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この徳山五兵衛の分別のために

2022年12月12日 19:09

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/11(日) 22:31:18.66 ID:cJv5e76e
慶長二年酉の年、太閤様の御代であったが、その四月の頃、(伊達)政宗殿が洛外において花見の遊山をされたそうだ。
建仁寺の藤を一日中、一両日を過ごし、藤の森の入江の花見を、いかにも密かに、遊び者などを召し連れて遊山の所に、洛中のスリ共がこれを聞き出し、政宗一項をひしひしと取り巻いて

「我々は飢えており、金銀を頂きたいのです。」と申し掛けた所、

「安き程の義である。しかしここには金銀を持ってきていない。」そのように断ったが、

「ならば御腰の物、御供の衆迄のものを下さりますように。」
と申し上げた。これに対して「刀、脇差は如何であろうか。」と屋敷へ人を使わして金を取り寄せ、彼らに取らせてようやくそこから退くことが出来た。

悪事千里と言うが、五日のうちにこの話は京伏見に広まり、世間では「政宗殿が両腰の物まで奪い取られた、との風聞が専ら取り沙汰された。

このような所に、その頃加賀大納言(前田利家)殿と政宗とは、関係があまり良くなかったのだが、大納言殿はこの事を聞きつけられ、使番の北村という若者にこう言い含められた

「政宗殿の所へ参り、『最近承った事には、藤の森にてスリにお逢いに成ったとのこと。笑止(気の毒)に思います。』と伝えるように。」

この時、大納言殿の側廻りに居た徳山五兵衛(則秀)はこれを聞くとこのように考えた

『以ての外の大事なる事を仰せ使わされるつもりだろうか?その使いに対し、定めて政宗殿からは『懇ろなる使、忝なく存じます。そして(我々がスリに遭ったという)証拠を下さりますように。』
と言って来るだろう。そう言われた場合、我々に確かな証拠は無い。となれば伊達家との関係が大事になる事は必定である』

そのように分別し、『そのような使いは御無用にて候』と申すべきだと胸中には思っていたが、大納言殿の癖として、一旦腹(一度言い出したことは反論を聞かない)なる人であるから、
そんな事を言えば猶以て早々に使いを出しかねないと案じ、あえて反対をせず「使いには私が参りましょう。」と申し上げた。
「ならば五兵衛が参るように」と仰せになられると、この使いの事を五兵衛は留めて、二、三日が過ぎた。
大納言殿より「五兵衛、政宗殿の汚き事についてはどうなったのか」と尋ねられたが、これに対し「これは大事の御使であります。伊達家より証拠を求められた時はいかがすべきでしょうか。」
と申し上げた。しかし「スリに遭った事は必定である。五兵衛が参らぬのなら他の者を遣わす」と仰せになった。そこで「ならば私が参ります。」との事に成った。

徳山五兵衛は政宗殿の元に参り、大納言殿の言った通りに申し渡すと、案の定、政宗殿は自身で出てきて書院において対面し、その返事には

「そのような事を能く聞かれ届けられました。願わくばその証拠を出し、我々に下さりますように。」

との事であった。五兵衛は挨拶仕り、「この事は、先に申し上げたように世間がそう取り沙汰している事です。
大納言に対し、証拠を出すようにとの御返事でありますが、そのようば御返事では、私は罷り帰ることが出来ません。使いが不調法であった、という事に成るからです。である以上、慮外ではありますが、
御椽を汚し申します。(椽側で切腹するということ)

五兵衛の覚悟が強く見えたのを、政宗殿はとっさにその気色を悟り、
「そういう事であるのなら、世間の取り沙汰もあるのだろうか、仰せを聞き置こう。それは世間の悪口でもあるのだろうが、御心安く思って頂きたい。そのような事は身に覚えが無い。
御内証、忝なく存じ奉り候」

と、直に返事をされた。徳山五兵衛は分別し、この返事を聞いても証拠が無いと考え、「今暫く、申し上げたい事があります。」と言ってその座を立ち、政宗殿の屋敷に近い、
糟屋内膳殿、土方勘兵衛へ使いを立て『これへ早々御出下さりますように、急用のこと御座候』と申し遣わした所、この両人が参り「このような使いのため、大納言の所より参りました。」と
説明し、この両人を先に立て、再び政宗殿に逢い、

「最前の御返事はあのようでしたが、その後に御言葉が有れば、後の両家の申し事に成ってしまいます。証拠のために、この両人を御前に在られて、御返事の内容を承ります。」
と申し上げた。

この後に取り沙汰されたことには、この徳山五兵衛の分別のために、政宗殿と大納言殿との間に物言いが起こらなかった。これは偏に臣下の徳山のおかげであると、この話を聞く者たちは
五兵衛に感じ入ったと聞こえている。

(川角太閤記)



509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/12(月) 14:01:29.35 ID:r1ZE6v21
ロリコンさぁ

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/12(月) 17:23:24.85 ID:AEhmbMhj
五兵衛さんのいい話であり
利家の悪い話でもある

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/12(月) 18:46:55.40 ID:GZ/44Pjx
>>509
つまらん頭してるな
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何事につけても、最も身が危うく見えるのは

2022年11月06日 18:50

474 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/06(日) 16:46:48.05 ID:XrQtncg6
(賤ヶ岳の勝利の後、柴田勝家の所領である越前を平定した羽柴秀吉は、彼に従属した前田利家が領する能登国へ入った。)
能登国中を巡検した秀吉は、越中との境目である末森城を取り立てるようにと言われ、さらに
七尾城も見られ、前田又左衛門(利家)に委しく言い含めた。

この時、前田又左衛門が申し上げた
「この勢いで、越中へ取り掛かり、内蔵助(佐々成政)を御退治されるべきです。」

秀吉は返答に
「その事について、思い出したことが有る。何かと言えば、天正三年五月二十一日に、甲斐国武田四郎(勝頼)と
三州長篠において信長公が御合戦成された時、頸数一万二千余り討ち取る大勝利を得たこと、貴殿も御供した
故に能くご存知であろう。

あの時、そのまま甲斐国へ押し込むのだろうと、私も人も考えていた。ところが信長公はそうせず、
そこから帰陣なされた。あの時、御勢い、御利運でこれ以上はないと思われたが、ああ言う時は
天魔の所業というものもあり、五,三年もそのまま捨て置けば、国内に謀反も出来、家中もまちまちに
成ることが聞こえるようにもなるだろう。その時に馬を出して退治するのだ、という御分別であったと
聞いている。

又左衛門殿も皆々も聞いてほしい。勝家に打ち勝った以上、この秀吉もこれに過ぎる安堵はない。
その上で心ならずも慢心することもあると覚える。その上、下々以下に及ぶまで勝ちに乗る体で、
早々勇み悦び、興に乗るような様子である。

