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至極の道理

2021年02月08日 18:22

920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/08(月) 15:17:28.34 ID:bwMuxoOj
加藤故肥後守(清正)殿に、奉公を望む浪人が三人あった。一人は仙石角左衛門であり、
その他はその名定か成らず。

三人のうち、角左衛門は立身を望んだ。
一人は度々の用に立った人物であったが、今は老いて何の望みもなく、少しばかりの扶持を給わり、
心安く一生を送りたいと言った。
もう一人は若者で、いかにも物の用に立つべき者であると、周りの人々も見立てていた。

この三人は皆、家老である庄林隼人(一心)に因み頼んだため、隼人がこの事を申し上げた所、
肥後守はこのように申した

「仙石が立身を望むのは、侍の本意であるのだから、召し抱えるべきである。

年老いた人物について、彼が数度の用に立った事、私もよく知っている者である。然れども
今生の望み無く、後世一遍に心安く茶を飲み、当家を死所と定めたのは、殊の外踏み外したものである。
人は死ぬまで望みの有る者こそ頼もしく、何の望みも無い者は、抱え置いても要らざるものではあるが、
若きものへ示すためにも、抱え置こう。

もう一人については、その方の申す所、その方には似合わぬものであり、沙汰の限りである。
その理由は、『用に立つべき者』であると諸人が見立てれば抱え置く、となれば、我が家の若者どもは
用に立ちまじき者どもと見立てたのに似ているではないか。そうなれば当家の若者どもは、その方を
恨むという事にもなりかねない。

若い時に用に立った者を、年老いて高い知行を与え馳走するのは、そういった事を若き時に
見及び、聞き及び初めて、武道を励ますためである。
またその方などは、一言の発言も大事となる立場であるのだから、よくよく分別あるべき事である。」

と有ると、隼人も至極の道理に責められ、言葉もなかったという。

備前老人物語



921 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/08(月) 15:29:34.61 ID:QqyOOfkf
毎度お騒がせでお馴染みの仙石一族

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/08(月) 17:55:47.78 ID:GbdOq5m6
うんだ

923 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/08(月) 18:05:21.81 ID:RWyApXzb
仙石家の庶家が加賀藩に2000石で仕えてるけど人持組に上がらずにずっと寄合組に居るのも闇が深い。
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もし敵が出ているなら、それがしが一番鑓である!

2021年01月15日 18:08

844 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/15(金) 16:13:29.20 ID:STTwyufl
小西摂津守(行長)が宇土を居城にしていた時、加藤肥後守(清正)、さる仔細あって押し寄せ
攻められたことが有った。この時清正は、仕寄り場を巡見して、「今夜城より夜討ちに打ち出る事も
有るだろう。面々の持ち口用心有るべし。」と下知して本陣へ帰られた。

この時期は夜寒の頃であり、軍勢は皆具足の上に、或いは夜着を着、或いは小袖を着ていたが、
その中に、名字は忘れたが、その名は長兵衛といった兵は、具足の上に蒲団を打ちかけて居た。

城中より俄に、どよめく声が上がった。かねて予想されたことであったので、「すわ、敵こそ
出れ!」と、我も我もと騒ぎ立ち懸け出ようとするが、上に着ていた夜着や小袖が具足にまとわりついて
すぐに脱げず、もたついている間に、長兵衛は上にかけていた蒲団を投げやり、一番に馳せ出、
「もし敵が出ているなら、それがしが一番鑓である!」
と、声高に名乗った。

およそ、常に心かけていた武辺は、真実の武辺である。
そうではない武辺は、たまたまの仕合に過ぎない。
武士のことは言うに及ばず、農工商、出家沙門に至るまで、その道を嗜み、心懸有る上で
不幸になってしまうのは、力が及ばなかったという事なのだろう。
長兵衛は常に心懸けがあった故に、その時、鑓を出そうとした者は多かったが、一番鑓になったと
言うことである。

備前老人物語



『武功雑記』より、雑記

2020年10月08日 17:23

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/07(水) 23:36:29.82 ID:GcERk3uE
武功雑記』より、雑記

加藤清正福島正則の不和
加藤清正より、福島正則に平野長元を遣わし申し入れようとしたのは「秀頼公のご恩をお忘れではないでしょう。そうであれば、わが軍の兵船があまたあるので、兵を乗せ、出船します。そのとき、福島殿も兵をあまた上らせてください。(途中に)家康の婿の池田輝政がいますが、押し攻め『フミツフシ』てしまえば、苦もないでしょう。そうなれば大坂までは『大道』を歩くよりも安心して進軍でえきるので、御意を得たい」という内容だった。
この件を申し入れる隙がなかったので、京都へ古田織部の茶会に正則が赴いたとき、長元も出向き、外露地で「卒度」(そっと)申し伝えると、正則は「いやいや、それがしは承知しがたい。家康公から大国を賜った厚恩は忘れがたい」と返事をした。
このことを長元が帰国して清正に伝えた。すると、清正は「福島はさてさて、ふがいない者だ」と腹を立て、清正と正則の仲が悪くなった。長元は平野長泰の弟である。(平野権兵衛から話を聞いた)

