わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない

2017年07月13日 17:31

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/07/11(火) 18:03:36.07 ID:aeyCj/OX
 前田肥前守利長なる者がいる。加賀大納言の子である。前田はその姓である。
大納言は、もともと、家康と官爵勢力ともに相等しかった。
秀吉が死に臨んで、秀頼を肥前守に依託して、「そこもとは、備前中納言秀家とともに、秀頼を奉じて大坂に居られよ。
諸事を調護するのは、そこもとにこれを一任する」と言った。
秀吉がすでに死んで、大納言も戊戌年冬に死んだ。
肥前守が、越中・加賀・能登の三州の地を襲ぎ、秀頼を奉じて、大坂に居し、その威勢は家康に劣らなかった。
高く門楼を建て、それが大坂内城と斉しいほど高かった。
彼はひそかに、上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・宇喜多秀家・加藤清正・越中守らと、
家康を殺してその土地を分けようと謀り、血を啜って同盟し、盟約がすでに定まってから越中に帰った。
石田治部少輔が、たまたま家康にとがめられて、その領地である近江州に退いていた時に、
その謀を知り、ひそかに書面で家康に告げた。
家康は、己亥年9月9日、秀頼に挨拶するとかこつけて虚に乗じて大坂城に入って拠りどころとし、
肥前の家来を呼んで、その門楼を毀たせようとした。
家臣たちはみな、「わが主君は外におられ、まだ何の命令も聞いてはおらぬ。
死はただ一度のこと。内府の[命]令に違って死ぬとしても、
我が主君の命に違って死ぬことはない」
と言ってその命令に従わなかった。家康の怒りはますます激しくなった。
肥前の妻の甥であった秀家が行って肥前の家臣を喩し、撤去させ、
「そち達の主が私に言いおいた言葉がある。私が責任を取ってやろう」
と言った。
家康は、遂に関東の諸将に[命]令して、肥前が倭京に上ってくる道を塞ぎ、
又、石田治部少輔[三成]に[命]令して、近江州の要害を防備させた。
肥前守も城や隍を修理改築して固守の計を取り、
ひまひまには、狩猟にかこつけて、精兵数万を率いて越中・越後などの地に出没し、
景勝などともひそかに相互援助の盟約を結んだ。
群倭が家康に和解を勧めているが、家康は多分聞き入れないであろう。
思うに、この勢いでは、戦わなければすなわち和解するであろうし、和解しなければすなわち戦うしかない。
和解を、幸いにして、成立させないですませたならば、醜奴[倭]の方城はまさに一つの戦場になるであろうから、
わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない。

(看羊録)
※前田利家が死んだのは己亥


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古今稀なる値段であった

2016年02月09日 09:54

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/08(月) 21:40:08.39 ID:hgTyXSQ3
日野肩衝茶入(元来は日野家御珍蔵)は次々と伝来があり、加賀様のお館に入りました。
井川善六から金一万両でのお買い上げであり、古今稀なる値段であった。
(本阿弥行状記)

調べてみたら、湯川善六という人から前田利長へ伝来していますね。
そしてもう一回湯川善六の元へ戻ってもいます



281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 12:35:22.19 ID:vHAWVXux
何が良い話なんだろう

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 13:30:24.82 ID:my3cxd0i
前田が金一万両も出した
金払いのいい話?

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 13:43:51.89 ID:6lkYJXcB
長屋の浪人から屑屋が買い取った仏像を手に入れて磨いてたら中から小判でも出てきたんだろ

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 14:56:19.35 ID:IArT5ku2
今の価値に換算したときが怖いんですが

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 16:51:30.97 ID:pSVTyQTE
10億くらいかな

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 18:52:00.40 ID:pbn6bhoo
>>281
持ち逃げしたとか脅し取ったとかじゃなくて
ちゃんと金払って買ってんだぞ
充分いい話だろうが(戦国脳)

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 18:52:11.59 ID:OEiUCML7
国を貰うより茶器のほうが良かったとか言う人もおったわけだし

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 20:33:10.15 ID:yt1305kz
宗峰妙超墨跡 「梅溪」号

大坂夏の陣を終えた前田利常(1593~1658)が、
加賀への帰途に立ち寄った酬恩庵で目にとめ、何度かの交渉後、
前田家と寺が続く限り、毎年米百石(現在の約750万円)を寄進することを約束して、
寺から前田家へ譲られたと伝わる。

http://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_04/08108_001.html

拝郷次大夫の討ち死に

2015年10月09日 12:28

798 名前:人間七七四年[aaaa] 投稿日:2015/10/08(木) 21:22:35.29 ID:2LGsNHl9
前田筑前守利長の近臣に拝郷次大夫という者があった。拝郷の祖父は五左衛門宗直(家嘉)といって、柴田勝家の臣であり、賤ケ岳で討ち死にした。父は丹羽長秀に仕え、小松の城にいた。
次大夫は十六歳の時、加賀に行き、利長の寵臣となった。慶長五年八月、利長と長重が仇敵の仲になると、次大夫は「長重は旧主であり、父親も丹羽家にいる。父母の主君に弓を引くのは、武士の定めと言っても不義である」と思い利長に暇乞いに行った。
利長も感じ入り、この戦が終わったら必ず帰参するように申渡した上で暇を出し、次大夫は同僚に挨拶をし、小松に帰っていった。浅井縄手では次大夫が一番手として討って出て、松平久兵衛と槍を合わせたが、日頃入魂の間柄であったので、笑い通していた。[
続いて水越縫殿助と槍を合わせたがこれも同様であった。その後、岩田伝左衛門と槍を合わせたが、決着をつけようと組打の最中、伝左衛門に討ち取られてしまった。
利長は首実検で、次大夫の首を見、無慚に思い涙した。松平・水越らも次大夫を思い、立派な忠孝者であったと称した。

『元禎筆記』



799 名前:人間七七四年[no] 投稿日:2015/10/09(金) 17:14:18.64 ID:SbIuOL0o
次大夫「俺、この戦が終わったら前田家へ帰参するんだ」

