いつのまにか、同族になってしまった加藤s

2016年10月13日 17:54

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 00:46:44.64 ID:Y0ZJU9Fw
加藤光泰〔大洲〕、嘉明〔水口〕、清正〔跡、旗本の人となる〕系統の事

括斎(大関増業)が言うに、

今の水口の加藤氏、肥後の先代の主の加藤氏、大洲侯、皆同家である。
大洲の先祖は嫡子で水口の先祖〔嘉明〕は次子。清正はその姪かであり、兄弟ではないとのことだ。
その世系を知らない人の為に記す。

(甲子夜話続編)

いつのまにか、同族になってしまった加藤s



208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 07:32:05.95 ID:M+xN9isV
つっこみどころはそこなのか?
姪?だろ

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 07:41:56.20 ID:79/PQNWV
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7253.html
にもあるように、顔真卿「祭姪文稿」などでは姪は一世代下の血族を表すから間違ってない。

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 11:31:05.82 ID:M+xN9isV
ウィキでは1世代下の宗族となってたが
宗族=父系同族集団のことなのに女偏の姪がなぜ使われるのだろうか

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 19:59:18.60 ID:imbpxLIX
>>207
それを言った大関括斎とは元々空気加藤の子孫であの大田原三兄弟の長男が祖の黒羽藩を
継いだ人物だから
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いやいやそれは僻事である

2015年12月25日 09:19

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/24(木) 19:23:49.59 ID:mS3DRJV8
加藤左馬助殿(嘉明)が家中の者を直ちに成敗致された時、少し手負いなされた
とのことを、いずれの人も利家卿の御前で御話になり謗りなさったが、利家卿は、

「いやいやそれは僻事である。両者身二つであるから、もし仕損じて手負い、
敵を逃した場合こそ落ち度ではないだろうか?

その者を仕遂げたならよくやったと申すべきだ。軽傷を負っても仕遂げたならば
落ち度ではあるまい。信長公の御時はそういう批評だった」

と仰せになり、「御もっともである」と、各々は申された。

――『菅利家卿語話(黒川本利家夜話)』




丹羽家の太郎坊

2015年03月28日 17:33

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/27(金) 23:28:06.20 ID:5De09kWQ
丹羽家の太郎坊

加藤嘉明が会津四十万石を拝領して入部した時、白河にあった丹羽五郎左衛門長重は、かねてから
懇意の間柄でもあったので、会津まで入部の見舞いに行った。
これに嘉明は大いに喜び、酒宴を催して饗応し、酒も追々進んで興に入った時、嘉明はこのように言い出した

「今度のあなたの来臨は、どう感謝していいかわからぬほどである。
せめての事として、私が秘蔵する道具を進上しよう。」

そして太郎坊という刀を取り出し

「これは関ヶ原の一戦が終わった後、家康公より下された名刀なのだ。」

そう言って手ずから長重に渡すと、長重は大いに喜び厚く礼を言うと、どう思ったのか、
その日のうちに急ぎ若松を起って白河へと戻っていった。

翌日になり、嘉明は近臣たちを招き尋ねた
「昨日、酒の興に乗じて太郎坊を丹羽に譲ったような気がするのだが、まさかその通りか?」

「御意の通り、進ぜられました。」

これに嘉明たちまち不機嫌となり
「それは私が大酔して前後を忘却した上でしてしまったことだ!例の太郎坊を出せと汝らに申し付けたとしても、
遠慮して他の刀を出すべきなのに!
ともかく秘蔵第一の道具を人手に渡したのは是非もない次第である。急いで取り返すのだ!」

そうしてにわかに早馬をたて白河に向かわし、「件の刀は我家の重宝第一の道具であれば、返し賜るべし」
と申し入れたが、長重は

「重宝の賜り物ですから、お返し申すこと思いもよらず」

と、一向に取り合わなかったという。

この刀はもともと織田信長秘蔵の品で。明智光秀がこれを賜り、光秀が後にこれを愛宕山に奉納したのを、
豊臣秀吉が他の刀を納めてこれを取り出し、太郎坊と名づけた。その後徳川家康の所有となった。
長さは二尺三寸であった。

(刀剣談)





615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/28(土) 08:50:44.37 ID:oFwOfqpk
>>613
返せって言われたら

