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前田利長夫婦京見物に乗出し本能寺信長乱を知り勢多より帰る事

2023年05月22日 20:36

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/22(月) 17:50:40.97 ID:B5XhHAMH
続武家閑談」から「前田利長夫婦京見物に乗出し本能寺信長乱を知り勢多より帰る事」

関連話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13431.html
かかる太平の世に逢候事ハなりかたき事
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3779.html
利長が輿をかつぐ者達を見ると

前田利長夫婦(当時数えで利長21歳、永姫(信長の娘)9歳)が同伴で京見物のために北国から上京しようと、まず安土城にいたった。
天正十年(1582年)六月二日、安土から勢田までおもむいたところ、向うから信長の奴僕がまっしぐらに来て「本能寺で信長公が弑せられました」と言った。
供のものどもは色を失った。
利長が言うには「父利家の領地である越前府中はここから遠く、一足とびには帰られないだろう。
まずは尾張にいる一族前田与十郎(前田長定)のところに妻女を預けよう」
すると六人の供が皆もとどりを切って
「尾張への御供はいたしません」とはっきり申した。
利長はこれを聞いて
「我らが妻女をおもうのも、汝らが越前にある妻子を心配に思うのも、心は同じである。
おのおの帰ってよいぞ」とことごとく帰した。
そして内室(永姫)に大小をささせ、馬に乗らせた。
恒川監物と奥村茂右衛門(奥村助右衛門永福?)が馬の口をとり、尾張へおもむいた。
一方、利長はまず安土の屋敷に入り、そこから越前に帰ろうとした。
このとき新参の武士は残らずいなくなり、譜代のみが供をしたという。
人心は今も昔も変わらぬはずだが、新参者は世上に有縁のものがあるために身を片づけやすく、
譜代はなかなか他家には縁がすくなく、また母や妻子が皆主人の領内にあり、逃れる手だてがなかったためであろうか。



762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/22(月) 21:57:13.34 ID:xQCLqfeC
>>761
ちょっと良い話でもある
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「朝野雑載」から前田利常の乳母の話

2022年03月25日 19:33

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/25(金) 18:57:36.74 ID:HfPN5Ga9
朝野雑載」から前田利常の乳母の話

加賀中納言利長の弟の猿千代(継嗣となった1601年以降の幼名は犬千代)は幼少時、啞(おし)であった。
猿千代の舌は腮(あご、ここでは口腔内だろう)に着いていたが、乳母が切り離したところ、言語が明瞭となった。
のちに利長の跡を継いで利常と号した。



94 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/03/26(土) 15:32:39.77 ID:k/biLpZ5
その逸話は何らかの医学的な手術を反映しているのかな?

かかる太平の世に逢候事ハなりかたき事

2022年03月16日 18:46

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/16(水) 17:41:44.68 ID:wsz562j2
織田信長が(本能寺の変で)弑せられた時、加賀の前田利長は瀬田の橋に着いた辺りでその事が聞こえた。
すると付き従っていた諸卒は悉く逃散して、ただ七人程の他は利長に付き添う者は無かった。
現在でもその七人の子孫が残っているという。

逃散した人々も、何れも譜代の歴々であった。何故逃げたのかと言えば、この頃信長は既に天下を半ば
手に入れられていた以上、今度の上洛では諸国も次々平均して、皆人安楽になるだろうと思って上ったのだが、
そこでこのような事(本能寺の変)が起こったことで、又々天下の大乱となりいつ治まるかも知れず、
「早く国に帰って妻子の行衛をも見ん」為であったと伝え聞く。

私が覚えている話に、若輩の人が、「今は治まった世なので、武を用いるべき様が無い。」と言ったのを、
老武者で、度々武功のあった人物が曰く

「若き人々、何事を宣うのか。私もここかしこにおいて、例えば百人、二百人の内、漸く生き残った
一人二人の中に入った故に世に永らえた。もし明日にも変乱の事があれば、皆々も生き残るという事は
稀である。このような太平の世にめぐり逢ったのは、ありえないほどの事なのだ(かかる太平の世に
逢候事ハなりかたき事)。」と言われたという。

紳書抄

乱世というものについてのお話



前田利長家臣、太田但馬守について

2022年03月16日 18:45

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/16(水) 18:28:18.85 ID:W5QHGRnF
「朝野雑載」から前田利長家臣、太田但馬守について

太田但馬守(長知)は土方勘兵衛(雄久)の弟であり、前田利長卿の家臣として高禄をうけ、山口宗永の大聖寺の城攻めには一方の侍大将もして活躍し、
丹羽長重との浅井縄手の合戦でも比類なき下知をくだし前田軍を指揮した。
あるとき、但馬は狐の子を捕らえてなぶり殺しにしたところ、母狐が但馬の部下に取り憑き
「但馬はとがなき我が子をなぶり殺しにする。
この怨念、いずかたへかゆくべき。近日かくのごとくにむくうべし」と言った。
利長卿がある夜、寵妾のもとへ通ったところ、忍んでいる男の影があり、みると太田但馬の姿であった。
利長卿はこの時以来但馬を憎んでいたところ、またある夜、寵妾のところに向かったところ但馬があらわれ、姿を消した。
そのためただちに横山山城守(長知)に命じて但馬を斬り殺させた。
なお但馬はその夜饗応に招かれ、酒宴に出席していたため寵妾のところに通えるはずもなく、
その上、深閨との間には番所も多くあり、その夜に人が通った形跡はなかったということだ。
後日よくよく尋ねたところ、かの母狐の仕業だということになった。
この但馬は性格が我儘で人をそしり、偏狭でおのが功績を人に自慢し、自己の利益を欲し、人の恨みを買うような人物であったけれども
知行二万五千石で第一の老臣だったために、表立って非難する人もいなかった。
結局のところ、不善の家には必ず餘殃があるという言葉の通り、最終的には不慮の災難に遭ったと言えよう。

青地礼幹「可観小説」にもある話らしい

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/16(水) 18:38:17.36 ID:W5QHGRnF
https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/kakan/kakan_70.pdf
金沢海みらい図書館のサイトで「可観小説」を確認したらほぼ同じ話だった
※管理人注 PDF注意


