FC2ブログ

アンコールワットに渡ったという森本一房について

2019年05月24日 14:41

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 11:45:39.91 ID:ISgK1XN7
加藤清正の家臣である森本義太夫(一久)の子(次男)を宇右衛門(一房)という。
牢人の後、宇右衛門は我が天祥公(松浦重信)の時、しばしば伽に出て咄などをしたという。

この人はかつて明国に渡り、そこから天竺に赴いたが、彼の国の境である流沙河を渡る時に
エビを見たが、殊の外大きく数尺に及んでいたと云った。
そこから檀特山に登り、祇園精舎をも見て、この伽藍の様は自ら図記して持ち帰った。(今その
子孫は我が(松浦家)家中にあり、正しくこれを伝えているが、現在有るのは模写だという)

またこの旅の最中、小人国に至り、折節小人が集まって、一石を運んで橋を掛けていたのを
宇右衛門見て、自分一人で石を水に渡したところ、小人たちは大いに喜び、謝礼と思わしき果物を
多く与えられた。これも今に伝わっているが、年を経た故か、現在では梅干しのようになっている。
(また、始めは多く有ったが、人に与えて現在ではわずかに二,三ほどとなっている。)

近頃、ある人によると、この宇右衛門が至った場所はまことの天竺ではなく他の国であるという。
流沙河というのも、これは砂漠のことであり水がある場所ではなく、我が国において普段聞き及んで
いるに任せてそう名付けたのだ。

また山舎の如きも皆異所であろう。彼の国ではああいった類の物はもっと多いはずである。
また小人国というものも南北様々な場所に伝承が有る。この小人国は一体何方のものだろうか。

彼が外域、遥か遠い場所に至った事自体は疑いないが、その当時は世界四大洲の説も未だ知れ渡って
いなかったため、非常に曖昧で分かり難い。

(甲子夜話)

アンコールワットに渡ったという森本一房についての甲子夜話の記事



62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 13:34:27.02 ID:DIUlQ1Gk
>>61
ガリバー旅行記みたいだなw

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/24(金) 15:24:00.04 ID:5bhEUb8Y
ガリバー「踏み絵を拒否したら怪しまれた」
スポンサーサイト

当分は太閤は怒り給えども

2019年05月02日 17:59

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/02(木) 16:03:57.64 ID:lymMTQXw
福島左衛門(正則)・加藤主計(清正)は賤ヶ岳の時分は2百石の身の上なり。賤ヶ岳高名の後、
七本槍の衆中は大方が3千石を下されたが、左衛門は5千石になる。後に播磨龍野で6万石、ま
た後に尾陽で20万石、後に安芸で50万石となる。

福島は賤ヶ岳の軍法を破った罪により、刀脇差を取られて御勘気を蒙っていたが、隠れ出て高名
した。当分は太閤は怒り給えども、実は喜ばれた故に恩賞は他より優れた。

――『老人雑話』



870 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/05/02(木) 16:44:41.20 ID:pHaXRwu5
>>869
一族衆だった事もあってやはり期待のホープとして優遇された感じだったんだろうか?

玄澤は小西の家臣で領知3千石なり

2019年04月21日 16:24

804 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/21(日) 15:00:58.97 ID:GSb4KycD
肥後の天草宇土の城を故肥後守(加藤清正)が攻めなされた時に曰く、「出て来て戦うような者は
1人も思い当たらないが、南条玄澤(小鴨元清か。原注:玄蕃の意)1人は出て来るだろう。各々
討ち取れ!」と命じた。案の定、玄澤は出て来て戦ったという。

宇土の城は小西摂津守(行長)の居城なり。玄澤は小西の家臣で領知3千石なり。

――『老人雑話』



この両人は隠れ無き武勇の者なり

2019年04月11日 18:15

845 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 17:25:17.16 ID:lNjfT+Y9
加藤清正の先手の大将は、森本義太夫(一久。原注:5千石)・庄林隼人(一心。原注:5千石)・飯田角兵
衛(直景。原注:5千石)・三宅角左衛門(原注:3千石)。

飯田・三宅は普請奉行である。この両人は隠れ無き武勇の者なり。

江戸で評議があって「又者(陪臣)で確かな武勇があるのは誰か」と言った時、「清正家中の飯田角兵衛なり。
高麗で天下の人数を引き回したのは、古今においてこの者である」と言われた。

