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貧乏の時によく仏神の心に叶う

2018年08月16日 20:13

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/15(水) 15:23:07.36 ID:FW+EssqZ
弘治2年(1556)、相模小田原の北条氏康は切り誇り、武徳をもって足利左馬頭晴氏の
子・義氏を取り立てて葛西谷に移し、奏聞を経て左馬頭に任じさせ“鎌倉公方”と号した。

伝え聞くところによると氏康の先祖は常に絵島明神を祈ったということであった。

浅井久政は曰く「人は必ず貧乏の時によく仏神の心に叶う。神もまたこれを憐れむのである。
富貴の時でも貧を忘れてはならない」と言ったということである。

――『浅井日記』


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南総の友情

2018年03月19日 17:27

707 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/19(月) 15:09:10.97 ID:pGLzIasn
有名な話だけどまとめサイトの方に地元の話題があまりなかったので。
初投稿なので作法がなっていないかも知れません。ご容赦ください。

南総の友情

天文二年(1533)、一人の若き僧が安房の保田妙本寺にやって来た。
僧の名は日我。日向に生まれ六歳にして三河阿闍梨に教えを受け、二十代の若さで妙本寺の代官に任じられた秀才であった。

やがて日我は日蓮崇拝の気風が強い安房にて深い尊崇を受けるようになり、ついには妙本寺を継いだ。
そして同じ頃、安房ににて頭角を現した者がもう一人いた。天文の内訌の勝利者となり安房里見氏を掌握した里見義堯である。
二人は出会うと互いに感銘を受け、尊敬し合う仲となった。
当時義堯は三十歳、日我は二十九歳であったと言われる。

古の義舜の治世を夢見たとも言われる義堯は学徳深い日我を謂わば政治顧問の様に頼り、その助言によく耳を傾けたという。
また日我は寺領を前線基地として里見氏に貸し出すなど、二人は二人三脚でその勢力を拡大していった。
だがたった一度、日我の進言を義堯が退けたことがあった。相模の北条氏康が日我を通して義堯に和睦を持ちかけたのだ。
「日我上人の申し出でもそれだけは受け入れられぬ」
義堯はそう言って断ったが、その後も二人の交流は途切れなかった。

月日は流れ天正二年(1574)六月一日。その半生を北条との戦いに投じた安房の狼、里見義堯は泉下の人となった。
日我と義堯の出会いから四十年近く経っていた。
里見氏の門派は曹洞宗であり、当然義堯も日蓮宗に帰依はしていなかったが、日我は願い出て義堯の百日法要を行った。
百日間の読経の後、日我は友の為に歌を詠んだ。

隔つとも 心の空に 照る月の 光は同じ 眺めなるらん

二人の眺めた光とは房総の安寧か尽きることなき野心だったか。
幾度北条に大敗しても立ち上がり続けた義堯を日我は「関東無双の大将」と述懐したという。



708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 15:34:31.80 ID:3GoBRh6O
古の義舜って佐竹義舜のことか?
また里見らしい中途半端な目標だなw

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 15:42:38.16 ID:dxw5TKgB
「堯舜の治世」の間違いじゃないの?

710 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/19(月) 16:38:47.11 ID:DgvlYfoX
>>708
いや君の洞察力もなかなか中途半端w

関八州に鉄砲始まること

2018年02月03日 11:55

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 10:39:52.82 ID:Wka7mPI2
関八州に鉄砲始まること

昔、相州小田原に玉瀧坊という、年寄りの山伏が居た。愚老(三浦浄心)がまだ若かった頃、
その山伏からこんな話を聞いた。

「私は関東より毎年大峰に登るのだが、享禄(1528年8月20日~1532年7月)の始まる年、
和泉の堺へ下った折に、大変な鳴り物の音がした。これは何事かと問うた所、鉄砲という、
唐国より永正七年(1510)に初めて渡ってきたのだ、そういって標的を撃った。
私はこれを見て、さても不思議奇特なるものかと思い、この鉄砲を1挺買い取って関東へ
持って下り、当時の屋形であった北条氏綱公へ進上した。そしてこの鉄砲を試射をご覧になると、
『関東に類なき宝である』と、秘蔵された。」

この事を近国他国の、弓矢に携わる侍たちが聞くと、『これは武家の宝である。昔鎮西八郎為朝は
大矢束を引く、日本無双の精兵で、弓の威力を試みるため鎧三領を重ね木の枝にかけ、六重を射落とした
ほどの強弓であったという。保元の合戦で新院(崇徳院)に味方し、八郎一人あって多くの敵を
射殺し、そのため数万騎にて攻めても、その矢を恐れ、院の御門を破ることは出来なかったという。

現在では、弓があっても良き鎧を着けていれば恐るるに足らない。しかしなんといっても、
かの鉄砲は、八郎の弓にも勝るものなのだ。所帯に変えても、一挺欲しきものだ。』

そう願っていた所、氏康公の時代に堺より國康という鉄砲張りの名人を呼び下された。
また根来法師の杉坊、二王坊、岸和田などという者たちが下ってきて、関東を駆け回り鉄砲を教えた。
このような事があって、現代では人ごとに一挺所持している、というような状況となった。

そうして、あの北条氏直公の小田原籠城の時(小田原の陣)、敵は堀際まで押し寄せ、海上も隙間なく
船で包囲した。秀吉は小田原城の西に山城を築き、、小田原城を目の下に見てこう申された
「この秀吉は何度も合戦城攻めをしたが、これほどの軍勢を揃え、鉄砲を用意した事は初めての
幸いである。時刻を定めて、一度に射撃させ、敵味方の鉄砲の様子を観察したい。」
そう、北条方へよびかけた。双方同意し、五月十八日の夜、双方数万挺の鉄砲にて一斉射撃を行った。
これにより盾も矢倉も残り無く撃ち崩されたという。

北条氏直の方も、関八州の鉄砲を兼ねて用意した上で籠城をしたのであるから、敵には劣るまじ、
鉄砲比べせんと、矢狭間一つに鉄砲三挺づつ、さらにその間に大鉄砲を設置し、浜手の衆は船に向けて、
海際まで出、日が暮れるのを待つと、十八日の暮れ方より撃ち初め、敵も味方も、一晩中に渡って
射撃し続けたため、天地振動し月の光も煙に埋もれ、まったくの暗闇となった。
しかしそれにより、射撃による火の光が一層現れ、限り無く見えること、満天の星のようであった。

氏直公は高矢倉よりこれを遥かに見て、狂歌を詠まれた

『地にくだる 星か堀辺のほたるかと 見るや我うつ鉄砲の火を』

これを口にした所、御前に従う人々が
「御詠歌のごとく、敵は堀辺の草むらに、蛍火が見え隠れするようです。城中の鉄砲は
さながら星、月夜に異なりません。」

そのように語ると、氏直公はニコニコと笑みをお見せになられた。
愚老は相州の住人であった。小田原に籠城した時の事、今のように思い出される。

ともかく、鉄砲は永正七年に唐国より日本に渡り、それ以降繁栄し、この慶長十九年までで
百五年である。関八州にては、享禄元年より今年まで、八十七年となる。

(北條五代記)

