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「貝塚日記」、天正13年(1585)の記事より

2012年04月16日 21:31

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/16(月) 17:58:37.30 ID:BiP4wWAP
大阪、貝塚の願泉寺住職・宇野道喜の表した「貝塚日記」、天正13年(1585)の記事より

11月11日 夜九ツ半(午前0時頃)地震。この頃『光るもの』を見たものが多い

   29日 夜四ツ半過ぎ(午後10時頃)大地震。10日あまり余震が止まらなかった。京都三十三間堂の
       仏像600体が全て倒れたという。

       飛騨の帰雲という在所は、内ヶ島という奉公衆が居る所であるが、地震で山が揺り崩れ山河の多くが
       崩壊し、内ケ島の在所に大洪水が入り込んで、内ヶ島氏一統、地下人に至るまで残らず死んだという。
       この在所では、たまたま商用で他国に出ていた4人だけが生き残り、泣く泣く在所へと帰っていったそうだ。
       しかしそこは、尽く水没していたという。


天正大地震の、帰雲城崩落、内ヶ島氏滅亡のさいの、生々しい同時代の記録である。





693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/16(月) 19:04:32.25 ID:Q5lvbiHT
おっそろしい・・・

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/16(月) 19:07:50.21 ID:KoJ/lVwr
戦国時代でも宏観異常現象ってのがあったという貴重な証拠だな

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/16(月) 23:39:11.49 ID:CcmFRLDX
逆に内ヶ島氏以外に災害で滅亡した氏族っていないのかな?

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/17(火) 00:18:15.05 ID:U/x2kUY0
蘆名 あのタイミングと相手は災害としか思えない

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/17(火) 03:21:59.81 ID:13wDE40U
>>700
内ヶ島が小領主だったからこそ起きた悲劇かもしれない
一族郎党山城に集まって、ってのがないだろうなあ
せめて麓の館に集まるのだろうし

……アメリカの閣議では一人はどっか別の場所にいるらしいが、日本の閣議は大丈夫なんだろうか?
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