二人の死に方

2014年12月07日 17:23

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/07(日) 15:50:33.56 ID:W3X3PcoP
関ヶ原合戦の前哨戦、伏見城の戦いで内藤家長は守将の一人だったが籠城の方針をめぐって
総大将の鳥居元忠と対立した。

元忠はいう
「こたびの合戦は討ち死に必定である。だから大将として城を預かる上は鳥居元忠と名乗って
見事に討ち死にするのが勇ましい武士のあるべき姿だ。」

しかし内藤家長はこれに反論した。
「そうではない。こういう場合は名乗らずに大将の死をかくし、いまだどこかに逃げているのではないかと
敵に疑心を生じさせるのが古来からの兵法である。」

元忠は敵にただで城を渡さない三河武士の覚悟を示そうとしたのに対し、
家長は石田三成の進撃を少しでも遅らせ、徳川家康の西上の時間稼ぎをせよというのである。

二人は死に方をめぐってついに喧嘩になった。

家長が「大将が堂々と快死する地ではない。」というと元忠は怒って
「大将が堂々と死なねば後で必ず窓から逃げたなどといわれるぞ。」
「雑兵の首に混じって捨てられては不覚きわまりない!」と反論する。

結局二人は同じ伏見城の中で対照的な最期を迎えた。

元忠は城の入口の石段にすわり、敵に名乗った後で堂々と切腹した。

一方
「家長もとより弓の達者なれば、手先をめぐらし、さんざんに射て敵を斃すといえども、
大軍おりかさなり松の丸の余煙もはげしゅうして逆風吹きめぐり、本丸西丸一時に亡す。
家長防戦の術つくるがゆえに、猛火のうちに飛び入りて焚死す」(武家事記)

家長の首はいくら探してもついにみつからなかったそうである。




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