fc2ブログ

「続武家閑談」から「岡部権太夫指物落して首と取替る事」

2023年03月27日 19:59

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/03/27(月) 16:05:02.71 ID:hF7jsEmB
指物ついでに
「続武家閑談」から「岡部権太夫指物落して首と取替る事」

佐竹氏と北条氏康の下総境合戦のとき岡部権太夫は猪廉の指物をつけて、戦場で組討ちをして首を取った。
しかし気づいてみると背中の指物がなく、
「これは組討ちの最中に指物が抜けたのを敵が拾っていったのだろう」と岡部は無念に思った。
そこで取った首をぶら下げ、退却する敵の正面に回って
「これは北条家人下総の岡部権太夫と申すものなり。
ただいまの戦で組討ちをし、指物を取り落としてしまった。
おそらくどなたか拾いなさった人があるだろう。
指物は猪廉である。この首はいまだ首実検をしていないので、これと取り替えてくれ」と声高に言った。
敵が大いに感心していると、武者一騎が出てきて
「殊勝な御所望である。猪廉の指物は関八州でも珍らしので拾いおいた。
すぐにお返ししよう」と返した。
岡部はよろこび首を渡し「御芳志感謝いたす」と背中を向けて指物をささせ、一礼して立ち帰った。
「あっぱれ大剛の武士かな」と敵味方ともに感嘆したということだ。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-785.html
北条家、岡部権太夫の指物・いい


こちらだと下野での争いになっているためか(沼尻合戦?)北条氏政カテゴリだった



スポンサーサイト



遠州御発向の御備定は

2023年01月24日 19:00

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/22(日) 16:37:30.54 ID:Uf3aPfmT
長尾輝虎は十年以前の辛酉に、信州川中島において大きく負け(永禄四年の第四次川中島合戦か)、
三千あまりも討たれた後は、此の方(武田方)より押し詰め、この頃では信玄自身が出馬するに及ばず、
高坂弾正が越後の内で働いても、さほど危ういことも無い。

北条氏康は当年(元亀二年)十月に他界した。去る巳の年(永禄十二年)の最中度々押し詰め、すでに
小田原に日帰にした。足柄、深澤まで信玄が攻め取り、関東は氏康に掠められていたが、その氏康を
信玄が掠め取ったのである。

また佐渡庄内、加賀、越中、能登、関東までもに、輝虎が押し出したが、その輝虎も先のように押し詰めた。

この上信長、家康の二人に信玄が勝てば、西国までも弓箭において心もとないことは無い。何故ならば、
四国、九州は安芸の毛利によって仕詰められていた所、信長が都に発向して、天下を持っていた三好を絶やし、
中国の毛利をも、父(正確には祖父)元就の死後とは言いながら、早くも少しずつ掠め取っているとの
沙汰が有るからだ。

東海一番の家康、五畿内、四国、中国、九州まで響き渡る信長、彼らを一つにして信玄一方を以て
勝利を得るならば、日本国中は沙汰にも及ばぬ義である。
当時は唐国までも、武田法性院信玄に並ぶ弓取りは有るまじく候と言われていた。

遠州御発向の御備定は、午年(元亀元年)の冬中に高坂弾正の所で七重に定まり、書き付けて信玄公の
御目にかけた。

仍って件の如し

甲陽軍鑑

武田信玄が西上を決断した際の、外部情勢についての認識について。



高坂弾正の分別立ては、

2023年01月11日 19:17

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/10(火) 23:45:44.82 ID:L1ZwVHoT
永禄十二年八月下旬に、武田信玄公は甲府を御立ちなされ関東へ御発向あり、北条氏康・氏政父子の
領分を大方焼き払い、小田原へ押し詰め、侍宿地下町も少しも残らず放火するよう仰せ付けになり、
その上、同年十月八日に相州三増峠において、信玄公は勝利を得られた。

都合四十四日の御働きで北条家を鎮め、信玄公は駿河を治められた。それを妨げていた氏康が
これに手を出せなくする防戦を遂げられ、甲府に御帰陣となった。

この時信玄公は、高坂弾正を召されて仰せになった
「小田原表における、この信玄の勝利をどのように見たか」

高坂は申した
「御勝ちなされて、御怪我でありました。その仔細は、例えて言いますが、仮に数万の人数が
甲州に侵入した場合、当方の御運がよくよく尽きて五十、六十の人数に成ってしまえば
是非にも及びませんが、五百、千ほどの人数もあれば、御館である躑躅ヶ崎まで来る敵を、
間違いなく撤退させることが出来るでしょう。

この例えを用いて分別すると、今回小田原城には松田尾張を始め、その他人数八千あまり在りながら、
二万を少し越えたほどの武田勢に蓮池まで押し込まれ、さらに何事もなく引き取らせ、その上
三増峠においてあのように戦勝を得られました。
弱敵に勝たれて、大いなる御不覚かと存じ奉ります。

近年、若き者である三河岡崎の家康は今川氏真公を掛川に押し詰め、氏真公の衆、歴々の覚えの者を
競り合いのたびに討ち取り、終に氏真を関東へ押し払いました。若者であるとは言え、かの家康に
北条氏康御父子の人数のうち三分の一も預けたならば、よほど敵として御手に立ったでしょう。
また信州侍衆に対して我々は、相手が百騎、二百騎の人数であってさえ、五、六年づつ御手間を
とらされました。」

これを聞いて信玄公は
「高坂弾正は小田原陣の前に申ごとく、今に諍を怖く申し候」
(高坂弾正は小田原への出陣の前にもそう言ったが、今もこのように恐ろしい諫言をする)
と、御笑いなされたという。
若き衆は「高坂弾正の分別立ては、今に始まったことではない。」と沙汰した。

甲陽軍鑑



小田原に御牢人となった

2023年01月06日 19:24

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/05(木) 20:43:07.28 ID:nzcqadR2
永禄十二年の初めの、五月二十六日に、今川氏真徳川家康とは扱い(和睦)となり、掛川を家康に渡し、
その上遠州一円が家康の支配となった。そして「氏真を今一度駿河の主にしてほしい」と頼まれて、
氏真公は遠州掛川より船に乗り、小田原の北条氏康が氏真の舅であった故に、これを頼んで小田原に
御牢人となった。

さて、氏真公の元で随一の出頭人であった三浦右衛門介は、諸侍に慮外を仕った人罰が当たった。
(氏真の駿府没落後も)彼は猶も分別を違えており、高天神城の小笠原(與八郎)が、氏真公の時代と変わらず、
自分の用に立つと三浦右衛門介は考えていた。そして氏真を見放し高天神城へ走り込んだが、そこで
小笠原は彼を搦め捕り、しかも縛り首とした。以上。