中々鬼にて御座候

2021年09月28日 17:39

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 16:45:06.45 ID:DF35CRNy
関ヶ原の役における、伊達政宗勢と上杉景勝勢の衝突した松川の戦いにおいて、
上杉方の青木新兵衛は殿をして隠れない働きをし、その上伊達政宗と鑓を合わせ、
兜の立物(有名な半月の前立)を突き折った。総じて、若い頃より十六度の働きが有った。

関ヶ原後、景勝が米沢に移された時に暇を出され浪人した。そして越前黄門(結城)秀康卿に
召し出された。この時、永井善左衛門も召し出された。

加賀肥前守(前田)利長の茶の会に、秀康卿が御越しになり、その御相伴に政宗、
堀丹後守直寄、半井驢庵が参られていた。この時、数寄屋において政宗がこのように申した

「今度、奥州において骨折った能き者共を、黄門様が召し出されたこと、御重宝だと存じます。
青木親兵衛は(松川の戦いにおいて)鳥毛の棒の黒幌、十文字の鑓、瓦毛の馬(川原毛:
灰白色・黄白色で、たてがみ・下肢・ひづめが黒いもの)に乘っていました。
中々の鬼でありました(中々鬼にて御座候)。」

青木は大阪両御陣でも手柄が有り、後には法体となり、方齋と申した。

これについて、落合(主膳)と安田(能元カ)によると、青木のことを永井善左衛門と
取り違えて政宗が申され、そのため秀康様にそのことを落合主膳が申した事があった。
故ありて記さず。

(杉原彦左衛門覚書条々)



614 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:00:54.17 ID:qbAFEM+l
>>613
松川の戦い自体が無いのでそれはホラ逸話ですな。

松川が今は信夫山の北側を流れているが
当時は南側を流れている。要するに政宗が信夫山を占領していたとなれば
梁川城と大枝城を既に落せている状態。
ところが実際は政宗は落せていない。
 
           〇梁川城
==×=←今の松川
信夫山
〇        〇大枝城
==×=→当時の松川
〇福島城

要するに今の松川の流れる基準で
×想定される松川の戦いが戦記物には書かれているが
当時の河川の様子を考えると、政宗は梁川・大枝城を攻め落とさないと福島城(今の県庁)を
包囲するのは難しいと言える。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 17:04:26.08 ID:kR2UOwai
松川の戦いで政宗と戦ったのは岡左内じゃなかったかと思ったら
岡左内とやり合った後に青木新兵衛に三日月折られて
ついでに斎道二に陣羽織を切り破られたのか
(松川の戦い自体、伊達と上杉の記録でいろいろ食い違ってるみたいいだけど)
青木新兵衛も岡左内も永井(長井?)善左衛門も蒲生→上杉でややこしい

616 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:05:32.19 ID:qbAFEM+l
よって明らかに構成の配置を元に書かれた話で
実際の松川の戦いは信夫山の北側での小競り合いじゃないかと言われている
また、家康が100万石のお墨付きで政宗の切り取り次第を推奨したのであれば
政宗の南進にSTOPをかけた書状に矛盾が出てくる。
政宗が南進せずに釘付けにしているだけで50余万石を与えるという条件を保護したという事になるわけだ
切り取り次第であれば、政宗も損害が出ても福島城を奪還して、梁川城と大枝城も領有したと思うが
そこで止まっている。

要するにそもそも松川の戦いなどというものは存在しておらず
家康は、政宗に南進するのはやめておけと書状を出しているので
政宗の切り取り次第という前提も無いと言える。

617 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:07:23.16 ID:qbAFEM+l
>>615
どちらにしても松川の位置が違うし
松川事件の松川という街も福島市内の南西部にある

松川の戦い自体がそもそも当時の地形を考えたら無いであろうし
福島城を攻めなくても信夫山に兵を置いて傍観しておけば政宗の仕事

618 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:11:41.10 ID:qbAFEM+l
(家康に上杉を釘付けにしておけばいい)という条件は達成するわけだから
焦って、松川に飛び込んで上杉と野戦する必要は無いと言える。

政宗が切り取り次第で領地を与えるとなるのであれば、家康の政宗の南進のSTOPの書状に対して
政宗が話が違うのではないか?と言って、上杉側に寝返る可能性だった有り得る。
そういうリスクを家康は考えていたわけだから、上杉を牽制すれば50余万石を与えるというとおり
政宗は松川ではなく、梁川と大枝のあたりで小競り合いをして釘付けにしただけだと思う。
そもそも当時の政宗に信夫山を占領する力があったか疑問だ。

実際行ってみればわかるが信夫山とれば福島城なんて鼻くそみたいな城(信夫山と比べると)だから
戦にならず撤収するはずなんだがな。

619 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:34:52.92 ID:wTypS4si
杉原彦左衛門親清は杉原親憲の一族で大老酒井忠勝の家臣であった
忠勝の命で上杉時代の記録を筆記したという

会津陣物語(杉原彦左衛門物語)、武辺話聞書、近世軍記、それぞれ延宝8年(1680)、景勝ファンを自称する近江大津の国枝清軒が諸文献をまとめたものである

620 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:38:58.25 ID:qbAFEM+l
地形図画像で説明

https://dotup.org/uploda/dotup.org2602707.png.html

家康が切り取り次第であれば、政宗に福島城を落せと命令するはずなんだけど
家康は上杉を釘付けにしろと言っている。
その場合、信夫山を占領しておけば上杉勢の本隊は西の板谷峠から攻めて来ても耐えうるし
無理な場合は西山城に政宗は撤退すればいい。

621 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/28(火) 17:39:56.78 ID:qbAFEM+l
>>619
ふむふむ。福島市に土地勘がある私からすれば、米沢の人間が適当に書いた軍記物なんだろうなと思う。

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 17:51:23.62 ID:wTypS4si
いや、米沢藩が関が原以後60年ほどは福島市を領有してたの忘れないでね?
福島市の置賜町ってなんで名前が付いたか知ってるでしょ
米沢市にも信夫町があるけどね

みなみな無になってしまったのに

2020年11月26日 17:09

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/26(木) 16:47:46.99 ID:Jq8EZIPS
みなみな無になってしまったのに

