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「武家閑談」より大坂夏の陣の時の徳川秀忠の様子

2023年02月21日 19:09

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/02/20(月) 20:17:28.56 ID:XEaRtdGo
武家閑談」より大坂夏の陣の時の徳川秀忠の様子

大坂の陣での五月七日の合戦前に秀忠公は味方の軍勢を巡見なさった。
黒田長政加藤嘉明については独立した部隊ではなく本多忠純(本多正信の三男)の部隊に属していた。
七日の昼前、大軍が備えているところに誰からともなく「将軍様御成」と言い出したため、長政と嘉明はお目見えのために通路へ出た。
秀忠公は一騎で黒い鎧、山鳥の尾の羽織兜をめされ、桜野という七寸三分の馬に孔雀の尾の鐙をかけて召されていた。
武具は十文字の長刀、そのほか徒歩の士二十人ほどがお供していた。
黒田長政加藤嘉明をご覧になり両人の方へ乗りかけられたため、両人は馬の左右の口についた。
秀忠公は「敵を打ちもらし城へ引かれたのは残念だ」とおっしゃったが
両人が「そのうち敵はまた人数を出すので、冥利にお叶いになるでしょう。思いのままの御一戦となりましょう」
と言うとご機嫌もよくなった。
長政・嘉明に「もう戻ってよいぞ」とおっしゃられたため、両人は備えに戻った。
途中、本多正信が具足も兜もつけず、団扇で蝿を払いながら乗物に乗って通った。
黒田長政が「将軍様はいつもと違い軽い様子だな」と申すと
加藤嘉明は「いかにもいかにも、このように軽いのは御家の癖だろう」と答えた。
長政は深く感心し「秀忠公は常々御行儀正しいが、軍法においては万事軽く行うということか」
と賞賛したという。



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この御用を蒙ること、全くその武功に寄るもの

2022年08月27日 18:40

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/27(土) 18:28:50.89 ID:nJHAYYUM
元和二年四月十七日、東照大権現が御他界されたことで、駿府詰めの面々は皆江戸へと帰った。
同五年夏、台徳院殿(徳川秀忠)御上洛され、伏見において福島左衛門(正則)の領国を
召し上げる時、その家老である福島丹波が明け渡しを拒否致した故に、中国四国の大名が
芸州広島へ発向することとなり、安藤対馬守(重信)、永井右近太夫(直勝)、戸川肥後守(達安)が
三奉行として出陣した。彼らに対して中国四国の列侯が、崇敬すること斜めならぬものであった。

しかし、安藤、永井は将軍家昵懇の家柄であるのでさもありなんが、肥後守は外様の身分でありながら
この御用を蒙ること、全くその武功に寄るものであった。

この時、加藤左馬介(嘉明)に先鋒が仰せ付けられたのだが、嘉明は
「正則は在国しておらず、国元は家来ばかりなのですから、私一人でも打ち潰すことは容易の事です。」
と申し上げた。

これらの事は伏見において仰せ付けられ、諸家段々に広島へ押し詰め、重ねての御下知を待っていた所、
伏見より花房志摩守を使いとして江戸に遣わし、江戸の福島正則に仰せ遣わされた所、正則は心服して、
滞りなく御請け申し上げ明け渡すように、とする証文を正則の自筆にて広島へ遣わした。
福島丹波はこれを見て、「然る上は」とて無事に城を渡した。

正則は越後に蟄居し、四万石がくだされた。

戸川記

福島正則改易についての戸川記の記事



戸川記に見える関ヶ原合戦の模様

2022年08月10日 19:06

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/09(火) 21:33:24.95 ID:OpEL8oi0
関ヶ原の御陣は、(小早川)金吾秀秋の裏切りがあり、大谷刑部(吉継)がここで命果て、
その他の上方勢は総崩れとなって伊吹山の方へ敗走した。島津の一手のみは備えを崩さず海道を直に
引き退いた。他家の落人も、これを頼んで続いて行った者は、大阪まで無事に引いた者が多かったという。

肥後守(戸川達安)は加藤嘉明の先手に加わり、治部少輔(石田三成)陣に迫った。
すると石田家の者六、七十騎が柵を破り一同に突出した。これに嘉明勢は左右に開き押し包み、
一人も逃さず打ち殺した。
この手の惣衆はその側に備えて、抜け落ちの者があれば打とうと、先手にここは働かせて、その他は
後ろで見物していた。他家の衆はこれを見て、「さても見事なる討ち様かな」と称美した。

三成は軍評議のために他の備えに行ったままで、我が陣に帰ることも出来ず敗走した。
嘉明の先手と戦い斬死した大将は、島左近であるという。

関ヶ原の没落後、佐和山の城も屠られた。その時肥後守も諸勢と一同に乗り込んだ。
そして家臣の与右衛門が兜首一つを取って肥後守へ差し出した。この与右衛門は合渡川の戦いに於いても
働きがあった。故にこの兜は与右衛門に与えられた。
この兜は後々まで岸本家の家宝となった。

