「武田の弓矢は今、頂上に登った」

2017年05月15日 12:09

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 09:52:56.00 ID:LUvPc2Sq
武田信玄が北条と、駿河国薩タ山で対陣した。
正月18日より4月20日までの、93日間の対陣であり、その間日夜競り合いがあった。

武田軍は一番より十番まで、一手切りに足軽を配備していたが、跡部大炊介(勝資)がこの番に
当たっていた日、北条軍の松田の兵に押し立てられ、二町ばかり敗北し、さらにその場に押し留まった。

このため武田信玄は馬場美濃(信春)に対処を命じた。
しかしこの時、馬場の兵は僅かに百騎あまりであり、跡部の三百ばかりの救援には如何かとあって、
彼はこの役割を内藤修理亮(昌豊)に譲ろうとした。しかし内藤は
「あのように気負った敵に対するのは、馬場ならではである」
そう言って辞退したため、結局馬場がこれを請けて現場へと向かった。

現場に向かうに先立って、馬場は「大炊介は早々に引き取るように命じてください」と望み、
信玄は百足の指物の衆を出して、その通りに申し渡した。

馬場は己の兵を3つに分けると、一手は敵に向かい、足早に撤退する跡部の軍に付いてくる敵軍を、
跡部と交代して引き受けた。
一手は脇より横筋から弓鉄砲にて懸った。これにて松田の軍2500は悉く崩れた。
最後の一手は後備えにて、この場所の武田の備えを回復し、さらに敵の二の木戸まで押し込み、
引き上げた。馬場一大の深入りであった。

「面白さに我を忘れてしまったよ。」
これは合戦の後、馬場が内藤に語った言葉である。
信玄は馬場の戦いを、「武田の弓矢は今、頂上に登った」と評した。

(士談)



903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/15(月) 10:14:54.19 ID:wjrkMz9Q
頂上に達したら下るだけ、と突っ込みたくなった
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精進刀

2015年04月04日 16:12

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/03(金) 21:03:20.65 ID:0dA0hrZy
大久保彦左衛門がある時、坂部三十郎と雑談をしている時、坂部は
「座敷にて人を斬るのは二尺(約60センチ)以下の刀が良い。それ以上だと座敷での働きは自由に成らない。」
と言うと、彦左衛門

「昔、堀監物が家中の朋友に意趣を含んで、必ず討ち果たすと結審した時、一尺五寸の脇差を八、九寸にまで
磨上て首尾よく敵を討ち果たしたと、後に監物が話していた。これは突き抜いて仕留める心得である。
見事に切り放そうとすれな多くは仕損ずる。突く心得が有れば仕損じはない。足下が二尺以下というのも
放し討ちの心得というものだろう。

放し討ちというの至極難しいものだ。かつて池田勝入は、大事の敵を仕留めるのは組み留めておいて
突き刺せば、十中八九過ちはないと言われたものだ。
あの朝比奈弥太郎(後の水戸家老臣)は、常に三尺(約90センチ)の大刀を差して歩いているが、
外見は良いがあれでは働きは出来まい。人を斬らぬ刀なら、精進刀というものだ。」
そう笑って話した。

ところが、後で坂部三十郎がこの事を朝比奈に話してしまい、朝比奈は激怒。直に彦左衛門の家に押しかけ

「足下は我が刀を精進刀と言われたそうだ。精進か生物か、一つ試してご覧あるべし!」
そう凄んで大刀の鯉口を広げ、返答次第で抜打ちにするとの剣幕であった。

しかし彦左衛門は少しも騒がず
「成る程、足下の御刀は至極の切れ物と云う評判を聞いたゆえに、そこで精進刀と言ったのである。」

「それはいかなる訳か!?」

「されば、精進というものは仏の命日にするものであるが、これは直ぐ落ちる。精進落ちと言って魚を食う。
それで世俗で精進を落ちるというが、足下の刀に逢っては直ぐ落ちる。首も胴も落ちる。
であるから精進刀といった訳だ。」

そう弁解すると、朝比奈も「それで良く解った。」と機嫌を直した。

すると彦左衛門さらに
「足下が長篠合戦の時、甲州の中備の大将、内藤修理亮(昌豊)を討ち取ってお手柄をなされたが、
あの刀は、只今のお差料であろうか?」

「いかにも。この刀は一刻も身を離さず、少し寸が伸びたが度々手柄を現した道具ゆえ、
磨上もせずこのように常に帯びている。」
そう言って抜いて見せたのは、備前国長一の刀、二尺八寸二分。
そこで彦左衛門は聞いた