佐々内蔵助は剛なる上に手聞の上手である。また合戦の習いとして、勝敗は人数の多少に必ずしも寄るもの
ではない。よって、これより一足先に引き取ろうと思う。その内に、秀吉が再び軍勢を募り出陣してきた時は、
位詰めに成るだろうと内蔵助も、またその家中の者達も考え出すであろうことは必定である。そうなれば
家中にも謀反者が出てくるだろう。

何事につけても、最も身が危うく見えるのは勢いが過ぎている時であり、だからこそ今引き取るべきである。」

そのように申して、加州村山城に入られ、加州半国と能登一国を前田又左衛門利家に与えた。
また能登に於いて長九郎左衛門(連龍)に対し、「前田又左衛門に付け置く。何事も利家次第とするように。」
と仰せ置かれた。

川角太閤記



政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ

2022年10月06日 18:35

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/05(水) 21:09:37.08 ID:xyMAVVrP
伊達政宗の生前の言葉を書き残した『命期集』より
政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ
まとめにある話ですが、ディテールが抜けているので投稿

(政宗の)あるときの仰せでは、太閤が伏見におられたとき、城のなかに御学問所と名付けた座敷を造り、四隅に数寄屋(茶室)四つを設け、東西の諸大名に茶を振る舞った
亭主は四人で、太閤と家康公、前田利家公と私(政宗)だった
太閤も残る三人も良い葛籠を持ち寄り、自分たちで寝床を敷き、四人は枕を並べて夜もすがら、昔物語をして楽しんだ

さて、四つの数寄屋はくじ引きで決めてそれぞれ四人が受け取り、水屋以下、お勝手料理の間もそれぞれの数寄屋に設けられていたので、四人とも料理なども隠し合い、工夫をこらしていた
(秀吉から)客が誰かはまったく知らされていなかったが、次の日になると(政宗の客は)佐竹義宣浅野長政加藤清正上杉景勝であるとにわかに告げられ、仲の悪い衆ばかり客に仰せ付けられた
なんとか変わった趣向を行おうと思ったものの、にわかのことでなかなかできなかった
季節が若菜の芽摘みの時期だったので若菜汁ばかりつくり、できうる限り沸かし返し沸かし返し、熱くして出した
そのため、しばらく置いても冷めずに(佐竹らが)迷惑していたところ、早々と替えの汁を出してなかなか一口も飲めなかった上に、また先のごとく汁を替えて出した
まもなく酒を出し、始めから終わりまで迷惑した

振る舞いも終わって御学問所に四人は寄り集まり、その日の亭主としての接待ぶりを順番に語り合った
私(政宗)が「今日の客は一段の日頃からの知音(親友)だったのでどのような馳走をしようかと思ったのですが、うまくいきませんでした。(寒い冬の時期が)旬だったので若菜の汁をできるだけ熱くしてお出ししたのですが、飲んで一口目で怪我をしたのでしょうか、しばらく箸を唇にくわえたまま舌打ち(現代でいう舌打ちと、舌鼓を打つのダブルミーニング)をしてございました」と話した
太閤は「さてもさてもしてやったり、してやったり。一日の亭主だがこれは古参(のようなもてなし)である」と二度も三度も躍り上がり、腹を抱えて笑ったので、伺候の人々は座敷にいかね、腹を抱えてともに大笑いした
その末に次の日の客選びの相談をした
このように太閤が遊びをされたこと、天下の諸大名を組み合わせたことは、仲違いした者同士の仲直りをさせようという奥意があったと後に知ったと(政宗は)仰せられた



老いたりとも槍の又左

2022年09月29日 15:54

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/28(水) 21:56:23.61 ID:TRfck96B
利家夜話』より
老いたりとも槍の又左、というお話
長いので要約、かぎかっこ内のみ読み下し

秀次事件で連座しそうになった浅野長政親子
石田治部と増田右衛門と仲が悪く密告され、左京(幸長)は舅の利家を頼った
利家はさっそく、秀吉と北政所を密かに訪ねようとした
すると、伏見城の城門外には抜き身の槍がわざとたくさん並んでおり、奉行が左京を挑発しているようだった
それを見た利家は乗り物から下りて、激怒する

「おのれら何事ぞや。今は日本の侍は申すに及ばず、唐まで従ひ中、浅野弾正(長政)父子程の者、自然不届の事に極り御成敗なられ候とも御門際に抜身を仕まつること、さてもさても沙汰の限りなり。左様の事をば奉行の奴原知るまじ。算用の事や人の口にて痛き申す事などは存ずべし」と音声高らかに叱った
「おのれらめ。その槍の鞘はめましき(お飾りくらいの意か)か」と怒ると、御威光を恐れて奉行衆は櫓の中で小声になり、「さやはめ候へさやはめ候へ」と申したので、さっと鞘をはめた
お供していたものは、かように気味のよいことは見聞きしたこともない、初めて見たと話した

なお、前後に磯貝なる者が「似せ判」をしたとあるんですが、これはなんなんでしょうか



421 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/29(木) 17:35:41.44 ID:GnixVJCR
>>419
幸長の舅って利家でした?と思ったけど婚約だけしてたんだね

城攻めのリアルな実相

2022年09月29日 15:53

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/28(水) 23:51:02.35 ID:TRfck96B
利家夜話』より
城攻めのリアルな実相
※近江の金が森城(一向宗、加えて佐々木残党がたびたび籠ったとも考えられる、いわゆる村の城)攻め

江州金が森の城を信長公が攻められたとき、村井豊後(長頼)は夢で「時分もいいから必ず左の道に進みなさい」と山伏によって枕元で確かにお告げがあった
目覚めると、日頃から愛宕山を信仰していたからだとありがたく思い、水垢離をして具足を着て利家の陣所に向かったが、いまだ「鳥前」(鶏が鳴く前=夜明け前)のようで、(利家は)「もうちょっと待て」ということだった
そこで小屋に帰って「いねぶり」(居眠り)をしていると、またお告げで「左につけ」とあった
さてまた、信長公の本陣で一番貝が吹かれ、前田勢は城に寄せるとき、左右に道があったがみな右を進んだ
豊後(が属した部隊も)右を進んだが、「いやいやくっきりと愛宕山のお告げがあった」と一人道を引き返し、左の道を進んで堀の「柴折」(逆茂木)に刀をかけた
ふと見ると四、五人の影があり、「敵か味方か」と寄っていくと、「馬にも乗らずにここに来たのは誰だ。私は柴田修理(勝家)の甥の佐久間玄蕃(盛政)である」と名乗った
そのとき豊後が「前田家中の村井又兵衛(のちの豊後守)である」と言うと、玄蕃は「又左衛門(利家)家中で名前は内々聞いている。合戦場で初めて会えてとても喜ばしい。夜明けには逆茂木を切ろう」と申し合わせ、そのうちにあとから味方が寄せてきた
そのとき、豊後と玄蕃は声を掛け合い、逆茂木を切って槍を取って(乗り込み)すぐに首を取った
利家は信長本陣にいて、その首を持っていったところ信長公のお目にかけられた
信長公はまた又兵衛が手柄を立てたと近くにあった吊るし柿5つを手ずから与えたほか、いつもの働きの証であるとして南蛮笠を与えた



