このせいだろうか、家来に優れた功者は

2017年04月02日 16:46

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 13:12:46.49 ID:FFz+Fxy5
加藤肥後守(清正)は物見に出る時も、自身で出て行った。

また、小屋などを掛ける時も自身で奉行を仕りなさった。
その小屋割までも申し付けなさった。万事この如くであった。

このせいだろうか、家来に優れた功者は左程出来なかったという。

――『武功雑記』



714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 13:32:31.32 ID:I/jla4Bs
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10561.html
同じように部下がやるようやことも率先してやるのに
三成はdisられるという

715 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 13:50:32.00 ID:n5dsJeVM
部下がやるような仕事を大名がやるのは低能の証拠

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 14:39:24.29 ID:kVLlzw6p
部下がやるような仕事まで清正がやってしまうためなのか
家臣がそれほど育たなかったといわれてるんだから清正も褒められてないだろ

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/02(日) 23:44:16.84 ID:tNol9CVa
大将が物見だなんて例をあげればきりがないわ
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賊軍の平行長から

2017年03月10日 13:08

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/10(金) 00:39:46.61 ID:CuKbDLlq
ついでに↓でも触れられているけど柳成龍による巨済島の海戦
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1642.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2860.html

賊(日本)軍の平(小西)行長から要時羅(よしろう)という人物が金応瑞に派遣されて
「自分は講和交渉を台無しにした加藤清正を甚だ憎んでいる。
これこれの日に、清正の倭船が渡海してくるので朝鮮の水軍は迎え撃つべきだ」と言った。
権慄はこれを信じたが、李舜臣は賊の罠だと疑い、前進せずに遅延してしまった。
とうとう清正が上陸してしまったため、朝廷は李舜臣を咎め立てし獄舎に投ぜられた。
するとまた要時羅が派遣されて「これこれの日に倭船が来援します」と伝えてきたため、
李舜臣と仲の悪かった元均は、あるだけの船を全速力で向かったところ、
強風が吹いて散り散りになり、疲れたところを賊軍に襲われてわが水軍は壊滅してしまった。
思えば、賊軍は水軍にだけは敗北を喫していたため、秀吉がそれを憤って行長に撃破を命じ、
行長は応瑞を騙し、李舜臣を罪に落とし、元均を海上におびき寄せて襲撃したのだった。
その計略は至って巧妙で、わが方は、ことごとくその計略にはまり込んでしまった。
哀しいことである!

友軍を売ろうとしたら大戦果を収めてしまった小西行長であった


清正の花押筆画多かりし事

2017年01月31日 15:47

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/30(月) 23:54:08.09 ID:eGddXOW8
清正の花押筆画多かりし事

朝鮮より、諸将が連判の書を太閤秀吉に送るという時、加藤清正の花押が特に画数が多く、
書き上げるまでやや時間がかかったのを、福島正則は苦笑して
「こんな事では、仮に病が重くなって、いざ遺言を書くという場合にも差し障りがあるだろう。」

清正はしかし
「私はそうは思わない。戦場に屍を晒そうとも、汚く逃げてしとねの上に死のうとは考えもしていない。
であれば遺言状など問題ではない。」


これに正則は返す言葉もなかったという。
(常山紀談)

しかし

清正の花押
http://i.imgur.com/E988uIr.jpg
SnapCrab_No-0103.jpg

正則の花押
http://i.imgur.com/zBL2r6X.jpg
SnapCrab_No-0104.jpg

それほど手間に違いがありそうには見えないがw




567 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/31(火) 08:39:47.30 ID:NzQiGzf/
>>566
その花押はあからさまに家康に影響されたタイプだから、唐入りの頃とは違うでしょ。

隈本、佐嘉、清正之縄と云伝る事

2017年01月25日 09:22

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/24(火) 23:37:54.21 ID:4iYdPd+f
隈本、佐嘉、清正之縄と云伝る事

 予の臣で佐賀の領の武雄の温泉に行った者がいる。
そこで武雄氏(武雄氏、本氏は後藤。佐賀侯の属臣)の臣の某と会って以下の話を聞いた。

 佐賀侯の先祖が朝鮮に渡って戦をした際、武雄氏の祖先も従軍していた。
そこで加藤清正から特に知遇を得て、
互いに帰国できたら自ら佐賀の地で城の縄張りをしようと清正は約束したとか。
結局、お互い無事に帰れたので言葉通りに清正の指揮でかの城を築いたという。
肥後の熊本は平山城、佐賀は平城。
この両城は、清正が全て縄張りしたといい伝わっているとか。


(甲子夜話続編)



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/25(水) 00:15:15.04 ID:oMhVRivl
武雄なら家信のことなんだろうけどそれで佐賀城?

