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韮山城、十八町口の戦い

2019年11月04日 17:08

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/04(月) 14:38:25.43 ID:fzeD9f8w
小田原役、豊臣方による韮山城攻め。

寄せ手の明石左近将監(則実)と前野但馬守長康は十八町口へ押し寄せていたが、突然城中より
丹波、富野、根府川、小野、広瀬ら三百余人が門をさっと開くと、どっと大波が押し寄せるように
打って出た。このため明石、前野の勢はたちまち谷底へと落とされ、思わぬ死傷者を出した。

これを見て、同じく寄せ手の福島左衛門太夫正則は、鐘や太鼓を鳴らし鬨の声を上げて横合いより
攻め込ませた。その中から福島丹波守治重、同式部丞、長尾隼人正一勝、村上彦左衛門、
大崎玄蕃允、可児才蔵、林亀之助、以下百人ばかりが抜け出し、城方へ逆襲した。

これに城主の北条美濃守氏規も七百人ばかりで打って出た。氏規はその軍勢を二つに分け、
左右より敵を押し包もうとした。福島正則もこれを見ると六、七百余騎を率いて自ら打って出て、
たちまち乱戦と成った。敵味方入り混じり、火の出るような戦いがしばらく続いたが、ややもすると
上方勢がまくしたてられ危うく見えた。しかしここで寄せ手の控えの勢が一斉に打って出れば、
敵を圧倒し城も落とせるように思われたが、この韮山城攻めの総大将である織田内府信雄の
下知はなく、控えの部隊はただじっとその戦いを見ているだけであった。
そこからやや有って、織田内府の陣よりついに合図の法螺貝が鳴り、寄せ手の総攻撃となった。

しかし北条美濃守は、これを聞くと即座に兵を退いた。その進退の時期を得た絶妙さは敵も味方も
驚くほどであった。それに対し、追い打ちをかけに福島正則の一隊が突き入ってきた。この時
城兵は未だ城内に入る橋を渡り終えていなかったため、美濃守は立ち止まって長刀を振るい、
追手を六人まで堀へなぎ落とした。その勇猛さは阿修羅のごとく凄まじいものであり、不動明王かと
思われるほどの憤怒の形相に敵が怯んだ所へ、城中より再び、横井越前守、小机修理亮、工藤次郎三郎
以下六騎が取って返し、橋詰に並んで敵を防ぎ、その間に城兵尽く城中へと入った。その後より、
美濃守以下六騎が悠々と引き上げたのである。

ここでまさに城門を閉めんとした時、首二つを掲げていた福島正則の家人・可児才蔵吉長が
その首を投げ捨て持っていた鑓をその扉の間にさっと入れた。このため門に隙間ができ、すかさず
才蔵はえいと声をかけその扉を両手で押した。これに城方も内より大勢で支えて押し返した。
寄せ手は才蔵に続き福島丹波守、林亀之助が駆けつけ才蔵に力を貸した。内でも再び押し返す。
負けじと才蔵たちが押している所に味方がどっと駆けつけた。

この時城の堀の上と門脇の狭間より一斉に矢弾が飛んできて、寄手二十人ばかりがたちまち討たれた。
それでも寄手は大崎玄蕃允、福島丹波守の郎党・小林平蔵、岡田新六郎なども加わり扉を押した。
またも狭間より鑓や薙刀が突き出され、小林と岡田が討たれ、可児才蔵と大崎玄蕃允の浅手を負った。

こうして双方がえいえいと押し合っているうちに、才蔵が差し挟んでいた鑓のケラ首が折れて扉は
完全に閉まった。この間にも長尾隼人正は三度まで塀によじ登ったが、二度は内より突き落とされ、
三度目はその口に敵の鑓の穂先が突き刺さって深手を負った。

このように福島正則の部隊はよく粘ったが、城兵もよく戦って防いだので、正則は終に退却の貝を
吹かせ、まだ城門で戦っていた四人を招き返した。才蔵は穂先のなくなった鑓に最前捨てた首を
もう一度拾ってくくりつけ、悠々と引き上げた。

そこで城中より、この四人を敵ながら天晴であると、その名を名乗るように言ってきた。
四人は橋の上に留まって、城へ向かって大音声で「福島左衛門太夫正則が家臣誰々」と名乗って
退いた。

この時城内の兵で、隙を狙って彼らを撃とうとする者があったが、美濃守はそれを止めて
「あたら冥加の武士を無碍に誅すれば、てきめん軍神の怒りに触れよう。必ず手出ししてはならない。」
と戒めた。かくて四人は何事もなく自陣へと帰った。