     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__////

ってやれば多分大丈夫だろその刀
そもそも太郎坊は愛宕山に住む天狗の名前
一説によると日本一の大天狗(後白河法皇とは別人)

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/28(土) 11:11:49.18 ID:xiYsLJmM
>>613
懇意の間柄だったのに重宝がもとで…
しかしこの時代って返さない奴おおいな
ごうつくばりばっかり

岸和田合戦

2015年01月31日 17:03

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 13:56:14.66 ID:u+cnralg
秀吉が小牧に陣を出す時、紀州の根来・雑賀の一揆を抑えるために、中村式部少輔一氏を
岸和田の城に置きなされた。

紀州の一揆は秀吉が大坂を打ち立つと聞いて、2万3千ほどの勢が二手に分かれ、一手は
東の山際から堺に向かい、一手は岸和田に押し寄せた。すると、血気にはやる若者たち
2,3騎が城を出て、攻め寄せる軍勢に向かって行った。

士大将の早川助右衛門、川毛惣左衛門は「引き返せ!」と、使いを送ったが、それを聞いた
一氏は、「このような時に、行き続く武者を引かせようとすれば、敗北するものだよ。
さあ、打ち出よう!」と、言って、“鉄蓋が峯”と名付けた兜の緒を締めて、城を乗り出した。

先に進んだ者たちは、菅笠の馬印を振り返って見て、「あっ、殿がお出になれた! この戦は
勝ったぞ!」と、言う間こそあったが、1万余りの紀州勢に対して面も振らず切りかかって
打ち破り、敵が七筋に分かれて逃げるのを追った。

一氏は3百ほどの勢で堂の池という所に控えて、先陣が帰るのを待った。そんな折に、堺海道に
馬煙が暗く見えた。これは堺に向かった敵が返して来たのだ。「新手の大軍に駆け合って戦う
なんて、思いも寄らないことだ。早く城に立て籠もろう!」と、人々が口々に言うと、一氏は、

「いやいや、退けば味方の気力が挫けて打ち負けることだろう。一寸でも退く時は、
先陣を捨て殺すことになり、城をも攻め落とされることになる。一揆は何百万といても、
先陣をさえ切り崩したならば、二陣はたちまち敗北することであろう。私に任せよ!」

と言い、敵が同時に攻め掛かり難い地の利を推量し、堂の池を前にして大敵をお待ちになった。

一氏は、「馬をことごとく城へ返すのだ。馬を引き付けておくと、引き退きたい心が生じるぞ」
と言って、床几に腰かけ、本陣3百ほどの勢は槍を膝の上に置いて片ひざをついた。

新藤勘左衛門は強弓、矢継早の手利きであった。彼はこの時、散々に射た。敵が射られて怯み、
手負いや死人が倒れ重なって躊躇った時、一氏は、「弓の者の羽壺(矢入れ具)を、勘左衛門に
渡せ!」と下知なされたので、勘左衛門はますますつがえては引いて、つがえては引いて、
矢に空矢は無かった。一氏は麾(ざい)を取り、「掛かれ!」と言って立ち上がった。

ところで、黒田如水は大坂にいたのだが、岸和田に敵が押し寄せると聞き、14歳になった
息子の長政が岸和田にいたので「いざ救うぞ!」と言って、7百ほどの勢で敵の後ろに駆けて来た。
これを見て一氏はますます進んで、喚き叫んで切って掛かり追い立てて、8百余りの首を取った。

如水が「長政はどうしているだろう」と思っていると、長政は黄羅紗の羽織を着て鹿毛の馬に乗り、
今朝討ち取った首を鞍の四方手に付けて馳せ巡った。それを見て如水はたいへんお喜びになった。

秀吉は一氏に感状を賜った。一氏は豊臣家諸将の中でも優れた勇将なので、加藤嘉明も羨み慕い、
息子の明成を式部少輔にしたということである。

――『常山紀談』



610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 14:32:25.26 ID:9HoDTP3/
信長を苦しめた雑賀衆が中村一氏ごときに追い散らされる様子が想像出来ない

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 21:11:47.00 ID:vlWoQ0Mm
孫一とかは秀吉側でしょ?
本能寺の時に逃げ出してから勢力を維持してるとも思えないけど

