FC2ブログ

越相一和と長尾政景誅殺

2020年02月12日 17:21

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/12(水) 01:56:21.40 ID:4qsmf9PP
永禄十三年正月より、北条氏康公は越後の止観という僧と、小田原海岸寺も住持を中人として、
上杉謙信公と無事(和睦)を成し、御末子三郎殿を越後へなりとも前橋になりとも、差し越す旨を、
北條丹後(高広)、同伊豆守方まで仰せになった。
北條は直ぐに越後へ戻り、諸老方と相談の上、謙信公へ申し上げると、無事和睦は整った。

この時謙信は
「さしもの氏康の御息この方に申し請けるのに、人質というのは然るべからず。」と有り、養子と
される事に定まった。

先ず前橋まで罷り越し、彼の地に於いて対面をなされた。両家の侍各々会集し、慇懃の儀式であった。
この時北条家側は、氏康が病中であり、嫡子の氏政、および源蔵(氏照)が罷り越して在った。

北条三郎殿が養子になった事について、上田の長尾政景とその家門の者達は悦ばなかった。
この政景という人物は、上杉景勝公の実父であり、去々年以来その景勝が謙信の養子になっている故であった。

景勝は若年と言えども謙信の気持ちをよく察し、三郎との関係も好かった。
しかし謙信公は、政景が内々随わない事について奇怪に思われ、殿中に召し出すと長尾小四郎(景直)に命じて
成敗させた。そして政景の親族家臣、上下二百余人が政景の館に立て籠もって戦い、死んだ。
この討ち手もまた長尾小四郎であった。

松隣夜話

ここでは長尾政景が謙信に誅殺されているのですね。一族ごと。



849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/12(水) 16:04:06.97 ID:VCnzYYiH
>>848
後継指名しない悪い話だな
スポンサーサイト



謙信等の、諸将と自己についての評

2020年02月08日 16:56

611 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 04:52:53.84 ID:HS1E561+
(惜しきかなこの巻は二十片虫の害があり判読できず、現在に伝わらない。その末の一両(2ページ)ほど
僅かに残ったのが、以下のものである。)

三宝寺曰く「これは些か虚気たる申し事ではありますが、この御座敷でそのように慎む必要はないと
思い、お聞きするのですが、現在、日本には高名なる大将がその数多くおります。その中でも先ず上げられるのは、
北條(氏康)殿、織田(信長)殿、甲州の(武田)信玄、吾等の主人(上杉謙信)、又は安芸の毛利(元就)と
海道の(徳川)家康、このような所でしょうか。その中において、何れの家が終には天下を掌握して
全うするとお考えでしょうか。
現在は信長殿が畿内を仕配していますが、武田、北条あり、また謙信もこのように居られますから、
畢竟定まってはおりません。御了見の程を御次いでに承りたく思います。」と太田三楽に尋ねた。

太田三楽曰く
「そのような義は誰にとっても天命でありますから、人の予想を以て申すのは難しいものだと思います。
ですがそういった事は差し置いて私も申してみたいと思います。
先ず、私は毛利家については遠国であり詳細に承っていません。ですので何か申すべき了見がありません。
そうである以上私が語れるのは、御屋形(上杉謙信)と信玄と、北条と織田と徳川となります。

そのうち、北条家が天下を取るという義は絶えて無いでしょう。何故ならば、もはや北条氏康には
余命少なく、その上近年病者になり、久しくはないと見えます。またその子の氏政は、天下の義は置いて、
只今の四ヶ国すら人に奪われてしまうでしょう。かく申すわたしも、氏康より長く生きる事が出来れば、
現在の北条領から一郡一里であっても望みたいと思っています。

また武田信玄と御当家とは龍虎の争いとなり、どちらであっても一方が廃れない間は、双方月日を手間取って
他の方面への働きが出来ません。
信玄は当年四十八歳、御屋形は三十九歳、老少不定と申しますが、一般的には先ず歳上の方から先立つものです。
そう予想すれば、信玄の果報短くして近年にも死去すれば、たとえ信長家康を味方にしたとしても
上杉家に対して防戦することは出来ないでしょう。

しかしそうならず御当家と信玄が争い続ける状況が続けば、信長はいよいよ切り太り、終に四国中国までも
仕配するでしょう。何故なら上方筋の侍は軽率であり、一城落ちれば前後皆敵を見ずしても、開城し
退くからです。ましてや一、二度遭遇して手痛き目を見ては、後途の鑓にも及びません。

これに対し東国北国では、一度、二度、五度、六度まで攻め詰めようとも、まったく草臥れる事無く、
猶以てそれを餌にして、「命さえ有れば追い返さん」とのみいたします。このため、たとえ小敵であっても、
東国北国では、国郡を取るのに手間がかかります。徳川家康なども、現在は武田北条に接しており、
今後は切り取れる国郡も多くはないでしょうから、これもこの先暫くの間は、信長に対し手を出すことは
出来ないでしょう。

武将の器量を申すなら、徳川家康は抜群に優れていると思います。彼は凌ぎ難き場面を度々見事に
切り抜けています。但し、底意がいささかひねくれており、賤しき弓取りとも見えますが、それも
現在が末世の世でありますから、結果として良き事なのでしょう。
(家康抜群勝れ被申て候。凌き難き處をハ度々見ことに被仕て候。底意に些ひねくりて賤き弓取と見へ
候へとも、夫は今時末の世にて結句能ことにて候。)

信長は大気無欲であるだけで、それ以外はせわしない武将であるので、大身に成れば成るほど、慎み薄く、
無行跡なるあまり、命を全うすること定まらずと見ております。
信長が廃れれば、その後は家康以外には無いでしょう。
ではありますが、これらは皆定まったことではなく、世間に於いて命ある者の穿鑿に過ぎませんので、
二五十(2×5=10ということで、当たり前のこと)、又は二五七(意味は不明)を心得るべきでしょう。」

612 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 04:54:51.68 ID:HS1E561+
これに対し謙信公はこのように仰せになった
「実に言われる通りである。それについて、私はかねてから天下国家に望みはない。また軍の勝負にも
さほどには相構わない。ただ差し当たって致すべき図りから逃げないようにと嗜んでいる。その上で
死なば死ね、生きれば生きよと言っても、侍として生まれた者のうち、誰が生きるために引き下がる
だろうか。
差し当たりの図りという品々も、心得あるべき事だろう。悪く弁ずれば無理非道に落ちてしまう。

細かく申せば、各々ご存知であるので、この謙信の事は申すに及ばずないが、甲州の信玄などの守る所は
全く右のようでは無い。彼はただ仮初にも怪我が無いようにと嗜んでいるように見える。それに従い、
信玄ほど軍を締めて仕る人物は、古今例のないものである。但し、信玄が今まで軍に大きな過ちが
終に無かったのは、人を能く見る将であるからで、侍大将、足軽大将、或いは馬場美濃、真田弾正、
山縣源四郎、春日弾正、内藤修理、小幡山城、甘利備前、飯富兵部、原美濃守、その他勝れて能き者共
多くある故である。それも最も信玄の眼力が強き故であり、合戦に際して自身で下知し手配りをすることは
さほど無い。この者共を左右に置き、相談をして弓箭を締めて丈夫に行う故にあの如くであり、であれば
信玄一代の間は何処であってもきたなき負けは絶えて無いだろう。

信玄の内の者は誰であっても、人を能く遣うものだと思った事は、先年川中島にて、私は信玄の方便を
推量して、彼の意図を手に取るように理解し、この度は手に手を取り組み、雌雄を決しようと思った故に、
荒勝負を心得た者達を多く従えて、信玄旗本の先手である、武田義信の陣に切って入り押し立ったのだが、
この時武田軍の侍は言うに及ばず、雑人下部まで、敵に掛らずに崩れるような者は居なかったのだ。

通常、誰の下であっても一番鑓二番鑓までは持ち堪えても、三番まで耐えられる者は稀であり、四番に至っては
絶えて居ない。これは侍十人のうち五人六人は、敵に押し立てられて敵合いを成さずに崩れるためである。
しかし武田軍はこのようであり、よって何処との戦であっても甲州勢の大崩は有るまじき事なのだ。
味方が崩れなければ結果として敵は崩れ、信玄は軍において怪我をしない。

また北条氏康の家臣の者共の中に名高き侍大将は数多は居らず、彼は武田信玄に比べて人数の取廻しは
抜群に劣る。但し氏康は大度にてせわしくなく、士を慰撫して人を和らげ、大廻しの遠慮を能くしている。
これによって、彼もまた一廉の良将と言うべきである。

この謙信はこれらの名将と、さらに加賀越中衆まで相手に持ちながら、私が他の境は切り取っても、尺地として
我が領地を他より切り取られた事が無い。これは不思議では有るが、又その中に一理ある。

私は、貴坊もご存知のように疎略な人間であり、慎みを知らず、その上愚案短才である。だが果報いみじき
故だろうか、能き人を持った故に、隣国によって侵される事が無い。軍は一弧の業ではなく、人を以て
肝要とする。我が侍、いまここに有る十四人を加え、小身押込以上の四十余人の者達は、恐らく
武田北条家康信長の家臣たちを合わせてその中より勝れた者を選び出したとしても、我が四十余人より
勝れた者は多くはないと思う。尤も、彼らはただ軍陣だけで活躍し、他のことには思慮が浅い、という者達
ではない。氏康や信玄に私が劣っている分、また家来の侍たちに能き者が多いことで、双方の力が引き合い、
今まで彼らと相対することが出来たのだ。

しかし、謙信の人を見る眼力が強いからこのように仕立てることが出来たという訳ではない。私は
気儘な者にて、気の合った者ばかり手元に召し仕ってしまう。故に人物に対する穿鑿も大形である。
だが七人の者共(旗本七手組)は、念を入れて人を選んだ。如何様であれ、心に誠が有れば大外れは
無いものなのだろう。かくの如くである。」そう語られた。
松隣夜話