一般に言われる、鉄砲記の天文12年8月25日(1543年9月23日)伝来説からは、33年も遡っていますね。



610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 11:27:55.53 ID:t7jLHXY4
イゴヨサンガホシイテッボウ

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 11:36:10.42 ID:bwluwx56
一斉射撃だなんて粋だねえ

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 14:05:47.02 ID:T8vcZ8Wi
まとめの1077に
北条氏康が12歳の頃鉄砲の音聞いて驚いて笑われた話があるけど
これはその鉄砲かな

ポルトガルの文書だと1542年だっけ、鉄砲伝来は

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 17:26:41.43 ID:6A/dZne6
いわゆる鉄砲伝来は欧州からのマスケット銃が伝来した史実を指す。
一方、東アジア及び東南アジアでは中国発祥のマスケットである鳥銃が広く普及していて、これが日本に部分的に伝来していた可能性は以前から指摘されている。
というか16世紀中盤時点で銃を知らなかった文化ってアジアでもフィリピンと日本だけなんじゃないか。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/04(日) 19:05:07.80 ID:7bntfjjr
キリスト教:1世紀前半にできて、日本伝来は1549年(1500年くらいかかった)
鉄砲(マスケット銃):15世紀前半にできて、日本伝来は1549年(100年くらいかかった)
梅毒:1492年くらいにヨーロッパ人が感染し、日本伝来は1512年(20年くらいかかった)

宗教、武器、性病の伝来順序が西欧に現れた逆なのが面白い

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/04(日) 22:46:11.25 ID:C2CGA8dd
景教の経典として漢語訳された聖書を遣隋使か遣唐使が持ち込んではいるけどな

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/05(月) 11:12:21.53 ID:4RZFuuGH
元代のマニ教の宇宙図が日本にあった、て話はあるけど
景教経典が持ち込まれた、て話はあったっけ
あとは「甲子夜話」で松浦静山が
「群馬県の多胡碑(711年頃)の近くに十字架が発掘された。
おそらく多胡碑の羊というのはキリスト教徒の一族だろう」
と怪しげな説を唱えているくらい

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/05(月) 14:27:46.51 ID:s4DWgBB+
景教って平家とか朝倉家にいてもおかしくなさそうな名前

氏康傷

2018年01月25日 11:34

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 10:42:23.28 ID:/wkT3dlw
永禄7年正月8日、下総国国府台において、北条氏康里見義弘の合戦の砌、敵味方入り乱れ
氏康の下知も聞こえぬほどとなった。

ここで氏康は「加美」と名付けた黒き馬に乗り、白柄の長刀を持ち駆け出した。
そして剛敵を三十騎斬り落として猛威を振るい、合戦に勝利を得た。

この時、彼は身に鑓刀の傷七ヶ所、頬先に太刀傷をうけた。
この事があってより、侍の顔の傷を、人は称して「氏康傷」と言うようになった。

(北條五代記)



595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 12:58:29.71 ID:vTmFWARm
てことは身体に残る傷を受けたのはこの時だけなのか

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 13:14:36.37 ID:aJgje1Yo
まとめの3410の「上杉龍若丸の処刑」
だと、風林火山では上杉憲政の息子と一騎討ちして氏康傷つけられた、てことにされたんだっけ
しかし自分の息子殺されてるのに氏康の息子を助けようとして
養子の養子に殺される元関東管領さんは憐れすぎる

597 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 10:47:43.77 ID:d6wQLa55
>>596
因縁ある上杉憲政がそれでも推せる人物だったんじゃねえの上杉景虎
越後衆でもないししがらみなく客観的に人物見られたと思う

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 11:01:12.86 ID:LvwdCRRO
越後での「お館様」は憲政で、結構生前の謙信にも抑えられないところはあったみたい

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:04:15.69 ID:WuemNIBu
山内上杉の憲政が屋形様って変な感じするけど

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:14:43.83 ID:LvwdCRRO
謙信も屋形号下された割には尊称が「御実城様」やし

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/26(金) 12:23:34.13 ID:3Opyz5ir
>>599
謙信への宛名が山内殿だからなぁ
憲政は前当主として遇されてますわな

が、江口石見という者は

2017年01月10日 17:47

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/01/10(火) 04:28:01.89 ID:XIXVpzdu
 人の禍福は決まっているという事は、珍しくない事である。
が、江口石見(正吉)という者は、さしたる場も聞き及んでもなく、徳が有る人でもない。
されども、幸運な生まれつきなので丹羽五郎左衛門(長重)について万石を領した。
朝倉能登は首供養を三回もした武功の者であるが、北条氏康のもとで五百石を領したとか。

 茶臼と石臼の替わりがあるように、世間で言う福耳というものがあるのだろうか。
これを見て必ず羨ましがってはならない。
自分は自分で生まれ持ったものがあり、ふさわしくない事を願い無理に利を得れば滅亡することも早くなるのである。


『武士としては』

江口さんにやたら厳しい



(鍋島直茂は)また曰く、

2016年12月11日 12:25

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 00:25:43.02 ID:J1pncLmF
鍋島直茂は)また曰く、

北条氏康は、『常に老若ともに武士道を立てる者は、もし途次などでも
気違い酒狂いの人に行き会った際、自分の勇気を表して睨み鎮めた時、

その人がそのまま正気に戻って平伏し、よく調べる者を側に置きたい』
と、言いなさった。まことに面白き分別である。

しかしながら私は、酔狂人などに行き会った時は少しも怒らず、平静に
打ち笑って見せて、その理性の無き者も、自然と威に恐れて痛み入る、
そのような徳の者が欲しい」

とのことであった。

――『名将言行録』



399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/11(日) 09:47:37.55 ID:uHxpFn9d
市松の事か

氏政公が飯へ汁を二度かけて

2016年02月23日 17:32

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 22:17:26.49 ID:pY+DLWFU
 北条三代目の氏康公は御子の氏政公と御昼食の時、氏政公が飯へ汁を二度かけて召し上げられたのを氏康公はご覧名さなれ、
 「後に関八州は氏政が世で亡ぶだろう。わずか飯椀の中に汁を入れるということさえ、一度だけで行う加減がわかっていない。
そのようなひととなりではどうやって八ヶ国の人々の目利きをすることができようか」
と御落涙したという。
 その言葉の通り氏政公の御代で滅びました。厳密にいうと氏政公は滅びなさったときは御隠居で、氏政公の御子氏直公の御代で亡びましたということだが、
彼はひどいうつけ者であり、氏政公はその愚昧の氏直公へ御相続させられましたことから、汁かけ飯での氏康公のお目利きは神のごとしだと思われます。