前田利家の次男・利政は関ヶ原合戦の折に改易され、その後は京に隠棲した。
一時は本多佐渡から兄の利長に「(利政を)国の端にでも置くように」と家康の仰せがあったと伝えられ
母のまつ(芳春院)も利政の放免を喜んでいたが、実現することはなかった。
年次不詳だが、利政の処遇についてまつが嘆く書状が残されている。(前田土佐守家資料館蔵)


本当に度々人を遣わして下さるので嬉しく思っています。孫四郎(利政)のことは
初めはするするとしたお返事を(家康が)申されたのですが、今は色々なことがあり
勢いがありません。側で人がどれだけ力を入れても許されなかったので、好機は済んだのでしょう。
大御所さま(家康)は御口が上手いので、(自分の)死んだ後のことまで申されるそうですが
太閤さま(秀吉)が日本の衆に政治をさせ、どれほどの多くのことを仰せられていても
みなみな無になってしまったのに、おかしなことだと思います。
こんなことを申すのは、我が身の因果の程(報い)を感じるようになり、仏心にも見放されたと
思っているからです。九月より喉のあたりが腫れてきて、胸も痛く”けんかん”の薬を飲みました。
合間合間に飲んでいるからか、腫れてはいますが物はよく食べることが出来ているので、安心して下さい。
めでたくかしく

十月六日 より
おちよ御返事 参 ちま はう(芳)
申給へ



464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/11/26(木) 19:08:52.41 ID:ydaJNGMI
親子共にケチだから分家つくるの嫌がったのかね?

当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき

2020年03月27日 17:44

799 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:21:43.27 ID:zmuEJTUZ
(豊臣秀吉の死後)
前田肥前殿(利長)が、細川忠興様の元を訪れ、このように仰られた

「石田治部少輔(三成)が、大納言殿(前田利家)にこのように申し上げました
『家康の事ですが、早くも我儘を申し、御寄合場へ切々と出てきません。今のままで召し置いておけば、今後
秀頼様の御為には悪しき事になるでしょう。ですので今すぐにでも、討ち果たすべきです。』
そう色々に申したことで、大納言殿も尤もに思し召され、討ち果たすという事になり、大阪より伏見へ御上がりに
なりました。これ程の事をあなたにお知らせしなければ、以後に御恨みが有ると思い、その要体を語り申します。

討ち果たす手立てとして、治部少輔申す所によると、
『家康の屋敷は落窪に有り、向かいの高い場所に有る宇喜多屋敷より火にて焼き立てれば下々騒ぎ出すでしょう、
そこで表に出てきた所を、宇喜多屋敷より出て討ち取る。もし裏から出たならば、我等(石田家)の者達で討ち取る。
兼ねてからそのように考えていたので、家康の屋敷の後ろは私の下屋敷にしてあり、只今佐和山より動員している
人数が四千有り、手間の要ることではありません。』

そのように申しているのです。」

そう肥前守殿が語った所、忠興様はこのように仰せになった
「家康公を討ち果たすとの事ですが、治部少輔の手立てではうまく行かないでしょう。」
「それはどういう御分別で、そのように思われるのでしょうか。」
忠興様のお答えに、肥前守殿はお顔の色が変わられた。忠興様は仰られた
「私を縁者であると思し召し、一大事をお知らせに成ったことが既に、御後悔しているように見えます。
この事は破れるのも、無事に成るのも御父子の御分別次第です。

この事が破と成った時は御身上が逃れたいと思っても、人は逃さないでしょう。
また私の身上も、逃れたくとも人は逃さないでしょう。
破と極まるのであれば、何時も一所と心得ましょう。

私の考えとしては、治部少輔にとって日本に恐ろしいと思っている人物が二人あります。一人は内府であり、
もうひとりの大納言殿は既に病であり、大納言殿が果てられた以後は、己が主人となろうと考え、色々様々に
申しているのです。あなたを批判するような事を言いますが、大納言殿が御死去なされたら、あなたの事は、
今の十分の一も人は用いないでしょう。御分別を専らにするべきです。
今後、内府を主人とするのか、治部少輔を主人とするのか。
私は治部少輔を主人とするなど罷りならぬことだと考えています。」

肥前守殿はこれを聞くと、
「一々至極と承った。然れば大納言殿に御異見を申したいのだが、蓮々御存じのように、私が申すことは
たとえ良いことであっても聞いてくれない。ましてやこの事については既に、治部少輔の言うことを尤もと
思われている。それを、私の無調法な口では中々説得する事は出来ないだろう。是非御同道してほしい。」
そう、たって仰せに成ったため、大納言殿の元へ御出に成った。

大納言殿が居られる又次の間まで進むと、そこからは先ず肥前守殿がお入りに成り、要体を語られた所、
病にて臥せって居られた大納言殿はむくと起き上がり、畳を叩き悪口を仰せになった。これに肥前殿は
「私は口不調法にて、物のあやを申せないため、御合点参らないのでしょう。そのため越中殿をここまで
御同道しました。」
そう仰せに成ると「然らば越中殿を出候へ」と仰せにつき、大納言殿の居られる間にお入りになられた。

800 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 11:22:02.91 ID:zmuEJTUZ
そうして忠興様が要体を語られると

「其の方の仰せになる所は解ったが、内府が何の御談合にも出てこないという事をしている以上、このままでは
以後秀頼様の御為に成らない。私の息のある内に、家康を討ち果たすべきだと考えている。」と仰せになった。
忠興様はこれに
「批判を申すようですが、御分別を更に重ねられるべきと存じ奉ります。例え家康に対して御談合の場に出ることを
堅く無用と申したとしても、家康が御座有った頃と同じようには出来ません。貴殿が合点していただければ、
家康が出てくるように仕りましょう。そのようにすれば如何でしょうか?」

「家康さえ出てくるのであれば、何も言うことはない。常々、意趣が有ったわけではない。」
大納言殿はそう仰せに成ったため、忠興様は直ぐに、家康公を大納言殿の元へ同道なされ、入魂の御盃を取り交し、
首尾よく家康公は御帰りになった。
忠興様は残り、大納言殿へ仰せになった