謙信等の、諸将についての評などについて



613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 05:17:32.84 ID:ilyao2vw
他家の将来について熱く語る前に自分の跡継ぎを決めておこうな

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 06:19:58.64 ID:WzA3eSgy
また斬られるかと思った

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:01:08.70 ID:POWo705j
この時期の記述でもすでに大名は天下取りレースしてて、それに対して謙信は天下取る気がないよって認識が出来上がってるんですね

この辺りはやっぱり二天が併存し得る訳がないとして、当然のように天下を狙い合ってる中華の認識が影響してるんですかね
実際は大名のほぼ皆が天下なんて面倒臭いもの誰も取りたくなかったろうに

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:17:32.61 ID:0RmwJlhl
今の自民次期総理候補と呼ばれている人たちが総理になりたがらないようなものか

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:21:33.36 ID:V6+QV004
>>611-612
概ねあたってるのが面白いな

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 10:04:30.11 ID:i9AdP1+r
まあ基本的には戦国大名は地方政権確立した人らで
中央政権には干渉されず勢力拡大したい

620 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/08(土) 10:51:35.18 ID:FBTlD/sc
松隣夜話』は越後流軍学の宇佐見勝興の作とされていますが、勝興の経歴の怪しさもよく知られたところです。
世間一般的にこういう認識が広まっていた、広めたネタ元の一つだとでも考えときましょうよ。

永禄五年二月十三日、山根城(騎西城)合戦

2020年02月03日 16:31

783 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 01:03:13.60 ID:JYHGVG8w
>>776の続き
上杉謙信は再び太田三楽を呼び出すとこのように言った
「私がここまで遥々出てきた以上、敵と手を合わせずに帰ることは出来ない。しかし利根川の北条・武田の
陣に掛かれば、信玄は工夫の深い人物でもあり、また手を詰めたような合戦に成り難しい。
そこでこの近辺に、氏康の要害は無いか?」

そう尋ねられたのを三楽承り
「山根城と申す所が、奥へ下道を四里の場所にあります。これは氏康秘蔵の要害であり、ここには忍の
成田の弟である小田助三郎、長野対馬守を置かれています。

ただし悪いことに、そこに行くには武田北条の両陣の前を遥々と奥へ通らねばなりません。
またそこを突破し要害を攻めることが出来たとしても、この城主は氏康奥筋の先手を任された
老功の者であり、千五百の人数が堅くこれを守っています。
前には城堅くして雌雄が決せられない内に、武田北条両旗にて押し懸られては甚だ危うい御軍となって
しまいます。
さらに、仮にこの城が手に入ったとしても、遠国の事でありますから保持は諦め乗り捨てにするより他に
道はなく、このような無益の場所の攻略に、腹心に等しい配下の大功の武士達を損ずるというのは、
御手違いであると存じ奉ります。これについて直江殿、宇佐美殿は如何お計らいに成るでしょうか?」

そう申した所、謙信はまた気色を損じられ、諸老の異見も窺われず
「謙信が守る所はそれではない!」
と、直ぐに須田という者を野根川の北条武田の両陣に使いに立て、このように伝えた

『輝虎は松山後詰めのため、ここまで罷り出てきたのであるが、早速に落城していた上は是非に及ばず、
あなた方も定めて、たぎらぬ振る舞いであると思し召しになっているだろう。恥じ入るばかりであり、
このままで罷り帰るというのは、両御旗に対し弓箭の無礼であると存じる。
そこで、氏康公秘蔵の要害と承る山根を明日押し破るつもりである。
その事無用と思し召すならば、両旗にて如何様にもこれを妨げられるように。』

そして利根川の品木の渡しに船橋を掛けさせ、押し渡って後に綱を切って船橋を流し、越後勢に太田三楽勢が
加わりその勢一万余騎にて武田北条陣の前、九町ばかりの傍を押し通り、山根城へと攻め寄せた。
この時太田三楽は内々に、『今度の戦いは他に譲ることは出来ない。』と考え、謙信に対したって先陣を乞い、
自身の軍勢二千に対し「我らの内一人でも生きている間は、越後衆に太刀を抜かせてはならない!」と
手の者達を励まし下知した。

この時の謙信の備にて定められた城攻め先鋒の面々は、西の手に大田三楽二千、南は柿崎和泉守、北條丹後
二千六百、東は直江山城守、河田豊前あわせて二千、御旗本は甘粕近江、長尾小四郎、中條五郎右衛門、
竹股勘解由、赤輪新介等であった。

謙信は諸将に会し「今度は無理に各々の一命をこの輝虎が所望申す。城攻めの方法は、私が下知を加えるに
及ばない。ただ荒攻めに仕るように。私はこれよりそれを見物する。もし武田北条による後詰めの有った時は、
本陣の合図に従ってこのように備を立てるように。」
そう言うと絵図を出した。

一方の山根城中はそのような事を全く知らず、矢倉にいた侍が小田助三郎の役所に来て「利根川の方より
馬煙夥しく見え、それが次第に近づいています。氏康公が奥筋に御手使されるのでしょうか?」と報告した。
これを聞いて小田助三郎も覚束なく、長野対馬守を伴って矢倉に上がりこれを見た。しかし両将としては、

「利根川に陣している軍門の前を押し通り、敵が通るはずもない。近国には上杉輝虎と太田三楽以外に
敵は無い。そして輝虎と三楽は松山城の後詰めのため昨日より前橋に到着したと聞いたが、松山城が
落ちた以上今日には定めて帰陣するはずである。
もし又、謙信が誤って奥筋に手勢を使わしたとしても、両将があのように居られるのだから、どうして
一戦もなく通るだろうか。

ではあるが又、味方であるとも見えない。大物見をかけよう。」

そして小田小四郎及び与力同心五十騎を引き連れ、自ら物見に出て七、八町西にあたる円山峠に乗り上げた所で、
太田三楽の先手である渋谷の一手が三百ばかりにて、険しい山の峰をつらぬいて攻め寄せてきた所に行き逢った。
双方は衝突し鑓を合わせ、一足も退かず各々の敵に当たり、そして物見の兵士は一人も残らずこの丸山にて
討ち死にし果てた。小田は太田の家来、深川修理という者に討たれ首を与えた。

784 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 01:03:50.11 ID:JYHGVG8w
長野対馬守は小田の便りを今か今かと待っていた所に、丸山の辺りに鉄砲の音が聞こえ、誰かは解らぬが
その勢二千ばかりが攻め懸けて小田の配下の者達を追い来たる、急いで対処せねばと判断した所に、
また南の山手より、銀の吹き流し矢筈の指物数多指した一備、馬煙を挙げて近づいてきた。長野は大いに
驚き手分けをして各持ち口に馳せ合わせようとしたが。混乱し騒動したため下知も届かず、長野対馬守
歯噛みをして「口惜しや!利根川の腰抜けたる味方を頼りとし不覚の死を遂げるものかな!」と言い捨て、
西の門を破って敵勢に乱入し、太田勢に馳せ向かうと、与力同心一四、五人共々暫く戦い、東を顧みると
北條・柿崎両手の馬印が早くも本丸に迫っていた。河田組、直江組もそれに続いて攻め入り、その中でも
太田勢は西の川の手より険しい山を一息に攻め上り外郭を破り、二の曲輪の門際まで切り行ったが、
長野対馬守が隙無く防戦したことで本丸への侵入を許さなかった。しかしながら城兵たちは敵より
あまりに強く攻められたために足を立てることも出来ず、明いていた北の方向に推しなだれた。

これを見て長野対馬守は同心の由良五六を近づけ、「御辺は早々に本丸へ入り、小田と我が妻子たちを
下知してよきに計らってほしい。郎従たちも残っているはずなので、きっと未だ事を果たすこと出来ると
推量している。どうか、頼み入り候。」

そう伝えると五六も委細相心得、「御心安く御戦死遊ばし候へ、それがしは御子息たちの御供を仕り、
直ぐに追いつき参るでしょう。」と申して立ち別れ、主従四人にて本丸役所へ入り、長野と小田の
妻子に自害をさせると、五六自身もその場で自害した。
長野対馬守は「この城を辛労してどうにか守っているが、一体いつまで保てるものか。この上は
心ゆくまで打ち合おう。」と、三楽の旗本に斬って掛かり、比類なき働きをして。父子主従、
十七人が一所にて討ち死にした。

こうして、直江山城、河田豊前、柿崎和泉、北條丹後、太田三楽ら三方より同時に乗り入れ、謙信公の
下知に任せ、老若男女、僧俗を分けず当たるを幸いに突き伏せ斬り倒した。
こうして謙信公の諸勢は過半が城に乗り入れた。この時御旗本より、竹股勘解由、本庄清七の組、合わせて
六百ばかりを別けて北の方に廻し鉄砲を以て逃げ出す者を撃った。このため助かる者は、百人のうち
一、二も有ること稀であった。

城中に籠もった者達は北条家に於いて度々武辺仕る、戦いに馴れたる勇士たちであったのだが、鉄砲を二打と
快く放つ者も無いほど、三方の寄手が急に攻めて刹那の間に乗り入れたのである。

謙信公は丸山よりこの様子を終始見られ、「侍は勿論の事、雑人下部まで一様に身命を塵とも思わぬ
働き、見事である。」と、度々称賛された。

辰の刻(午前8時ころ)に取り合い始まり、午の刻(午後12時ころ)に乗っ取った。今回、山根城において
死んだ者は、上下、男女、僧俗、童、おおよそ二千六百であった。
寄手で死んだ者は三百七十五人、手負い五百人であった。

事終わって直ぐに諸手を丸山に引き入れ、腰兵糧を使わせて人馬を休ませ、城は乗り捨てにして
また元の道を帰り、利根川下の瀬の渡り前橋へ入った。
永禄五年二月十三日、山根城合戦とは、これのことである。

松隣夜話



785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 01:10:21.16 ID:77IM5cvd
このキャラ付けが何がどうなって義のひとに味付けされたんだろ

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 02:36:28.59 ID:/IgTbzXx
撫で斬りから3文字脱落したんだろう

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 08:30:00.80 ID:S5bz4vh3
>>784
ここまでやったのに
>城は乗り捨てにしてまた元の道を帰り
災害かな?