422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/30(金) 08:45:18.01 ID:w5gbckYT
>>420
夢枕で左に行った人と鬼才で左に行った人との違いか
これで義兄弟にもなってたら良い話なんだが

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/30(金) 12:03:12.99 ID:fHVJ/jqd
信長の甘い物好きがw

424 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/30(金) 12:23:08.23 ID:v2jg3NyM
近隣の百姓から徴発したんだろ
まあ蚊帳なんてないし虫がたかって中に卵が入ってる柿
吐くわ

当時の武将間の呼び名について

2022年09月29日 15:52

608 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/28(水) 19:20:21.19 ID:TRfck96B
大した話ではないし悪い話でもないが>>602の関連で
利家夜話』より
当時の武将間の呼び名について

越中魚津の城を北国の軍勢が柴田修理(勝家)を総大将にして取り巻いたとき、越後の上杉景勝が後詰めの軍勢を出してきた
その日の先手を求めて柴田伊賀、佐久間玄蕃、佐々内蔵介がいさかいを起こしていたので、(前田)利家が争いを納めようとした
そこに柴田がやってきてその話を聞くと、又左(利家)が仲裁に入っているのに「倅(せがれ)供」がなにを言うのかとお叱りになった

少なくとも織田家では寄り親のことを寄り子は「親仁(おやじ)」と呼び、寄り親は寄り子のことを「倅(せがれ)」と呼んでいた様子
いまも職人や渡世人の世界に色濃く残る疑制的親族関係ですが、戦国の時代はより濃厚だったのでしょう
こういう当時の口語的な呼び方が史料に残るのは比較的珍しいので、ご参考までに



不仲の内蔵介に寝転がりながら

2022年09月27日 19:13

602 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/26(月) 23:23:57.94 ID:ESVq42kt
利家夜話』より
権六と又左、不仲の内蔵介に寝転がりながら意地悪する話

越前の国を柴田修理(勝家)が拝領(した頃の話)
さて、大納言様(前田利家)と佐々内蔵介(成政)、不破河内(光治)の三人が府中にいたとき、柴田は北之庄から、佐々は五部市から、不破も(前田邸に)やってきて一日一夜、振る舞いをしたことがあった
柴田はことのほか機嫌がよく、「匍匐」(腹ばい)になって寝転がりながら上方の話や信長の手柄話を語った
柴田が言うには「又左(利家)よく聞け。最近、表裏者の明智光秀が出世してきた。(信長が)指を折って数えられたように、俺の手柄で26度まで勝利を得、信長公よりお礼を賜っている。誰が出世してきても恐ろしくはないわ。お前も指を折ってみろ」
すると利家は「『親仁』(寄親=勝家、オヤジと呼んでいたのか?)は家来が多いから先手でたびたび勝利を得ましたが、(勝家も)端武者のごとくたびたび槍を振るったのは今の世で並ぶものはいないでしょう。では、私も指を折ってみましょう」と指を折り、あちこちでの18度の手柄の話をした
柴田はいっそう機嫌がよくなり、なんやかやと色々話をし、「世間ではたまたま二、三度手柄を挙げるものは多いが、心が猛くとも合戦がなければどうしようもない。今の世は武勇を挙げたければいくらでも機会がある。俺や又左は信長公にも同僚にも恥ずかしいところはない」と笑った
柴田と利家は佐々と仲が悪かったので、柴田は佐々への当て付けで話したのだろうと(利家は家臣に)語った
佐々は涙を流して何も話さなかった
柴田と利家はさらに「繰返繰返」同じようなことを話し続けた

古織と有楽にも寝転がってしゃべった逸話がありますが、そんなほのぼの感はまったくない話



603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/27(火) 01:43:25.44 ID:ulOgv5iB
勝家派閥でも嫌われてるとか、佐々は仲良い相手いないのか?

604 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/27(火) 10:37:42.00 ID:thuJaFyX
ならなんで遊びに行ったんだろう

605 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/09/27(火) 19:51:33.44 ID:X6fAHDOq
成政も実戦経験豊富だったよね?
称賛された手柄も結構あったような

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/28(水) 22:19:39.72 ID:TRfck96B
>>605
利家は夜話の中で「俺は19度槍を合わせた、佐々は3度だけだ」とか散々佐々をディスってるんですが、越中攻めのときは「佐々もさすがの武将だから」みたいなことを言って、二筋ある攻め口の佐々正面側の攻撃をやめさせたりしてます
そもそも不仲になった原因は、利家が切った茶坊主(このせいで利家は浪人に)と佐々が仲良しだったから
別に佐々が信長に訴えたりしたわけでもなく、茶坊主は信長とも懇意だったので、信長自身が激怒して「犬(利家)を成敗せよ」とか口走ってるんですけどね

一方で、勝家とは関係性がよく見えます
しかし武将の評価としては「勝家は戦場で、鉄砲が飛んできても立っていて、弾なんぞに当たるわけがないから立っておけと家臣に叫ぶ。森可成と坂井政尚は当たるときは当たるんだから伏せておけ。敵陣に懸かるときになったら開き直って遮二無二突っ込めと言う。一軍を率いる大将とは後者であるべきだ」という趣旨の話もしていたようです

「朝野雑載」から仏教と神仏批判ネタ

2022年07月20日 17:06

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/19(火) 19:34:12.24 ID:RWsIYOYi
朝野雑載」から仏教と神仏批判ネタ

美濃の愚堂東寔(臨済宗の高僧)を後水尾院が仙洞御所にお召しになられた時、院はもちろん上段にお座りになっていた。
愚堂は御許可もないのに、院と同じ上段に上がってきた。
御酒が運ばれてきて、院が「まずあれへ」と愚堂の方に目をお向けになると、公家衆が御盃を愚堂の前に置いた。
愚堂は辞せずして「身どもに食べよ、と仰られるのか」とすぐに盃をとって飲み、その盃を院のもとに回した。
「沙門は王者を尊ばず(沙門不敬王者論)」と仏典にあるためこのような無礼をなしたのであろう。

秀頼公は多くの寺社を建立したが七福は生じず、七難により滅んでしまったのに、世の人は弁えないのだろうか。
前田利家公は不動山(石動山?)を焼亡し僧徒を打ち捨てられたが、武運長久で二位大納言まで昇り、子孫は繁栄している。