甲陽軍鑑



武田信玄は剣を回して甲府に

2023年01月04日 19:06

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/03(火) 20:33:31.63 ID:dH72IYYe
永禄十二年の駿河における武田と北条の対陣は、正月十八日から同年四月二十日までの九十三日であった。
日夜のせり合いにおいては、武田方の跡部大炊介が一度松田尾張に追われたこと以外は、みな小田原北条衆が
武田に遅れた。
然し乍らあまりの長陣故に、信玄公は家老衆を召し出し、それぞれの意見を聞いた。

内藤修理(昌豊)は、
「薬師は眼の養生に、すねの三里に灸をおろします。」
馬場美濃(信春)は
「けらつつき(キツツキ)が虫を食べるに、他の鳥と違って穴の後ろを突き、口に出てくるのを取ります。」
と申した。

信玄公「さては各々の分別、いずれも同意である。」と、山西の抑えである山縣三郎兵衛(昌景)を駿府より
召寄せ、北条方の陣城を一つ押し散らさせ、山縣の同心である、みしな、広瀬、小菅、その他手柄の者たちに
御証文を下され、二日目の夜は馬場、山縣両大将に仰せ付け、由井の源三郎といって、氏康公の二番めの
子息で武蔵八王子の城主(氏照)の陣屋の前に柵をふり、筵にて囲った。柵が幾つも焼かれたのを
尽く踏み破らせた、

四月二十七日に信玄公より仰せ出があり、次の日の二十八日には信玄公は陣を払い、駿河庵原の山を越えて、
道も無い所を原隼人助(昌胤)の工夫に任せ、終に甲府へと帰還した。
北条家ではこの事について「武田信玄は剣を回して甲府に逃げ込まれた」と申したという。

甲陽軍鑑

武田軍の駿河からの撤退について



524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/04(水) 07:13:17.97 ID:1ewKKFZE
つまり大敗だったんですね

信玄公の賢き御智略の故である

2023年01月01日 18:01

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/01(日) 16:17:46.70 ID:lFI7BjNp
永禄十二年正月十八日、小田原の北条氏康・子息氏政は、四万五千の人数を以て、(武田軍の侵攻のため
駿府より逃亡した)今川氏真を駿河へ帰国させるため出陣し、先手衆は薩?山、八幡平、由井、蒲原まで取り続いた。
武田信玄公は使いの甫庵を伊豆の北条のもとに送ったが、彼は牢へと入れられた。

信玄公は氏康の後詰を聞かれると山縣三郎兵衛(昌景)の、千五百の備を山西抑えのために駿府へと残し置き、
一万八千あまりの人数にて興津河原へ打ち出て、北条親子四万の人数と、信玄公一万八千余りの軍勢とで
御対陣となった。

この時期は正月中旬も末の事でもあり、浜風が強く吹いて、敵味方共に寒き嵐に陣を張り難かった。
信玄公は御中間頭の衆に仰せ付けられ、駿府の酒を買い、陣衆の道作り千人に持たせて興津へと取り寄せ、
在の釜を幾口も集めてこの酒を沸かし、信玄公も一つこれを飲み、「家中の大身、小身、上下の区別なく
この酒をを振る舞うように」と仰せ出された。このため、武田の諸勢はみなこの酒を飲んだ。

この時信玄公は尋ねられた
「各々この酒を飲んだが、寒くはないか?」
諸人は、「寒くありません。」と申す者もあり、「これを飲んでも寒いです。」と申す者もあった。
そこで、信玄公は仰せになられた

「平地において酒を飲んでさえ寒いというのに、況や山の上に有る氏康の衆は、酒も飲まずに高所に
陣屋を掛けたといっても、人は山の麓に下りているだろう。
氏康衆の武辺について、彼らは輝虎(上杉謙信)と十八年にわたり取り合いをしているが、輝虎の本国
越後と小田原は遠く隔たっており、一年に一度づつ出会い、五日、十日ばかり戦って、さほど長く
氏康と謙信が対陣する事はない。であるから、上杉は大敵といいながら、大将であった上杉憲政は弱く、
武道不案内故に、氏康に武略を成功させたに過ぎない。

氏康衆は今まで甚だしい敵に遭う事が無かったために、油断しているだろう。たった今飲んだ酒が醒めない内に、
北条家の先衆の掛けた陣屋を破り、あぶなげもなく敵に一入付けよ!」

そう仰せ付けられ、甲州勢先衆は薩?山へ攻め上がった所、実際に陣屋には一、二人ほどしか居らず、
本来居るべき者たちは皆麓へと下りていたため、即座に安々と陣屋を破り、その上小田原先衆の武具、馬具、
鑓などの結構な代物を甲州武田方が取った。これは信玄公の賢き御智略の故である。

甲陽軍鑑



522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/01(日) 17:15:31.77 ID:fw7z4nFs
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1665.html
真田昌幸「GIANT KILLING」三話・いい話

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5356.html
信玄と戦略眼

真田昌幸が言ったという話もあるようだ

「笹子落草紙」から鶴見の最期

2022年11月02日 19:31

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/02(水) 18:38:08.64 ID:Hwy3qHHU
笹子落草紙」から鶴見の最期

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13690.html
で書かれているように武田信茂の誅殺のち、真里谷城城主・武田信隆は無実の信茂の恨みのためか死んでしまった。
また監物河内の家中の者に信茂の残念が入り込み無実を訴えたが、とりわけ下手人である後藤・鶴見への恨みを述べたため、国中の人は二人を憎んだ。
後藤は高名な弓取りであり、また上総武田家に連なる家であったため、監物とはかって三男の亀若丸を真里谷城主にしようとした。
鶴見は後藤の義弟であったが、これを聞くや後藤に「国の混乱の元であるから欲を捨てよ」と必死に説得した。
しかし後藤は「当国にて我に弓を引くものなどいようか」と嘲笑って聞こうとしなかった。
そこで鶴見は武田信秋(武田信隆の叔父)・武田義信の父子に臣従を誓ったところ、承諾の返事が届いた。
そのため鶴見は後藤方の監物の屋敷に押し寄せ、焼き払った。
これを知った後藤は上総武田の分家の小田喜朝信に対して
「鶴見は代々恩を受けていながら、天道をはばからず御当家に対して弓を引く不届きものです。急ぎお退治あるべきです」と逆さまに申し立てた。
小田喜朝信は後藤の婿であったため、頭から後藤を信用してしまい、相模の北条氏康に援軍を申し込んだ。
こうして北条九郎氏胤?一万余騎、千葉介三千余騎が笹子城に攻め込んできた。
(笹子城は武田信茂の死後は鶴見内匠が城主となっていた)

