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名誉の精兵

2020年05月06日 17:16

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/05(火) 23:18:59.61 ID:SC7VeA1M
文亀二年(1502)、江州の住人、佐々木六角高頼は、去る明応の頃、前将軍家(足利義材)による
江東征伐の時、居城観音寺を落ちて甲賀山に隠れ居ける所に、その後数年の乱中に程なく居城へ
立ち帰り、本城その他所々を従え、再び大名と成った。しかしその頃、彼の家臣の伊庭(伊庭貞隆)
という者が謀反を起こし(伊庭氏の乱)、今度文亀三年四月四日には、東国百済寺も兵火のために
消失した。然ればこの江南の乱中に乗じて江州を退治せんと、、細川政元内衆の赤沢澤蔵軒宗益(朝経)は
多勢を率いて江州へ乱入した。

彼等は所々の城を攻め取り、甚だ猛威を奮い働いたが、同国音羽の城主・蒲生下野守貞秀は、昔当国の
湖上に百足を射て龍宮へ渡ったと云われる俵藤太秀郷の後胤にて、武勇の士であり、剃髪の後は智閑と称した。
赤沢澤蔵軒はこれをも攻めよとて、音羽の城を取り巻き日夜激しく攻めたが、城強く、能く防いで
落ちる様子もなかった。寄せ手は攻めあぐね、徒に日数を送り、延々と囲んでいた。

この時城中に鋳物師の安河という者が籠っていたが、彼は稀代の弓の上手であり、彼が射る矢先に立つ者、
一人として命を失わずという事無かった。赤沢澤蔵軒は音羽城より三町(約300メートル)ほど遠ざけて
本陣を取っていたのだが、陣の前に、五尺廻りの柳の木があった。これに、かの安河が射た矢が、
羽ぶくら(矢の端の羽のついている場所)まで貫き通した。これを見る人々、皆舌を巻いて畏れ驚き、
直ぐにその柳を切って城中へ送り、名誉の精兵と称賛した。

應仁後記

敵であっても、こうやって讃えていたんですね。



149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/06(水) 09:41:55.64 ID:CKuddwdz
>>147
そんな名人が何で鋳物師やってんだ
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鈎の陣と将軍足利義尚の死去

2020年05月01日 19:47

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/01(金) 14:55:22.59 ID:bp+Neoaz
文明一党(応仁の乱の終結)の後であっても、諸国の兵革は止まず、先の乱の余類が猶国々に散在して、
互いに押領をした。中でも近江国の住人、佐々木六角四郎高頼は京の近国に在りながらその後上洛すること
無く、公方の御下知に従わず、我意に任せて逆威を振るい、剰え山門の領地を妨げて山徒の訴訟頻りであり、
猶以て差し置き難く、先ず彼を御征伐あらんと、この時長享元年(1487)九月十二日、新将軍家(足利義尚)は
数多の勢を御供として、江州へ御進発有った。

その日は坂本に到着すると、ここに暫く御陣を召した。越前の守護、故朝倉氏景の家督である弾正左衛門孝景が
多勢を催して馳上がり味方に加わり奉ると、直ぐに六角高頼を攻めた。高頼も一家を尽して出向かって合戦に
及んだが、新将軍家は御武勇を励まされ、御供の人々我劣らじと攻め戦ったため、終に高頼は一戦に打ち負け、
己の居所である観音寺城を落ちて、山賊の望月、山中、和田という者を頼んで同国甲賀山の中に隠れ、行方
知れずとなった。

このようになっても、新将軍家はそのまま置かれなかった。昔、宝筐院殿(足利義詮)の御時、南方(南朝)の
敵徒御退治として、畠山入道道誓(国清)等、京鎌倉、凡そ天下の大軍を催され、大樹(義詮)自ら南方へ
御発進あり、敵は不日に退散して国中治まった。敵は少々山中に隠れ居たが、「この上は何ほどのことも
出来ないだろう。」と、早速に御帰陣あった。しかし和田楠の輩は、その頃の南帝を守護し、身を潜めて
吉野の奥、賀名生の山中に隠れ居て、大樹御帰座の御跡に、幾程もなく立ち返り、国人等同意して又元の如く
蜂起したため、大樹南方御発進の功は無く成ってしまった。