信長公の時代の人々の雑談

2015年09月17日 08:55

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/16(水) 23:06:07.98 ID:a/0PR1Q8
高山南坊(右近)、長九郎左衛門(連龍)、山崎長門守(長徳)、内藤如安、彼らは信長公の時代の人である
彼らが集まり雑談した際、こんな事を言った

「信長公が天下(畿内近国)に入られると、国の関々を開けられ、往還を一つにし、人の移動を
ゆるゆると仰せ付けられた。これは日本の国々の次第をよく聞き届ける事ではじめて、六十六カ国を
治めることが出来る、との御分別からであった。

太閤様は御所様(家康)との和睦が済んだ時、太閤様の御分別には、家康公と和解した以上、
最早日本は治まったと思われ、高麗船・唐船などの着く、九州の長崎、博多津、坊津といった浦々で、
唐船に乗る商人などをしきりに呼び付け、高麗や唐への渡海の様子を聞かれていた。
このような事を始めたのは、御所様との和解とほぼ同時期で、当時早くも高麗にお心がけを
されていたのだと聞こえている。

御所様(徳川家康)が関ヶ原の役も治まり、大阪へ移動する時、羽柴肥前守殿(前田利長)が
申し上げた。その内容はこうであった

『秀頼様には遠国に領地を仰せ付け、大阪城はこの勢いで接収して然るべきです。』

これを聞いた御所様は思われた『いやいや、これは肥前守と仲の良い者達が内談し、私の胸の内を
知ろうとしてこのような事を言っているのだ。』
そして肥前守への返答は

『いやいや、今回のことは治部少輔の仕出かしたことであり、秀頼公はご幼少であるため責任はない。
ただ、このまま別状なくこちらに置き奉るつもりである。』

こう答えたゆえに、その時は特に混乱が起きなかったのだと言われている。

御所様のご分別のように、大名衆は、この二人の談合において、御所様の口ぶりを集中して見ており、
そして様々に推量した。肥前守の提案に乗らなかった事は、偏にご分別厚く、おおくくりに時節を
ご覧に成ることの上手であるかな。』

彼らはこのような雑談をしていたと聞いている。

(川角太閤記)



713 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/09/17(木) 09:33:15.89 ID:xWUpAs5D
山崎長門守って吉家じゃなく一族の長徳の方だろうね

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 17:19:48.42 ID:i3bbEaxY
高山右近と長連って個人的にすごく良いメンバーだ

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/18(金) 17:38:02.04 ID:kwnDb1cB
ながつらだって、ぷっダッサ(笑)

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/19(土) 01:39:22.90 ID:MMe+h1uc
お、おう

慶長伏見地震の前田利家

2015年08月30日 13:45

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 02:16:34.31 ID:xkkO1eh3
伏見での地震の時、大納言(前田利家)殿のお屋敷と肥前守(前田利長)殿のお屋敷は隣り合っていました。
地震の時は父子共に庭へお出になられ、互いにお言葉を掛け合いなされました。
何れも大丈夫と者どもは涙を流して申されました。

さて大納言殿は、小姓五六人に、
「上様は御城の周囲へお出になられましたか。大納言めを呼んでください。」
と仰せ付けられました。
小姓達はその意を得て、叫んでいると
太閤様がお答えなされました。

「ここにいるぞ。無事に出たから、心配しなくてよい。大納言も無事であるか。」

との上意であった。退出して、其の件を利家様へ申し上げました。


それから大納言殿は御一人で、何の構いもなく城中へお入りになさったとき、太閤様はご機嫌が好く、秀頼公を利家様へお渡して抱かせました。

とのことを帰って話されました。




以上のようには、震災でお取込のときに太閤様の身を案ずる判断は素晴らしいと、利家様を名大将と上下の者どもは申しました。

さてその後に、太閤様は伏見山に御城を拵えて、移りなされました。
(利家夜話)

慶長伏見地震の逸話です。秀頼を抱かせるとは、秀吉も利家をたいそう頼りにしていたのですね。




627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 06:12:17.33 ID:g2cHYBCN
「この両腕で秀頼君を抱かせてもらうたわ」
「その時、父上の両足は何をしていたのです?」

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 09:20:26.77 ID:jiqRsAPz
蹴る?両輪の如く駈ける?
正解は?

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 11:08:21.50 ID:48J3e4yl
かがんでたんだろ

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 11:27:17.53 ID:vE03DJbH
>>626
天正地震で利家は弟を亡くしたからな

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 13:06:58.11 ID:lrmaBUfO
あの時代にデカい地震あったら建物ボロボロになっただろうな

632 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/30(日) 15:29:02.92 ID:DZwRT9CX
内ヶ島の皆さんが何か言いたげです




前田利長の事

2015年05月14日 17:56

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/13(水) 19:26:24.15 ID:Xi86n1fY
関ヶ原の一乱の時、石田治部少輔(三成)より、吉光の脇差に書状を添えて、前田利長を頼むという旨を
申しきた時、利長はこれを報告するため、徳川家康に家臣の野村治兵衛という者を使いとして派遣した。

家康は治兵衛に尋ねた
「三成は何事を、利長に頼むと言ってきたのか?」
治兵衛答える
「それを知る人は居りません。三成の使者は書状すら奉らず、すべて口上のみで伝えたのです。」

家康は治兵衛を側近くに召して密談し、また、夜もこの者を御寝所の次の間で寝させ、終夜
鷹狩の話をした。治兵衛も素より、鷹狩を好む人物であった。

翌日、家康は治兵衛に、金三十枚の価値がある腰の物と、馬を一疋下し置き、帰国することを許した。
この野村治兵衛は利長の無二の寵臣であった。彼が江戸から帰国する時、越前では西軍による関所が
作られ通行が遮られていたが、治兵衛は様々に申し開きをして無事加賀へと帰った。
これより、前田利長は家康に味方したのだという。

ある秘説に、利長からの口上は『それがし一生の内、家康公が秀頼公に如才あるまじきにおいては、
この度御味方申す。』というもので、家康は『その事、相違あるまじ』と返事したため、事済んだともいう。