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/11/02(水) 18:41:28.92 ID:Hwy3qHHU
鶴見はあらかじめ予想していたため少しも騒がす、赤銅造りの太刀を佩き、城表の櫓にのぼり、敵陣に対して言うには
「さても、鶴見は小身ではあるものの、名を後世に残すうれしさよ。
北条・千葉両大将を申し受け、潔く討ち死にすること、これ以上の悦びがあろうか。
しかし不忠の者の偽りごとを信用し忠臣を討つという小田喜朝信の行く末が見られないことだけが残念である。」
それを聞いた後藤兵庫は「はやく攻め殺せ」と命じ、四方から鬨を挙げて敵が攻め込んできた。
鶴見は櫓からさっと飛び降り、三人張りの弓に矢をつがえ、表門に来る敵を次から次へと射立てた。
これを見た朝信は盾を互い違いにさせて攻めてきたが、信仲(鶴見?)が矢を放つと十八枚の重ね盾をばらばらに破り、後藤の鎧の草摺を射貫いた。
これを見た後藤はあわてて「命あっての物種だ」と逃げて行った。
しかし北条軍により土山が掘り返されてあっというまに平地となってしまった。
こうなっては鶴見も敗北を覚悟し、いったん宿に戻って長年契約していた和尚に善知識を問うと
和尚「利剣即ちこれ阿弥陀号、という言葉があります。
敵を無明と思って剣で斬りはらい続け、雑念が入る前に討ち死にするのがよいでしょう。
愚僧も一蓮托生の身ですから、すぐ参ります」
納得した鶴見はまた表に戻ろうとしたが、女房が子供を連れてきて
「敵に無残に討たれるよりは、我々を殿の手で討ってください」と言ってきた。
鶴見は情をふりきり、母に最後の挨拶をしたのち戦に戻った。
雲霞のような敵軍を、薙刀を水車のように振り回し切り伏せていったが、戦半ばで二つに折れてしまった。
鶴見は力も尽き果てたため西方に向かって念仏を唱え、腰の刀を抜いて切腹しようとした。
そこに北条氏康の身内で萩原というものが名を名乗って前に出てきたため、鶴見はからからと笑い
「西方浄土も遠くはなかろう。来迎往生は眼前である。これもなにかの縁だ。はやく首をとれ」
こうして萩原は鶴見の首を討ち落としたが、念仏の声は首が落ちた後にも響いていた。
これを見聞きしたものはみな「弓取りはかくあるべし」と言い、ほめぬものはなかった。

続き
「中尾落草紙」から、後藤一族の最期



管領の御馬にて出かねる

2022年09月21日 19:01

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/20(火) 22:39:06.11 ID:urt3gmbm
北条家は早雲(宗瑞)公、氏綱公の二代にて伊豆、相模の領国を治め、しかもその年、享禄三年には
氏綱公子息・氏康公が十六歳にて初陣として、武蔵府中に出られた。敵は両上杉(山内・扇谷)であった。

北条家の果報いみじき故か、上杉家滅却の瑞相か、その頃両上杉は再び仲が悪くなり、
北条家との取り合いの事も、例えば三方論議(三人の者が互いに譲らないで論争すること)の如くであった。

されども上杉は、北条家を小身として卑しみ、氏康公は自ら出陣し、上杉家の人数二、三万に立ち向かい、
神奈川、品川、武蔵府中で戦い、また所沢、世田谷という所でも、氏康と両上杉は都合八年の間
取り合いをしたが、この間上杉憲政公は一度も自身で出てこなかった。

上杉は北条を小敵と卑しんだが、その上杉家は大将が出てこなかったために、大合戦にも小競り合いにも、
上杉衆はみな負けて、氏康は一度も勝たないという事は無かった。
誠に北条家は弓矢の時と輝き、万事政も宜しければ、上杉家の巧者達は「さてあぶなし」と囁いた。

されども管領憲政公家臣の両出頭である菅野大膳、上原兵庫は、そのような意見に対してこう申した。

「北条早雲は元来伊豆の、いかにも小さき所より出た者であり、その族である氏康にどれほど深い
事があるだろうか。彼が伊豆、相模両国を持っても、その北条を二、三人合わせたほどの大身衆は、
越後、関東、奥羽にかけては、憲政公旗下に五、六人も在る。

上杉家に伝わる衆にも北条ほどの者は無いが、彼らがはびこるようなら、憲政公が旗を出され、
ただ一合戦で北条家を誅罰するだろう。」

菅野、上原両人の発言に、若侍共は、憲政公が出馬され北条家を誅罰するのは今日明日のように
各々沙汰したが、憲政公は未練げであり、ちと臆病であられたのか、今年来年と申しても
結局山内殿が出馬することはなかった。

「管領の御馬にて出かねる。」という言葉は、この時代より始まったのである。

甲陽軍鑑



中々に世をも人をも恨むまじ

2021年12月05日 18:52

218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/05(日) 16:25:39.70 ID:J7djUx9K
北条氏康の死後)

氏康御病気の頃より今に至って、譜代重恩の輩は申すに及ばず、関八州御旗下の大名は群をなした。
その他に甲州、越後、佐竹、方々の使者は往来して止まず。
御中陰の日数がようやく過ぎ、氏政(北条氏政)は伊豆の三島へ鷹狩りに御出になったところへ甲州より使者が来たる。

氏真(今川氏真)と氏政は親しき間柄で小田原に居住しており、そのうえ譜代の侍はいまだに多く、
また家康公も内々氏真に御芳志があった。そのため信玄(武田信玄)は行末を難しく思われたのだろうか、
氏真を討ち申したいと密かに氏政へ人を遣わしたのである。
氏政はいかに思し召されたのかその旨を合点なさり、すでに甲州より忍んで討手の者どもが来ると聞こえた。

悪事千里を走る習い、やがてその事を聞き付けなさり、氏真の御前(早川殿)は氏政の御姉なので
この上なく御恨みになり、氏真その他下々に至るまで「氏政は人倫に非ず」と立腹限りなし。
ここにいてはならないと氏真は小田原を引き払い、家康公を御頼みになって妻子を引き連れて浜松へ落ちなさった。
また、御心の内はさぞかしと思いやられる一首を詠んだ。

