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加藤の亡魂

2017年06月14日 19:00

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:02:25.08 ID:OUrzwPNV
加藤肥後守(忠広)が没落以後は、
熊本の城は細川肥後守(忠利、越中守?)が横領して入城したが、
その後には城内外で家鳴り等がして騒がしかった。
加藤の亡魂が念を残したからだと申し伝わっていたので、
細川公は残念な事であると、菩提寺にある加藤が着ていた具足を乞い受けて、
天守の四重目に納められたら、その後に静かになったとか。


『武士としては』



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:05:07.82 ID:e6F4knWm
横領とは酷い表現だな

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:34:30.30 ID:WE0HmbYS
「横領」は明治中期以降に出来た言葉らしいが、原文はどうなんだろう

27 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/14(水) 09:53:05.94 ID:xVPK1Uvj
>>22
              :ill||||||||||l:
             :i|||||||||||||||
           /''';:|||||||||||||||||l:、
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28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 10:16:45.54 ID:TDMsc1AT
忠広の生霊か
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かへすゝ良くゝ御ようしやうなさるへく候

2015年07月02日 15:40

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 19:08:23.66 ID:l403MoGk
「かへすゝ
良くゝ
御ようしやう
なさるへく候、いよゝめてたき
御さうまち申候、
六月六日の御文、
たしかに
とゝき申候、おとゝさま
御わつらひ、すこ
しつゝよく
御さ候よし
うけたまハり、
めてたく存候、
上方よりくすし
やかてまいり候ハん
まゝ、いよゝ
御本ふくな
さるへきと申
まいらせ候、よく
ゝ御ようしやう
なさるへく候、
めてたくかしく、
六月廿八日
とら藤
おかかさま□□□」
(慶長十六年六月二十八日付 正応院?宛て 加藤忠広自筆書状 本妙寺所蔵)

意訳:
「どうかよくご養生なさってください、嬉しいお知らせを待っています。
6月6日の手紙は確かに届きました。
お父さんの病気が少しずつ良くなってきたと聞いて嬉しく思います。
上方からのお医者さんがもうすぐそちらに着くそうなので
きっと元気になると思っています、しっかり養生してください。
6月28日 とら藤より お母さんへ」

父親の加藤清正が病に倒れたとの知らせを受け、当時江戸に居た加藤忠広
国許の生母の正応院(玉目氏)あるいは継室の清浄院(水野氏)に宛てて送った自筆書状。
手紙の日付を見て悲しくなったので「悪い話」としてこちらに。




11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 19:56:33.36 ID:GRwVQ/AE
当時熊本からなら5日はかかったんじゃない?それでも遅いけどw

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 20:42:44.24 ID:sBZv/hoe
熊本から江戸だと1300kmくらいかな
届くのに22日なら1日60kmくらいの移動距離だろうか


13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/01(水) 23:17:45.31 ID:lmB6mT5K
手紙が熊本に着いたころには・・・だな。

しかし、当時電話とは言わないまでも、
電報があったら歴史はどうなっただろうかと時々思うわw

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/02(木) 00:53:05.07 ID:5gWZB0YA
忠広ママの正応院は忠広とずっと一緒にいたらしいから
多分清浄院宛の手紙だろう

忠広はこの時は徳川方の清浄院を慕ってる感じだけど
この後玉目氏方と徳川方は対立していって
忠広も徳川方に反発していくという…

あれはこの前兆であったのか

2013年07月24日 19:51

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 20:12:40.70 ID:BTaLqH8H
加藤家で寛永8年に不思議なことがおこった。
隈本城内の桐の木に冬瓜のような果物がたくさん生じたのだ。

諸人はこれは珍しい事だ。この先はどうなるのだろうかと、そのまま
熟するまで置いておくことにした。やや熟する頃になってこの果実を
内から鼠が食い破って出てきた。

人々はいよいよ怪しんで、この果実をことごとく切り割ってみると、
中には全て鼠がいた。

その鼠をことごとく打ち殺して捨てると果実の中に鉈が一つあった。
これを見て不思議奇怪な事だと言いあうばかりであった。

しかるに翌寛永9年6月に肥後守忠広・同嫡子豊後守光正父子ともに
配流に処され領国を除かれた。

あれはこの前兆であったのかと皆がささやきあった。

(翁草)



86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 20:18:33.86 ID:yoixS8L8
どうみても前兆の方が大事件

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 21:09:02.49 ID:2/fKpHuz
実の中から生きてるネズミが飛び出してくるのと
真っ二つに割れたネズミの死骸が出てくるのと
どっちが嫌だろう

どっちも嫌だ
ドラえもんなら地球破壊してしまう

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 21:11:59.23 ID:kxAEA4x0
これが事実とすると桃太郎のこともおとぎ話とは言い切れない所があるな