氏郷の所労

2022年03月31日 17:00

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/30(水) 20:10:56.12 ID:Uvu0HEdg
会津宰相(蒲生)氏郷は朝鮮征伐の頃、肥前名護屋に於いて下血を患い、諸医技を既に尽くしたが、堺の宗叔が
いよいよこれを治した。私(曲直瀬玄朔)はその時、朝鮮まで従って帰り、上洛した。その後、翌年の
秋に法眼(曲直瀬)正純が語ったところによると、氏郷に宗叔は養生葯(薬)を進上したという。この時私は、

「名護屋にて所労(病気)の後、脈を診る事ができなかったので顔色を見たが、終に調わず、肌は黄黒く
首の付け根あたりの肉は痩せ消え、目の下にはわずかに浮腫があった。もしこれで腹が張れ、四肢がむくめば
必ず大事となる、
葯を進上するといっても分別があるべきだ。」と言った。

その後十一月に太閤秀吉公が蒲生氏郷邸に御成をなされ、私もその供奉をしたのだが、この時顔色を観察すると、
腫れはやや甚だしかった。その後張腫は増し、十二月朔日、太閤殿下は民部法印(前田玄以)の屋敷に座されて、
葯院(施薬院全宗)と私の二人を召されて、氏郷の所労は如何かと聞かれた。二人ともに
「終に脈を診ることも出来ませんでした。」と答えた。「葯は誰が与えているのか。」と問われた。
「堺の宗叔の葯」と申した。

その後秀吉公は、左右に在った大納言(徳川)家康、中納言(前田)利家の二人に、「諸医を召して
氏郷の脈を診せるように」と仰せになった。
すぐに上池院、竹田蘆庵、盛方院、祥寿院、一鴎、祐安、その他九名の医師が氏郷の床下に至った。
家康、利家が左右に在って、諸医は脈を診て退いた。

同月五日、前田利家徳川家康卿は私と一鴎を召して、氏郷の脈を診た上での診断を聞いた。
私は言った「十中九は大事(重体)であります。残りの一つというのは、年齢の若さと食欲のあることだけです。
しかしさらに食欲が減じ、気力が衰えれば、十は二十にもなるほど、大事となります。」

利家が言った「他の医師たち一人ずつに尋ねたが、或いは十に五つ大事、或いは十に七、八は大事と申した。」
そして宗叔を召し、「玄朔は十に二十も大事であると言う。残りの医師は、或いは十に五.六.七、八などと
云う。お前はどのように考えるか。」
宗叔曰く「十に一つほど難しいと存じます。」と申した。

その後、利家は私に対し「氏郷の所労はいよいよ悪化している。宗叔の葯を止めるべきだ。今日よりそなたが
治療をせよ。」と言われた。私は「宗叔の葯では十死であると見ておられるのなら、五日三日は葯を与えて
その様子を見るべきです。そうしなければそれぞれの治療を照らし合わせることが出来ません。」と申した。
そこで宗叔が召され、その旨を仰せられたのだが、彼は尚も「十に一つほど危ういのだ」と申した。
それ故に、翌文禄四年正月末、宗叔の葯が止められた。

蒲生氏郷は次第に気力衰え、食欲も減じた。一鴎の葯を与えたが、十余日にして果たして逝去した。

医学天正記

蒲生氏郷の病についての記録



422 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/30(水) 22:07:24.76 ID:f88ysiOU
>>421とは別の者ですが、文字化けが一か所あるようなので一応付け加えを。

坂浄慶、竹田定加、半井驢庵、吉田成方院浄忠、祥寿院瑞久、一鴎宗虎、祐庵

医師それぞれの名がこちらです。
秀吉は皇室や足利将軍家の侍医を番医として雇い入れ、身内の診察だけではなく味方にしたい有力者へ派遣して信頼を得ようとしたとか。


医学天正記』は症例ごとに患者の名と治療実績が書かれていますけれども、ちょっと面白かったのが正親町天皇は正親町院で、後陽成天皇は今上皇帝ってとこですね。

※管理人注
修正しておきました


423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/31(木) 10:50:28.35 ID:DaErJV62
肝硬変の末期症状だね

425 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/31(木) 18:25:21.07 ID:u6Hz94cM
>>421
まとめ過去ログにやっぱ同内容のものがあったか
つか10年前だし致し方なし

蒲生氏郷の病
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7540.html

首数の多少にこだわりて武功を評するは

2022年02月03日 19:20

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/03(木) 18:32:58.06 ID:mKbF+iVF
朝野雑載より
八王子の城を、秀吉公よりせめさせたまうに、攻め手は前田利家、長尾景勝なり。
落城して前田によりうちとりし首数三千、長尾はわずかに八百五十到来せしゆえ、太閤の御前にありし人々不審に思い
「景勝は承り及びたる手柄者なれども、首数前田より甚だ劣れり。前田が武功優れたる」よし申しければ
太閤きこしめして「首数の多少にこだわりて武功を評するは、各々が武道不案内の故ならんか。
景勝は士の首ばかり差し越したると見えたり。前田が三千よりは結局勝れるほどにおぼゆるぞ」とのたまいしとなり。

貝原益軒はいい話で書いたつもりなんだろうけどこっちへ



唐人の智謀おそるべし

2022年01月27日 15:04

沈維敬   
289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/25(火) 21:01:41.98 ID:FAwjF8BT
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13304.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13318.html

朝野雑載」を読んでたら過去にも↑で出ていた沈惟敬の丸薬の話もあった

慶長元年八月、大明より正使楊方奇、副使沈惟敬、ならびに朝鮮の両使、同じく渡海して、泉州境に着く。
九月二日、伏見の城にて大明の冊使に対面あり。
しかるに沈惟敬懐中に丸薬を持ちて常にこれを服用す。
太閤の御前へ出だし時も、紙の袋を懐中より取り出してかの薬を呑みければ、秀吉公御覧ありて
「汝は何薬を服するや」と尋ね給う。
沈惟敬がいわく「日本と朝鮮の国争いにつきて、その扱いに大唐よりはるばるここに来たる儀なれば、
もし病死仕りてはそのこと叶わず、大事の使いにて候ゆえ、養生のため唐帝より調合して与えられたり。
これは平人の調合することならぬ薬なり」と申す。
秀吉公きこし召され「その薬少し我に与えよ」とのたまう。
沈惟敬がいわく「やすき御事なり。さりながら他国より来たる我らが薬なれば、大将たる人のそこつにもちい給うべき事にあらず。
ただ誰人にてもこれをのませられ、ほど経てその様体をお尋ねありて、その後御所望と御座候えば、進上仕らん」と申す。
太閤「もっともなり」とのたまい、かの丸薬を近臣両人にのませ給う。
十日ほど過ぎて様子お尋ねありしに、
かの両人「気力はなはだ強くなり、気色ことにはれやかなり」と申し上ぐる。
さては沈惟敬が申すところ、偽りにあらずとて、件の丸薬御所望ありてこれを用い給う。
その節加賀大納言利家卿、小早川隆景卿、両人へも下されけり。
しかるに隆景は慶長二年十二月に逝去あり。
太閤は同三年八月に薨去なり。
利家は同四年三月に逝去せらる。
おのおの同じ様なる病気にて死に給いて後、筋ゆるみ骨の節々はなれ、五体崩れ損ずること、三将みな同じことなり。
はじめにこころみに呑みたる近臣両人も三年過ぎて死す。かれが死に様同前なり。
その頃諸人これを聞きて、唐人の智謀おそるべしといいあえり。
後にまた、日本に来たりし遊撃といいし者はかの沈惟敬がことなり。