「中々に世をも人をも恨むまじ、時にあはぬを身の科にして、氏真」

家康公は先年の御言葉もあり、屋形を作って氏真を据え、御懇情浅からず御労りを施しなさった。
これぞまことに仁政たるべし。

そもそも今川の家は代々小田原と縁者であり、早雲氏綱二代重恩を受け、特に氏真は御兄弟の契りあり。
何によって信玄に語らわれたのか今川殿を追い出し、このような情け無き振る舞いは謂れなし。
まことに頼む木の本に雨も溜まらぬ風情かな。中陰の折で誰か言う人もなし。
末の世まで嘲弄を受けるだろう、当家の運は末になったと小田原の諸臣は悲しんだ。

――『北条五代実記北条盛衰記)』

よく氏真の辞世の句と紹介される一首だがこの本書では小田原出奔時の無念を詠んだものになっている。



219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/05(日) 16:49:21.21 ID:fzcOOjCi
元亀二年十月、氏康死亡
元亀三年五月、氏真が施主として義元の十三回忌を小田原の早河久翁寺で施行

四十九日からかなり経っても氏真夫妻が小田原に残っているような

奥多摩銘菓へそまんじう由来記

2021年11月05日 17:03

139 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/05(金) 14:13:12.16 ID:7TzE4MpB
奥多摩銘菓へそまんじう由来記

古来へそは大切なものながら世人之れを茶目でユーモアな存在としているが、体の中央に悠然と構へ、その形も千差万別で、満月型あり、月見型あり、谷見型、藪にらみ型、稀には出臍等愉快なのがあれ共、フックラとした月見型を最も可とすると古書に見えたり。
心のひねくれしを臍曲りと例え、可笑しきときは臍が茶を沸すとか臍の宿替とか申し、又、昔漢の項羽が山をも抜く力も、へそごまをとりて力忽ち衰へたりといふ。ゆめゆめへそごまはとるべからず。
抑々弊舗特選のへそまんじうは、その昔永禄6年、当地より程近き辛垣城に構える三田弾正綱秀を小田原の北条左京太夫氏康と其の子滝山城主北条陸奥守氏照父子が昼夜を分たず攻め立てしが、中々落城せず偶々折柄の大雷雨中を隣峰その名寄しらむ雷電山口より攻め込んだ豪勇無双の十勇士により、さすが難攻不落の辛垣城も陥落したるが、この十勇士が当時この附近の茶店で購った兵糧のまんじうを腹巻に包んでおいた所、不思議や全部このまんじうの型に変り大雷雨に臍も取られず、然も勇猛果敢な働きに澤山の恩賞を授けられしとか。
依ってこのへそまんじうを常に賞味し、臍下丹田に力を入れて世に處するなら必ずその成功疑ふ可からず。

秩父多摩国立神代吊橋畔 登録商標へそまんじう本舗 主人敬白



140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/05(金) 14:21:03.44 ID:POVyYTYg
「まんぢゅう」「まんぢう」ではないのか

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/05(金) 14:23:37.85 ID:/7F8548Y
北条の十勇士って誰だったんだろ

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/05(金) 16:38:47.09 ID:510z2f6l
多田満仲「嘘つけ、ただのまんじゅうだろ」

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/05(金) 18:40:55.37 ID:sEJuZ4sA
和田まんじゅうなら知っとるが

144 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/05(金) 19:21:18.43 ID:7TzE4MpB
>>140
https://i.imgur.com/jrvmx0n.jpg
https://i.imgur.com/7bB4BiK.jpg
jrvmx0n.jpg
7bB4BiK.jpg


145 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/05(金) 19:42:38.45 ID:7TzE4MpB
>>142
審議中AA略。

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/06(土) 03:31:54.37 ID:gvVzScEM
タダノマンジュウダッテ ヒソヒソ
    ∧,,∧  ∧,,∧す
 ∧ (´・ω・) (・ω・`) ∧∧
( ´・ω) U) ( つと ノ(ω・` )
| U (  ´・) (・`  ) と ノ
 u-u (l    ) (   ノu-u
     `u-u'. `u-u'

氏康は奇兵を好んでいる

2021年08月18日 19:09

439 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/18(水) 17:13:23.35 ID:KOvlo7hq
天文二十二年九月下旬に、小田原への間諜が越後に帰り、上杉謙信に言上して曰く

「北条家の群臣には武功有る者多い中でも、松田尾張守(盛秀)は智計深遠にして、軍用の具を
常に蓄え、欠乏させる事がありません。その上常に士卒を調練し、湧進の志を励ましています。
故に北条氏康も、軍事に於いてはこの尾張守と諸事評議されているそうです。

最近も、松田は諸方の寺より撞鐘を取り寄せて、毎日これを鋳鎔して鉄砲の弾としました。
ところが、鎌倉のある小寺より鐘を取ろうとしたところ、その住僧は甚だこれを嘆き惜しみましたが
力及ばず、かの僧は別れを惜しみ、鐘を抱いて涙を流し

「私は年来、二六時中これに手を触れないという事はなかった。今から以降は再び手で触る事が
出来ない、私はこの鐘に於いては残念が盡きない!」
と言って、声を上げて泣く泣く立ち分かれました。

そして奇妙なことが有りました。この鐘が小田原に至って、これを鋳鎔しようとした所、鐘より
水煙が吹き出して炭火が皆消えたのです。それから数度にわたってこれを鋳鎔そうとしましたが、
毎回水煙を吹き出して遂に鎔かす事ができませんでした。人々は皆、これを見て、かの住僧の
怨念である、と言いました。

しかしこれについて、老鋳師が言いました
「古にもこのような例が有った。牛馬の糞を炭火の中に入れた時は止む。」

これによって牛馬の糞を入れた所、炭火は盛んに燃え、鐘はたちまち熔けました。

又、盲目で情が強く、意地を立てる異相の者がありました。氏康はこれを聞いて喜んで呼び出し、
彼を咄の者としました。ところがかの盲目の者は、話と違い和順であり、意地が強いという異体は
ありませんでした。これに氏康は

「汝が意地強く異相であると聞いて召し出したのだが、然るに今その方が人に対して和順であるのは
どうしてなのか。」

と尋ねると、盲目は答えて曰く
「君は意地強き異相を好んでいます。しかし、そこで能く和順である事は、この異相の意地にあらずや。」

氏康は甚だこれを喜んだと聞いています。」

謙信はこの一々を聞かれて曰く
「氏康は奇兵を好んでいる。私はこれを撃つに必ず正兵を以て戦わん。」と言われた。

春日山日記



440 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/08/18(水) 17:56:07.68 ID:sK+P/PXf
鐘と不思議なお話と奇兵正兵の話の繋がりが判らないのだが…
不識庵様の話術は凡人には難し過ぎる