戸川記

戸川記に見える関ヶ原合戦の模様



331 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/10(水) 10:50:59.00 ID:LosKS1LF
死に体の石田陣に詰め寄るヘタレ共でしたw

最前の絵を書き直したという

2022年08月02日 18:31

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/08/01(月) 21:51:27.44 ID:0y6b9poa
加藤左馬助(嘉明)の家では、老若共に帯を後ろで結ぶことは法度であり、前の方の脇で
結んだという。これは、急事の折には帯が解けることがあるが、後ろでは結び難く、
前の脇で結ぶ場合は走りながらでも結ぶ事のできる故である。

また家中の士であっても、具足兜を着すれば戦場において見知り難きものであるとして、
家中全員の具足兜、前立物まで屏風の絵に書かせ、縅毛以下、少しも違わぬように
極彩色に描かせ、その姓名を記し、会津の城中の広間の番所より書院まで、その屏風を
何双に立て置き、諸士が互いにこれらを見知るようにさせた。
そのため、もし誰であっても具足を縅し直すか、何であっても品の替わる事があれば、
役人までこれを届け、すると絵師がかの士の許へ行き、詳細に見届けて最前の絵を書き直したという。

新東鑑



山鹿素行「武家事紀」より平野長泰の話

2022年04月27日 17:20

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/27(水) 09:46:26.24 ID:qPZYMBa9
山鹿素行武家事紀」より平野長泰の話

上記のように駿府で源君(家康)に大坂城入城を許可してくれるよう訴えたが、義心に感悦した家康により細川忠興を介して、
黒田長政・福島正則・加藤嘉明とともに江戸に留められてしまった。
不満に思った長泰は駿府から江戸の加藤嘉明の屋敷に直行し、
意気揚々として大坂方が勝利するだろうと談笑したが、嘉明は激しく叱って黙らせた。

なお長泰の弟で九左衛門尉長重というものがいて、これも賤ヶ岳の合戦で高名を挙げたが、長刀を好んで使っていたため、
槍ではないということで七本槍に入れられなかったという。



殿様というのは、左馬助か

2022年02月18日 16:17

19 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/16(水) 20:53:30.92 ID:viqLlJY4
悪い話スレで塙団右衛門の話が出ていたので後藤又兵衛基次の話を書こうと思う。

愛媛県松前町、後藤又兵衛生存伝説
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5158.html


後藤又兵衛が生存しており、旧知の加藤嘉明を頼って伊予へ逃れたという逸話は既に出ているが、
伊予へ逃れた後藤又兵衛加藤嘉明のお話。

1615年(慶長二十年)の大阪夏の陣で大阪城に攻め寄せる徳川家康軍に対して、道明寺の戦いにおいて後藤又兵衛は戦死をしたと伝わる。

しかし当地に伝わる言い伝えでは宮ノ下(現在の愛媛県伊予市)にある長泉寺の住職が伯父であったので、
後藤又兵衛はそこを頼って各地を旅してまわる旅僧の姿となって伊予へと落ち延びてきたという。

そして久万の山中にある岩屋寺(愛媛県上浮穴郡久万高原町)に隠れ、そこで日々座禅をして過ごしていたという。

ある日のこと、この地を治める加藤嘉明が岩屋寺を訪れることとなり、先走りが寺を訪れ僧達に向かって境内を掃除して清めるように伝えたところ、
この時本堂で座禅を組んでいた又兵衛はこれを聞いてかっと目を見開き

「殿様というのは、左馬助か。」

と、先走りに聞こえる声で呟いた。これを聞いた先走りは無礼な奴だと思ったが、只者ではない雰囲気を放つ又兵衛の様子を見て何も言わずに引き返し、
三坂峠で休憩していた加藤嘉明の前に出ると、このことを報告した。

報告を受けた嘉明は

「もう引き上げじゃ。帰るぞ。」

と言い、岩屋寺へ赴くことなく引き上げたという。その理由は明らかではないが、又兵衛が岩屋寺へ居るのでないかという情報は
その耳にも入っており、親友であった又兵衛を捕えることになるのを忍びなく思った嘉明は引き上げたのではないかとも言われている。

この後又兵衛は伯父のいる長泉寺へ移りそこで地元の人たちと打ち解けこの地で生涯を終えたという。

今では又兵衛のことを書いた碑が長泉寺の境内にあり、その墓といわれるものが長泉寺の下手にある大塚家の屋敷の中にある。
この墓の中には又兵衛が大事にしていた半弓や種子島などもいっしょに葬られてあったという。

