fc2ブログ

「武家閑談」から朝鮮での加藤清正の用心ぶり

2023年03月09日 18:29

700 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/08(水) 19:50:34.21 ID:5gsbhMFH
武家閑談」から朝鮮での加藤清正の用心ぶり

庵原助右衛門(庵原朝昌)が物語ることには、加藤清正はもちろん抜群な大将であるが、常々もすぐれていたという。
高麗陣のとき、釜山海より二十日ほどの地域は日本勢がかためており、七、八里ごとに城を築いて「繋ぎの城」といっていた。
戸田民部少輔(戸田勝隆)は密陽の城に、清正は全州にいた時に、日本からの指示で清正が帰国することになった。
全州から五日目に密陽には着くことになっていた。
戸田は清正の旧友なのでよろこび、城を掃除して馳走をたくさん用意した。
そして家老である真部五郎右衛門(真鍋貞成)と神谷平右衛門を道まで迎えに出した。
午の刻すぎに真鍋・神谷は密陽の城から四里ほどのところに出ると、清正の先手勢が見えた。
そのころは東西二十日、南北十日の朝鮮の地域は治っており、敵もいなかったため、戸田の家老二人も華やかな羽織袴で鎧を着ることもなかった。
しかし清正の部下たちはいずれもものものしく、箪食(弁当箱)つきの旗指物をなびかせ、鉄砲の火縄にも火をつけ、児小姓まで鎧、面頬までつけていかめしい姿であった。
妙法蓮華教の旗を押し立て、磨いた鉄砲を五百挺真っ先に立てていた。

701 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/08(水) 19:52:41.95 ID:5gsbhMFH
清正は溜め塗りの具足に金の蛇の目を書き、例の銀の長烏帽子の兜の緒を締め、頰当、はぎ当、すね当、飯箪までつけ、草鞋をしめ、
銀の九本馬蘭の馬印を自身の背に指し、月毛の馬に白泡を噛ませて来た。
戸田の家老たちが道を避けて畑の中に下馬しているのを見た清正は
「戸田民部殿の使者か、御大儀である。
おっつけ城に着陣するが、小姓たちも汚れているので、風呂を用意し、下々にまで湯をたくさん浴びせていただきたい。
このよし、民部殿へお願い申す」と声高におっしゃった。
真鍋・神谷は「かしこまりました」と馬に乗り、先に帰って戸田に申し述べた。
ほどなく清正が城に到着したため、戸田が出てみると、大馬印を指していかめしい姿であった。
縁側で戸田の小姓二人が清正の馬藺や草鞋やすね当などを解いたところ、清正が腰につけていた緋緞子袋の口が解けて、座敷の畳に落ちた。
そこには米三升、干味噌、銭三百が入っていてかなり重かった。
戸田はおどろき「十里半里に敵もいないのに、重いものを腰に下げ、しかも馬印まで指すとはいかなることですか」と尋ねると
清正は「そのことだが、とかく一大事は油断より出るものです。
たしかに敵がいなければ安心するものですが、急事が起きて油断するようでは今までの武功も水となってしまいます。
下々の士卒はただでさえ油断しがちなのに、清正の心までゆるむと、下々はよけいに帯の紐が解けて怠けるでしょう。
我が身を顧みず油断がないようにすると、下の者は上の者を学ぶと言いますので、このようにしております。
一人の心が万人に通るとも申しますし」
と言うと、戸田民部は感激して涙を流したという。



スポンサーサイト



「武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正と福島正則

2023年03月07日 19:00

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/06(月) 23:10:13.65 ID:h0QaWSzD
武家閑談」から朝鮮出兵の時の加藤清正福島正則

高麗陣中で肥前名古屋(名護屋)へ注進状を送るため、諸大名が判(花押)をすえることになった。
加藤清正の判形が細かくて手間がかかっていた。
福島正則は「清正の判はむずかしい。だいたい判というのは無造作なのがよい。
重い病となって遺言状に判を書くことになったら困るだろう」と申した。
清正は「われは戦場で国の土を枕として死のうと思うゆえ、病死の時に臨んで遺言状を書くことなど考えもしない。
この判で問題はない」と申したという。

死因が病死なので悪い話の方に投稿しておこう。

加藤清正の片鎌槍について

2023年01月14日 19:12

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/13(金) 22:26:27.80 ID:iXo+cHzD
武家閑談」より加藤清正の片鎌槍について

天正十六年(1588年)霜月五日、加藤清正は天草伊豆守(天草種元)との一戦の時に十文字槍を突き折ってしまった。
それ以来、片鎌になったことは天下が一同に知るところである。
もっとも、元々片鎌だったという説もある。
寺沢兵庫頭忠高(寺沢堅高)の家人が物語るには、清正が鎌を折ったのは仏木坂という所で、その折れた片鎌が今でも仏木坂の社に保管されているという。
所望の人がいれば取り出すことができるそうだ。
また清正の片鎌槍を見た人の話によれば、十文字の月剣であり、志津の作で直刃、さやの穂は熊の毛、横手は黒ラシャだという。
瘧(おこり)を患っている者がいれば、熊の毛を1本抜いて頭に載せれば瘧が落ちるという。



565 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/01/16(月) 16:05:07.58 ID:Z0LWwUBl
>>554
https://bunka.nii.ac.jp/heritage/131010/_478275/131010_478275520837061644187_900.jpg
131010_478275520837061644187_900.jpg

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/523895
加藤清正の片鎌槍は、娘の瑤林院が紀州徳川頼宣に輿入れする際に持参した嫁入り道具として紀州家のものとなり、
現在は東京国立博物館に所蔵されています。
常設展示ではありませんがタイミングが合いましたら是非ご覧ください。

拙者の人数はいよいよ繰り越しで

2022年12月18日 16:21

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/12/18(日) 10:10:32.74 ID:ZivHAIKe
関ヶ原の後(色々あって)、九州では立花左近(宗茂)殿の御城は肥後守殿(加藤清正)が接収した。

これに出兵していた黒田如水も、この扱いによって事済んだのだが、その夜に入ると同時に、立花に対した陣を
引き払うと薩摩へと取り掛かり、肥後の先、佐賀関という場所に陣を替えた所で、島津殿は居城へと入った。