前田利長が死んだのは、5月20日であった。その事は駿府に注進あったが、ただし、前田家よりも先に、
その家老であった本多安房守(政重)から本多正信への連絡のほうが早かったという。
このことは何か仔細が在ると、当時の世の人々は語り合ったそうである。

この注進が届いた時、徳川家康は碁を囲んでいたが、前田利長の逝去という事を聞くと
「さてさて、惜しき事かな。気の毒なことだ。」
そう言ってそのまま奥へと入ったいう。
そしてその翌月、家康は片桐且元らを召して、大阪に2,3箇条の仰せを遣わした。
関東のお心は国替えであるとした片桐且元は、淀殿を人質として江戸に下ることが第一であると
考えたが、大阪ではこれを拒絶したため、ついに事破れとなった。

大阪では太閤旧恩の諸侯の内、前田利長、加藤清正といった人々の病死は誠に力を失ったという。
そのためこの時は、それ以外の大名の中にも、5人か3人は自分たちに味方する者が
居ないということは無いだろうと、諸侯に頼み込んだのだという。

(明良洪範)



北陸の関ヶ原の戦いの原因

2015年03月28日 17:32

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/28(土) 00:22:36.97 ID:cx1J4gVH
 慶長五年七月二日、家康公は武州江戸にご到着になり、御仕置等を仰せ置かれ、同二十一日、家康公秀忠公御父子は十二万余の軍勢を
率いて奥州へ向かいなされた。
景勝もかねてから支度していて、城々を堅固に守り、自らも二万余騎を率いて白川口へ出張る。
 利長も本国へ馳せ下り、近隣の勢に会津攻めの軍勢を出すよう促し、小松の丹羽長重にもその旨を達した。

長重が思はれるに、
『心得ぬことだな。去る頃、内府が利長に謀反の企てありとお疑いになったあの時、内府から頼まれてやむなくその周囲を探った。
利長との長い厚誼を振り捨てたのだ。これは忠義のためである。たとえ利長の陳謝がどのくらいであろうとも
内府はわしに知らせてから、和睦なされるべきであった。
 こたびの上杉景勝討伐、相手は天下の逆賊であるから誰が断るはずだろうか。
すぐにも、内府から直々に、長重も兵を出せとのご催促があって然るべきであるのに、利長からこれを達してくる事に納得がいかない。
利長はなにか計っているかもしれない。この頃の、わしの行った計略を遺恨に思い、会津長征の道すがら討ち果たすつもりかもしれぬ。
しばらく世間の様子をよく聞いて検討しよう。』
とて、
「早々に打ち立つべきでありますが、病にて歩行も思うままにできませぬ。
その上、長征の準備もいまだ半分しか整っておりませんので、それがしは後陣を担当したい。
まず、あなか方の国の者をお先に行ってください。」
と返答した。

利長はお聞きになされて、
「長重のこの頃の態度は分からない。わざわざ後陣を望むのはおかしい。ともかく、彼の安否をよく調べた上で打ち立とう。」
と不破斎宮之助という者を使者とした。
「奥州退治のこと、諸方の寄口を知らせる必要があります。催促したのは私ではなく貴命であります。
どのようなお考えから、こんなふうに出兵を延引なされるのか。このままでは人から不審も招きましょう。急ぎ出陣されよ。」
催促は立て続けに四度に及んだが、なおぐずぐずしている。
 そこへ、大坂の三奉行から、『秀頼公の命によって謀反を起こす』との廻文が届き、ほぼ時を同じくして内府から、
北国のことでは、特に長重を勇猛の武将として頼もしく思っている旨の檄文が届いた。
『かように期待されるのは本望であるが、利長の謀略も計り難い。いかがしたものか。』
と思案していた。

 斎宮之助は金沢城へ馳せ戻って、『小松側の態度は心得がたい』と報告した。利長は、
『大坂での三成らの謀反の動きは既に伝え聞いている。その上、謀反に加担せよとの回文も到来した。
さては長重、かねてより三成に与していればこそ、会津への出兵を遅らせたものと思われる。
この上は早々に小松を踏み散らして手元を安全にして、然る後に、上方へ打ち抜けるか、奥州へ向かうか、時宜に応じて行動するとしよう。』
と決めて、七月二十六日申の下刻、四万余騎の軍勢を率いてにわかに小松表へ押し出した。
「松任より向こうは小松領であるので、焼き払って通れ」
と道筋の在家を放火し、手取川を渡り、水島寺井まで押し寄せた。すでに時が過ぎて暁になっていた。
 
 小松側では、思いも寄らぬ事なので、上を下へと騒乱ひとしおの中、長重は、
『かねては内府を敵にまわす覚悟ではなかったといえども、今、大軍に押しかけられ、利長に陳謝するわけにもいかず、
もはやいかんともしがたい。籠城しよう。』
と決めた。
(小松軍記)

北陸の関ヶ原の戦いの原因である




これぞ聞こえる蒲生家の士大将

2014年12月22日 18:39

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/22(月) 02:17:48.59 ID:lmsYp9gE
秀吉が島津を征伐なされた時、蒲生氏郷前田利長は岩石の城を攻めなさった。

氏郷の先陣・蒲生源左衛門(郷成)は、この頃は坂小坂といった。坂はまっ先に進み、仮名で
“いちばん”と墨黒に書いてある白い吹貫を門のまん中に押し立て、喚き叫んで戦った。

雨が降るように鉄砲が撃ち出され、吹貫は秋風によって破れた芭蕉のようになった。
坂は大声を上げて、「一足も引くな者ども!」と命じ、わき目も振らず攻め入った。

その様子は後陣から、「これぞ聞こえる蒲生家の士大将、小坂と言われている大剛の者よ」
と、口々に誉められていた。

寺島美濃守は、この頃は半左衛門といった。半左衛門は黒い吹貫を押し立てて坂に続いた。
軍勢は利長の士・松原久兵衛を始めとして先を争って攻め入り、最後には城を攻め落として、
4百余の首を討ち取った。