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 23:08:49.07 ID:23jTJFzj
>>610
根来雑賀は籠城戦では力を発揮するが野戦だとてんでダメなんだよなぁ

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/31(土) 23:28:31.87 ID:TtK/bThA
つか雑賀は石山本合戦の講和のあと、内部分裂して争い始めてるしなあ。
それで雑賀の鷺森に退去してた本願寺顕如の身の回りも危険になって、信長がわざわざ警備兵派遣したりしてる

加藤嘉明、仲間の悪口を言った者達に

2014年12月06日 18:54

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/05(金) 23:02:40.57 ID:8QLg9v3E
ある風の強い寒い夜のことである。

加藤嘉明は江戸桜田の藩邸内を見回っていた。
すると一室で若侍が二三人集まって仲間の悪口を言っている。

嘉明は知らぬ振りをして部屋に入り、前日獲った鴨を渡してこう言った。

「お前たちは災害の警備をしているな。慰労としてこの鴨をやろう。
これを肴に酒でも飲め。ただし朋輩を謗ってはならぬぞ。」

一同は恐れ入って言葉もなかったという。



313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/06(土) 03:49:29.81 ID:W0G6YswX
いいね

盥(たらい)に乗ってでも

2014年11月20日 17:51

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 09:08:37.14 ID:l80z4riQ
太閤は、高麗(朝鮮)の者どもが船を出して日本船の邪魔をしているというので、九鬼大隅守、藤堂佐渡守、加藤左馬之助(嘉明)、脇坂中務、
久留島(来島)らに退治を命じた。
そこで佐渡守の屋敷へ皆が集って協議していると、左馬之助がやってきて「なんで知らせてくれなかったんだよ!」と言った。
皆は「ここは安宅(大型船)を持ってるやつだけで協議してんだよ。お前は安宅を持ってないんだから教えなかったのは当然だろ。」と口々に言ったので
左馬之助は腹を立て、「安宅なんてなくても皆の集まりには盥(たらい)に乗ってでも参上する!」と言って帰って行った。

『弾塚助之進征韓紀聞』
引用元は参謀本部編「日本戦史 朝鮮の役」




843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 10:05:03.82 ID:bUh9RFbh
涙の捨てせりふ(´;ω;`)

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 10:07:24.44 ID:7AfqQ5uK
ジミだ。タライっていうのがさらにジミ度アップ。

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 10:33:40.62 ID:fPrFgDdN
地味どころかシジミですな

846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 10:42:02.61 ID:V1V66d1R
蜆は栄養価が高いんだぞ!

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 11:30:42.57 ID:w54PN1cb
ジミーの意志は彦左が引き継いだ

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 12:29:05.45 ID:4HaHXYef
やべ、ニコニコにある大公開時代のサントラ動画思い出した
あれにちょうど海に乗り出すたらいがあったわw

849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 22:37:07.07 ID:Y5ydmYUj
協議の場へ盥に乗って現れるのかと思った

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/20(木) 00:43:02.71 ID:nN8A1gZk
八丈島より泳いで参った!

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 13:50:31.42 ID:WiXHrUYD
>>842
ちなみに「日本戦史」でその逸話には「加藤嘉明の気概」ってタイトルがつけられてるから
つまり、やる気を見せた、いい話という扱いなのだ

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 23:17:54.78 ID:jRwsxZfR
タライで出陣とかよっぽどの気概が無いと出来ないしな

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/21(金) 23:40:42.82 ID:JvCl2kZo
別にキチガイにだって出来るだろ

加藤嘉明と焼けた火箸

2014年10月22日 18:54

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 20:06:57.02 ID:PqAwp755
加藤嘉明の近習たちがある時、焼火の間にて爐に炭火を起こしていた。
この時、近習の者達は寄り合って、火箸を焼き、これを灰に立ておいて人に取らせようとした。
知らずに火箸を使おうとして手にとって熱さに驚かせる、というイタズラである。

ところが、ここにやって来たのは主君である嘉明であった。
嘉明が火箸を取ると、手から煙が立った。
しかし一向平気な様子で、灰に一文字を書きそのまま差し込み、他の者達と物語などしたが、
手の痛む様子は全く見えなかった。