この事について、如水の分別によって、金吾殿(小早川秀秋)の御国である筑前の仕置を申し付け、
三千石の金吾殿の御蔵米を借り受けたのだが、それは薩摩陣への用意であると言われた。

三千石の兵糧は早くも佐賀関に到着した。案の定、(徳川家康より)薩摩陣と仰せ出された所で、
肥後守は如水へこのように断りを入れた

「薩摩への入り口は肥後国です。如水の御国は後方ですから。先手は私が仕るべきでしょう。」

これに対して如水の返事は
「我々は(薩摩との国境に)既に到着しております。そちらがこちらに着けば、拙者の人数は
いよいよ繰り越しで先に出陣すべきでしょう。」

この返事について肥後守殿の分別は
「御所様(家康)が現状の御分別を変更し、突然扱い(和平)となる可能性もあるのに、如水は
指し争い早くも薩摩に入ろうとしている。これは指示を受ける下の立場の者が事を破るにも似ている。」

そのように考え様子を見ていた所、案の定、島津陣は来年の春と仰せ出になったために、如水も国へ引き取った。

川角太閤記



政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ

2022年10月06日 18:35

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/05(水) 21:09:37.08 ID:xyMAVVrP
伊達政宗の生前の言葉を書き残した『命期集』より
政宗お得意のイタズラ兼話術、レジェンド一同もはしゃぐ
まとめにある話ですが、ディテールが抜けているので投稿

(政宗の)あるときの仰せでは、太閤が伏見におられたとき、城のなかに御学問所と名付けた座敷を造り、四隅に数寄屋(茶室)四つを設け、東西の諸大名に茶を振る舞った
亭主は四人で、太閤と家康公、前田利家公と私(政宗)だった
太閤も残る三人も良い葛籠を持ち寄り、自分たちで寝床を敷き、四人は枕を並べて夜もすがら、昔物語をして楽しんだ

さて、四つの数寄屋はくじ引きで決めてそれぞれ四人が受け取り、水屋以下、お勝手料理の間もそれぞれの数寄屋に設けられていたので、四人とも料理なども隠し合い、工夫をこらしていた
(秀吉から)客が誰かはまったく知らされていなかったが、次の日になると(政宗の客は)佐竹義宣浅野長政加藤清正上杉景勝であるとにわかに告げられ、仲の悪い衆ばかり客に仰せ付けられた
なんとか変わった趣向を行おうと思ったものの、にわかのことでなかなかできなかった
季節が若菜の芽摘みの時期だったので若菜汁ばかりつくり、できうる限り沸かし返し沸かし返し、熱くして出した
そのため、しばらく置いても冷めずに(佐竹らが)迷惑していたところ、早々と替えの汁を出してなかなか一口も飲めなかった上に、また先のごとく汁を替えて出した
まもなく酒を出し、始めから終わりまで迷惑した

振る舞いも終わって御学問所に四人は寄り集まり、その日の亭主としての接待ぶりを順番に語り合った
私(政宗)が「今日の客は一段の日頃からの知音(親友)だったのでどのような馳走をしようかと思ったのですが、うまくいきませんでした。(寒い冬の時期が)旬だったので若菜の汁をできるだけ熱くしてお出ししたのですが、飲んで一口目で怪我をしたのでしょうか、しばらく箸を唇にくわえたまま舌打ち(現代でいう舌打ちと、舌鼓を打つのダブルミーニング)をしてございました」と話した
太閤は「さてもさてもしてやったり、してやったり。一日の亭主だがこれは古参(のようなもてなし)である」と二度も三度も躍り上がり、腹を抱えて笑ったので、伺候の人々は座敷にいかね、腹を抱えてともに大笑いした
その末に次の日の客選びの相談をした
このように太閤が遊びをされたこと、天下の諸大名を組み合わせたことは、仲違いした者同士の仲直りをさせようという奥意があったと後に知ったと(政宗は)仰せられた



「男道不成者之験」清正公の怖すぎる遺言

2022年10月03日 19:09

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/10/02(日) 19:18:16.99 ID:j4G0KnUe
清正記』より
「男道不成者之験」清正公の怖すぎる遺言

清正は侍従に任じられ肥後守になると、その後は方々への書状などには肥後守と認めた
ただ、何か後代まで残るものには主計頭と記した
ましてや遺言には好んで主計頭と署名した
清正が家中に申し渡した七ヶ条
大身小身によらず侍どもが覚悟すべき条々
一 奉公の道は油断してはならない。朝は辰の刻(午前八時前後)に起き、兵法を学び食事をし、弓鉄砲を射って馬に乗りなさい。武士の嗜みよき者には別に加増する
一 気晴らしに出るなら鷹狩り鹿狩り相撲など、このようなもので遊山しなさい
一 衣類は木綿紬にしなさい。衣類に金銀を費やし生計が成り立たぬ者は曲事である。身分相応に武具を揃える者に助成すべきで、軍用なら金銀を与えよ
一 普段、同僚と付き合うときは客一人、亭主一人以外では話をしてはいけない。(振る舞う)食事は黒飯にしなさい。ただし武芸を行うときは大人数でやりなさい
一 軍、礼、法が侍が知っておくべきことだ。いらざることに美麗を好む者は曲事である
一 乱舞は全面的に禁止すること。大小の刀を手に取れば人を斬ろうと思うものだ。しかる上は万事は心の置き所で決まるのだから、武芸のほかの乱舞稽古を行う者は切腹に処せよ
一 学問は情を入れて兵書を読み、(また)忠孝の心がけをもっぱらにすること。詩歌句歌を詠むことは禁止である。心の賑やかしだの風流だの弱きことを言う者はいかにも女のようになるものだ。武士の家に生まれた以上、大小の刀を手にとって死ぬる道こそ本意である。常々武道を吟味していないと潔い死に方はしにくいものなのだから、よくよく心に(自分は)武士だと刻むことが肝要である
右の条々、昼夜あい守り、もし右の条を守りがたいと思う輩があれば暇を与えよ。速やかに吟味を遂げ、男道ならざる者の験(しるし)をつけて追放することに疑いがあってはならない。よってくだんの如し
加藤主計頭清正在判
侍中