なお、又兵衛の笈(旅僧などが、いろいろな物を入れてせおう箱)だけは長泉寺に残されていたともいわれる。

またある言い伝えでは、又兵衛は伯父に迷惑をかけてはいけないと、弟の市郎左衛門の名にかえ、弟になりすまして
松前の筒井に移り住んで妻をもらって帰農したともいう。

そして、重信川の大水で荒れた土地を開いたり水を引くようにしたりして村人のために広い良い田を作ったので、
たいへん喜ばれたともいい、又兵衛夫妻の墓といわれるものが筒井の大智院(伊予郡松前町)にもある。

データベース『えひめの記憶』伊予市誌 四〇、後藤又兵衛 (宮ノ下)より
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:3/35/view/10150

四国八十八ヶ所霊場 第四十五番札所 岩屋寺
https://shikoku88-iwayaji.com/about.php

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20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/17(木) 01:22:17.90 ID:SFDxaC0D
岩屋寺の女仙人、弘法大師と術比べしたって聞いたけどそこまでは書いてないようだ
岩窟まではハシゴを登ると行けるけど、5mあるから行く時は気をつけよう

21 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/17(木) 21:03:30.61 ID:NCzx1Yos
>>19
この逸話、又兵衛の五男である後藤吉右衛門基が加藤嘉明に仕えてたという縁からだったりするのかな?
加藤家の会津転封にはついて行かずに伊予に土着して医師になったそうだし。

22 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/02/17(木) 21:06:36.83 ID:NCzx1Yos
>>21
後藤吉右衛門基芳

加藤左馬助殿は、常に動じない人であった

2021年05月12日 18:49

164 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/12(水) 14:31:04.74 ID:H+XpSd11
未の年の正月、岡山に於いて物語された事である。

加藤左馬助(嘉明)殿は、常に動じない人であった。
(秀吉公が伏見に御座の時)殿中に於いて地震があった時も動じず、
また虎が朝鮮国より進上の時、虎の置かれていた大書院の縁を通る諸大名は、虎を恐れて
皆少し退くといった体であった。
山崎甲州(山崎家治カ)も気味悪く思われ、引き退こうとした時、左馬助殿を見ると、
彼は柱にもたれ、嘘眠りをして居られた。(柱ニモタレウソ子ムリテ被居)
これを見て、歯を食いしばって甲州も退かなかったと、甲州が光政様に物語されたという。

烈公間話



165 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/12(水) 15:40:33.86 ID:qwZOPA/Q
嘘眠り見抜かれてちょっと恥ずかしい

166 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/12(水) 23:41:50.58 ID:ipb/lOQ8
他人の失態を見るのは失礼だから眠ったフリをしたんだよ

167 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/14(金) 06:40:52.21 ID:Ra1/CEvj
この逸話、かれこれ4回くらいこのスレで出てるけど登場人物が加藤清正と加藤嘉明のバージョンもあったりするけど、出典によって内容が違うんだろうか?

閑山島海戦

2021年05月02日 16:36

694 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/01(土) 22:34:39.93 ID:IR0t3pqK
大隅守殿(九鬼嘉隆)、左馬之助殿(加藤嘉明)、のお二人は中書(脇坂安治)が戦功を立てたことを聞き
同じく六日(文禄元年七月)に釜山浦から例の瀬戸口(見乃梁海峡)に行き八日には安高麗(安骨浦)烏島
という港に入った。ところが九日の辰の刻から敵の大船五十八隻と小船五十隻ばかりが攻めてきた。
大船のうち三隻はめくら船で鉄で覆われており石火矢・棒火矢・大狩俣などを放って酉の刻まで入れ代わり立ち代わり
攻撃をかけてきて、櫓から廊下、足隠しの要害などまですっかり打ち破られてしまった。石火矢というのは
長さ五尺六寸の堅木で筈元を鉄張りにし矢羽根も三方を鉄で取り付け、先には大狩俣がついており、手は
一尺二、三寸にも及ぶ広さであった。また棒火矢は先を鉄で丸く頑丈に貼ってある。この矢で五間、三間という
近い距離まで近づいて攻めかけるのである。日本丸の櫓で大隅守殿が鉄砲を撃っていたが石火矢が一つも
当たらなかったのは不思議である。

高麗船戦記』(著者・年代不明)

695 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/01(土) 22:36:59.06 ID:IR0t3pqK
その日、軍大将は渡辺数馬、越後隼人、浜島豊後、和貝豊前であった。これらを先頭に日本丸を飾り、三階に櫓を
上げさせ錦の幕を三重に垂れさせ、上に蓬莱山(三方に縁起物を盛った飾り)を飾り、山の上に伊勢神宮のお祓いを納め
木々の梢に縄網を三重に張り手ごろな小船を多数繰り出し貝を吹いて唐人の方に押し寄せた。
その有様は蓬莱山もかくものかと思わせるほど。唐人方もこれを見て残らず打ち取れとばかりに石火矢、鉄砲などを
遠くから撃ちかけてくる。ところが棒火矢が飛んでくれば用意の綱で海中にはたき落とすので船に当たらない。
近くから半弓で射ても三重の幕の二重までは通るが最後の一枚で受け止めてしまう。近距離まで迫って石火矢を
放った時は日本丸の中柵三尺四方を打ち破ったが、かねて用意の大工たちにいいつけ即座に修理して海水を止め
日本丸は揺るぎもしなかった。