三将三色

2021年05月26日 19:08

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/26(水) 18:26:29.28 ID:ggHkqOzq
ある時上杉輝虎(謙信)公が、侍大将、或いは心安き侍衆を召し寄せて茶の会をなされ、その後に仰せに成った

「信玄、氏康、信長の三将は、坂東に於いて名のある大将である、この三人の政道、或いは軍の執行は
同じ色であろうか、またはそれぞれ、色々違っているか、何れも思う所、一人づつ申すように。」

これに対し、甘粕近江(景持)がこのように申し上げた
「私のような者が推参ではありますが、朝暮にこの三将について推量し、また私が相模牢人、甲州牢人、
尾張牢人に政道の道々を相尋ね申した所、三将三色であると考えます。」

輝虎公はこれを聞かれ
「三色であるという謂れは如何に」と尋ねられた

「智・策・武の三略と言われるものが、軍法の眼目であると承っております。
であればこの三将には一略ずつ得られた道が有ります。」

「その一略ずつ得ているとはどういうことか。」

北条氏康公は、智略十分にして策五分、武三分の大将であります。
また武田信玄公は、策略十分にして、智略は五分です。武については信玄公と打ち合いを
したことが一度もない故、計りかねます。ただし承り及んでいる限りでは、氏康公と
同程度だと思われます。
しかしながら織田信長公については、弱敵とばかり迫合をしているので、委細については
述べ難いと考えます。」と申し上げた。

輝虎曰く、
「然らば、三将それぞれ、ニ略に叶い、一略が欠けていると見えるが、如何か」

「尤も、御諚の通りであります。推参ではありますが私が申し上げた意趣は、屋形様(謙信)は
これらを合わせて、智策武の略を分別なされる事が尤もであるという事です。
智略は氏康公、策略は信長公、武略は信玄公の、この三将の要を御胸中に納められる事こそ、
尤もであると考えます。」と申し上げた。

輝虎公聞かれて、打ちうなずき、何れへも酒を下された。

謙信家記



235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/27(木) 03:46:47.32 ID:9al/gcVO
信玄は策略十分で武略は氏康と同程度って言ってるのに
なんで策略は信長で武略は信玄って言ってるんだ?

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/27(木) 08:46:38.24 ID:azca3Em1
信玄の武は分からんけど三分の氏康レベルって推論から急に信玄の武は要と言われても困るわ

238 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/27(木) 18:38:04.45 ID:X0+FupZm
>>234
謙信家記は原典の後書きに書いてあるけど、春日山八幡宮に宇佐美勝正が納めたという文書を
享保元年(1716)に源忠寛が書写したもの

信憑性はまあ考えてみよう

239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/27(木) 22:44:35.85 ID:8rHOi5Ox
>>238
ここは史料を上げるスレじゃないんだから信憑性にこだわっても意味なくない?
それを言い出したら信長公記だって全面的に信用していい内容じゃないし。

240 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/28(金) 10:50:11.05 ID:yYcJ36ve
神主に就任したらすごいの見つけちゃったからこりゃ広めないとなあ(棒
って後書きなんだけど
まあ、当時の雰囲気と一般認識はわかるよな

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/28(金) 11:02:39.30 ID:3QU4AlIO
宇佐美勝正
宇佐美勝興(越後流軍学の祖、宇佐美定満の孫を自称)と関係が?

越相一和と長尾政景誅殺

2020年02月12日 17:21

848 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/12(水) 01:56:21.40 ID:4qsmf9PP
永禄十三年正月より、北条氏康公は越後の止観という僧と、小田原海岸寺も住持を中人として、
上杉謙信公と無事(和睦)を成し、御末子三郎殿を越後へなりとも前橋になりとも、差し越す旨を、
北條丹後(高広)、同伊豆守方まで仰せになった。
北條は直ぐに越後へ戻り、諸老方と相談の上、謙信公へ申し上げると、無事和睦は整った。

この時謙信は
「さしもの氏康の御息この方に申し請けるのに、人質というのは然るべからず。」と有り、養子と
される事に定まった。

先ず前橋まで罷り越し、彼の地に於いて対面をなされた。両家の侍各々会集し、慇懃の儀式であった。
この時北条家側は、氏康が病中であり、嫡子の氏政、および源蔵(氏照)が罷り越して在った。

北条三郎殿が養子になった事について、上田の長尾政景とその家門の者達は悦ばなかった。
この政景という人物は、上杉景勝公の実父であり、去々年以来その景勝が謙信の養子になっている故であった。

景勝は若年と言えども謙信の気持ちをよく察し、三郎との関係も好かった。
しかし謙信公は、政景が内々随わない事について奇怪に思われ、殿中に召し出すと長尾小四郎(景直)に命じて
成敗させた。そして政景の親族家臣、上下二百余人が政景の館に立て籠もって戦い、死んだ。
この討ち手もまた長尾小四郎であった。

松隣夜話

ここでは長尾政景が謙信に誅殺されているのですね。一族ごと。



849 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/12(水) 16:04:06.97 ID:VCnzYYiH
>>848
後継指名しない悪い話だな

謙信等の、諸将と自己についての評

2020年02月08日 16:56

611 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 04:52:53.84 ID:HS1E561+
(惜しきかなこの巻は二十片虫の害があり判読できず、現在に伝わらない。その末の一両(2ページ)ほど
僅かに残ったのが、以下のものである。)

三宝寺曰く「これは些か虚気たる申し事ではありますが、この御座敷でそのように慎む必要はないと
思い、お聞きするのですが、現在、日本には高名なる大将がその数多くおります。その中でも先ず上げられるのは、
北條(氏康)殿、織田(信長)殿、甲州の(武田)信玄、吾等の主人(上杉謙信)、又は安芸の毛利(元就)と
海道の(徳川)家康、このような所でしょうか。その中において、何れの家が終には天下を掌握して
全うするとお考えでしょうか。
現在は信長殿が畿内を仕配していますが、武田、北条あり、また謙信もこのように居られますから、
畢竟定まってはおりません。御了見の程を御次いでに承りたく思います。」と太田三楽に尋ねた。

太田三楽曰く
「そのような義は誰にとっても天命でありますから、人の予想を以て申すのは難しいものだと思います。
ですがそういった事は差し置いて私も申してみたいと思います。
先ず、私は毛利家については遠国であり詳細に承っていません。ですので何か申すべき了見がありません。
そうである以上私が語れるのは、御屋形(上杉謙信)と信玄と、北条と織田と徳川となります。