男道ならず者の印、いまに続く破門状の回付なのか、はたまた焼き印かなにかなのか



「大いに快きかな!」

2022年03月17日 18:20

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/17(木) 18:07:38.72 ID:JSQj1OF4
加藤清正の股肱の臣である庄林隼人(一心)、森本義太夫(一久)は共に直鑓を好んだ。
庄林は黒鳥毛を以て鞘とし、森本は白鳥毛を以て鞘とした。時の人は彼等を並び称して、これを
「黒鳥白鳥」と云った。

加藤清正が木山弾正の居城である天草城を攻めた時、森本は清正の前での軍議の序において、
「臣は小勇なれども、組討する事は壮力によりません。ただ心を剛にしてその術を知ること、
それだけです。」と申した。

清正は、森本の勇をたのむの気を抑えようとされたのか、「組討の勝敗は偶然である。必ずという
事はない。」とその言葉を制した。
その翌日、森本は衆を離れて敵と遭遇すると、彼は馬上の達者であったので、敵を横ざまに乗り倒し、
飛び下って忽ち首を掻き落とした。そして清正に「臣が言葉、違っていたか否か!」と申すと、
清正も感嘆したという。

朝鮮の役の時、流れ矢が森本の尻に当たった。庄林がそこを駆け過ぎようとしたのを森本は呼びかけた
「矢に当たって耐えられないほど痛い!この矢を抜いてくれ!」
庄林は立ち返ってこれを抜いた。すると森本は

「大いに快きかな!」

との言葉も言い終わらぬ間に自分の馬を引き寄せ騎乗し一鞭打って
「庄林殿、跡に続かれよ!」
と即座に駆けて一番に首を獲った。

志士清談

加藤家三傑とも言われた森本義太夫(一久)についてのお話




398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/03/17(木) 19:10:43.42 ID:r/VwdZXg
常山紀談にもあるようだ
志士清談のほうが時代的に早いっぽいけど
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8669.html
「なんとまあ、快いことだ!」

老鼠死而猫憂

2021年10月13日 16:08

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 13:19:07.11 ID:vp1BtXuF
加藤清正死去の報が薩摩に伝わると、島津義弘の御家老衆は御居間に伺候して、目出度いことであると
祝辞を申し述べた。すると義弘公は以ての外の御不興にて、突と奥に入られた。皆々その御心底を
解しかねて当惑していた所、公は奥より御書付を持って出てこられ、それを近臣一同へ下し置かれた。
列座の諸士が恐る恐る拝見すると、そこには一枚の奉書に

 老鼠死而猫憂

との六文字が認めてあった。
これは清正存生の間は、この方にも備えが有ったが、彼が死んでしまえばそういった心がけも薄くなって
しまう事を、深く憂慮するとの御意を顕されたものであった。

軍神島津義弘公



670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 13:55:02.26 ID:zU7uTRPh
書状からもだけど
島津ほんと清正のことだいっきらいよね

673 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 22:57:42.30 ID:l1O4yBxb
>>670
それだけ清正が島津から見て優秀だったって事かね?

674 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 23:01:49.18 ID:JEQYkWX+
庄内の乱なんかでも清正が裏で画策してて家康から確か怒られてるし
関ヶ原の後も兵寄せていつでも攻められますって状態にしてたんで、表に裏に清正は島津に攻めたかったんだろな感
唐入りで領内財政傾いてたようなんで、隣国攻めて改善したかったのかもね

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 23:23:33.58 ID:1Mbk+OEt
隣の外様は潰したいでしょ
島津なら攻めても幕府に怒られないだろうという読みもあったのでは

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 03:05:32.35 ID:qyPo8WuQ
>>673
もっと後の西南戦争で、熊本城攻めに苦労した西郷どんが「おいどんは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ」って言うくらいだし

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 06:58:07.60 ID:UqMma+8p
武士が農兵に負けたからって惨めな言い訳だなあ

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 10:21:47.09 ID:tCMgCT74
それだけ城の縄張りが優れてたってことかな。
あと装備も違うだろうし。

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 11:29:38.38 ID:MtEDOuhq
近世城郭を近代兵装で破れないわけないから単に装備が不足だったってことだよね
そうは言えないから清正公にやられたってだけで

ところでこの話しは俺は司馬遼太郎の小説でしか知らんのだけど、司馬が引いてきた原典はなんなんだろ

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 15:54:05.97 ID:qyPo8WuQ
>>683
原典はともかく、薩摩人がこれを聞いたら「なら仕方ないな」って思ってしまうような空気はあったんだろうなと思う

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 16:02:17.43 ID:ClkTPPgG
創作でなければ、肥後の諸隊の誰かじゃないの、佐々友房とか

戦線を下げるにあたって見捨てた旧肥後藩士の歓心を買う必要もあったろうし
もともと熊本城は先祖菊池氏の旧跡で、薩摩藩の敵でもあった清正を
旧薩摩藩士の前で持ち上げる理由はなさそう

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 17:20:53.63 ID:s+R41qBP
清正は江戸時代になんの脈絡もなくお話に出しても盛り上がるくらい人気あるキャラになってたみたいだし、スーパーヒーロー化されてそう

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 17:22:25.04 ID:JgA33ZBN
出陣するとキヨマーコールが起こってたらしいな

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 18:07:04.53 ID:TyVjd+04
さしたる用もなかりせば、これにて御免
は義経だけかと思ったら清正もか

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 18:17:40.74 ID:9xaF32fH
清正は熱心な法華教徒だったことから、死後早い段階で
法華宗の守護神みたいに受け取られていたらしく、それが
江戸期の人気のベースに成ったらしい。

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 19:46:27.96 ID:RaZ70FYM
そうかそうか

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/15(金) 19:52:15.88 ID:X49hgEcq
ホーホケキョ

