FC2ブログ

その心持が面白かった

2019年07月08日 17:50

千利休   
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 21:56:58.28 ID:v9H8Sln5
ある時、千利休が、「圜悟(えんご)の墨跡(中国宋代の臨済宗の僧、圜悟克勤の墨跡。村田珠光が
一休宗純より印可証明として与えられたとされる)を御覧ください。」と、前田肥前守(利長)、蒲生氏郷
牧村兵部、細川三斎(忠興)の四人を、その墨跡を所持する人の茶会に案内する段取りを付けた。

ところがこの茶会の当日、急にこの利休ら5人に豊臣秀次公よりお召があり、時刻も過ぎて茶会に間に合わなく
なったため、利休は人を遣わして「御前に用が出来たのでご容赦していただきたい。料理も結構ですので、
御用意なされませんように。菓子にて御茶を頂きたいと思います。」と伝えた所、「やむを得ません、
御用が終わり次第お出で下さい。」と返事が有った。

そうして日が暮れてから、手燭を出しての席入と成った。入る時に利休が「手燭を持って床の掛け物をよく
御覧になって下さい。」と申した所、亭主である墨跡の所有者は障子を開けて出て、利休に対し
「どうぞ墨跡をお焼き下さい。」と言った。これに利休は「面目を失った。」と言った。

中に入ると金銀を散りばめ、土器などにも絵を描いた豪華な料理が出た。これを見た利休が
「料理は無用と御連絡したではないですか。さてさて合点の行かないことです。」と申した所、亭主は
「ご尤もです。しかしこれは、食事を召し上がるように、との事ではありません。皆様が私のところへ
お出でになられるということで、ただ忝なさのあまりこれを用意したのです。召し上がるには及びません。」
と答えた。利休は「また恥をかいた。」と言った。

後に三斎公は「その心持が面白かった。」と言われた。

(三斎伝書)



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 22:17:22.94 ID:3+H2OFSP
いわゆる小者

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 05:56:03.31 ID:PErBWv+E
当日キャンセルをかます成り上がり者に対する亭主の抵抗が窺える

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 19:30:32.72 ID:FDy5Rb+b
戦国時代とはいえ割と面倒くさいこともしてんだなw

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 21:10:55.98 ID:6lk5Uw6S
小者ってのは いつの時代も大して変わりゃしない

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:31:12.85 ID:BTnI+Yho
どこの誰なんでしょうね
スポンサーサイト



柴田勝家自害

2019年02月13日 17:48

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 00:14:41.65 ID:WTqP41ZB
柴田勝家自害の時)

勝家の家城である北ノ庄に前田又左衛門殿(利家)は真っ先に着かれた。城と寄り口との間に川一つあり。
その川に橋があって“北ノ庄の石橋”と申すはこれなり。

10間ほどの桁行短い淀みの橋があったが、これを渡らずに西の地に“愛宕山”という山があって、又左衛
門殿はその山に陣を取りなされた。そこに御旗本の先手の御人数が早くも到着した。

又左衛門殿の下知により、川端に又左衛門殿の手勢の人数が立てられた。橋口を又左衛門殿は心掛けられ
て一番に渡ろうと思われたのか、先手の御人数さえも橋口を渡らずに、主の手回りだけの人数で橋口を固
められて、又左衛門殿自身はまた愛宕山へ登って待ちなさった。

そこへ秀吉が早くも愛宕山に登りなされた。秀吉の仰せには「軍兵どもは腰兵糧を使え」とのことで、御
使番衆を所々に差し遣されて又左衛門殿へ仰せになり、「城を持ち固める前に攻め入ろう」と御談合なさ
れたところで、北ノ庄城は天守から焼け上がった。

後に城から出た者が申し上げたことによれば、勝家はとても叶わないと思われたということなのか、前述
に申し上げたように、天守へ鉄砲の薬を上げさせて二重に詰め置かれ、御前方(お市の方)やその他の片
を付けて勝家も自害なされたのだ。

勝家は燠掻きに火を入れて前述の時に上げ置きなさったのだが、腹を切ってその火を掛けなされたことよ
と見えて、二重の鉄砲の薬によって爆発すれば、天守の部材は四方八面に跳ね散らし、秀吉御陣取りの愛
宕山へは城から10町ほどもある所にまで、瓦などが虚空を跳ねて来たのである。

(おきかきに火を入右に被上置しか腹を切り其火をかけられたるよと見え二重の鉄炮の薬にてはね候へは
天しゆの引物とも四方八面にはねちらし秀吉御陣取の愛宕山へは城より十町程も御座候はん所にかはらな
とこくうにはねて来り候)

――『川角太閤記』


神速無比の人なり

2019年02月12日 18:11

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/11(月) 20:06:12.81 ID:GR8PkkoR
太閤は柴田勝家を征伐した時、城に火の手が上がるのを見てそのまま越中に赴き佐々陸奥守(成政)を征
伐した。勝家の首を見なかったが、そのような事をも何とも思われなかったのである。神速無比の人なり。