また、吉村吉右衛門という者も清正家中で武勇の者である。

――『老人雑話』



846 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 17:31:14.19 ID:lNjfT+Y9
>>845
誤爆orz
いい話でした

847 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/11(木) 20:45:11.15 ID:LRQ0nIoS
>>846
まあまあ
でもあれだね。勇将の下に弱卒なしというか
清正ってやっぱり凄い

この二つは最も名誉とされる事である

2019年03月06日 19:41

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/06(水) 06:16:40.26 ID:REEwPBTX
加藤清正が蔚山において援軍来たらず、兵粮も既に尽きて、馬を殺してこれを喰った。
そこで兵力が完全に疲弊する前に斬って出て闘死せんと議する所に、漢南人もまた
兵粮が続かず、兵を引いて帰った。清正は九死に一生を得たのだ。

その時、夜半に石火矢の発射音が山川を振動させた。蔚山城中では、漢南人が夜に乗じて
攻め入るのかと、持ち口を固めて待ち構えたが、その後は寂として人馬の音もなかった。
夜が明け、漢南人の陣を見ると、夜の間に皆引取って、ただ空営の跡のみ残っていた。
蔚山城より十町も離れていないのに、2,3万ほどの人数を引き取っても、城中にその気配が
聞こえなかったのは、彼らの軍令が能く徹底されていたためで、これは日本兵の及ぶところではない。
その後陣屋の跡を見た所、厠が一つもなく、また糞尿の汚れも無かった。
この二つは最も名誉とされる事である。

(武将感状記)

割と珍しい(?)、朝鮮役の明軍を評価している逸話。



709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/06(水) 11:22:36.66 ID:1Sh+A8XF
明人はウンコしない

「賞功不踰時」というのはこれなり

2019年03月05日 18:08

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/05(火) 17:59:17.91 ID:kXHf7c1b
(柴田勝家討伐後)

今回の柳瀬表で秀吉が切り崩した時の一番槍はことごとく近習の輩である。

その面々は、福島市松正則・脇坂甚内安治・加藤孫六嘉明・加藤虎助清正・平野権平長泰・片桐
助作直盛(且元)・糟屋助右衛門尉(武則)・桜井左吉(家一。原注:秀長近習也)である。

石河兵助一光(石川一光)は一番に駆け入り、冑の内を突かれて討死した。これにより、舎弟の
長松一宗を召し出して家督となしたものである。

その9人はよき席を設け盃を下して領知を遣わし、添えて黄金羅帛と感状あり。その文言に曰く、

 今回の三七殿御謀叛により濃州大垣に陣替えした時、柴田修理亮は柳瀬表に至り出で立った。
 そのため一戦に及ぶべく秀吉が一騎で馳せ向かうところに、心掛け浅からぬ故、早々と駆け
 つけて、眼前で一番槍を合わせた。比類なき働きなので褒美(原注:あるいは3千石。ある
 いは5千石)となして宛がう。ますます今後も軍旅の忠勤を抜きん出れば、勲功を計るもの
 である。よって件の如し。

  天正11年(1583)7月1日 秀吉判

軍書に曰く「賞功不踰時」というのはこれなり。

――『天正記(柴田退治記)』



梅北一揆顛末

2019年03月05日 18:07

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/05(火) 17:41:18.44 ID:CvS0qjxX
加藤清正が朝鮮に赴いている時に、その跡にて薩摩人の梅北国兼が肥後の地を侵掠した。(梅北一揆)
境善左衛門は熊本に留守居として佐敷城に居たが、肥後の国衆は多くが梅北に従い、兵勢いよいよ盛んであった。
境はこれと戦っても力で匹敵することは出来ないと判断し、一旦偽って梅北に降伏する体にして、
彼を刺し殺そうと思い、城を梅北へ渡した。

梅北は入城したが心許さなかった。そこで境は「今日より臣令を取るの始めなれば、祝詞のため御盃を頂き
候はん」と、梅北を饗した。この時梅北の心を和らげようと、酌取りに美女を出した。

梅北先ず飲んで、境にさし、座を立って肴を与えた。
境は「かねてこの時斬ろう」と企んでいたが、その威におされたか、手出しできずに座に帰ってしまった。
しかし「この時を過ぎては叶わじ」と思い、短刀を抜き飛びかかり、梅北を刺殺した。