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/16(土) 06:32:38.56 ID:TFPoCrbq
>>689
清正が生前に描かせた肖像の下書きが没後すぐに法華宗寺院に納められ、早くから御神影として拝まれていたというから
当時の法華宗信者には清正が自分達のヒーローであり死しては同じ宗旨の自分達の守護神となってくれると期待されたのは間違い無い。
ただそれとは別に熊本地域のみで清正人気は高かったらしく、清正神格化は日蓮・法華宗が全国的だが熊本だけ単に神として江戸時代神社に祀られた例もある。
全国的な清正神格化は明らかに日蓮・法華宗の影響だが、熊本単独での神格化は他県の人間には正直わからない。

加藤清正と小野鎮幸の一局

2021年08月20日 00:17

935 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/18(水) 20:33:00.77 ID:f9XqlVy3
加藤清正小野鎮幸の一局

関ヶ原の戦いの後、立花宗茂の元を辞して加藤清正に仕えた小野鎮幸が清正と将棋を指していた時のこと…

突如、隣の部屋にいた近習達が喧嘩を始めた。

近習A&B「ギャフベロハギャベバブジョハバ」

    \      ☆
             |     ☆
             ⌒ヽ   /    ボカ
    \  (´⌒  ⌒  ⌒ヾ   /
      ('⌒ 彡⌒ ミ ⌒ ::⌒ )      ボカ
     (´  ( `・ω・)      ::: ) /
  ☆─ (´⌒;:    :: 彡⌒ ミ  )
     (⌒::   ::   (・ω・´ )  )  ::⌒ )
    / (       ゝ  ヾ      ) ─

少しして清正
清「ちょっと俺、アイツらの喧嘩止めてくるわ。」
おもむろに立ち上がり席を外そうとする清正。
(実はこの時、局面は清正の敗色濃厚であった。)

これを聞いた鎮幸は

鎮「殿、主君たる者がこの程度で立ち上がられてはいけませぬ。某が何故にここに居るか。もしもここまで押し入って来る者あらば、不肖なれどこの老人めが取り押さえます故に殿は落ち着いて其処に居て下さりますように。」

静かに強く怖い顔で清正を睨んでこう言った。

清「はい…(;゚Д゚)」

喧嘩の仲裁に座を立ち、勝負を流局に持ち込もうとした清正の魂胆は見抜かれていたのである。
清正はただただ赤面して恥じ入るのみであったと言う。

ネットで拾った話にて出典元は不明ながら加藤清正と小野和泉主従の珍しく清正公がカッコ悪い話。
どなたか出典元知ってたら補足お願いします。



936 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/19(木) 21:26:55.19 ID:uBu4jL7q
>>935は古雄逸談に有りました。

正式なタイトルは「清正臨終の譫語」
この出来事を清正は死の1日前に悔いたとされ、清正公とそのファンにはお辛い話かも知れない。

国立国会図書館デジタルコレクション(19Pにこの逸話有り)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777908/32?tocOpened=1

937 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 00:01:49.82 ID:ewp9KiJx
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777908/19?tocOpened=1
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/777908/20?tocOpened=1

清正赧然その軽率を悔い座に着き然れども此の時深く愧ずる処ありしと見へ将に死せんとするの前日
我も天下の勇士にして何人にも許されしに唯老いぼれ和泉に我が腹中見ぬかれし事の口惜しさよと齒切之を久しふす
良い話の清正が立花誾千代に兵糧を差し入れて、その報告の手紙を小野鎮幸に送った逸話や鎮幸の六十の手習いの話が良い話だけに
ちょっと切ない・・・。
あくまで後世に書かれた軍記物や創作の話と思いたいなぁ。

938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/20(金) 00:19:50.34 ID:csAkJawM
>>937
くたばる前の日にもなって昔のことを口惜しがって止まない、てぇのがリアルだねえ。
本当の噺なんじゃねえかな。
通り一遍の薄っぺらな英雄像よりよっぽど良い。

939 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 00:34:42.10 ID:ewp9KiJx
>>938
個人的には加藤清正のファンでもなければ所縁の地の者でもないから特段擁護したりとか
いう気持ちは無いし、むしろ小野鎮幸みたいな人の方が好きでその行動にこそ共感するんだけれど、
加藤清正が生前に立花宗茂や誾千代を気遣った気持ちは噓ではなかったと思いたいし、家臣となった
小野鎮幸との交流も心からの物で最後にその晩節を汚すような言動は無かったと思いたいんだよねぇ・・・。

加藤清正、立花誾千代に兵糧を送る

2021年08月19日 17:13

441 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/19(木) 13:04:28.11 ID:3psnQ4c0
加藤清正立花誾千代に兵糧を送る

1601年に書かれたと推定される加藤清正小野鎮幸に宛てた書状より

「左近殿御内儀へ御兵粮まいらせ候ところ、御礼として飛脚給うについて御状に預かり候、誠に御隔心がましき御礼など候へば、かえって迷惑せしめ候、しかるべき様に御心得頼み入り候、左近殿御身上落着の儀、到来候はば示し預かるべき候」

関ヶ原の戦の後、食客的立場で肥後の加藤清正の元にいた立花宗茂は故あって少数の家臣達を連れて清正の元を離れた。
清正に仕えた旧立花家臣団のまとめ役として肥後に残った宗茂の元家老である小野鎮幸に対して清正が送った書状には、鎮幸の旧主の奥方である立花誾千代に"兵糧“を差し入れたことなどが記されている。

左近(宗茂)殿の奥様に兵糧を送りました。御礼の書状が飛脚で届きました。気兼ねさせてご迷惑かけることになってないかな?(´・ω・`) 以下略


当方、古文に疎いため拙い意訳なのでアレですが加藤清正立花宗茂立花誾千代、その旧臣達に色々気遣いしていたことが判る書状が残っている。詳細翻訳は詳しい方お願いします。

しかし、立花誾千代への差し入れに対し"兵糧"って書いてるのはよほど関ヶ原後に清正が攻め入った時の立花誾千代の姫武者ぶりが強く印象に残ってるのか、洒落なのか?

立花誾千代の出陣・いい話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-365.html



小野鎮幸宛加藤清正書状 小野文書141より』(立花家資料館所蔵)



443 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/20(金) 13:06:23.32 ID:CHsfUeX3
>>441
原文はネットにあるのかな?