(中略)

太閤は万時早速なり。ある時に右筆が醍醐の“醍”の字を忘れた。太閤は指で“大”の字を地に書き曰く、
「汝は知らぬのか。このように書け」ということである。

また高麗の軍中に奉書などを下される時にも「継いだ紙に書け。あるいは悪いところは墨で消してこれを
持って行け」と遣われたという。(原注:一本には「『俊傑の人はこのような小枝には心を掛けぬものだ』
とのことだったという」とある)

――『老人雑話』


柴田勝家自害の時)

秀吉が北ノ庄城の天守が焼け上がるのを御覧になって、「又左衛門殿(前田利家)はどのように御観察に
なるか」と仰せられれば、又左衛門殿は「勝家は自害致されたか、または武略でもござるのかこの二つと
存じます」とのことであった。

秀吉がこれを御聞きになられて「武略の様子とは如何に」と仰せなされば、又左衛門殿は「勝家は天守に
火を掛け自害したように見せかけ、自身はひとまず落ちたのかもしれません」との御答えであった。さて
秀吉は、

「勝家ほどの者が居城の天守に火を掛けるということは、私も人もそうだが、城持ちほどの者にとっては
天守一つであっても運を開くための天守である。それに火を掛けるほどならば、とりわけての何かはあるまい。
ただ単に勝家の自害は必定である。(それに火をかくる程ならは別條候まし但自害は必定也)


又左衛門殿が仰せられたように、たとえ一旦落ちて山林へも入り、その後に尊氏などのようにまた重ねて
義兵を挙げようとの判断であろうとも、あの体をなすまでに成り行っては、2年3年の間に義兵を挙げる
ことはできないのである。その間に私が聞き出して、尊氏のようにはならずに勝家は縛り首にあうだろう。

『首を見る』『遺体を探し出す』などと申していては、3日5日は日柄が立ってしまうのは必定である。
首遺体は見ること不要の物だ(頸死骸見候はん事不入物候)。いざや、ただちに加賀国に押し込む!」

と仰せになって、かの石橋(北ノ庄の石橋)を又左衛門殿が真っ先に押し渡り、秀吉は城を横目にして加
賀国へと御馬を速められた。

秀吉は御使番衆を召し寄され、「下々の者どもを町屋に入れて、2泊分の米・塩・味噌を用意させよ。馬
の飼料以下も同様である。その他の物でも、乱取りしようと心を入れてはならぬ。その通り下々へ触れよ」
と仰せになり、その夜は船橋を御渡りとなって、御陣取りを一夜で御据えになった。

――『川角太閤記』


如御意裏切は可被御免候外聞如何と存候

2019年01月27日 17:55

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/26(土) 20:19:07.24 ID:jQx+upVJ
(賤ヶ岳の戦いの時)

20日の夜に入り、秀吉は賤ヶ岳山の麓に夜に紛れて御入りになった。その隣の百姓どもを呼び出され、
この頃の陣取りの事なので、百姓どもに敵の陣取りの次第を御尋ねになられると、一々にこうであると
申し上げた。

「それならば汝は案内をよく知っているだろう。筑前守の者を汝に付けよう。頼む」と秀吉は仰せられ、
金1枚を遣された。「難無く戻ればまた2枚を遣しましょうぞ。この者を連れなさって前田又左衛門殿
(利家)の陣へ紛れ入りなされよ」と仰せになれば、その百姓は「大形山をつたって参りましょう」と
御受けし、秀吉は申状を御書きになり、前田又左衛門殿へ遣しなさった。

「夜に紛れてここまで参着しました。敵の人数を残さず引き付けた時には、篝火を数を尽くして燃やし
ます。火が多く見えたならば、明日の合戦と思し召されよ。合戦を結んだ時には裏切りを願い奉りたく
存ずるが、かねてよりの御心中は存じておるので、はっきりと裏切りにはなられますまい。

合戦に御構いなさらぬことは裏切り同様でござるので(合戦に御かまひなき事裏切同前に御座候間)、
そのように御心得なされたい」

このように仰せ遣わしなさると、又左衛門殿からは、

「それでは茅野まで夜に紛れて御着きになられたか。篝火のことは心得申した。仰せのように裏切りは
御容赦なさって頂きたい。外聞は如何なものかと存じます(如御意裏切は可被御免候外聞如何と存候)。
明日の御合戦では、御指図のように双方ともに構いますまい」

との御返事であったと相聞こえ申し候事。

(中略)

前田又左衛門殿は、自城の越前の府中に難無く父子ともに入りなさった。この城は柴田殿(勝家)の家
城から道を5里隔てた近江の入り口である。又左衛門殿は「秀吉は早々にここへ気負いして攻め掛かり
なさるものであろう」と思案された。