「家康の現在の屋敷は無用心であるので、向島へ移されるべきだと考えます。」
「この上は如何様にも。其の方に任せよう。」

そのように仰せに成ったため、即刻向島へお移りになった。

この一ヶ状は三斎様の御物語で承った事である。そして家康公と御老中御連判状に、
『当家続き申す内は、今度の御恩忘れ申しまじき。』とある、六、七人の御連判状を私(細川忠興軍功記の作者)が
預かったことがあり、覚えている。

細川忠興軍功記



802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 12:19:08.70 ID:28ctvBqZ
徳川の治世と豊臣の治世だったら当然豊臣のほうがいいだろうなあ
徳川に味方して得たものはなんなのさw

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:25:20.20 ID:k+lBAxIa
少なくとも領地は広がったな。前田も細川も

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 13:33:31.03 ID:JVQBGdYo
豊臣だったら領地は増えてないな

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:31:27.93 ID:xqag71KY
○ 太閤蔵入地の解消
× 基本的に政権運営に参画できない

国持クラスの大名はともかく、中小の大名なら江戸幕府の方がやりやすいだろうね
まあ、財政的に余裕が無くて悠々と藩経営できてたケースは少ないけど

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 15:48:32.81 ID:SfIo6kA4
大大名も必ずしも政権運営に参画したかった訳でもないと思うぞ
というか極論三成だけが異常にやりたがってたようにも見える

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 16:18:25.61 ID:pQMysm+j
三成よか輝元のがあやしい

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 17:19:12.35 ID:00FCvUDV
伊達政宗が娘を松平忠輝と結婚させたのは、中央政界への発言力を求めてのことだったのだろうか?

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/27(金) 18:22:26.61 ID:SfIo6kA4
政宗が誰を嫁にしようと老中にはなれない
変に梟雄的に取り上げられることあるけど
普通に安定求めた婚姻だわな

輝元は三成に乗せられたお調子者だね
乗せられた分野心あったと言えるが

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 01:00:33.06 ID:rNuJGc1p
参勤交代が藩財政を逼迫させたんじゃないの?
知らんけど

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:02:34.16 ID:enxJZdyv
参勤交代は徳川家光の時の政策だし、そもそも江戸在府が基本だった大名への
負担軽減策だったわけで。

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 02:06:14.65 ID:MVE+KsKB
ずっと当主が天下人の城下に屋敷構えて許可ないと全然帰れませんよりよっぽど安く済むらしいわよ、参勤交代
しかも当主が遠国にいるから領国の統治もむずいし下手すりゃ領地で政治執るやつが実権握りかねんし

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 07:19:02.81 ID:EEZk3pD1
>>813
太平の世で大っぴらに出来る貴重な軍務。
我が武威を世間に見せ付けられる場なのでどの藩も行列を豪華にすべく無駄金使ったせいでもあるので。

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/29(日) 09:16:16.15 ID:Zk6eD4N+
江戸時代の武家財政の逼迫は本質的には
何も生み出さない雇用守らなきゃ行けないから

花入はご覧になりましたか

2019年07月12日 16:48

千利休   
83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 01:02:31.24 ID:BhNSOonv
千利休より「花入が到来しましたので、今お待ちしています。」と、前田肥前守(利長)、
蒲生氏郷、細川三斎(忠興)の元に使いが来た。早速三人で出かけて席入したものの、初座、後座ともに
花入は出なかった。三人は利休に花入を所望すべきかと相談したが、恐れてついに言い出せず、退席した。

利休が露地に送りに出た時、「今日は花入をお見せするためお招きしましたが、花入はご覧になりましたか。」
と尋ねた。客である三人は「とうとう花入を拝見出来ませんでした。座敷、露地ともよく見廻したのですが、
花入はありませんでした。」と答えた。

利休は「尤もです。」と言って、露地の塵穴を示した。そこには落ちた椿の花を、なるほど見事に入れてあった。
「その見事さには驚き入った。」と、後に三斎様がお話になった。

またある時、利休よりこの三人が御茶に呼ばれた。にじり口を開けると、そこに茶壺が置いてあり席入することが
出来なかった。三人は困惑し、どうして良いか解らず様々に相談したが、勝手に床に上げるわけにもいかないと、
先ず座敷の真ん中に茶壺を移して席入し、亭主である利休に「茶壺を床へ」と申した。利休は機嫌よく
これを床へ上げた。「客の思案が良かったのでしょう」と、後にお話になった。

(三斎伝書)



85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 05:26:24.74 ID:FVr7QC+1
>>83
わびってるなあ

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 08:12:56.70 ID:kTIihdCu
>>83
深すぎてわかんねーw

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 11:50:52.94 ID:YjWTGmPq
わびさび俺には無理だと分かった

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/14(日) 04:25:07.42 ID:9odMhzGb
とんち比べかな?奇をてらって遊んでる風にしかみえない

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 10:07:51.99 ID:wf+p/I6R
こういうのが和歌の世界だと古今伝授みたいになるんだな

如御意裏切は可被御免候外聞如何と存候

2019年01月27日 17:55

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/26(土) 20:19:07.24 ID:jQx+upVJ
(賤ヶ岳の戦いの時)

20日の夜に入り、秀吉は賤ヶ岳山の麓に夜に紛れて御入りになった。その隣の百姓どもを呼び出され、
この頃の陣取りの事なので、百姓どもに敵の陣取りの次第を御尋ねになられると、一々にこうであると
申し上げた。

「それならば汝は案内をよく知っているだろう。筑前守の者を汝に付けよう。頼む」と秀吉は仰せられ、
金1枚を遣された。「難無く戻ればまた2枚を遣しましょうぞ。この者を連れなさって前田又左衛門殿
(利家)の陣へ紛れ入りなされよ」と仰せになれば、その百姓は「大形山をつたって参りましょう」と
御受けし、秀吉は申状を御書きになり、前田又左衛門殿へ遣しなさった。

「夜に紛れてここまで参着しました。敵の人数を残さず引き付けた時には、篝火を数を尽くして燃やし
ます。火が多く見えたならば、明日の合戦と思し召されよ。合戦を結んだ時には裏切りを願い奉りたく
存ずるが、かねてよりの御心中は存じておるので、はっきりと裏切りにはなられますまい。