・島津維新の親父ギャグ
島津義久(ママ、義弘)は剃髪して維新と号した。大脇差を差し、樫の木の棒を常についていた。
あるとき、小姓たちが囲炉裏にて、火箸を焼いて慰みにしていたところに義久が現れ、小姓たちは驚いて火箸を灰の中に差し込んだ。
すると、義久は知らずに火箸を握ったが、少しも熱いという表情をせず、火をおこし、静かに灰の中に差し込んだ。
のちに西郷壱岐守に語ったのは「小姓どもが悪さをして手を焼かされている」といって、手を見せると「手ノ内焼フクレ」ていた。

・やはり面倒くさい三河武士(というより彦左)
永井善左衛門の邸宅へ板倉重宗が振る舞いに出向いた。相客は石谷十蔵、横田甚右衛門(尹松)、井上太左衛門、戸田半平、大久保彦左衛門(忠教)、今村九郎兵衛だった。
このとき、今村は鑓奉行、大久保は御旗奉行だった。
今村が言い出すには「それがしは小牧長久手のとき、人が十人で挙げるほどの手柄をどの鑓合戦の場所でも立てた。それなのに何のお褒めもなかったが、彦左はなにも優れた手柄がなかったのに、よい役職を得ているのはなぜだ?」と問うた。
彦左衛門が返答したのは「それがしは鬼神のごとくに聞こえたる岡部元信を長篠で切り落とし、本多主水に首を取らせた。そのほか『チクチク』(細々)としたことはあまたあるが、甲州者みたいなやつから逃げたことは功名なのか?」。
(元武田家臣の)横田はそれを聞いて、「それがしが(武田方として徳川軍の攻勢から)高天神城に籠城したのは運を開くためではなかった。勝頼が(後詰めに)同心しなかったので、仕方なく務めを果たし、どうしようもなくなれば敵を切り抜け、勝頼の元に参るという君臣のちぎりをかわしていたからだ」。
それに彦左衛門は『(城の)狭間くぐり』というのだ」。
横田は「何を言うか。三河者の頭の上を越えて活路を開いたのだ。手助けする者もいなかった」。
彦左衛門は「その(手柄の)ほかになにかあるのかねえ(何ソアルベキカヌ)」
横田は「(本能寺後の)蘆田小屋(春日城)でも前のように私こそ働いた」。
彦左衛門は「いかにも蘆田小屋では横田が逃げたとは聞かなんだ」。
横田は「これを聞かれよ。三河衆は『口ガワルクテ』人の武功に難癖をつける『意地ノアシキ』ことだと言われている。近藤石見守に起請文を書かせて語らせれば、有り体に話してくれるだろう」。
そのとき、板倉重宗は「みんなもう、老年なんだから、孫や子のことだけ考えていると思ったが、武功争いをしているのは近頃、珍しいことだ。若い者のためにもいいことだ。気が済むまで争ってください。とてもいいことですよ」。
その言葉で座敷は静まりかえった。

・信長と根来衆と餅と馬糞
根来を織田信長が天下(畿内)を取る3年前に通ったとき、根来の法師は信長が器量の大きな人と思っていた。
そこで大きな折を進上しようとをこしらえ、3つ進上した。
信長は馬上でそれを見て、「奇特である」と言い、折を開けて笄で餅を貫いて食べ、そのほかの折は「侍ども、食べるがいい」、大庭にぶちまけると、餅が馬糞の上に転び出た。
すると、どの侍もちょうだいして食べた。
その様子を根来の法師は見て、「位のある大将だ」と感じ入った。
その後、信長が天下を取って根来に軍事行動すると、かの人は怖じ気づき、さっそく降参した。



621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/08(木) 00:54:40.99 ID:ehS9sQ5G
この辺りから実像と違う通説の福島や加藤像とか信長像が若干できつつある感じしますね

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/08(木) 01:32:01.01 ID:hneWQDBE
「甲州ものなどに、逃げたるが高名になりたるがあると云。」は
 甲州の者で、逃げたのが武功であるかのようになってる者が居る(と謂われてる)な

「三河のものゝ頭の上をこえて通りしに、手さすものもなかりし」は
 (狭間をくぐるようにこっそり逃げたのではなく)三河者の頭の上を越えて活路を開いたが、(三河者で)手を出してくる者もいなかったぞ

ではないかと

>岡部元信を長篠で切り落とし、本多主水に首を取らせた。
『三河物語』でも特記してる位の彦左衛門の(本当は)高天神城での自慢話のついでに
第二次高天神城攻防で脱出した横田をあてこすってるというのがこの話の流れかと