裏切りを確かにしてこうと見えればこそ、秀吉も御満足と思し召されようが、そうではなかった(裏切
をも慥かにして角と見えはこそ秀吉も御満足とは可被思召に其儀はなし)。

身の上も危うく思いなさったということなのか、又左衛門殿は「まずは城の総構えに鉄砲を配置せよ!」
と子息の孫四郎殿(前田利長)を出され、あちこちに鉄砲を配置し今か今かと御待ちになったのである。

――『川角太閤記』


前田利家うらきりしたる故

2019年01月17日 19:05

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/16(水) 21:13:33.90 ID:QYRGmbyD
柴田勝家は賤ヶ岳の砦に居たが、前田利家の裏切りのため敗北し、彼はここにて討ち死にしようと
決心していた。しかし勝家家臣の徳山五兵衛と言う者が
「ここで討ち死にしても意味がありません。越前北ノ庄に退かれ、御城にて心静かに御腹を召すべきです。」
と諌めた。勝家もそれに同意し、越前へと撤退した。この時五兵衛は
「天下に隠れなき、勝家様の金の御幣の馬印をお預け下さい。勝家様の御命に代わり、私が
討死いたします。」と申し、言葉通り死を遂げた。

(原文)
柴田しつがたけの取出に居たりけるか、前田利家うらきりしたる故、柴田爰にて討死せんとありし時、
柴田か家臣徳山五兵衛と云もの申けるは、是にて討死し玉はんこと詮なし、越前北の庄へのかせ玉ひ、
御城にて心しつかに御腹召候へかしと諫めけれは、けにもとやおもばれけん、越前さして退玉ふ。
五兵衛申けるは、天下にかくせなき、きんの五弊あつけたまへ、御命にかはり討死仕らんと申て死をとげたり。

(祖父物語)

賤ヶ岳の敗因を、はっきり「前田利家の裏切りのため」と書いているのはホント珍しい。


物事に分別のある人

2018年06月17日 17:47

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/17(日) 15:34:15.91 ID:p3ch8gs1
ある時、蒲生氏郷が伏見の前田利家の屋敷を訪ねた時、蒲生家と前田家はもとより縁辺であるので
(利家の次男・利政の妻が氏郷の娘)、供の侍たちは蒲生家、前田家共に座敷に入るのであるが、
その時は蒲生家の侍たちは、座敷には入らなかった。

ところが、氏郷の小姓である岡半七という者、これを知らずいつものように番所の戸を開けて
座敷に入ろうとした所、傍輩が一人も居ないことに気が付き、驚いて座敷の戸を閉めて退出した。
この姿を番所に居た者たちが小声で笑った。

その瞬間、岡半七は太刀の柄に手をかけた
「汝ら何を笑うのか!?」

声高に過ぎたその声を氏郷は聞き付け
「また半七めか。いつもの大声だな。」と、つるつると座を立ち半七を呼んで、特に用があったわけでは
無かったが、当座の事について長岡越中守(細川忠興)への使いに出した。これによって喧嘩を止めたのである。
このように氏郷は、物事に分別のある人であった。

(氏鄕記)



18 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/17(日) 17:04:59.83 ID:UyI9nnUz
ぷーくすくすされたら、刀を抜かないといけない。これ、侍の掟。

備の場にて馬を

2017年11月08日 20:28

266 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/08(水) 12:43:43.33 ID:twusLRGw
備の場にて馬を取り放してしまっては、必ず味方の破れにつながるので、聊かも疎かにしてはならない。

賤ヶ岳の合戦で、柴田方であった前田利家の備が敵と交戦する前に崩れたのは、前田の家臣であった
三吉左吉という者が馬を取り放してしまい、それゆえに備が乱れ。佐久間玄蕃同時に崩れたのだ。

この時、前田の旗奉行である横山半喜(長隆)という者が討ち死にした。これはあの横山山城(長知)の
父である。旗の立てよう、見事であったという。

また関ヶ原の時、近江大津城攻めは9月15日に行うと決定していたが、13日に毛利方の吉川家の者が
陣屋において馬を取り放し、殊の外なる騒ぎとなったのを、共に大津城攻めに参加していた立花家の者達が

「さては中国衆は、我々を出し抜いて城を攻めるのか!」

そう勘違いをし、柳川衆はそうはさせるかと攻め掛かり、二、三の郭を乗っ取った。
柳川衆のこのような行為を見て、中国衆もまた攻め掛かった。

これらは、みな馬を取り放してしまったために起こったことである。故に、陣屋、備の場ともに、
馬を取り放さない心得がなくてはならないのだ。

(士談)



禄が重くなれば安堵致して、

2017年09月16日 21:53

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 02:09:29.56 ID:whL2ywNF
越後の謙信が一揆を退治しに加賀へ発向した時、たいへんに寒気が強く、
太田村へ人数を入れて、火を焼いてあたって居申した。