合戦に御構いなさらぬことは裏切り同様でござるので(合戦に御かまひなき事裏切同前に御座候間)、
そのように御心得なされたい」

このように仰せ遣わしなさると、又左衛門殿からは、

「それでは茅野まで夜に紛れて御着きになられたか。篝火のことは心得申した。仰せのように裏切りは
御容赦なさって頂きたい。外聞は如何なものかと存じます(如御意裏切は可被御免候外聞如何と存候)。
明日の御合戦では、御指図のように双方ともに構いますまい」

との御返事であったと相聞こえ申し候事。

(中略)

前田又左衛門殿は、自城の越前の府中に難無く父子ともに入りなさった。この城は柴田殿(勝家)の家
城から道を5里隔てた近江の入り口である。又左衛門殿は「秀吉は早々にここへ気負いして攻め掛かり
なさるものであろう」と思案された。

裏切りを確かにしてこうと見えればこそ、秀吉も御満足と思し召されようが、そうではなかった(裏切
をも慥かにして角と見えはこそ秀吉も御満足とは可被思召に其儀はなし)。

身の上も危うく思いなさったということなのか、又左衛門殿は「まずは城の総構えに鉄砲を配置せよ!」
と子息の孫四郎殿(前田利長)を出され、あちこちに鉄砲を配置し今か今かと御待ちになったのである。

――『川角太閤記』


前田利長と七人の鋳物師

2018年10月24日 18:20

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 11:24:10.42 ID:OKsi2wXl
前田利長と七人の鋳物師


慶長14年、前田利長は居城としていた富山城が燃えたため、幕府に許可を取り
同国の関野に城を築くことにし、その周辺を高岡と名付けた。
慶長16年に、利長は近郊の西部金屋から鋳物師七人を招き、免税などの特権と
東西五十間南北百間からなる御印地を与え、鋳物づくりを行わせた。
この御印地が現在重伝建に指定されている高岡市金屋町である。

一国一城令で高岡城は廃城となり城下町ではなくなったが、金屋町は繁栄した。
当初は日用品である鍋や釜、鍬といった鉄器を作り、百姓に貸し付けていたが
仏具の需要が高まってきたことから、天保・弘化の頃に銅器も作るようになった。
現在の高岡は銅器のまちとして知られ、日本における銅器の生産額シェアの
約95%が高岡で作られたものである。

金屋町では、毎年利長の命日とその前夜2日間に渡って”御印祭”を行っている。
元々は鋳物師七人衆が利長に報恩するため、御印地をもらったことを示す文書を
拝んだことが始まりのもので、前夜祭では、鋳物師の作業唄である民謡弥栄節に
振り付けて、千人ほどが踊るにぎやかな祭りとなっている。



403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/24(水) 17:29:13.90 ID:BVEYNKqg
それでオナベの聖地になってるのか

わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない

2017年07月13日 17:31

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/07/11(火) 18:03:36.07 ID:aeyCj/OX
 前田肥前守利長なる者がいる。加賀大納言の子である。前田はその姓である。
大納言は、もともと、家康と官爵勢力ともに相等しかった。
秀吉が死に臨んで、秀頼を肥前守に依託して、「そこもとは、備前中納言秀家とともに、秀頼を奉じて大坂に居られよ。
諸事を調護するのは、そこもとにこれを一任する」と言った。
秀吉がすでに死んで、大納言も戊戌年冬に死んだ。
肥前守が、越中・加賀・能登の三州の地を襲ぎ、秀頼を奉じて、大坂に居し、その威勢は家康に劣らなかった。
高く門楼を建て、それが大坂内城と斉しいほど高かった。
彼はひそかに、上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・宇喜多秀家・加藤清正・越中守らと、
家康を殺してその土地を分けようと謀り、血を啜って同盟し、盟約がすでに定まってから越中に帰った。
石田治部少輔が、たまたま家康にとがめられて、その領地である近江州に退いていた時に、
その謀を知り、ひそかに書面で家康に告げた。
家康は、己亥年9月9日、秀頼に挨拶するとかこつけて虚に乗じて大坂城に入って拠りどころとし、
肥前の家来を呼んで、その門楼を毀たせようとした。
家臣たちはみな、「わが主君は外におられ、まだ何の命令も聞いてはおらぬ。
死はただ一度のこと。内府の[命]令に違って死ぬとしても、
我が主君の命に違って死ぬことはない」
と言ってその命令に従わなかった。家康の怒りはますます激しくなった。
肥前の妻の甥であった秀家が行って肥前の家臣を喩し、撤去させ、
「そち達の主が私に言いおいた言葉がある。私が責任を取ってやろう」
と言った。
家康は、遂に関東の諸将に[命]令して、肥前が倭京に上ってくる道を塞ぎ、
又、石田治部少輔[三成]に[命]令して、近江州の要害を防備させた。
肥前守も城や隍を修理改築して固守の計を取り、
ひまひまには、狩猟にかこつけて、精兵数万を率いて越中・越後などの地に出没し、
景勝などともひそかに相互援助の盟約を結んだ。
群倭が家康に和解を勧めているが、家康は多分聞き入れないであろう。
思うに、この勢いでは、戦わなければすなわち和解するであろうし、和解しなければすなわち戦うしかない。
和解を、幸いにして、成立させないですませたならば、醜奴[倭]の方城はまさに一つの戦場になるであろうから、
わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない。

(看羊録)
※前田利家が死んだのは己亥


古今稀なる値段であった

2016年02月09日 09:54

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/08(月) 21:40:08.39 ID:hgTyXSQ3
日野肩衝茶入(元来は日野家御珍蔵)は次々と伝来があり、加賀様のお館に入りました。
井川善六から金一万両でのお買い上げであり、古今稀なる値段であった。
(本阿弥行状記)

調べてみたら、湯川善六という人から前田利長へ伝来していますね。
そしてもう一回湯川善六の元へ戻ってもいます



281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 12:35:22.19 ID:vHAWVXux
何が良い話なんだろう

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 13:30:24.82 ID:my3cxd0i
前田が金一万両も出した
金払いのいい話?