朝鮮攻の節、香蘇散の験

2017年01月11日 17:48

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/10(火) 23:22:56.32 ID:XIXVpzdu
朝鮮攻の節、香蘇散の験

 朝鮮攻のとき、渡海のうえ軍人達はかの国の水土に慣れていないためか多くが病を得た。
従軍の医師は正気散を用いたものの治らなかった。
時に清正の医が香蘇散を用いると、その陣は皆験を得た。
よって他の陣もこれを聞いて、その法を用いて治癒できた。
 その清正の医にその理由を問うと、

「軍中では病は鬱気から生じる。なのでこの方法を用いた」

人は皆その意見に服したという。

(甲子夜話続編)



502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/11(水) 09:46:08.98 ID:nl2Kp85n
えっと、香蘇散の効能はというと
・体力があまりなく、胃腸が弱い人の風邪の初期
・胃腸虚弱で神経質な人への風邪の初期
                   なんやらよくわからん.....。

ちょっちゅねが上手い事言って駿馬2頭GETする

2017年01月10日 17:49

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/10(火) 00:45:25.05 ID:vf+7CHFY
ちょっちゅねが上手い事言って駿馬2頭GETする
http://i.imgur.com/SXF4eyC.jpg
http://i.imgur.com/3dDl9OC.jpg
SXF4eyC.jpg

3dDl9OC.jpg


愛宕に武運を

2016年12月23日 21:10

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/22(木) 22:21:14.83 ID:QUkoz0tZ
徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見が終わって後日のこと。

家康は近臣と雑談している時、こんな事を言った
「去る三月、加藤清正は秀頼に供奉して上洛したが、彼は退出の時、西天の方に目を注いだ。
これについてお前達は何故だと思うか?」

しかしこの問に、答えられるものは一人も居なかった。

暫くして家康は言った
「秀頼の上洛に供奉するのは非常に大切な役目であった。だから清正は、二条城の西方にある愛宕山に
大願を掛けたのだろう。そして、恙無く帰城に及んだ。故に心の中で、愛宕の方を拝したのであろう。」

後に清正の家臣であった中井氏の著述した爲人妙という書にも、愛宕の勝軍地蔵において、この時清正が当山の
大善院で護摩を執行し、秀頼の武運を祈ったと書かれている。

(慶元記)



加藤清正と人柱1 横手五郎と修験者

2016年12月15日 14:56

413 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 05:59:58.19 ID:pzCQt+x1
加藤清正と人柱1 横手五郎と修験者

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-52.html
で既出になるかも知れないけど

その昔、横手五郎と言う15人の人を一度に抱え上げる程の大力の男が居た。ある時、加藤清正公の行列が道を塞いだ牛の為に立往生して居たところに通りかかった五郎は牛を持ち上げどかして行列を通してやりました。

その後、熊本城を築いている最中、五郎の大力を見込んだ清正公は五郎に石垣を築かせたり井戸掘りの仕事を任せ、五郎はその大力を活かして他の誰より早くそれらの仕事をこなしました。

しかし、ある日清正公に五郎はかつて清正公が討った天草の木山弾正の息子であると耳打ちした者が居ました。
それを聞いた清正公は五郎は父親の仇討ちに来たのか、それにあの大力は石垣や抜け穴など城の秘密も知っとるしいつか城を乗っ取られるかも知れん。
と、疑いを抱き五郎を殺す事にしました。

そしてある日、五郎が井戸を掘っている所を狙って上から大石を落とさせ五郎を殺そうとしますが、それを知らない五郎は大石を何度も井戸から投げ返します。

しかし、何度も投げ込まれる石に五郎も遂に自分が殺されようとして居る事に気付き、覚悟を決めて大声で叫びました。

ワシを殺すなら石じゃダメじゃ、砂利ば投げ込め!