そこへ加賀の一揆の大将で、何とかの能登とか申す者が、にわかに攻め
掛かり、謙信はやり様もなく打ち負けて敗軍した。

これを大納言様(前田利家)は聞こし召され及んで、能登を召し出された。
それ以後、度々の合戦に能登は参加したが、1度の高名も無かった。

凡そ奉公人は禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬものであるとの由、
享保5庚子年6月5日に仰せになった。

――『松雲公御夜話』



109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 06:53:07.43 ID:U6gQ3t67
>禄が重くなれば安堵致して、奉公仕らぬもの
滝川の事か

ノブが生きてたら林、佐久間の次に追放されるのは明智か滝川だったんだろうな

110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:11:44.64 ID:gyQZQRbc
だから禄重くなくて良いから茶入くれって言ったのに…

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 07:43:44.23 ID:goG3qGCB
>>109
関東にとばしてるから、しばらくは安泰でしょ
狙われるとしたら近江に所領のある光秀や秀吉じゃないの?

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 10:35:41.22 ID:AY+NQw1b
>>111
光秀も滝川一益同様に飛ばされるのが確定していたやん。

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 11:34:35.22 ID:TT1HxNQx
追放と領地替えをごっちゃにするな

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/16(土) 18:33:26.75 ID:WWUjnWOe
光秀は近江坂本とか丹波亀山とか京都への入り口の一等地をあげちゃってた
から
使えない奴だったら追放のところ
使えるから転封


信長の野望での家宝強奪みたいな事をリアルにやっちゃう信長って
配下の部将を手駒位にしか思って無かったんだろうな...

利太が変通を知ること

2017年08月31日 16:58

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 04:04:36.60 ID:UEGnf68d
前田利太(慶次郎利益)が高徳公(前田利家)に従って京都にいた時、
関白・秀吉は利太が奇人であると聞いて謁見を望み、

務めて異様を表して出仕するように命じた。すると利太は髻を耳上に
作り、皐比(虎皮)の肩衣を身に付け、異様な袴を穿いて出仕した。

利太は謁見するに到り頭をそばだてて拝謁し、髻はまっすぐになった。

秀吉は大笑いして良馬一頭をお与えになり、「再謁してわしの面前で
この馬を受け取れ」と、言った。これは利太が更に異様な装いで出仕
することを推量しての心中であった。

利太は退くと服を改めて髻を正し、進見して賜物を拝領した。表情は
正しく、容姿も厳粛であり、進退も規律があった。

秀吉は感嘆して、利太が変通を知ることを称えた。

――『加賀藩史稿』



194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 06:34:26.82 ID:sFrl8ECp
大人ひとりじゃ持てないような脇差は持ってなかったのか

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 10:43:01.79 ID:tjcfsPmD
花の慶次の見せ場にあったな

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/31(木) 11:59:21.66 ID:DQ47Luus
>>193
これが元ネタか、懐かしい。

その後鶴の汁にあたり申した

2017年02月03日 10:58

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 03:42:19.15 ID:QlvkgnZx
利家様が鶴の汁を召し上がりなさったところ、すぐに御蟲にあたり(腹痛)申した。
それを契機に御物語りになられたことであるが、

信長公が安土山の御城に御成りの折、いずれの人にも御振舞を下され、鶴や色々
の珍物のうえに、信長公は御引出物を、御自身で御引きになられた。

柴田(勝家)の前で仰せになったことには、「貴殿を初めとして度々手柄を致された
ゆえ、このように天下を静めて万事成就し、満足し申しておる」とのことだった。

またその他それぞれに御言葉をかけた。さて7,8人が末座にいて利家様もおられた
のだが、信長公は御引出物をなされ申す時、

利家様は若き時は信長公の御側に御寝伏しなされ、御秘蔵であったと御戯言を
仰せになり、利家様はその頃までは大髭でおられたのだが、その髭を御手で掴み、

(利家様若き時は信長公御傍に御ねふし被成候。御秘蔵にて候と御ざれ言御意候
而、利家様其比までは大ひげにて御座候鬚を御取候而、)

「其の方が稲生合戦の時に16,7歳の頃、武蔵守(織田信勝)家中の宮井勘兵衛
という者の首を取った時、私は21歳になって初めての合戦だった。

私がその首を、『なるほど小倅ではあるが、この手柄を見よ!』と言って、馬上で
采振り致すと味方は気を得て、ただ7,8百ばかりで3,4千人の人数を押し崩した。

その如く各々が手柄を致したゆえ、このように私は天下を静めて万事成就致した」
との旨を仰せになった。「なんとまあ、かたじけなき御言葉!」と存ずるところに、

御近習衆の給仕を仕る衆までも「はてさて、冥加なる又左殿かな!」と、あやかり物
とばひやひ候(肖り物を奪ひ合ひ候?)ように給仕の者が誉めるので、

利家様は得意がりなさり、「かたじけなき御言葉!」とひたすら物を食べ過ぎ、鶴汁
を止む無く飲み過ぎて、その後鶴の汁にあたり申したと仰せになり、御笑いになった。

前述の通りを、太閤様も度々仰せられたとのことを、金森法印(長近)や羽柴下総殿
(滝川雄利)なども、利家様のもとへ御出でになられた折に御申しになられ、それを
承り書き付け申すものである。前述の御合戦の時、柴田殿は武蔵殿の衆でおられた。
色々の物語りがある。