 冷泉家は北条執権のころ無二の懇情でしたが、その後君の御憎しみがつよく遠流となられ、
程経て帰洛の後に、家の掟で武家と縁組等を無くし、今でもその通りであります。
先代の掟をこのように守りなされることは甚だ感心します。
 その他の公家方は時節につれてなされたように思われます。
心ある堂上方はこのことを恥と申されたという。清貧と申す事はとかくならぬ事と思われます。
(本阿弥行状記)



216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 22:27:17.81 ID:+ttG42F8
本阿弥光悦の時にこの話が広まっていたとは驚き

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 01:45:53.87 ID:nRXKJORI
氏政暗愚説っていうか、まぁ時流を読み間違えたのはそうなんだろけど

だからって汁かけ飯ごときで暗愚判定されるとは、氏政も草葉の蔭で泣いてるんじゃないかな…
もうちょっとこう…あるだろ

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 16:51:20.67 ID:drP4ghCp
2度目に薬味も入れとけばこうもこき下ろされずに済んだハズ

であるが、あの景虎という者

2015年10月01日 13:56

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/30(水) 21:36:17.05 ID:QV802Zwr
永禄4年、最初の越山で北条氏の本拠、小田原に迫り来る上杉景虎の軍勢に対し、小田原城では
重臣たちが集まりその対応を協議していたが、様々な主張が出て議論となり、いかなる方針を取るか
結論が出なかった。
ここで、北条氏康が重臣たちを諌めて言った

「今度の景虎発向の事について各々の主張はどれも尤もである。
であるが、あの景虎という者、天性健やかなる若者で、血気盛んであり、腹が立って怒る時は
炎の中にも飛び入ろうとし、鬼であっても掴み拉ぐというほど短気な勇者である。

であるが、そんな彼も少し時が過ぎると、その勇も醒めて万事思慮するようになる傾向がある。
『仁者は必ず勇あり、勇者必ず不仁』と言うではないか。

現在彼は上杉憲政から関東管領の名を譲られ、諸侍を配下に付けているのだから、彼の考えを
想像すれば、一層その強みを出そうとしているだろう。
その上彼の軍勢は多勢である。だからその進軍する先々に、我らは軍勢を出さずに籠城して、
彼の血気を悩まし、その塩を抜くのだ。

来鋭を避け惰気を撃つとはこれなり。
勇気も疲れ、数日対陣し兵糧が減って飢えたところを討つのだ。」

(相州兵亂記)

上杉謙信北条氏康から超熱しやすく冷めやすいと思われていた模様。




豊鑑より、北条への認識

2015年06月23日 17:39

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:35:01.10 ID:yUxMH566
その秋、北条美濃守(氏規)と言う者が上洛した。これは北条氏直の叔父である。
この北条氏直というのは、東の国々を7つばかり従え、相模の小田原に在った。

彼は北条時政の子孫ではない。早雲という人物の子孫であるが、彼も彼の国の者ではなく、
都あたりの出身であったが、従者一人二人ばかりで駿河国にさすらい行きて、今川のなにがしに
縁があったが、よろず優秀な人物だったので今川氏の心にかない、漸次出頭したが、伊豆の国に移り、
どうやったのか彼の国を従え、2年3年の内に相模の国を心のままにして、相模の小田原に移り住んで
なおも武蔵、上野の切り取りををこころざしたという。

その嫡男である氏康という男子、父にも劣らず賢く、武士の道にたけく謀ある人物だったので、
彼の時に武蔵、上野、上総、下総などまで従え、一族広く富み、権勢盛んとなったこと思い知るべきであろう。

氏康の嫡男である氏政は、老いたというには幾ばくも至らない内に嫡男氏直に世を譲ったそうだ。

(豊鑑)

当時の畿内における、北条への認識がかいま見られる豊鑑の記事である。
というか氏綱…。



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:58:04.50 ID:wOzHKolz
まあ、ハブられてもしゃあないというか
無関係なところの人間にしてみたらそんなものじゃないの

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:03:39.10 ID:IpAvlnDm
もう出自不明になってたんだんだ

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:31:55.43 ID:g+i0E8PA
毛利の長男よりはまし

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 10:46:03.74 ID:LkICDGu3
斉藤道三の国盗りと一緒で一人と思い込んでたんじゃねーの?

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 23:34:23.03 ID:KeJRBl/z
>>973
興味薄いからろくに調べなかっただけでそ。
東国は別の国みたいなもんだし。

武田信虎「信玄はよく分別して、この3ヶ国を取るように」

2015年05月09日 16:25

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/08(金) 21:22:04.96 ID:HjLXgSyq
遠州掛川の円福寺にあった武田信虎は、信玄より遣わされた日向源藤斎にこのように言った。
「今川家は、ここ10年のうちにも滅亡するだろう。その仔細は、上方牢人の武藤という、武辺のことについては
仮初にも知らない、利得ばかりの役を今川義元から申し付けられた、半分町人、半分侍のような者が居るが、
その子が、生まれつき良き者であると、今川氏真の御座を直させる役につかせ、三浦右衛門(正俊)と名づけた。

そして今では氏真は、この三浦右衛門の言うがままと成り、霜月や極月にも、右衛門が所望ならば
踊りを七月のように踊らせ、また五月の菖蒲斬りを七月末まで叩き合わせ、能・猿楽、遊山、月見、花見、
歌、茶の湯、川漁、舟遊びにあけくれ、民百姓を虐待し、譜代の家老や今川一家の衆にも頭を上げさせない。
ことに、遠州の国人飯尾氏の跡目を望み、今川家において最も権威ある家老である朝比奈兵衛尉をも遮り、
地下も侍も氏真を恨むように成ったのは、みな三浦右衛門のせいである。

この三浦右衛門と言う人物は武士の義理を知らぬ者らしく、今川義元が手を付けた女子に、菊鶴という、
これは義元の近習・四宮右近の妹があったのだが、これを密かに妾にしたのが、義元が討ち死にした
年のうちであった。この事も右衛門を恐れて、氏真に知らせる者とてなかった。
しかしこういった事を、この信虎は氏真に申し聞かせたため、右衛門は私を憎み、彼のお気に入りである
名古屋の与七郎と言う者は、私を武田の強欲入道と名付けた。

これというのも、元は氏真の心得が悪いからである。氏真が23歳の時、父義元を織田信長に殺されて
はや4年になる。当年26歳に氏真は年令を重ねても、父の弔い合戦をするような心ばせは夢にも無い。
氏真も臆病というわけではない。しかし心掛けが無いため、西国において大内義隆、関東にては上杉憲政と
同類に数えられる。