この一戦で、蒲生氏郷の手の者四百三十余人、福島正則の手の者六百八十余人が討たれ、手負いは
数限りなく有ったという。

(関八州古戦録)



313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/04(月) 19:57:42.66 ID:OTSVAPN0
>>312
両方かっこいいなぁ、しかし信雄もいい味出しとるw

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/04(月) 20:09:12.00 ID:lxC86Rew
美濃守ここまで来ると出木杉くんだろ
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消えた秀吉取り立ての家臣たち

2019年07月12日 16:43

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 16:30:42.87 ID:ycVecxqD
3万石 渡瀬左衛門佐繁詮

太閤が卑賎の時から奉仕した。関白昇進の時に5千石を賜り、旗本の列となる。天正18年(1590)、
小田原の戦功をもって、遠州横須賀城3万石を賜る。ところが、秀次に悪行の詮議あり。渡瀬はその張本
人であることをもって、文禄4年(1595)8月に領地を没収し、佐竹右京大夫義宣へ預けられて常州
水戸へ配流(後に切腹)。


3万石 前野但馬守長康

太閤が筑前守だった時に馬廻に召し出され、前野庄左衛門と称す。賤ヶ岳では四番の軍列であった。後に
但州出石城主となる。長康も秀次へ悪行を勧めたことをもって領地を没収し、駿州府中城主の中村式部少
輔(一氏)に預けられる(後に切腹)。この将は加州の住人・富樫介(加賀守護富樫氏)の末葉で、後に
坪内と改めて、当時御旗本に奉仕した。


18万石 木村常陸介重高

重高は木村隼人佐の息男である。父の隼人佐は太閤が微賤の時からの老臣で、賤ヶ岳合戦の時は三番備、
柴田の先手を追い崩して越前まで突き入り、ついに勝家を自害せしむ。この功をもって山州淀城を賜り、
大名となって卒去した。

常陸介重高は家督を継ぎ、太閤は関白職を秀次へ譲られる。この時、「木村は数年予の老臣であり、目出
度き者である。秀次も予の如く果報を継ぐべし」と、木村を秀次のへ付けなさった。

されども重高は父・隼人佐に劣り、佞奸にして石田(三成)・増田(長盛)と心を合わせて秀次へ悪行を
勧めたことをもって、秀次生害の後に木村は摂州茨木で切腹、その一族は縁者まで尽く死刑となる。この
始終は『秀次記』に委細があるので、ここには記さない。


5万石 熊谷大膳亮直澄(直之)

直澄は熊谷次郎直実の末葉である。太閤が天下草創の始めより馬廻に召し出され、しばしば戦功があるの
をもって5万石まで賜り、秀次の附臣となる。ところが秀次生害あれば、直澄は嵯峨天龍寺へ馳せ入り、
たちまちに自害した。直澄はまったくその誤りがなかったので、太閤も召し返して本領を賜ろうと内談が
あった内にたちまち殉死したため、皆人は残念に思ったという。


8万石 熊谷内蔵介直陳(直盛)

直陳も熊谷次郎直実の末葉で勇猛の者故、太閤の馬廻に奉仕してより、しばしば軍功を尽すことをもって
天下平均の後に、豊後安岐城主となる。これも朝鮮へ渡海し(目付として)諸将の剛臆を告げたが、毛利
(吉成)・竹中(重利)と対決に及んで追放された。直陳も三成の婿なので佐和山へ赴いて忍んでいた。
翌年三成は本領を与えて大垣城へ籠め置いたが、垣見・木村とともに相良・秋月らにたばかられて死んだ。
(後略)

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 16:31:56.17 ID:ycVecxqD
1万石   塩冶隠岐守
1万5千石 寺田播磨守(光吉)
2万2千石 斎藤左兵衛督
3万石   津深右京亮
1万2千石 粕谷内膳正(糟屋武則)

以上五将は各々太閤の代に取り立てとなり、武威を振るったが石田に与するをもって所領を没収なされた。


6万石 戸田民部少輔氏繁(勝隆)

太閤が未だ勢微な時から従った。しばしば戦功があったので予州喜多郡大洲城6万石を賜る。天正13年
(1585)に太閤は四国退治のため、御舎弟の羽柴美濃守秀長と御猶子の三好秀次を大将軍とし、6万
余兵を添えてまず阿波州を攻めさせなさる。

この時、戸田は一番に馳せ加わり戦功をあらわす。それより四国の徒党は尽く雌伏したので、取り分けて
戸田の戦功を感心し、同州宇和郡板島城へ移しなさって官位を昇進し、大名に取り立てなさるとの契約が
あった。そんな折に程なく病死し、あまつさえ令嗣なきをもって所領を召し上げなさった。