450 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/08/21(土) 13:00:33.64 ID:YfJQA42z
>>443
https://i.imgur.com/L2FACvx.jpg
L2FACvx.jpg

原本自体はGoogle Arts & Cultureで加藤清正書状と検索すると出て来るよ。

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/21(土) 14:29:06.72 ID:DBOy4uXM
>>443
翻刻はネットにはないんじゃないかな
柳川市史 史料編V 近世文書(前編)には収録されてたよ

名誉の返答であった

2021年04月19日 17:40

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/19(月) 14:59:21.84 ID:GCe/x5AD
加藤清正は常陸守殿(徳川頼宣)の御縁者を仰せ付けられた。
東照宮(家康)の仰せに(駿府に於いての事也)
「常陸守の事、清正の婿に申し合わせた上は、諸事子息同然に心得給え。」

清正が退出し御次間へ出た時、彼に御当家(徳川家)の家臣衆が申した。
「只今の仰せについては、定めてご満足であったでしょう。」

清正は云った
「尤も、忝なく存じています。さりながら、昔の秀吉公の御厚恩は忘れ奉りません。」

御当家の老臣達は返答の仕様もなく居た所に、成瀬隼人正(正成)が間に入り
「その思し召し、御尤も至極であります。又家康公の御恩を蒙った者も、またその通りに
家康公の恩を重く存ずるのです。」

と申した。名誉の返答であった。

烈公間話



129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 00:58:17.21 ID:Tox4w0bR
>>126
なんで徳川の縁者になったら秀吉の御恩を忘れるということになるの?
秀頼自体が徳川の縁者なのに

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 07:34:02.37 ID:ard2cif5
表面しかモノが見れないのね

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/22(木) 08:16:09.72 ID:0Qbsx+fU
そもそも秀頼なんて秀吉の種じゃないだろって当時の人も思ってそう

これは我家相続の方便である

2021年04月18日 16:12

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 01:15:41.14 ID:MVa/nSU9
加藤清正は常々不養生であったという。加藤左馬助(嘉明)が彼に申した
「足下は常々不養生である。養生に油断せず、長命するように。」
さて、左馬助が退参した後、清正は側に居た人に云った

「私は不養生をして早く死ぬべく覚悟をしている。何故かと言えば、存命している間に
乱世に及び、家康公が秀頼公と御合戦有れば、恩主故、秀頼公の御方を仕る事が当然である。
しかし秀頼公の御軍が、どうして家康公に対し得るだろうか。だからといって家康公に
随い奉るのは不義である。

私が早死し、我が子の代になっていれば。ともかくも家康公に随い奉ってもその咎は軽い。
これは我家相続の方便である。」

と伝わる。『清正記』という書にもそのように有る。また左馬助は長命を願い存命して、
二心有って家康公に奉仕すると云々。

清正の覚悟は忠義ではない。左馬助については評するにも及ばない。
両人供勇将であると雖も、惜しいかな道徳の志がない。

このように池田光政様は仰せに成った。

烈公間話



665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 10:49:40.16 ID:SUJSDCEt
どうしろと?

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 11:02:25.59 ID:zeGAD6FL
1609年生まれが偉そうに

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 14:26:22.66 ID:/9AHysH2
池田光政は何が言いたかったんだ

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 16:44:24.80 ID:7MqbF1gq
清正 主君・秀頼に従って滅亡したくないから早く死にたい
嘉明 家康に従って主君・秀頼を滅ぼすため長生きしたい

池田光政の政治思想や、日本における陽明学の受容に詳しいわけじゃないから自信ないけど
清正は「するべきこと(=秀頼のために戦う)」を分かっているのに実践しようとしない、それは忠義とはいえない
嘉明は旧恩ある豊臣家を滅ぼす助けをしようというのはそもそも言語道断
そんな感じじゃないか

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/18(日) 19:24:16.68 ID:7lxIuqFT
清正にしろ嘉明にしろ確かにこの時の選択は胸を張れる物ではないかもしれない
とはいえ同世代の秀頼に付いて死んでいった奴らに言われるならまだしも
後世の3代目くらいの連中にアレコレ言われる筋合いなど無いわ!って所だろうなぁ
ご先祖の池田輝政もそんなご立派な人ですか?と…

至極の道理

2021年02月08日 18:22

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/08(月) 15:17:28.34 ID:bwMuxoOj
加藤故肥後守(清正)殿に、奉公を望む浪人が三人あった。一人は仙石角左衛門であり、
その他はその名定か成らず。

三人のうち、角左衛門は立身を望んだ。
一人は度々の用に立った人物であったが、今は老いて何の望みもなく、少しばかりの扶持を給わり、
心安く一生を送りたいと言った。
もう一人は若者で、いかにも物の用に立つべき者であると、周りの人々も見立てていた。

この三人は皆、家老である庄林隼人(一心)に因み頼んだため、隼人がこの事を申し上げた所、
肥後守はこのように申した

「仙石が立身を望むのは、侍の本意であるのだから、召し抱えるべきである。

年老いた人物について、彼が数度の用に立った事、私もよく知っている者である。然れども
今生の望み無く、後世一遍に心安く茶を飲み、当家を死所と定めたのは、殊の外踏み外したものである。
人は死ぬまで望みの有る者こそ頼もしく、何の望みも無い者は、抱え置いても要らざるものではあるが、
若きものへ示すためにも、抱え置こう。

もう一人については、その方の申す所、その方には似合わぬものであり、沙汰の限りである。
その理由は、『用に立つべき者』であると諸人が見立てれば抱え置く、となれば、我が家の若者どもは
用に立ちまじき者どもと見立てたのに似ているではないか。そうなれば当家の若者どもは、その方を
恨むという事にもなりかねない。

若い時に用に立った者を、年老いて高い知行を与え馳走するのは、そういった事を若き時に
見及び、聞き及び初めて、武道を励ますためである。
またその方などは、一言の発言も大事となる立場であるのだから、よくよく分別あるべき事である。」

と有ると、隼人も至極の道理に責められ、言葉もなかったという。

備前老人物語



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/08(月) 15:29:34.61 ID:QqyOOfkf
毎度お騒がせでお馴染みの仙石一族

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/08(月) 17:55:47.78 ID:GbdOq5m6
うんだ

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/08(月) 18:05:21.81 ID:RWyApXzb
仙石家の庶家が加賀藩に2000石で仕えてるけど人持組に上がらずにずっと寄合組に居るのも闇が深い。

もし敵が出ているなら、それがしが一番鑓である!

