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駿河なる 富士の山にて 甲斐喰ひて

2018年09月08日 17:14

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/08(土) 13:28:08.62 ID:w0IFeFGc
天正7年(1579)己卯正月の頃、蓑笠之助という者が夢想に発句を感得した。

「駿河なる 富士の山にて 甲斐喰ひて」

この句を目出度き句として(徳川家康は)のし付きの太刀を賜り、その句を買いなさった。
またその頃、内藤四郎左衛門正成が夢中に感得したとして和歌を申し上げた。

「咲花に 和泉河内の 治りて 黄金の橋を わたる米倉」

とりどり目出度きこととして御館の人々は語り伝え、この歌夢を見てより百日に満ちる夜、
三郎君が御生まれになった。これは台徳院大相国(徳川秀忠)の御事なり。

遠江敷地郡浜松城で御生まれになり、御幼名を長丸君と申す。御首服をかえなさり秀忠公
と申し奉る。

――『改正三河後風土記(以貴小伝)』


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「徳川家の良き士は数を知らず」

2016年08月04日 14:06

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 02:26:47.27 ID:wrZqDUGL
長篠の戦いの時、「徳川家の先陣を下知せよ」と言って、織田信長
の使者が徳川方のもとへ来た。すると、内藤四郎左衛門(正成)は、

「我が主君は、先陣の下知を他人に受ける者にはあらず! 内藤が
承って返答仕ったと申されよ!」

と、荒々しく言って、使者を追い返した。信長はこれを聞いて、

「徳川家の良き士は数を知らず」と、言いなさった。

【注釈:内藤を鳥居(忠広)とするものもあるが、鳥居は三方ヶ原で
討死したので、内藤のことであろう】

――『常山紀談』




39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 07:05:19.10 ID:kfD42Jl/
>>36 家康が長篠では先陣をした、というのは事実だ。信長公記にも載ってる。
地元の者が先陣をつとめる、という慣例のとおりだから、織田信長が家康へ先陣の下知をした
というのは不自然なので、常山紀談のまたまた創作だろう。

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 07:44:35.17 ID:eCDSoKFe
数を知らずってどういう意味なんだ?
計算の出来ない脳筋は猛勇ってことかい

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 08:13:57.52 ID:acCVXDMz
この場合「数知れずいる」ってことだろ

なにはともあれ、本当は息子を救っていた内藤正成

2016年08月03日 14:17

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/02(火) 20:38:14.89 ID:3enpF6iZ
以前、悪い話スレにて内藤正成が三方ヶ原で息子を助けて棄てた話を紹介したが、
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10094.html
寛永諸家系図伝を読んだところ、実はこの話が違っていたことがわかった
以下、寛永諸家系図伝に記述された話を紹介する

……この時息子の甚一郎正貞は敵陣に深入りし、味方が退いたのを知らなかった。

故に正成が息子の生死を知るため馬を返して敵陣に突入すると、正貞は数人の敵と刃を交えていた。

正成は槍で敵を突き、その敵から馬を奪い、正貞を乗せて撤退した。

正貞はこの戦いで敵の首をとり、彼の配下もまた高名した。


つまり、
寛永諸家系図伝では「正貞を乗てひきしりぞく」(原文)だったものが、
寛政重脩諸家譜では「正貞を棄て引退く」(原文)と誤って書かれてしまったようなのである

調べる限り「乗」と「棄」のくずし字は似た形になる場合もあるようなので、
そのために起きた間違いなのかもしれない

なにはともあれ、本当は息子を救っていた内藤正成のいい話である



31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/02(火) 22:57:22.20 ID:ss4ItaM9
>>30
おぉ~お見事!いくら戦国の世とはいえ惨い…と思ってたから良かったw

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/02(火) 23:11:05.12 ID:3enpF6iZ
一応言っておくと寛永諸家系図伝(1640年代編纂)を再編纂したのが寛政重脩諸家譜(1790年代編纂)です




33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/03(水) 14:58:43.00 ID:w5W1SYVI
百五十年もたてば崩し字の間違いぐらいしてもしょうがないか

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/04(木) 07:02:34.65 ID:kfD42Jl/
>>30 