秀吉は氏郷に感状をお与えになり、坂に金銭10匹と羽織を賜った。

【原注:一説には、坂を一番と記している。秀吉が坂を賞して刀をお与えになると、坂は申して、

「一番の賞でございますならば、それは、栗田(半左衛門のことか)一人でございます。
栗田は黒い吹貫でございました。坂の吹貫は白くて目立ったのでございましょう」

と譲ったため、秀吉はますます大いに感心し、刀を栗田にお与えになったとも言われている。】

――『常山紀談』





山田勘六郎の事

2014年07月31日 18:53

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/30(水) 23:28:53.46 ID:VXn6jKwP
前田利長の兵山田勘六郎は、十四歳で父の仇を討った人である。

ある日、利長は土蔵の戸を開くために、鍵を預けていた山田を「急いで来い」と
呼んだのだが、山田が遅かったために利長は怒り、持っていた杖で山田を突くと、
思わず山田の額に当たって血が流れた。

山田は跪いて平伏すると、脇差の刀身が自然に鞘から抜け出た。それを見た利長は、
「手向いもするのか!」と言って、畳み掛けて打とうとしたものの、傍らの人が
山田を引き退けた。この時から山田は病気と称して引き籠っていた。

関ヶ原の乱が起こり、利長が大聖寺の城を攻める時、利長は一段高い所に打ち上り、
武者押しを見物した。この時、山田は五、六十人ほどを引き連れ、今日を最後と
出て行って押し通り、城に着くと先駆けして一番に乗り込んだ。そして槍で乳の下を
突き通され、痛手であるために姫垣の下に落ちた。

山田は前もって従者に言い含めたので、息の絶えない内に利長の前に担がれて来た。
利長はこれを見て甚だしく後悔し、その過ちを丁寧に明らかにして、涙を流した。

山田はやがて死んだ。行年二十歳、世にすぐれた美男だったが、大剛の働きをして
討死した。その前日に、山田は親しい朋友に奇南香を分かち贈った。その頃、
その奇南香のことを、『大聖寺きやら』といって、もてはやしたと言われている。

――『常山紀談』




844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/31(木) 06:47:56.65 ID:MtEobYiW
山田、遅刻したばっかりに変な逸話が

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/31(木) 10:35:47.10 ID:7FhShnAf
刀って傾けたくらいで簡単に鞘から抜けるもんなのかな
それともうっかり触ってしまったのかな

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/31(木) 10:39:55.06 ID:rjrCgL6Q
鯉口が緩んでるとそうなる

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/31(木) 10:45:54.19 ID:WRXagawh
仇って誰なん?

前田利家、家臣のことについて

2013年10月06日 19:52

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/06(日) 00:28:18.41 ID:zlcutf7n
前田利家の、前田利長宛遺言より、家臣のことについての部分

「長九郎左衛門と高山南坊は、他を見ないで、私に一筋に使えてくれた律義者であるので、
私の死後も少しずつ茶代を遣わすなどして、情けをかけてほしい。

片山伊賀は、大きなことをしたいと考えている人間であるので、もしもの時は謀反を起こすかもしれない。
彼の言葉にも良く気を使って、油断しないように。

徳山五兵衛は色々と他家と繋がって、大名たちとも知り合いになっているようだ。
私が生きている間はおとなしくしていたが、ずっと機会を伺っていたようなので、
私が死ねばきっと謀反を起こすだろう。
きちんと仕置をするように。

山崎長門は良い人物だ。越中での合戦の時も良く働いた。
ただ少々意地が悪く、偏屈な武辺者なので、30人か40人の頭あたりが適当な処遇だ。
それ以上の軍勢の大将にしてはならない。」

前田利家が、自分の家臣をどう見ていたか、という記録である。
前田家も内部で色々在った感じですね






首一つ取るということは

2013年09月25日 20:09

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 05:51:27.42 ID:8YG71P0p
浅井畷の戦いのとき
 「小松勢が城を守るために、戦場から引き揚げてから、みんなで敵の首級を、
誰が、どこで、どれだけ取ったか語り合っている。」

 「首一つ取るということは、途方もなく疲れるものじゃ。団七兵衛という若者が、
長連竜の家来の小林なるものの首を取ったが、あまり疲れたので、本折町の八幡さま
の前で、その首を傍らにおいて休んでいたところ、松村孫三郎という者が馬に乗り、
若党七、八人を連れて通りかかった。ところが若党の一人が、『あの首は松村殿が、
先ほど突き倒されたものの首でござるぞ』と叫んだ。『それならその首をこちらへ貰え』
と言って奪い取ってしまい、小松勢身方同士で大喧嘩となってしまった。しかし大勢集まって来てとりなし、
ようやく首を七兵衛に戻したと、坂井土佐というさむらいが語っている。」

 「また同じ長連竜の家来に、とても力自慢の八田三助というのがいて、今弁慶と言われていた。
それが小松方の西脇左門と組み打ちして下敷きにし、首を掻き切ろうとしたとき、左門が、
『武士の作法だ、名を名乗らせてから打ち取れ』と叫んだ。
そこで三助が『さらば名乗れ』と言って一瞬気を緩めたとき、左門が三助を刎ね飛ばして、
逆にその首を打ち取ったという。」
――『桑華字苑』

百万石物語という本に書いてあった話





386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 17:45:42.84 ID:HKsrG8Z4
まあ必要に応じて相手を謀るのもまた武士の作法だからね、命のやり取りの場でうっかり騙されちゃったなら首が飛んでも仕方ないね

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 20:14:40.79 ID:c3aDqtW6
うむ。俺が教えた通りの首の取り方してるな。

前田利長、未来への遺産

2013年07月05日 20:01

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/05(金) 02:45:02.26 ID:pyXRG0Tz
利長、未来への遺産