――『亜相公御夜話』




578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/03(金) 08:07:34.18 ID:iWka4lYR
信長はその話をする度に、「勝家の野郎、そのうち用済みにしたるー」と腹の中で思ってそう

それはさておき、織田家や羽柴家の雰囲気が伝わってくるちょっといい話だね

「又左衛門は、まったく只者にあらず」

2017年01月19日 18:23

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/19(木) 02:50:23.03 ID:G4L3SlP9
蔵人殿(前田利久)の御知行は右の如く、信長公の御意で利家様へ下され、荒子を
御受け取りになった故、御兄弟ではあるが、すぐに御敵対のように御仲は悪くなった。

それにつき、柴田修理殿(勝家)、佐久間右衛門殿(信盛)、森三左衛門殿(可成)、
佐々内蔵助殿(成政)、利家様などが御参会し、色々の御話しのなかで、

「又左殿は御手柄度々のこと故、前田の惣領を御継ぎになったのはもっとものことと
存ずる」とのことで、御続けに御舎兄の蔵人殿のことを、皆々謗り口に御話しした。

その時、利家様は、「まことにかたじけない」と、御挨拶した。そのうえに、「蔵人殿は
武道もぬるい」とのように、とりどりに言葉の端から出ていたので、

利家様は押し跪きなされ、「蔵人は聞こえぬ分別を仕る故、跡目は私に下されました。
かたじけなく拝領仕り、前田の惣領は私が持ち申しております。ただし、蔵人の武道
のことは、私めの前で御申しになることは御免頂きたい」と、けわしく御申しになり、

皆々は、「もっともである」と御申しになって、物申す人はいなかった。これも柴田殿や
森殿だけであれば、御知音なので苦しからぬことであったが、右衛門殿や内蔵助殿、
その他2,3人が御越しであったので、

右の通り仰せになったと、利家様は御物語りになられた。この事はまたひとしお、
「又左衛門は、まったく只者にあらず」と言い習わされ、信長公の御耳にも入り、
信長公は御感心であったとのことである。

その後に、柴田殿と三左衛門殿も利家様へ御謝罪になり、また、大納言様(利家)も
御両人に御謝罪し、ますます御間柄は良くなりなさったと利家様は御物語りなさった。

――『亜相公御夜話』




利家様の仰せによると、

2016年10月09日 12:34

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/09(日) 03:37:36.64 ID:DapAlDQQ
一、利家様(前田利家)の仰せによると、

「若き者は、世間で事のある時に意気盛んな言葉を言わせておくのが良い。『その言葉
を違えまい』と思う心のあるものである。早くも2,3度手柄をあげると、意気盛んなことを
言はぬものだ」とのことである。

一、戸田武蔵守殿(勝成)も坪内平太も物語りに御申しになったことであるが、利家様を
近頃取り沙汰して申すことには、

「又左衛門は、この頃意気盛んなことを言わないが、早くも心を引き締めたのだろうか」

とのことだった。ところが、利家様は大坂合戦の時にまた日本無双の槍をなされたので、

「又左衛門は若き時は意気盛んなことを言っても武辺をなしたが、いま心を引き締めても
このように手柄をあげるならば、あれこれとは推し量れぬ人である」

と、上下の身分ともに申したとのことである。

――『亜相公御夜話』




「宗易の手前によく似ている」

2016年09月02日 19:57

千利休   
141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/02(金) 03:03:00.96 ID:solwGPfs
千利休の生害後のある時、太閤は風炉の形を何かと御好みであったのだが、
「このような時は、利休めを殺して事を欠く」と、仰せになった。

これを権現様(徳川家康)と利家公は、以前から宗易のことを不憫に御思い
であったため、良い機会と思し召し、少庵と道安の御許しの御取り成しを
なされ給い、早速の御許しを蒙った。

その後、太閤は道安を御前へ御呼びになり、4畳半で茶をたてさせて上覧に
なり、「宗易の手前によく似ている」として、道安は御感心を受けた。

――『茶話指月集』



【佐久間盛政、前田利家に戦功を譲る】

2016年08月11日 13:48

55 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2016/08/10(水) 20:06:22.68 ID:kv4aHxC0
佐久間盛政前田利家に戦功を譲る】

