聞き、全てを彼一人に評定させて他の者の申すことは用いなかった。

こうして後藤は六角家中の大勢力となり、一門家老を差し越えて、家中上下を己の下に
立たせんと欲した。
己の心にかなう者には賞を申し与え、罪を免らしめた。このようであったので六角家の侍の過半は
後藤に従い付いた。

去る永禄五年、六角義賢は隠居して、家督は子息の右衛門督義弼(義治)と成ったが、
後藤の威もさらに増し、飛ぶ鳥を地に落とすほどであった。
義治はこの有様に、「もし後藤但馬守が逆意を思い立てる事があれば、我が一門や家来も
皆彼に従って私に背く事疑いない。主人の威がこのように軽いこと以ての外の次第である。
何事か機会があれば、後藤を誅殺せねばならない。」
そう密かに考えていたが、国中で最大の権勢を前に打つ手を見つけられず、悩んでいた。
そして義治の近臣である種村、建部というものを呼び寄せ、このことを打ち明け相談した。
両名は驚き

「後藤は承禎様の寵臣であり、国中の大名家老の多くが彼の縁者です。誅殺出来たとしても
きっと後難が降りかかるでしょう。先ずこのことを承禎様の伺い奉り、その後誅するべきです」

そう答えたが、これに義治は大いに怒り
「汝らを頼もしいと思いこの一大事を打ち明けた事こそ我が落ち度であった!父屋形に申して
御免有るものか、却って後藤達に漏れ聞こえ、我が禍となるであろう。
この上は力及ばず。今夜うち立ち、自ら後藤を討ち果たし存分を遂げるべし!」

そういって一人で襲撃の準備をしようとするのを、種村、建部は止めて
「暫時、お待ちになってください。それほどに思し召すのであれば、明日後藤を召し寄せ、
そこで誅殺いたします!」
そうはっきりと約束すると、義治も斜めならず悦び、明日を待った。

後藤但馬守とその子息又三郎は、このような事を夢にも知らず、屋形より使いがあると聞いて
早朝、観音寺城に出仕した。
そこを待ち受け、種村、建部両人は数多の若者たちを引き連れ、四方より後藤父子を取り囲み、
終に彼らを討ち取った。後藤父子は陳謝しようにも罪がなく、力なく無実の罪にて討たれたのである。

六角承禎はこの報を聞いて大いに仰天し対処しようとしたが、その甲斐もなく、先ず後藤の供を
していた者達が国中に走り散ったことで、様々な雑説がしきりと囁かれた。

一方義治の方は、かくて我が身の一大事成ったと、家老たちを呼び集め、今回の事態を説明し
国中を静めようと、家老たちの方へ遣いを立て『後藤父子は過分の驕り身に余り、逆心を
思い立ったため誅殺したのだ。その仔細を詳しく申し聞かすため各々登城するように』と
呼びかけたが、老中は皆後藤の親類縁者であり、「きっと我々も誅殺するための、偽りの
お遣いなのだ」と驚き騒ぎ、進藤山城守貞治、目賀田、三井、馬淵三右衛門、楢崎太郎左衛門、
伊達出羽守、平井加賀守、永原大炊助、池田伊予守、横山、木戸、荒井、三雲三郎左衛門といった
者達が、取るものも取りあえず各々の知行地へ引き籠った。これは誠に、六角家滅亡の端相であった。
(足利季世記)

六角氏の観音寺騒動のはじまりである後藤賢豊父子誅殺事件について



668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/04/14(土) 19:43:19.29 ID:huHkP8C6
先代の寵臣を次代が更迭あるいは謀殺するのはままあること

傘下国人の統制が利かない北伊勢諸家

2017年03月31日 21:39

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/31(金) 17:32:24.73 ID:GXvuqNGc
戦国時代の北伊勢の国人衆、「HKS48」こと、北勢四十八家はご存知でしょうか?
このHKS48、実際には五十三家の国人がいたそうで、そこから選抜された国人だけが四十八家を名乗れたという。

という戯言はさておき、北伊勢のネタ?が少ないようなので、ちょっと発掘してみました。

近江六角勢による北伊勢侵攻「神戸城攻防戦」

弘治三年(1557)、近江の佐々木六角承禎(義賢)は、小倉三河守実隆(蒲生定秀三男)に命じ、伊勢国三重郡にある柿城(現朝日町)を攻略させた。
柿城主・沢木(佐脇)宗喜は神戸(かんべ)氏に救援を求め、当主下総守利盛は自ら一千余騎を率いて出陣した。
ところが、利盛出陣の留守を守る神戸氏六奉行の一人である、岸岡城主・佐藤中務丞父子が近江勢に通じて謀反を起し、本拠、神戸城を略奪、利盛の妻子を追い出すや、近江勢、小倉実隆を城に引き入れたのである。
急を聞いて利盛はただちに兵を返したが、神戸城の奪還はならなかった。
万事窮したところへ、岸岡城を守る佐藤氏の家臣、古市与助が利盛を岸岡城に招きいれたことで、とりあえず利盛は一息つくことができた。
当時、神戸氏は宗家たる関氏と険悪な関係であったため、これを頼ることが出来ず、利盛は母方の長野輝伯(藤定)を頼ることとなった。
長野氏は同心し岸岡城に援軍を出すと、神戸・長野連合軍はただちに神戸城へと押し寄せた。
小倉実隆も防戦するが、地の利を知る神戸勢は勇戦、城を包囲するや諸方より攻め立てる。
やがて小倉勢は破れて千種城に引いた。利盛はこれをことごとく追討し会計の恥を雪いだ。
主君を恨むものは天罰を逃れられない。佐藤親子は城を逃れて十宮村に引潜んだが、利盛はこれを許すといって招いた。
佐藤が登城する際に人を道に潜ませこれを討った。その子又三郎も十宮で討たれた。死体は莚に巻いて三日市に晒した。
昔、佐藤の下人だったものがそれを見て怒っていった。
「お前は無道で主君に背いた。又罪も無い俺を憎んだ。天罰覿面だ」と。
そのあと2,3回これをけった。
するとたちまち脚気になり一生足が立たず居去り乞食になったという。