「足下は、あなたが討った内藤修理亮殿の命日には精進をしていると聞いたが、そうであろうか?」

「いかにも。修理亮殿の命日には、精進をいたし念仏を唱える。」

彦左衛門、我が意を得たりとばかり
「それではやはり精進刀ではないか!精進をするほどの大将を斬った刀なればこそ、足下の武名
天下に聞こえたのである。精進刀と言われて何故に立腹するのか?」

そう口に任せて説立てられると、朝比奈も大いに喜んで帰っていったと、「春村筆話」にある。

(刀剣談)




636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/03(金) 21:08:32.71 ID:qxruWlrD
どっかのガイキチな浅野さんは切ったから爺殺すのに失敗したわけだな。袴踏んで転ばしてからブスリとやればいいと
しかし三河武士は面倒くさいなw

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/04(土) 09:51:08.32 ID:d0LMNVy2
弥太郎が単純なのか、彦左の口が達者なのか

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/04(土) 09:51:23.02 ID:tV78Te7F
弥八郎並みの口八丁じゃないですかやだー

近江に蒲生忠三郎という利口なる若者がいる

2014年11月21日 18:43

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 00:23:41.07 ID:DkPo+BuD
ある時内藤修理(昌豊)が言われた

「俵藤太(藤原秀郷)の子孫は、近江国日野の蒲生の一党である。
今、近江に蒲生忠三郎(氏郷)という利口なる若者がいる。これは三河の家康などに少し相似た武士で、
江州においては浅井備前守(長政)に次いで、この忠三郎が心ばせあると聞き及んでいる。

かの蒲生の家は、交互に一代弱く一代強い状態が続いているという。その理由は、かつて先祖の
俵藤太は王威を以って平将門公を討った。しかし将門も名大将であったので、それを討った罰があり、
討った功徳と罰の両方が、かの家の侍大将に、順番に弱み、強みと成って現れるのだそうだ。

忠三郎の親(蒲生賢秀)に対して、下劣な者共が作った歌に
『日野の蒲生は武者けたよ 陣と申せばしもごしおこる。具足をうりやれ衣めせ』
(日野の蒲生は武者ぶっているだけだ。戦と聞けば臆病風に吹かれている。具足を売って風よけの衣を召したほうが良い)
こう歌われたそうだ。

しかしその子の忠三郎は、世の常ならぬ若者と聞く。親と子は違うものだ。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑に見える、若き日の蒲生氏郷の評判である。




226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 00:45:21.19 ID:kZjBsizg
>>225
小山・結城「...」

227 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 12:07:48.52 ID:jRwsxZfR
父ちゃん散々な言われようだな

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 12:58:53.30 ID:WlCvwZtb
蒲生のメイン盾ですので

229 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/11/21(金) 19:48:11.61 ID:pAQqNgnM
さすが名門藤原氏の蒲生家

家康の運命について

2014年11月03日 18:06

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/03(月) 00:19:27.88 ID:kjKdqvYr
ある時、長遠寺での振る舞いに、武田信玄の重臣である馬場美濃守、内藤修理正、高坂弾正、山縣三郎兵衛、
原隼人佐、小山田弥三郎などの大身衆が寄り集まり、一日雑談したことがあった。
ここで

「山縣三郎兵衛殿は駿河江尻の城代であるので、遠州浜松の徳川家康の噂をよく聞いておられます。
また内藤殿には関東の安房、佐竹、会津のことを語っていただきたい。
小山田殿は小田原の近くなので北条家のことを語っていただきた。
高坂殿、馬場美濃守殿は越後、越中までのことを語っていただきたい。」

そう促され、山縣が先ず家康のことを語った。
「徳川家康は今川義元公が討ち死にされてより以降、ここ10年ほどで国持と成った者ですが、駿河の
全盛期の作法を幼いころから見聞きしたためでしょうか、信玄公が奉行衆を使って公事(裁判)を
裁く様子に、少し似てきているようです。彼の公事の裁きは、どのような訴訟であっても珍しき事は
聞きませんが、それは家康が最近になって国持に成ったためでしょう。我々が感心するような裁きは、
あと十年過ぎても無いでしょうね。