余談
「大久保党が徳川家裏切ったことがない」って話で大久保VS横田の第ニラウンド始める模様

秀頼と家康の二条城会見について

2020年08月31日 17:17

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 13:27:20.93 ID:ybV1B4VU
慶長十六年三月二十七日、豊臣秀頼公が大阪を発って淀に到着され。これの迎えとして
右兵衛(家康公息、年十二歳(義直))、常陸介(家康公息、年十歳(頼宣))、并びに
池田三左衛門(輝政)、加東肥後守(清正)が淀に参向した。
秀頼公が大阪を発つ時、虚空が光ったと云々。

二十八日辰の刻(午前八時頃)、秀頼公は入洛され、すぐに家康公の御所である二条に御越しになった。
家康公は庭上まで出られ、秀頼公も慇懃に礼謝された。

家康公が座中に入られた後、秀頼公は庭上より座中に上がられ、先ず秀頼公が御成の間に入られ、
その後、家康公の出御があった。
互いの御礼有るべきとの旨を家康公は仰ったが、秀頼公は堅く斟酌有り、家康公が御成の間に
出奉り、秀頼公は礼を遂げられた。

膳部はかれこれ美麗に出来ていたのだが、還って隔心があるだろうかと言うことで、ただお吸い物
までであった。
大政所(これは秀吉公北の方也)も出られ相伴された。

その後、秀頼公はすぐに発たれ、右兵衛督、常陸介が途中まで送った。
秀頼公は直に豊国社に参詣され、大仏を見られ、伏見より船にて、その日の酉刻(午後六時頃)、大阪に
帰着された。大阪の上下万民については申すに及ばず、京畿の庶民の悦びはただこの事であった。
この時も大阪に光が出たと云々。

当代記

秀頼と家康の二条城会見について



加藤肥後、黒田筑前については別ですので

2020年07月11日 17:25

186 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/07/11(土) 12:15:57.34 ID:EFbVF9nF
此あぢ分別肝要候事


以下は細川忠興が嫡男・忠利に送った書状の意訳。

  わざわざ申すべきのところ、江戸へ(忠利が)人を下されたので申します。

一、上洛する道中で、羽三左(池田輝政)、羽左太(福島正則)、蜂阿州(蜂須賀至鎮)などの家臣と
  行き違いました。どの家中も我々への慇懃さ(礼儀正しさ)が申せない程(よいもの)でした。
  それにつき、我々が諸大名に(今までのように応対すると)たちまち無礼になってしまうので
  右の衆のほかも(我々の)奉行衆が諸大名に対して無礼がないように、堅く申し触れて下さい。
  横目(監視役)も置いて、無礼の者があれば厳しく申し付けるようにしましょう。ただし成敗はせず
  押し込めてこちらへ申し越されるのがよいでしょう。

一、加藤肥後(加藤清正)、黒田筑前(黒田長政)については別ですので、そのつもりで申し付けて下さい。
  ただし両人の家中も、あなたがその場にいるときは上手く捌いてくることもあるでしょうから
  そういうときは見合わせて指図するのがよいでしょう。もしあの家中の者があなたに対して無礼を
  したのに、こちらの者が両人に対して慇懃にいたせば曲事になってしまいます。
  この案配の分別は大切です。[原文:此あぢ分別肝要候事]

一、右の条々は、一度申し触れただけでは変わらないでしょうから、度々申し触れて下さい。
  岡村半右衛門・中嶋左近・戸田助左衛門にもこの書中を見せて下さい。恐々謹言。
       (慶長十五年)三月廿三日            忠(花押)
                内記殿 

――『細川家史料 一六九八号文書』



志岐天草表の手柄

2020年04月20日 19:01

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/20(月) 10:18:50.04 ID:+n0zh/da
(天草国人一揆の時)
拙者(水野勝成)は小西摂津守(行長)の所に在り、志岐城攻めに加わった。この時肥後守(加藤清正)人数も
小西と同じように志岐城を取り巻いた。

志岐城はすぐに小西が請け取り、その後天草本渡城を押し詰め、朔日より取り掛かって本渡城に仕寄を付け、
二十三日目に乗り落とした。肥後守は山手の方から仕寄を付け、足場が非常に良かったが、小西は東の
水堀の方で、足場が悪く非常に迷惑した。

二十三日に城に乗り込んだ時、私は水堀を越えて堀裏に付き、一番乗りをした。私の跡に続いた
久米兵太夫が声をかけてきて、三間ほど跡を進んだ所で、胸板を鉄砲にて撃ち抜かれ、堀底へと落ちた。
私は堀を乗り越え本城(本丸)まで着いた時、松平三蔵殿(肥後殿にては加藤左助と申候)、この仁は兄弟連
であったが、私の側に参り