成富兵庫、加藤家籠城の心配に

2011年02月16日 00:00

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 02:20:32 ID:jmjWCCD8

加藤清正の息子である忠広の改易が決定した時の話。
加藤家は武勇の家として知られていた為、この改易に抵抗して、熊本城に篭城するのではないか、との
噂が流れた。

そうなると鎮圧の軍を出さなければいけないのは九州諸将である。
佐賀の鍋島家でも今後の事に関して、重臣の間で評定が重ねられた。

その評定の場に呼び出されたのは成富兵庫。
既に隠居した老人の身であったのだが、家中でも特に加藤家と親しく付き合っていた事から、『事情通』として
招聘されたのである。


「はぁ? 篭城!? 加藤家が!? ないないないない!! 絶~~対にない!!」

成富兵庫、自分が呼び出された用件を聞くなり、そう断言した。

「しかし兵庫殿、加藤家は先代清正公以来の武勇の家。そう素直にお取り潰しに従いますかな?」
「加藤家が武勇の家っちゅうのは清正公の頃の話じゃろ!清正公や、公と共に戦った勇者は皆死に絶え、
今ではすっかり贅沢三昧の家風に変わってしもうた。熊本城には、篭城出来るだけの金も兵糧も残っとらんよ」

その上、秘かに幕府の方でも加藤家を警戒し、肥後の商人から米を買い取り、上方に持ち出してしまっていたという。
これでは戦いたくとも戦えない。
加藤家は大人しく改易に応じるしかなかったのである。




825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 03:25:41 ID:12FwCu8N
成富兵庫の逸話大儀である、このカッパのミイラをやろう
…しかしこの人清正死んだあとの加藤家とも付き合いあったのね

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 03:34:33 ID:GnOqSWLq
市松+広島城という夢のコラボでもあっさり改易っていうか転封されてるのにそれ以下のスペックで籠城は無いだろ

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 11:24:26 ID:YLyN703/
光秀がガラシャ助けに来た時、元親も来ると思ったが結局山崎で死んだままか

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 11:26:38 ID:YLyN703/
誤爆すまない

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 12:02:03 ID:k/6hapsQ
元親さんは四国統一のための遠征につぐ遠征でボロボロだったから・・・

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 18:59:22 ID:P0Ix4H4A
>>826
熊本城だけでもかなりハイスペック
全国の様々な城や城跡を見た事があるが
兵糧攻め以外に攻略方が思いつかんかった
丘にある城、平地にある城、両方の利点を持ってる
当時貧しかった肥後でこれを完成させた清正は悪い意味でスゴいと思う


831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 19:06:53 ID:dQGmBJ0o
まぁ薩摩兵がリアルに落とせなかった城だからな…あの城はガチ。

忠広当時の徳川にゃ後顧の憂いもないし徹底抗戦しようったって何を待つんだって話だし
当たり前のように落ちただろうけど。

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 19:11:05 ID:KeUtXPRC
>>830
熊本城が大規模な城になったのは細川時代の拡張のため。
加藤時代は対島津のみを想定した、比較的規模の小さい城だった。
細川時代も熊本城の戦略目的は対島津の押さえで、縄張りを見ればわかるが
薩摩方面以外の防備は非常に薄く弱い作りになっている。

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 19:18:27 ID:2J21xXcn
>>832
逆に言えば、その頃から対薩摩用として作られてたのか・・・破却される予定だったのを鎮台にしたのは
正解だったんだな

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 19:18:59 ID:kS2A6JE5
>>832
北は田原坂とか砦施設でカバーしてる感じ

835 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 19:20:26 ID:QJglTUBP
TERUが珍しく本気出して造った広島城は大坂城にも匹敵する城だったらしいけど、大きすぎて守備兵が足らんだろ。

忍城や上田城みたいに小さくても持ちこたえる城もあれば
八王子城みたいに巨大な城でも守備が1500人くらいだと1日で
落城したりする

836 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 21:44:50 ID:puFtS76j
武田の新府城も規模が大きすぎて篭城できんかったな

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 21:50:24 ID:ykU9a49x
勝頼ェ・・・

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/15(火) 21:50:47 ID:KeUtXPRC
本能寺の後安土城を焼いたのも、誰が焼いたかともかく結局はそういう事だろうね。
守るには大きすぎて防衛に人数を取られすぎるし敵に取られても困る、って事で。

加藤忠広の大力になりたい・悪い話

2008年10月16日 00:43

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/07/09(水) 09:46:06 ID:dm3qyj1K
ある時、加藤忠広は
「余は武勇では到底、父・清正には及ばない。もっと、大力の持ち主になりたい」って、家老の飯田覚兵衛
に語った。
忠広を暗君だと思っていた飯田は、主君がめずらしくまともな反省の弁を述べたので、
「大力でないのは生まれつきゆえいたし方ありませぬ。しかし、その分学問に励まれて知将になりなされ」って励ました。

それを聞いた忠広は薄ら笑いを浮かべ、
「大力であれば、戦場で鎧を2重に着込むことができ、命を落とさずにすむだろ。余が大力になりたいと言ったのはそういう
意味じゃ。覚兵衛は何か勘違いしておるのう」と言った。
覚兵衛は、やっぱバカ殿じゃん…と暗澹たる気持ちになったとさ。