必ず義龍の首を取って道三に手向ける

2020年08月20日 17:19

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 19:44:54.77 ID:9dfXvoM4
「麒麟がくる」打ち明け話

利家夜話
利家が語っていた話。斎藤道三の息子(義龍)がライ病で、その上、道三に不孝であるので家督相続は許さないと話しているのを聞いた人がいた。
父子の仲は悪く、合戦になって信長に注進する人がいたが、早くも道三が合戦に負け、城に火がかかっているのを信長が見て、「さてもさても、注進が遅かったことは無念である」と涙を流して帰国した。
「必ず義龍の首を取って道三に手向ける」と信長が話したと利家は語った。

453 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 20:09:57.68 ID:9dfXvoM4
書き損ねましたが、原文では「彼の癩者の首」です
NHKでは放送できません



大事な油道服を着ていても、それではねえ

2020年08月19日 16:57

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/18(火) 23:57:58.91 ID:rP7c6Hcr
脱糞に近い権現様の失態

利家夜話
太閤秀吉が坂本の古城跡へ鷹狩りに赴いた。家康や利家はじめ、大名が軒並み参加した。
そのとき、平塚という者が鳥を手づかみにして、秀吉はたいそう機嫌がよかった。
すると、にわかに雨が降り出し、坂本に移動した。
みなが馬でお供したが、家康は「(水をはじく仕様の)油道服」を着ていたが、風で服がばたばたして音がにぎやかに立ったため、馬が驚いて落馬したようだった。
その夜のお話で、秀吉は「家康に似合わぬ濡れようである。大事な油道服を着ていても、それではねえ」と仰せられた。
利家は合羽を着ていたが、何事も問題はなかった。



281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/19(水) 17:00:46.01 ID:7HYm4Hbx
>>279
利家夜話って前田利家の家康への対抗心が異様に書かれてるよね

この頃京都の傾城達が召し上げられ

2020年07月26日 18:05

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/25(土) 22:19:35.08 ID:tr+RCr6r
文禄四年、この頃京都の傾城達が召し上げられ、そのうち五人が太閤秀吉に召し遣わされた。江戸内府公(家康)、
加賀大納言(前田利家)にも二人ほどが「召し遣われるように。」として遣わされた。
その他の人にも下された衆は多かった。

これら傾城の中に。歌舞、躍りが難渋な美女一人が有った。彼女にその仔細を尋ねた所、
「賤しからざる親類が多く、外聞を思ってのことである。」と言った。

これについて、彼女の兄弟に問うた所、「これ以前に二度まで身請けをして召し直したのだが、両度ながら
又再び傾城屋へ走り入ったため、是非に及ばぬ。」と言上した。

これによって、彼女は磔に掛けられた。(然は則はり付に被掛)

当代記



これによって柴田は敗北した。

2020年07月20日 18:31

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/20(月) 14:19:10.63 ID:ZrmSldMr
天正十一年四月二十一日、近江北部において柴田勝家、羽柴秀吉の両陣が相向かい睨み合っていた。
柴田は賤ヶ岳を攻め落とし、籠もっていた人数を討ち果たし、この時に合戦を企てた所、柴田方であった
丹羽五郎左衛門(長秀)、前田又左衛門(利家)が秀吉に属し、柴田の備に手勢を出し、これによって
柴田は敗北した。

秀吉はこれを追い、越前へ討ち入り、柴田居城へ押し掛けた。敗北の士卒が未だ城に戻っていない間に、
柴田の城に火を懸け、同二十四日に柴田が切腹したため、越前は平均となった。

柴田の妻女は城を出ず焼死された。これは織田信長の妹で、浅井備前守(長政)の後室であった。
この腹に浅井の息女が二人(原文ママ)あった。彼女らは乳母の才覚によって無事に城から出られた。
大阪の秀頼の御袋(淀殿)、並びに江戸将軍の御台所(お江の方)がこれである。

当代記

前田利家だけじゃなくて、丹羽長秀も本来柴田方だったという受け取り方も有ったのか…。



209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/20(月) 19:06:38.05 ID:AS+ANcNz
>>208
のちほど腹わたぶちまけた逸話があり、長重もひどい目に遭わされてるからなのかな
利家は優遇されてるけど

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 16:29:36.08 ID:vNuSlIAR
長重は酷い目にあったから大成したわけだしあれで良かったのさ。
じゃなかったら利常とのエピは発生してない。

212 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/22(水) 21:21:32.00 ID:pwPPcnwp
>>210
にしても、賤ヶ岳や小牧長久手にも出陣し、
しかも小牧長久手は長秀の代理での出陣だからその時点で半ば家督継いでいたようなものなのに、
長秀が亡くなって正式に相続した途端に難癖つけられて、123万石→15万石→4万石の大減封はありえん…。
織田信雄が100万石→0になったのよりも減っているって、凄まじい。

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/23(木) 00:27:07.78 ID:AxVMh1z5
>>212
柴田も丹羽も、秀吉には邪魔だったんだね
佐久間が追放されてなかったらどうなっていたか
関連で、羽柴姓の由来ももうちょっと、真面目に考察した方がいいと思う

当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき

2020年03月27日 17:44

799 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:21:43.27 ID:zmuEJTUZ
(豊臣秀吉の死後)
前田肥前殿(利長)が、細川忠興様の元を訪れ、このように仰られた

「石田治部少輔(三成)が、大納言殿(前田利家)にこのように申し上げました
『家康の事ですが、早くも我儘を申し、御寄合場へ切々と出てきません。今のままで召し置いておけば、今後
秀頼様の御為には悪しき事になるでしょう。ですので今すぐにでも、討ち果たすべきです。』
そう色々に申したことで、大納言殿も尤もに思し召され、討ち果たすという事になり、大阪より伏見へ御上がりに
なりました。これ程の事をあなたにお知らせしなければ、以後に御恨みが有ると思い、その要体を語り申します。

討ち果たす手立てとして、治部少輔申す所によると、
『家康の屋敷は落窪に有り、向かいの高い場所に有る宇喜多屋敷より火にて焼き立てれば下々騒ぎ出すでしょう、
そこで表に出てきた所を、宇喜多屋敷より出て討ち取る。もし裏から出たならば、我等(石田家)の者達で討ち取る。
兼ねてからそのように考えていたので、家康の屋敷の後ろは私の下屋敷にしてあり、只今佐和山より動員している
人数が四千有り、手間の要ることではありません。』