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 14:19:52.48 ID:4Cy1SCXO
松隣夜話だからといえばそれまでだけど
直江景綱の官途名混同してるな

>>787
松山城後詰に失敗した意趣晴らし100%の城攻めだから
武威を示すために残虐になるし
災害以外の何者でも無いわな

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 19:17:18.00 ID:HwF5Po/z
城攻めなのに寄せ手の被害のほうが圧倒的に少ないのは、流石というかなんというか。

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 22:05:21.49 ID:TG2SWWxN
信長「謙信って残虐だよな」

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 22:17:06.28 ID:/IgTbzXx
史実かはともかく、上杉謙信なるものがこういう人だと考えられてたわけだよな

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 12:03:52.95 ID:T1G3qkQP
人質の童子を寝所に連れてって夜伽をさせるのかと思ったら処刑かよ
きっと兄弟ともにブサイクだったんだな

虎口に死を免れた心地にて

2020年02月02日 16:04

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 04:00:17.37 ID:3/dAnLfC
永禄五年正月、北条氏康武田信玄へ使者を以て依頼をした。

『武州松山の城は以前より氏康持分の所であるが、それを去年、太田三楽(資正)が越後の柿崎と合わさって、
量らずもこれを乗っ取られてしまった。松山は東国の固めであるため、それ以降奥筋近国の手使が心のままに
叶わなくなった。であるので、この氏康は近日人数を出してかの城を取り返しいたいと考えている。
そういう事なので、三楽は必ず越後に後詰めを頼り、上杉謙信を引き出す事疑いない。今回は必ずかの城を
奪回するつもりなので、信玄公には氏康の警護をしていただきたい。松山城を取り返し、武州を押さえ
治めることが出来れば、以前の如く節々の御不祥の義を申し入れるような事は無くなるであろう。』

武田信玄はこれを了承し、甲州並びに信州に陣触れされ、二月下旬に信玄、嫡子義信一万八千余騎にて
武州に発向された。北条は氏康、嫡子氏政、その弟源蔵(氏照)の二万八千余騎、両家合わせてその勢
四万六千余騎が松山城を取り囲み、昼夜をいとわず攻めた。武田勢の内、甘利左衛門の与力・米倉丹後が、
竹束と言うものを用意して城に寄せた。諸手攻め近づいたため、城内からの火砲による抵抗もさほど威力を
発揮せず、籠城の兵士たちも気力を失った。城代の上杉友貞(上杉憲勝)も軍卒も、粉骨を尽くし難く、
武田北条は五万に及ぶ大軍で間断なく攻めたため、防戦の術も尽きて二月十日、上杉憲勝は降伏し、
城を明け渡した。

太田三楽はこれ以前に、越後に使いを出して、上杉謙信が出陣する旨の返答を得ていた。これによって
後三日も城が持ちこたえれば難なく寄せ手を追い払うこと疑いなしと思っていた所に、存外の急な落城であり、
臍を噛んで前橋まで出向き、謙信の到着を待った。

北条氏康武田信玄は、謙信が出陣してくることを上杉憲勝が白状したため、これを聞いて両軍山を
後ろにし、利根川を前に立てて鳥雲の陣を成した。

謙信はそれから二日して、八千騎にて前橋に到着し、太田三楽に対面すると激怒した
「これほどの不覚人に要害を預け、この謙信を引き出し手間を取らせ恥をかかせたこと、甚だ奇怪である!
こんな事ならば三楽を討ち果たす!」
と、刀に手をかけ、その場で三楽を手打ちにしようとする様子であった。これに三楽は騒がず、静かに
申し上げた

「仰せ、誠に尤もであります。しかしながら上杉(憲政)殿御浪人以来、それがし程の小身にて氏康の
大身の持分に挟まれ、今まで滅びること無く居られたのは、全く他でもなく、偏に謙信公の弓箭のお陰です。
ですので今回に限らず、何時であっても氏康信玄の大軍に仕掛けられてしまっては、それがしの二千三千の
兵では、たとえ呉氏孫氏の術を得ていたとしても手に及ばぬ事であり、何度でもお助けを待ち奉るしか方法は
ありません。
である以上、この三楽がたとえ禽獣であったとしても、どうして川の流れを酌んで、その水源を枯らすような
事をするでしょうか?

上杉憲勝は多年私の手について、武蔵上野所々の働きを任せてきましたが、終に不覚を取ったことは
ありませんでした。また三楽の重恩を以て全う仕る者でありました。ですのでこのような事が有り得るとは
考えなかったのです。それはそれがしの愚昧の成す所なのでしょう。是非に及びません。

籠城にあたって弓箭、鉄砲、弾薬、兵粮等は、ともかくも半年は不足の無いよう覚悟を仕っていました。
また今回のあまりの事態に、人質に取っていた、上杉憲勝の弟と実子をここに召し連れてきています。
これらをどうぞご覧になってください。」
そう言って兵粮弾薬の注文表と、上杉憲勝の子弟を御目にかけた。

謙信は立ち上がると、二人の童子の長い髪を左手に握り、中に提げると、右手にて即座に刀を抜き両人を
一打ちに四つに斬って投げ捨て、気を直し酒を出させ、一つ召すと、これを三楽に指し与えた。
三楽は『少しでも躊躇しては良くない』と思い、差し寄って一つ傾け、その上で側より引き取り、虎口に
死を免れた心地にて息をついだという。

松隣夜話

続き
永禄五年二月十三日、山根城(騎西城)合戦


777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 12:07:25.19 ID:aJsksDuw
野蛮にも程がある

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 12:18:51.87 ID:JORXOmS3
>>776
>二人の童子の長い髪を左手に握り、中に提げると、右手にて即座に刀を抜き両人を
>一打ちに四つに斬って投げ捨て、気を直し酒を出させ、
漫画のラスボスかよw

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 14:19:38.57 ID:v9fR+9K+
ヴィンランド・サガの初期にありそうな展開

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 17:10:21.74 ID:TaRyTcHC
岩明均の「雪の峠」にそのまま出てくる話だな

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 17:29:37.77 ID:aroExui4
歴史漫画に便乗して
センゴクのプーチン謙信なら普通にやりそう、だと思った

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 22:49:38.55 ID:bEQuBdMs
イスラム国の処刑人でも真似できないだろ?

将至って剛きは則ち士必ず応じず

2020年01月31日 17:01

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 03:24:15.61 ID:97HhbuUN
永禄三年三月上旬、越後の管領・輝虎入道謙信公は。近衛公(近衛前久)を大将とし、一万六千にて
北越を御進発され、北条氏康の旗下となっていた上州平井へ御馬を進められた。
上杉勢の先方は、荻谷太郎左衛門の木澤城を押さえ、小幡日向守の居城である高津に取り詰め、
一日の内に攻め破り、女童まで一人も残らず、千余人を斬り捨てにした。その足で直ぐに木澤城に
押し寄せ攻めようとすると、この勢いに堪らず、荻谷太郎左衛門は降参し人質を出して幕下となった。

太田三楽は三千余騎にて武州より駆け付け、先陣を給わり、上州の要害あるいは居城のうち、
味方に参らない者達を、一城も残さず三日の内に攻め破り、当年に生まれた幼児まで斬り捨てにした。
これによって、その聞こえは甚だしく、龍のように天に響き、関八州は申すに及ばず、北国、南海、
京上方までその勇鋭に怖れない者は無かった。

その威に伏し、小幡、大石、見田、白倉、忍、荻谷、藤田、長尾、三浦、岡崎、宗龍寺、那須、清黨の
上杉家の諸侯馳せ集まったため、二日の内に軍勢は七万余騎となった。これにより軍勢は平井の陣所から
あふれ、唐坂口まで充満した。

翌日より総軍を進め、太田三楽を魁首として小田原へ押し詰め、蓮池まで乱入した。そのような中、
所々で取り合いが有ったが、謙信は毎回二の手より駆け出し、初対面となる東国武士の心も知らず、
諸手へ乗り入れ兜も被らず、白き布にて頭を包み、朱の采幣を取って下知を成し、その人を虫とも思わぬ
振り廻しを見て、諸将は大いに恐れをなした。

「たとえ彼がいかなる良将であったとしても、この人を主と頼んでは、自分たちの首の斬られる事疑いない。」
(假令如何なる良将にてもおわせ此人を主と頼なハ首の切れん事無疑)

そう思って困り果てない者は居なかった。『将至って剛きは則ち士必ず応じず』という兵法の言葉は
この事なのであろう。

(松隣夜話)

上杉謙信が怖すぎて、関東武士のみなさん、却って謙信の下に付きたく無くなってしまったというお話。



763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 07:50:57.04 ID:2p182VAP
成田長泰が下馬しなかったから烏帽子打ち落とした話までは書いてないか

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 22:38:35.43 ID:LRiK7arZ
そもそも不識庵が義の武将なんて嘘のイメージを作ったの誰なんだろうな

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 23:48:48.17 ID:Q1L6WlMm
>>764
比較対象が信玄なら、謙信ですら義将になるってことかも…