「未だ敵と手合わせをしていない。六左衛門殿(勝成)、頼み入るので、何卒手合わせの相手をくれないだろうか」

そう申してきたので「相心得候。私がよく見て、良い相手を見つけましょう。」と答えた。
本城の下にだしがまえ(馬出か)が有り、その門を開いて敵が突き出てきた。この時松平三蔵殿は鑓を合たが、
敵は突き捨てに仕掛け、左のこめかみを突かれたため、彼の弟に私から「早々に蔭に引き込むように!」と申し、
私はそのまま敵に突き入れ、その場にて七人を討ち取った。この内先駆けした者は私が討ち取り、残りの六人は
私の家来である山本次太夫、林志けりのすけ、近藤弥之助が討った。この三人も敵を一人ずつ討ち取った。
その他に歩行の者(足軽)も討った。近藤弥之助は弓にても良き者を射た。

山岡道阿弥がこの陣の様子を詳細に存じており、権現様(徳川家康)が伏見に居られた時、志岐天草表の
私の手柄を詳しく申し上げた所、権現様は殊の外御感になり、後で道阿弥から
「直ぐに召し遣わされるでしょうから、その事についてよくお心得に成って下さい。」
と申してきた。その後程なくして、私は御前に召し出された。

水野日向守覺書

天草国人一揆での水野勝成について。ここに出てくる松平三蔵、三河一向一揆で一揆方に与して牢人となった
人物ですね。



加藤清正の少年時代

2019年11月18日 18:53

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 06:53:51.37 ID:D2HS3BAP
かつて加藤因幡守藤原清信という人が尾州犬山に住んでおり、彼は美濃斉藤家の幕下であった。
美濃斉藤家と尾張の織田家が犬山に於いて戦った時、この清信は討死した。彼には子息が一人あり、
鬼若と言って二歳であった。彼は母方に引き取られ、尾州愛知郡中村という所で成長し、後に
弾正右衛門兵衛(清忠カ)と号した。この弾正は三十八歳で死んだ。

弾正も一人の男子を遺した。この時三歳で、虎之助と名付けられた。母に育てられ、五歳までは
この中村に住した。また、後の太閤秀吉公の母公と虎之助の母は従姉妹であった。このため、虎之助の
母はこう考えた

「今、木下藤吉郎殿は近江の長浜にて五万貫の領地を知行され、稀なる出世を遂げられている。
この子がこのまま田舎で育っては。武士の作法も知り難い。ただただ、秀吉殿を頼み奉らん。」

そのように決心し、虎之助を召し連れて長浜に至り、秀吉公の母公に委細を申し入れたところ、
母公は殊の外歓迎し、両人共に藤吉郎殿の御目にかけ、母公のお傍にて養育された。

虎之助は十五歳の時、母にこのように言った
「私は御蔭を以てこのように成長しました。年齢は十五ですが、背も同年の者たちより高く、故に
前髪を落として元服し、奉公を勤めたいと思います。」

母はこれを聞くと「大人びたことを言うものかな。」と、藤吉郎殿へ細々と申し語ると、藤吉郎殿は
ひときわ機嫌を良くして「内々にあの者の眼差しを見るに、能く祖父である清信殿に似ておられると
思っていた。よろしい、前髪を落とさせよう。」

そう言って元服させ、加藤虎之助と名付けて、初めて百七十石の領地を給わり奉公の身となった。

その頃藤吉郎殿身内に、塚原小才次という兵法者があった。これは塚原卜伝の縁類の武士であった。
虎之助は彼に従い兵法修行をなした。

ある時、長浜の町人の家に、人を殺して立て籠もった者があった。このため町中は大いに騒ぎたったが、
虎之助はこの様子を聞きつけ、常々伝授の兵法はこの時の為であると思い、かの町人の家に走り行くと、
四方に大勢の人が集まっていた。この中を潜り入り、虎之助は狼藉者を打ち倒して縄を懸けた。
手傷は一箇所も無く、搦め捕ってその家から出た。
立て籠もった者は秀吉公の足軽で、市足久兵衛という者であった。

この首尾を秀吉公は聞かれ。「常々かの者は常の若者のようではなく。物の役にも立つだろうと
思っていたが、よくも仕ったものだ。」と仰せになり、二百石の加増が有って、木村大膳組の
小物見役に仰せ付けられ、虎之助は朝暮勤仕した。

(續撰清正記)

加藤清正の少年時代について。まあ清正の母が秀吉の母の従姉妹、というのは怪しいところではありますが。



353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/18(月) 06:57:14.78 ID:XRmh7v0l
清正大河があるなら一話目に使える

一人も洩らさず討捨てたるは一段と気味能き

2019年09月17日 16:04

407 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/17(火) 12:07:27.33 ID:rA55nKy+
天正17年(1589)小西行長加藤清正による、肥後。本渡城攻めの時のこと。