志摩軍記』(著者不明・江戸中期)

以上は『日本の戦記 朝鮮の役』(参謀本部編・徳間文庫抄本版)逸話集より
国会図書館ウェブサイトデジタルアーカイブでも戦前版を閲覧可能


まとめサイトの関連する過去記事としては「「閑山島海戦」の敗戦」
こちらは脇坂家の視点での海戦記録ですね



699 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/02(日) 11:12:55.17 ID:BfgWGv2P
>>694-695
韓国時代劇や映画では、日本船をボコボコに撃破した無敵の亀甲船の主砲は、
金属弾丸式の大砲というのが定番
でも実際のところの「火砲」はロケット花火式というところですかね?

宇田川武久の「東アジア兵器交流史の研究」では、朝鮮に中国から金属弾丸式
火砲が伝来したのが16世紀半ばとあった

701 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/03(月) 18:04:44.22 ID:qeDnAVp8
>>694
高麗船戦記は不明な点もありますが、当時その場で参戦していた
外岡甚左衛門の晩年の回想録というものです

これは我家相続の方便である

2021年04月18日 16:12

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 01:15:41.14 ID:MVa/nSU9
加藤清正は常々不養生であったという。加藤左馬助(嘉明)が彼に申した
「足下は常々不養生である。養生に油断せず、長命するように。」
さて、左馬助が退参した後、清正は側に居た人に云った

「私は不養生をして早く死ぬべく覚悟をしている。何故かと言えば、存命している間に
乱世に及び、家康公が秀頼公と御合戦有れば、恩主故、秀頼公の御方を仕る事が当然である。
しかし秀頼公の御軍が、どうして家康公に対し得るだろうか。だからといって家康公に
随い奉るのは不義である。

私が早死し、我が子の代になっていれば。ともかくも家康公に随い奉ってもその咎は軽い。
これは我家相続の方便である。」

と伝わる。『清正記』という書にもそのように有る。また左馬助は長命を願い存命して、
二心有って家康公に奉仕すると云々。

清正の覚悟は忠義ではない。左馬助については評するにも及ばない。
両人供勇将であると雖も、惜しいかな道徳の志がない。

このように池田光政様は仰せに成った。

烈公間話



665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 10:49:40.16 ID:SUJSDCEt
どうしろと?

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 11:02:25.59 ID:zeGAD6FL
1609年生まれが偉そうに

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 14:26:22.66 ID:/9AHysH2
池田光政は何が言いたかったんだ

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 16:44:24.80 ID:7MqbF1gq
清正 主君・秀頼に従って滅亡したくないから早く死にたい
嘉明 家康に従って主君・秀頼を滅ぼすため長生きしたい

池田光政の政治思想や、日本における陽明学の受容に詳しいわけじゃないから自信ないけど
清正は「するべきこと(=秀頼のために戦う)」を分かっているのに実践しようとしない、それは忠義とはいえない
嘉明は旧恩ある豊臣家を滅ぼす助けをしようというのはそもそも言語道断
そんな感じじゃないか

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 19:24:16.68 ID:7lxIuqFT
清正にしろ嘉明にしろ確かにこの時の選択は胸を張れる物ではないかもしれない
とはいえ同世代の秀頼に付いて死んでいった奴らに言われるならまだしも
後世の3代目くらいの連中にアレコレ言われる筋合いなど無いわ!って所だろうなぁ
ご先祖の池田輝政もそんなご立派な人ですか?と…

加藤左馬助殿は常に動かない人である

2019年09月04日 17:31

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 18:53:07.73 ID:ca7nyELK
未の年正月、岡山での(池田光政の)御物語り。加藤左馬助殿(嘉明)は常に動かない人である
(常ニ不動人也)。殿中で地震の時(慶長伏見地震。原注:秀吉が伏見にござった時)に動かな
かった。

また虎を朝鮮国から進上した時に大書院の縁を虎を牽引して通り、諸大名は皆少し退き申される
様子であった。山崎甲州(家治)が気味悪く思って引き退こうと致した時、左馬助殿を見なさる
と、柱にもたれて嘘眠りしておられた。

これを見て甲州も歯を食い締めて退かなかったと、甲州が光政様へ御物語りしたという。

――『烈公間話』

家治は文禄3年生まれだから当時3,4歳か



177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/04(水) 10:42:49.57 ID:HqI8Jr40
実は腰が抜けていた

【ニュース】「秀吉から拝領」伝承の十字型洋剣、400年前に国内製造が判明

2019年09月03日 17:28

359 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/02(月) 21:46:52.97 ID:GItnMJTM
京都新聞「秀吉から拝領」伝承の十字型洋剣、400年前に国内製造が判明
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190902-00000026-kyt-l25