近習の者達は、もとより主君を驚かせようと思ってやったイタズラではなかったので、各々心中
大いに恐れていたが、翌日嘉明は医者から薬を取り寄せ、程なく完治し、その後何の沙汰もなかった。

(明良洪範)

加藤嘉明、イタズラを気にせず、というお話



91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 20:35:46.45 ID:YMTtV9cN
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-28.html
前に見たことあると思ったら6年前に一応出てたのか
出典はないけど

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 23:11:50.82 ID:tFKhZDfj
>>90
島津義弘版を読んだような

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/21(火) 23:42:45.68 ID:dTZPRtFD
地味加藤の痛覚おかしいだけだろw

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/22(水) 11:27:02.10 ID:5wAGXIVZ
作左や宗茂みたいに痛くても平気な顔してないと武将じゃないから

「大名に臆病者あり」

2014年06月09日 18:50

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/08(日) 21:31:39.48 ID:z+Y76WGw
太閤秀吉が、加藤左馬介(嘉明)に出した感状に、

「大名に臆病者あり」

という事を書いたものがある、これは、豊後に大友という大名があるが、その大友の事であるということだ。

(老人雑話)

義統の事がよっぽど悪印象だったのでしょうね…





和泉守は無謀の事をする男である

2014年05月30日 18:52

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 20:03:27.00 ID:LGbb3i91
藤堂高虎が渡辺勘兵衛を2万石で召抱えたことを伝聞した加藤嘉明が、このように言った

「和泉守(高虎)は無謀の事をする男である。それがしならば、2万石で2百石取りの士を
百人抱える。勘兵衛がたとえ鬼神であったとしても、侍百人が立ち向かったならば微塵と
なるだろう。」

高虎はこれを聞くと
「左馬助(嘉明)は知恵のない事を言うではないか。平侍の二百人や三百人が固めている所ならば、
踏み破っても通る敵が、勘兵衛の陣と聞いては、肝を冷やして避けるではないか。」
と言った。

(名将言行録)




392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 20:09:49.45 ID:ea/xCUnd
結果的にこの件に関しては地味加藤の方が正しかったんだよな。

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 20:48:00.24 ID:31t4RUZ/
知略系の武将だったら相手も警戒するけど、脳筋武将は数に圧倒される

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/29(木) 20:58:14.79 ID:w8YPQq8w
鬼武蔵に代表されるDQN型武将だと・・・

嘉明はそう言ったきり

2014年02月27日 19:09

474 名前:1/3[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 12:02:38.03 ID:F91xE93Q
池田光政の家老、池田伊賀守長明は加藤嘉明の外孫でもあり、父が早逝した長明は、一時期嘉明に
養われたこともあって、裸一貫から大大名にまでのし上がった祖父を大いに尊敬していた。

ある時、長明は嘉明にその武功を尋ねたが、嘉明の答えは「そんな昔のことは忘れたわい。」
と、そっけないものだった。

「ですが、おじい様は唐の島(巨済島)の海戦等で大手柄を立てた、と聞き及びますが……」

「十五~六歳の小姓が敵船に乗り移ろうとして、矢に当たり海に落ちて死んだ。かわいそうな事をした。」
嘉明はそう言ったきり、口を閉ざしてしまった。

475 名前:2/3[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 12:04:50.57 ID:F91xE93Q
慶長2年(1597)7月、日本軍は巨済島沖で朝鮮軍船団数百艘と対峙した。諸将は対策を話し合ったが、
加藤嘉明は「目に余るような大敵相手に、小勢で当たるのは如何なものか。」と主張した。

ところが肝心の嘉明隊から、敵船団に向かって行く船が現れた。

「あーこれはいかん。わが命に背くあの者共を止めてこい。」
嘉明の命により次々と船が漕ぎ出されたが、いっこうに先の抜け駆けした船に追いつかず、ついには
敵船団に迫ってしまった。

「うーむ。これは、わしが行って止めねば収まるまい。」そう嘉明が言い放つや否や、嘉明隊の全船が
動き出した。要するに、最初の嘉明発言からして仕組まれた、抜け駆けのための策である。

476 名前:3/3[sage] 投稿日:2014/02/27(木) 12:07:05.87 ID:F91xE93Q
河合庄大夫・庄次郎親子ら五人を連れた嘉明一行の船は、敵船団の中を進んでいった。
「殿、船はどちらに着けましょう?」「中央の大船に着けよ。」