「瑞龍公世家」や「加賀藩史料」などによると加賀の太守・前田利長は、
弟の利常に跡を譲ってから自身は越中の開発をめざした。

関野と呼ばれた沼地を高山右近に拓かせ、詩経から引用して高岡と命名。
「前田家長久のために、何とかして財政の基盤となるものを…」
この頃病魔に侵されて臥せりがちだった利長は死を意識しつつ、高岡の整備を進める。
そして領内の優秀な鋳物師たちを集め、五千坪近い土地と諸役免除といった特権を与えて優遇した。
それは高岡を工業都市として発展させようとする利長の決意の表れでもあった。

利長の死後、一時高岡は衰退したものの利常たちの庇護で盛り返し、金物加工をメインに越中経済の中心になった。
そして今でも富山県は銅工業やアルミ加工などにおいて日本一のシェアを誇る工業県の地位を守り続けている。




613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/05(金) 03:30:50.27 ID:STkZBiM/
神通川…いや、なんでもないです。

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/05(金) 03:48:56.63 ID:2oT87jeU
赤座さんが溺れたのは庄川だっけ

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/05(金) 05:47:23.85 ID:pyXRG0Tz
>>613
アレは飛騨からの汚染だから越中は被害者なのよ

細川忠興、家康・利家の講和を成立させる

2013年05月20日 19:51

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 19:29:47.82 ID:TsEqvZW6
豊臣秀吉の死後、石田治部少輔(三成)は大納言・前田利家に、
「家康は早くも専横を行い、評議の場にも出て来ません。このままにしておいては、今後秀頼様の
御為に成りません。今のうちに討ち果たすべきです!」
と、様々に語り、利家もこれを尤もだと考え、大阪から家康の居る伏見に攻め上がろうと考えた。

三成の考えは、
「家康の伏見の屋敷は、低い土地にあります。向かいの高台に宇喜多屋敷がありますので、ここから
火を放って焼きたてれば、下々騒ぎ出し表に出てくるでしょう。ここで我らは宇喜多屋敷から
出撃し討ち取り、裏から出るようならこちらも味方の者達によって討ち取らせます。
こうして家康の屋敷跡は、我らの下屋敷といたしましょう。
只今、佐和山より4千人の人の人数を召し寄せています。この作戦、難しいことでは有りません。」

さて、この事を聞いた、利家の嫡男・肥前守利長はこれを細川忠興に話した。
「治部少輔はこのように言っているが、あなたはどうお考えなさるか?」
忠興は答えた
「治部少の企てに乗ってはいけません。」

「それはどういうことか!?どうしてそのようにお考えに成るのか!?」
利長は顔色を変えて聞き寄った。これに忠興

「あなたは私の縁者でもあり、一大事でもあるので、私の考えをはっきりとお伝えしないと、
後で後悔するでしょうからここで言いますが、今回、内府との関係が決裂するのも保たれるのも、
偏に、あなた方父子のお考え次第です。
仮に決裂ということになれば、私がそれから逃げたいと思っても、人が逃げさせてくれないでしょうし、
あなたが逃げたいと思っていても、やはり周りが逃げさせてくれません。私たちは同じ立場に有るとお心得下さい。

私が理解している所では、石田治部少の奴がこの日本において恐れているのは、内府公(家康)と
大納言殿(利家)の両名です。そのうち大納言殿は、かねてから重い病であり、大納言殿が死去成された後は
治部少は自分こそが主人になろうと、色々と策動しているのです。

今の時点ではまだ、それは難しいことです。しかし大納言殿が亡くなった後は、貴殿は今の十分の一も
人を抱えられなく成るでしょう。

よくよくお考え下さい。あなたは内府公を主人としますか?それとも治部少を主人としますか!?
私は治部少を自分の主人にするような事は、絶対にできない!(私ハ治部少主に用申儀、不罷成候)

これを聞いた利長は、一々至極尤もな事だと思い、忠興に同意した。
「では大納言殿に異見し、説得なされるべきです」と忠興が進めると、利長は
「いやそれが、あなたも御存知のように私は口下手でして、なかなか父上を説得できるとは
思えません。あなたもどうか一緒に来てくれないだろうか?」

そして利家の居室に二人で向かい、忠興は次の間に待たせ、先ず利長一人が部屋に入り、利家に
異見を述べた。

利家は病のため床に伏せていたのだが、利長の話を聞くとムクリと起き上がり、畳をバンバンと
叩きながら利長に対し激しい罵声を浴びせた。

利長は慌てて「わ、わたしは口下手ですので、父上が納得できるように話すことができません!
ここに越中守殿(忠興)を同道してまいりましたので、彼から聞いて下さい。
越中守殿、お入りを!」

こうして忠興は利家の前に出て、それまでの見解を説明し、また家康を滅ぼすのが困難なことを
語ると、利家の方も、家康が自分たちとの協調体制に戻るなら、戦うことはない、との認識を示した。
そこで直ぐ様家康に連絡を取り、家康と利家の間に和平を取り付けたのである。
細川忠興軍功記)

細川忠興、家康・利家の講和を成立させる、というお話。しかし本当に三成のことが嫌いだったんだな…




647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/19(日) 22:58:48.53 ID:RVFqjO8Z
むしろこの話で利家死後の三成襲撃の理由がわかりやすくなった。
ドラマでよくある「とにかくムカつくから殺す」みたいな曖昧な理由じゃなくて
「こんな物騒な計画立ててた奴は今のうちに排除しとかないとヤバい」
って危険を感じたから先手を打ったと考えた方がしっくりくる。

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/20(月) 00:16:56.71 ID:8yt9yU0v
利長の悪い話でもあるよね

細川忠興、前田利家を説得する

2013年04月29日 19:51

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 12:57:07.98 ID:RWWE4Uuz
豊臣秀吉の死後、対立していた徳川家康前田利家が急遽和睦したのは、以下の様な切っ掛けが有った。

両者の対立中、利家の傍にあった細川忠興は、彼の跡継ぎである肥前守利長についてこの様に語った

「仮に奉行の者共が内談して、家康公を滅ぼすような事になれば、大納言殿(利家)は老病であります。
遠からず卒去なされるでしょう。そうなった後は奉行たちが肥前守殿を追い倒すのに、手間はいりません。」