そして五郎は井戸に生き埋めにされて死んでしまったそうだ。

その後、城の基礎が出来上がりその後の工事の無事を祈る為に修験者が京より呼ばれ、祈祷をしたのだが、修験者は五郎が生き埋めにされた井戸の秘密を見抜き、
「この地には二つの呪いがかかっております。井戸に生き埋めにされた人足とその父親の呪いが」
と言いました。怒った清正公は
「ならばお前が人柱となり、呪いを解いてみせよ」
と、その場で修験者を手打ちにしました。しかし、修験者は今際の際に
「私を人柱にしても呪いは解けません。加藤様の家は呪いのせいで絶えてしまうでしょう。」
と言い残して亡くなったそうです。

熊本城内にはこの大力の横手五郎が運んだとされる五郎の首掛け石が宇土櫓の側に今も残っており、
また玄海町には太閤秀吉が名護屋城築城の頃に築城奉行だった清正公に従い築城に従事し、当地では無双(みそ)五郎と呼ばれた大力の若者が投げ落とした船繋ぎ石と言われる直径6mの巨石が有浦川に残っています。

414 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 06:22:27.82 ID:pzCQt+x1
ちなみにこの修験者に関しては別に、京から呼んだ龍蔵院と言う山伏であり、築城の際に清正公が地鎮祭を行わせ教示を受けたが、
城の完成祝いの宴で城の縄張りの事をうっかり喋ってしまい、清正公の命を受けた家臣に帰途殺害されたと言い、熊本市北区にある山伏塚はその墓(処刑場とも)であると言われ、熊本の心霊スポットでもある。



417 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 14:43:37.25 ID:VnJLJLbL
>>414
http://www.chugainippoh.co.jp/rensai/jijitenbyou/20161021-001.html

震災復興の祈願とは言え、殺された坊さんの行った法要や祈りを再現しようと言うのはちょっと理解に苦しむ…


422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/15(木) 23:51:47.04 ID:CukiuDjr
http://i.imgur.com/fTbXTqO.jpg
http://i.imgur.com/flvt7Vs.jpg
fTbXTqO.jpg
flvt7Vs.jpg

加藤清正と人柱2

2016年12月15日 14:55

415 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 07:13:08.77 ID:pzCQt+x1
加藤清正と人柱2

加藤清正公は肥後に入国した翌年から菊池川河口に広がる遠浅と島に目をつけ干拓事業に取りかかりました。
この干拓で最も困難だったのが「石塘」の築堤工事であった。
横島-久島山間(400m)は底が深く潮の流れが速くこの瀬戸に渦巻き、遠い昔から「丹倍ヶ淵」の名で舟人等を恐れさせた場所でした。

この築堤には大勢の人員と多くの石材、木竹、土むしろ、更に墓石に至るまで大量の資材を用いましたがことごとく流されました。
もはや堤の完成の為には人力だけでは覚束ない、古例にならって人柱を立てたらとの提案があり人選をして人柱を立てる事になりました。
その人柱になる人物の条件として、

「横布を当てて袴をつくろっている者」

が選ばれる事となり、その条件を満たす者がただ一人だけ見つかり、慶長十年(一六〇五)十一月二十五日、いよいよ潮止めを迎えると、その人は村人たちの見守る中、水中に立ちました。
横島山の頂上では大勢の僧侶たちがその冥福と工事の成功を祈って法華経を読経し、その人は土石の下に姿を消しました。
これにより難工事も見事に成功し石塘が完成しました。この石塘築堤工事により古来海上の一孤島であった横島が玉名の陸地と接続詞広大な新地が完成し、
最初の鍬入れの天正十七年一月から石塘築堤17年の歳月をかけ小田牟田新地干拓が終わりました。
 横島の伝説によると人柱に立ったのは大園村の庄屋伝作であったとされており、別に「藤公遺業記」によると中富手永(郷)千田村(鹿本郡)の者人柱に沈むとなっています。
また、鹿本郡植木町のとあるお宅には先祖が横島で人柱に立ったと言い伝えられています。
いずれが事実かはハッキリしないものの、人柱の歴史は事実であり石塘の人柱が立ったところには
「鎮魂慰霊」と刻んだ小さい祠が建てられ、現在では「人柱之碑」が建てられています。