船団の真ん中の大きな船に乗り移った嘉明一行を、敵は船内で剣を抜き、鏃を揃えて待ち構えていたが、
一行は恐れず敵中に飛び込んで斬りまくり、この船を乗っ取ることに成功した。
嘉明が船内から甲板に出ると、味方諸将の船団を追いついており、すでに火のついた敵船もあった。

嘉明一行は次の獲物を物色し、十六歳の河合庄次郎が真っ先に別の船へ飛び移った、その瞬間。
狙い撃ちされた庄次郎は海に落ち、そのまま浮かんで来なかった。(常山紀談より)


この武功等により十万石に加増され、大大名への足がかりをつかんだ嘉明だが、
己の無謀な策により海の藻屑と消えた若者たちがいたことを、生涯忘れていなかった。





君に歯をあげよう

2014年02月14日 18:22

353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/13(木) 23:44:51.91 ID:PTUORU8V
君に歯をあげよう


慶長元年冬。豊臣秀吉の奥歯が、抜けた
すでに60をこえた老人であるから無理もないことだった

彼はそれを拾い上げて、しばし眺めると

「これを、左馬介(加藤嘉明)に預けておこう」

そう言い出した

『一歯一本、其方ヘ預ケ置候也  慶長元年 極月   秀吉
                            加藤左馬介とのへ』


そんな手紙と共に、豪華なケースに入れられた歯が京都・豊国神社の宝物殿にありましたとさ
秀吉は嘉明のことを結構気にかけていたのかもしれないと感じたわ




354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/13(木) 23:53:05.86 ID:CUk0U8Ep
こんなもんいらねーよ糞ジジイwww

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/14(金) 00:02:47.44 ID:mhY8AtC7
呪術に使われるもんですのでね

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/14(金) 01:37:30.09 ID:AcbzGhjf
秀吉「あいつどんな顔するんだろW」

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/14(金) 07:54:24.52 ID:+JHJY72M
現代でも誰某の使ったなんちゃらがオークションでかなりの値がついたりするからなあ
矢沢永吉の奥歯だって価値が出るやもしれん

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/14(金) 08:01:12.67 ID://AIZCJn
>>353
…いい話なのか…

いい話…
いいはなし…
いい歯なし…

(゜m゜;)!

良い歯無しなのかっ!!

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/15(土) 09:23:53.03 ID:SXBHeHVN
>>353
ありがたやありがたやw 嘉明さんは真面目そうで好きな武将だからえがった

黒田家譜より、『賤ヶ岳の七本槍』

2013年11月15日 18:58

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 07:22:08.01 ID:iDc7XhX1
賤ヶ岳の戦いにおいて、羽柴、柴田両軍は南北の峰を本陣として対峙した。
両軍の先手は谷に降り合って槍を合わせる。
この時、秀吉方より先に、勇士を出して挑戦をさせた。
秀吉方の福島市松(正則)先駆して首を取り、秀吉の御目にかけた。

その他秀吉方の勇士、加藤虎之介(清正)、加藤孫六(嘉明)、平野権平(長泰)、脇坂甚内(安治)、粕谷助左衛門(武則)、
石川兵助(一光)、片桐助作(且元)、この7人が進み戦って柴田方の先手を北の嶺へと追い上げ、分捕り数多して
比類なき高名をなした。
これを以って世俗に『賤ヶ岳の七本槍』と号するのである。石川兵介はここでやがて討ち死にした。

福島市松は戦功優れたと言えども、別の戦場に居たため七本槍の数には入らない。

(黒田家譜)

黒田家譜より、「福島正則は七本槍じゃないよ」という指摘である。




752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 07:45:11.00 ID:nUvtZ25J
桜井さんは?