清須会議の後、能登では有力寺院の天平寺が織田家に敵対し、越後へ亡命していた国人衆を呼び戻して挙兵した。
天平寺は要害の石動山を本拠地とし能登の国人衆に強い影響力を及ぼした強大な組織であり、北陸で猛威を振るった一向一揆が能登国に浸透しなかったのは、天平寺の存在があったからだった。
織田信長が存命だった頃、織田家は天平寺の寺領の大半を没収した。
また能登国人衆の温井家や三宅家などは織田家に降ったが、彼らに恨みを持つ長連龍に攻撃されて逃亡し、故郷へ戻る機会を窺っていた。
上杉景勝は能登へ戻る国人衆に兵を貸し、さらに後詰の軍勢を派遣する準備を進めた。
反織田家の軍勢は、能登と越中の国境にある石動山と荒山に籠り、荒山では既存の砦の改修工事を始めた。

当時の上杉家は宿敵だった北条家と和睦の交渉を進めて背後を固めていた。
上杉家が越中・能登の反織田勢力を糾合して北陸方面軍と対決するには都合の良い時期だった。
本能寺の変の直後に信長の元馬廻り衆だった前田利家が明智討伐よりも能登に留まることを選んだ事実を考えると、北陸の情勢は深刻で荒山合戦は北陸の勢力図を塗り替える可能性が
あったかもしれない。

天平寺が挙兵すると、前田利家は柴田勝家と
佐久間盛政に応援を要請した。
要請を受けた盛政からも柴田勝家に事態を報告すると共に、情勢が逼迫していたため直ちに出陣した。
盛政と拝郷家嘉は、僅か二日で兵を集めて荒山の近くの高畠という土地に入った。
この時点で荒山の砦の工事はほとんど進んでいなかった。

拝郷家嘉の居城は加賀南部の大聖寺城で、
兵の召集から現地入りまで二日は驚異的
な速さになる。
おそらく盛政たちは天平寺の挙兵に備えて、
予め兵を集めていたのだろう。

盛政と拝郷は現地の人々の協力を取り付け、荒山の砦改修の情報を知ると、直ちに出陣して荒山へ向かった。盛政は斥候を出して状況を把握すると、反乱軍の主力数千人が籠る荒山を猛攻撃した。佐久間勢の猛攻を受けて敵軍の指導者は尽く戦死。
指揮官を失った敵軍は敗走して石動山へ向かったが、退路に回り込んだ拝郷勢に捕捉されて壊滅した。

友軍を失い孤立した石動山は前田利家
制圧して反乱を鎮圧。
上杉軍が送った援軍は間に合わず撤退した。
合戦の結果、織田家は能登と越中北部から
上杉家の影響力を排除することに成功した。
その後は佐々成政と傘下の越中国人衆が
独力で上杉軍を抑え込み、
北陸の情勢は安定した。

荒山合戦における佐久間盛政の働きは、
350年後に日本陸軍の戦史研究チームから絶賛された。
『第九師団管古戦史』では、参考にした
史料群から佐久間盛政の働きについて、
・事態を想定していた。速やかに出陣した
・現地の住民を味方につけた
・戦機を見逃さなかった
・諸将とよく協力した
・手柄を前田利家に譲った
(佐久間勢が討ち取った敵将たちの首を、
盛政は前田利家に譲った。
能登を安定させるためか)
等々を挙げ、盛政の采配と戦術眼を高く評価した




56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 20:38:48.25 ID:BlSChZfX
>>55
>・手柄を前田利家に譲った
ほんまかいな…?家臣や兵士が反乱起こしそう。

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/10(水) 22:02:11.36 ID:0rKTAGi4
柴田が諭したんじゃね

58 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2016/08/10(水) 23:46:30.98 ID:Aep4nCw4
>>56
書いてあるとおり能登を安定させるためじゃないかな~

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 02:48:55.26 ID:d07OqDCz
で 350年後の陸軍の連中はこれを手本と出来たのかね

60 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2016/08/11(木) 03:09:01.69 ID:u+mu/5nD
>>59
どうだろうね。

「軍兵どもはかがむな!当たらぬものぞ!」

2016年06月16日 12:26

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 04:22:34.61 ID:qyrPuhLC
大納言様(前田利家)も折々御話になり、戸田武蔵殿(勝成)や猪子内匠殿(一時)
なども御話になったことである。

信長公の御時代、柴田修理殿(勝家)、森三左衛門殿(可成)、坂井右近殿(政尚)は
各々が意気盛んな言葉を申した武辺者であった。

鉄砲の玉が撃たれ来る時、柴田は立ちながらおられて、「軍兵どもはかがむな!
当たらぬものぞ!」と、御申しになった。

一方では、三左衛門殿と右近殿などは、「柴田じゃというても絶対に当たらないなんて
ことはない。武者というものはかがむ時はかがんで、鉄砲や弓矢に当たらぬようにし、
攻め掛かる時は押し開き、何にも構わず掛かるものである」と、申された。