その場にあった者たちは手々に刀を抜き放ち境に斬ってかかろうとしたところを、境は目をいからし
声を励まし

「汝等狂せりや!?梅北は賊である。彼に属するのが本意であるのか?
私と心を同じうして、彼が与党を討てば、清正はお前たちの咎を宥し、これまでの非を改め、
むしろ賊を討つの功を賞せられるだろう。
これを拒否すれば、秀吉が汝等の三族を梟首とするのに数日とかからないだろう。
汝等は、わきまえないのか!?」

これを聞いて、皆境に同意し、北梅の手の者たちが逃げるのを追いかけ切り伏せ、この乱を鎮めた。

境善左衛門の知行はそれまで二百石であったが、清正は後に十倍の二千石を与えた。

(武将感状記)



成瀬正成、名誉の挨拶

2018年10月10日 19:35

332 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 15:33:48.10 ID:ATyzqMd8
成瀬正成、名誉の挨拶


駿府にて東照宮(家康)が加藤清正に、常陸守殿(頼宣)、紀伊殿(浅野幸長)を
御縁者とするよう仰せ付けられた。
これは、常陸守を清正の婿にした以上は他の子息(義直)も同様にするように
(=義直の舅の幸長とも縁者になるように)との仰せ付けであった。

御次の間に清正が出たとき、清正に御当家(池田家)の家臣衆が
「只今の(家康の)仰せられ様には、きっとご満足されたでしょうね」
と申すと、清正は
「もちろんありがたいことですが、秀吉公の昔の厚恩は忘れられません」
と申したので、御当家の老臣はそれに対して挨拶することが出来なかった。

そこに成瀬隼人正(正成)が
「その思し召しは至極ごもっともですが、家康公の御恩を蒙った者も同様に
 家康公の御恩を重く思っているのです」
とたちどころに申されたのは"名誉の挨拶”であった。


――『烈公間話』


必要なのは頭と肉と腸

2018年06月02日 13:35

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/01(金) 21:04:39.75 ID:OgMQNIEj
 文禄2(1593)年12月、奉行の浅野長吉と木下吉隆が秀吉の意向を受けて、在陣武将た
ちに虎狩りを命じた文書が残っている。

 秀吉様の御養生のために虎を捕獲して塩漬けにして送れ。必要なのは頭と肉と腸で、皮
は自由にしていい

 この文書を読むと、当時虎は不老長寿の薬として重用されており、朝鮮での虎狩りは秀
吉の滋養強壮の薬を調達するために行われていたようだ。秀吉が文禄3年4月12日付で加藤
清正に宛てた朱印状では、清正が秀吉の命令に従って実際に虎を狩って秀吉に送っていた
ことがわかる。熊本日日新聞社編『加藤清正の生涯』p74

 虎の利用法。秀吉の仙薬調合の材料確保のために組織的に行われていた。加藤清正以外の部将も、虎狩りに従事していた。
 皮は好きにしていいというのは、実際に虎狩りに従事した大名たちへの反対給付の意味もあったのかも。



上下の間の作法を申し付けぬ人

2018年01月30日 18:04

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 00:02:00.17 ID:0It5AjrQ
上下の間の作法を申し付けぬ人


寛永9年12月に、細川忠興が熊本に四男の立孝を呼び寄せたところ
立孝に付くことになった地元の従者が"上下の作法"を知らなかったので
笑ってしまったという話を嫡男の忠利宛てに書き送っている。その手紙の中で

寛永9年12月14日の忠利宛て忠興書状(細川家史料)
『古肥後(加藤清正)は一切上下の間の作法を申し付けぬ人であった。
 高麗などでも左様に見えた』

と40年以上前の話を持ち出して、清正のせいで熊本の侍の
態度が悪いと皮肉っている。よっぽど不快だったのだろうか?