そのように将来を見通し、

「そういう状況であると私は判断しますが、ここで家康公と筑前守殿が入魂な関係になれば、これは将来的に肥前守殿の
おためにとっても良い結果となるのではありませんか?」

このように異見したところ、前田利家もこれに納得し、さらに加藤主計頭清正、浅野左京大夫幸長を加えて
相談した上、家康との和平を行うとの決断に至った。

この事は後になって知られたことである。
(玉露叢)

細川忠興前田利家を説得する、というお話




152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/29(月) 13:04:43.06 ID:GIZpt2zd
対立はしてても家康なら奉行と違って勝者になった後も追い倒したりしないと信頼してたってことか

本阿弥光悦、茶入を売らず

2013年01月12日 19:55

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/11(金) 21:54:03.52 ID:GDFOw445
 ある時、本阿弥光悦は家を売ったり借金したりして集めた黄金30枚で見事な瀬戸の茶入れを購入した。
その後、光悦は伏見にある前田利長の屋敷を訪れて その茶入れを使って茶を点てた。その時、その茶入れを
気にいってしまった前田利長は白銀300枚で買い取ろうと申し出たが、「お見せするために持ってきたので
あって売り買いのために持ってきたのではありません」と言って光悦は断った。
 そして、家に帰った光悦がこの一件を母の妙秀に伝えると、妙秀は「よくぞ断った。もし その白銀を
受け取ったら、せっかくの茶入れがすたるところであった。そのような根性では そなたは生涯 茶の湯を
楽しむことが出来なかったであろう。よくぞお請けしないできた」と、大いに喜んだ。




58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 00:17:01.31 ID:iuOXBhpq
この母にしてこの子か。
つーか前にも逸話に出てたなと思って今まとめ確認したら
本阿弥光悦の逸話の半分にこのオカアチャン絡んでたんですけどw
信長に飛び付いたり何モンなんだ一体。

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 08:51:10.05 ID:SPeBPkq9
この時代そういうやせ我慢を強いるのが流行ってるよね
現代の人で経済的に余裕のない人ならほぼ売り飛ばすだろうに

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 09:49:06.00 ID:YidHcLSJ
清貧を美徳化した話をバラ蒔いてビンボー武士たちの不満を抑えてたのかねー。嫌だなー

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 10:20:09.37 ID:46mg6Uc6
この茶入については評判を守ることに比べれば300両では足りないということじゃないの?

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 10:50:54.06 ID:iuOXBhpq
>>60
う~ん、金には執着してないけど物には恐ろしく執着してるから清貧ではないような。
むしろ物欲の権化・・・。ベクトルの向きはアレだけど。
この時代の茶人て変人ばっか?

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 10:55:21.04 ID:tLUwGzYh
師匠がゲヒ殿だし

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 11:08:03.90 ID:QJOkA49u
これはつまり、30金で買った茶入を300金で転売するような、そんなマネは本阿弥光悦はしない、って話だろ。

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 11:13:37.50 ID:zDD4XVOq
単位が違うから等価なのか大儲けなのかもピンと来ない

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 11:48:07.38 ID:5+3cLWx7
金1枚は10両。銀1枚は銀43匁に相当。
当時の換算レートが金1両=銀50~60匁くらいだから

金30枚より銀300枚の方が価値が低いかも。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 12:04:32.08 ID:ReJl9+xj
それって、利長が安く買いたたこうとしたってこと?
さすがは前田の家系…って悪い話になっちゃったぞw

68 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/01/12(土) 13:37:40.37 ID:arzCLqGB
そうなるねw

そのころには既に
金銀の品位鑑定は試金石でかなり精度よくできるように
なっていてふつうは純度だけで計算するのだけど、
すごく品位の高い銀塊はそれ自体の貴重さもあって
すこしプレミアが付いたらしいけどね。
白銀というのがそれなのかな?

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 14:29:50.21 ID:+/d7mami
>>64
そうそう、気に入ったから買ったのであって
金儲けのために買ったわけじゃあないってプライドの話だよね

丹羽長重の戦略

2012年10月07日 19:17

771 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 12:09:46.04 ID:SGttm6PW

世に言う浅井畷の戦いの折、江口正吉は引き退く前田軍に喰らい付き、
鳥銃を打ち掛けた。主君の丹羽長重は銃声を聞いて「遅れるな者共!」と、
馬に鐙を合わせて馳せ着け、終には寡兵をもって前田利長の大兵を追撃した。
この時、正吉は「この殿の早業は今に始まったことではないぞ!」と喜んだ。

この戦いは立花宗茂が寡兵で鍋島勝茂の大兵を打ち破ったのと並び称された。
この後、長重は封地を失うことになったが、後に白川十万石に封じられたのは、
この戦いの勇功を賞されてのことといわれた。当時、諸将は長重と会うたびに
その戦略を質問していたということである。

――『名将言行録』





772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 12:29:16.09 ID:QgFtWxCg
知りたいのは戦場の駆け引きじゃなくて老中たちの接待についてだろうけどな

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 14:49:06.91 ID:DxV9hUs0
老中よりむしろ秀忠さんとのお付き合いの仕方だと思うの

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/07(日) 15:19:45.74 ID:nlO52Lj8
長重さんって賤ヶ岳当たりで初陣で戦役の度に減封なのによく腐らずに育ったよな

太田但馬守長知謀殺の内容

2012年10月05日 20:37

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 06:29:34.92 ID:7dNJWe3w
太田但馬守長知の謀殺
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3125.html

これの謀殺の内容が出ていたので書いてみる

上にあるように、家臣である太田但馬守長知に愛妾を寝とられた前田利長はこれを甚だしく怒り、
横山大膳長知、山崎長門長徳の二人に、太田但馬の誅殺を命じた。
しかし太田但馬といえば、前田家を代表する武勇の者として有名であった。

横山大膳は命を受けて、勝尾半左衛門と共に登城した。
この時太田但馬は既に登城しており、何事も無く座していた。横山大膳、席にすこうとするその時、
突然側に居た侍童を激しく叱りつけた!