これらの事から当地には昔から「横布を使うと人柱に立たされる」という言い伝えがあるそうです。
また、一番大掛かりだった石塘の築堤工事に基づき読経した経本を埋めたところを経塚と言い、この築堤工事に当たり多くの犠牲者と人柱に立った人の霊を祀ったのが大園にある本田大明神であり、
深夜にこの場所の近くを通ると、小石が転がってきたり・・カチカチと音が鳴ったりするなどの、怪奇現象の報告例が後をたたないという。

416 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/12/15(木) 13:04:34.58 ID:qYLg94CZ
>>415追記
同じ熊本県の南部に位置する相良氏が藩主を務めた人吉藩で17世紀後半に現在の熊本県球磨郡多良木町に造られた百太郎溝にて人柱となった、百太郎と言う者も庄屋の夢に出た水神の御告げで
はかまに横縞のツギを当てた男を堰をつくる時の人柱にすればよい。
と言う神託に寄って人柱として選ばれたと言う。



梅北一揆の事

2016年11月15日 21:26

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 20:19:39.54 ID:C207vzPJ
高麗の役の時、太閤秀吉は肥前名護屋に御座し。加藤清正は高麗へと派遣された。
この頃、肥後と薩摩の国境に佐布という城があった。清正はそこに、加藤与左衛門という者を
置いていたが、この時は与左衛門も清正に従い高麗へと赴いた。

その後に、薩摩の地より一揆が起こって、この佐布城を乗っ取った。
一揆の大将は梅北宮内左衛門(国兼)、東郷甚右衛門という者達であった(梅北一揆)

しかし佐布城には留守居として、井上弥一郎酒井善左衛門という者が残されていた。
彼らは謀って一揆の大将を討ち取り、城を取り返した。これは天下無双の功名であった。
この一揆が起こったゆえに、秀吉の高麗行きも中止に成った。当時それほどの大事件だったのである。

井上、酒井には殊の外の褒美、感状が下された。
井上弥一郎は肥後にあって知行千石。肥後加藤家改易のあとは、青山大蔵の元で隠居分となり、
その子に三百石が与えられた。最近になって死に、今は孫の代になっているという。

実は太閤秀吉は井上、酒井の功を感じ入り、さらに高い知行を与えようとしたのだが、
これは石田三成が遮って止めたという事である。

(老人雑話)



293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/14(月) 22:28:59.24 ID:+JFwenuX
全方向に敵を作るスタイルの三成www

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 10:02:08.52 ID:BlZItxjU
うわあぁ

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 11:02:07.77 ID:VCJjAYaY
元々加藤を敵に回してるんだからその手下くらいなんでもないんだろ

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 11:46:41.33 ID:746nQs1x
この程度で天下の大事だったら九州で一揆起こし放題だな
三成はたいしたことねーよと言ってこれ以上の内乱をおさめたのさ

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 11:52:10.79 ID:VCJjAYaY
乾煎り中の秀吉名護屋在陣のときに九州で大規模な叛乱あったら大事だと思うが…

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 14:30:49.92 ID:zN7Iv9r2
戦国時代の武将って結構妖怪と遭遇するよな。
政宗座敷童子、家康肉人とか

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 16:08:51.54 ID:8GREXPLx
肥後の北側を清正が、南側を行長が統治してたって認識だったんだけど
薩摩に近い佐布は清正が統治してたの?