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 13:43:51.89 ID:6lkYJXcB
長屋の浪人から屑屋が買い取った仏像を手に入れて磨いてたら中から小判でも出てきたんだろ

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 14:56:19.35 ID:IArT5ku2
今の価値に換算したときが怖いんですが

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 16:51:30.97 ID:pSVTyQTE
10億くらいかな

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 18:52:00.40 ID:pbn6bhoo
>>281
持ち逃げしたとか脅し取ったとかじゃなくて
ちゃんと金払って買ってんだぞ
充分いい話だろうが(戦国脳)

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 18:52:11.59 ID:OEiUCML7
国を貰うより茶器のほうが良かったとか言う人もおったわけだし

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 20:33:10.15 ID:yt1305kz
宗峰妙超墨跡 「梅溪」号

大坂夏の陣を終えた前田利常(1593~1658)が、
加賀への帰途に立ち寄った酬恩庵で目にとめ、何度かの交渉後、
前田家と寺が続く限り、毎年米百石(現在の約750万円)を寄進することを約束して、
寺から前田家へ譲られたと伝わる。

http://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_04/08108_001.html

拝郷次大夫の討ち死に

2015年10月09日 12:28

798 名前:人間七七四年[aaaa] 投稿日:2015/10/08(木) 21:22:35.29 ID:2LGsNHl9
前田筑前守利長の近臣に拝郷次大夫という者があった。拝郷の祖父は五左衛門宗直(家嘉)といって、柴田勝家の臣であり、賤ケ岳で討ち死にした。父は丹羽長秀に仕え、小松の城にいた。
次大夫は十六歳の時、加賀に行き、利長の寵臣となった。慶長五年八月、利長と長重が仇敵の仲になると、次大夫は「長重は旧主であり、父親も丹羽家にいる。父母の主君に弓を引くのは、武士の定めと言っても不義である」と思い利長に暇乞いに行った。
利長も感じ入り、この戦が終わったら必ず帰参するように申渡した上で暇を出し、次大夫は同僚に挨拶をし、小松に帰っていった。浅井縄手では次大夫が一番手として討って出て、松平久兵衛と槍を合わせたが、日頃入魂の間柄であったので、笑い通していた。[
続いて水越縫殿助と槍を合わせたがこれも同様であった。その後、岩田伝左衛門と槍を合わせたが、決着をつけようと組打の最中、伝左衛門に討ち取られてしまった。
利長は首実検で、次大夫の首を見、無慚に思い涙した。松平・水越らも次大夫を思い、立派な忠孝者であったと称した。

『元禎筆記』



799 名前:人間七七四年[no] 投稿日:2015/10/09(金) 17:14:18.64 ID:SbIuOL0o
次大夫「俺、この戦が終わったら前田家へ帰参するんだ」

信長公の時代の人々の雑談

2015年09月17日 08:55

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 23:06:07.98 ID:a/0PR1Q8
高山南坊(右近)、長九郎左衛門(連龍)、山崎長門守(長徳)、内藤如安、彼らは信長公の時代の人である
彼らが集まり雑談した際、こんな事を言った

「信長公が天下(畿内近国)に入られると、国の関々を開けられ、往還を一つにし、人の移動を
ゆるゆると仰せ付けられた。これは日本の国々の次第をよく聞き届ける事ではじめて、六十六カ国を
治めることが出来る、との御分別からであった。

太閤様は御所様(家康)との和睦が済んだ時、太閤様の御分別には、家康公と和解した以上、
最早日本は治まったと思われ、高麗船・唐船などの着く、九州の長崎、博多津、坊津といった浦々で、
唐船に乗る商人などをしきりに呼び付け、高麗や唐への渡海の様子を聞かれていた。
このような事を始めたのは、御所様との和解とほぼ同時期で、当時早くも高麗にお心がけを
されていたのだと聞こえている。

御所様(徳川家康)が関ヶ原の役も治まり、大阪へ移動する時、羽柴肥前守殿(前田利長)が
申し上げた。その内容はこうであった

『秀頼様には遠国に領地を仰せ付け、大阪城はこの勢いで接収して然るべきです。』

これを聞いた御所様は思われた『いやいや、これは肥前守と仲の良い者達が内談し、私の胸の内を
知ろうとしてこのような事を言っているのだ。』
そして肥前守への返答は

『いやいや、今回のことは治部少輔の仕出かしたことであり、秀頼公はご幼少であるため責任はない。
ただ、このまま別状なくこちらに置き奉るつもりである。』

こう答えたゆえに、その時は特に混乱が起きなかったのだと言われている。

御所様のご分別のように、大名衆は、この二人の談合において、御所様の口ぶりを集中して見ており、
そして様々に推量した。肥前守の提案に乗らなかった事は、偏にご分別厚く、おおくくりに時節を
ご覧に成ることの上手であるかな。』

彼らはこのような雑談をしていたと聞いている。

(川角太閤記)



713 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/17(木) 09:33:15.89 ID:xWUpAs5D
山崎長門守って吉家じゃなく一族の長徳の方だろうね

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 17:19:48.42 ID:i3bbEaxY
高山右近と長連って個人的にすごく良いメンバーだ

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 17:38:02.04 ID:kwnDb1cB
ながつらだって、ぷっダッサ(笑)

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 01:39:22.90 ID:MMe+h1uc
お、おう

慶長伏見地震の前田利家

2015年08月30日 13:45

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 02:16:34.31 ID:xkkO1eh3
伏見での地震の時、大納言(前田利家)殿のお屋敷と肥前守(前田利長)殿のお屋敷は隣り合っていました。
地震の時は父子共に庭へお出になられ、互いにお言葉を掛け合いなされました。
何れも大丈夫と者どもは涙を流して申されました。

さて大納言殿は、小姓五六人に、
「上様は御城の周囲へお出になられましたか。大納言めを呼んでください。」
と仰せ付けられました。
小姓達はその意を得て、叫んでいると
太閤様がお答えなされました。

「ここにいるぞ。無事に出たから、心配しなくてよい。大納言も無事であるか。」

との上意であった。退出して、其の件を利家様へ申し上げました。


それから大納言殿は御一人で、何の構いもなく城中へお入りになさったとき、太閤様はご機嫌が好く、秀頼公を利家様へお渡して抱かせました。

とのことを帰って話されました。




以上のようには、震災でお取込のときに太閤様の身を案ずる判断は素晴らしいと、利家様を名大将と上下の者どもは申しました。

さてその後に、太閤様は伏見山に御城を拵えて、移りなされました。
(利家夜話)

慶長伏見地震の逸話です。秀頼を抱かせるとは、秀吉も利家をたいそう頼りにしていたのですね。




627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 06:12:17.33 ID:g2cHYBCN
「この両腕で秀頼君を抱かせてもらうたわ」
「その時、父上の両足は何をしていたのです?」

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 09:20:26.77 ID:jiqRsAPz
蹴る?両輪の如く駈ける?
正解は?