正「正貞を乗てひきしりぞく」
誤「正貞を棄て引退く」

息子を見捨てて退却した、となっては、ひどい勘違いだな。元が良い話でよかった

息子を助けた上で見捨てるの巻

2016年07月11日 13:12

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/10(日) 22:50:51.40 ID:WoaxVO/c
三方ヶ原合戦の時の事、徳川方は敗北を悟って引き退き始めたが、
内藤正成の息子・正貞は敵陣奥深くにいたため味方の撤退を知らないまま戦っていた

正成は息子の生死を知るために敵陣に突入し、正貞が数人の敵と血戦しているのを見ると
かたわらから槍をふるって敵を突きのかせ、その馬を奪い、正貞を捨てて引き退いた

『寛政重脩諸家譜』より内藤正成、息子を助けた上で見捨てるの巻
途中までは息子を助ける話だと思ってたのに「正貞を棄て引退く」(原文)って……

関連
なにはともあれ、本当は息子を救っていた内藤正成



831 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/07/11(月) 13:52:57.83 ID:y9QtxI0+
息子が助からないのを確認して撤退
こういう冷徹さも戦場では必要

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 20:12:49.89 ID:K7vw0omF
>>831
そういう話でもないだろ

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 20:16:11.30 ID:c7/Arcse
>>833
いや、内藤正貞は三方原で戦死してるので、そういう話でいいと思うよ?

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 21:56:27.29 ID:jB33rLC1
>>830の後日談

内藤正成が息子・正貞を放置して撤退した後、なんとこの正貞はそのまま敵の首級を得て生還した

しかしこの正貞、天正元年に村越左吉と争論したことが父の逆鱗に触れ、内藤家を放逐されてしまったという

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 23:12:55.44 ID:CMj+2j7o
まーた生還したのかよ
鈴木久三郎といい正貞といい
夏目さんみたいに戦死した方が子孫が目をかけてもらえるのに

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/11(月) 23:32:24.51 ID:nhZQIK5f
夏目さんはむしろ、親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしてそう

「私ほどの者はおりません。」

2015年07月25日 14:04

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/24(金) 23:36:04.90 ID:vSlE0Vs5
内藤四郎左衛門(正成)がある時、徳川家康の御前にて「私ほどの者はおりません。」と言った。

その場には諸朋輩も並んで居たため、彼らから「どうして私ほどの者無しといわれるのか、
理由を聞きたい。」と尋ねられた。この時内藤

武田信玄が生きていた頃、いつも私が武田軍の先手の押さえをしていたが、
一度も後れを取ったことはなかった。
信玄の死後、信玄ほどの敵は居ない。今後とても、我らにとって信玄ほどの敵は出てこず、したがって
私のような者も出来ることはない。」

そう語ったという。

(明良洪範)




445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/25(土) 07:55:54.71 ID:P2LJRRAI
そ、そんなこと言われてもどう反応したらいいんだ・・

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/25(土) 08:24:52.74 ID:LufT3XG1
三方ヶ原は?

殿様は御耳臆病ですが目は剛胆です

2015年07月21日 13:03

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 20:50:04.95 ID:TgQAjEmj
関ヶ原の時、本多正信はこの合戦を甚だ心許なく感じており、内藤四郎左衛門(正成)を呼んで言った

「私は今度のご出陣はなんとも覚束きません。第一に、上方の軍勢は15万と称しているのに、
我々は御父子合わせても漸く5万ばかりです。
危うい事ですがご出陣されずにはおられぬ情勢ですので、お留めすることも申し上げられず、
ただ朝夕案じているばかりです。

あなたは老功ですから聞きますが、これをどのように考えておられますか?」

内藤はしかし
「私はそう思いません。必ずご勝利あるでしょう。
何故かといえば、私はご幼少の頃よりお側でお仕えしていますが、殿様(家康)は御耳臆病ですが
目は剛胆です。この江戸でお気遣いしているように見えても、神奈川あたりから剛胆になっていき、
上方まで出て実際の状況が見えるようになれば、鬼のようになられるでしょう。
そこから突き掛れば、たちまちご勝利なされるでしょう。

殊に今回幸運なのは、突き掛かるべき人が此方側に3人もいることです。
一には井伊兵部(直政)、二には福島左衛門(正則)、三はすなわち我が殿様です。
この3人が突き掛かれば一体誰が押しとどめることが出来るでしょうか?
であれば、ご勝利すると考えています。」

そう語ったが、果たしてそのとおりに勝利された。
(明良洪範)




431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 20:58:19.81 ID:0uppXI6Y
何と、兵部と家康、両方とも突きだったとは
どうやってやるんだろう?

