828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/25(木) 01:34:44.63 ID:6Xq29nX6
(前略。栄華を誇った後北条氏ことごとく滅亡し、関東の諸侍ともに運尽き果て身の置き所もなく行方もなし。
中でも不憫なのは相模国の朝倉能登守といって、数度先をかけ武勇をあげた者が“犬也”と号して
乞食して落ちぶれたことだった)
結城宰相秀康卿は、古の関東弓矢の時節に武の誉れある者を尋ね出して扶持なされた。
清水太郎左衛門入道、大石四郎右衛門入道、山本信濃入道、松下三郎左衛門入道、朝倉能登入道
(いずれも後北条氏旧臣)、この人々は文武に達し、1人当千の名を得た勇士で歳は60,70に及んだ。
過分の知行をせしめ、常に御前に近習し、御自愛浅からず。
(中略)また秀康卿が世に捨てられた老士を召し出されたのは、感じられることと言われた。
秀康卿は仰せになり、「関東侍は馬上で達者を働くと聞き及んでいる。さぞ強馬を好むのであろう」
朝倉犬也(能登守)は承り、「関東侍はあながち強い馬は好みません。
ただ自力に叶う馬にもっぱら乗ります。愚老の旧友に伊藤兵庫助と申して馬鍛錬の勇士がおりますが、
ある時の口ずさびに『大ばたや、大立物に、つよき馬、このまん人は不覚なるべし』と詠みました。
馬下手が強馬を好むのを見ては、『馬には乗らず馬に乗られる』と申すものです。
(中略)
むかしの人も馬鍛錬をしたのか、武者絵などでは馬を飛ばせ走る間に弓を引き矢を放ったと見えます。
つまり馬に乗って遠路を行くのは足を休めるためで、軍中で乗る時とは馬上で弓鎗を役に立てるためであり、
むかしの関東の戦場でも未だ経験しない若者は広い野原へ数多と伴い出て、敵味方と人数を分かちて旗を差し、
弓鎗長刀は各々が得意の道具を持って馬に乗り、馬の心を見るために鉄砲を鳴らし、
矢叫びの声をあげて喚き騒ぎ、時に勇んで進む馬もおり、遅れて退き驚いて横切る馬もおりました。
山へ乗り上げ崖のかけ道を乗り、堀を飛ばせ自由を働くようにと鍛錬し、先陣にぬきんで駆け引きする
達者のように振る舞い、勝利を得ることをもっぱらの嗜みとしました。
早雲(北条早雲)教えの21ヶ条の内に『馬は下地をば達者に、乗りならひて、用の手綱をば稽古せよ』と記します。
侍たる者は馬の口を取らせては一代の不覚、仮にも馬上でも、名利を忘れて乗り方を心がけ、
大将であっても馬の口を取らせては、『馬下手故か弓馬の心がけなき人か』と指をさされます。
(中略。北条氏康の“氏康傷”の逸話について)
馬鍛錬の事は御前に伺候する古の傍輩どもがよく存じております。御尋ねなさいませ」
と申せば、秀康卿は御聞きになり
「犬也も若い頃はさぞ馬鍛錬したのだろう。昔の面影を少し学んで見せよ」と仰せになった。
犬也は承り「愚老は70に及びまして馬上の振る舞いは叶いません。
しかし、貴命を辞してはかえって恐れがあります。御遊興にそっと古を学んで御目にかけましょう」
と用意のために私宅へ帰った。
秀康卿は御見物のために馬場に床をかかせて登らせなさり、諸侍は芝の上に並居たり。犬也は鴾毛の駒(馬)に
黒糸威の鎧を着て星甲の上に頭巾をあて、白袈裟をかけ、いぶせき山伏の姿で出で立ち弓を持ち、郎等1人を連れて
槍を提げさせ馬に乗り、御前近くへしずしずと歩ませ、「軍陣でござる。下馬御免」と申すやいなや、
馬場を2,3返して馳せ巡り、馬場の向こうに築地があったのを敵方として睨み、手綱を鞍の前輪にかけて
股で馬に乗り、弓に矢をつがえて声をかけ、走る内に矢を2つ,3つ放ち、さて弓を捨てて飛び降りると
従者が持つ槍をおっ取り、従者が先立って逃げるのを追っかけ、従者がとって返せば自分は退き、
馬も心得があるのか後を慕って来るのをまた打ち乗り、一目散に走らせて弓手妻手(右手)へ、槍を自由自在に
散らし馳せまわった。
秀康卿は御覧になって目を驚かし、御感斜めならず。犬也召しであるぞと呼ばれると、馬を鎮めて近くへ乗り寄せ、
飛んで降り、御前へ伺候した。その場の御褒美として刀に長刀を差し添えて下されたが、
これに朝倉は「老後の思い出にこれ以上のことはありません」と申した。
犬也入道は老倅の翁だが、鍛錬の道で達者を振る舞うことからすると、若い頃はさぞやと諸人は感嘆した。
この人は誠に老いた犬であるとも諸侍は尊敬なされた。弓馬の威徳は述べ尽くせない。
――『北条五代記』