その後、鎌倉御所(鎌倉公方)の(足利)基氏朝臣は、この事への反省が有り、東国で新田の氏族の御退治として、
鎌倉を出馬し、武州入間川という所に数年の間陣を取って、毎日敵徒を捜されたため、幾程もなく新田の氏族は
悉く誅伐され、御敵皆尽き果てた後、徐々に鎌倉へと帰陣したため、それ以後関東では再乱の煩い無く、諸人
安堵の治を成した。

然れば今六角も、御退治このままにて御帰座あれば又元の如く立ち返って、譜代の家人、重恩の国人等、また
彼に従って蜂起反復するならば、御動座征伐の甲斐無く、今度の序に、六角高頼を初めとして残徒一々に
尋ね出し、御敵の根を絶ち葉を枯らして、後難無きように御誅伐有るべしと、新将軍家は御下知有った。

ではあったが、この甲賀山は深嶺幽谷、人跡絶えて非常に攻め入り難い場所であり、短期間に捜し出す事は
難しかった。且つまた、六角の残徒は数多にして、高頼の旧領は広く、一類所々に隠れ居て、不日に
御退治は成り難く、段々にかの輩共を捜し出して御誅伐有るべしと、同十月四日、新将軍家は坂本より
湖上を御船に召されて安養寺へ御陣を替えられた。

(中略)

斯くて長陣の間、御徒然を慰められる為。かつ御心得の為にとして、折々に春秋伝と孝経の講談を御聴受あった。
新将軍家は、常に天下の乱を退治し、泰平の世になされんとの御志深ければ、一日片時も御身をあだに
差し置かれなかった。翌年秋九月、新将軍家は内大臣に拝任された。この時御名を「義煕」と改められた。

そのような中、長享三年(1489)の春の頃、不意に御不例の御事があった。最初はただ仮初の様子であったが、
次第に重くなられ、治療も尽き果て祈誓も験無く、同三月二十六日辰刻、鈎の里の御陣所にて、義煕公は終に
御逝去された。御父君東山殿、御母公大方殿の御嘆きは例えて言うことも出来ないほどであった。

この君は御年未だ二十五歳、器量、才芸、皆以て世に超えられ、殊更天下の武将として御行跡いみじき物で
あったのだが、それが世を去られた事で、「偏に現在の天下の兵乱は、終に治まること無く、扶桑一州(日本)は
長く戦国の世と成るだろう」と嘆かれ、貴賤上下押しなべて一方成らず泣き悲しんだ。

新将軍家の尊骸は御輿に納め奉り、御供の軍勢が打ち囲んで、同月晦日、御帰洛あった。直ぐに北山の等持院に
入れ奉り、同四月九日、この寺にて御葬儀あった。勧修寺大納言を初めとして、武家昵懇の堂上方、各々参向し
給いて貴賤の参詣群聚した。この日、義煕公の寵臣で、幕府の権柄を司った結城越後守政胤、同弟近江新介尚豊は
その夜中に逐電した。

應仁後記

鈎の陣と将軍足利義尚の死去について



六角高頼、目出度き次第の最期

2019年11月15日 19:26

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/15(金) 10:46:17.90 ID:MBAxU0HP
永正十七年五月九日、公方足利義稙は近江国観音寺城より御入洛があった。この時
佐々木六角大膳大夫高頼は隠居していたのだが、どのように思ったのか、今回は御供することを
申し出て共に上洛し、その年の八月に帰国、同月二十一日に観音寺城にて逝去した。

去る永正十五年七月九日、嫡男であった氏綱が早世して以来、高頼は深く嘆いていたのだが、
氏綱に家督を相続すべき男子が無かったため、次男の霜台(弾正の唐名・定頼)の度々の忠功により、
公方および管領(細川高国)が近年近江へ落ち来て彼の威勢を頼み、これに高頼は誠に時の面目、
当家再興の運開けたりと喜び、それまでの憂いも忘れてとかくの馳走があった。そして今度は
老後の思い出の上洛であるとして、公方に最後の御暇を申し上げて帰国し、その後一病も無く
寿命を終えられたのである。目出度き次第であり、法名は龍光院宗椿と申した。