滋賀県甲賀市水口町の藤栄神社に伝わる十字形洋剣「水口レイピア」が、約400年前にヨーロッパ製の
レイピア(細形洋剣)をモデルに国内で制作されていたことが分かった。水口歴史民俗資料館(同市)などが
共同研究成果を3日の国際博物館会議(ICOM)京都大会で発表する。
 国内に現存する唯一のレイピアで、アジアでもその存在は知られていない。関係者は「時の権力者が
南蛮人から入手し、好奇心から複製を作らせたという東西文化交流の一つの在り方を示す希有な事例」としている。
 十字形洋剣は、戦国武将加藤嘉明豊臣秀吉から拝領したとの伝承がある。嘉明を水口藩主加藤氏の祖
として祭る同神社が所蔵し、1987年に同資料館に寄託された。
 共同研究は東京文化財研究所の小林公治氏ら国内外の専門家グループが6年前から実施。その結果、
17世紀前半のレイピアを基に国内の技術を結集して制作された精巧な模造品とみられることなどが判明した。
 ICOMセッションで研究成果を小林氏と共同発表する同資料館の永井晃子主査は「地域で大切に
守られてきた宝物の価値が国際会議で発表されることは市民の誇りにもつながる」と話す。

画像
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360 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/02(月) 21:47:11.02 ID:GItnMJTM
東京文化財研究所
甲賀市水口藤栄神社所蔵十字形洋剣に対するメトロポリタン美術館専門家の調査と第7回文化財情報資料部研究会での発表
https://www.tobunken.go.jp/materials/katudo/247392.html

この度、世界でも有数のレイピアコレクションを誇るニューヨークのメトロポリタン美術館武器武具部門長、
ピエール・テルジャニアン博士にご来日いただき、現地での調査を実施のうえ、この洋剣に対する見解に
ついて第7回文化財情報資料部研究会にて、「ヨーロッパのルネッサンス期レイピアと水口レイピア」と題した
ご発表をいただきました。
 博士の見解は、銅製の柄部分は明らかに日本製であること、また剣身も日本製あるいはアジア製であって
ヨーロッパ製ではないこと、そして水口レイピアのモデルとされたヨーロッパ製レイピアは1600年から1630年の間に
位置づけられ、その間でもより1630年に近い時期であるが、この剣自体には実用性に欠ける面がある、というものでした。
 この見解は、17世紀前半の日本において、ヨーロッパからもたらされた洋剣を日本人が詳細に調べ上げ、
その模作までも行っていたという、これまでまったく知られていなかった新たな事実を意味するものです。
またその一方で、この剣には高度なネジ構造によって柄と剣身とを接続するなど、ヨーロッパのレイピアには
認められない独自の技術が使われていることも明らかとなりました。こうした独自の特徴は、当時の日本の職人が
見慣れぬ西洋の剣を自身の持つ技術で正確に再現しようと努力苦心し、工夫を重ねた結果であると理解できるでしょう。



361 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/02(月) 21:51:44.42 ID:GItnMJTM
伝来と製作推定時期が違う?

こういうのでそんなん気にしちゃダメよ
伝世品や家宝ではよくある話だからw

とりあえずコーエーでキャラ化されるときのビジュアルはこれで決まりましたね
イカ頭にレイピアって

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/02(月) 22:16:11.79 ID:Fkp1/lw1
ジミーさんって秀吉から色々なもの貰ってるな

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 10:10:39.63 ID:6rZ+ESk2
秀吉「これいらないんだよなあ・・・嘉明にやっとくか」

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 11:00:09.55 ID:xR9TLq28
なんか知らんが秀吉は嘉明に歯も与えてるな。
貰ってもいろいろ困るだろうに。

参照
君に歯をあげよう
秀吉の歯
366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 16:08:26.41 ID:Yei4roZj
>>364
大明神の歯やぞ

367 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/03(火) 17:23:42.33 ID:LdMBi2cl
>>360
紺糸威南蛮胴具足
http://www.emuseum.jp/detail/100509/001?word=%E9%BB%92%E7%B3%B8&d_lang=ja&s_lang=ja&class=&title=&c_e=®ion=&era=&cptype=&owner=&pos=1&num=2&mode=simple¢ury=

画像
0_0.jpeg

この水口レイピアに限らず、例えば過去ログの「徴古館 青漆塗萌黄糸威二枚胴具足」で鍋島勝茂所用の青漆塗甲冑が、
青漆ではなく西洋絵画の油絵具に近い技法で作製された塗料であることがわかったというのもそうですし、こちらの
榊原康政所用の南蛮胴も、舶来品の改造であると思われていたのが和製の胴鎧であることがわかったというのも、
江戸初期に西洋技法を取り入れようとした実例は意外とあるんでしょうね。
ただしそれがどの程度定着したのかは?