いかにも関東の遺臣を募った越前松平家らしい話だなと
(前略。栄華を誇った後北条氏ことごとく滅亡し、関東の諸侍ともに運尽き果て身の置き所もなく行方もなし。
中でも不憫なのは相模国の朝倉能登守といって、数度先をかけ武勇をあげた者が“犬也”と号して
乞食して落ちぶれたことだった)
結城宰相秀康卿は、古の関東弓矢の時節に武の誉れある者を尋ね出して扶持なされた。
清水太郎左衛門入道、大石四郎右衛門入道、山本信濃入道、松下三郎左衛門入道、朝倉能登入道
(いずれも後北条氏旧臣)、この人々は文武に達し、1人当千の名を得た勇士で歳は60,70に及んだ。
過分の知行をせしめ、常に御前に近習し、御自愛浅からず。
(中略)また秀康卿が世に捨てられた老士を召し出されたのは、感じられることと言われた。
秀康卿は仰せになり、「関東侍は馬上で達者を働くと聞き及んでいる。さぞ強馬を好むのであろう」
朝倉犬也(能登守)は承り、「関東侍はあながち強い馬は好みません。
ただ自力に叶う馬にもっぱら乗ります。愚老の旧友に伊藤兵庫助と申して馬鍛錬の勇士がおりますが、
ある時の口ずさびに『大ばたや、大立物に、つよき馬、このまん人は不覚なるべし』と詠みました。
馬下手が強馬を好むのを見ては、『馬には乗らず馬に乗られる』と申すものです。
(中略)
むかしの人も馬鍛錬をしたのか、武者絵などでは馬を飛ばせ走る間に弓を引き矢を放ったと見えます。
つまり馬に乗って遠路を行くのは足を休めるためで、軍中で乗る時とは馬上で弓鎗を役に立てるためであり、
むかしの関東の戦場でも未だ経験しない若者は広い野原へ数多と伴い出て、敵味方と人数を分かちて旗を差し、
弓鎗長刀は各々が得意の道具を持って馬に乗り、馬の心を見るために鉄砲を鳴らし、
矢叫びの声をあげて喚き騒ぎ、時に勇んで進む馬もおり、遅れて退き驚いて横切る馬もおりました。
山へ乗り上げ崖のかけ道を乗り、堀を飛ばせ自由を働くようにと鍛錬し、先陣にぬきんで駆け引きする
達者のように振る舞い、勝利を得ることをもっぱらの嗜みとしました。
早雲(北条早雲)教えの21ヶ条の内に『馬は下地をば達者に、乗りならひて、用の手綱をば稽古せよ』と記します。
侍たる者は馬の口を取らせては一代の不覚、仮にも馬上でも、名利を忘れて乗り方を心がけ、
大将であっても馬の口を取らせては、『馬下手故か弓馬の心がけなき人か』と指をさされます。
(中略。北条氏康の“氏康傷”の逸話について)
馬鍛錬の事は御前に伺候する古の傍輩どもがよく存じております。御尋ねなさいませ」
と申せば、秀康卿は御聞きになり
「犬也も若い頃はさぞ馬鍛錬したのだろう。昔の面影を少し学んで見せよ」と仰せになった。
犬也は承り「愚老は70に及びまして馬上の振る舞いは叶いません。
しかし、貴命を辞してはかえって恐れがあります。御遊興にそっと古を学んで御目にかけましょう」
と用意のために私宅へ帰った。
秀康卿は御見物のために馬場に床をかかせて登らせなさり、諸侍は芝の上に並居たり。犬也は鴾毛の駒(馬)に
黒糸威の鎧を着て星甲の上に頭巾をあて、白袈裟をかけ、いぶせき山伏の姿で出で立ち弓を持ち、郎等1人を連れて
槍を提げさせ馬に乗り、御前近くへしずしずと歩ませ、「軍陣でござる。下馬御免」と申すやいなや、
馬場を2,3返して馳せ巡り、馬場の向こうに築地があったのを敵方として睨み、手綱を鞍の前輪にかけて
股で馬に乗り、弓に矢をつがえて声をかけ、走る内に矢を2つ,3つ放ち、さて弓を捨てて飛び降りると
従者が持つ槍をおっ取り、従者が先立って逃げるのを追っかけ、従者がとって返せば自分は退き、
馬も心得があるのか後を慕って来るのをまた打ち乗り、一目散に走らせて弓手妻手(右手)へ、槍を自由自在に
散らし馳せまわった。
秀康卿は御覧になって目を驚かし、御感斜めならず。犬也召しであるぞと呼ばれると、馬を鎮めて近くへ乗り寄せ、
飛んで降り、御前へ伺候した。その場の御褒美として刀に長刀を差し添えて下されたが、
これに朝倉は「老後の思い出にこれ以上のことはありません」と申した。
犬也入道は老倅の翁だが、鍛錬の道で達者を振る舞うことからすると、若い頃はさぞやと諸人は感嘆した。
この人は誠に老いた犬であるとも諸侍は尊敬なされた。弓馬の威徳は述べ尽くせない。
――『北条五代記』
いかにも関東の遺臣を募った越前松平家らしい話だなと
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