7万石 小川土佐守祐忠

伊予今張城主。太閤取り立ての人である(原注:一説に明智光秀の従弟。故あって直参するという)。初
め石田に与し、島左馬介祐滋とともに大谷(吉継)に属して北国へ赴く。後に関ヶ原へ出張して軍談する
ところで金吾秀秋が密かに関東へ通じると聞き、脇坂・朽木・赤座とともに俄に心を変じ、大谷・平塚の
陣を破る功をもって本領を賜る。

ところが祐忠は不行跡にして家人国民に酷く当たり、諸人は疎み果てる折に異心を巧み、天下の大事を企
てた故にたちまち所領を没収なされた。小川父子とその一族与党まで尽く改易なされたという。

――『古今武家盛衰記』

消えた秀吉取り立ての家臣たち

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 22:02:26.03 ID:ycVecxqD
5万石 丹羽備中守長昌(長正)

越前守長秀の次男、修理亮長政の孫。幼少より太閤に仕え、後に越前東江城を賜る。石田に与して大谷に
属し、戦功をあらわす。関ヶ原の敗戦を聞いて逐電した(後に秀頼に仕えて、大坂開戦前に脱出)。(原
注:ある説に曰く、長昌は越前を逃げ出し、後に丹羽左京大夫方へ行き忍んていた。子孫はかの家に仕え
るという)


2万石   多賀出雲守(秀種)
1万9千石 杉若越後守(無心)
1万7千石 横浜民部少輔(茂勝)
1万5千石 杉谷越中守
1万石   寺西下野守(是成)

以上は太閤取り立ての将である。石田に与して大谷に属し、北国で戦功あり。それより大津へ向かって立
花宗茂の先手に進み、命を捨てて大いに戦い、関ヶ原へ出張しようと用意した。しかしすでに敗れたと聞
いて逐電し、諸国に忍んで放浪した。(原注:私に曰く、以上五将の由緒、かつその子孫が諸家の陪臣と
なることは長き故記さない。『太閤記』に詳しい)


1万石 松浦伊予守秀任(久信)

松浦安太夫宗清の従弟。初め安兵衛といった時より、太閤の馬廻に召し出されて頻りに立身した。石田に
与し、大津城攻めで立花とともに軍忠を励む。秀任は元来強力で、鉄棒を提げて馬人の区別なく散々に打
ち倒し、一の城戸を打ち破り二の城戸まで攻め入ったが、大勢に取り詰められてついに戦死した。立花は
その勇を大いに感じ、太平以後に秀任の子を召し出して扶持した。子孫はかの家に仕えるという。


1万石   高田豊後守(治忠)
1万3千石 藤掛三河守(永勝)

以上両将は太閤御取立ての者である。石田に与し、小野木(重勝)とともに田辺城を攻落する。味方敗北
の後に流浪したが、子孫は当家(徳川家)に召し出されて俵数を賜る。子細は知らず。

――『古今武家盛衰記』

追記>>250
富田高定などの伝もあるけど長くなるので割愛



261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 09:44:55.09 ID:DWiCMEm8
>>249

前庄殿な後だけどその話武功夜話にでとりましょうですか?

マジヤバいお話

2017年11月24日 17:17

334 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/22(水) 21:13:57.78 ID:hGDrQ4Ly
前野長康はマジヤバい。
まず実の父親が凄い。坪内勝定。
この男は前野長康と12歳差。つまり満11歳の時に仕込んだってことだ。
とんだヤリチンだぜ。

さらに母親が凄い。生駒右近善長の妹。
なお、生駒右近善長は長康より45歳年下。
自分より年下の母親から生まれてくる前野長康はヤバすぎる。



335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/22(水) 21:38:01.55 ID:lnkCnPsw
出典は武功夜話?

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/23(木) 15:15:29.02 ID:jQjOTTHt
細川元勝もなかなかヤバい
父である細川昭元と13歳差
母もすごい。織田信長の妹お犬の方
生まれたのは両親が結婚する16年前で異父兄の佐治一成より6つ年上
マジヤバい



337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/23(木) 21:25:40.38 ID:ArIA571p
>>334>>336
    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
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/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
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|_____|三|/      < の の >     ヽ      .....:::::::::::::::::::::::<
────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
| |  ////WW /    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒   \|  彡   ~~~~ミ

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/23(木) 21:32:18.42 ID:XjByv4RE
一瞬、「細川元勝」を、天狗の修行した細川政元の父親の「細川勝元」と間違ってレスをしたのかと思った