蜂須賀至鎮、加藤嘉明と片桐且元の争いを仲裁すること、二話

2013年10月09日 20:03

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/09(水) 18:07:47.67 ID:JoV1z0ES
ある日、加藤嘉明、蜂須賀阿波守、片桐市正は天龍川に集まり、宴会を行った。

この時、阿波守は嘉明に賤ヶ岳の軍状を尋ねた。しかし、嘉明は、
「私は普段よりも酒を飲みすぎてしまった。市正、どうかあなたに頼みたい」と言って、
酒に酔ってよい気持ちになりながら、あおむけになって寝てしまった。

そこで阿波守は市正にこれを尋ねる。市正はとても得意気に当時の戦況を語った。
その語りが嘉明の事に及んだ時、嘉明はたちまち起きて反論した。

「貴公の如きはもともと七人の中に加わるべき者ではなかった。それを私達諸将と
相談して太閤にお願いし、曲げて先鋒に列しさせたのだ。あの石子兵助の伏屍を
踏んで敵将を刺し殺したのは他でもない、この私だ!」

市正もまたこれに反論して譲らず、意色甚だ悪し。しかし、阿波守が二人の間に立って
調停したので大事には至らなかった。

――『鹿深遺芳録』

慶長八年、将軍宣下拝賀のために蜂須賀至鎮が江戸へ向かった時、ちょうど天龍川が
増水していて渡れないので、至鎮はしばらく滞留して減水を待った。

そこへ加藤左馬助、片桐市正(或は福島左衛門大夫とも云う)もまたやって来た。
ある晩の話の折、至鎮は賤ヶ岳先登のことを質問した。すると、二人の語る事が食い違って
互いに譲らず、終いには刀傷に及ばんとした。

至鎮は祖裼して二人の間に入って辞謝し、「それがしは無益の問を起こし、
おしはからずに公等の忌諱に触れました。本当に、このまま放っておくわけには参りません。

まずは、それがしが切腹して罪をお詫びします。その後で二公は良いように
事を処理してください」と表情を改めて決意したので、二人は大いに恥じて先非を悔い、
和解して事なきを得た。

程なくして川は減水したので、共に川を越えることができた。至鎮は二人を旅館に招き、
盃酒を勧めて別れたという。

――『峻徳公略伝』




287 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/10(木) 07:42:22.11 ID:ddF5PZEH
こんなんで切腹してたら戦国武将なんてやってらんねえだろうな

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/10(木) 08:03:03.73 ID:hQ0qrR0v
わかっててやってるだろよししげw
(やっぱこうなったしwww)って

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/10(木) 12:13:48.06 ID:kXmB4JVh
(´・Д・)。○(ちょろいぜ)

290 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/10/10(木) 15:00:39.62 ID:BrbjmR+T
どちらかが嘘つきというよりは、両方誇張して話してるから噛み合ないんだろうなー

しかしながら、嫡子の明成がいる。

2013年10月04日 19:43

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/04(金) 17:51:34.82 ID:fpB3YH0E
寛永四年三月十四日、加藤嘉明は新恩二十万石を賜り、松山から会津への移封を命じられた。

この時、嘉明は「かたじけなき恩命を拝受いたしましたが、会津は枢要の地でございます。
しかしながら、今となっては家臣の武事に馴れた者もすでに亡くなってしまいました。

この地を守る役目におこたえすることができません。できることなら、松山にいたく存じます」
と、これを辞退した。これに対して(将軍の?)「しかしながら、嫡子の明成がいる。

彼がどうしてお前に劣るだろうか。無理に辞してはならない」との仰せがあったので、
嘉明はふたたび断るまでもなかった。そして会津に移り、四十万石を領して若松城に住んだ。

――『寛政重修諸家譜』





432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/05(土) 01:08:04.45 ID:63EPQkxw
嫡子がアレだから、どっちにしろ駄目だったような

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/05(土) 17:14:24.46 ID:mWYlaOPV
会津って行く大名ロクな目にあってないように思えるのは気のせい?

434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/05(土) 18:26:23.26 ID:4BQaJR0y
要地だからな。
代替わりとかで任せられないと判断されたら速攻で減封移封

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/05(土) 18:27:24.42 ID:TpseN78i
譜代の鳥居ですら速攻改易だもんなあ

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/05(土) 19:40:25.20 ID:lr38n4dg
>>423
生死の淵をさまよっていたとか関ヶ原本戦時とかでも本調子じゃなかったろうに
あの激しい追撃とかやっちゃうのか

藤堂高虎「仲直りの条件」

2013年09月26日 19:43

204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/26(木) 01:19:46.68 ID:lhNIVHa0
藤堂高虎「仲直りの条件」