特に、三河岡崎の城主で、今は家康と名乗っている者は当年22歳になるが、義元のお陰で岡崎に帰還したが、
氏真を見限り今川の敵である信長と入魂して、互いに起請文を交換し合い、信長に脅威があれば家康が助け、
家康に大事があれな信長ら助けるとし、既に家康の、当年5歳になる嫡男を聟に取ると約束した。
そして元康といったのを家康と改名し、4年前より三河国を切り取って廻った。

この事に対し今川家の重臣より抗議が寄せられたが、家康は
『今川の御恩にて岡崎に帰参致すこと、父広忠以来二代に渡り、少しでも今川家に対しぞんざいに思えば
御罰が当たります。このあたりでの取り合いは、所領の境問答があるからです。
信長と入魂したのは、彼の内実を見透かし、義元公の弔い合戦を氏真公がなされる時のためです。』
そう答えて家康は弟を人質に出した。
しかしその駿河の使いが山中あたりを行く自分に働き、氏真を主君として崇める者達を次々と切り従えたのを、
今川家の重臣達は重大事と考え氏真を諌めたが、家康のめのとである酒井雅楽助(正親か)という者の
工夫良き故か、成瀬藤五郎という口利きの上手い侍を一人、三浦右衛門の所に付け置いたことで、
氏真と家康の間も元のように回復した。

こんな状態なら、家康と信長の同盟により、三河、遠州、駿河3ヶ国は家康信長に取られ、結局
敵の方が今川家を滅ぼすであろうから、信玄はよく分別して、この3ヶ国を取るように。
ただ、舅であるから北条氏康今川氏真を助けるだろう、しかし氏康の子息氏政は、信玄の婿であるから、
そのあたりは信玄も定めて分別が有ると思う。こう、信玄に申せ。」

これに日向源藤斎は申し上げた
「信玄様は、万事において入念な方です。口上だけを以っては如何かと思います。信虎様の御一筆を
遣わされますように。」

しかし信虎
「文書で言うならその方を呼びはしない!大事の事は、絶対に書物にはせぬものだ。」

「であれば、信虎公の御判を一つ押して下さい。それをお目にかけ証拠とし、信虎公の奥意を申し上げます。
私は諸国へ御使に参りますが、どんな手立てにおける吉事であっても信玄公は、ふまえる所のない情報は
少しも信用なされません。」

そこで信虎は直判を日向源藤斎に渡した。次の日は日向は逗留し、翌19日、信虎は円福寺を立って上洛した。
それを見送ると、日向は二十日に掛川を立ったが、安倍川が増水していたため回り道をし、25日に甲府に付き
信玄に信虎の判を御目にかけ、件の事を申し上げた所、一切感心のないような表情で

「信虎公は老耄されたのだろう。皆いたずら事である。源藤斎はこの事、今後必ず取り沙汰してはならない。」
そう機嫌悪く言った。
(甲陽軍鑑)




767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/09(土) 10:01:41.22 ID:byQptwpE
本当今川氏真って最低なやつだなw

河越夜戦の事

2015年05月07日 18:49

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 21:17:42.95 ID:6Q3hoisF
永禄6年(1563)、北条と武田の松山城攻めの時のこと。
武田信玄北条氏康に、かつての河越夜戦の様子を聞きたいと所望した。
しかし氏康は「信玄殿のような戦巧者に話すのはお恥ずかしい」などと遠慮したが、信玄は

「私は氏康殿より6つも歳劣っております。学問として、お話を承りたい。また嫡男である義信にも
聞かせてやりたいのです。」と、しきりに所望したので、ついに氏康も語り始めた

「川越の夜戦は天分7年7月の一五夜(原文ママ。天文15年(1546)4月20日の間違い)であったと記憶している。

敵は山内・扇谷の両上杉。その人数は8万6千ほど。一方の我々は、、伊豆・相模の両国を領有していたものの、
1万の人数を駿河・甲州との国境に置き、安房の里見への警戒のため三浦にも人数を置いたため、
残った8千の人数を引き連れ、入間川まで進軍すると、敵3万ばかりがこちらに向かって来るのを見て、
早々に小田原に引き退いた。

この時、諜報の者共を出して調べさせると、敵は『氏康は逃げた』と笑い事に沙汰していると聞こえた。
良き沙汰であると思った。
5,6日してまた出陣した。そして前と同じように、敵が向かってくると早々に小田原に撤退した。
敵の沙汰を調べさせると、「氏政はもう出てこないだろう。仮にまた出てきたとしても、いつもの様に
逃げ出すだろう。」と取り沙汰している事が解った。

ここで私は、彼らの沙汰が両上杉による謀略であるという疑いを解き、入間川の端まで出撃し、
人を出して様子を調べさせると、「氏康はどうせまた逃げるだろう。構わずそのまま置いておけ。」と、
敵方は申していることが解った。

そこで私は、8千の人数に白い紙で作った胴肩衣を着せ、
「敵の首を取ってなならない。斬捨てにせよ!そして敵であったとしても、白いものを着た者は
斬ってはならない。また、敵を斬りかけていたとしても、後ろから貝の音が聞こえたら、そこに
集合するように。」と、三カ条を申し含めた。

夜の子の刻(0時頃)、両上杉の旗本が駐屯していたかしわ原という所に斬り込んだ。そして
八つ過ぎ(午前3時頃)まで敵を討ったが、味方の死傷者は100人も居なかった。
後で調べさせると、上杉家の者達は、雑兵合わせて1万6千ほど討ち死にし、1万あまりが負傷して敗軍した。
逃走する両上杉は我らが軍を警戒するあまり我先にと逃げ落ちたため、合戦はこの氏康の利運と成った。

しかし、これは氏康の手柄ではない。この勝利は北条上総介(綱成)と、”ため”という者が剛強であった
故なのだ。

私が中武蔵にて少しばかり切り取ったところを、上総介に与えた所、彼はその所領を自分の欲のために使わず、
それを使って上杉家を背いた侍達500人ばかりを抱え、良き人質を取り小田原に指し寄越し、
川越の城を強靭に持ちこたえた。

また”ため”は河越夜戦の時、50人の足軽を引き回し、私の脇に寄り身構え、夜が明けてもこの氏康を
守護した。そしてこの松山の城に退き籠もった。

上杉家の侍大将たちは弓矢巧者の衆であるから、一旦退いたといえども、氏康の軍勢の人数を見積もり、
疲労したところに掛かって氏康を討とうと戦場に再び押し寄せたが、氏康は既に松山城に堅固に籠もったと
聞いて、流石の侍大将達といえども、上杉敗軍して総大将が居ない状況であったので、どのようにするかと
いう議論がが紛糾した所に、上総介は川越城から出撃し、上杉勢を追い崩し、直ぐに松山城に入って
私を守護し、このあたりの仕置を行った。
その後、川越の城には大同時を置き、上総介は玉縄城で安房を警戒し、氏康のため良くしてくれている。」