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/15(火) 16:37:19.62 ID:746nQs1x
>>297
その一揆が契機となって大規模な物へと発展することはあっても二人で鎮圧できた一揆なんて大したことないよ
そんなんで褒美与えてたら急所を敵に知らせるようなものです

刀の反りが良い頃合になると、当たりが強くなる。

2016年10月20日 17:46

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/20(木) 15:36:45.82 ID:TbdQOix0
刀の反りが良い頃合になると、当たりが強くなる。

高麗陣にて、加藤清正の軍兵たちが敵を斬りあぐねていた時、清正が
忠告して、「馬上で何人を斬り倒したのだ? 数えてみよ」と言ったところ、

刀がまっすぐであれば当たりが弱く、敵は倒れなかった。反っていれば、
切れないといえども、倒れない者はいなかった。

(刀の直なるにては。あたりよはくて。敵たをれず。そりたるにては
切れずと。いへども倒れぬはなし)

――『武功雑記』



いつのまにか、同族になってしまった加藤s

2016年10月13日 17:54

207 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 00:46:44.64 ID:Y0ZJU9Fw
加藤光泰〔大洲〕、嘉明〔水口〕、清正〔跡、旗本の人となる〕系統の事

括斎(大関増業)が言うに、

今の水口の加藤氏、肥後の先代の主の加藤氏、大洲侯、皆同家である。
大洲の先祖は嫡子で水口の先祖〔嘉明〕は次子。清正はその姪かであり、兄弟ではないとのことだ。
その世系を知らない人の為に記す。

(甲子夜話続編)

いつのまにか、同族になってしまった加藤s



208 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 07:32:05.95 ID:M+xN9isV
つっこみどころはそこなのか?
姪?だろ

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 07:41:56.20 ID:79/PQNWV
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7253.html
にもあるように、顔真卿「祭姪文稿」などでは姪は一世代下の血族を表すから間違ってない。

210 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 11:31:05.82 ID:M+xN9isV
ウィキでは1世代下の宗族となってたが
宗族=父系同族集団のことなのに女偏の姪がなぜ使われるのだろうか

211 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/13(木) 19:59:18.60 ID:imbpxLIX
>>207
それを言った大関括斎とは元々空気加藤の子孫であの大田原三兄弟の長男が祖の黒羽藩を
継いだ人物だから

彦根侯邸に棲める雉

2016年09月12日 20:28

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/12(月) 15:00:54.38 ID:NuRJfjTK
〔初清正の邸〕彦根侯邸に棲める雉
同臣脇師、高安某長舎
同侯上邸玄関

前にも彦根侯麹町の邸は、始めは加藤清正の邸であったことを記したよ。
このように清正の後は、かの邸は取り上げられ彦根の祖の井伊直政がここに住んだ。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10067.html

この邸の中に雄雉一羽がすんでいた。
この鳥は直政の時からいて、
直政が帰国のときは雉もまた随い、出府するとまた随ってかの邸に来た。
今もなおいて、時々見かける者がいるという。

侯の脇師高安彦右衛門は彦太郎の弟子であり、かつ彼の臣なので麹町の邸に住んでいる。
なのでこの雉の鳴き声を時々聞くことがあるが未だその顔を見ていないという。
彦右衛門の母は見たといい、その大きさは普通の雉を二羽合わせたようであったという。
邸中の人は皆、御雉子様(オキジサマ)というと。
〔以上彦太郎の話〕

また彦右衛門の住所は十五間ばかりの長屋であるが、それは清正の時に建てたままである。
よって古色があり、柱はどれも柘植の大角材であったが、手斧目のままである。
この長屋は邸内でも谷を隔てて溜池に臨む畔上にあり、
離れ家なので、先年千畳鋪が焼亡した火災でもその厄を逃れたという。
この長屋は邸の門を入って三丁ばかりを行き、谷を下りそれから溜池の端にあると。

彦根侯の上屋敷の玄関は大坂城で淀殿の能舞台であったが、落城の後この方に引き移したという。
そのためか、今も屋根裏の棟木に、道成寺の釣鐘の釣りかぎが存在するという。
面白いことではないだろうか。

(甲子夜話三篇)




昔の縁組、今と相違の事

2016年09月05日 14:30

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/05(月) 02:53:31.34 ID:dFlSQvTW
昔の縁組、今と相違の事

昔の縁組は今とは心入れがはるかに違ったものである。
阿倍四郎五郎〔二千石〕が先祖(阿部政澄)は、加藤主計頭清正の婿である。
今もその家に当時に物件がある。
大小不釣り合わせの事であるが、
きっと清正から阿倍の武勇を愛でて縁組させたのであろう。