彼の死を聞いた公方義稙、管領細川高国も深く嘆かれ、百首の和歌を詠じて追福として備えられた。

(足利季世記)

六角高頼の最期について。



公方である足利義稙公は、近江の六角殿を頼まれていた

2019年11月12日 18:16

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 12:40:00.14 ID:F9dW7hQx
その頃、公方である足利義稙公は、近江の六角殿を頼まれていた。
江州の両佐々木と申すが、六角が惣領であり、近江国の国人たちは六角氏の下知に従った。
京極は庶子なのだが、その祖である(佐々木)道誉判官の、足利尊氏公への忠功が莫大であったため、
公方よりこれを賞して現在は四職の一つとなっている。

応仁の乱より京極は細川勝元に一味し、六角は山名と一味して、互いに敵と成った。
応仁の乱は結果として山名方の負けとなったが、六角は独り京都に順じずこれを討つための
将軍の御動座も度々であった。

しかしながら公方からも、また細川高国からも(永正の錯乱以後)頻りに六角高頼を御頼みあり、
六角殿は義稙方に参られたのである。

この時既に六角高頼は老齢であり、長男の亀樹丸(亀王丸)に家を譲った。彼は後に氏綱と名乗ったが、
彼は片足が短く立居が不自由であり、現在のような大事の時に彼を立て続けるのは難しいとして、
次男に吉侍者という、相国寺に入り禅門の修行をしている者があったが、彼には武勇の器量が有ると、
六角家の重臣である多賀豊後守、蒲生下野守、田中史朗兵衛尉らが相談して公方へ申し上げ、この度
還俗して高頼の名代として公方の前に奉り、諱を定頼と号した。

公方義稙はこれを大いに喜び、彼を任官させ佐々木弾正少弼とした。この六角定頼は木刀を
腰に指して公方の御前に参った。公方が「それはどうしたのだ?」と尋ねられると、定頼は
「私は元々出家ですから、刀を持っていないのです。」と申し上げた。
公方は笑って、彼に国行の刀を与えた。

(足利季世記)

永正の錯乱のあたりの近江六角氏について。六角氏綱が片足が短かった云々は現在では
否定的な見解が多く、どうも実際には戦傷などでかなり健康を損ない、結果的に弟に家督を譲った、
という事のようです。



鈎の陣

2018年07月17日 21:11

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/16(月) 22:15:21.41 ID:ZMGQkMUJ
文明一統(応仁の乱の終結)の後も、諸国では先の乱の餘類が尚も国々に散在し、互いに押領を繰り返し、
兵革が止まなかった。その中でも近江国の佐々木六角高頼は、畿内近国に在りながら、上洛することもなく
公方の下知に従わず我意に任せて逆威を振るい、あまつさえ山門の領地まで妨げ、山徒の訴訟頻回となり、
これ以上放置する訳にはいかないと、征伐有ることに決まり、長享元年9月12日、新将軍家(足利義尚)は
数多の軍勢を供として江州へ出陣した。

その日の内に坂本まで進み、そこにしばらく陣を張ると、越前守護であった故朝倉氏景の家督、弾正左衛門
孝景が多勢を引き連れ馳上がって味方に加わった。朝倉が合流すると即座に六角高頼を攻めたところ、
高頼も一家尽く出陣しこれと合戦に及んだが、新将軍家は武勇を励まされ、お供の人々は我劣らじと攻め戦ったために、
高頼もついに一戦に打ち負け、自身の居城である観音寺山を落ちて、山賊の望月、山中、和田といった者達を頼み
同国甲賀山の中に隠れ行方知れずとなった。