ところであの若い家康が申し付けた三人の奉行ですが、それぞれ三様の性格の者に言いつけたようで、
仏高力・鬼作左・どちへんなしの天野三兵などと、浜松にて落書が立ったそうです。
昔、私が未だ三十ばかりの時、信州更科の奉行に、まだ若き武藤殿、櫻井殿、今井殿だけは
宿老でしたが、今福浄閑は中老でした。この四人、歳も性格もそれぞれ違った人達を、信玄公が
奉行に申し付けた事に、この頃の家康が少しずつ似ているのは不思議なことです。」

これに馬場美濃、内藤、高坂らは「家康は只者では有りませんね。」と言い合い、
中に馬場美濃が語ったことは

「家康の今後の身の上について、私は思うところがある。この美濃の生命をあと20年ほど生かしてもらい、
この考えが当たるかどうか試したく思うが、20年生きれば80歳に今少しとなる。金の鎖でつないでも
叶わぬことを願ってしまったな。」

そう言って笑った。これに高坂弾正が「家康の今後の身の上を、馬場殿はどのようにお考えなのですか?」
と尋ねた。すると馬場美濃守
「おやおや、弾正殿は私よりも先に、それについて考えがあるのでしょう?」と言った。

ここで小山田弥三郎が手を合わせて
「御両所の考えを、願わくばお聞かせいただけないでしょうか?」としきりに所望した。

そこで高坂弾正
「美濃殿の考えを承りたいので、先ず私が下座から申しましょう。
家康は今、織田信長と二世までの入魂と言っていい関係で、双方が加勢を助け合い、それ故に二人の関係は
堅固です。ですが信長は今や、敵は上方十四ヶ国の間に、信長に国を取られていなくても、あえて
信長の分国に攻め込もうと考える武士は一人も有りません。それ故に、次第に現在のような大身となりました。

一方、家康はいつまでも三河一国、遠州の3分の1だけならば、終には家康は信長の被官のようになり、
信長はそれを喜ぶでしょうが、仮に明日にでも信玄公が亡くなられた場合、信長は安堵し、
今でこそ家康を、嫡子の城介殿(信忠)と同様に思っていると、献上された3つの大桃のうち一つを
贈る程ですが、強敵・大敵である信玄公が居なくなれば、信長は家康を殺すでしょう。
もしそうならないのなら、家康の果報というのは少し考えがたいほどです。」

これを聞いて馬場美濃は大誓文を立てて「私もそう思う。」と言った。
内藤修理も同じ意見であると誓文を立てた。

(甲陽軍鑑)

家康の運命についての、武田家家中の予測である。




683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/03(月) 09:08:11.50 ID:JaF+NvrO
無知ですまんのだが「馬場美濃は大誓文を~」とあるが
この(大)誓文って起請文って理解で合ってる?
ただの雑談中の意見交換でなんで起請文を出すの?

内藤修理の理屈

2014年10月20日 18:53

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/19(日) 23:06:08.20 ID:Tu4xNOcV
武田信玄家臣・内藤修理(昌豊)の、妻の母が死去した時のこと。
この母が一向宗であったため、甲州の内とどろきという寺の一行坊主が葬式のため尽く参った。

そこで、内藤は他の宗派と同じようにいかにも見事に死者の膳を申し付けたのだが、これに対し
一向宗の出家達はこのように申した
「我が宗の習いですので、御阿弥陀様に良く食を進上いたしますれば、他には要らぬことです。」

内藤は尋ねた
「それはどうして、そのような法外な立場を取るのでしょうか?」

これに一向宗の上人
「我々にとって、阿弥陀こそが肝要なのです。外に食を供えるというのは、迷いの心です。
一向宗から見れば、他の宗派のやり方こそおかしく見えるのです。」

「しかし、亡者が飢えたらどうするのですか?」

「阿弥陀様にさえ食を供えれば、それが衆生の施しとなるのです。」

これを聞くと内藤は手を合わせて
「さても殊勝なことです。他宗と違って面倒な事のないご宗旨ですね。一尊への施しが万人に渡るとは、
珍しくも重宝なる一向宗ですね。」

そう褒めると上人も喜び
「ええそうです。我が宗ほど殊勝なものはありません。」
などと自慢した。

すると、内藤はこの上人に膳を据えたが、残りの百人余りの坊主には、一切膳を据えなかった。
坊主たちがこの待遇に「これは一体どういうことですか!」と抗議ししてくると、内藤は答えた