太田三楽斎追放

2019年10月10日 17:01

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/10(木) 12:42:52.59 ID:6oB8WiqO
永禄六年五月、小田原の北条氏康太清軒は、法華の僧を使いとして岩付城へ赴かせ、太田三楽斎(資正)に
このように伝えた

「この正月、国府台の合戦で思わず我等が勝利したが、これも弓矢を取る身の運不運である。
敵と味方に別れるのも時の勢いであろうが、もし今和睦をしても良いと言うなら、嫡子源五郎(氏資)に
家督を譲り、隠居されたい。そのようにして老後を心置きなく過ごされるおつもりなら、我が子氏政の
妹を源五郎に娶せ、自分がその後ろ盾と成り長く岩槻の社稷を守るであろう。」

そのように言い、それも二度までも使いが来た。その裏には、もし同心しないというのであればこちらにも
覚悟がある、という脅しの意味も含まれていた。

三楽斎も利口な男であったのでそのくらいの事は理解していた。しかし長年の兵乱に勢力は尽き果て、
この正月の合戦で兵の消耗も甚だしく、要害でもない平城でどれほど持ちこたえられるか先は知れており、
ここは一番和睦し、後日に事を謀ることが肝要であると、多年の宿意である上杉への肩入れを打ち切り、
小田原の意に従うことを決心した。

この事を伝えられた氏康・氏政父子は大いに喜び、すぐに吉日を選んで娘を岩槻へ送り、婚姻の式を挙げ、
千鶴万亀の祝をして、両家の昵懇はこの上なくまとまった。実に無意味な事である。

それからしばらく後、氏康は婿となった源五郎氏資に、垣岡越後守、春日摂津守などという太田家の
奉行職と相談させ、野州小山城、長沼城攻めを開始させた。しかしそれは氏康の策で、彼等を両城に
出陣させた後で、不意に岩付城を襲おうという密計であった。

三楽斎はその事に気づいており、またもとよりそのくらいの事は有ると思っていたので別に驚く事もなく、
何食わぬ顔で、密かに妾腹の子である梶原源太左衛門政景を招き、その場合に打つ手を色々と相談して、
政景に川崎赤次郎を添えて盟友である佐竹義昭(実際には義重 )の元に行かせ、自分は浜野修理介を
連れて、これも盟約の有る宇都宮三郎左衛門広綱の元へ向かった。

しかしこの事をすぐ、氏資に付いていた垣岡、春日が小田原に伝えた、氏政は早速太田大膳亮に兵二百騎を
付けて岩付城へ向かわせた。大膳亮はまたたく間に外郭を固めて二度と三楽斎を城に入れなかった。

ここにおいて三楽斎と梶原政景は浪々の身となり、政景のみは、弟の新六郎とともに佐竹に寄宿する
事となった。三楽斎はそのまま武州忍城の成田左馬助氏長を頼った。氏長は三楽斎の娘婿である。

ああ、世に前管領上杉憲政の旧臣は多いが、その中でも太田三楽斎と長野佐衛門大輔業正ほど
無二の忠誠を尽くし、上杉家の再興のため心を尽くした者があろうか。であるのに、時に利非ずとはいえ、
業正は箕輪にて討ち死にし(実際には病死)、三楽斎は今流浪の身となった。そして北条の武威のみが
したり顔となったのは皮肉なことである。

(関八州古戦録)

北条の謀略というより太田三楽斎が策に溺れた感強いな。



501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/10(木) 23:56:01.31 ID:wCzp0YSp
太田資正って、扇谷上杉ならともかく、上杉憲政の臣下だって意識あったんだろうか
扇谷上杉壊滅後は北条(古河公方)家臣で、謙信越山以降は独立路線でやってるよね

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 08:34:36.97 ID:ZngsXh4S
>>501
越相一和後の行動は完全に独立勢力でそ。

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 15:33:46.50 ID:tAqYfxfy
>>500
策に溺れたというより、身の危険を察して逃げたというべき
養父、義父が婿に討たれるなんてのはよくある話
北畠具教や宇都宮鎮房をみよ

その発する心を奪いたくありません

2019年10月07日 16:17

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 10:32:47.96 ID:pgNXkZXb
第二次国府台合戦の時の事

江戸城の遠山丹波守直景、葛西城の富永四郎左衛門政家は、北条氏康配下の剛勇の者と知られており、
大敵が眼前に現れたというのに人の助けを借りては屍の上の恥辱であると、取るものもとりあえず、
ありあわせの人数を率いて、遠山は行徳筋、富永は小松川筋から駆け出したが、氏康の下知も受けずに
先陣を切っては後の聞こえもどうかと思い、福島、松田の陣へ使者を走らせ存念を述べた所、

「いかにも武人の本意黙し難し。その意に任せ、存分に働け。」

と返答された。

しかしながら北条氏政の陣では、氏照、松田父子が不満で「今しばらく考えてから返事をするべきで
あった。」と言った。北条綱成はこれを聞くと笑っていった。

「身、不詳ながら軍勢を指揮する命を受けた以上は私の一存を通します。これまで松田殿や
この綱成が先駆けするのは珍しいことではなく、今後もまた先駆けして手柄も立てることでしょう。
しかし、戦いに臨む最大の目的は勝つことであり、自分の功名手柄はその次の目的です。
まして里見、大田の二将は関東に於いては一、二を争う大敵です。遠山、富永の両名も当家誉れの
大将ですから、互いに眼前の敵を見ては、これを止めることは出来ません。
先陣を望むからには、遠山、富永も生涯をかけての粉骨を決意しているのでしょう。

いやしくもこの綱成、その発する心を奪いたくありません。」

そう諭すと、氏照も松田もその気持ちが解ったのか、重ねての言葉は返さなかった。

(関八州古戦録)



257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 20:09:07.74 ID:xQy0MzwH
綱成かっこよすぎる
氏照と松田さんも良いね

北条氏、その親類一党の栄え

2019年10月05日 16:18

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 13:36:55.68 ID:MS3gurir
北条氏康はこの年(永禄二年)、四六歳であったが、六月下旬に隠居剃髪して万松軒(実際には太清軒)と
号した。病により任に耐えず、という事であったが、別して病身という訳ではなく、この春に自分よりも
ずっと若い上杉輝虎のために城門を馬蹄で踏み荒らされながら一戦も交えず、弓矢の面目を失ったことを
とかく世間に取り沙汰されたのを恥じての隠居であった。

嫡子相模守氏政は二十三歳であり、家督を受け継ぎ国務を司った。

次男由井源三氏照はもともと朝日将軍木曽義仲の後胤である大石源左衛門定久が、前管領家に背いて
小田原に降った時、氏康から婿養子に貰い受け、自分の高麗郡滝山の城を譲ったのである。
以後自身は入道して道俊と号した。実子は在ったが幼少であったので共に戸倉に蟄居した。
その時氏照は由井の名字を捨てて大石陸奥守と名乗った、その頃一度、滝山という所に居城を持ったが、
滝は落ちるので落城に通ずると、同郡八王子に新城を築いて移ったのである。氏照は多くの兄弟の中で
特に父母へ孝順の人であった。

三男新太郎氏邦は書道に優れ、後に安房守と号した、これも前管領家の旧臣藤田右衛門佐邦房が養子として、
武州秩父郡岩田の天神山の城を与え、自身は実子の虎寿丸と共に榛沢郡用土という所に退去していた。
(上杉)輝虎がはじめて関東へ越山した頃、氏康に仕え用土新左衛門と言ったが、今は沼田の城代となり
虎寿丸は後に藤田能登守信吉といった。
新太郎氏邦は初め秩父領横瀬の根小屋に城地を構えていたが、あまりに人里離れて万事不自由であったので、
男衾郡鉢形へ移った。この城は太田道灌の築いた要害であるが、甲州、越後の敵が近寄る機会が多く、
常に小田原から三百騎を援兵に差し出し、榛沢のあたりに新関を設けて、山上には常に見張りを
絶やすことの出来ない城であった。

四男助五郎氏規は美濃守と号し、豆州韮山の城主である。

五男新四郎氏忠は乗馬の名手で、後に左衛門佐と号し、相州足柄の城を守っていたが、佐野家の名跡を
受けて、後に野州由良へ移った。

六男竹王丸氏尭は鉄砲の手練で、後に右衛門佐と号し、武州小机の城主である。

七男七郎氏秀は後に武田三郎と号し、輝虎の養子と成って北越へ行った後は、上杉三郎景虎と称した、

その他に女子が六人あって、藤田の吉良左兵衛佐頼久、北条常陸守氏繁、今川刑部大輔氏真、千葉介邦胤、
武田大膳大夫勝頼、太田源五郎氏資などの室になっている。

早雲庵宗瑞、新九郎氏綱、左京大夫氏康と三代続いただけで枝葉が繁り、その親類一党の栄えを
うらやまない者はなかった。

(関八州古戦録)

氏康隠居の頃の小田原北条氏の繁栄について。現在の研究水準とは異なる内容も含まれています。
北条氏尭は氏康の弟であると考えられていますし、氏忠はその氏尭の子の可能性が高いとされています。
また氏規のほうが氏邦の三歳兄であった事が近年指摘されるなどしていますね。
ともかくも北条氏一族についてこのような印象を持たれていた、という記事です。



254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 16:13:02.58 ID:n7af26vk
>>252
関係ないけど武士って木に例えられるよね
民は草なのと対照的

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 20:44:43.34 ID:McdmRo5l
まあ位置関係からしたら合ってるかと

原美濃甲府へ帰る

2019年10月02日 15:10

原虎胤   
236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 12:04:07.12 ID:Xsl4MlKj
善徳寺での(相甲駿三国同盟の)会談の時、武田晴信が北条氏康にこのような話をした