そのうち、北条家が天下を取るという義は絶えて無いでしょう。何故ならば、もはや北条氏康には
余命少なく、その上近年病者になり、久しくはないと見えます。またその子の氏政は、天下の義は置いて、
只今の四ヶ国すら人に奪われてしまうでしょう。かく申すわたしも、氏康より長く生きる事が出来れば、
現在の北条領から一郡一里であっても望みたいと思っています。

また武田信玄と御当家とは龍虎の争いとなり、どちらであっても一方が廃れない間は、双方月日を手間取って
他の方面への働きが出来ません。
信玄は当年四十八歳、御屋形は三十九歳、老少不定と申しますが、一般的には先ず歳上の方から先立つものです。
そう予想すれば、信玄の果報短くして近年にも死去すれば、たとえ信長家康を味方にしたとしても
上杉家に対して防戦することは出来ないでしょう。

しかしそうならず御当家と信玄が争い続ける状況が続けば、信長はいよいよ切り太り、終に四国中国までも
仕配するでしょう。何故なら上方筋の侍は軽率であり、一城落ちれば前後皆敵を見ずしても、開城し
退くからです。ましてや一、二度遭遇して手痛き目を見ては、後途の鑓にも及びません。

これに対し東国北国では、一度、二度、五度、六度まで攻め詰めようとも、まったく草臥れる事無く、
猶以てそれを餌にして、「命さえ有れば追い返さん」とのみいたします。このため、たとえ小敵であっても、
東国北国では、国郡を取るのに手間がかかります。徳川家康なども、現在は武田北条に接しており、
今後は切り取れる国郡も多くはないでしょうから、これもこの先暫くの間は、信長に対し手を出すことは
出来ないでしょう。

武将の器量を申すなら、徳川家康は抜群に優れていると思います。彼は凌ぎ難き場面を度々見事に
切り抜けています。但し、底意がいささかひねくれており、賤しき弓取りとも見えますが、それも
現在が末世の世でありますから、結果として良き事なのでしょう。
(家康抜群勝れ被申て候。凌き難き處をハ度々見ことに被仕て候。底意に些ひねくりて賤き弓取と見へ
候へとも、夫は今時末の世にて結句能ことにて候。)

信長は大気無欲であるだけで、それ以外はせわしない武将であるので、大身に成れば成るほど、慎み薄く、
無行跡なるあまり、命を全うすること定まらずと見ております。
信長が廃れれば、その後は家康以外には無いでしょう。
ではありますが、これらは皆定まったことではなく、世間に於いて命ある者の穿鑿に過ぎませんので、
二五十(2×5=10ということで、当たり前のこと)、又は二五七(意味は不明)を心得るべきでしょう。」

612 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 04:54:51.68 ID:HS1E561+
これに対し謙信公はこのように仰せになった
「実に言われる通りである。それについて、私はかねてから天下国家に望みはない。また軍の勝負にも
さほどには相構わない。ただ差し当たって致すべき図りから逃げないようにと嗜んでいる。その上で
死なば死ね、生きれば生きよと言っても、侍として生まれた者のうち、誰が生きるために引き下がる
だろうか。
差し当たりの図りという品々も、心得あるべき事だろう。悪く弁ずれば無理非道に落ちてしまう。

細かく申せば、各々ご存知であるので、この謙信の事は申すに及ばずないが、甲州の信玄などの守る所は
全く右のようでは無い。彼はただ仮初にも怪我が無いようにと嗜んでいるように見える。それに従い、
信玄ほど軍を締めて仕る人物は、古今例のないものである。但し、信玄が今まで軍に大きな過ちが
終に無かったのは、人を能く見る将であるからで、侍大将、足軽大将、或いは馬場美濃、真田弾正、
山縣源四郎、春日弾正、内藤修理、小幡山城、甘利備前、飯富兵部、原美濃守、その他勝れて能き者共
多くある故である。それも最も信玄の眼力が強き故であり、合戦に際して自身で下知し手配りをすることは
さほど無い。この者共を左右に置き、相談をして弓箭を締めて丈夫に行う故にあの如くであり、であれば
信玄一代の間は何処であってもきたなき負けは絶えて無いだろう。

信玄の内の者は誰であっても、人を能く遣うものだと思った事は、先年川中島にて、私は信玄の方便を
推量して、彼の意図を手に取るように理解し、この度は手に手を取り組み、雌雄を決しようと思った故に、
荒勝負を心得た者達を多く従えて、信玄旗本の先手である、武田義信の陣に切って入り押し立ったのだが、
この時武田軍の侍は言うに及ばず、雑人下部まで、敵に掛らずに崩れるような者は居なかったのだ。

通常、誰の下であっても一番鑓二番鑓までは持ち堪えても、三番まで耐えられる者は稀であり、四番に至っては
絶えて居ない。これは侍十人のうち五人六人は、敵に押し立てられて敵合いを成さずに崩れるためである。
しかし武田軍はこのようであり、よって何処との戦であっても甲州勢の大崩は有るまじき事なのだ。
味方が崩れなければ結果として敵は崩れ、信玄は軍において怪我をしない。

また北条氏康の家臣の者共の中に名高き侍大将は数多は居らず、彼は武田信玄に比べて人数の取廻しは
抜群に劣る。但し氏康は大度にてせわしくなく、士を慰撫して人を和らげ、大廻しの遠慮を能くしている。
これによって、彼もまた一廉の良将と言うべきである。

この謙信はこれらの名将と、さらに加賀越中衆まで相手に持ちながら、私が他の境は切り取っても、尺地として
我が領地を他より切り取られた事が無い。これは不思議では有るが、又その中に一理ある。

私は、貴坊もご存知のように疎略な人間であり、慎みを知らず、その上愚案短才である。だが果報いみじき
故だろうか、能き人を持った故に、隣国によって侵される事が無い。軍は一弧の業ではなく、人を以て
肝要とする。我が侍、いまここに有る十四人を加え、小身押込以上の四十余人の者達は、恐らく
武田北条家康信長の家臣たちを合わせてその中より勝れた者を選び出したとしても、我が四十余人より
勝れた者は多くはないと思う。尤も、彼らはただ軍陣だけで活躍し、他のことには思慮が浅い、という者達
ではない。氏康や信玄に私が劣っている分、また家来の侍たちに能き者が多いことで、双方の力が引き合い、
今まで彼らと相対することが出来たのだ。