この騒ぎに驚いた太田但馬は急いでその場にやってきて、「何事か?」と尋ねる。横山大膳

「私が先に、この者に命じて書類の文案を作らせたのですが、このように間違いだらけなのです!
これを見てください!」

そう言って懐中よりその書類を出して太田但馬に渡す。但馬は体を屈め手を伸ばしてこれを受け取ろうとする。
その時

横山大膳、すかさず刀を抜いて大膳の頭を斬りつける。しかし浅手。「何事ぞ!?」太田但馬叫び
刀を抜いて横山大膳を刺す!違わず腹の真ん中を貫いた。が、『ガキッ』刀弾かれる。
横山大膳は太田但馬が剣術の達人であることを知っていたため、懐中に金属の鏡を忍ばせていたのだ。

そして横山大膳は身を躍らせ再び斬りかかり、ついに但馬を殺した。

勝尾半左衛門も走りよって後ろから但馬の背中を斬りつけたのだが、却って但馬によって傷を負わされた。
この時前田利長も但馬の剛勇を気遣い、薙刀を取って彼に挑んだという。
山崎長門は期を失って、ついに斬りかかることが出来なかった。
時に慶長七年のことであったという。

太田但馬守長知謀殺、についての話である
(武士道美譚)




大谷吉継計策

2012年07月28日 20:58

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/28(土) 07:53:52.33 ID:1QLSuGI0
関ヶ原戦役の時のこと

中川宗伴(光重)は故前田利家の娘婿であり、当時上方にあったため、上方よりの情報を金沢の前田家に送った

『今度上方一面に蜂起して、内府(家康)の味方する輩を討ち果たすべき為に国々へ手遣いあり。
殊更丹波・丹後・若狭の軍勢数千人御領内宮腰へ兵船を進め、大谷刑部少輔(吉継)、諸将を帥いて、此の口より
加州へ発向の用意夥し。御用心あるべし。』

そのうちに金沢の安否をおぼつかなく思い、直接加賀まで向かったが、越前の今庄まできたところで大谷吉継によって
捕まってしまった。

吉継は宗伴に
「其の方、何の用があって加賀に下るのか?」
と尋ねると宗伴は、『あなた方に気をつけるよう警告するためだ』とは言えず

「は、はい。今回(前田)利長が、内府の味方をするという風聞があります。私ごときが言うのもどうかとは思いますが、
御幼君(秀頼)を見放される様でいかがなものかと思い、さればその考えを覆し、上方(西軍)の要求に従うべきだと、
強く諫言するために加賀に下ろうとしたのです!」

吉継、これを聞いて頷き
「いかにも御辺の言うとおり、利長卿がもし父の遺言に背いて御幼君の秀頼公を見捨てられるのなら、彼の行末、
どう考えても目出度い事にはならないだろう。願わくば先非を改められ、宇喜多秀家・毛利輝元と同じように、天下の
御為を成して頂きたいものだ。

もし御老母(まつ)を江戸においているため、一筋に御忠節を行うことが難しいというのなら、せめて金沢から
動かず天下が治まるのを待っていても、前田の御家は恙無いだろう。
それなのに利長卿は軍勢を率いて小松・大聖寺の城を攻め落とし、そこから当国に乱入するという声も聞こえてくる。
もし風聞のとおりなら、偏に前田家の滅亡を招くものとなるだろう。
例えその方があちらに行って、言葉を尽くして諫言しても、おそらくその甲斐はないだろう。
…そこで、だ」

吉継、声色を変えて
「其の方、ここで私のいう通りにはかりごとの書を書き、利長卿の陣所に送れば、彼が軍勢を金沢に
軍勢を引き返す事、疑いない。
その上で加賀に人を遣わし、其の方の誤り無き趣、又は御亡父の志を継ぎ御幼君を守り立つべしと
理を尽くして申し送れば、どうして承諾しないことがあるだろうか?これほど解りやすい理屈を、お主、
もしこの書を書くのを辞退するというのなら、最前に言ったことは我々を欺くためのものだと判断する!
そうでないのならさあ、今ここで筆を取れ!!」

そう言って硯と料紙を出した。そんな状況で宗伴も断ることが出来ず、吉継の言うままに書をしたため、
それを利長に送った。

前田利長はその書を見て驚いた。間違いなく宗伴の筆跡であり、また彼は利長を謀るような人間ではない。
それがどうしてこの様な内容の書状を送ってくるのか?
利長は判断がつかず、弟の能登守、その他老臣達を集めて評議をさせた。
そして、吉田保馬一人は反対したが、その他は全員、金沢に御帰陣あるべしと諌めたため、
利長もそれを受け入れその日、軍勢を大聖寺へと後退させた。

大谷吉継計策、という逸話である
(関原軍記大成)




760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/28(土) 08:27:51.12 ID:0eHGz4i8
さすが吉継、利長じゃこの程度だろうな

豊臣秀吉、前田親子の不仲を

2011年06月30日 23:30

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/30(木) 11:26:53.45 ID:6ccb+V0w
文禄三年、秀吉により宇治川の普請を命じられた前田利家は張り切り、自分ももっこをかついで土嚢を運んだ。
片棒をかつぐ家臣が慣れない作業で転んだり、妻のまつに
「大納言の身で、もっこをかつぐのですか?」とからかわれたりしたが、利家は笑いながら働いた。

一人、前田利長は父たちの笑い声に背を向けていた。(其時肥前殿、後むきに御座候)
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5171.html
の騒ぎを起こした父が、何事もなかったかのように笑って働いているのが許せなかったのだ。

前田親子の不仲の噂は、ついに太閤秀吉の耳にも届き、秀吉は二人を呼び寄せた。
「この騒動、喧嘩両成敗とする。まず大納言、名物の雁の絵を持っておったな。没収する。」
「・・・はっ。」
利家は、しぶしぶ秘蔵の雁の絵を差し出した。

「次に肥前守。この雁の絵を授ける。以って戒めとするように。」
(はて、こんな物をもらえば、かえって褒美になるのでは?・・・・・・!!)