しかし新将軍家はこのようになってもそのままにはしなかった
「かつて宝筐院殿(足利義詮)の時、南方(南朝)の敵徒御退治として、京鎌倉よりおおよそ天下の大軍を
集め、大樹自ら南方へ出陣した。敵はすぐに退散し国中が治まったため、敵が少しばかり山中に隠れて居たものの、
『何程の事もない』とすぐに帰陣されてしまった。ところがそれから、楠や和田と言った者たちは南帝を守護し
身を潜めて吉野の奥、賀名生の山中に隠れており、大樹が帰座すると幾程もなく立ち返り、国人らもこれに
同調して、また元のように蜂起し、大樹が南方に出陣した功は無となった。

その後、鎌倉御所の足利基氏はこの前例を後悔し、東国新田の氏族退治として武州入間川に出陣した時は、
ここに数年に渡り陣を取って毎日敵徒を捜索し、幾程もなく新田の氏族は尽く征伐された。
そして敵が尽く果てた後ようやく鎌倉へと帰陣したため、以後関東は再乱の心配もなく諸人が安堵する
治世を成した。然らば、今の六角もこのまま帰座してはまた元のように帰還し、六角の譜代の家人や重恩の
国人たちは彼に同調し蜂起して状況を覆すだろう。そうなっては今回の征伐の甲斐もない。
今回はとにかく、孝頼を初めとして残党たちを一々に探索し敵の根を絶ち葉を枯らして後難無きように誅伐
しなければならない。」

義尚はそう下知したが、甲賀山は深嶺幽谷、人跡絶って攻め入ること難しく、探索は難しかった。
また六角の残党たちは数多く、その旧領は広く、一類は所々に隠れていて短期間に征伐することは
無理であったので、「順々にかの輩を探し出して誅伐すべき」と、10月4日、義尚は坂本より琵琶湖を船で
渡って安養寺に陣を変えた。この事を父である東山殿(足利義政)へ使いを以て知らせた、そこに次の歌を
付けた
 坂本の 浜路を過ぎて波安く 養ふ寺に住と答へよ

東山殿はこれに返歌して
 頓にて 又国治りて民安く 養ふ寺も立そ帰らん

28日に同国鈎の里に着陣し、ここに3ヶ年まで在陣して六角高頼の行方を捜索し、また六角の徒党の輩を
一々に退治した。
同年12月2日、侍従中納言実隆卿を勅使として今上天皇(後土御門天皇)より忝なくも陣中に御製を下された
 君すめは 人の心の鈎をも さこそはすくに治めなすらめ

義尚より返歌を献上し
 人身 鈎の里の名のみせる 直なる君が代に仕えつつ

かくして長陣の間の徒然を慰めるため、かつ心得のためとして折々に、春秋、伝卜、孝経の講義を受けた。
彼は天下の乱を退治し太平の世にしようという志が深かったため、片時も自身の時間を無駄にしなかった。
翌年9月、義尚は内大臣に任命された。この時名を義煕と改めた。
ところが長享3年の春、体調を崩した。当初は大したことはないと考えられたが、次第に重体となり、
治療も祈誓も験無く、同年3月26日辰の刻、鈎の里の御陣所にて逝去された。
父君東山殿、御母公大方殿(日野富子)の嘆きは例えようもなかった。
この義尚公は御歳未だ25、器量、才芸、皆以て世に超え、特に天下の武将としての行跡もいみじきもので
あったのに、この人が世を去ってしまったため、「天下の兵乱はついに治まること無く、扶桑一州は長く
戦国の世となるだろう」と、貴賤上下の別なく嘆き悲しんだ。
(應仁後記)

鈎の陣についてのお話


わか世のはての 近きうれしさ

2018年03月26日 19:21

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 17:55:37.85 ID:7SI4Sz+W
(細川政元の暗殺と細川澄元の都落ちの後)

都では九郎澄之(細川澄之)が家督の御内書を頂戴なさり、丹波より7月8日に上洛された。
同11日に政元の葬送を取り行いなさり、戒名は大心院と申した。

中陰の儀式は大心院で厳重に取り行われて、同25日に七日の仏事を勤め終えなさった。その
夕刻に佐々木六角四郎(六角高頼)が大心院に参って焼香し、ただちに近江へ逃げ下ったため、
それより京都以外の場所に人々は騒動して資財雑具を持ち運び、目も当てられぬ有様となった。