2021年01月15日 18:08

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/15(金) 16:13:29.20 ID:STTwyufl
小西摂津守(行長)が宇土を居城にしていた時、加藤肥後守(清正)、さる仔細あって押し寄せ
攻められたことが有った。この時清正は、仕寄り場を巡見して、「今夜城より夜討ちに打ち出る事も
有るだろう。面々の持ち口用心有るべし。」と下知して本陣へ帰られた。

この時期は夜寒の頃であり、軍勢は皆具足の上に、或いは夜着を着、或いは小袖を着ていたが、
その中に、名字は忘れたが、その名は長兵衛といった兵は、具足の上に蒲団を打ちかけて居た。

城中より俄に、どよめく声が上がった。かねて予想されたことであったので、「すわ、敵こそ
出れ!」と、我も我もと騒ぎ立ち懸け出ようとするが、上に着ていた夜着や小袖が具足にまとわりついて
すぐに脱げず、もたついている間に、長兵衛は上にかけていた蒲団を投げやり、一番に馳せ出、
「もし敵が出ているなら、それがしが一番鑓である!」
と、声高に名乗った。

およそ、常に心かけていた武辺は、真実の武辺である。
そうではない武辺は、たまたまの仕合に過ぎない。
武士のことは言うに及ばず、農工商、出家沙門に至るまで、その道を嗜み、心懸有る上で
不幸になってしまうのは、力が及ばなかったという事なのだろう。
長兵衛は常に心懸けがあった故に、その時、鑓を出そうとした者は多かったが、一番鑓になったと
言うことである。

備前老人物語



『武功雑記』より、雑記

2020年10月08日 17:23

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/07(水) 23:36:29.82 ID:GcERk3uE
武功雑記』より、雑記

加藤清正福島正則の不和
加藤清正より、福島正則に平野長元を遣わし申し入れようとしたのは「秀頼公のご恩をお忘れではないでしょう。そうであれば、わが軍の兵船があまたあるので、兵を乗せ、出船します。そのとき、福島殿も兵をあまた上らせてください。(途中に)家康の婿の池田輝政がいますが、押し攻め『フミツフシ』てしまえば、苦もないでしょう。そうなれば大坂までは『大道』を歩くよりも安心して進軍でえきるので、御意を得たい」という内容だった。
この件を申し入れる隙がなかったので、京都へ古田織部の茶会に正則が赴いたとき、長元も出向き、外露地で「卒度」(そっと)申し伝えると、正則は「いやいや、それがしは承知しがたい。家康公から大国を賜った厚恩は忘れがたい」と返事をした。
このことを長元が帰国して清正に伝えた。すると、清正は「福島はさてさて、ふがいない者だ」と腹を立て、清正と正則の仲が悪くなった。長元は平野長泰の弟である。(平野権兵衛から話を聞いた)

・島津維新の親父ギャグ
島津義久(ママ、義弘)は剃髪して維新と号した。大脇差を差し、樫の木の棒を常についていた。
あるとき、小姓たちが囲炉裏にて、火箸を焼いて慰みにしていたところに義久が現れ、小姓たちは驚いて火箸を灰の中に差し込んだ。
すると、義久は知らずに火箸を握ったが、少しも熱いという表情をせず、火をおこし、静かに灰の中に差し込んだ。
のちに西郷壱岐守に語ったのは「小姓どもが悪さをして手を焼かされている」といって、手を見せると「手ノ内焼フクレ」ていた。

・やはり面倒くさい三河武士(というより彦左)
永井善左衛門の邸宅へ板倉重宗が振る舞いに出向いた。相客は石谷十蔵、横田甚右衛門(尹松)、井上太左衛門、戸田半平、大久保彦左衛門(忠教)、今村九郎兵衛だった。
このとき、今村は鑓奉行、大久保は御旗奉行だった。
今村が言い出すには「それがしは小牧長久手のとき、人が十人で挙げるほどの手柄をどの鑓合戦の場所でも立てた。それなのに何のお褒めもなかったが、彦左はなにも優れた手柄がなかったのに、よい役職を得ているのはなぜだ?」と問うた。
彦左衛門が返答したのは「それがしは鬼神のごとくに聞こえたる岡部元信を長篠で切り落とし、本多主水に首を取らせた。そのほか『チクチク』(細々)としたことはあまたあるが、甲州者みたいなやつから逃げたことは功名なのか?」。
(元武田家臣の)横田はそれを聞いて、「それがしが(武田方として徳川軍の攻勢から)高天神城に籠城したのは運を開くためではなかった。勝頼が(後詰めに)同心しなかったので、仕方なく務めを果たし、どうしようもなくなれば敵を切り抜け、勝頼の元に参るという君臣のちぎりをかわしていたからだ」。
それに彦左衛門は『(城の)狭間くぐり』というのだ」。
横田は「何を言うか。三河者の頭の上を越えて活路を開いたのだ。手助けする者もいなかった」。
彦左衛門は「その(手柄の)ほかになにかあるのかねえ(何ソアルベキカヌ)」
横田は「(本能寺後の)蘆田小屋(春日城)でも前のように私こそ働いた」。
彦左衛門は「いかにも蘆田小屋では横田が逃げたとは聞かなんだ」。
横田は「これを聞かれよ。三河衆は『口ガワルクテ』人の武功に難癖をつける『意地ノアシキ』ことだと言われている。近藤石見守に起請文を書かせて語らせれば、有り体に話してくれるだろう」。
そのとき、板倉重宗は「みんなもう、老年なんだから、孫や子のことだけ考えていると思ったが、武功争いをしているのは近頃、珍しいことだ。若い者のためにもいいことだ。気が済むまで争ってください。とてもいいことですよ」。
その言葉で座敷は静まりかえった。