そのように申しているのです。」

そう肥前守殿が語った所、忠興様はこのように仰せになった
「家康公を討ち果たすとの事ですが、治部少輔の手立てではうまく行かないでしょう。」
「それはどういう御分別で、そのように思われるのでしょうか。」
忠興様のお答えに、肥前守殿はお顔の色が変わられた。忠興様は仰られた
「私を縁者であると思し召し、一大事をお知らせに成ったことが既に、御後悔しているように見えます。
この事は破れるのも、無事に成るのも御父子の御分別次第です。

この事が破と成った時は御身上が逃れたいと思っても、人は逃さないでしょう。
また私の身上も、逃れたくとも人は逃さないでしょう。
破と極まるのであれば、何時も一所と心得ましょう。

私の考えとしては、治部少輔にとって日本に恐ろしいと思っている人物が二人あります。一人は内府であり、
もうひとりの大納言殿は既に病であり、大納言殿が果てられた以後は、己が主人となろうと考え、色々様々に
申しているのです。あなたを批判するような事を言いますが、大納言殿が御死去なされたら、あなたの事は、
今の十分の一も人は用いないでしょう。御分別を専らにするべきです。
今後、内府を主人とするのか、治部少輔を主人とするのか。
私は治部少輔を主人とするなど罷りならぬことだと考えています。」

肥前守殿はこれを聞くと、
「一々至極と承った。然れば大納言殿に御異見を申したいのだが、蓮々御存じのように、私が申すことは
たとえ良いことであっても聞いてくれない。ましてやこの事については既に、治部少輔の言うことを尤もと
思われている。それを、私の無調法な口では中々説得する事は出来ないだろう。是非御同道してほしい。」
そう、たって仰せに成ったため、大納言殿の元へ御出に成った。

大納言殿が居られる又次の間まで進むと、そこからは先ず肥前守殿がお入りに成り、要体を語られた所、
病にて臥せって居られた大納言殿はむくと起き上がり、畳を叩き悪口を仰せになった。これに肥前殿は
「私は口不調法にて、物のあやを申せないため、御合点参らないのでしょう。そのため越中殿をここまで
御同道しました。」
そう仰せに成ると「然らば越中殿を出候へ」と仰せにつき、大納言殿の居られる間にお入りになられた。

800 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:22:02.91 ID:zmuEJTUZ
そうして忠興様が要体を語られると

「其の方の仰せになる所は解ったが、内府が何の御談合にも出てこないという事をしている以上、このままでは
以後秀頼様の御為に成らない。私の息のある内に、家康を討ち果たすべきだと考えている。」と仰せになった。
忠興様はこれに
「批判を申すようですが、御分別を更に重ねられるべきと存じ奉ります。例え家康に対して御談合の場に出ることを
堅く無用と申したとしても、家康が御座有った頃と同じようには出来ません。貴殿が合点していただければ、
家康が出てくるように仕りましょう。そのようにすれば如何でしょうか?」

「家康さえ出てくるのであれば、何も言うことはない。常々、意趣が有ったわけではない。」
大納言殿はそう仰せに成ったため、忠興様は直ぐに、家康公を大納言殿の元へ同道なされ、入魂の御盃を取り交し、
首尾よく家康公は御帰りになった。
忠興様は残り、大納言殿へ仰せになった

「家康の現在の屋敷は無用心であるので、向島へ移されるべきだと考えます。」
「この上は如何様にも。其の方に任せよう。」

そのように仰せに成ったため、即刻向島へお移りになった。

この一ヶ状は三斎様の御物語で承った事である。そして家康公と御老中御連判状に、
『当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき。』とある、六、七人の御連判状を私(細川忠興軍功記の作者)が
預かったことがあり、覚えている。

細川忠興軍功記



802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 12:19:08.70 ID:28ctvBqZ
徳川の治世と豊臣の治世だったら当然豊臣のほうがいいだろうなあ
徳川に味方して得たものはなんなのさw

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:25:20.20 ID:k+lBAxIa
少なくとも領地は広がったな。前田も細川も

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:33:31.03 ID:JVQBGdYo
豊臣だったら領地は増えてないな

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:31:27.93 ID:xqag71KY
○ 太閤蔵入地の解消
× 基本的に政権運営に参画できない

国持クラスの大名はともかく、中小の大名なら江戸幕府の方がやりやすいだろうね
まあ、財政的に余裕が無くて悠々と藩経営できてたケースは少ないけど

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:48:32.81 ID:SfIo6kA4
大大名も必ずしも政権運営に参画したかった訳でもないと思うぞ
というか極論三成だけが異常にやりたがってたようにも見える

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 16:18:25.61 ID:pQMysm+j
三成よか輝元のがあやしい

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 18:22:26.61 ID:SfIo6kA4
政宗が誰を嫁にしようと老中にはなれない
変に梟雄的に取り上げられることあるけど
普通に安定求めた婚姻だわな

輝元は三成に乗せられたお調子者だね
乗せられた分野心あったと言えるが

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 01:00:33.06 ID:rNuJGc1p
参勤交代が藩財政を逼迫させたんじゃないの?
知らんけど

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:02:34.16 ID:enxJZdyv
参勤交代は徳川家光の時の政策だし、そもそも江戸在府が基本だった大名への
負担軽減策だったわけで。

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:06:14.65 ID:MVE+KsKB
ずっと当主が天下人の城下に屋敷構えて許可ないと全然帰れませんよりよっぽど安く済むらしいわよ、参勤交代
しかも当主が遠国にいるから領国の統治もむずいし下手すりゃ領地で政治執るやつが実権握りかねんし

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 07:19:02.81 ID:EEZk3pD1
>>813
太平の世で大っぴらに出来る貴重な軍務。
我が武威を世間に見せ付けられる場なのでどの藩も行列を豪華にすべく無駄金使ったせいでもあるので。

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 09:16:16.15 ID:Zk6eD4N+
江戸時代の武家財政の逼迫は本質的には
何も生み出さない雇用守らなきゃ行けないから

八王子城の戦い

2019年11月14日 18:03

571 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/11/14(木) 13:09:38.79 ID:LtK+6vTc
武蔵国多摩郡八王子城の城主である北条陸奥守氏照は、秀吉の小田原征伐に当たり小田原城に籠もり、
八王子城はその留守居として本丸には横地監物吉信、中の丸に中山勘解由家範、、狩野主膳一庵、
山中曲輪には近藤出羽守綱秀らが置かれこれを守っていた。

秀吉は北国の両大将(前田利家、上杉景勝)が八王子城へ向かったことを知ると、木村常陸介重茲を呼び、
過日のこと >>567 もあり、利家、景勝が無理な働きをしないよう、すぐに八王子表へ目付として行くことを
命じた。もしそのような事が有れば諌めるように、との事であった。
木村常陸介には太田小源吾一吉が差し添えられた。