藤堂高虎の推薦もあって会津四十万石の守護となった加藤嘉明は、
高虎の屋敷に出向いて礼を述べた。
「年来の不和でありながら、恨みを捨てての推薦、光栄に過ぎまする。
貴殿の厚い恩には感謝の言葉もない。
旧怨を捨て、これよりは末永く交わって頂きたい。」
高虎は応えて、
「推薦は公事、不和は私事である。
貴殿の知恵と勇気を将軍へ申し述べたまでじゃ。
さすが将軍の見極めは、喜びに耐えぬ。
これよりの親しい交わりはもとより願うところ。」と言った。
嘉明は饒舌であった。
「かくなるうえは、お望みがあれば何でもそれがしにお申しくだされ。
決してお言葉には背くまいぞ。」


さて、嘉明の庶子に伊予松山の山林を支配する甚右衛門という男がいた。
藤堂家と加藤家が四国で隣り合っていた頃である。
甚右衛門は生来の酒好きで、隣藩藤堂家の美酒の醸造に優れた士と懇意にしていた。
ある時、藤堂藩では今治城の普請のため、材木、杉皮等が多量に必要となった。
これが甚右衛門の尽力により、安く買い入れられたのであるが、
それを知った嘉明は激怒した。
「不仲の藤堂家に良材を送るとはけしからん。討ち取ってまいれ!」
甚右衛門は藤堂領に逃げ込んだ。
高虎は、
「窮鳥が懐に入れば猟夫も殺さず。甚右衛門を捕らえさせてはならぬ。」
と、彼をかくまった。
甚右衛門をいっこうに捕らえられない嘉明は、高虎をますます恨んでいた。


「甚右衛門を許してやって欲しい。」高虎は、嘉明の言葉を聞いてそう申し出た。
「無理。それだけは、応じがたい。」嘉明は、きっぱりと断る。

「ならば、これよりの親睦もまた応じがたい。」高虎が言うので、
嘉明もついにこれを譲り、甚右衛門を藤堂家に預け置くこととした。
「・・・・っただし、武士としては取り立てないよう願いたい。」

甚右衛門は、武士の籍にこそ入らなかったが、藤堂家の扶持を受け、
一時は代官職も任されたという。

                      (高山公言行録、加藤甚右衛門由緒書)




205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/26(木) 23:39:09.81 ID:PNUL3oGj
何でも言うことを聞くって気軽に言える人は信用できんな

206 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/26(木) 23:41:57.96 ID:w1xUuMgr
結局、松山城つくった後の地味会津移動は
藤堂の嫌がらせだったのか、私怨を忘れた行動だったのか

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/27(金) 02:10:30.34 ID:o4dgIL13
高虎の場合どっちもという可能性も捨てがたい
という冗談は置いといて、会津に誰を置くかってのは重要な人選だから私怨ではないと思うよ
会議の席での話だから周囲も納得する人じゃないといけないしねー

208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/27(金) 07:47:25.29 ID:7XzuOQFI
嘉明って頭おかしいの?

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/27(金) 20:16:28.22 ID:V1YMHe6H
優秀だよ

幕府は嘉明の術中に

2013年09月20日 20:00

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/20(金) 18:15:26.20 ID:GXlqmBUh
加藤嘉明は二十万石の大名となり、正木は狭くゆとりがないと共に要害として
好ましくないので、勝山に築城しようとした。そこで幕府の許可を得ようとした際、

方略上の候補地を第一に御幸寺山、第二に天山(一説星の岡山)、第三を勝山として
申請したところ、幕府は勝山を指定して嘉明の術中に陥ったという。

――『加藤嘉明公(這は後人の付会説ならん)』





「六十にあまりしまでのねんさいを」

2013年08月16日 19:53

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/16(金) 16:36:44.62 ID:y/DTOoie
加藤嘉明は府中屋念斎夫妻と仲が良かった。念斎は財産家でいわゆる御用商人である。

念斎は嘉明の頼みに応じて、松山市街創設の際に町家の地割を行い、その経営に尽力した。
また、独力で濠を堀り、これを念斎堀と称した。

この念斎はそそっかしい性質で失言することが多かった。妻はこれをとても憂慮して、
嘉明に夫の性質を正してほしいと求めた。

これに嘉明は「不覚は大事というわけではないから、それほど気にとめなくともよい。
一日に三回までの失言は許しなさい。それ以上の時は注意しなさい」と答書してその末に歌を附した。