・信長と根来衆と餅と馬糞
根来を織田信長が天下(畿内)を取る3年前に通ったとき、根来の法師は信長が器量の大きな人と思っていた。
そこで大きな折を進上しようとをこしらえ、3つ進上した。
信長は馬上でそれを見て、「奇特である」と言い、折を開けて笄で餅を貫いて食べ、そのほかの折は「侍ども、食べるがいい」、大庭にぶちまけると、餅が馬糞の上に転び出た。
すると、どの侍もちょうだいして食べた。
その様子を根来の法師は見て、「位のある大将だ」と感じ入った。
その後、信長が天下を取って根来に軍事行動すると、かの人は怖じ気づき、さっそく降参した。



621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/08(木) 00:54:40.99 ID:ehS9sQ5G
この辺りから実像と違う通説の福島や加藤像とか信長像が若干できつつある感じしますね

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/08(木) 01:32:01.01 ID:hneWQDBE
「甲州ものなどに、逃げたるが高名になりたるがあると云。」は
 甲州の者で、逃げたのが武功であるかのようになってる者が居る(と謂われてる)な

「三河のものゝ頭の上をこえて通りしに、手さすものもなかりし」は
 (狭間をくぐるようにこっそり逃げたのではなく)三河者の頭の上を越えて活路を開いたが、(三河者で)手を出してくる者もいなかったぞ

ではないかと

>岡部元信を長篠で切り落とし、本多主水に首を取らせた。
『三河物語』でも特記してる位の彦左衛門の(本当は)高天神城での自慢話のついでに
第二次高天神城攻防で脱出した横田をあてこすってるというのがこの話の流れかと

余談
「大久保党が徳川家裏切ったことがない」って話で大久保VS横田の第ニラウンド始める模様

秀頼と家康の二条城会見について

2020年08月31日 17:17

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 13:27:20.93 ID:ybV1B4VU
慶長十六年三月二十七日、豊臣秀頼公が大阪を発って淀に到着され。これの迎えとして
右兵衛(家康公息、年十二歳(義直))、常陸介(家康公息、年十歳(頼宣))、并びに
池田三左衛門(輝政)、加東肥後守(清正)が淀に参向した。
秀頼公が大阪を発つ時、虚空が光ったと云々。

二十八日辰の刻(午前八時頃)、秀頼公は入洛され、すぐに家康公の御所である二条に御越しになった。
家康公は庭上まで出られ、秀頼公も慇懃に礼謝された。

家康公が座中に入られた後、秀頼公は庭上より座中に上がられ、先ず秀頼公が御成の間に入られ、
その後、家康公の出御があった。
互いの御礼有るべきとの旨を家康公は仰ったが、秀頼公は堅く斟酌有り、家康公が御成の間に
出奉り、秀頼公は礼を遂げられた。

膳部はかれこれ美麗に出来ていたのだが、還って隔心があるだろうかと言うことで、ただお吸い物
までであった。
大政所(これは秀吉公北の方也)も出られ相伴された。

その後、秀頼公はすぐに発たれ、右兵衛督、常陸介が途中まで送った。
秀頼公は直に豊国社に参詣され、大仏を見られ、伏見より船にて、その日の酉刻(午後六時頃)、大阪に
帰着された。大阪の上下万民については申すに及ばず、京畿の庶民の悦びはただこの事であった。
この時も大阪に光が出たと云々。

当代記

秀頼と家康の二条城会見について



加藤肥後、黒田筑前については別ですので

2020年07月11日 17:25

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:15:57.34 ID:EFbVF9nF
此あぢ分別肝要候事


以下は細川忠興が嫡男・忠利に送った書状の意訳。

  わざわざ申すべきのところ、江戸へ(忠利が)人を下されたので申します。

一、上洛する道中で、羽三左(池田輝政)、羽左太(福島正則)、蜂阿州(蜂須賀至鎮)などの家臣と
  行き違いました。どの家中も我々への慇懃さ(礼儀正しさ)が申せない程(よいもの)でした。
  それにつき、我々が諸大名に(今までのように応対すると)たちまち無礼になってしまうので
  右の衆のほかも(我々の)奉行衆が諸大名に対して無礼がないように、堅く申し触れて下さい。
  横目(監視役)も置いて、無礼の者があれば厳しく申し付けるようにしましょう。ただし成敗はせず
  押し込めてこちらへ申し越されるのがよいでしょう。

一、加藤肥後(加藤清正)、黒田筑前(黒田長政)については別ですので、そのつもりで申し付けて下さい。
  ただし両人の家中も、あなたがその場にいるときは上手く捌いてくることもあるでしょうから
  そういうときは見合わせて指図するのがよいでしょう。もしあの家中の者があなたに対して無礼を
  したのに、こちらの者が両人に対して慇懃にいたせば曲事になってしまいます。
  この案配の分別は大切です。[原文:此あぢ分別肝要候事]

一、右の条々は、一度申し触れただけでは変わらないでしょうから、度々申し触れて下さい。
  岡村半右衛門・中嶋左近・戸田助左衛門にもこの書中を見せて下さい。恐々謹言。
       (慶長十五年)三月廿三日            忠(花押)
                内記殿 

――『細川家史料 一六九八号文書』



志岐天草表の手柄

2020年04月20日 19:01

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/20(月) 10:18:50.04 ID:+n0zh/da
(天草国人一揆の時)
拙者(水野勝成)は小西摂津守(行長)の所に在り、志岐城攻めに加わった。この時肥後守(加藤清正)人数も
小西と同じように志岐城を取り巻いた。

志岐城はすぐに小西が請け取り、その後天草本渡城を押し詰め、朔日より取り掛かって本渡城に仕寄を付け、
二十三日目に乗り落とした。肥後守は山手の方から仕寄を付け、足場が非常に良かったが、小西は東の
水堀の方で、足場が悪く非常に迷惑した。

二十三日に城に乗り込んだ時、私は水堀を越えて堀裏に付き、一番乗りをした。私の跡に続いた
久米兵太夫が声をかけてきて、三間ほど跡を進んだ所で、胸板を鉄砲にて撃ち抜かれ、堀底へと落ちた。
私は堀を乗り越え本城(本丸)まで着いた時、松平三蔵殿(肥後殿にては加藤左助と申候)、この仁は兄弟連
であったが、私の側に参り