「貴殿の所に居る原美濃守(虎胤)は、昔それがしの所に居た男で、ある不届きな事が有って
追放したのだが、現在貴殿の膝窩に有って、この度も出陣し戦功を経てている。
原はその父とともに二代にわたって仕えた者ゆえ不憫でもあり、こちらへお返し願いたい。」

そう申し出たため、氏康もこの武士を快く返した。

そもそもこの原美濃守の父・豊後守光胤は、房州の千葉介胤親の息子で、下総の原村の
生まれ、文正元年(1466)、その三男能登守友胤は生実の御所(小弓公方)義明に仕えたが、
その死後離散し、甲府へ来て晴信の父。信虎に仕えたのである。その子が今の虎胤で、信虎より
虎の一字を頂いているほどであった。

去る年、甲府に於いて浄土宗と日蓮宗の法論を戦わせた時、晴信は虎胤を近くに招き
「汝が帰依する法華宗では、念仏は阿鼻無間の相なりとて、大事な名号を禁止していると聞くが、
これからは汝も我が宗門に入り、南無阿弥陀仏を唱えぬか。」

しかし虎胤は「その義ばかりは御免被ります」と答えた、晴信はなおも改宗を進めたが、これに
虎胤は色をなし

「御屋形様もご存知のように、もともと手前は無学文盲の一徒輩であったのを、法華を信仰するように
なって一人前に人間と成ることが出来ました。およそ宗旨というものの大本は釈迦牟尼如来より
出たもので、それが八宗にも九宗にも分かれて今日に至っています。そしてどの宗派もそれぞれ
開祖があり、その流儀を守っているので、どれが良いどれが悪いとは言えないと考えます。
御屋形様の命であっても、南無妙法蓮華経を南無阿弥陀仏び変えることは出来ません。
それは丁度、武士の道を背き義理を欠くことと同じでございます。

例え一命を召されようとも、高祖の禁を破り他宗の念仏を唱えることは出来ません。」

そう言い切ると座を立った。これに立腹した晴信が彼を甲府から追放し、故に美濃守も仕方なく
小田原へ来て氏康に仕えるように成ったのである。
氏康はその美濃守を召し出して今度の晴信の言葉を伝え、こんこんと説得して甲府へと返した。

永禄七年(1564)、原美濃守虎胤は甲府で死去した。

(関八州古戦録)



237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 13:07:48.37 ID:7HHBXqIw
>>236
>どの宗派もそれぞれ
>開祖があり、その流儀を守っているので、どれが良いどれが悪いとは言えないと考えます。
今でも使えるなこれ、面倒な親戚に絡まれたらこれで切り返そう

238 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 13:11:10.09 ID:Wh4HjWre
宗教はいつになったら統一されるのか…

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 19:51:16.98 ID:eX+Eyt2p
人類が全部ニュータイプにでもならないと無理

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 22:07:46.04 ID:ukdoQvMj
ニュータイプって殺し合いばっかしてる気が

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/02(水) 22:18:27.16 ID:Ycs1ZVgX
キリストも大日如来と同じようなモンっていう理解に通じるな

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/03(木) 05:56:31.83 ID:quZvIdWy
ララァが導いてくれる

243 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/10/03(木) 06:27:35.23 ID:YrNckMr7
>>242
いや、アイツ、私は永遠にあなたたちの間にいたいのとか言ってシャアとアムロもて遊ぶ悪霊じゃん
https://youtu.be/76mJeV77e9U
後、こんな映像見せ付けて人類は永遠に破壊と再生産を繰り返してガンプラ買えば良いと暗に言ってくるバンダイの手先

正月2日の夜、宗雲が夢を見なさったことには

2019年06月13日 15:49

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 19:42:57.37 ID:h/jQFdtC
(前略。>>11)翌年正月2日の夜、宗雲(北条早雲)が夢を見なさったことには、2本ある大杉を鼠
1つが出て食い折った。その後、かの鼠が猪になった夢を見て、その夢は覚めた。

その如く両上杉の仲が悪くなるのを聞き、宗雲は是非とも時刻を見合わせて関東へ発向の工夫をされ
ることは二六時中暇なし。ある時、扇谷の上杉家は末となったのであろう、邪臣の諫めを崇敬して家
老の太田道官(道灌)を誅しなさった。その後、上杉殿の家老は尽く身構えをして騒ぎ立った。

この時、宗雲公は出て小田原を乗っ取り、相模の過半を手に入れて子息・氏縄公(北条氏綱)の代に
相模を皆治めなされば、いよいよ氏康公の代に伊豆・相模二ヶ国となり1万の人数の内2千を所々の
境目に差し置き、8千の軍兵をもって両上杉家と取り合いなされた。(後略)

――『甲陽軍鑑』



北条家の弓矢は敵の油断を肝要に

2019年05月30日 15:28

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 01:06:35.63 ID:w6dJrsKv
  此比の大将衆弓矢取様之事

一、北条氏康公は名大将で度々の戦に勝利を得給う。その中で夜軍において管領上杉の大敵に
  一入つけ、ついに則政(上杉憲政)に切り勝って追い失い、関東を切り従えなされた。

  そのため、北条家の弓矢は敵の油断を肝要に目を付けるのである。

――『甲陽軍鑑』



本当の合戦両度ながら、信玄公御勝利なり。

2019年05月19日 12:30

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/18(土) 17:20:23.05 ID:WLVYKXLa
百年以来、本当の合戦はさほどない。ただし両度の本当の合戦があるというのは永禄4年酉(1561)の
信州川中島合戦と遠州三方ヶ原合戦、この両度合戦である。

北条氏康公は河越で上杉管領8万余りの大軍に8千で勝ち給うといえども(河越城の戦い)夜軍であるから
敵は油断した故である。そうでなければ8万余りの人数に8千の北条家がどうして争って負け申すだろうか。

下総国府台で氏康公は安房の義広(里見義弘)に勝ち給えども(第二次国府台の戦い)、義広は初めは打ち
勝ち油断したところへ、氏康が掛かって利運になされたのである。

このように出し抜き、あるいは二股(節操がない)で小身な敵に勝ち、あるいは堀を掘って柵を付け打ち、
自分が逆心をし、または旗下の侍が合戦で突然裏返って敵となり、無理な勝ちを負けたとしても、負けとは
あまり心に意地を張るのをやめないのである。世間でも本当の勝負と批判はしないのである。

国持ち達が敵味方ともに2,3万の人数で白昼に合戦参るべしと、両方ともに他国の加勢はあるとしても、
大将が1人ずついて川も柵も裏切りも無く打ち合い、手勢ごとに槍を合わせ勝負をして実否を付けたのを、
本当の合戦と申すのである。これをどれかと分別で見申すと、川中島合戦と三方ヶ原合戦になるのである。
両度ながら、信玄公御勝利なり。

敵味方ともに2千,3千での勝負は諸国にそれこそいかほどもあるだろうが、それは大合戦とは申さない。
大合戦ではないから世間で取沙汰されないのである。信玄公が御勝利された相州みませ合戦(三増峠の戦い)
も氏康公・氏政公父子が到着されない以前に、北条家の先衆ばかり切り崩しなされたので、本当の合戦とは
申しがたい。

北条陸奥守(氏照)・阿波守助五郎(北条氏邦)の各々一類衆がいらしたといえども、大将の氏康父子は到
着なさらなかった。その以前、馬場美濃(信春)方へ向かった武士の中で金の制札と金の提灯を指物にした
2人の武士がいて、これもまた権を争い稼ぐところを、治部と市之尉が見て治部は金の制札を、市之尉は金
の提灯をと目標に致し「討ち申す!」と申して、その如く治部も市之尉もその武士を討って高名仕った。

指物を添えて自分の備の侍大将である馬場美濃守には見せずに、市之尉は治部を訪ね治部は市之尉を訪ねて、
互いに大口を叩くようであった。これは古今でもさほど無き働きである。

(後略。>>926

――『甲陽軍鑑』



關八州に鉄炮はしまる事

2019年05月14日 19:24

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 19:16:58.68 ID:Sf64um2C
關八州に鉄炮はしまる事

これを見たのは昔のことである。相模小田原に玉瀧坊(順愛。松原神社別当職)という年寄りの山伏がいた。
愚老(著者。三浦浄心)が若き頃にその山伏が物語りなされたことには、

「私は関東から毎年大峰へ登った。享禄が始まる年(1528)に和泉の堺へ下ったところ、荒々しい様子で
鳴る物の音がする。これは何事ぞやと問えば、『鉄砲という物が唐国から永正7年(1510)に初めて(日
本に)渡ったのだ』と言って、目当として撃って見せた。

私はこれを見て、さても不思議、奇特な物だと思い、この鉄砲を1挺買って関東へ持って下り、屋形の氏綱公
北条氏綱)へ進上した。氏綱公はこの鉄砲を放たせて御覧になり、『関東に類なき宝である』と秘蔵なされ
ると、近国他国の弓矢に携わる侍はこの由を聞いて、

『これは武家の宝なり。昔、鎮西八郎為朝(源為朝)は大矢束を引いた日本無双の精兵であった。

弓の勢いを試みるために鎧3領を重ねて木の枝に掛け、6重を射通した強弓である。保元の合戦で新院の味方
に八郎1人がいたが、八郎はたちまち多くの者を射殺した。数万騎で攻めたといえども、この矢を恐れて院の
御門を破ることは叶わなかったとかいう話だ。

今も弓はあっても、良き鎧を身に付ければ恐れるに足らず。ところがましてや、かの鉄砲は八郎の弓にも勝る
ことであろう。所帯(財産)に代えても1挺欲しいものだ』

と願われたが、氏康(北条氏康)の時代に堺から国康という鉄砲張りの名人を呼び下しなさった。さてまた、
根来法師の杉坊・二王坊・岸和田などという者が下って関東を駆け回り鉄砲を教えたのだが、今見れば人々は
それぞれ鉄砲を持っているものだ」