それと、レイピアの調査をした東京文化財研究所は鍋島の具足も調査してたんですね。

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 20:11:00.78 ID:OUs1SCTH
鎧通しをレイピア風に作ってみましたな気がしないでもないんだが

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 20:50:01.06 ID:i7NzSYU+
鎧通しは短くて分厚いものだし
リーチ足らないなら槍というものがあるし

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 23:11:30.61 ID:612t7r84
歯医者さんが考えた歯ブラシ

377 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/07(土) 12:11:45.47 ID:Sq1cwAIv
>>368
wikipediaだけど見てみたら、そもそもエストックとレイピアって基本構造も違ってて
エストックも日本で良くあるイメージのプレートアーマーの隙間を狙う武器じゃなくて、鎖帷子へ突き刺すための雑兵用の代物なんじゃん
レイピアは同じくイメージ通りの護身用、素肌剣術での決闘用のようだけど



173 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/03(火) 10:18:15.03 ID:UPaTOunc
★「秀吉から拝領」伝承の十字形洋剣、400年前に国内製造が判明
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190902-00000026-kyt-l25


...地味なほうの加藤さんがレイピアを振り回す...



174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 15:01:25.11 ID:Yei4roZj
>>173
神社が保管ていうのがまたじわじわくるな

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 17:37:15.93 ID:LdMBi2cl
水口レイピアは悪い話スレの方にも書かれてますよ。

で、藩祖を祀った神社に家宝や伝世品が納められてるというのは良くある話なので、
例えば米沢藩の上杉神社には、信長から謙信に贈られた西洋マントや、豊臣政権の
重役として明朝との交渉で贈られた官服とかが所蔵されています。

家康を祀った久能山東照宮に時計とか鉛筆とかがあるのも有名ですね。

神社に西洋由来の所蔵品があっても全くおかしくないのです。


「賞功不踰時」というのはこれなり

2019年03月05日 18:08

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/05(火) 17:59:17.91 ID:kXHf7c1b
(柴田勝家討伐後)

今回の柳瀬表で秀吉が切り崩した時の一番槍はことごとく近習の輩である。

その面々は、福島市松正則・脇坂甚内安治・加藤孫六嘉明・加藤虎助清正・平野権平長泰・片桐
助作直盛(且元)・糟屋助右衛門尉(武則)・桜井左吉(家一。原注:秀長近習也)である。

石河兵助一光(石川一光)は一番に駆け入り、冑の内を突かれて討死した。これにより、舎弟の
長松一宗を召し出して家督となしたものである。

その9人はよき席を設け盃を下して領知を遣わし、添えて黄金羅帛と感状あり。その文言に曰く、

 今回の三七殿御謀叛により濃州大垣に陣替えした時、柴田修理亮は柳瀬表に至り出で立った。
 そのため一戦に及ぶべく秀吉が一騎で馳せ向かうところに、心掛け浅からぬ故、早々と駆け
 つけて、眼前で一番槍を合わせた。比類なき働きなので褒美(原注:あるいは3千石。ある
 いは5千石)となして宛がう。ますます今後も軍旅の忠勤を抜きん出れば、勲功を計るもの
 である。よって件の如し。

  天正11年(1583)7月1日 秀吉判

軍書に曰く「賞功不踰時」というのはこれなり。

――『天正記(柴田退治記)』



福島正則、岐阜城を落とした後の書状

2018年12月09日 19:09

548 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/08(土) 21:11:53.48 ID:ad9LGzCa
福島正則、岐阜城を落とした後の書状


遠路よりの書状ありがたく拝見いたしました。私は羽三左殿(池田輝政)、
左京殿(浅野幸長)と相談しているところです。

一昨日の廿二日に三左衛門尉殿、左京殿、遠州衆が川越えをしようとした際
岐阜衆が少々出てきたので、一戦に及ばれ敵を追い崩し手柄とされました。
昨日は羽越州殿(細川忠興)、加左馬殿(加藤嘉明)と私が稲葉山へと取り詰め
すぐに(岐阜城は)落去しました。
中納言殿(織田秀信)のことですが、色々と降参のことを申されてきたので
小姓ども二、三人と共に尾州へ送りました。

こちらのことで歯がゆいこともあるでしょうが、羽三左、左京殿と談合し
秀頼様の御為によいようにするつもりですので、御心を穏やかにして下さい。
恐惶謹言

                        羽左衛門大夫
  (慶長五年)八月廿四日                 正則 
浅弾正様(浅野長政)


――『浅野家文書』


嘉明家中の者迄みな、前帯に

2018年11月15日 12:11

444 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 08:22:13.81 ID:wfNGKXgM
加藤左馬殿(嘉明)が密かに家来に物語した事によると

「事を競って居る時は必ず、帯を前に結ぶべし、後ろで結んではならない。
伏見で大地震が有った時、太閤(秀吉)は如何遊ばしたかと、何れもがご機嫌伺いに
走った。この時私よりも足早に行く者があり、彼に行き負けるのも口惜しいと考え、
人混みの中でそっと、かの者の帯の結び目をほどいておいた。
すると彼は門を入った途端帯がほどけ、刀脇差が地に落ち、これを拾い上げ帯を
結び直す間に、私は先に駆け抜けた、という事が有ったのだ。」