この話を聞いた信玄は、自分の陣屋に戻ると、馬場民部(信春)を呼んで言った
北条氏康の弓矢、手立て、だいたい解った。」

(甲陽軍鑑)
北条氏康、信玄に河越夜戦について語る、というお話。




942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 21:22:24.79 ID:UDS3Nmt/
>「北条氏康の弓矢、手立て、だいたい解った。」

最後でお茶吹いたわw

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 22:07:38.77 ID:dHplT8NS
えらく長いなと思ったけど、最後まで読んで
ちょっと悪い話として秀逸と思った。

945 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 02:51:42.66 ID:EwhgJU5F
これで分かるわけないんだよなあ

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 03:10:35.47 ID:W26AB9aq
で、ため って人は誰に当たるの?
風魔か

947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 03:30:39.63 ID:sa/Ml6Bk
ためは多目だろ

948 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 04:01:13.54 ID:GDeBRSsV
多目元忠だろうね。北条五色備の一人で黒備。
北条綱成と双璧を為した武将で、氏康の軍師だったとも。

949 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 05:48:28.41 ID:ObHfsY57
安心の軍鑑w
信玄を持ち上げてるつもりで書いたんだろうが、単なる小知恵者にしか思えないよw

950 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 09:57:41.61 ID:NzRwIDv/
>>942
馬鹿にしてるようでワロタw

951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/07(木) 15:43:37.44 ID:ow36jQfs
永禄6年だと馬場民部じゃなくて美濃なんじゃ?とか細かいとこが気になった

武田信玄、上野に出陣する

2015年04月19日 15:49

846 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/04/18(土) 18:17:08.14 ID:KCRda4ih
>>677の後日談

弘治3年正月7日に、相州小田原の北条氏康より、武田信玄に大藤金谷斎栄永を以って申し入れがあった。
それによると

『10年以上前に武田殿が上野に軍を出す事のないようにと、駿河の今川義元を頼んで申し入れましたが、
上杉憲政が越後国の長尾景虎を頼み、越後に行ってからは、景虎が年々関東で働きをするように成り、
それを頼って、独り立ち出来ない上杉家の侍大将どもに、上杉を帰還させることも嫌がり、かといって
この氏康に従うことも嫌い、敵になり味方になって、関東は治まりかねております。

上杉家のそのような者達は多き中に、武州にて太田三楽と申す侍大将と、上野の長野信濃守(業正)は
特に大いなる徒者にて、景虎の後ろ盾を当てにして氏康に盾を突き、末々は、両人の動向を見るに、
太田三楽は武蔵国すべての領有を望み、長野信濃守は上野を望んでいると考えられます。

そこで、大田三楽はこの氏康が討伐し従えましょう。長野信濃守について、信玄殿がご成敗なされ、
上野を甲州より御支配なされるように。』

これにより弘治3年3月中旬より、信玄公は上野へ出陣された。

(甲陽軍鑑)




北条氏康、今川義元に依頼をする

2015年04月17日 18:04

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/17(金) 00:01:08.36 ID:DAofRnT6
天文19年9月9日に、駿河の今川義元より四ノ宮右近、庵原弥兵衛の両人が甲府に御使に参った。
四ノ宮右近は節句の御使、庵原弥兵衛は、小田原の北条氏康から、今川義元に頼まれた使いであった。

氏康から義元への依頼は、このようなものであった
「我が北条家が、(山内)上杉家と弓箭を取ること、私まで三代に渡ります。しかれば、今年中には
有無の一戦を仕る所存です。

もし上杉憲政の運が尽き、私に利運が有れば、関東諸国については北条家によって仕置きするつもりです。
ことさら上野国は上杉憲政居城の国であるが、この上野に武田晴信が手をかけるのを思いとどまるようにと、
そちらから甲府に言って頂きたいのです。

我々の方から晴信に申すべきなのですが、若き人の事でもあり、我らは彼の父信虎とは別して入魂仕り、
信虎も我らと一入懇ろに取り扱い頂きました。ですが、今の晴信にはしかじかと申し談ずることもなく、
殊に、晴信という人物は、少々喧狂のように承っています。
このため、こちらより申し入れて、事破れてしまってはいかがかと思い、義元公を頼りたいのです。
義元公は晴信の姉聟ですから、晴信が気に入らないことであっても義元公が申し入れれば合点するでしょう。」

このように北条氏康今川義元に頼み、武田晴信に仰せに成って、武田が上野に出陣することはなかった。
ただしそれから8年目に、仔細が在って上野に出陣した。

(甲陽軍鑑)

後日談
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9214.html

上杉景虎、「信玄公の批評」

2014年08月04日 18:55

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/04(月) 01:46:49.10 ID:nia5rqbg
永禄3年(1560)上杉景虎の北条への攻撃、いわゆる最初の「越山」が行われる。
景虎は怒涛の進撃を行い、この事態に北条の同盟国である武田家において、飯富兵部少輔(虎昌)は
信玄にこのように申し上げた。

「景虎の勢いはこのようでは、北条氏康公がついには切腹されることも疑いありません。
そうして北条が滅亡すれば、次は駿河の今川家、そしてこの武田家も滅亡と成るでしょう。
氏康公が未だ堅固な間に、笛吹に兵を入れて、甲州から花水川に出て関東の勢力と共に、
景虎と決戦をいたしましょう。そうすれば勝っても負けても、信玄公の名は末代まで言い伝えられる
ことでしょう。我々に直接関係のあることでなくても、北条氏康公に頼まれての義理の一戦は、
弓矢取る者にとっての面目です!」

しかし信玄、これを聞いて
「長尾景虎の攻撃の様子、あるいは退却、武辺の形などをここ14年ほど見てきたが、彼は戦争に関しては
生まれついて優れた才能を持っている。だが、彼の戦略には臆意に練った工夫がない。

今回の事、結局は氏康にとっての吉事であると考える。何故なら、上杉憲政はうつけたる
人物であったので、関東の諸侍は表向きは憲政を恐れるようにしていても、裏では侮り、
藤田左衛門をはじめ上杉家の侍たちは逆心をして、上杉家を関東より追い出した。

そして北条氏康を主としたわけだが、彼は一段優秀な人物であるから、関東の者達は今度は
その支配を難しく思い、それよりは景虎がいいと思って、今渇望しているのだ。

だが、彼はようやく30歳の若さであり無分別である。しかも短気者であるから手荒に仕置きをする。
だから今年来年の間には関東の諸侍も景虎を疎み、かといって独り立ちも出来ないので、結局は
北条氏康を頼りとするより外に選択肢はなくなるのだ。」
この信玄の発言に飯富は全く納得しなかった。

さて、上杉景虎は3月中旬には相模国小田原へと攻め込み、蓮池まで乱入した。
彼はよく知らない関東の侍大将の衆に少しも気遣いすること無く、兜をつけず
白布の手ぬぐいを使った桂包という物に頭を包み、朱采配をとって諸手へ乗り込んで下知した。