しかし、謙信の人を見る眼力が強いからこのように仕立てることが出来たという訳ではない。私は
気儘な者にて、気の合った者ばかり手元に召し仕ってしまう。故に人物に対する穿鑿も大形である。
だが七人の者共(旗本七手組)は、念を入れて人を選んだ。如何様であれ、心に誠が有れば大外れは
無いものなのだろう。かくの如くである。」そう語られた。
松隣夜話

謙信等の、諸将についての評などについて



613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 05:17:32.84 ID:ilyao2vw
他家の将来について熱く語る前に自分の跡継ぎを決めておこうな

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 06:19:58.64 ID:WzA3eSgy
また斬られるかと思った

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:01:08.70 ID:POWo705j
この時期の記述でもすでに大名は天下取りレースしてて、それに対して謙信は天下取る気がないよって認識が出来上がってるんですね

この辺りはやっぱり二天が併存し得る訳がないとして、当然のように天下を狙い合ってる中華の認識が影響してるんですかね
実際は大名のほぼ皆が天下なんて面倒臭いもの誰も取りたくなかったろうに

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:17:32.61 ID:0RmwJlhl
今の自民次期総理候補と呼ばれている人たちが総理になりたがらないようなものか

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 09:21:33.36 ID:V6+QV004
>>611-612
概ねあたってるのが面白いな

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/08(土) 10:04:30.11 ID:i9AdP1+r
まあ基本的には戦国大名は地方政権確立した人らで
中央政権には干渉されず勢力拡大したい

620 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/08(土) 10:51:35.18 ID:FBTlD/sc
松隣夜話』は越後流軍学の宇佐見勝興の作とされていますが、勝興の経歴の怪しさもよく知られたところです。
世間一般的にこういう認識が広まっていた、広めたネタ元の一つだとでも考えときましょうよ。

永禄五年二月十三日、山根城(騎西城)合戦

2020年02月03日 16:31

783 名前:1/2[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 01:03:13.60 ID:JYHGVG8w
>>776の続き
上杉謙信は再び太田三楽を呼び出すとこのように言った
「私がここまで遥々出てきた以上、敵と手を合わせずに帰ることは出来ない。しかし利根川の北条・武田の
陣に掛かれば、信玄は工夫の深い人物でもあり、また手を詰めたような合戦に成り難しい。
そこでこの近辺に、氏康の要害は無いか?」

そう尋ねられたのを三楽承り
「山根城と申す所が、奥へ下道を四里の場所にあります。これは氏康秘蔵の要害であり、ここには忍の
成田の弟である小田助三郎、長野対馬守を置かれています。

ただし悪いことに、そこに行くには武田北条の両陣の前を遥々と奥へ通らねばなりません。
またそこを突破し要害を攻めることが出来たとしても、この城主は氏康奥筋の先手を任された
老功の者であり、千五百の人数が堅くこれを守っています。
前には城堅くして雌雄が決せられない内に、武田北条両旗にて押し懸られては甚だ危うい御軍となって
しまいます。
さらに、仮にこの城が手に入ったとしても、遠国の事でありますから保持は諦め乗り捨てにするより他に
道はなく、このような無益の場所の攻略に、腹心に等しい配下の大功の武士達を損ずるというのは、
御手違いであると存じ奉ります。これについて直江殿、宇佐美殿は如何お計らいに成るでしょうか?」

そう申した所、謙信はまた気色を損じられ、諸老の異見も窺われず
「謙信が守る所はそれではない!」
と、直ぐに須田という者を野根川の北条武田の両陣に使いに立て、このように伝えた

『輝虎は松山後詰めのため、ここまで罷り出てきたのであるが、早速に落城していた上は是非に及ばず、
あなた方も定めて、たぎらぬ振る舞いであると思し召しになっているだろう。恥じ入るばかりであり、
このままで罷り帰るというのは、両御旗に対し弓箭の無礼であると存じる。
そこで、氏康公秘蔵の要害と承る山根を明日押し破るつもりである。
その事無用と思し召すならば、両旗にて如何様にもこれを妨げられるように。』

そして利根川の品木の渡しに船橋を掛けさせ、押し渡って後に綱を切って船橋を流し、越後勢に太田三楽勢が
加わりその勢一万余騎にて武田北条陣の前、九町ばかりの傍を押し通り、山根城へと攻め寄せた。
この時太田三楽は内々に、『今度の戦いは他に譲ることは出来ない。』と考え、謙信に対したって先陣を乞い、
自身の軍勢二千に対し「我らの内一人でも生きている間は、越後衆に太刀を抜かせてはならない!」と
手の者達を励まし下知した。

この時の謙信の備にて定められた城攻め先鋒の面々は、西の手に大田三楽二千、南は柿崎和泉守、北條丹後
二千六百、東は直江山城守、河田豊前あわせて二千、御旗本は甘粕近江、長尾小四郎、中條五郎右衛門、
竹股勘解由、赤輪新介等であった。

謙信は諸将に会し「今度は無理に各々の一命をこの輝虎が所望申す。城攻めの方法は、私が下知を加えるに
及ばない。ただ荒攻めに仕るように。私はこれよりそれを見物する。もし武田北条による後詰めの有った時は、
本陣の合図に従ってこのように備を立てるように。」
そう言うと絵図を出した。

一方の山根城中はそのような事を全く知らず、矢倉にいた侍が小田助三郎の役所に来て「利根川の方より
馬煙夥しく見え、それが次第に近づいています。氏康公が奥筋に御手使されるのでしょうか?」と報告した。
これを聞いて小田助三郎も覚束なく、長野対馬守を伴って矢倉に上がりこれを見た。しかし両将としては、

「利根川に陣している軍門の前を押し通り、敵が通るはずもない。近国には上杉輝虎と太田三楽以外に
敵は無い。そして輝虎と三楽は松山城の後詰めのため昨日より前橋に到着したと聞いたが、松山城が
落ちた以上今日には定めて帰陣するはずである。
もし又、謙信が誤って奥筋に手勢を使わしたとしても、両将があのように居られるのだから、どうして
一戦もなく通るだろうか。

ではあるが又、味方であるとも見えない。大物見をかけよう。」

そして小田小四郎及び与力同心五十騎を引き連れ、自ら物見に出て七、八町西にあたる円山峠に乗り上げた所で、
太田三楽の先手である渋谷の一手が三百ばかりにて、険しい山の峰をつらぬいて攻め寄せてきた所に行き逢った。
双方は衝突し鑓を合わせ、一足も退かず各々の敵に当たり、そして物見の兵士は一人も残らずこの丸山にて
討ち死にし果てた。小田は太田の家来、深川修理という者に討たれ首を与えた。