この事以降、嘉明家中の者迄みな、前帯にいたしたという。

(武功雑記)



445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 09:58:54.02 ID:0DfYpmTa
刀と脇差だけでよかったな
ボトム全部脱げて下帯丸出しにならなくて

446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/15(木) 11:49:41.15 ID:ZMC6mAH2
これがあるから三斎様は下半身露出しないふんどしを開発したよな

池田光政、お尻をつねられる

2018年07月15日 17:56

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/15(日) 12:18:31.01 ID:LUY+taW2
池田光政、お尻をつねられる


池田家臣の片桐半右衛門俊元*は元は織田家臣だったが、池田恒興が
桶狭間で戦功を挙げた際、信長に願い出て家臣にしたという。
同年には対斎藤龍興の押さえとして軽海西城を修築し居城とした。
その経緯上池田家中での立場は重く、恒興の四男・長政が9才のときに
息子がいない俊元の婿養子とした程であった。
池田輝政が三河国吉田を領するようになると、俊元は新庄城主となったが
慶長2年に亡くなったため、長政が片桐家の跡を継いだ。

ところが長政の正室だった俊元の娘が男子のいないまま早世したため
慶長10年に長政は、加藤嘉明の娘まんを継室として迎えた。
婚礼で嘉明が長政の屋敷を訪れると、輝政と利隆は丁重に接待したという。
11年には嫡男の長明が生まれたが、12年に長政が33才の若さで急逝してしまい
長明は母と共に松山に行き、そこでしばらく養われることとなったが
18年に輝政が死去し利隆が跡を継ぐと、長明は播磨に戻った。

ちょうどその頃5才になった光政(利隆の嫡男)が、長明の屋敷を訪れ
扇子を一旦長明にあげたものの、しばらくすると扇子を取り返してしまった。
そこに長明の母のまんが
「こんなことをする御心で、大国の大将になることが出来るでしょうか」
と言って、光政のお尻を強かにつねったという。

(光政が大人になった後)長明に向かって
「そちのお袋がきつい人なので、強かにつねられてしまったよ」
とこのことを話して笑うので、(その度に)長明は困っていたという。


――『明君逸事』

* 祖父は足利義晴に仕え、父の代から織田家臣となる。豊臣家重臣として
 有名な片桐且元は正室がこの片桐家の娘で、同族であるという。
 孫娘(池田長政娘)も且元の長男の采女に嫁いだ。


団右衛門を逃がす

2018年02月16日 21:42

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/15(木) 22:45:59.12 ID:iuGNdXUY
加藤左馬(嘉明)殿の家臣であった塙団右衛門(直之)と申す者を、福島正則が召し抱えた所、
左馬殿より『団右衛門の事は私が深く構い(奉公構)をした者であるので、御扶持は御放しと
されますよう』と申し来た。

正則は団右衛門を呼び、このように言った
「左馬殿より、お主がお構いされていることを申し来た。どうだ、私の肝煎りにて、加藤家に
帰参しないか?」

しかし団右衛門は
「有り難きことと存じます。ですが、どんな事があっても帰参するつもりはありません!」
そう、直に申した所、正則は
「そういう事なら、退去させよう。左馬殿よりの使者の者たちに馳走を出させ、待たせておくように。」
そしてこの間に急ぎ早舟を準備させ、これに団右衛門を乗せ早々に出船させた。

これを確認してから、正則は加藤嘉明の使者を呼び出し、直々に返答した
「塙団右衛門の事、お構いされていることを知らずに召し抱えてしまった。そのため早速、扶持を放した。」
これを聞くと使者たちは直ぐに帰っていった。
しかしこの時既に団右衛門は順風の中、大阪へとはしりぬけ、そこに隠れ住んだ。
加藤嘉明は使者の報告を聞くとすぐに、団右衛門への討手を四方へ派遣したが、ついに発見できなかった
という。

その後、大阪の合戦の時、豊臣秀頼が彼を召し抱え、その時松平安房守(蜂須賀至鎮)の陣所に
夜討ちに入り手柄を成し、明けて夏の陣にて討ち死にした。

(福島太夫殿御事)


小ネタ「地味な方の加藤さん」で

2017年09月12日 14:24

219 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/09/12(火) 14:01:47.81 ID:BebqZxQE
小ネタ
「地味な方の加藤さん」でヤフー検索をかけると
何の捕捉もなく先頭に加藤嘉明のwikipediaが
出てくる。



220 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 14:04:57.26 ID:zq9eIs7l
加藤光泰「地味にすらなれなかった」