加藤清正の軍勢が本渡城の本丸に攻め入った時、敵30人ほどが、具足・甲を着て、鑓長刀を持って
一斉に切って出たのを、追い取り包みて、一人も残さず討ち取った。そしてその者達を見ると、
討ち取られた者に男は一人もなく、皆女であった。故に首を取らず斬捨てとした。

彼女らと戦った時に手疵を負ったものが5,7人あった。これに対し清正の近くで、いかに働いたと言っても、
女人に斬られ突かれたというのは弱いというように取り沙汰していた者があった。これを清正が聞いて

「定めてそれは、不吟味なる若輩者共の申し分である。たしかに女人は、逃れがたき所であっても
命を惜しむというのが世の中における習いのように言われているが、あのように死を軽んじ、思い切って
出た心中は、却って男子より堅固であろう。それと戦って手疵を負ったのも越度ではない。
さりながら、彼女らの戦働きは、男ほどには出来ないのだから、これを討ち取ったと言っても
高名には成り難い。

ではあるが、一人も洩らさず討ち捨てたのは一段と心地よい(然りと雖も、一人も洩らさず討捨てたるは
一段と気味能き)」と仰せになった。

(續撰清正記)



408 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/17(火) 15:16:00.10 ID:++DeFL0F
どこが悪い話なんだ?文句つけた奴がいることか

権左衛門の従者を打捨てに仕るのは

2019年09月15日 15:06

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/15(日) 12:35:05.53 ID:v9elAh5k
木村又蔵は、元々加藤清正の徒の者であったが、清正が熊本に於いて城廻りをする時の供に、
これに扈従する時期臣たちの中に、その者たちの内の者共(陪臣)がみだりに入って来ないための
押さえとして、又蔵にその役を命じた。

しかし又蔵は、清正に従う小身者の草履取り中元などが自然に入ってくるのを、見ぬ体にしていた。

ある時、新美権左衛門という出頭人配下の若党が、直臣の者たちの中に入ろうとしたのを又蔵が
咎めた所、この物は主人の出頭を傘に着て、常々何事にも驕っており、又蔵に対して口答えをした。
これに又蔵は即座に斬って捨て、それから清正の元へ行き、直にこの時に様子を申し上げた。

清正はこれを聞いて
「なんともこの者は丈夫なる者である。今どき世の常なるものは、主人の前に能く出頭する
者に対しては権勢に恐れて、その者が法度を背いても知らぬふりをして見逃し、逆に時に合わない者、
小身なる者などの草履取り鑓持たちの不作法を見つけ出して、主人にも聞かせ、又は法度の違反として
訴えるなどするのが、世の中の常である。

然るに権左衛門の従者を打捨てに仕るのは、きっと役に立つべき者である。」

そう仰せに成り、知行百石をその後程なく下され、馬廻りに組み入れられた。

(續撰清正記)



196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/16(月) 11:53:09.68 ID:C4HOaIOB
さすが清正

馬の怨霊

2019年09月14日 18:12

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/14(土) 15:18:57.23 ID:IDvnMKBp
上州館林の榊原遠江守(康勝)は、加藤清正の婿であるゆえ、清正はある時見舞いに行き、そこから江戸へ
帰る途中、くつという所で、高麗陣の頃より乗ってきた葦毛の馬が俄に煩い付いたため、その在所の
名主を召し出し、直に宣うた

「この馬は高麗陣の中も乗ってきた馬である。俄にこのように煩い出し、引こうとしても一歩も進まない。
随分不憫に思うのだが、帰路の途中であれば致し方ない。この馬を汝に預け置く。然るべき医師を呼んで
養生をさせよ。もしまた死んだならば、薪を求めて焼き捨てるように。畜生ではあるが、数度の用に立った
馬である。野外に捨てて長吏(穢多・非人の頭目)に渡すような事は、絶対にしてはいけない。」

こう述べられ、銀子二枚を名主に渡し、馬取二人を添え置いて江戸に帰っていった。

ところが名主達は清正の馬にはかばかしい養生もさせず。未だ片息のある内に、原中に打ち捨て、
馬取と密談して銀子を分け取り、馬取だけが江戸に帰り「色々養生いたしましたがその功無く終に
死んだため、薪を整え煙に仕りました。」と申し上げた。

そこから一月もたたぬうち、この馬が霊となってかの名主に取り憑き、こう口走った

「我、君の御恩浅からずして、莫大の銀子を下され養生を仰せ付けられたというのに、薬の一滴も
与えないのみか、剰え野原に捨てて、穢多の手に渡したこと、遺恨山々である!子供一人すら残らず
取り殺し、後には名主夫婦もなぶり殺しにせん!」

その言葉の下より名主の子どもたちは煩い付き、ひたひたと死んでいった。
これを見て一郷の者たち集まり、禰宜神子を頼み様々に祈ったが、馬の霊はあざ笑い
「名主の一家を取り殺した後は、この郷中も者共までこの遺恨を遂げる!」
と首を振って声高に喚いた、