彼の、他人を生きた虫ほどにも思わない態度を見て、関東の諸侍は大小共に舌を震わせ、
『このままこの大将を頼っていては、ゆくゆく大変なことに成る』と、今後の身の上を考える
者も多かった。

そのような中、景虎が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮に参拝した時、近衛前久殿に都より下っていただき
これを公方とみなし、景虎は山内から大石、小幡、長尾、白倉の4人の侍大将を近辺に連れて、中でも
上野国鷹巣の城主、小幡三河守に太刀を持たせ、ここで景虎は関東管領と成った。

人々は
「その威勢は東日本の三十三ヶ国に並ぶもの無く、行く行くは京都へと軍を出しても、一体誰が
盾をつくだろう。そもそも景虎は大国の越後を支配し、それに上野を手にし、関東を従え管領となり、
十万あまりの軍勢を率いている。3年のうちに日本の主となること疑いない。なんと果報の大将であろうか。」
と評判した。

ところが、この鎌倉参拝の帰りに、忍の成田長康という五百騎の大将が畏まっていたが、他の者より
すこし頭が高いと景虎は激怒し、手に持った扇で成田の額を3度まで打った。

成田は宿舎に戻ると、「私も五百騎を率い、地元の合戦では千騎を従える程の者だというのに、
景虎にこのようにさせられる事口惜しい」と、景虎に暇乞すること無く忍へと帰った。
これを見て、関東の諸侍も尽く引き払い、景虎の手勢である1万7千の人数すら混乱した。
その上小荷駄を地元の百姓に取られ、小物・中元を殺され、敗軍のような有様となり、
ようやく上野国平井まで戻れたのも、景虎なればこそであった。そしてそのまま平井に逗留し、
5月始めに越後へと帰っていった。

武田家の人々は、大小、上下を問わず、「信玄公の批評は少しも間違いはなかった」と大いに
感じ入ったのである。
(甲陽軍鑑)




868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/04(月) 01:59:53.30 ID:KLawV5yp
景虎さんは戦略目標ってのはあまり意識してないよなぁ

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/04(月) 04:30:48.77 ID:YawQpXQz
池享氏の本だったと思うが「景虎は最後はただ虚しく関東の野を駆け回るだけだった」とか書かれてた

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/04(月) 12:35:44.72 ID:b6Mz3aC7
時代的な意識の違いというか
「自分の縄張り広げるぞー!!」っていう考えが
そのあとの世代になって「やっぱ都目指さなきゃダメっしょ」
みたいに変わってきたってことなんかな

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/08/04(月) 14:34:48.21 ID:j/22Dnht
領土を広げるのが食料確保目的だとすると
冬の間、出稼ぎ遠征だけで目的は達せられるし
遠隔地に代官をおいて地域の問題を解決したり、領民の保護したり、
というコストを考えると、むしろ荒らすだけのほうが安上がりだったとか
関東管領になったことで戦略目標(分捕り許可)は十分達せられたってことで

謙信はこれを察知すると

2013年11月14日 19:01

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/14(木) 17:19:41.41 ID:bEaahQ11
上杉謙信は忍において北条氏康と戦った。この頃、太田資房
ひそかに氏康へよしみを送り伝えた。

謙信はこれを察知すると、単独で資房の軍営に至り、
その十二歳の第三子をつかまえて、

「立派な子だ。この子は私の子になるべきである」と、
その手を引っ張り、立ち去った。

衆人には積極的にこれを阻止する者はおらず、資房は恐れてひれ伏した。

――『日本智嚢』






742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/14(木) 17:47:17.70 ID:5FWxIKgP
自分の子にするってのは乗り込んで拉致る時の決まり文句なのか

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 15:58:27.12 ID:XmguWrso
>>741
太田資房は氏資ね、氏房は北条氏政の子
元の資料では源五郎になってたのかな?意味が通じるよう訳してくれ

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 16:10:39.94 ID:3zaQi9xN
>>753
投稿者じゃないけど原文は資房、氏房となってる箇所は全て資房だったよ
ちなみに第三子は安房守とか書いてあった。

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 16:40:18.49 ID:MzY12iwa
真田表裏比興さん「呼ばれた?」

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 16:40:44.38 ID:XmguWrso
ったくどうやったら間違うんだよ。
あと子供に名前か官名があるのなら省略しないで欲しい。資房には娘しかいないと思ってたし。

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 16:59:25.97 ID:ED5WT+Hh
氏資のWikipedia見たら「初名は資房」ってあったから俺はそう受け取ったよ。
「子がいなかった」が引っ掛かったけど、Wikiだしスレの趣旨的にも気にしないことにしたw

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 17:01:22.90 ID:3zaQi9xN
>>756
添え書きのような感じで、しかも当人が12歳だし官位で書くと話の
雰囲気が壊れるから書かない言う選択はアリだと思うよ

一応、原文ね
ttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/778530/13

ちなみに真贋は別として第三子が安房守だと資正っぽい気もするね

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 17:33:40.79 ID:R9Cg/jN7
太田さん一家は『雪の峠』で名を知った人が多そうな

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 17:44:23.81 ID:YA14mP7p
>>753
すいません、Wikipediaを参考にして当初は資房(氏資)としておこうかと思ったんですが、
氏資には子どもがいないし、安房守なら父の資正のことかもしれない。
しかし資正の三男の資武が十二歳の時には謙信も氏康も死んでるし、
よくわからないから原文ママで資房にしよう、などと何度も書きなおしてるうちに
誤って氏房にして投稿してしまいました。申し訳ありません、以後気をつけます。

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 18:19:46.61 ID:XmguWrso
>>758
>第三子が安房守だと資正っぽい気もするね。

ごめん、意味が分からない。安房守なら資武じゃないの?
筋の通らない話をのせるときは最後に「原文ママ」と入れといて欲しい。

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 18:26:40.95 ID:XmguWrso
ああ、資房じゃなくて資正ってことかOrz
どっちにしろダメな資料だね。

763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/11/15(金) 18:50:22.96 ID:3zaQi9xN
>>762
ここ逸話スレなんだし、別に「史実と一致してない=ダメ資料」ってことは無いだろう。
俺はこの本は訳のわからん話がモリモリ入ってて楽しいと思うけどな。

太田三楽斎、今や首を掻かれようとしたが

2013年09月21日 19:52

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 05:45:08.99 ID:pBifOIl7
永禄7年(1564)第二次国府台合戦でのこと

太田資正入道三楽斎も、北条氏康の軍勢と戦い奮戦し、二ヶ所の手傷を被りながらも踏みとどまり、
北条方で勇士として有名な清水太郎左衛門の嫡子である又太郎と組み合い、競り合っている内に、
父に劣らぬ大力の又太郎に組み伏せられた。

手負いの身でもありついに力尽き、今や首を掻かれようとしたが、ふと、又太郎の力が緩んだ時、
三楽斎は目を見開き声を荒らげた

「何をうろたえる!我が首には喉輪が嵌っている、早く外してこの首を掻け!」

これに又太郎は、立派な態度だと感心し、気を取り直して言われたとおりに喉の金輪を外している所に、
三楽斎の近習である舎人孫四郎、野本与次郎たちが駆けつけ、又四郎を引き倒し、三楽斎に、逆にその首を取らせると、
そのまま逃げ去った。
(関八州古戦録)




353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 11:03:18.05 ID:y4mF5ILd
負けないこと投げ出さないこと逃げ出さないこと信じ抜くこと

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 11:22:23.25 ID:0jYeIXiy
>>353
天庵「ですよねー、何回かチャレンジしたら野戦で勝てると俺は信じてる!」

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 11:49:33.47 ID:YwAXm8oJ
>>352
なんともコメントに困る逸話だなw
三楽斎はこれ分かってて言ったのだろうか?