「おや、言っていることが違うでは有りませんか。上人にさえ膳を参らせれば、その他の坊主たちも
腹一杯かと存じ、このようにしたのです。」

これには坊主たちも詫び言して、亡者にも膳を据え、皆の坊主たちにも他の宗派のように取り計らった。
これは内藤修理の理屈のため一向宗が恥をかいたのである。

(甲陽軍鑑)




67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/20(月) 00:25:28.99 ID:MZBhw6Ae
>>66
前田慶次郎が林泉寺の傲慢な和尚にデコピンしたのが動なら、昌豊の方は静か
理詰めで坊主共に恥をかかせたわけか

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/20(月) 00:36:48.52 ID:4DGxDwzt
実際の坊主もこの程度で黙るなら楽だったろうな

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/20(月) 07:09:42.26 ID:C5OS1VUk
内藤修理 一休さん説w

気遣いは分別の花

2014年10月13日 18:52

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/12(日) 20:33:42.27 ID:LUVDo2cI
武田信玄家臣、小山田弥三郎がある時、内藤修理亮(昌豊)に問うた

「心の至らぬ若者に、気遣いをするようにと教えたのですが、それからはどこにも出かけず、
物も言わず、なんでもかんでも気遣いばかりしています。武士道においても良くなっているようには見えません。
これはどうすればいいのでしょうか?」

内藤修理、これを聞くと
「侍がそういう様子であるのなら、その人に知恵が付いたということです。
気遣いとは分別というものの花です。この花はやがて実になります。それを分別と申すのですよ。」

そう小山田に述べたという。

(甲陽軍鑑)



33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/13(月) 05:20:16.17 ID:si0zCDjC
立派なニートの出来上がり

坊主、座頭とは付き合わないのが

2014年10月11日 19:02

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/10(金) 22:27:03.93 ID:s7oJc1BH
ある時、武田信繁の嫡男・典厩信豊が内藤修理亮(昌豊)に尋ねた

「奉公人が大小、上下に限らず付き合って悪しき者はあるでしょうか?願わくば
修理亮の意見を聞いて、私が召し使う者達の後学としたいのです。」

これに対し内藤修理亮は
「先ず二人の者達があります。それはいさかい好きの坊主と、同じくいさかいの好きな座頭です。

どう言う意味かといえば、男子たるもの、寄り合ってその場のはずみで雑言などあれば、殴り、殴られ、
斬り合う。その時死んだほうを負けと申します。然らば、人の口論と殴り合いは、坊主も座頭も雑人も侍も、
力次第、口次第、あるいは贔屓次第で勝負があります。成敗は何れの形であっても甲乙の無いものであり、
最期にはぶった斬る以外の方法はありません。(後はぶつきるより外の儀はなし)
しかし坊主、座頭達はこれに負けたとしても恥になりません。

男子たるもの、雑言の上で少し義理が違っても恥でありますから、ここを以って斬るに極まるのは
武士の技と申し定まっています。
斬って理を得るのはその人の普段のたしなみ、又は冥加です。そうして、その時の有り様で勝負に勝って、
それによってその人が世間から褒められる事は武士の行儀というものです。
ですが、坊主、座頭を斬ってしまうのは恥だとされています。

でありますから、いたずら坊主、座頭に付き合わないのが秘訣なのです。」

そう言って、さらに修理亮

「それにしても典厩様は、さすが信玄公の甥子であり、しかも故典厩信繁様の書かれた法に嗜みがありますから
このようなご詮索までなされるのでしょう。」

と、信豊を大変に褒めたという。


(甲陽軍鑑)

坊主座頭とケンカして斬り合いしても、勝っても負けても恥なんだからそもそもそういうことが起こらないよう
付き合うな、という内藤修理の忠告である。
しかし口論が即斬り合い殺し合いになると断定しているのが、いかにもこの時代の武士ですね。




516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/10(金) 22:35:59.66 ID:PzTpVacq
つまりスルースキルが大事と