これを見聞きした村老野翁、身の毛もよだって恐れ震え、これに近づくものも無かった。
このままでは郷中の者達までも取り殺されてしまう事疑いないと、近隣より貴僧を数多迎え、
法華普門品を千巻読誦して、馬頭観音に祀り、堂を立て、郷中より田地を付け、堂守を起き、様々の
供養をいたした事で、怨霊は静まった。

(續撰清正記)



397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/14(土) 18:40:05.10 ID:BRDw7U9g
>>395
おうさまさん(´・ω・)カワイソス

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/14(土) 19:17:07.08 ID:cJHKzPeB
>>395
馬強すぎワロタw

400 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/09/15(日) 09:03:46.71 ID:xjNELu5t
>>395
馬取は無事だったんだろうかな。清正の耳には入らなかったんだろうか

清正公は石垣普請の御上手で

2019年09月12日 16:07

192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/11(水) 18:57:04.18 ID:l3Y3NM6l
一、清正公は石垣普請の御上手で、熊本城の石垣は他に無いものという。これにより御本丸富士
  見御櫓台の石垣は大猷院様(徳川家光)も御頼みにされており、(かつて)清正公が御指図
  されたものという。

一、諸大名が屋敷の地を御願した所に井伊家の屋敷はあって、その頃に加藤肥後守清正が屋敷に
  御願された所だった。

  御本丸よりも高い山だがら如何なものかと上意があれば、清正は仰せられ「幸い後ろの方は
  深い谷ですから、谷を引きならせば平地となり申しましょう」と御願の通りに済み、かなり
  の人夫が掛かったという。

  表御門は結構な御普請で御門柱は幅3尺、金彫刻は冠木に金で波に犀の彫物。桜田御門から
  見えて甚だ光る結構な御門だという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



清正は大馬鹿者だ!

2019年08月07日 18:03

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/07(水) 12:41:58.23 ID:NfUoYjq1
石川左近将監(忠房)が大番にて大阪城に在番していた時、毎夏の虫干しが有った。数々の武具、兵具などを
取り出し、その掛りの武具奉行らが取り扱って、御蔵より持ち運ばせたのは加番大名(大番の加勢)の
人足たちであった。

数多の鉄砲の内、群を抜いて重いものが有り、これの搬出にあたった者も甚だ持ち悩み
「多くの内、このように重いものはどんな人が持っていた鉄砲なのか。」などと不満を口ずさんだが、
よく見るとこの鉄砲には『南無妙法蓮華経』と象眼にて彫り入れてあった。これについて、詳しい者が

「これは加藤清正の持ち筒を納めたものだ。清正の武器には題目を多く書き記している。」と言った。
皆々はこれを聞いて「剛勇の清正所持の上は、そのように重いのも当然であろう。」と感称したが、
鉄砲を担いできた人夫は

「清正は異国までもその名を響かせた人であるが、人を殺すべき鉄砲に題目を書くなど不都合である!
殊にこの鉄砲を担いだおかげで大いに肩を痛めた。大馬鹿者だ!」

そう散々に清正を悪口していたが、俄に心身悩乱して倒れた。程なく起き上がると憤怒の勢いで叫んだ
「雑人の身分として我を悪口なしぬるこそ奇怪なれ!」
それまでの人夫の口上とは全く違い、その凄まじさは言葉にも出来ないほどであった。
周りに居た者たちは色々詫言して宥めたが、まったく承知しようとしない。仕方なく、その時の
加番が松平日向守(直紹)であったため、その小屋にこれを報告した所、日向守の家老が驚いて、
俄に裃などを着し、かの場所へ駆けつけた

「さてさて、不届き至極なる人足かな。事にもよって、故有る武器に対しての雑言、憤りの段尤もであり、
恐れ入り候へども、雑人の義であり、何分宥恕をあい願う。」旨、丁寧深切に述べた所、かの人足は
威儀を改め

「免しがたき者なれども、雑人の義、その主人の断りも丁寧なれば免しぬる。」
そう言うと倒れた。彼は2,3日は何が有ったかわけがわからず人心地も無かったと、左近将監が語った。

(耳嚢)



清正像の怪異

2019年08月06日 17:46

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/06(火) 16:16:59.79 ID:/b25XDa/
肥後の熊本には加藤清正の廟(発星山本妙寺)が有り、像もあるという。現在の領主である
細川家に於いても厚く尊崇され、供僧などを厳しく付け置き、時々に供膳、香華を備えていた。

この供僧なる出家、ある時膳を据えて亭坊(住職の居る坊)へ下ろうとしていた所、清正の像の覆いに、
鼠が損した所があるのを見つけた。かの僧が言葉に出さず、心にて
『清正は無双の剛勇にて異国までもその名が轟いた人であれば、鼠などが害をなすことはありえないだろう。』
そう思いながら下山し、暫く過ぎて膳具を取りしまわんと、かの山に上った所、配膳のほとりに血が染み、
膳の上に大きな鼠が、五寸釘にて刺し貫かれていた。
これを見たかの僧は、ほとんど気絶しそうに成るほど驚き、ほうほうの体で下山したため、
その他の僧たちが上ってかの場所を清め膳を下げたのだと、これは肥後の者が語った所である。