「六十にあまりしまでのねんさいを、いまさらしめすつまのやさしさ」

――『加藤嘉明公(伝説、仲田文書)』





914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/16(金) 18:27:55.05 ID:hP62bGop
>>913
加藤さんにも、こういう歌をよむような洒落っ気があったんだなぁ

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/08/16(金) 18:37:11.06 ID:yNmQ+qR7
三才「3回でアウトな」

加藤左馬助嘉明は武辺の吟味残る所のない人である

2013年07月24日 19:51

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 20:12:06.54 ID:BTaLqH8H
左馬助嘉明は武辺の吟味残る所のない人である。

家中の士が具足甲冑頬当をすれば戦場で見ても誰だか判らなくなる
だろうと、家中の士の具足冑前立までそっくり違わぬように極彩色で
描かせて、その者の姓名を記した。

会津城広間の番所から書院に至るまで屏風を何双も立て置き、諸士
が互いにこれを見知るようにされた。

もし誰かが具足を威しなおす等、品の変わる事があれば役人までこれ
を届けさせ、絵師がかの士の許へと行って、とくと見届けさせてから
前々の絵を書き改めさせて張り直した。

六尺の六枚屏風に六人づつ描かれていたが、大大名であったので
全ては描き尽くせず、侍大将・組頭・物頭・物奉行・小荷駄奉行・目付・
横目・あかし・使番等が出されていた。

馬廻の士は一手一手の旗指物、相印で区別が付いた。

その頃、諸家においてはこれを取沙汰して、もっともよい格式である
と評判であった。

(当代奇覧)




757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 20:39:07.47 ID:pLWRatP9
この屏風が残っていればものすごい史料的価値があっただろうに

加藤嘉明、時に十三歳

2013年07月15日 19:52

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/15(月) 18:51:44.42 ID:wcFOw4zh
天正三年より、加藤嘉明は近江長浜の羽柴秀吉に仕えた。
秀吉は嘉明を養子の秀勝に近侍させた。時に十三歳。

天正四年、秀吉が播磨を征伐するや、嘉明は主の秀勝に暇を告げずに
おもむいて軍に従った。夫人(政所)は怒って秀吉に、

「孫六は無頼な者です。早くお帰しになってください」と書を送ったが、
秀吉はその盛んで勇ましい志に感心して嘉明を軍中に留めた。

――『加藤嘉明公(家譜)』





東軍諸将の作戦は様々だった

2013年06月20日 19:54

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/20(木) 00:15:29.06 ID:aB7oSDM+
岐阜城の戦いでは東軍諸将の作戦は様々だった。

「根小屋を焼き軍を徐々に引くべきだ」

井伊兵部殿がそう言うと対して加藤左馬頭が申し出た。

「根小屋を焼こうとすれば敵方はそうはさせぬと出てくる筈だ。
この機会にこそ討ち取るべきである」

根小屋を焼いたら左馬頭の謀の如くして勝利を得た。
それ故に左馬頭殿は自画自賛の心を持って
それにつけ兵部殿はどんな謀で根小屋を焼こうとしたのやらという態度をしたようなしないような…。
これを兵部殿は奇怪なことだと思った。

その後、兵部殿は手に怪我を負った時、左馬頭殿よりの見舞いの使者が遣わされた。

「何故に御手にお怪我を負われたのですか?」

「はあぁ?何故に怪我をしたのかだと?
敵の近くに寄ったからに決まっておろう」

というやり取りがあった。

(武功雑記)




900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/20(木) 00:48:43.70 ID:aB7oSDM+
岐阜城の戦いでの作戦についてはジミーのWikipediaにある『明良洪範』の記述と違いますね
直政が「一気に総攻めにして抜くべき」と言い
対してジミーは「一気に抜くことは不可能だ」と慎重になっていて
結局ジミーも「敵は守りが十分じゃないから一気に倒す事が出来る」と
なんだ結果としては最初に直政の言った作戦通りじゃね、という事になってます

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/20(木) 12:17:21.44 ID:XsocPi2K
なんか地味加藤さんがアホに見えたぞ