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 21:36:03.26 ID:f5kM8Wzr
>>431
ちょっと待て何を想像した

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 22:24:17.38 ID:vS13F+8k
>>430
市松ってどの戦での戦功で評価が高いのかしら?
賤ヶ岳以外で大した手柄を立てていないように思うんだが。

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 22:29:00.68 ID:w5/+45hA
>>431
69すればいい

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/20(月) 23:54:35.42 ID:1071id/0
正信なら家康と一緒に謀を巡らしてそうなんだけど
そんなに心配だったのかなあ

436 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/07/21(火) 00:07:02.68 ID:eFOY7ELI
>殿様(家康)は御耳臆病ですが 目は剛胆です。
この表現に似たものが
新納忠元「耳なんとか目なんとか」・悪い話?
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1404.html

にもありますね。
>忠平様は”耳臆病、目かいがいしい大将”であられます
>家久(善)様は”耳かいがいしく、目臆病な大将”であられます
この頃によく使われていた言葉なのかな?

内藤正成の矜持

2011年04月17日 00:11

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 12:40:56.36 ID:W2diQyFL
徳川家康が関東に入国することが決まると、内々に家臣の知行割の作業が行われた。

ある近習衆が、家中において武勇名高く、後に徳川十六神将にも数えられる
内藤四郎左衛門(正成)にこの事を語った。
内藤、それを聞いて尋ねるに

「最初に誰の知行が決まったのか?」

「はい、最初は貴殿に五千石と決まったようです」

これを聞いて内藤、
「ふむ、過分なることよ」
と、まんざらでもない様子。

「他には誰の知行が決まったのかな?」
「は、同じく五千石で高木主水(清秀)殿、牧野半右衛門(康成)殿、阿部善右衛門(正勝)殿…」

みな徳川家中の錚々たる武功の士である。内藤これを聞いてさらに
「いかにもいかにも、御尤もである」
と喜んだ。

が、この近習の者さらに
「同じく五千石でその次に誰、その次に誰々…」

「ち、ちょっとまて!」
内藤、突然顔色を変え

「高木などと同様の知行を賜るのだから、五千石というのは武功の優れたるものばかりだと思ったのに、
何だその後の連中は!?
さてさて、殿は男数寄をなさることだ!(歪んだ形の茶道具を愛でるように欠陥のある者にも知行を与える、ということか)
ええい、面白くない!」

と、領地である武州羽山に引き籠り、剃髪して善想と名乗った、という。


こうして、家康の知行割に不満で引退した内藤であったが、家康は内藤の行動を許し、
その後も武蔵において鷹狩をするときは、必ず羽山の内藤の屋敷に立ち寄り、
鷹狩の獲物の鳥を手ずから与え、そこで食事をとり、彼の妻にも会い声をかけていたそうである。


領地より誇り、という内藤正成の矜持と、そんな内藤を仕方のない奴だと苦笑いしつつも、
その気質を愛していた家康の姿が見えてくるような、そんな逸話である。




6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 13:11:32.01 ID:kiVx0z21
めんどくさい。

7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 13:16:30.40 ID:5ltimX1A
家康も手慣れたもんだな、こんなのが複数人いるから大変なんだがw

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 13:24:09.54 ID:+wWC96TZ
部下に大封与えたために滅亡した信長や、政権基盤弱くした秀吉を見て部下の知行を抑えたのかな?
確か親族とか一門除けば家臣には最高でも二十万石程度しか与えなかったよな家康。

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 13:30:34.75 ID:WOeaIDdf
>>8
信長も、部下にそれほどの大封与えてないけどね
ただ、寄騎という形で指揮できる兵力は上げただけで

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 14:00:48.06 ID:AGQDP5pv
さぁ、皆さんご一緒に!

11 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/16(土) 14:43:54.90 ID:1FPGDvNz
武士の矜持の話しだから、こんなの葉隠にも似たような話し有るよね。
この時代の武士の、共通普遍の認識なんだろな。

これを三河ものだからって面倒くさいって、バカらしい話しだ。

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 14:50:39.14 ID:fcy6I+5H
ドヤ顔で何か言って周りを白けさせる人っているよね

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 16:05:02.95 ID:fDoob1n7
ワシに不満があるとなといって殺さないだけいい君主だよな、まぁ。

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 21:06:29.32 ID:RmpdkMpK
>>8
忠勝達ですら、城持ち大名になったのは
関東に行ってからだっけ?