(勢州軍記)

傘下国人の統制が利かない北伊勢諸家のお話。


この根本を三好は推し量り

2017年01月25日 09:21

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 04:00:28.67 ID:CHjahkZO
佐々木承禎(六角義賢)は、三好のことを憎んで、「四国から異な者が
上り居て、威を振るうことかな」と、終いには三好追討のことを

公方に勧め、時に東山へ勢を出した。この根本を三好は推し量り、
松永(久秀)を大将として、公方を弑逆した。

承禎は家来の後藤という者の娘が、公方に近侍しているのを縁として、
公方に親しかった。

松永は三好の乳母に密通し、これを縁として三好は松永に親しかった。

――『武功雑記』



549 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 11:53:48.33 ID:8SvKVSKd
さすがゴールドフィンガー霜台さんやで

550 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 18:09:13.59 ID:ivLwVkKw
黄素妙論(震え声

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/26(木) 19:09:47.99 ID:6U7WMmld
黄素妙論は道三が松永に渡した本だが
松永が書いた、という意味でなければスマソ

イチョウの漢字を御存じないのか?

2013年01月28日 19:52

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 20:14:38.40 ID:awzvNXJe
1525年、六角家臣・蒲生高郷(氏郷の曽祖父)は、
当主の座から追った甥・秀紀を毒殺した(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-1276.html)。

蒲生氏は京の将軍家とも関係の深い家だったため、秀紀毒殺について将軍家から六角氏に追及があり、
六角義賢(※)は毒殺犯の僧・善知客を捕え、五十五度もの拷問にかけ真相を白状させようとした。
しかし僧は拷問に耐え抜き、自白しないので処刑するわけにもいかず、
とりあえず獄舎につないでおいた。

しばらく後、義賢は銀杏の紋の入った鞍を他国へ遣わそうとしていた。
しかし担当の者は無学だったので、漢字でイチョウをどう書くのか知らず(送る物の品目を書く
必要があったのだろう)
更に周りの者共にも聞いてみたが、誰一人その漢字を知る者はいなかったのである。

「ま、まさか仮名書きで書いて送るわけにもいかないだろ…どうすりゃいいんだ…?」

どうすべきか話し合っていると、獄中の僧がこれを聞きつけ、
「イチョウの漢字を御存じないのか? 銀杏と書き、鴨脚という異名もある。」

と教えたので、義賢は「良いことを申したものだ。これで今回は恥をかかずに済んだ…」
と深く感じ入り、僧を助命したのであった。


(蒲生軍記)


(※)原文では義賢だが、義賢は1521年生まれなので父の定頼の間違いのはず




318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 21:08:09.76 ID:GK/Zq8Q+
結局、毒殺の真相はどうなったんだ?。
それにしても55回の拷問に耐えるってのも凄いな

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 21:39:54.17 ID:nTGBlkvA
>>318
良く生き延びたよな
それとも僧侶相手だから直接痛めつけない拷問だったんだろうか

寝かさないとか

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 22:11:07.94 ID:fsrXLPkh
クッションの刑とか安楽椅子の刑とかの恐ろしい拷問を…

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/27(日) 23:52:34.90 ID:ZU0288WA
当主毒殺の疑いがあるので僧を拷問することにした。
他人の目に触れるとまずいので家に連れ帰る事にする。
嫌がる僧を風呂場に連れ込みお湯攻め。
充分お湯をかけた後は薬品を体中に塗りたくりゴシゴシする。
薬品で体中が汚染された事を確認し、再びお湯攻め。
お湯攻めの後は布でゴシゴシと体をこする。
風呂場での攻めの後は、全身にくまなく熱風をかける。

その後に、乾燥した不味そうな塊を食わせる事にする。
そして俺はとてもじゃないが飲めない白い飲み物を買ってきて飲ませる。
もちろん、温めた後にわざと冷やしてぬるくなったものをだ。

その後は棒の先端に無数の針状の突起が付いた物体を左右に振り回して僧の闘争本能を著しく刺激させ、
体力を消耗させる。
ぐったりとした僧をダンボールの中にタオルをしいただけの質素な入れ物に放り込み
寝るまで監視した後に就寝。

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/28(月) 00:00:35.99 ID:WtrO6cYH
>>322
井伊直孝、島津義弘「まさかおぬし、そのような拷問を猫に対して行なっているのではあるまいな」

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/28(月) 01:02:22.84 ID:c1txSWuX
僧の玉を抜くとき聞いたところ
お湯攻めの後は熱風ではなく冷風がお勧めだそうじゃぞ。
でも冷風だと捗らないんですけど。

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/28(月) 01:27:02.00 ID:lbee8xBg
>>324
>>僧の玉を抜くとき聞いたところ

それが一番の拷問や(; ;)