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 12:24:55.57 ID:d3MufPM6
>>352
殺してから首を取り外すわけじゃないんだな

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 12:29:50.68 ID:udAXqqDk
太田「……計算通り!!」
近習「(´-`)…………」

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 12:38:54.22 ID:cuNV9HT7
大声の叱咤で立派な態度と思わせつつ仲間を呼ぶ、という高等テク

359 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 15:56:23.25 ID:ChSpHib2
要約すると
三楽斎「タスケテー」  って事だよねw

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 17:59:19.14 ID:URCEdLHY
2コンのマイクに向かって言ったんですね

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 18:03:18.24 ID:0jYeIXiy
それはフェニックス天庵きてまうで

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 19:47:18.19 ID:mmlohXqo
なんというか、源平合戦のノリだな
そのまま逃げ去った の部分が妙に気になるが

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/21(土) 23:51:29.45 ID:wElm0qam
>>352
喉輪を外せとアドバイスされ、ちんたら外してるうちに逆に討ち取られるという
どちらかというと、又四郎があほぅな気がする

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/22(日) 00:19:09.54 ID:veH309aX
親父に倣って首をねじ切ればよかったのに

此の方から人数を出すべからず!

2013年05月12日 19:04

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/12(日) 16:38:22.90 ID:I8hjgfPM
永禄4年3月、長尾景虎(上杉謙信)が総勢9万6千にて小田原へ攻め寄せるとの情報を察知した北条氏は、
重臣集まり、これは由々しき事態である。敵が近づく前に先ず大磯・小磯に人数を出し防衛戦を形成して
ここで交戦を行う。その上で江戸城、河越城の人数を出して敵を挟撃しよう、などと評議していた。

ここに大屋形である北条氏康が、老臣たちを呼び寄せて言った

「今度の長尾景虎発向の事をよくよく考えてみたが、確かにそなたたちの作戦案も尤もである。
であるが、今度の敵である景虎という人物は、天性健やかなる若者で、血気盛んであり、
腹を立て怒る時には、火の中にも飛び込もう、鬼であっても掴みひしごうと考える、短気な勇者である。

であるが、怒りの時が少し過ぎれば、その勇猛さは醒め、万事に思い悩むような傾向があると聞いている。
今回彼は上杉憲政より職を譲られ関東管領を名乗り、諸侍を配下に付けたため、彼らが自分を見ていることを
意識し、一層強さを見せようとするだろうし、その上多勢である。

であればその勢とぶつかるよりも、人数を出さず籠城し、彼の血気を悩まし、その塩を抜くのだ。
向かってくる鋭鋒を避けてその惰気を討つ、というのはこの事だ。
勇気疲れ数日対陣し、食に飢えたところを、討つべし。

私は一日片時も枕を泰山の安きに置かず、粉骨をなし私欲を去り、士卒の労に変わって身を苦しめ、
現在の乱世を治めて日本の衰えた政道を興し、永遠に仁政が行われる事を欲する者である。
そして、進退にあたってはその機に応じて変化させることも、勇者の心とする所である。

今度の合戦、手を下したとしても、進むべきを知って進むのは時を失わざるためである。
退くべきを見て退くのも、後を全うして国を治めるためである。

先ず籠城の用意をし、敵を外に引き寄せてその馬の足を疲弊させよ!矢弾を尽きさせよ!
此の方から人数を出すべからず!」

この氏康の仰せを、北条氏政を始め重臣の面々も、尤もであると感心し、籠城の用意を始めた。
(關侍傳記)

小田原籠城を決めた、北条氏康の演説である




263 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/05/12(日) 18:23:47.73 ID:Yol+DUeY
「籠城戦得意だし!」じゃ駄目?

265 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/12(日) 20:24:57.90 ID:65XgNyOV
もともと小田原って攻めづらい城なの?
この頃はまだ拡張されてないよね?

269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/13(月) 09:05:51.72 ID:AfJuxrOu
>>262
氏康は敵を知って戦略を変えられる男
それに引き換え息子ときたら・・・

北條新三郎の亡魂

2012年12月12日 19:58

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/12(水) 05:29:13.12 ID:/eJrE2dz
永禄12年(1569)、武田信玄の駿河侵攻。

信玄は大宮通に討って出てあつばらを過ぎて加島へ進出し、悉く放火して富士川を渡り、岩淵の宿を焼いて
蒲原へ押し寄せた。

蒲原には北條新三郎が籠っていたが、当時駿河方面の北條方は、信玄の小田原侵入の煽りを受けて
小田原に集まっており、蒲原に残るものは少数であった。
このため甲州勢は、『きっと聞落(軍勢が迫るのを聞いただけで自落する)』と侮っていた。

しかし北條新三郎は少しも怯まず、信玄が城を取り巻き、徐々に攻め寄せると、新三郎は弟の少将をここに留め、
自身は狩野新八郎と共に出撃し、甲州勢を悉く追い立て、信玄の近臣・小幡弾正を初めとして悉く討ち取った。

ところが、である。蒲原城内に武田に内通したものがあり、これが甲州勢を城内に引き入れてしまった。
出撃していた北條新三郎・狩野新八郎・新三郎弟少将・渡邊以下三百余人、城に引き返し一人も残らず斬死した。

この新三郎という人は、北條一門でも優れた勇者であり、氏康に特に評価され、人も多い中に、この地域の拠点である
蒲原城を任されたほどの人であった。

ところがこの不慮の討ち死にに、最期に大きな怨念を持ち、霊鬼となってこの蒲原の山に留まった。
樵夫・刈草の童は、これを見て恐れること限りないほどであった。

天正の頃、この山に居住する僧があったが、新三郎の霊はこの僧の元に訪れ物語などをしていた。
ある時僧が、「あなたは何者ですか?」と問えば、「私は北條新三郎の亡魂である」と言って、たちまち煙のように
消えてしまった。

今でも蒲原の住人は、この新三郎の霊に遭う事があるのだという。
(關侍傳記)