517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 11:39:32.08 ID:+FDuZGLA
下人から成り上がった者は下々と親しく振る舞うからね
将軍に仕えてたお大尽とは接し方が違う

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 12:26:31.16 ID:wMisgGOo
儀礼をわきまえてないのと親しくするのは全然違うことでしょう。
現代でも「親しき仲にも礼儀あり」と言いますからね。

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/30(火) 21:43:00.66 ID:BKmLaQWd
>>518
無礼講って言ってたのに機嫌が悪くなるクソ上司に似てるな

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 00:03:56.08 ID:rz1wIjlV
>516-517
真田丸で豊臣系の成り上がりの家に不快感を示してたのはこの辺の話がベースだったっぽいね
ただ加藤家が残ってる頃だと黒田家とは違い付き合いは一応してたので
「熊本から贈られた海苔美味しい」とか言ってる三斎様

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 00:35:45.02 ID:qyN129Vt
>>520
肥後治めるのに清正を最大限立ててもいたしなぁ。結果、熊本で何かといえば全部清正に。

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/31(水) 08:35:08.35 ID:r/L94H6H
>>519
ゴメン。
この話題からその感想は理解不能。

武芸の他に乱舞の稽古をしているような輩は

2017年11月13日 16:44

410 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/13(月) 09:55:46.66 ID:QSoFrhPh
加藤清正は、家中の大身小身に限らず、武士が覚悟すべき条目を発したことがある。
その詞に曰く

『奉公の道、油断するべからず。朝は辰の刻(午前7時頃)には起きて兵法の鍛錬をし、食事を取り、
弓を射、鉄砲を撃ち、馬に乗るべきだ。武士の嗜みの良い者には、別して加増を与えよう。

乱舞は完全に禁止する。太刀を手に取れば、人を斬ろうと思うものである。である以上、万事は
一心の置き所から生ずるものなのだ。武芸の他に乱舞の稽古をしているような輩は、腹を切るべきだ。

武士の家に生まれた以上、太刀を取って死する道こそ本意である。常々から武士の道を吟味していなければ、
潔い死はし難いものだ。よくよく心に武を究める事が肝要である。』

(士談)



411 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/13(月) 11:11:34.93 ID:SMfEMYwZ
ですってよ、柳生宗矩様

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/13(月) 12:31:03.05 ID:6dPD9ssn
>>411
宗矩の甥の利厳「加藤家に仕えましたが何か?」

413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/13(月) 12:37:35.95 ID:K3XZqWFk
>>411
むしろ秀吉に対する挑戦状じゃないかと

414 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/13(月) 13:32:12.44 ID:JiaZg2xL
尼子経久「若い頃、正月の月山富田城で大乱舞大会やったけど、アレは楽しかったなあ」

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/13(月) 14:07:33.86 ID:CajRvILA
大乱舞ですとな。

416 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/13(月) 14:16:12.22 ID:JiaZg2xL
>>415
750人くらいの首が舞った正月の大乱舞ですぞ

肥後の加藤が来るならば

2017年10月25日 19:07

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/25(水) 17:50:24.41 ID:pJNNrnk5
薩摩の兵児(へご)の謡に

『肥後の加藤が来るならば、焔硝肴に団子まうそ それでもきかずに来るならば、首に刀の引き出物』

というものがある。
『団子まうそ』とは、即ち弾丸を以て膳に変えるという事である。

当時、加藤清正が肥後国に封じられていたが、島津氏はこれと境を接し、非常に警戒しており、
出水郷に要害を築いた。その時この謡をつくり、人夫たちに歌わせたそうである。

(今古雅談)



340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/25(水) 18:25:09.83 ID:uHmIUURg
速攻で秀吉に訴えられそうだがw

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/25(水) 19:04:50.40 ID:Ef10S7lE
NHKのその時歴史が動いたか何かで
「あく巻」ってお菓子といっしょに紹介していたような
秀吉の九州征伐の時の話と言ってた気がするけど、その時はそんなに加藤清正有名じゃないか

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/25(水) 21:04:01.30 ID:CcjnGyV8
あく巻き、あんまり美味しくなかったなあ
もっと砂糖を使えばよかったかなあ

九州戦の頃の清正って官僚としての役割を期待されていたんだね
ときたまそういうコメントが出てはいたけど、もともと代官職が板についてた人だったんだね

343 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/10/25(水) 21:44:02.95 ID:Sc/A6gmx
小西行長「あの…」