また偃武の後のことであるが、
加州前田家から四辻家納言の子息に縁組があった。
これは加侯が京都で四辻幼息の楽舞を見て、
その立ち居振る舞いが閑雅であったのを賞する余り、婚姻を申し込まれたという。

(甲子夜話)

調べてみたのですが、前田家というのは前田利政のことで、
彼の娘が四辻大納言公理に嫁いだようですね。
彼の領地は能登で、しかも没収されているのですがね




大阪が社稷を失う基

2016年09月02日 19:55

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/01(木) 19:03:25.11 ID:szwZYy7K
将軍秀忠の娘(千姫)と豊臣秀頼との婚姻の沙汰有り、この執成を行ったのは加藤肥後守清正であった。
肥後守はこの当時、肥後熊本に在城して本知行70万石、御預り地24万石を支配し、誠に秀頼にとって
補佐の臣であった。

この姫君が大阪に輿を入れた後、暫くの間は天下無為の思いをなした。

このお輿入れは慶長8年7月28日という説があり、また慶長10年7月28日だったともいうが、これらは共に
妄説である。徳川家の実録によると千姫のお輿入れ慶長13年7月28日、輿添は池田輝政、浅野幸長とある。

しかしこの時豊臣秀頼は、関東(幕府)の仕方を悪み、そのため御台所とも不和であり、淀殿も後々には
対面すらしなくなった。この事は関東が、豊臣家に対する感情を悪化させる最初の出来事であった。

加藤清正は秀頼と千姫の不和を聞くと大いに嘆き、数ヶ条の言葉を以って諫言をしたが、秀頼は
全くその意見を聞かなかった。そしてこれは、大阪が社稷を失う基となったのである。

(慶元記)




加藤清正一番鑓の話

2016年08月12日 18:57

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 23:50:11.54 ID:7V5ebYgV
加藤清正一番鑓の話

加藤清正が子の某〔名は忘れた〕に語ったと聞いた話である。

「我が秀吉公に従って、初めて一番槍をしたとき、
〔何処であったかこれを忘れた。賤ヶ岳であろうか〕
坂を上ると敵がいた。それと行き合って戦が始まった。
その時の胸中は、向こうは暗闇の如くで何か一向に分からない。
そこで目をつぶり念仏を唱えて、その闇の中に飛び込んで槍を入れると、
何か手ごたえがあると覚え、実は敵を突いていた。
それからはようよう敵味方も見分けることができた。
後で聞けば、その時の一番槍であった。」

(甲子夜話)



71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/12(金) 02:36:40.21 ID:DJLU8aR4
念仏なのか
題目じゃないのか

【ニュース】清正の鎧兜、再現される

2016年07月25日 13:47

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 13:02:27.66 ID:uaW899fi
鶴岡市ゆかりの戦国武将加藤清正が身に着けたとみられるよろいが専門家の手で再現され、
24日、同市丸岡地区の天沢寺(庄司良圓住職)で披露された。
清正と嫡男忠広をしのぶ同日の清正公祭(せいしょうこうさい)に合わせて一般公開された。

調査を含め、8年かけて制作した名古屋市在住の甲冑(かっちゅう)師、熱田伸道さん(68)は
「武将としての誇りを感じる高価なよろい。再現できてうれしい」と語った。

基となったよろいは1949(昭和24)の発掘調査で、同寺境内に立つ「清正閣」の下から出土した。
熱田さんは2008年に庄内藩酒井家のよろいの調査と修復で鶴岡を訪れた際、清正のよろいがあると知り、同寺に立ち寄った。
生誕地が名古屋である清正に縁を感じ、再現を申し出た。

原形をとどめていなかったよろいの各部を手掛かりに、類似の甲冑(かっちゅう)を調べて全体像を推定。
試作を重ね、今年6月に完成させた。

鉄製で胴高32センチ、重さ6.5キロ。
熱田さんは「動きやすい作りで、縁の一部を金で塗装していた。量産できるよろいにはない」と話していた。
自費で制作し、足軽のよろい2体と陣羽織10着と共に同寺に奉納した。