これに大納言様は、三左衛門殿や右近殿などの言い分は功者であると仰せられた。

――『亜相公御夜話』



851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 06:55:04.08 ID:t3AlYHdJ
>>850
柴田は脳筋だから付き合いきれなかった、というお話しですね

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 07:01:00.39 ID:t8BHoxnC
勝頼は脳筋じゃねえだろ

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 07:01:32.26 ID:t8BHoxnC
あ、勝家だった。富田さんのところいってくる。

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 08:11:20.86 ID:FrL4idmq
狂犬の話かと思った

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 15:00:01.08 ID:krlDiNlY
戸田勝成に猪子一時って織田家の古株なんだな
知らなんだ

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 21:35:19.91 ID:H0UyalCR
>>850
鬼武蔵は親父の言葉どおりしゃがんでたのかな
それで撃たれて死んだならかなり恥ずかしいな

戦場での頓智

2016年05月01日 17:14

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 02:34:37.83 ID:nbHvxLNh
美濃・尾州を取り合いました時のことです。
日暮れとなり、互いの兵共が槍を持ってにらみ合っていた。

尾州側には佐久間久右衛門という功者武辺者、これは佐久間玄蕃の父で、柴田修理殿の姉婿であった者がおり、
彼は日暮れになると左右に下知して小声で「田を結べ、田を結べ」と言う。

当時は八月の頃で、ちょうどその場にいた兵は何れも流石にその道に心得ている者たちだったので、
槍の柄を持ちながら田を結び静かに退いていきました。
折節中秋の頃なので、草村を過ぎる風の音がしほしほと鳴いていました。
尾州側が六、七間ほどさっと退きました時、敵がどっと槍を入れてきた。
しかしかの武者共は先の結び目に蹴躓いて転び、尾州方は美濃方の兵の首を十五、六個程取れたという。
それゆえ美濃から五十日ほど人数を出せなかったそうです。


以上のことを利家様は物語なされました。
皆々もこのような話などは、ぼんやりと聞くことは無いようにと仰られました。
(利家夜話)

戦場での頓智のいい話



649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 02:39:37.51 ID:4uXgvXJp
農民にはえらい迷惑な話だね

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 02:44:20.67 ID:P+SQIl3F
この頃は泥臭く戦ってそうだもんな

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 02:55:48.07 ID:x4B2WdUx
子どもがやってお百姓さんに怒られそうな罠だ

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 04:42:21.54 ID:gw+TwaKS
>>650
泥じゃなくウンコ投げてたしな

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 06:11:37.94 ID:tMR6Mg7P
中秋の頃なら、刈り取り終わってね?

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 07:17:26.06 ID:KedlLjNm
>>653
中秋といいつつ八月とも書いてあるからなぁ

ただ本当に中秋だとしても関ヶ原の直前も刈田がどうこう言ってたし、美濃では普通なのかも

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 07:29:24.50 ID:tMR6Mg7P
>>654
8月は旧暦の八月だと思う

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 08:01:48.76 ID:O6t3KIs2
中秋とは八月のこと。
昔は梅雨(五月雨)の頃に田植して十月に稲刈りが一般的
以上はもちろん、旧暦での話

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 11:59:18.46 ID:gWM6M/E4
何故尾州と書いて濃州と書かない?

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/01(日) 12:14:24.32 ID:98MthrCf
なるほど、そりゃ「春は(食料も尽きてきて)死の季節」って話にもなるわ

人を呪う事はあってはならない

2016年04月28日 11:07

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 02:50:37.10 ID:V0jy1STk
大納言(前田利家)様の御咄に、人を呪う事はあってはならないというものあります。
その理由として以下のお話をされました。

利家様が荒子を信長公の御意で前田蔵人(利久)殿から受け渡されたとき、
蔵人殿の御内様が腹を立てられて、色々呪う事をなされた。
屏風・障子にまでも呪いを封じさせてから退城されましたが、
結局大納言様にはいや増しに吉事があったとのことです。

村井豊後も同じことを語っていました。
(利家夜話)

なんで信長は利家に家督を相続させたんですかね



575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/28(木) 06:09:16.99 ID:lAFOKSFt
そりゃもうアーッよ

576 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/04/29(金) 00:54:22.03 ID:GjfOD1XB
>>574
呪うと呪った相手にいや増しに吉事が訪れるから?

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/04/29(金) 10:03:32.46 ID:lNQCYFn2
「祝ってやる!」だろ?