339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/24(金) 20:27:54.04 ID:BHx6D7ip
細川政元と言えば司箭院興仙っちゅう政元の修験道の師匠がいるんだが
1570年に安芸国から空を飛んで京都の愛宕山に住み着いたとかなんとか
政元に仕えてた人物がその時期まで生きてたとある通り非常に長寿だったようだが
100歳になっても若々しかったなんて話もありなんか嘘くさい

ちなみにこの人物武芸にも優れていて河野通昭(左京大夫通宣の庶子)にそれを伝えたという
河野から築山に改姓した子孫が貫心流として広島藩に剣術を広めたりしている
開祖の名前が源義経になってたりしてどっか嘘くさい


ついでだから書くが河野から築山に改姓した理由は先出の河野通昭が
秀吉への襲撃を企てたため子孫に累が及ぶのを恐れた、とされている
これは築山氏の編纂した史料に記載されており豊臣側の史料にはそれらしい記述はないようである
やっぱり嘘くさい

秀次事件と細川忠興

2015年01月26日 18:44

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 18:01:25.88 ID:WdkrArKW
文禄四年七月中旬に、摂政関白秀次公御身体、果て申す次第

前野但馬守長康殿、同出雲守殿(景定)、木村常陸、白井備後、石河伊豆、羽根長門守と言った人々に、
秀次公は『何事にても、申し付けた事に異議を立てない』との内容を書き物にして提出させていた。

この事を石田治部少輔(三成)が聞きつけ、太閤様(秀吉)に申し上げたため、太閤様は秀次公に、
遣いを以ってこの件を糾明させた。

これに秀次公は大いに驚き、聚楽より伏見に御出でになり色々と弁明したものの、太閤様は納得
しなかったので、伏見から高野山へと上られた。
そして福島左衛門大夫正則殿が検使に遣わされ、秀次公は切腹なされられた。
かの書き物を提出した人々も、残らず切腹が仰せ付けられた。中でも前野但馬守殿父子は、中村式部少輔(一氏)
預りとなり、駿河府中にて、但馬守殿、その子息出雲守殿、切腹と成られた。

細川忠興様は右の書き物の件には関係していなかったが、秀次公より別して懇ろにして頂いており、
どういうわけか黄金百枚を拝領していた。その上前野但馬守殿の子息出雲守殿は、忠興様の聟であり
縁者であったため、石田治部少より「彼も一味している」と申し立てられたため、太閤様も是非無く思われた。

聚楽の細川屋敷に忠興様より米田助右衛門殿が遣わされ、伏見より急報が有れば、息子たちを殺した上で
屋敷に火をかけ、助右衛門も切腹するという事に決まったと、忠興様の御意が伝えられた。

黄金百枚の事は施薬院法印(全宗)の肝入で、秀次公より借用したものであり、拝領したものではないとの
弁明を、米田助右衛門が徳善院(前田玄以)を通じて太閤様へ申し上げると、その時太閤様が仰せになったのは

「先年の明智謀反の時、信長公の御恩を知り、明智に一味しなかった。たとえ今回秀次に一味したとしても、
その時の忠節により赦免いたす。」

この言葉が徳善院より仰せ渡せられ、忠興様もご安堵なされた。

細川忠興軍功記)

秀次事件の折の、細川忠興の様子である。




太田城水攻め講和

2013年06月02日 18:53

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 01:01:27.03 ID:e8Ls+TEd
天正13年(1585)、羽柴秀吉の紀州征伐において最大の激戦となり、日本三大水攻めの一つともされる
太田城攻防戦。
秀吉軍は紀の川の水をせき止め、得意の水攻めを行ったが、一揆軍は堤防を破壊し、宇喜多秀家の軍勢を
多く溺死させるなど、頑強に抵抗した。

(この時一揆軍は秀吉方に対しに『備前もの其身は何と知らねども 堤や岩や大切ぞする』との
狂歌を立てた話は有名である)

しかし一揆軍の劣勢は変わらず、蜂須賀正勝前野長康の説得により、終に降伏することとなった。

この時蜂須賀・前野からはこのような条件が出された

「最前に我々は51人を討たれた。その代わりに、誰でも良いのでそちらからも51人を討って首を提出
してほしい。」

そこで一揆方は元来は知らぬ者達(おそらく流れ者の傭兵などだろう)を51人討ち、その首を提出して、
こうして終に和談が成ったのである。

この時討たれた51人の首塚が、吉田村の西北に一ヶ所、南に二ヶ所、計三ヶ所作られた。
一つの首塚に首が一七埋まっているため、十七塚と呼ばれている。
(太田水責記)