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 11:08:21.50 ID:48J3e4yl
かがんでたんだろ

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 11:27:17.53 ID:vE03DJbH
>>626
天正地震で利家は弟を亡くしたからな

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 13:06:58.11 ID:lrmaBUfO
あの時代にデカい地震あったら建物ボロボロになっただろうな

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 15:29:02.92 ID:DZwRT9CX
内ヶ島の皆さんが何か言いたげです




前田利長の事

2015年05月14日 17:56

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/13(水) 19:26:24.15 ID:Xi86n1fY
関ヶ原の一乱の時、石田治部少輔(三成)より、吉光の脇差に書状を添えて、前田利長を頼むという旨を
申しきた時、利長はこれを報告するため、徳川家康に家臣の野村治兵衛という者を使いとして派遣した。

家康は治兵衛に尋ねた
「三成は何事を、利長に頼むと言ってきたのか?」
治兵衛答える
「それを知る人は居りません。三成の使者は書状すら奉らず、すべて口上のみで伝えたのです。」

家康は治兵衛を側近くに召して密談し、また、夜もこの者を御寝所の次の間で寝させ、終夜
鷹狩の話をした。治兵衛も素より、鷹狩を好む人物であった。

翌日、家康は治兵衛に、金三十枚の価値がある腰の物と、馬を一疋下し置き、帰国することを許した。
この野村治兵衛は利長の無二の寵臣であった。彼が江戸から帰国する時、越前では西軍による関所が
作られ通行が遮られていたが、治兵衛は様々に申し開きをして無事加賀へと帰った。
これより、前田利長は家康に味方したのだという。

ある秘説に、利長からの口上は『それがし一生の内、家康公が秀頼公に如才あるまじきにおいては、
この度御味方申す。』というもので、家康は『その事、相違あるまじ』と返事したため、事済んだともいう。

前田利長が死んだのは、5月20日であった。その事は駿府に注進あったが、ただし、前田家よりも先に、
その家老であった本多安房守(政重)から本多正信への連絡のほうが早かったという。
このことは何か仔細が在ると、当時の世の人々は語り合ったそうである。

この注進が届いた時、徳川家康は碁を囲んでいたが、前田利長の逝去という事を聞くと
「さてさて、惜しき事かな。気の毒なことだ。」
そう言ってそのまま奥へと入ったいう。
そしてその翌月、家康は片桐且元らを召して、大阪に2,3箇条の仰せを遣わした。
関東のお心は国替えであるとした片桐且元は、淀殿を人質として江戸に下ることが第一であると
考えたが、大阪ではこれを拒絶したため、ついに事破れとなった。

大阪では太閤旧恩の諸侯の内、前田利長、加藤清正といった人々の病死は誠に力を失ったという。
そのためこの時は、それ以外の大名の中にも、5人か3人は自分たちに味方する者が
居ないということは無いだろうと、諸侯に頼み込んだのだという。

(明良洪範)



北陸の関ヶ原の戦いの原因

2015年03月28日 17:32

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/28(土) 00:22:36.97 ID:cx1J4gVH
 慶長五年七月二日、家康公は武州江戸にご到着になり、御仕置等を仰せ置かれ、同二十一日、家康公秀忠公御父子は十二万余の軍勢を
率いて奥州へ向かいなされた。
景勝もかねてから支度していて、城々を堅固に守り、自らも二万余騎を率いて白川口へ出張る。
 利長も本国へ馳せ下り、近隣の勢に会津攻めの軍勢を出すよう促し、小松の丹羽長重にもその旨を達した。

長重が思はれるに、
『心得ぬことだな。去る頃、内府が利長に謀反の企てありとお疑いになったあの時、内府から頼まれてやむなくその周囲を探った。
利長との長い厚誼を振り捨てたのだ。これは忠義のためである。たとえ利長の陳謝がどのくらいであろうとも
内府はわしに知らせてから、和睦なされるべきであった。
 こたびの上杉景勝討伐、相手は天下の逆賊であるから誰が断るはずだろうか。
すぐにも、内府から直々に、長重も兵を出せとのご催促があって然るべきであるのに、利長からこれを達してくる事に納得がいかない。
利長はなにか計っているかもしれない。この頃の、わしの行った計略を遺恨に思い、会津長征の道すがら討ち果たすつもりかもしれぬ。
しばらく世間の様子をよく聞いて検討しよう。』
とて、
「早々に打ち立つべきでありますが、病にて歩行も思うままにできませぬ。
その上、長征の準備もいまだ半分しか整っておりませんので、それがしは後陣を担当したい。
まず、あなか方の国の者をお先に行ってください。」
と返答した。

利長はお聞きになされて、
「長重のこの頃の態度は分からない。わざわざ後陣を望むのはおかしい。ともかく、彼の安否をよく調べた上で打ち立とう。」
と不破斎宮之助という者を使者とした。
「奥州退治のこと、諸方の寄口を知らせる必要があります。催促したのは私ではなく貴命であります。
どのようなお考えから、こんなふうに出兵を延引なされるのか。このままでは人から不審も招きましょう。急ぎ出陣されよ。」
催促は立て続けに四度に及んだが、なおぐずぐずしている。
 そこへ、大坂の三奉行から、『秀頼公の命によって謀反を起こす』との廻文が届き、ほぼ時を同じくして内府から、
北国のことでは、特に長重を勇猛の武将として頼もしく思っている旨の檄文が届いた。
『かように期待されるのは本望であるが、利長の謀略も計り難い。いかがしたものか。』
と思案していた。