742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/12(水) 09:19:47.57 ID:T6krAu3h
>>740
僧が何とかしてくれるのかと思ったがそんなことは無かった

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/12(水) 11:56:16.27 ID:cpj77mD9
>>740
幻庵さんの息子さんだっけ

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/12(水) 15:21:51.00 ID:j+rWurv3
そうだよ
長男は夭折して、残った次男三男はここで討死に
幻庵じいさまの息子はこれで全員死んじゃった事になる

せめて兄と弟は別の城に置いてやれよ、って気がする

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/12(水) 18:18:09.79 ID:qa/7RCob
>>745
同じ死ぬなら兄弟共に一箇所で斬死にを、て考えなのかな。
兄弟がそう願ったのか上の配置なのかは分からんが。

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/12(水) 18:22:55.85 ID:zdNSsK1S
弟が指揮官である兄の副官を務めるのは普通の配置

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/12(水) 18:26:29.60 ID:p8wEpweF
だよね

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/12(水) 20:14:11.62 ID:R9HsZojG
弟が若年だと女装して兄の篭る城に単騎駆けするんだろ

品川の観音

2012年12月11日 20:11

716 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 20:39:17.71 ID:cHrP/gax
永禄12年(1569)、武田信玄による小田原攻めの時のことである

武田信玄は駿河方面を警戒していた北條の隙をつき、小田原衆の思いもよらない方角から笛吹峠を超えて、
武蔵国江戸の葛西に懸り、人数を二手に分けて小田原へと寄せた。

一手は八王子口より町田に懸り、つく井・滝山を攻める体にて道筋で略奪をした。
一手は江戸城を攻める体にて、江戸・品川・縄島あたりを焼いて民家を略奪した。

ここに奇妙なことがあった。
信玄の侍に竹森、花村という者があったが、この二人は品川の観音堂を焼き、本尊を取り財貨を略奪した。
ところが甲州に帰った後、かの観音の仏罰が当たり、彼らは突然錯乱した。

このため彼らは観音を他所に移したが、それでもまた錯乱を起こした。
これを持て余した彼らは、往来の乞食聖に、観音を品川に返してくれるよう頼み込んだ。

この観音はこのご3年いろいろな不思議を現し、品川に自ら帰るという宣託を下され、実際に品川に帰られた。
誠に末世の不思議である。

しかし品川に帰られたものの、御堂も焼けどこにも据える場所がなく、乱世の事でもあったので、
新たに建立する者もなく、路の傍らに乞食法師らが仮の草堂を作ってそこに安置した。

今も品川の森の側に辻堂が見えるが、それこそこの観音である。

(關侍傳記)




719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/10(月) 21:26:29.85 ID:O/P+/iCl
>>716
現在の品川寺か。

今でも厚木の市島では、蕎麦はつくらない

2012年11月30日 19:51

552 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/29(木) 21:42:50.99 ID:bwSx+5J3
神奈川県は厚木の市島に伝わる伝説だそうだ。

永禄十二年(1569)、武田信玄北条氏康が三増峠で合戦に及んだ。
結局戦いは信玄方が勝ったが、武田方の殿として残った三島一族は北条方の追い討ちにあい、
味方から引き離されてしまった。
三島勢は追撃を振り払い、なんとか鳶尾山のあたりまで落ち延びた。
「ここまで来ればもう少しで甲斐の国ざかいぞ!」
落ち武者たちはお互いに励ましあって夜の山道を進みつづけたが、突然一人が叫びだした。
「う、海じゃ!」
指さすあたりを眺めると、確かに海のようだ。見渡す限り一面に白い波がきらめいていた。

当然、甲斐に海はない。

「で、では、われらは道を間違え小田原の海に出てしまったと言うのか」
落ち武者たちは呆然として顔をみあわせた。
故郷の山が近いと、心がゆるんだあとだけに、もはや一歩も踏み出す気力は無かった。

「もはやこれまで、敵の手に掛かって死ぬよりは……」
と、一人が腹に刀を突き立てると、もう止めるものもなく、次々とそのあとを追って死んで行った。

……しかし、落ち武者たちが見たのは海ではなかったのである。
月の光をうけて、一面にしろじろと揺れている蕎麦の花を、海と間違えたのだった。

わずかに生き残った落ち武者の一人からこのことを聞いた村人たちは、あまりの痛ましさに言葉もなく、
それから蕎麦づくりをやめたのだという。
今でも厚木の市島では、蕎麦はつくらない。

『乱世に生きる 日本の民話8』より

本棚をあさってたら面白そうな本を見つけたので一部を編集して抜粋してみた。
蕎麦の花を海(川)と間違えた、って話は上杉謙信が川中島から撤退する時にもあった話だけど、
これは逸話のテンプレなのかしら




553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 22:08:21.68 ID:1uUTXw8I
>なんとか鳶尾山のあたりまで落ち延びた。
>「ここまで来ればもう少しで甲斐の国ざかいぞ!」

いやいやいや、まだまだ全然遠いから、
険しい丹沢つっきって直線でも国境まで20km以上あるから(´・ω・`)

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/29(木) 22:28:36.25 ID:Why8UaWw
まあそれまでの道のり考えれば後少しと鼓舞できる位なんじゃないの

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/30(金) 01:14:07.14 ID:Ba2DCcCh
地図を見ると甲斐まで三増から遠くなってるwww

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/30(金) 06:30:43.10 ID:szDOamf6
北条側でも、収穫されたとうもろこしの茎を武田方の槍と見間違えて自刃した伝承があるんだろ
史料的に、とうもろこしが伝来するのはこの10年後だけど

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/30(金) 09:09:24.71 ID:pJDwcquZ
米が水に見えたり蕎麦が海に見えたり
どんだけ遠くから見てるんだ

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/30(金) 11:05:56.64 ID:2tcsPcxh
峠で合戦→殿で奮戦→山道を行軍で心身共に極限状態だっただろうから
こういう錯覚を起こしても不思議ではないな

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/30(金) 12:18:44.93 ID:y8PtCFIH
持ち上げられた後に落とされるのは結構きつい
極限状態下で今までの苦労が無駄と判明したら心折れるわ
厚木に出たなら実際に道間違えたっぽいし

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/30(金) 13:51:07.33 ID:k53uNVz4
城が見える飯盛山まで敗走したら周辺に上がった戦闘時の煙のせいで
城が燃えていると勘違いして自害した白虎隊士も近い感じかね

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/30(金) 13:57:42.07 ID:cAUg0cNa
>>560
それは単に捕まりたくなかっただけっていう生存者の証言がなかったっけ

562 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/30(金) 15:44:41.78 ID:8UXR3/YH
鬼武蔵の部下だと道連れ求めて敵に突っ込むんだろうな

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/30(金) 15:50:43.87 ID:gG4Vpwu3
もっと打算的だと思うが