印を見せて

2017年08月06日 16:23

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/06(日) 08:16:22.99 ID:0wSsLWfk
加藤清正が朝鮮の王子を捕虜とした時、王子と随臣たちは数日間食を摂っていなかったので、
清正は王子側に聊かも強く当たること無く、すぐに座を設けて膳を整え、食を薦め饗応した。
酒が三度めぐる頃、清正の近習の兵たちが、肴を用意する為走り回っているのを見て、王子の
臣下たちは驚いた。

「これは清正が王子を欺いて害しようとする謀ではないか!?」

そして半弓を引いて清正の方に向き、彼に矢を放とうとした。

清正はこの誤解を解くため説明するにも、言葉が通じないので聞き入れてもらうことは出来ない。
そこで彼は、印を手にして彼らに見せた。これにて『この印を押した誓約が違わない事』を表したのだ。

これにより従臣たちの心解けて半弓を置いた。この隙に清正側は王子を彼らから離して身柄を確保したため、
従臣たちの興奮も自然に静まったという。

(士談)



127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/06(日) 12:29:26.67 ID:+WlXfnng
半弓もたせてんの!?w

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/06(日) 13:57:42.06 ID:4d+IWi5I
昔から何をしても勘違いするお国柄か

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/06(日) 16:42:24.48 ID:geByxlBJ
捕虜だったらお国柄関係なく殺されるのは警戒するだろそりゃ

夢のお告げの大石を

2017年07月16日 17:23

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/16(日) 14:47:54.59 ID:+Kef9Q/f
朝鮮征伐の時、高麗において漢南の加勢が、百万の大軍にて押し来たるとの情勢の中、
日本軍の兵士たちは疲れ果てており、気は弱り勢いも遅れていた。

この時、加藤清正は早朝に出てきて兵士たちにこう語りかけた

「昨夜、珍しき瑞夢のお告げがあった。今日、押しゆく所の道に必ず大きな石がある。
これを引いて帰れば、戦は必ず勝利するということを、まさしく私は見た!
夢は信じるに足らぬものだというが、合戦に挑む前表、吉凶必ず著しきものなのだ。」

そう大いに喜んで押し行った所、はたして大石があった。清正はこれを見るや

「その形、昨夜夢で見たものと聊かも違わない!天のお告げであること、明らかである!」

そして自身で石の上に上がり、大声を上げて木遣をして兵士たちに引かせた所、諸軍大いにいさみ、
問題なく引いて帰った。そして軍士たちはこれに気をはげまし、大いに勢いを取り戻したという。

(士談)


島津のこと、それがしに征伐を命じられれば

2017年06月28日 18:59

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 18:13:45.68 ID:c8upfVr0
関ヶ原の時、島津は西軍に味方し、しかも国元まで引き上げた。そのため「島津征伐を行うべきではないか」
との議論があったが、この時黒田如水が言った

「島津のこと、それがしに征伐を命じられれば、島津領国を占領すること、上下の別なく心やすく思うであろう。
何故ならば、薩摩口は鍋島が先陣を仕る事になっているので、鍋島に先陣を仕るよう命じても、それを迷惑だ
などとは言わないであろう。必ず、先手を仕るだろう。

彼らの領国である肥前は大国であり、鍋島の軍勢は大軍であるから、必ず島津との間で開戦するだろう。


だが、彼らは弓矢の作法を知らず、戦の有り様に不案内な者達なので、島津と戦って必ず敗北するだろう。
これは証拠もないことを言っているのではない。かつて高麗において軍勢を動かしかね、致しようもなく
我が方へ頼みに来たため、蝶之介という我が方の足軽大将を遣わして、ようやく立ち直らせたほどなのだ。
鍋島の兵は至って弱兵であると理解すべきだ。

そしてそのあとを、加藤清正に任せる。清正は格別の器量の者であるから、島津が勝ち誇って来る所へ
一文字に掛かれば。何の仔細もなく必ず勝利するだろう。

その後に我々の備は、袴をつけたまま薩摩に入国するであろう。

(士談)



916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 18:20:56.68 ID:AGoXx4dW
これが出典なのか

917 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 18:33:33.43 ID:JTWyAlyF
チョウノスケが気になる

918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 18:41:58.01 ID:biNEgbmZ
こえれは鍋島を餌にした誘引戦術

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/28(水) 19:57:31.67 ID:ZsT2vZR/
同じ役のことで清正が鍋島さんちを戦しやすくてよかったって褒めてんのはなんなんだろね