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/10(金) 22:50:33.96 ID:ajTUXYlz
木村重成殿が深く首肯しておられまする

519 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/10/11(土) 07:19:30.70 ID:Ie0URXO+
前田利家「ホントね~、某も主君の弟の茶坊主を主君の目の前で斬ったら追い出されちゃったからね~、坊主には関わらん方がええよ」

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/11(土) 20:01:48.98 ID:sFkWLxP1
道雪先生「根性を叩き直せばなんとかなろう・・・何回目かのう」

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/11(土) 21:28:26.54 ID:0zPERdI5
>>519
そういやお前の弟は同僚を切ったっけな

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/11(土) 22:52:49.04 ID:FR3FHb+t
>>519
坊主なんか押し切ってしまえばええんじゃって御主君がゆってた

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/12(日) 14:25:31.14 ID:qvvYM4+0
敵対関係でもない異母弟を斬ったら普通切腹モノなのにな

ある時、曾根内匠が内藤昌豊に

2012年05月27日 21:10

551 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/27(日) 15:33:58.57 ID:jt+ED01X
ある時、曾根内匠内藤昌豊に武田家がいかにすごいかを語ったことがあった。

「村上義清は信濃五郡の主で、当家は甲斐四郡とまことに小郡でした。しかも村上は
当家より人数も多かった。にもかかわらず何度も戦に負けてついには国を捨てて越後に
逃げていきました。

諏訪頼茂、小笠原長時、木曾義昌、上杉憲政らと幾度も戦いましたがいつも当家の旗風に
靡きました。北条氏康、上杉謙信とも何度も戦いましたが、当家の戦いぶりは凄まじく、
今や関東で当家の太刀風に並ぶ者はいません。まさに日本無双というべきです」

これを聞いていた昌豊は呆れてこう言った。

「あなたは本当に幼いことを言う人だ。いま中国には毛利元就という大将がいる。
その人物ははじめ七百貫より起こり、八ヶ国持ちの大内義隆、七ヶ国持ちの尼子晴久、
五ヶ国の主である大友義鎮と何度も戦って打ち勝ったのだ。村上諏訪小笠原と戦って勝つ
よりも遥かに勝っているではないか。

しかし案ずることはない。世間では当家の武勇ほど毛利の武辺は話題になっていないぞ。

国がどれだけ広くとも、どれだけ多くとも、戦の勝敗は志ひとつで決まるものだ。
村上の五郡は大内の八ヶ国には及ばずとも、戦士の数は八ヶ国よりも多かった。

当家の四郡は毛利の十三ヶ国に比べれば大海の一滴にすぎないが、死を惜しまぬ士は
十三ヶ国よりも盛んだ。つまり、当家は毛利よりも上に立っているのだ」


曾根を戒めるかと思ったらもっと大きく出たでござる。




552 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/27(日) 15:40:03.13 ID:qCyQnlv9
内藤さんは控え目なのか剛毅なのか混在してるかなり複雑な人だよなw
もとは剛毅だと思うがそれを抑えるだけの思慮分別があった苦労人だとは思うが

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/27(日) 15:45:43.93 ID:KM0dIbUU

サンキュー内藤!武田軍なら1万5千で3万人に勝つくらい楽勝やな!!!

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/27(日) 15:46:24.91 ID:5TNBSvzC
一方その頃、信玄はその毛利とガンガンやり合ってた雷神さんに会いたがっていた

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/27(日) 15:51:22.92 ID:Dvvnf/Iq
甲斐は四郡しかないんだからしゃあない
たしか加賀も四郡だけだったはず

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/27(日) 17:38:58.67 ID:3zvPZDOm
内藤さん大ぼら吹きやな~

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/27(日) 17:41:36.93 ID:OVAcFybQ
安芸武田や大内が毛利に滅ぼされて甲斐に亡命した人がいたから西国のことに詳しかったんだろうね

そういや山本勘助なる人物も元就をかなり評価していたな

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/27(日) 17:47:07.25 ID:HEoJz3+o
勘助は元大内家臣って説があるくらいだから

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/27(日) 17:51:11.57 ID:F2p2qJNE
萩藩閥閲録だな。
山本勘助は讃岐出身で山口に来て大内に仕え、その後甲斐に行ったという。
三河出身と「勘違い」されたのは、「讃州」を「三州」と間違われたからだ、とかw