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 14:36:22.50 ID:78lKO1+I
グーグルで検索してもワロタわwww
https://i.imgur.com/7433hNm.jpg
https://i.imgur.com/tdN2sfZ.jpg
7433hNm.jpg
tdN2sfZ.jpg

222 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 14:38:52.06 ID:+QnJlqGZ
空気だからしゃーない

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/12(火) 17:19:15.45 ID:NAm1IRRB
>>220
空気なおかげで文禄の役で前野長康といっしょに明軍に負けてるのも知られてないな
一応甲斐24万石の大名になってたんだっけか

河村の才知

2017年07月01日 15:06

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/01(土) 09:35:57.74 ID:or08M729
加藤左馬助嘉明が伊予の松山にあった時、藤堂和泉守高虎は今治に在城していた。
松山の枝城には、嘉明の弟・主馬が置かれていた。これは今治領との境目であった。

ところが、この境目において在地の争いがあり、高虎の領分の百姓が、主馬支配下の百姓に
殺される、という事件が起きた。

高虎は堪忍致せぬ事態であるから、主馬の所へ軍勢にて押し掛け城を踏み潰すとの噂もっぱらとなり、これが
飛脚により嘉明に伝えられた。これを聞いた嘉明は扇子を手に持ちながら
「さればこそ 人かよいけり あさぢはら」
という歌の上の句を2,3度唱え、暫く黙っていたが

「今、弟を人に殺されて堪忍することは出来ない。今後どうなろうとも、是非出陣して
高虎を討ち果たすべし!未だ主馬が死なぬうちに後責め致すべし!」

そう言って即座に陣触れし、その夜の五つ(午後8時ころ)出勢と決め、諸士ひしめいた。
老臣たちも黙ってこれに従った。

しかし、河村権七といい、彼はこの頃まだ若年で、家老の列に入っていたが末座に控えていたが、
彼が進み出て四方に主張した

「今少し、後思慮なされるべきです!何故ならば、今から出陣いたしましても、高虎の勢が
主馬様の所を攻撃するのに間に合いません。また噂だけで実際に藤堂勢の出勢がなければ、我らが
陣触れして出撃する意味もなく、かえって公儀を軽んじて私の軍を起こしたとの批判も受けるでしょう。
特に藤堂は公儀において重んじられていますから、何を企んで我等に対し手段を致すか、はかりかねます、
今少し実否を正して、その後に後出勢なさるべきです!」

これに嘉明も屈し、その夜の出勢は中止となった。二時(約4時間)ばかりを経て注進があったが、
藤堂の出陣は噂だけで実際に軍が動く様子はない、との事であった。河村の才知が功を奏したのである。

その後、藤堂高虎は公儀に対し「加藤嘉明は境目の紛争で我儘をいたし、陣触れまで行った」事を、
数通の実例を上げ申し上げたため、嘉明の立場は難しいものとなり、身上破却に至る寸前まで行ったが、
様々に弁明し別状無かったという。

(士談)


いつのまにか、同族になってしまった加藤s

2016年10月13日 17:54

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 00:46:44.64 ID:Y0ZJU9Fw
加藤光泰〔大洲〕、嘉明〔水口〕、清正〔跡、旗本の人となる〕系統の事

括斎(大関増業)が言うに、

今の水口の加藤氏、肥後の先代の主の加藤氏、大洲侯、皆同家である。
大洲の先祖は嫡子で水口の先祖〔嘉明〕は次子。清正はその姪かであり、兄弟ではないとのことだ。
その世系を知らない人の為に記す。

(甲子夜話続編)

いつのまにか、同族になってしまった加藤s



208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 07:32:05.95 ID:M+xN9isV
つっこみどころはそこなのか?
姪?だろ

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 07:41:56.20 ID:79/PQNWV
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7253.html
にもあるように、顔真卿「祭姪文稿」などでは姪は一世代下の血族を表すから間違ってない。

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 11:31:05.82 ID:M+xN9isV
ウィキでは1世代下の宗族となってたが
宗族=父系同族集団のことなのに女偏の姪がなぜ使われるのだろうか

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 19:59:18.60 ID:imbpxLIX
>>207
それを言った大関括斎とは元々空気加藤の子孫であの大田原三兄弟の長男が祖の黒羽藩を
継いだ人物だから

いやいやそれは僻事である

2015年12月25日 09:19

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/24(木) 19:23:49.59 ID:mS3DRJV8
加藤左馬助殿(嘉明)が家中の者を直ちに成敗致された時、少し手負いなされた
とのことを、いずれの人も利家卿の御前で御話になり謗りなさったが、利家卿は、

「いやいやそれは僻事である。両者身二つであるから、もし仕損じて手負い、
敵を逃した場合こそ落ち度ではないだろうか?

その者を仕遂げたならよくやったと申すべきだ。軽傷を負っても仕遂げたならば
落ち度ではあるまい。信長公の御時はそういう批評だった」

と仰せになり、「御もっともである」と、各々は申された。

――『菅利家卿語話(黒川本利家夜話)』