こんなことを言わずに謀叛すればいい

2017年06月20日 16:47

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 01:38:54.99 ID:Xbr5DYuZ
こんなことを言わずに謀叛すればいい


家康が諸大名を集めて名古屋城を築かせたときの話。

皆々が寄り合いしていたとき、福島正則池田輝政にささやいて
「近ごろ江戸や駿府の築城続きで人夫もみな苦労して働いた。しかしながら
 天下の押さえとなる城なのでみな苦労と思う者はいなかった。
 今度は子の居城を築くようにと命じられる為ではないのだ。
 貴殿は大御所の親戚である、我一人の為に言上しろという訳ではない」
と申せば輝政は答えなかったが、加藤清正が奮然として正則を戒めて
「ああ粗忽なことをのたまう人だな、貴殿が普請に苦労することが
 不興ならばこんなことを言わずに謀叛すればいい。謀叛が
 出来ないのなら、命を違え斯様なことを申すべきではなかったな」
と荒々しく言ったので、正則はそれを恥じて何も言わなかった。
輝政は笑って戯言ということにした。

その後神君(家康)がお聞きになってみなの心を推察し
ある日輝政を呼ばれ諸大名に対して
「お前たちが普請を頼まれたくないと言うのを度々聞くが、それならば
 国に帰り城を堅く堀を深くして私が行くのを待つがいい」
と仰せがあったので、輝政がこれを諸大名へ申せばみな大いに恐れ
急に人夫を雇って名古屋城の石垣を築き、土地を四面に開いて
二十万人の人夫でもって西海南海の大名共を伊勢三河の大船で運送し
石垣を築き堀を掘れば不日の間に名古屋の城普請は成就した。


――『武徳大成記』



897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 07:31:40.10 ID:DKMfXt+W
これ、面白いな。
有名な福島と加藤だけのバージョンを元にこれができたのか、これを簡略化したのが有名なバージョンなのか、気になる。

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 18:39:34.42 ID:kl2FAQ/4
イライラ清正

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/20(火) 21:23:17.42 ID:w64DAeEm
>>896
これで名古屋城に立て篭もれば面白いのに

加藤の亡魂

2017年06月14日 19:00

24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:02:25.08 ID:OUrzwPNV
加藤肥後守(忠広)が没落以後は、
熊本の城は細川肥後守(忠利、越中守?)が横領して入城したが、
その後には城内外で家鳴り等がして騒がしかった。
加藤の亡魂が念を残したからだと申し伝わっていたので、
細川公は残念な事であると、菩提寺にある加藤が着ていた具足を乞い受けて、
天守の四重目に納められたら、その後に静かになったとか。


『武士としては』



25 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:05:07.82 ID:e6F4knWm
横領とは酷い表現だな

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 01:34:30.30 ID:WE0HmbYS
「横領」は明治中期以降に出来た言葉らしいが、原文はどうなんだろう

27 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/06/14(水) 09:53:05.94 ID:xVPK1Uvj
>>22
              :ill||||||||||l:
             :i|||||||||||||||
           /''';:|||||||||||||||||l:、
          /:i  :||||||貞|||||||i `'!
          / :|  :||||||||||||||||||l ノ!
          | ヽ |||||||||||||||||||| :|
          ! !;ヽ:||||||||||||||||||||!; |
      .__|  |/|||||||||||||||||||||; |____
       |  _|  .|/||||||||||||||||||||; |_____  .|
      | |:='ヾ‐イ:||:|l|l|l|l|l|l|ll|||||' |::::::::::::| |
      | |:::::::: | |;:|||||:l|:l|l|l|:l|:||||| イ=::::::| |  ザー ……
      | |:::::::::/ };|||||||||l|:l|l|l|:l|:|||.ノ:=:::::| |
      | |:::=!川!;|||||!l|||l|:l|l||||ー'‐'.;:::::::::::| |
      | |:::::::::!l.|ノ      / ./:::::=:::::::| |
      | |::::::::::::|:::      ノ }::::::::=::::::| |
      |  ̄ ̄~|:::      川リ ̄ ̄ ̄ ̄ |
      | ̄l ̄ ̄|::::      | ~ ̄ ̄ ̄| ̄|
      |_|:.::.:.:.:|:::::      |:.:.:.:.:.::..:.:.:|_|
      .:.:.:.:.:.:.:.:.:|;;;::::      .|.:.:.:.:.:.:.:.:.:..:.:.:.:

28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/14(水) 10:16:45.54 ID:TDMsc1AT
忠広の生霊か

三ヶ条ほどは珍しいことを

2017年05月24日 19:19

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 18:34:43.68 ID:DnRcAem5
加藤清正が高麗より帰国し、ある夜の物語に、森本儀太夫(一久)、飯田覚兵衛(直景)、庄林隼人(一心)といった
者たちに

「高麗在陣数年の間、何事につけても武功に成るべき筋道を見覚えただろうか?」

そう尋ねた。いずれもこう答えた

「別に珍しいと存ずるような事もありません。ただし、三ヶ条ほどは珍しいことを、高麗において心得ました。」

清正これを聞いて
「私も三ヶ条の心得を得た!であれば各々に入り札を書いて、その実否を糺そうではないか!」

清正は自分の心得を書いて他の面々のものと見合わせた所、その内容は皆、一致していたという。
ある事を詳細に究める時は、自然に同じ理屈に至るものなのだと知るべきだろう。

ただしこの時の三ヶ条が一体どういう内容だったのか知られていない。
ある人が言うには、

『2つの山の間の谷間に蘆の茂った所があった。その山に上がって押し通っていると、唐人3人、
向かい側の山上にいて馬をキリキリと輪乗りにいたし、一人づつ段々に乗り回しているのを見て、
「さてはこれは何かの合図だ」と、下の葦の茂みを探索すると、はたして伏兵を発見した。
馬の乗りようにて合図を致すというのは珍しいことである。』

という内容が、三ヶ条のうちの一つだという。その他は知らぬと、その人は語った。



956 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 18:50:24.34 ID:K4L+UcD/
>>955
肝心なとこ覚えとけよw

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/24(水) 19:08:41.39 ID:utHa4ctx
そういうところは他人に教えないんじゃない?

加藤清正石垣の上手なる事

2017年05月17日 14:06

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/16(火) 23:23:14.96 ID:9GfvhoH8
加藤清正石垣の上手なる事

 加藤清正は石垣の上手であったという。
今肥後熊本城の石垣はもとから高かったが、
その下から走り上ると二・三間は自由に上れるが、
それから上の所では頭の上に
石垣がのぞきかかって、空は見えないという。
伝わるところでは、清正が自ら築いたそうだ。

 これは熊本に住んでいる者の話である。

(甲子夜話)

加藤清正石垣の上手なりしこと

 加藤清正は石垣の上手であった。
ある人が言うに、
「私が肥後に言ったとき、熊本城の石垣を見ると
高いが勾配がなだらかで上れるように見えたので駆け上った。
四・五間は上れたが、石垣の上の方が頭上に覆って空が見えない。
そのためそのまま駆け下った。」
とのことである。

 この頃ある人が語るに
「大阪城西丸大手、御橋内御曲輪の石垣も清正が築いた。
それは御城御建築のとき、清正は石垣の上手なので台命があって、
清正自身の指図で築いたのだ。」
という。
よって今も、北は西丸大手の角から西は三角矢来までを清正石垣または加藤土居と呼ぶ。

 またこの云々は『白石随筆』、『岩淵夜話拾遺』にも出てくると。
予の物が類焼後、身近な書が焚亡したので、引用することはできない。

(甲子夜話三篇)




906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/17(水) 00:04:17.26 ID:dJqOT0G2
石垣がカーブしてるのって建築上の理由もあってのことだからね

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/17(水) 06:03:07.51 ID:2hXqqu9w
ちゃんと設計図ものこってるんだよね。

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/17(水) 15:55:00.83 ID:OKCN1qvM
この前の地震でも、後年に建てられたり
改修されたとこは壊れて当時のは無事だったらしいな
戦国建築オーパーツ?職人すげー

元来片鎌である

2017年05月16日 16:40

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/16(火) 05:33:47.03 ID:9bONDsWt
清正の片鎌の槍は、木山弾正(正親)を槍付けなさった時に十文字の一方
が折れて片鎌になったという説があるが、そうではない。元来片鎌である。

――『武功雑記』