と申された。しからばある年に北条氏直公が小田原籠城の時節、敵は堀際まで取り寄り、海上は波間も無く舟
を掛け置き、秀吉公は西に当たる場所に山城を興し、小田原の城を目の下に見て仰せられたことには、

「秀吉は数度の合戦で城攻めをしたといえども、これ程の軍勢を揃えて鉄砲を用意したことは幸いなるかな。
時刻を定めて一同に鉄砲を放たせ、敵味方の鉄砲の程度を御覧ぜん!」

とのことで、敵方(豊臣方)より呼ばわったことには「来たる5月18日の夜、数万挺の鉄砲で総攻めにして
盾も矢倉も残りなく撃ち崩す!」と言った。氏直も関八州の鉄砲をかねてより用意し籠めておいたので、「敵
にも劣るまい。鉄砲比べせん!」と矢狭間1つに鉄砲を3挺ずつ、その間々に大鉄砲を掛け置き、浜手の衆は
舟に向かって海際へ出ると、日が暮れるのを遅しと待った。

そのようなところで18日の暮れ方より鉄砲を放ち始め、敵も味方も一夜の間鉄砲を放てば、天地震動し月の
光も煙に埋もれてただただ暗闇となる。しかしながら、その火の光はあらわれて限りなく見えること万天の星
の如し。氏直は高矢倉に上がりこれを遠見なされて、狂歌を口ずさみなさる。

「地にくだる星か堀辺のほたるかと 見るや我うつ鉄炮の火を」

御前に伺候する人々は申して曰く「御詠吟の如く、敵は堀辺の草むらに蛍火が見え隠れしているかのようです。
城中の鉄砲の光はさながら星月夜に異ならず」と申せば、氏直は格別に微笑みなさった(氏直ゑみをふくませ
給う事なヽめならず)。

まことにその夜の鉄砲に敵味方が耳目を驚かせたことは前代未聞なり。愚老は相模の住人で小田原に籠城した
ので、その節を今のことのように思い出されるのである。

しからば鉄砲が唐国から永正7年に渡ってそれから流行し、慶長19年(1614)までは105年である。
さてまた関八州で鉄砲を放ち始めたことは、享禄元年から今年までの87年以来と聞こえたり。

――『北条五代記』

>>894に関連して北条五代記より鉄砲の記事



信玄公御時代諸大将之事

2019年05月12日 16:48

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/11(土) 19:21:19.83 ID:HFu6A9lg
信玄公御時代諸大将之事

御歳増す次第の前に、まずこれを書く。もし反故落散して他国の人がこれを見て、我等の仏尊し(自分
の信じるものだけが尊い)と思われるように書いては、武士の道ではないのである。弓矢の儀はただ敵
味方ともに飾りなく有り様に申してこそ武道である。飾りは女人、あるいは商人の法なり。一事を飾れ
ば、万事の事実がすべて偽りとなるのだ。天鑑私なし。

一、永正12年乙亥の歳に平氏康公誕生。これは小田原の北条氏康のことなり。

一、大永元年辛巳歳、源信玄晴信公誕生。これは甲州武田信玄のことなり。本卦豊。

一、享禄3年庚寅歳、上杉謙信輝虎公誕生。これは越後長尾景虎のことなり。公方光源院義輝公より
  “輝”の字を下されて輝虎と号す。本卦履。

一、天文3年甲午歳、平信長公誕生。これは尾州織田上総守のことなり。本卦蠱。

一、天文7年戊戌歳、北条氏康公の御子氏政公誕生。(原注:一本に「此三人(氏政・氏真・義信)
  本卦の所きれて見えず」とある)

一、同年、今川義元公の御子氏真公誕生。

一、同年、武田信玄公の御子義信公誕生。

一、天文11年壬寅歳、徳川家康公誕生。これは三州松平蔵人公のことなり。本卦大壮。

一、天文15年丙午歳、武田勝頼公誕生。これは信玄四番目の御子、信州伊奈四郎の御事なり。信州
  諏訪頼茂(頼重)の跡目である故、武田相伝の“信”の字を避け給う。信玄公の御跡も15年の間、
  子息太郎竹王信勝が21歳までの陣代と称して仮のことであった故、武田の御旗はついに持たせ
  なさらず、ましてや信玄公尊崇の(原注:孫子)御幡も譲らせ給わず、もともと伊奈にいらした
  時の大文字の旗であった。ただし片時でも屋形の御名代であるからと、諏訪法性の御甲だけは許
  して差し上げなされたのである。

――『甲陽軍鑑』

「きれて見えず」は小幡景憲の筆記だと言われてますね



氏康は鉄砲の音に驚き給う。

2019年05月06日 21:12

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 19:20:45.36 ID:pa5vvLAa
北条氏康12歳の時、その頃は鉄砲は珍しいと諸侍は尽く撃ち習った。その時、氏康は鉄砲の音に
驚き給う。諸人は目を引いて笑い申した。氏康が口惜しく思し召して小刀で自害しようとし給う時、
各々がその小刀を取り奉ったので、氏康は涙を流し給う。これに御傅の清水(吉政)の申しようは、

「猛き武士が物に驚くことは昔より申し伝えています。その謂れは、馬も勘の良いものは鼠鳴きに
かかり、人に賞翫されるのです。物に驚くのを誉めたことに致す(物に驚くをばほめた事に致す)」

と言えば、氏康はその時に鎮まり給う。これ氏康公12の御歳なり。このように恥を知り給う猛き
大将でいらっしゃればこそ、その後に氏康公24歳の時の河越の夜軍において、敵は両管領人数8
万ばかり、氏康は人数8千で打ち勝ちなされた。これに付けて諸々の謀あり。

この合戦と信長と義元の合戦(桶狭間の戦い)は近代に希なる戦いなり。

――『甲陽軍鑑』



895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 19:42:47.02 ID:AX7XRnhO
当時って中世ないしは近世だけど、当時は当時なりの「近代」ってのがあったのかな

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 19:44:58.83 ID:6wWdZ48M
>>894
やらかして切腹するのは権現様の十八番ではなかったのか。

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/05(日) 22:28:56.32 ID:T0r+wnKW
1520年代なら鉄砲も珍しいな

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/06(月) 02:32:09.15 ID:e/hR13Pp
>>895
当時が現代になるだろうからね

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/06(月) 02:32:09.15 ID:e/hR13Pp
>>895
当時が現代になるだろうからね

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/07(火) 13:29:13.13 ID:PseRbTtz
>>895
戦国時代に大鎧着てくるだけで良くも悪くも一目置かれる
よほど偉いか時代錯誤の田舎者か、その両方かだけど
戦国風だと当世具足って言うぐらいだし

今後関東にては永楽一銭を使うべし

2019年03月16日 21:13

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/15(金) 22:13:16.43 ID:hR8PXiGa
年の寄った人の言うことによると、近年まで関東ではびた銭と永楽銭をとりまぜて、同じ程に使っていたが、
在々所々にてその善悪を争う事止まなかった。その頃関東八ヶ国の守護であった北条氏康公の仰せに、
『銭は品々ありといえども、永楽以上のものはない。今後関東にては永楽一銭を使うべし』と、
天文十九年(1549)に高札を立てた。これにより関東の市町にては永楽銭を用いた。この事によって、
近国他国でもびた銭の中から永楽銭を撰り出し用いた。故にびた銭はいつとなく上方へ流れ、関西にて
使われ、永楽銭は関東に留まり用いられた。

然るに天下一統の世になると、永楽銭とびた銭の二種類を使うように成ったが、永楽一銭がびた四、五銭と
され、これにより銭の善悪を争い選び、万民安からざる故を上は聞き召し、
『びた一銭を用いるべし。永楽禁制』
と慶長十一年(1606)江戸日本橋に高札が立てられた。それより天下において永楽銭の使用が廃れた。

(安斉随筆)

江戸期からみた撰銭に対する認識を顕した記事



726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/15(金) 22:54:38.93 ID:KvrDsm0D
ググってみたら慶長通宝とか元和通宝なんてものがあるんだな

「敵に塩を送る」異説

2019年03月08日 16:01

772 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/08(金) 08:55:46.57 ID:fDyNMKVL
北条と今川は相計って、遠州、武州の塩商人を留め、甲斐信濃に塩を入れず、これを以て
武田信玄の兵を苦しめんとした。

上杉謙信はこれを聞いて、領国の駅路に命じて、塩を信玄の元に運ばせ、
「我は兵を以って戦いを決せん。塩を以って敵を窮せしむることをせじ。」
そう言い送り、信玄はこれを受け取った。

これは上杉謙信の義にして、かつ勇なる所であると雖も、必ず深慮遠謀があったと見るべきだろう。
信玄は謙信より先輩であり、北条、今川の地を掠め奪う者は先ず信玄であった。
これ故に、信玄を仇とすること、六国の秦に対する如きものであった。

信玄がもし危機に至れば、その次は必ず謙信である。信玄が諸牧と戦って兵が久しく解けなければ、
その間に北国を一円に撃ち従えて勢い盛大となれば、東海の国々がたとえ力を合わせ志を一つにしたとしても
恐るるに足りない。謙信はそう考えたのだと言えるだろう。

(武将感状記)



775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/08(金) 18:11:03.52 ID:YVaPWxdX
>>772
でも謙信は関東で遊び疲れてから
北陸でも勢力伸ばそうとしたよね
ちょっと遅かったよね

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 08:25:30.39 ID:SrppcBwW
柴田みてもわかるように北國勢は冬は領国に籠るから春夏に掠奪が出来なければジリ貧だよ