雁の親は芦の葉をくわえて渡り、休息の際には葉を子に口渡しする。子はその葉を水辺に浮かべて
足がかりとして休む、という伝説がある。
また、この時代広く読まれた『曽我物語』には、曽我十郎が雁の渡りを見て、
「雁さえも家族で生きているのに、我らには父がいない。」と父親無き身を嘆き、父の仇・工藤祐経への
復讐の誓いを新たにする、という下りが存在する。


「も、申し訳ございません殿下!」
「分かればよろしい。」
三年前にわが子を亡くし、二年前に孝行を尽くした母を亡くした天下人は、それ以上は前田親子を
責めようとはせず、仲直りした親子と世間話などした後、帰っていった。(利家夜話より)




413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/30(木) 16:58:45.51 ID:74zMf897
この頃の殿下はまだまともだった頃の話だな

前田利家、息子利長への不満

2011年04月17日 00:09

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 09:51:24.16 ID:W2diQyFL
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1400.htmlのちょっと詳しい内容

文禄5年(1596)7月13月、伏見大地震が起る。
この混乱がやや落ち着くと、前田利長は父利家を自身の地震小屋(仮設の邸宅)に迎え
振る舞いをした。

…と、利家、その振る舞いから戻ってくると激しく機嫌が悪い。
利長の地震小屋の作事が殊の外見事だったのが全く気に入らなかったのだ。
利家は家臣たちにわめき散らし、さらに岡田長右衛門、斉藤刑部を利長に使いとして出した。
その内容はこうである

『地震小屋などというものは、いかにも軽々として、住むのに問題がなければそれでいいのだ!
そんな物に銀箔など、まるで必要のないものである!

金銀をそういいった意味のない事に浪費していれば、むやみに無理なことを言うようになり、
人のものさえ欲しがるようになる。

だいたい侍というものは、山が崩れようが海が埋まろうが驚かないものである。
ましてや孫四郎(利長)は一国の主である!であればどんな事であっても漏らさず
心にかけておくべきなのに、武具や馬などといった事には余り聞こえてくる話もなく、
毎日鷹狩、もしくは三味線ばかりで遊び呆けておる。沙汰の限りである!

いいか、日本で孫四郎は一国の主なのだから、選ばれた66人のうちの一人であるのだぞ!
そうであるのに全ての行いが沙汰の限りだ!』

と、その後にもこのような叱責が延々続いたそうである。

前田利家が息子利長への不満をついにぶちまけた、というおはなし。




693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 10:29:50.78 ID:JavazDM2
バカな息子を持つ親の嘆き、おおいに共感するところあり。

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 11:03:35.62 ID:K2oPa+8Z
利家はドケチで始終金金言ってるのに、何となく爽やかというかカラッとしたイメージ

695 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 11:07:44.80 ID:m82IQcHd
まつ「あなた様も武具や馬などといった事には余り聞こえてくる話もなく銭を溜め込み、沙汰の限りです!」

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 11:35:23.13 ID:qeU4idAi
どっかのすっから缶総理やらルーピーにも聞かせてやりたいぜ

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 12:41:47.40 ID:rqKyf6uD
>>692
まあ弟も死んでるしね

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 16:25:50.07 ID:Bn0JPJwe
>>692
選ばれた66人のうちの一人ってのが意味わからん。六十余州の主の一人って意味かな?それだと文面おかしくなるか。
後65人は誰よってツッコミたい。

699 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 16:28:18.36 ID:n1/0oyMG
>>698
(数多の人間の中から国主として)選ばれた66人のうちの一人
文面的にもおかしくないと思うが

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 17:50:40.07 ID:h71lnLn3
日本のベスト64に選出
後6回戦勝てば天下人だ

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 19:14:47.99 ID:dfo/Vp/w
66人もいれば、今日ではダメ殿とか言われてる人も含まれるんだろうなぁ

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 20:00:22.83 ID:ZsEg1pkr
徳川や毛利みたく一人で複数の国を持ってるのもいるのは、どうすれば

703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 20:22:18.02 ID:kCaHpqny
八百万の神みたいなものだ
象徴的表現

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 22:12:48.81 ID:Bw2jC31F
正式な○○守なら66人なんじゃないか。

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 22:35:31.36 ID:oAAYGlqM
慣例として○○守を置かない国もあった気がする。

706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 22:36:43.90 ID:Ejk+rjHk
親王任国というのがあってだな・・・

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 22:47:09.68 ID:gahcSTK3
上総守を名乗って大笑いされた田舎者が尾張におってな…

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 22:48:02.02 ID:nDifYmxj
琉球守を名乗った大名がいてだな・・・

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/16(土) 23:00:36.79 ID:h71lnLn3
宇宙大将軍…

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 01:10:18.49 ID:DrzFzizQ
>>708
その人、秀吉からもらった「琉求守」の扇を奪われ、さらに台州守を名乗ったあと普通に武蔵守になったんだぜ……。

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 01:15:21.81 ID:F2tjR59w
幕府成立以降に武蔵守名乗ってよかったんだっけ

712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 01:37:30.10 ID:cOLETlDf
幕府に喧嘩売りたいならok、治部少輔もおすすめ

ただ任官は朝廷から直接されるのではなく幕府を通してされるので
自称しか出来ないけど

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 01:49:27.08 ID:jPXs1/xz
たまたま今よんでた井沢元彦「忠臣蔵元禄十五年の反逆」だと
古事類苑官位部の三 類例略要集 関東諸大名方今被憚分
武蔵:松平武蔵守利隆以後相止 だそうです
みんな自重したんだねえ

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 03:05:18.14 ID:0Q/3XfOC
武蔵介はいるんかね?

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 11:34:59.00 ID:4TahnbNO
三河守も結城秀康親子くらいしか名乗らなかったと思っていたが、
ヤフー知恵袋にいろいろ詳しく書いてあった。

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 12:22:46.41 ID:v3PUarFD
仕方ないことだけど、戦国ではやんちゃしてた連中が統一が進むにつれ自重しまくるんだよな
暴走族がだんだんサラリーマン化してくるというか



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