「未だ敵と手合わせをしていない。六左衛門殿(勝成)、頼み入るので、何卒手合わせの相手をくれないだろうか」

そう申してきたので「相心得候。私がよく見て、良い相手を見つけましょう。」と答えた。
本城の下にだしがまえ(馬出か)が有り、その門を開いて敵が突き出てきた。この時松平三蔵殿は鑓を合たが、
敵は突き捨てに仕掛け、左のこめかみを突かれたため、彼の弟に私から「早々に蔭に引き込むように!」と申し、
私はそのまま敵に突き入れ、その場にて七人を討ち取った。この内先駆けした者は私が討ち取り、残りの六人は
私の家来である山本次太夫、林志けりのすけ、近藤弥之助が討った。この三人も敵を一人ずつ討ち取った。
その他に歩行の者(足軽)も討った。近藤弥之助は弓にても良き者を射た。

山岡道阿弥がこの陣の様子を詳細に存じており、権現様(徳川家康)が伏見に居られた時、志岐天草表の
私の手柄を詳しく申し上げた所、権現様は殊の外御感になり、後で道阿弥から
「直ぐに召し遣わされるでしょうから、その事についてよくお心得に成って下さい。」
と申してきた。その後程なくして、私は御前に召し出された。

水野日向守覺書

天草国人一揆での水野勝成について。ここに出てくる松平三蔵、三河一向一揆で一揆方に与して牢人となった
人物ですね。



加藤清正の少年時代

2019年11月18日 18:53

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 06:53:51.37 ID:D2HS3BAP
かつて加藤因幡守藤原清信という人が尾州犬山に住んでおり、彼は美濃斉藤家の幕下であった。
美濃斉藤家と尾張の織田家が犬山に於いて戦った時、この清信は討死した。彼には子息が一人あり、
鬼若と言って二歳であった。彼は母方に引き取られ、尾州愛知郡中村という所で成長し、後に
弾正右衛門兵衛(清忠カ)と号した。この弾正は三十八歳で死んだ。

弾正も一人の男子を遺した。この時三歳で、虎之助と名付けられた。母に育てられ、五歳までは
この中村に住した。また、後の太閤秀吉公の母公と虎之助の母は従姉妹であった。このため、虎之助の
母はこう考えた

「今、木下藤吉郎殿は近江の長浜にて五万貫の領地を知行され、稀なる出世を遂げられている。
この子がこのまま田舎で育っては。武士の作法も知り難い。ただただ、秀吉殿を頼み奉らん。」

そのように決心し、虎之助を召し連れて長浜に至り、秀吉公の母公に委細を申し入れたところ、
母公は殊の外歓迎し、両人共に藤吉郎殿の御目にかけ、母公のお傍にて養育された。

虎之助は十五歳の時、母にこのように言った
「私は御蔭を以てこのように成長しました。年齢は十五ですが、背も同年の者たちより高く、故に
前髪を落として元服し、奉公を勤めたいと思います。」

母はこれを聞くと「大人びたことを言うものかな。」と、藤吉郎殿へ細々と申し語ると、藤吉郎殿は
ひときわ機嫌を良くして「内々にあの者の眼差しを見るに、能く祖父である清信殿に似ておられると
思っていた。よろしい、前髪を落とさせよう。」

そう言って元服させ、加藤虎之助と名付けて、初めて百七十石の領地を給わり奉公の身となった。

その頃藤吉郎殿身内に、塚原小才次という兵法者があった。これは塚原卜伝の縁類の武士であった。
虎之助は彼に従い兵法修行をなした。

ある時、長浜の町人の家に、人を殺して立て籠もった者があった。このため町中は大いに騒ぎたったが、
虎之助はこの様子を聞きつけ、常々伝授の兵法はこの時の為であると思い、かの町人の家に走り行くと、
四方に大勢の人が集まっていた。この中を潜り入り、虎之助は狼藉者を打ち倒して縄を懸けた。
手傷は一箇所も無く、搦め捕ってその家から出た。
立て籠もった者は秀吉公の足軽で、市足久兵衛という者であった。

この首尾を秀吉公は聞かれ。「常々かの者は常の若者のようではなく。物の役にも立つだろうと
思っていたが、よくも仕ったものだ。」と仰せになり、二百石の加増が有って、木村大膳組の
小物見役に仰せ付けられ、虎之助は朝暮勤仕した。

(續撰清正記)

加藤清正の少年時代について。まあ清正の母が秀吉の母の従姉妹、というのは怪しいところではありますが。



353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 06:57:14.78 ID:XRmh7v0l
清正大河があるなら一話目に使える

一人も洩らさず討捨てたるは一段と気味能き

2019年09月17日 16:04

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/17(火) 12:07:27.33 ID:rA55nKy+
天正17年(1589)小西行長加藤清正による、肥後。本渡城攻めの時のこと。

加藤清正の軍勢が本渡城の本丸に攻め入った時、敵30人ほどが、具足・甲を着て、鑓長刀を持って
一斉に切って出たのを、追い取り包みて、一人も残さず討ち取った。そしてその者達を見ると、
討ち取られた者に男は一人もなく、皆女であった。故に首を取らず斬捨てとした。

彼女らと戦った時に手疵を負ったものが5,7人あった。これに対し清正の近くで、いかに働いたと言っても、
女人に斬られ突かれたというのは弱いというように取り沙汰していた者があった。これを清正が聞いて

「定めてそれは、不吟味なる若輩者共の申し分である。たしかに女人は、逃れがたき所であっても
命を惜しむというのが世の中における習いのように言われているが、あのように死を軽んじ、思い切って
出た心中は、却って男子より堅固であろう。それと戦って手疵を負ったのも越度ではない。
さりながら、彼女らの戦働きは、男ほどには出来ないのだから、これを討ち取ったと言っても
高名には成り難い。

ではあるが、一人も洩らさず討ち捨てたのは一段と心地よい(然りと雖も、一人も洩らさず討捨てたるは
一段と気味能き)」と仰せになった。

(續撰清正記)



408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/17(火) 15:16:00.10 ID:++DeFL0F
どこが悪い話なんだ?文句つけた奴がいることか