 斎宮之助は金沢城へ馳せ戻って、『小松側の態度は心得がたい』と報告した。利長は、
『大坂での三成らの謀反の動きは既に伝え聞いている。その上、謀反に加担せよとの回文も到来した。
さては長重、かねてより三成に与していればこそ、会津への出兵を遅らせたものと思われる。
この上は早々に小松を踏み散らして手元を安全にして、然る後に、上方へ打ち抜けるか、奥州へ向かうか、時宜に応じて行動するとしよう。』
と決めて、七月二十六日申の下刻、四万余騎の軍勢を率いてにわかに小松表へ押し出した。
「松任より向こうは小松領であるので、焼き払って通れ」
と道筋の在家を放火し、手取川を渡り、水島寺井まで押し寄せた。すでに時が過ぎて暁になっていた。
 
 小松側では、思いも寄らぬ事なので、上を下へと騒乱ひとしおの中、長重は、
『かねては内府を敵にまわす覚悟ではなかったといえども、今、大軍に押しかけられ、利長に陳謝するわけにもいかず、
もはやいかんともしがたい。籠城しよう。』
と決めた。
(小松軍記)

北陸の関ヶ原の戦いの原因である




これぞ聞こえる蒲生家の士大将

2014年12月22日 18:39

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 02:17:48.59 ID:lmsYp9gE
秀吉が島津を征伐なされた時、蒲生氏郷前田利長は岩石の城を攻めなさった。

氏郷の先陣・蒲生源左衛門(郷成)は、この頃は坂小坂といった。坂はまっ先に進み、仮名で
“いちばん”と墨黒に書いてある白い吹貫を門のまん中に押し立て、喚き叫んで戦った。

雨が降るように鉄砲が撃ち出され、吹貫は秋風によって破れた芭蕉のようになった。
坂は大声を上げて、「一足も引くな者ども!」と命じ、わき目も振らず攻め入った。

その様子は後陣から、「これぞ聞こえる蒲生家の士大将、小坂と言われている大剛の者よ」
と、口々に誉められていた。

寺島美濃守は、この頃は半左衛門といった。半左衛門は黒い吹貫を押し立てて坂に続いた。
軍勢は利長の士・松原久兵衛を始めとして先を争って攻め入り、最後には城を攻め落として、
4百余の首を討ち取った。

秀吉は氏郷に感状をお与えになり、坂に金銭10匹と羽織を賜った。

【原注:一説には、坂を一番と記している。秀吉が坂を賞して刀をお与えになると、坂は申して、

「一番の賞でございますならば、それは、栗田(半左衛門のことか)一人でございます。
栗田は黒い吹貫でございました。坂の吹貫は白くて目立ったのでございましょう」

と譲ったため、秀吉はますます大いに感心し、刀を栗田にお与えになったとも言われている。】

――『常山紀談』





山田勘六郎の事

2014年07月31日 18:53

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 23:28:53.46 ID:VXn6jKwP
前田利長の兵山田勘六郎は、十四歳で父の仇を討った人である。

ある日、利長は土蔵の戸を開くために、鍵を預けていた山田を「急いで来い」と
呼んだのだが、山田が遅かったために利長は怒り、持っていた杖で山田を突くと、
思わず山田の額に当たって血が流れた。

山田は跪いて平伏すると、脇差の刀身が自然に鞘から抜け出た。それを見た利長は、
「手向いもするのか!」と言って、畳み掛けて打とうとしたものの、傍らの人が
山田を引き退けた。この時から山田は病気と称して引き籠っていた。

関ヶ原の乱が起こり、利長が大聖寺の城を攻める時、利長は一段高い所に打ち上り、
武者押しを見物した。この時、山田は五、六十人ほどを引き連れ、今日を最後と
出て行って押し通り、城に着くと先駆けして一番に乗り込んだ。そして槍で乳の下を
突き通され、痛手であるために姫垣の下に落ちた。

山田は前もって従者に言い含めたので、息の絶えない内に利長の前に担がれて来た。
利長はこれを見て甚だしく後悔し、その過ちを丁寧に明らかにして、涙を流した。

山田はやがて死んだ。行年二十歳、世にすぐれた美男だったが、大剛の働きをして
討死した。その前日に、山田は親しい朋友に奇南香を分かち贈った。その頃、
その奇南香のことを、『大聖寺きやら』といって、もてはやしたと言われている。

――『常山紀談』




844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/31(木) 06:47:56.65 ID:MtEobYiW
山田、遅刻したばっかりに変な逸話が

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/31(木) 10:35:47.10 ID:7FhShnAf
刀って傾けたくらいで簡単に鞘から抜けるもんなのかな
それともうっかり触ってしまったのかな

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/31(木) 10:39:55.06 ID:rjrCgL6Q
鯉口が緩んでるとそうなる

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/31(木) 10:45:54.19 ID:WRXagawh
仇って誰なん?

前田利家、家臣のことについて

2013年10月06日 19:52

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/06(日) 00:28:18.41 ID:zlcutf7n
前田利家の、前田利長宛遺言より、家臣のことについての部分

「長九郎左衛門と高山南坊は、他を見ないで、私に一筋に使えてくれた律義者であるので、
私の死後も少しずつ茶代を遣わすなどして、情けをかけてほしい。

片山伊賀は、大きなことをしたいと考えている人間であるので、もしもの時は謀反を起こすかもしれない。
彼の言葉にも良く気を使って、油断しないように。

徳山五兵衛は色々と他家と繋がって、大名たちとも知り合いになっているようだ。
私が生きている間はおとなしくしていたが、ずっと機会を伺っていたようなので、
私が死ねばきっと謀反を起こすだろう。
きちんと仕置をするように。

山崎長門は良い人物だ。越中での合戦の時も良く働いた。
ただ少々意地が悪く、偏屈な武辺者なので、30人か40人の頭あたりが適当な処遇だ。
それ以上の軍勢の大将にしてはならない。」

前田利家が、自分の家臣をどう見ていたか、という記録である。
前田家も内部で色々在った感じですね