秀次事件と細川忠興

2015年01月26日 18:44

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 18:01:25.88 ID:WdkrArKW
文禄四年七月中旬に、摂政関白秀次公御身体、果て申す次第

前野但馬守長康殿、同出雲守殿(景定)、木村常陸、白井備後、石河伊豆、羽根長門守と言った人々に、
秀次公は『何事にても、申し付けた事に異議を立てない』との内容を書き物にして提出させていた。

この事を石田治部少輔(三成)が聞きつけ、太閤様(秀吉)に申し上げたため、太閤様は秀次公に、
遣いを以ってこの件を糾明させた。

これに秀次公は大いに驚き、聚楽より伏見に御出でになり色々と弁明したものの、太閤様は納得
しなかったので、伏見から高野山へと上られた。
そして福島左衛門大夫正則殿が検使に遣わされ、秀次公は切腹なされられた。
かの書き物を提出した人々も、残らず切腹が仰せ付けられた。中でも前野但馬守殿父子は、中村式部少輔(一氏)
預りとなり、駿河府中にて、但馬守殿、その子息出雲守殿、切腹と成られた。

細川忠興様は右の書き物の件には関係していなかったが、秀次公より別して懇ろにして頂いており、
どういうわけか黄金百枚を拝領していた。その上前野但馬守殿の子息出雲守殿は、忠興様の聟であり
縁者であったため、石田治部少より「彼も一味している」と申し立てられたため、太閤様も是非無く思われた。

聚楽の細川屋敷に忠興様より米田助右衛門殿が遣わされ、伏見より急報が有れば、息子たちを殺した上で
屋敷に火をかけ、助右衛門も切腹するという事に決まったと、忠興様の御意が伝えられた。

黄金百枚の事は施薬院法印(全宗)の肝入で、秀次公より借用したものであり、拝領したものではないとの
弁明を、米田助右衛門が徳善院(前田玄以)を通じて太閤様へ申し上げると、その時太閤様が仰せになったのは

「先年の明智謀反の時、信長公の御恩を知り、明智に一味しなかった。たとえ今回秀次に一味したとしても、
その時の忠節により赦免いたす。」

この言葉が徳善院より仰せ渡せられ、忠興様もご安堵なされた。

細川忠興軍功記)

秀次事件の折の、細川忠興の様子である。




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