(耳嚢)



アンコールワットに渡ったという森本一房について

2019年05月24日 14:41

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 11:45:39.91 ID:ISgK1XN7
加藤清正の家臣である森本義太夫(一久)の子(次男)を宇右衛門(一房)という。
牢人の後、宇右衛門は我が天祥公(松浦重信)の時、しばしば伽に出て咄などをしたという。

この人はかつて明国に渡り、そこから天竺に赴いたが、彼の国の境である流沙河を渡る時に
エビを見たが、殊の外大きく数尺に及んでいたと云った。
そこから檀特山に登り、祇園精舎をも見て、この伽藍の様は自ら図記して持ち帰った。(今その
子孫は我が(松浦家)家中にあり、正しくこれを伝えているが、現在有るのは模写だという)

またこの旅の最中、小人国に至り、折節小人が集まって、一石を運んで橋を掛けていたのを
宇右衛門見て、自分一人で石を水に渡したところ、小人たちは大いに喜び、謝礼と思わしき果物を
多く与えられた。これも今に伝わっているが、年を経た故か、現在では梅干しのようになっている。
(また、始めは多く有ったが、人に与えて現在ではわずかに二,三ほどとなっている。)

近頃、ある人によると、この宇右衛門が至った場所はまことの天竺ではなく他の国であるという。
流沙河というのも、これは砂漠のことであり水がある場所ではなく、我が国において普段聞き及んで
いるに任せてそう名付けたのだ。

また山舎の如きも皆異所であろう。彼の国ではああいった類の物はもっと多いはずである。
また小人国というものも南北様々な場所に伝承が有る。この小人国は一体何方のものだろうか。

彼が外域、遥か遠い場所に至った事自体は疑いないが、その当時は世界四大洲の説も未だ知れ渡って
いなかったため、非常に曖昧で分かり難い。

(甲子夜話)

アンコールワットに渡ったという森本一房についての甲子夜話の記事



62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 13:34:27.02 ID:DIUlQ1Gk
>>61
ガリバー旅行記みたいだなw

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 15:24:00.04 ID:5bhEUb8Y
ガリバー「踏み絵を拒否したら怪しまれた」

当分は太閤は怒り給えども

2019年05月02日 17:59

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/02(木) 16:03:57.64 ID:lymMTQXw
福島左衛門(正則)・加藤主計(清正)は賤ヶ岳の時分は2百石の身の上なり。賤ヶ岳高名の後、
七本槍の衆中は大方が3千石を下されたが、左衛門は5千石になる。後に播磨龍野で6万石、ま
た後に尾陽で20万石、後に安芸で50万石となる。

福島は賤ヶ岳の軍法を破った罪により、刀脇差を取られて御勘気を蒙っていたが、隠れ出て高名
した。当分は太閤は怒り給えども、実は喜ばれた故に恩賞は他より優れた。

――『老人雑話』



870 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/02(木) 16:44:41.20 ID:pHaXRwu5
>>869
一族衆だった事もあってやはり期待のホープとして優遇された感じだったんだろうか?

玄澤は小西の家臣で領知3千石なり

2019年04月21日 16:24

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/21(日) 15:00:58.97 ID:GSb4KycD
肥後の天草宇土の城を故肥後守(加藤清正)が攻めなされた時に曰く、「出て来て戦うような者は
1人も思い当たらないが、南条玄澤(小鴨元清か。原注:玄蕃の意)1人は出て来るだろう。各々
討ち取れ!」と命じた。案の定、玄澤は出て来て戦ったという。

宇土の城は小西摂津守(行長)の居城なり。玄澤は小西の家臣で領知3千石なり。

――『老人雑話』



この両人は隠れ無き武勇の者なり

2019年04月11日 18:15

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 17:25:17.16 ID:lNjfT+Y9
加藤清正の先手の大将は、森本義太夫(一久。原注:5千石)・庄林隼人(一心。原注:5千石)・飯田角兵
衛(直景。原注:5千石)・三宅角左衛門(原注:3千石)。

飯田・三宅は普請奉行である。この両人は隠れ無き武勇の者なり。

江戸で評議があって「又者(陪臣)で確かな武勇があるのは誰か」と言った時、「清正家中の飯田角兵衛なり。
高麗で天下の人数を引き回したのは、古今においてこの者である」と言われた。

また、吉村吉右衛門という者も清正家中で武勇の者である。

――『老人雑話』



846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 17:31:14.19 ID:lNjfT+Y9
>>845
誤爆orz
いい話でした