太田城水攻め講和の時の、犠牲者について伝わることである。




753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 01:49:24.64 ID:YvnAEsf5
なんか話が違う

http://magoichi.or.tv/rekisi/img/oota/20050417.jpg
20050417.jpg

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/02(日) 06:29:02.08 ID:Z6paVRJL
後の日本版エリア51である

摂政関白秀次公、御身体果て申す次第

2013年05月18日 19:55

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 01:36:51.64 ID:1C5sJy7C
摂政関白秀次公、御身体果て申す次第

前野但馬守(長康)、木村常陸、石河敦賀、白井備後、明石左近、羽根長門守と言った人々は、
豊臣秀次に対して、『公の仰せに成ることは、何事についても異議を申し上げない』という誓約を書き付けた。

ところが、この事を石田治部少輔(三成)が聞きつけ、太閤(秀吉)に申し上げた。

このため秀吉は秀次に、事を糾す遣いを送った。秀次はこれに大いに驚き、聚楽を出て伏見へと下がり、
色々と弁明に勤めたが、秀吉は納得せず、そのため秀次は終に高野山へと入った。
しかし高野山の秀次のもとに、福島左衛門大夫(正則)が検使として派遣され、秀次はここで切腹をされた。

この時、誓約の書付をした者達も残らず切腹を仰せ付けられた。
中でも前野但馬守(長康)父子は中村式部少輔(一氏)預かりとなっていたが、駿河府中において、
但馬守嫡男出雲守(景定)は切腹を成された。

細川忠興はこの誓約の書付を行なっていなかったものの、日頃から秀次と特別に親しい仲であった上に、
黄金百枚の拝領を受け、さらに前野但馬守の嫡男出雲守は、忠興の婿であった事から

「縁者である以上、一味となっていたはずです」

と、三成が秀吉に申し立てていた。

この事態に忠興は、この先どうなるかわからないと、米田助右衛門に対し、伏見からの報告次第で、
聚楽の細川屋敷に急行し、屋敷にある忠興の妻(ガラシア)と子供たちを殺し、屋敷に火をかけ、
助右衛門自身は切腹するようにと命じた。

忠興は、黄金百枚の件は、秀次から拝領したものではなく、薬院法印の肝煎で秀次から借用したものであると
秀吉に対し、米田助右衛門を遣わして弁明した。
この時、秀吉が言い出したことは

「先年の、明智謀反の時、お前たちは信長公の恩を思い、明智に味方しなかった。
今回秀次に一味したが、あの時の忠節により、赦免してやろう。」

この言葉が徳善院から忠興に仰せ渡され、ここで初めて忠興は安堵したという。
細川忠興軍功記)

秀次事件の時の、細川忠興の模様である。




626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 12:23:43.39 ID:VqmxySfn
三成ろくなことしねえな

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/18(土) 16:28:03.58 ID:XFbh7/80
これは三成悪く無いだろ

秀吉公が木下藤吉郎を名乗っていたころの話

2012年03月07日 21:51

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 11:53:27.83 ID:+lkwAxUu
秀吉公が木下藤吉郎を名乗っていたころの話。
織田家に仕え足軽百人頭となった 藤吉郎。
旧知であった川並衆の協力にも随分と助けられ、
百人頭の身にもなれたので、
蜂須賀、前野、を始めとする川並衆の棟梁たちに、
私が仲介するから、自分と同じく織田家に仕えないかと持ちかけた。
それに対して蜂須賀小六は、

「信長殿は海道に並ぶ者のない勇将ですが、
今日まで御一門を数多く誅殺されています。
あのお方の御気性は雷電のようです。
私どもは生来の無頼者。口舌で立ち回る才がありません。
人夫には相性というものもあります。
折角の御推挙ですが、私どもに信長様にお仕えする気はございません。」

藤吉郎は、今までの川並衆の協力に報いることが出来ず落胆の表情を浮かべる。
そんな藤吉郎に再び小六は言う。

「我ら川並衆は己を知る者のためには、
粉骨の労も惜しみません。
この先、万事において我らの命を預けられる士は、
藤吉郎殿をおいて他にいないと考えます。
我らはこれより貴殿のために犬馬の労も惜しみませんぞ。」

これを聞いた藤吉郎は、

「今は未だ足軽百人頭の身。
川並衆の恩に報いることも出来ませんが、
いずれは必ず立身しこの恩に酬いましょう。」

と応える。
以後の藤吉郎と川並衆の立身出世は皆の知るところである


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181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/03/07(水) 11:59:03.99 ID:iaQ7qK/H
秀次「」