四月二十四日、北国勢は朝駆けで八王子の町へ入るや一気に押し破り、道々あさぎりの中に見張っている
足軽たちを撫で斬りにし城壁へ詰め寄った。そしえ本丸を上杉景勝、中の丸を前田利家が攻めると決め、
また松山城で降伏した木呂子、難波田、金子らを先陣として山中曲輪を攻めさせた。この松山衆はその夜、
夜討ちをかけ、山中曲輪を守る近藤出羽守は奮戦するも討死した。寄せ手も若干討たれたが、敵の首級
三百五十余を得た。これを見た本丸、中の丸の雑兵たちは肝を冷やし、大半が逃げ出した。
城に残ったのは中山勘解由配下の七百余騎と、その手の者僅かに百余人、他に軽卒二百ばかりであった。

中山は城に残った者たちにこう言った
「もしこの中に臆病者が居るなら、それは足手まといに成るだけだ。今のうちに落ちるが良い。
我等は久しく陸奥守(氏照)殿の恩沢に浴する身であり、斬死してもここを去るわけには行かない。
今一度言う。生命惜しき輩は落ちよ。私は少しも恨みには思わない。」

しかし誰も逃げ出そうという者は居らず「生死を共に仕らん。」と、喜び勇んで矢弾を飛ばして
寄せ手に挑み戦った。この攻撃に寄せ手では見る間に死傷者が増えた。この時前田利家は配下の
者たちにこう言った

「先に上州の諸城を落とすといえども、関白殿下になんら功を認めて頂けなかった。されば、今度こそ
降伏を許さず粉骨して攻め殺さねば、何の面目が有って秀吉公に再びまみえようか。
もし首尾ならずんば、我等親子(利家・利長)はこの場において自刃する覚悟である。汝らもよくこの意を
体して忠墳すべし。」

この利家の言葉に、山崎長門守、前田又次郎、青山佐渡守らが先陣を承って金子丸を攻め破った。
ここを守る金子三郎右衛門は山崎長門守の郎党・堀角左衛門が討ち取った。
これと競うように、他の加州勢が中の丸を攻めた。城中からは中山勘解由、狩野主膳らが士卒を下知して
打って出て戦った。この時、前田利長の近習である大音藤蔵は、未だ十六歳であったが真っ先に鑓を入れ
組み討ちして敵の首を取った。続いて雨森彦太郎が高名をした。大音は先に前田利長の勘気を蒙り
蟄居の身であったため、首実検には漏れたが。その日の一番首との事で、勘当が許された。

城方の中山勘解由、狩野主膳らは自身で鑓を合わせ、太刀を抜いて戦ったが、もとより多勢に無勢であり、
衆寡敵せず城中へ引き上げた。加州勢が尚もそれを追って攻め立てたが、秀吉より目付として遣わされた
太田小源吾が誰よりも先に塀へよじ登り城中へ押し入った。小源吾もこの功により、後に秀吉より
豊後国国崎郡杵築城三万五千石を拝領した。

572 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/11/14(木) 13:09:57.95 ID:LtK+6vTc
中の丸に立て籠もっていた三百余人は多くが討ち取られ、今や十余人となり、そのうえ皆深手を負っていた。
そこで「今はこれまで」と詰の城へ引き籠もり、そこに避難していた足弱(女子供、老人)達を先に刺殺し、
自分たちも心静かに腹を切った。

前田利家は高地に馬を立てて城方の働きを見ていたが、松井田、松山で降った金子、小岩井達を呼んで
尋ねた「城方の者たちは、やがて斬死するか自害して果てるであろうが、あの中に見知った者は有るか。」
「はい、居ります。一人は中山勘解由と言って、武蔵七党の丹党の末裔で、古来より名のある者です。
もう一人は狩野一庵といって豆州の侍で、元は北条氏照の右筆でしたが、才覚あり数度の戦いで戦功を
成し、出世して一廉の武将となり、今は倅の主膳正に家督を譲り、自身は出家しています。」

利家はこれを聞くと「直ぐに馳せ向かい、その者たちが我等の陣に加わるよう説得するのだ。」と命じた。
金子紀伊守の小岩井雅楽介はすぐに八王子城に駆けつけ城門を叩いたが、何の答えもなかった。
彼らは脇門を押し破って中に入ったが、中山も狩野も、既に自害して果てた後であった。二人は致し方なく、
戻ってこれを利家に伝えた。「惜しむべき武士たちである。」利家はそう、彼らの最後を哀れんだ。

後に、徳川家康はこの八王子城での戦いの様子を聞くと、中山、狩野の忠節に深く感じ入り、関東入国後、
武州辺りを放浪していた中山勘解由の嫡子・助六郎照守、次男の佐介信吉を探し出し、召し出して
旗本として取り立てた。そして兄に勘解由、弟に備前守の名を与えた。今もその子孫は続いているという。
また狩野一庵の息子・主膳正も家康によって取り立てられ、慶長五年の庚子の役(関ヶ原の戦い)では
濃州岐阜表で二番鑓の誉れを立てたという。

(関八州古戦録)

八王子城の戦いについて



八王子城攻めに至る経緯

2019年11月13日 17:55

567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/13(水) 16:44:04.13 ID:zp2lld1A
天正十八年小田原の役に於いて、北国の両大将である前田利家上杉景勝、および信州の真田昌幸らは、
三月十八日には松井田城を降伏させると、そこでしばらく休息し、兵糧の調達を終えると、松井田城代
であった大道寺父子(政繁・直繁)を手引として、倉賀野、箕輪、厩橋といった城へ押し寄せ次々と
降伏させた、

四月十二日には武州比企郡松山城の攻略にかかる。松山城主である上田自芸斎(憲定)と息子上総介憲定は
小田原に立て籠もっており、留守居役は難波田因幡守、木呂子丹波守、金子紀伊守、山田伊賀守、
同一兵衛、比企藤九郎ら二百余人、雑兵二千三百余がこれを守っていた。

前田利家・利長父子は大手、上杉景勝は搦手と決め、これに毛利、真田、小笠原、そして案内の大道寺の
兵が加わり、先ず遠攻めにして近辺の里や村、山林を伐り攻めやすくして準備を整えた。
城中の者たちはこの様子を見て、その大軍に既に戦意を失うと、城下の寺僧を仲介として降伏を申し出た。
その条件は、本丸、二の丸を渡し、三の丸に諸士の妻子を入れ置くというものであった。

寄せ手の大将たちはこれを受け入れ和睦し、その降人を案内として、北条安房守氏邦の家人たち四百人
ばかりで籠もっていた本田郷西山城に取り掛かると、城兵は一戦にも及ばず鉢形城へ逃げ出し、戦うこと無く
落ちた。次いで河越城へ向かったが、これも降伏をして戦いにならず、かくして北国勢は刃に血を塗ること
無く数城を落とした。