果たして8月1日には澄元の御味方として右馬助政賢(細川政賢)、淡路守尚春(細川尚春)、
そして今の右京兆、その時は未だ民部少輔高国と申されたが、各々が同心して猛勢を率いて、

澄之に攻め掛かり申された。そのため澄之の馬廻らは一合戦致すべく覚悟していたが、大心院
の生害を澄之は内々に存じていたとの風聞が流れると、それなら(高国らの挙兵は)曲事無き

次第であるとして皆々心替えしたため、ついに澄之は遊初軒で自害なされた。波々伯部伯耆守
入道宗寅が心静かにその介錯を致し、遊初軒に火を放って腹を切ったのである。

その時に宗寅は一首を詠じて、小さい幼児が高雄にいたのでその子にその歌を遣わした。

「なからへて 思わすいとと うかるへし わか世のはての 近きうれしさ」

(たとえ生き延びたとしても、思わずいっそうの物憂さを覚えるだけであろう。ここで最期を
迎えることを、私は嬉しく思っている)

――『瓦林正頼記』


NINJAのサプライズアタック

2011年12月16日 22:00

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 10:34:02.82 ID:wesfJ1Dm
長享元年(1487)9月、将軍・足利義尚は、比叡山の寺領や公家の荘園を押領した南近江守護・六角高頼を攻めた。

将軍親征による大軍を前に、六角氏の居城・観音寺城はすぐに落ちたが、肝心の高頼は甲賀の土豪・望月氏を頼り
近江・甲賀各地を転々として抵抗を続け、そのうち足取りがつかめなくなった。

「高頼め、しぶといの。しかし根無し草の先など見えておる。残る六角残党も大した事は無し。つまらぬ・・・」

まだ23歳の義尚は長陣に飽きてしまい、参陣した諸大名に追討を任せると、近江鈎(まがり)に構えた陣屋を
御所まがいの邸宅に建て直して『真宝館』と名づけ、昼は連歌の会や犬追物を催し、夜は夜とて白拍子を呼び寄せ
毎夜のように酒宴を開き、連日遊興にふけるようになった。

諸大名は将軍の体たらくにあきれ果て、一人また一人と理由を構えては帰国して行ってしまい、
残ったのは加賀守護・富樫政親と、数人の小名を数えるのみとなった。

その政親も領内不安により加賀へ帰国すると、『真宝館』では不審火が続くようになった。
義尚は警備を強化させたが12月20日、吹雪の深夜、突如として館は謎の煙に包まれた。

「な、何事じゃ?!・・・・・・ぐわっ!!」
折からの吹雪に油断していた警固の侍たちは、いつの間にやら侵入していた何者かによって、次々に討ち取られた。

六角高頼に雇われた、望月出雲守率いる甲賀忍びによる奇襲である。

ようやく異常事態に気づいた奉公衆が館へ駆けつけたが、これを察した忍びたちは、さっさと撤収して行った。
義尚は一命を取り留めたものの、さんざんに斬りつけられ、重症を負った。

そのまま養生に専念すれば回復したかもしれない義尚だが、内大臣・三条西実隆に
『平生、一向に御食事なく専ら水酒淫乱の事』とまで書かれた義尚は酒を断てず、傷を癒すことが出来ぬまま
長享3年(1489)3月、25歳の若さで陣没した。(応仁後記他より)


SHOGUNがNINJAのサプライズアタックが元で命を落とした、むしろ海外の方にウケそうな話。




382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 12:50:57.41 ID:Zu/rN1pW
義尚より富樫政親の加賀が大変な事に…

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 13:58:00.90 ID:QP9RtIBV
こないだNHKでやってたねーこれ

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/16(金) 14:12:22.17 ID:5yrZj1Ub
????「ちゃんと殺せないのってダメだよね」