777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 11:25:04.75 ID:Y8BGkzOR
>>776
冬に領国へ籠るとは限らないでしょ
謙信なんか通行できるうちに越山して夏に越後へ戻るし

永禄12年、武田軍駿河撤退と武田重代の家宝・八幡大菩薩の旗

2019年01月06日 19:17

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 18:31:56.44 ID:1kKF9x1m
今川氏真の掛川開城の頃までも、山県三郎兵衛昌景は武田信玄の命を守り、駿府の焼け跡に仮の柵を付けて舎宅を営み
守っていた。神君(徳川家康)は駿河に打ち入って駿府城へ押し寄せなさるが、山県は僅かの柵だけでは防戦叶わずと
知り、城を捨てて甲斐へと逃げ帰った。

神君は小倉内蔵助(資久)をもって、北条氏康父子へ信玄とは永く誼を断ち給う由を仰せ遣わされ、それより氏康父子
と示し合わせて今川氏真を駿府へ帰還させなさる由を懇ろに沙汰された。しかし駿府の城郭は先に信玄のために焼亡し、
住居できる場所もないので、氏真は戸倉城にあって小倉内蔵助・森川日向守に命じ、城郭を修築せしめた。その功が半
ば成就したので、まず岡部次郎右衛門正綱とその弟治部右衛門、安部大蔵元真らに駿府を守らせて、もっぱら作事を営
ませた。(原注:『武徳大成記』『家忠日記』)

武田信玄はこれを聞いて大いに憤り、1万8千の軍勢を催して再び駿府を奪い取らんと、6月12日に甲府を打ち立ち、
富士山中の金王を通り、大宮に出て神田屋敷・蒲原・善徳寺・三枚橋・興国寺の城々には押勢を残し、1万2千の人数
で韮山口まで押し入り、17日に三島社内を侵して近辺を放火する。それから人数を進め、河鳴島に陣を張らんとした。

この時、原隼人(昌胤)は「この場所では水害があるかもしれません」と諫めたのだが、信玄はこれをまったく用いず、
河鳴島に陣を取った。北条氏康もこれを聞き、3万7千余兵を引率して出馬し、信玄と対陣して互いに兵を見繕って戦
いは未だ始まらず。

そんな折の19日夕方より雨が降り続き、夜に入った後に大風が激しくなり、雨はますます篠を突くが如し。甲斐勢は
雨革や渋紙、桐油などで陣屋を囲もうとする間に風はいっそう激しくなり、雨はなおも車軸を流し、本篝と末篝をとも
に一度に吹き消した。視線も定まらぬ暗夜に火打ちと付竹を取り出し、灯を立てようとしても陣屋陣屋の間は野原なの
で風が吹き入れて灯は移らない。とやかくと苦辛してようやく陣屋を囲めば、子刻ほどになっていた。将卒どもは疲れ
果て、甲冑を枕にしばし休息した。まして歩卒どもは宵の普請に労疲し、高いびきして前後も知らず伏していた。

この時、北条方が蒲原・興国寺・三枚橋の城々から信玄の旗本へ入れ置いた忍びの者どもは、密かに陣々の馬の絆綱を
切って捨てた。かねてより示し合わせていた事なので、その城々からの屈強の勇士3百余人は、その頃は世上でも稀な
“雨松明”(原注:一本は“水松明”と書く)というものを手々に持ち、筒の火で吹き付けて陣屋に火を掛け、三方か
ら鬨の声を揚げた。

甲斐勢はこの声に驚き「ああっ夜討が入ったぞ! 1人も漏らすな!」と言うも、すでに洪水が押し来たり、陣営は皆
水となった。「弓よ、鉄砲長刀よ!」とひしめくが、篝火も灯火も皆消えてまったく暗く、兵具の置き場所も分からず、
「敵味方を弁えかねて同士討ちするな!」と呼び喚き取り鎮めようとするところに、河からはしきりに洪水が溢れ出て
陣屋陣屋に流れ入り、しばらくの内に腰丈まで浸れば、諸将卒ともに慌てふためき高い所へ登ろうと騒ぎ立った。

陣々にあった弓・鉄砲・槍・長刀・武具・旌旗・兵糧まで津波に取られて押し流され、諸将卒は逆巻く水を凌いでよう
やく興国寺の峰へと押し登った。退き遅れて水に溺死する者も若干であった。信玄はしばしも滞留することができずに、
早々に大宮まで引き退き、もと来た道を経て甲斐へと帰陣した。この時、甚だ狼狽したものか、武田重代の家宝である
八幡大菩薩の旗を取り落とし、北条方に拾い取られたのである。

――『改正三河後風土記』


569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 18:32:29.35 ID:1kKF9x1m
さる程に、永禄12年(1569)6月17日、信玄は御坂越に人数を出して、御厨通りを桃苑という所まで出張した。
先手の者どもは三島へ乱暴して明神の社壇を打ち破り、戸帳を盗み取る。社殿の中を見ると神鏡だけで本尊がなかった。

諸勢どもは「甲斐国は小国だが、どんな小社でもすべて本尊神体がある。これは甲州は神道が正しいからだ。三島は海
道に聞こえる大社であるのに、どうして本尊がないのだろう。なんだか分からぬ石のようなものがあるが、これが明神
の神体であるのか、その他には何もない。ただ宮ばかりで、尊きこともないではないか。このような神もなき宮に何の
罰があろうか。宝蔵をも打ち破り取ってしまえ」と申した。

その頃、吉田の某は浪人して甲斐国へ下り、信玄の手書をしていた。某はこれを余りに不届きに覚え、信玄へ進み出て、
「そもそも神道は陰陽の根元にして易道の本地であり、形もなく影もないところに神秘があるのです。これは皆神秘で
すから、凡人の及ぶところではありません。浅ましい狼藉でありましょう」と、制止したのだという。

信玄は韮山口まで働き、鳴島辺りに陣を取ったと氏康は聞きなさり、3万7千余騎を引率して駿河に発向した。信玄も
2万5千余騎を引率してしばらく対陣した。19日の晩景より雨が降り出し、箱根山の方から黒雲一叢が立ち来たり、
夜に入ると風は激しく篠を束ねて、降る雨はさながら流れ込むが如し。にわかに大水が起こって陣屋に込み入り、しば
らくの内に腰丈まで浸かり、甲斐勢は我先にと高みに登った。

物音はまったく聞こえず、長いこと震動があった。「これは只事であるはずがない。何れにしても三島明神の御咎めな
のではないか」と心ある者は思ったのだという。

その頃、高国寺城の勢が少ないとして、加勢のために福島治部大輔・山角紀伊守・太田大膳ら数百騎が蓑笠を着て松明
をともし高国寺城へ入った。これを甲斐勢の夜廻りの者が「敵が夜討に寄せて来る!」と告げるや、甲斐勢は騒ぎ立ち、
小屋は倒れて兵糧・雑具・兵具まで流し、甚だ取り乱したのだろう、余りに慌てふためいて武田重代の八幡大菩薩の旗
を波に取られてしまった。

その旗は北条家に取られ、氏康に献上された。「誠に信玄一代の不覚」とぞ聞こえける。その旗を九島伊賀守(福島伊
賀守)に賜り、伊賀守家の奇宝とした。

水は次第に増し、逆巻く水に向かってようやく命を助かり、夜もすがら信玄は甲府に引き返された。氏康も小田原へと
帰陣なさった。

――『小田原北条記』


572 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 00:30:39.58 ID:aCvm3RMw
永禄12年(1569)6月19日、武田信玄は河鳴島に陣を取り、北条氏康の軍勢と対峙したが、
洪水にみまわれて敗走し、よほど狼狽したのか武田重代の八幡大菩薩の旗を取り落として、北条方
に拾い取られてしまった。(>>568)

氏康は蒲原城に善徳寺曲輪という大郭を築き、その他に大宮・神田屋敷・興国寺・三枚橋・戸倉・
韮山・新庄・山中・深沢・鷹巣・獅子浜などの城塞に援兵3万余人を配分して籠め置き、自身は小
田原へ帰陣した。かくて北条方では、

「流石の信玄も今回はよほど狼狽したと見えて、重代の旗指物を取り落としてしまった!」

と嘲った。これに信玄方では、

「重代の重器であっても、津波のために流れたものをどうして恥としようか! 津波に流れた兵具を
拾い取って、武功手柄のように高言する笑止さよ! 旗が欲しくば、いくらでも製作して授けるぞ!
武略の優劣は戦場の勝負にあり。天変を頼みにして物を拾うを武功と思う浅ましさよ!」

と誹謗した。北条方はまたこれを聞いて、

「信玄が例の巧言曲辞をもって、その過誤を飾るとは片腹痛い! さる永禄6年2月の上野箕輪城
攻めで、信玄の家人の大熊備前(朝秀)は自分の指物を敵に取られたことを恥じ、敵中に馳せ入っ
てその指物を取り返した。その時に信玄は大いに感心して、『無双の高名比類なし』と感状を与え、
その時から大熊を取り立てて騎馬30騎・足軽75人を預けたのだと聞いている。

しかしながら、家人が指物を取られたのを恥じて取り返したことを賞美して、その家重代の重宝で
ある八幡大菩薩の旗は敵が取っても恥ならずと言うなら、大熊に授けた感状は今からは反故となる。
信玄の虚偽はさらさら証しにはできないな!」

と、双方嘲り罵ってやまなかった。その頃、老練の人々はこれを聞いて、

「信玄が洪水のために重代の重宝を流して敵に拾われたことは、天変であるから信玄の罪にあらず。
『河鳴島が卑湿の地で水害があるだろう』と原隼人(昌胤)が諫めたのを用いずに、その地に駐屯
してこの難にあった事こそ、一方ならぬ不覚である」

と誹謗したのだという。

――『改正三河後風土記』



570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/05(土) 20:16:27.89 ID:VzBE3OlO
>>568>>569
>3万7千
どっちも共通してるんだな、少しぐらい盛りそうなもんだけど。

571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/06(日) 12:10:41.04 ID:8AG8nNZJ
武田に勝つには倍以上ないと心許ない

573 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/07(月) 14:28:39.05 ID:eQrzQF2I
>>572
レスバトルかな?