この上は小田原城攻めに合流するとのことで、同二十一日箱根の笠懸山に至って秀吉に謁見し、一部始終を
報告すると、秀吉は事細かに尋ね感心はしたものの、これを褒める言葉はなく。前田利家上杉景勝
腑に落ちぬ顔で引き下がり、

「我等の今回の武功は、それほど空しかったというのか。」
「左様である、激しく戦うことこそ無かったが、数城を抜いたこと確かである。」
「無血であろうとも。将兵を多く傷つけ諸城を落とすより功大かるべし。」

そのように不満を述べた。

その夜、秀吉は近習にこう語った
「北国、信州の諸大将、諸士の働きは見事でありその功も大きい。しかし皆降参させてしまった。
戦というものは、一城は帰順させても、一城は攻め殺してこそ、一張一弛の法にかなうものである。
でなければ他の関東の諸士への見せしめとならない。だからこそ強いて褒めなかったのだ。」

両将は後でこれを聞くと尤もだと思い
「さては八王子の城を襲って皆殺しにしてくれん。」
と、利家、景勝は早速小田原の陣営を引き上げ、同月二十三日、急に兵を発して八王子へと向かったのである。

(関八州古戦録)

八王子城攻めに至る経緯

続き
八王子城の戦い


568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/13(水) 17:59:21.35 ID:MuGqZJnG
とばっちりもいいところだわ

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/13(水) 23:00:59.45 ID:ZnQE/54F
「もう逃げた方がいいよね」

「囲まれても降伏すれば助けてくれるみたいだから大丈夫だよ」

「場合によっては次の城攻めの豊臣軍の先鋒になるかもな」

「関白は元農民だって言うし俺も手柄をたてれば武将かもな(^^)」

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/14(木) 04:40:49.06 ID:biVTa3Lm
八王子城の運が悪かったのは、城兵3000人いたとはいえ、女子供含めてだったので、
15000人で力攻めできてしまう程度の戦力だったことだろうなぁ…。
城主の氏照は小田原行っちゃっているし。

大規模な山城なんだし、周囲には出城、付け城も多数健在だしで、
本来なら5倍程度の兵力差なら1日で落ちるなんてことはない。

その心持が面白かった

2019年07月08日 17:50

千利休   
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 21:56:58.28 ID:v9H8Sln5
ある時、千利休が、「圜悟(えんご)の墨跡(中国宋代の臨済宗の僧、圜悟克勤の墨跡。村田珠光が
一休宗純より印可証明として与えられたとされる)を御覧ください。」と、前田肥前守(利長)、蒲生氏郷
牧村兵部、細川三斎(忠興)の四人を、その墨跡を所持する人の茶会に案内する段取りを付けた。

ところがこの茶会の当日、急にこの利休ら5人に豊臣秀次公よりお召があり、時刻も過ぎて茶会に間に合わなく
なったため、利休は人を遣わして「御前に用が出来たのでご容赦していただきたい。料理も結構ですので、
御用意なされませんように。菓子にて御茶を頂きたいと思います。」と伝えた所、「やむを得ません、
御用が終わり次第お出で下さい。」と返事が有った。

そうして日が暮れてから、手燭を出しての席入と成った。入る時に利休が「手燭を持って床の掛け物をよく
御覧になって下さい。」と申した所、亭主である墨跡の所有者は障子を開けて出て、利休に対し
「どうぞ墨跡をお焼き下さい。」と言った。これに利休は「面目を失った。」と言った。

中に入ると金銀を散りばめ、土器などにも絵を描いた豪華な料理が出た。これを見た利休が
「料理は無用と御連絡したではないですか。さてさて合点の行かないことです。」と申した所、亭主は
「ご尤もです。しかしこれは、食事を召し上がるように、との事ではありません。皆様が私のところへ
お出でになられるということで、ただ忝なさのあまりこれを用意したのです。召し上がるには及びません。」
と答えた。利休は「また恥をかいた。」と言った。

後に三斎公は「その心持が面白かった。」と言われた。

(三斎伝書)



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 22:17:22.94 ID:3+H2OFSP
いわゆる小者

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 05:56:03.31 ID:PErBWv+E
当日キャンセルをかます成り上がり者に対する亭主の抵抗が窺える

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 19:30:32.72 ID:FDy5Rb+b
戦国時代とはいえ割と面倒くさいこともしてんだなw

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 21:10:55.98 ID:6lk5Uw6S
小者ってのは いつの時代も大して変わりゃしない

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:31:12.85 ID:BTnI+Yho
どこの誰なんでしょうね

柴田勝家自害

2019年02月13日 17:48

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 00:14:41.65 ID:WTqP41ZB
柴田勝家自害の時)

勝家の家城である北ノ庄に前田又左衛門殿(利家)は真っ先に着かれた。城と寄り口との間に川一つあり。
その川に橋があって“北ノ庄の石橋”と申すはこれなり。

10間ほどの桁行短い淀みの橋があったが、これを渡らずに西の地に“愛宕山”という山があって、又左衛
門殿はその山に陣を取りなされた。そこに御旗本の先手の御人数が早くも到着した。

又左衛門殿の下知により、川端に又左衛門殿の手勢の人数が立てられた。橋口を又左衛門殿は心掛けられ
て一番に渡ろうと思われたのか、先手の御人数さえも橋口を渡らずに、主の手回りだけの人数で橋口を固
められて、又左衛門殿自身はまた愛宕山へ登って待ちなさった。

そこへ秀吉が早くも愛宕山に登りなされた。秀吉の仰せには「軍兵どもは腰兵糧を使え」とのことで、御
使番衆を所々に差し遣されて又左衛門殿へ仰せになり、「城を持ち固める前に攻め入ろう」と御談合なさ
れたところで、北ノ庄城は天守から焼け上がった。

後に城から出た者が申し上げたことによれば、勝家はとても叶わないと思われたということなのか、前述
に申し上げたように、天守へ鉄砲の薬を上げさせて二重に詰め置かれ、御前方(お市の方)やその他の片
を付けて勝家も自害なされたのだ。

勝家は燠掻きに火を入れて前述の時に上げ置きなさったのだが、腹を切ってその火を掛けなされたことよ
と見えて、二重の鉄砲の薬によって爆発すれば、天守の部材は四方八面に跳ね散らし、秀吉御陣取りの愛
宕山へは城から10町ほどもある所にまで、瓦などが虚空を跳ねて来たのである。

(おきかきに火を入右に被上置しか腹を切り其火をかけられたるよと見え二重の鉄炮の薬にてはね候へは
天しゆの引物とも四方八面にはねちらし秀吉御陣取の愛宕山へは城より十町程も御座候はん所にかはらな
とこくうにはねて来り候)

――『川角太閤記』