清正公祭には関係者ら約170人が出席した。
祈とう後、よろいが披露され、熱田さんが特徴や制作工程などを説明した。
庄司住職は「時間と労力をかけ、立派に作ってもらった。感謝している」と話した。

よろいは同寺に展示し常時公開する。

写真:地元住民らにお披露目されたよろい。再現した熱田伸道さんがよろいの特徴や制作方法などを説明した


以下ソース:山形新聞 2016年07月25日 11:43
http://yamagata-np.jp/news/201607/25/kj_2016072500578.php



978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 13:23:44.59 ID:ubYqWaTL
意外とハイカラなんだなぁ
自費とはまた熱田さんも徳が高いなぁ

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 19:28:14.08 ID:tUJJnSrs
>>977
足軽の南無妙法蓮華経具足も再現したのか

980 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 19:45:21.33 ID:T9VmpO8Z
>>977
この色良いなぁ。

981 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/25(月) 20:30:51.65 ID:2i2W/QBL
現代でも甲冑師っているんだな。
名古屋住まいで熱田さんって、先祖が熱田神宮ゆかりなのかな?

982 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 07:05:59.64 ID:I4E7S5xh
重さ6.5キロでは軽過ぎる。
実戦よりも、装飾性重視の鎧なのだろう。色から見てもな。ブルーかよ。

983 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 07:20:30.43 ID:1WD3eRzi
ブロンズ聖闘士だなw

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/26(火) 09:21:16.85 ID:QYRr2myg
熱田伸道は甲冑師名で本名は小川伸夫さん。
独学で先達に教えを受けながらここまで来た人ですね。
http://www.j-armor.com/
http://ameblo.jp/j-armor1/
復元に3年ほどかかったようだ。


色が青いのは、写真を拡大するとわかるけど、縅(糸)の色が青いだけで
甲冑そのものは漆塗りの黒だよ。

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 16:02:32.98 ID:Dc/KJL3l
前スレの清正の鎧の記事、河北新報(宮城県)の記事ではもう少し詳しく描いてあったので一応
こちらの記事の写真だと、先の記事ほど目立つ青色でなく、よくある甲冑画像の様なおとなしめの色合いに見えるね

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201607/20160725_75007.html

よろいは室町末期の形状で、清正が青年期に身に着けていたと伝えられる。熱田さんは
「武将の誇りを示そうと、あえて高価で伝統のあるよろいを選んだのではないか」と述べ、
天沢寺によろいを寄贈した。
再現したよろいは胴部分の高さが約35センチ、重さ6.5キロ。室町末期以降、鉄砲の
威力に対抗するため作られた当世具足(とうせいぐそく)の一種「最上胴丸」で、複数の胴板を
ちょうつがいで止めてある。
よろいをつなぐ糸の色は判別できなかったため、甲冑の色として当時流行したあさぎ色で再現した。
鶴岡市は清正の死後、長男で2代藩主忠広が配流された地で、忠広が天沢寺で清正の遺骨を葬ったとされる。
オリジナルのよろいは1949年、ばらばらになった状態で掘り起こされ、現在も境内に保管されている。
8年前、知人の紹介で訪ねた天沢寺でよろいの存在を知った熱田さんは約3年かけて再現作業に当たった。
欠損部位を同時代の甲冑などから推測し、2領の試作を経て完成に至った。
熱田さんは「作業を通じて清正が胴長体形だったと思われる証拠などの発見があった。よろいは加藤家に
繁栄をもたらした武具として忠広や清正の妻が埋めたのではないか」と語った。

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/29(金) 16:41:55.25 ID:eC7NYJ1C
ぜんぜん発色ちがうねw

17 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 17:11:38.20 ID:7z8Vcp0+
>>9
鎧を埋めるって珍しいような気がする。遺骨と一緒に埋めたんだろうか。

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/30(土) 21:01:58.56 ID:c+HJ+kvB
>>17
伊達政宗は墓所の発掘調査で副葬品に甲冑が発見されているし(政宗は例の弦月前立て黒漆の甲冑を同形式でいくつか作ってて、そのうちで一番お気に入りと考えられている)
武田信玄も上杉謙信も甲冑をまとって大甕に遺体を納めたとか、よくある話じゃないですか