574 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/09(水) 08:45:56.18 ID:0LSUZlgm
見事なレスバトルやな

天狗の仕業に疑いなし

2019年01月01日 19:31

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 19:05:56.83 ID:+OVb+YgT
この年(1560)8月、氏康公(北条氏康)は足柄城を修造されるために巡見に出られて、関本の最乗寺に
参詣された。

この寺の開山の了庵和尚は、曹洞の開基である道元五代の法孫なり。この場所に山居があったが、大森寄栖庵
が常に信じて、この寺を建立した。そして関東奥羽までこの和尚の法孫として末寺が尽く当寺の住職を勤めて、
1年替わりで輪番した。七堂伽藍の建立なり。

開山の了庵和尚の弟子に道流という者がおり、我慢邪知にして大力の悪僧であったが、「私は生きながら天狗
となって、末世永々までこの山を守護せん」という誓願を起こして毎日荒修行を致し、道流は果たして天狗と
なって山中に住んだ。

「今も悪知識の者がいる時には、必ずやって来て障害をなすこと必定なり」と寺僧が仰々しく語ると、氏康の
供の人々は大いに疑って、「末世にもそんな不思議があるだろうか。その天狗とやらは鳥か獣じゃないのか」
などと言ってささやいた。

するとにわかに大風が吹き落ちて樹木を吹き倒し、寺の門戸を破って震動雷電すれば、「只今天狗に攫われて
いくのか!」と皆人は舌を振って驚き恐れた。こうして「まことに晴れていた空がたちまちこのようになった
のは、天狗の仕業に疑いなし」と氏康も信仰されて、この寺を再興なさった。

――『小田原北条記』



559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/31(月) 23:08:02.71 ID:rE7ObUZk
天狗よ!天狗の仕業よ!

560 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/01(火) 14:49:39.46 ID:N7a8tba2
>>558
リアル天狗の仕業でワロタw

561 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/01(火) 17:18:54.23 ID:bPx3K1wo
    r⌒\// ////:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ //// //
    (´ ⌒)\ ///::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|// //
ポッポー ||  \|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| _/ /ヽ        /ヽ
     人   ...\    +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;/ /   ヽ      / ヽ
    (__)     \    ( (||||! i: |||! !| |) )    /__/U  ヽ___/  ヽ
また (__)天狗か .\+  U | |||| !! !!||| :U  /__/   U    :::::::::::U:
    (・∀・#)       \   | |!!||l ll|| !! !!|/| | 天 // ___    \     ::::::::|
  _| ̄ ̄||_)        \∧∧∧∧/  | | 狗|   |    |  U     :::::::::|
/旦|――||// /|      <   天 >  | |  |U |    |        :::U::|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |      <   狗 >      l ├―‐┤   U   ...:::::::/
|_____|三|/      < の の >     ヽ      .....:::::::::::::::::::::::<
────────────< 予 仕 >─────────────
      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ \< 感 業  >天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!   
/⌒ヽ  / ''''''     ''''''  ヽ<.!    >こういう天狗のように鼻が立ってたのが
|  /   | (●),   、(●)   | ∨∨∨∨\天狗の天狗なんだよな今の天狗は
| |   |    ,,ノ(、_, )ヽ、,,     / ヤダヤダ \天狗の天狗を知らないから
| |   |    `-=ニ=- '    /〃〃∩  _, ,_  \天狗の仕業じゃ!  , ;,勹
| |   !     `ニニ´   `/  ⊂⌒( `Д´) <\          ノノ   `'ミ
| /    \ _____ /      `ヽ_つ ⊂ノ    \        / y ,,,,,  ,,, ミ
| |    ////W   / )、._人_人__,.イ.、._人_人_人     / 彡 `゚   ゚' l
| |   ////WW /<´ 天狗じゃ!天狗の仕業じゃ!>\  〃 彡  "二二つ
| |  ////WW /    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒   \|  彡   ~~~~ミ

なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか!

2018年12月15日 19:39

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/15(土) 01:11:20.41 ID:wQqzwCcr
武蔵江戸の住人に太田源六資高(康資。父子の混同)という者がいた。大力武勇の誉れは関東8ヶ国に並ぶ者
なし。およそ30人でも動かし難き大石を、軽く持ってしまうほどの剛の者である。その弟に源三郎と源四郎
という者がいて、共に大力の兵どもであった。

ある時に3人が集まって言うには、「そもそも兵は剛強だけでは末代までの高名にはなり難し。それは何故か
といえば、今武蔵の中に我ら兄弟の上を越える力量の者はおるまい。如何なる鬼神であるとも3人で従えよう
として従わせられないということがあろうはずもない。

しかしながら(北条家からの)賞翫にも預からず、未だ一城の主にもなっていない。先祖の道灌(太田道灌)
は無力でも武功を顕し、末代までも名を揚げたものだ。我らは武勇を励んで氏綱父子二代に型の如く奉公した。
とりわけ過ぎ去りし大永3年(1523)、江戸城へ氏綱を引き入れて管領(上杉朝興)を追い落としたが、
城には遠山を置かれて、万事が我らの心に叶わない。

いざ同苗の美濃守入道三楽斎と相談し、安房の里見義弘と引き合わせ江戸城を攻め落とし、長く豊島郡を知行
して、言うまでもなく道灌の跡を継いで江戸城を取るべきと思うが、どうだ」

これに2人の弟どもは「もっともしかるべし!」と勇む。それから「これほどの大事を無造作には言うまい」
と、かの源六郎の菩提寺である法音寺という法華寺の番神堂に集まり、神水を飲んで、「この事を思い定めた
ならば二度と変じてはならない」と謹んで申し、その後に太田三楽の方へこの旨を言い遣わした。三楽は大い
に喜んで安房へ使者を立てて里見義弘を招けば、義弘は安房一国の勢と上総の軍兵を催し、下総国の国府台に
出張した。

そのようなところに法音寺の住持の僧は、かの太田兄弟の密談を聞き、日頃の誼を忘れて小田原へ注進して、
自身の檀那兄弟が謀反との旨を告げたのである。これによって遠山丹波守(綱景)に太田誅伐の討手を賜り、
すでにこれが押し寄せたので、太田兄弟は案に相違して夜に紛れて岩槻へと落ちて行った。これによって氏康
父子は日を置かずに打ち立ち、国府台へ発向された。

(中略。第二次国府台の戦い開戦)

ここに今回敵となった太田源六・同源三郎・同源四郎・黒川権右衛門・長南七郎などといった大力の若者ども
は一面に打って掛かった。志水太郎左衛門という大力無双の聞こえありし者は源六と渡り合ったが、志水の樫
の棒で源六は太刀を打ち折られ、力無く逃げたのである。源六はあまりに無念だったので「また太刀で打てば
折れるかもしれない」と、常に秘蔵していた長さ8尺の鉄の棒を取り寄せて軽々と引っ下げ、「なんとしても
志水めを打ち落とす!」と打ち振り打ち振り馳せ巡ったが、ついに見付からなかった。

源六はいよいよ腹を立てて、冑の鉢や胴中を構わず当たるを幸いに打って廻ると、多くの人馬が打ち殺された。
太田下野守という人は小田原勢の先手であったが、源六の有様を見て、「これは我が婿の源六なり!」と思い、
乗り寄せてくると源六に声を掛けて、

「おい源六、無益な謀反を致したものだな! 私は味方であるから、なんとしても先非を悔いて降参せよ!
命だけは助けよう! それにしても今日の振舞いは厳めしいものよ。しかしながら馬は何の咎によって打た
れたというのだ。人こそ打つだろうが、多くの馬を打ち倒すことは罪作りであろうぞ。どうなんだ源六!」

これを聞いた源六は「殊勝なことを宣うものですな。それならば人だけを打ちましょう。受けてみなされ!」
(いしくも宣ふものかな、人計り打つべし、受けて見給へ)と言うや否や、舅の下野守を開き打ちに丁と打つ。
下野守も太刀で打ち返さんとするが、大力で打たれてはどうして耐えられよう、前方の深田へ打ち落とされて
見るにしのびない有様であった。

(中略)

国府台の戦いが散じて後、太田源六は宿所に帰って妻女に向かって「私主の父の下野殿はこの度、戦場で某に
向かって言葉を掛けられたので、棒で頭を打ったのだ。必ずや痛んでおられよう」(某に向て言葉を掛け給ひ
し程に、棒にて頭を打ちぬ、定めて痛み給ふらん)と語った。

女房は大いに驚いて「なんですって! 父御前を打ち殺しなさったというのですか! 探し参らせよ!」と下人
どもを遣わすと、案の定下野守は深田の泥にまみれ、頭を打ち砕かれていたのを探し出した。女房は下野守の
葬礼を懇ろに営み、髪を剃り落として父の後世菩提を祈ったことは哀れである。武蔵神田の浄心寺はこの尼の
建立であるという。

――『小田原北条記』

関連
それでは、試しに受けて見給え!



527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/15(土) 17:01:55.03 ID:6Uin1sXO
>>526
リアル戦国無双でワロタw

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/15(土) 19:13:40.40 ID:S5q0Xu8o
>志水太郎左衛門
清水だよね
足の力で馬を絞め殺せる人