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 20:45:11.15 ID:LRQ0nIoS
>>846
まあまあ
でもあれだね。勇将の下に弱卒なしというか
清正ってやっぱり凄い

この二つは最も名誉とされる事である

2019年03月06日 19:41

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/06(水) 06:16:40.26 ID:REEwPBTX
加藤清正が蔚山において援軍来たらず、兵粮も既に尽きて、馬を殺してこれを喰った。
そこで兵力が完全に疲弊する前に斬って出て闘死せんと議する所に、漢南人もまた
兵粮が続かず、兵を引いて帰った。清正は九死に一生を得たのだ。

その時、夜半に石火矢の発射音が山川を振動させた。蔚山城中では、漢南人が夜に乗じて
攻め入るのかと、持ち口を固めて待ち構えたが、その後は寂として人馬の音もなかった。
夜が明け、漢南人の陣を見ると、夜の間に皆引取って、ただ空営の跡のみ残っていた。
蔚山城より十町も離れていないのに、2,3万ほどの人数を引き取っても、城中にその気配が
聞こえなかったのは、彼らの軍令が能く徹底されていたためで、これは日本兵の及ぶところではない。
その後陣屋の跡を見た所、厠が一つもなく、また糞尿の汚れも無かった。
この二つは最も名誉とされる事である。

(武将感状記)

割と珍しい(?)、朝鮮役の明軍を評価している逸話。



709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/06(水) 11:22:36.66 ID:1Sh+A8XF
明人はウンコしない

「賞功不踰時」というのはこれなり

2019年03月05日 18:08

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/05(火) 17:59:17.91 ID:kXHf7c1b
(柴田勝家討伐後)

今回の柳瀬表で秀吉が切り崩した時の一番槍はことごとく近習の輩である。

その面々は、福島市松正則・脇坂甚内安治・加藤孫六嘉明・加藤虎助清正・平野権平長泰・片桐
助作直盛(且元)・糟屋助右衛門尉(武則)・桜井左吉(家一。原注:秀長近習也)である。

石河兵助一光(石川一光)は一番に駆け入り、冑の内を突かれて討死した。これにより、舎弟の
長松一宗を召し出して家督となしたものである。

その9人はよき席を設け盃を下して領知を遣わし、添えて黄金羅帛と感状あり。その文言に曰く、

 今回の三七殿御謀叛により濃州大垣に陣替えした時、柴田修理亮は柳瀬表に至り出で立った。
 そのため一戦に及ぶべく秀吉が一騎で馳せ向かうところに、心掛け浅からぬ故、早々と駆け
 つけて、眼前で一番槍を合わせた。比類なき働きなので褒美(原注:あるいは3千石。ある
 いは5千石)となして宛がう。ますます今後も軍旅の忠勤を抜きん出れば、勲功を計るもの
 である。よって件の如し。

  天正11年(1583)7月1日 秀吉判

軍書に曰く「賞功不踰時」というのはこれなり。

――『天正記(柴田退治記)』



梅北一揆顛末

2019年03月05日 18:07

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/05(火) 17:41:18.44 ID:CvS0qjxX
加藤清正が朝鮮に赴いている時に、その跡にて薩摩人の梅北国兼が肥後の地を侵掠した。(梅北一揆)
境善左衛門は熊本に留守居として佐敷城に居たが、肥後の国衆は多くが梅北に従い、兵勢いよいよ盛んであった。
境はこれと戦っても力で匹敵することは出来ないと判断し、一旦偽って梅北に降伏する体にして、
彼を刺し殺そうと思い、城を梅北へ渡した。

梅北は入城したが心許さなかった。そこで境は「今日より臣令を取るの始めなれば、祝詞のため御盃を頂き
候はん」と、梅北を饗した。この時梅北の心を和らげようと、酌取りに美女を出した。

梅北先ず飲んで、境にさし、座を立って肴を与えた。
境は「かねてこの時斬ろう」と企んでいたが、その威におされたか、手出しできずに座に帰ってしまった。
しかし「この時を過ぎては叶わじ」と思い、短刀を抜き飛びかかり、梅北を刺殺した。

その場にあった者たちは手々に刀を抜き放ち境に斬ってかかろうとしたところを、境は目をいからし
声を励まし

「汝等狂せりや!?梅北は賊である。彼に属するのが本意であるのか?
私と心を同じうして、彼が与党を討てば、清正はお前たちの咎を宥し、これまでの非を改め、
むしろ賊を討つの功を賞せられるだろう。
これを拒否すれば、秀吉が汝等の三族を梟首とするのに数日とかからないだろう。
汝等は、わきまえないのか!?」

これを聞いて、皆境に同意し、北梅の手の者たちが逃げるのを追いかけ切り伏せ、この乱を鎮めた。

境善左衛門の知行はそれまで二百石であったが、清正は後に十倍の二千石を与えた。

(武将感状記)