妖も鬼も三界火宅

2016年06月29日 10:32

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/28(火) 22:42:25.66 ID:HtJd3PKa
鳥羽候[稲垣氏]の邸は麹町八丁目にあった。
伯母光照夫人がここにいましたので、予は中年の頃まではしばしばこの邸を訪れていた。
邸の裏道を隔てて、向こうは彦根侯[井伊氏]の中荘で、高崖の上に大きな屋が見えた。
千畳鋪と人はいう。

この屋は以前加藤清正の邸であった時のもので、
屋瓦の面にはその家紋、円中に桔梗花が出てくるという。
この千畳鋪の天井に乗物[駕籠だという]を釣下げてあり。人が開き見ることを禁じているという。
清正の妻の屍を入れてある、
もしくは、中に妖怪がいて時として内より戸を開いているのを見ると、老婆の形である者が見える、
といった話を幾人かから聞いた。

しかしその後かの荘も火災の為類焼して、千畳鋪も存在しなくなった。
きっと天井の乗物も焚亡したのだろう。
妖も鬼も共に三界火宅であった。
(甲子夜話)




森本宇右衛門天竺より小人国に往く事

2016年06月26日 17:56

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/26(日) 00:23:04.18 ID:6jeSAv6P
森本宇右衛門天竺より小人国に往く事

清正の臣森本儀大夫の子を宇右衛門と称す。
儀大夫が浪人の後、宇右衛門は、わが天祥公(松浦重信)のときしばしば伽に出てきて、
天祥公はその咄などを聞かれたという。
この人はかつて明国に渡り、それから天竺に行こうとして、
かの国の境にある流沙河を渡る時に蝦を見たという。殊に大きくて数尺に及んだそうだ。
それから檀特山に登り、祇園精舎をも見て、この伽藍の様を自ら図記して携えって帰った。
〔今その子孫は、我が領内にいる。正しくこれを伝える。しかし今は模写である。〕

また方々をめぐり歩く内に、小人国に至ると、折節小人が集まっていた。
一石を運んで橋に架けようとしていたのを宇右衛門は見て、
自ら一人で石を水に渡したら、小人達は大いに喜んで、
報酬と思しき菓物を多く贈ってくれた。
これも今に伝えているが、年を経たためか、今では梅干のようなものとなったという。
〔初めは多かったが、人に与えていくうちに今はわずか二、三だけである。〕


近頃、ある人が曰く、これらの行ってきたところは、真の天竺ではなく他邦であると。
流沙河もその本当のところでは沙漠で水はない。
なので、我が国で常に聞き及んでいたので、これを名付けたのだ。
また山や舎の如きも皆異所であろう。
かの国にはこの類のことがなお多い。
また小人国も南北所々にあり、この小人はどこのものであろうか。
たしかに外域、はるか遠くの地に至ったのは疑いもないけれど、
その頃は世界四大洲の説もまだ明らかでなかったので、
あいまいで分かり難い。
とのことであった。


(甲子夜話)

実際は、祇園精舎ではなくアンコールワットだそうで
小人国って、ガリバーみたいだなあ



金官の最期

2016年05月27日 17:54

金官   
770 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/27(金) 04:16:31.27 ID:PvxVDWqo
清正は金官(良甫鑑)という朝鮮人を日本へ連れ立って来て、慣例どおり
に親しくして、八木2百石を与えた。

金官は、「清正に離れて一日片時も永らえるべきではない。御供申さん!」
と言って切腹した。

――『清正記』

金官という朝鮮人は、同24日(清正死去の日)に切腹しようと致したが、
2人の子息がこれを見て脇差を取り上げ、色々教訓して止めた。

そして脇差を隠して丸腰にしておいたのだが、14,5日も過ぎたので、
思いとどまったなと子息も思って油断していた頃、箍掛けを呼び入れて、

古桶の輪を掛けさせ見ていたのだが、人のいない時に箍掛けの鉈を取り、
腹を十文字にかき切って死んだのであった。

これをもって見れば、高麗人も純柔純弱兵とばかりは申し難きことである。

――『続撰清正記』