さらに、大谷吉継に至っては

2016年02月04日 09:22

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 20:57:26.92 ID:SFRxxhq/
慶長4年正月21日、加賀大納言(前田)利家、並びに奉行衆よりの使いとして、
元長老の生駒親正らが徳川家康の屋敷を訪れ、
「太閤御他界以後、数ヶ月も立っていないというのに、各大名と御縁組を行ってっている儀、
我儘である。」
との内容の抗議を申し上げたという。

奉行衆よりは、大崎少将(伊達)政宗、福島正則、蜂須賀家政の3将に使いがあった。
その内容は、各々が奉行衆に相談もなく徳川秀忠と縁組をしたことは、御掟を背き
不届きのことである、という物であった。

伊達政宗はこの返答に
「私は知らないことだ。今井宗薫とかいう堺の町人がこの才覚をしていると聞いている。」
と言うばかりであった。その後奉行衆は、宗薫を呼び出し詮議をした。

福島正則と蜂須賀家政の返答の内、蜂須賀は
「我ら阿波守護家は太閤の御爪の端にも連なる者です。そんな我々が家康公親子と婚姻を取り行えば、
万端その御意を得ていないといっても、これにより家康公が、猶以って秀頼公に御無沙汰することが
無くなると考え、この事は然るべしと判断し、婚姻を申し上げたのです。」
そう答えた。

この事により、諸大名は思い思いの行動をした。
内府公には、池田輝政とその一党、福島正則、黒田如水・長政父子、藤堂高虎、森忠政、
および新庄駿河守その他小身衆が集まり、また有馬法印則頼、金森法印、織田有楽という人々も、
何れも関東方であった。
大小身共に、毎夜内府公の御屋形に詰めていた。

さらに、大谷吉継に至っては
「もし家康公に敵が攻撃してくれば、私がいつでも先手を仕り、奉行共と一合戦いたします!」
そう宣言し、自身の屋敷に人数を集め奉行衆の軍勢を待ち受けていたという。

(玉露叢)



249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 23:03:53.96 ID:sqK6NI4q
良い時代があったのだな

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 23:09:51.66 ID:DsX79652
なぜここまであからさまに家康の味方をしていた大谷が関ヶ原では反家康を旗幟鮮明にしたのか
(脇坂みたいにこっそり通じて、秀秋+脇坂朽木赤座小川といっしょに寝返ってもよかったのでは)
そして関ヶ原後、大谷については賞賛こそされ、謗られることがほとんどなかったのか不思議

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 23:11:49.05 ID:9jmumgSk
前田が嫌いなだけやん

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 23:14:02.86 ID:DsX79652
なるほど丹羽長重と同じだったと

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 23:37:13.58 ID:9jmumgSk
そう考えればしっくりこないか?

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/04(木) 00:57:58.65 ID:u32bMwyM
家康は上杉征伐の直前あたりでも景勝に縁談持ちかけたりして
(子供いないのに上杉家の誰に縁談したのか謎)
輝元が怒ったりしてるから

利家公はきわめて御憐憫の深い君であったので

2016年01月29日 18:51

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/28(木) 15:06:16.95 ID:et56NdCV
 私達が一年加州へ御用に下向して逗留している時に、御台所の勘定奉行がひどく使い込んでしまったので、
退役閉門、知行の内から毎年返納するよう仰せ付けられたということがあった。
 その人は常々懇意であった人だったので特別に気の毒に思った。

 この背景には利家公はきわめて御憐憫の深い君であったので、御家中で百石から千石の侍衆で身持ちが放埓でない貧しい人々を吟味して、
順番に御台所の勘定奉行に仰せ付けられたことにあります。彼らは捨てられた物を拾い、余った物を売り払い、先ずは横物成の類から着手していって、
一ヶ年毎に勤めさせてもらったので、君のおかげで身の上を取り直してきました。
 
この度の使い込んでしまった人は一粒一銭の私物化もなかったが、吟味が足らず、下に勤めている者らに対し、
様々なものに条件の良い値段をつけたので、御台所の出費がいつもより一ヶ年で三千両ばかり高く必要であると申し上げた。
そのため不足分を負債としてしまいました。
 この人はきわめて篤実な人ですが、器量がなかったのでこのようになってしまった。

 これにつきましては、親にひどく孝行して国家の用に挙げられたが、才が足らなかった人がいることを思い起こします。
 孝行といえばただ一道にして、その孝行には事情や立場あると考えられます。
(本阿弥行状記)




小又兵衛

2015年12月27日 17:37

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/27(日) 04:11:04.50 ID:LWKcLI1N
殿様(前田利家)はたいへん御機嫌の良い時か、または御叱りなさる時に、
勘十郎(村井長明。著者)のことを“小又兵衛”と仰せになった。

その時は、「お前の父の豊後(村井長頼)は俺が名付けた“又兵衛”である。
今は天下も静まって武辺事は無いから、よく奉公仕り年齢20余りになったら
又兵衛になれ。その時は、小又兵衛とは言うまいぞ」と、度々仰せになられ、

もったいなく存じ奉る。斯様の仰せは生生世世ありがたく存じ奉ることである。

――『菅利家卿語話(黒川本利家夜話)』