784 名前:2/2[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 01:03:50.11 ID:JYHGVG8w
長野対馬守は小田の便りを今か今かと待っていた所に、丸山の辺りに鉄砲の音が聞こえ、誰かは解らぬが
その勢二千ばかりが攻め懸けて小田の配下の者達を追い来たる、急いで対処せねばと判断した所に、
また南の山手より、銀の吹き流し矢筈の指物数多指した一備、馬煙を挙げて近づいてきた。長野は大いに
驚き手分けをして各持ち口に馳せ合わせようとしたが。混乱し騒動したため下知も届かず、長野対馬守
歯噛みをして「口惜しや!利根川の腰抜けたる味方を頼りとし不覚の死を遂げるものかな!」と言い捨て、
西の門を破って敵勢に乱入し、太田勢に馳せ向かうと、与力同心一四、五人共々暫く戦い、東を顧みると
北條・柿崎両手の馬印が早くも本丸に迫っていた。河田組、直江組もそれに続いて攻め入り、その中でも
太田勢は西の川の手より険しい山を一息に攻め上り外郭を破り、二の曲輪の門際まで切り行ったが、
長野対馬守が隙無く防戦したことで本丸への侵入を許さなかった。しかしながら城兵たちは敵より
あまりに強く攻められたために足を立てることも出来ず、明いていた北の方向に推しなだれた。

これを見て長野対馬守は同心の由良五六を近づけ、「御辺は早々に本丸へ入り、小田と我が妻子たちを
下知してよきに計らってほしい。郎従たちも残っているはずなので、きっと未だ事を果たすこと出来ると
推量している。どうか、頼み入り候。」

そう伝えると五六も委細相心得、「御心安く御戦死遊ばし候へ、それがしは御子息たちの御供を仕り、
直ぐに追いつき参るでしょう。」と申して立ち別れ、主従四人にて本丸役所へ入り、長野と小田の
妻子に自害をさせると、五六自身もその場で自害した。
長野対馬守は「この城を辛労してどうにか守っているが、一体いつまで保てるものか。この上は
心ゆくまで打ち合おう。」と、三楽の旗本に斬って掛かり、比類なき働きをして。父子主従、
十七人が一所にて討ち死にした。

こうして、直江山城、河田豊前、柿崎和泉、北條丹後、太田三楽ら三方より同時に乗り入れ、謙信公の
下知に任せ、老若男女、僧俗を分けず当たるを幸いに突き伏せ斬り倒した。
こうして謙信公の諸勢は過半が城に乗り入れた。この時御旗本より、竹股勘解由、本庄清七の組、合わせて
六百ばかりを別けて北の方に廻し鉄砲を以て逃げ出す者を撃った。このため助かる者は、百人のうち
一、二も有ること稀であった。

城中に籠もった者達は北条家に於いて度々武辺仕る、戦いに馴れたる勇士たちであったのだが、鉄砲を二打と
快く放つ者も無いほど、三方の寄手が急に攻めて刹那の間に乗り入れたのである。

謙信公は丸山よりこの様子を終始見られ、「侍は勿論の事、雑人下部まで一様に身命を塵とも思わぬ
働き、見事である。」と、度々称賛された。

辰の刻(午前8時ころ)に取り合い始まり、午の刻(午後12時ころ)に乗っ取った。今回、山根城において
死んだ者は、上下、男女、僧俗、童、おおよそ二千六百であった。
寄手で死んだ者は三百七十五人、手負い五百人であった。

事終わって直ぐに諸手を丸山に引き入れ、腰兵糧を使わせて人馬を休ませ、城は乗り捨てにして
また元の道を帰り、利根川下の瀬の渡り前橋へ入った。
永禄五年二月十三日、山根城合戦とは、これのことである。

松隣夜話



785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 01:10:21.16 ID:77IM5cvd
このキャラ付けが何がどうなって義のひとに味付けされたんだろ

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 02:36:28.59 ID:/IgTbzXx
撫で斬りから3文字脱落したんだろう

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 08:30:00.80 ID:S5bz4vh3
>>784
ここまでやったのに
>城は乗り捨てにしてまた元の道を帰り
災害かな?

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 14:19:52.48 ID:4Cy1SCXO
松隣夜話だからといえばそれまでだけど
直江景綱の官途名混同してるな

>>787
松山城後詰に失敗した意趣晴らし100%の城攻めだから
武威を示すために残虐になるし
災害以外の何者でも無いわな

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 19:17:18.00 ID:HwF5Po/z
城攻めなのに寄せ手の被害のほうが圧倒的に少ないのは、流石というかなんというか。

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 22:05:21.49 ID:TG2SWWxN
信長「謙信って残虐だよな」

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/03(月) 22:17:06.28 ID:/IgTbzXx
史実かはともかく、上杉謙信なるものがこういう人だと考えられてたわけだよな

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/04(火) 12:03:52.95 ID:T1G3qkQP
人質の童子を寝所に連れてって夜伽をさせるのかと思ったら処刑かよ
きっと兄弟ともにブサイクだったんだな

虎口に死を免れた心地にて

2020年02月02日 16:04

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 04:00:17.37 ID:3/dAnLfC
永禄五年正月、北条氏康武田信玄へ使者を以て依頼をした。

『武州松山の城は以前より氏康持分の所であるが、それを去年、太田三楽(資正)が越後の柿崎と合わさって、
量らずもこれを乗っ取られてしまった。松山は東国の固めであるため、それ以降奥筋近国の手使が心のままに
叶わなくなった。であるので、この氏康は近日人数を出してかの城を取り返しいたいと考えている。
そういう事なので、三楽は必ず越後に後詰めを頼り、上杉謙信を引き出す事疑いない。今回は必ずかの城を
奪回するつもりなので、信玄公には氏康の警護をしていただきたい。松山城を取り返し、武州を押さえ
治めることが出来れば、以前の如く節々の御不祥の義を申し入れるような事は無くなるであろう。』

武田信玄はこれを了承し、甲州並びに信州に陣触れされ、二月下旬に信玄、嫡子義信一万八千余騎にて
武州に発向された。北条は氏康、嫡子氏政、その弟源蔵(氏照)の二万八千余騎、両家合わせてその勢
四万六千余騎が松山城を取り囲み、昼夜をいとわず攻めた。武田勢の内、甘利左衛門の与力・米倉丹後が、
竹束と言うものを用意して城に寄せた。諸手攻め近づいたため、城内からの火砲による抵抗もさほど威力を
発揮せず、籠城の兵士たちも気力を失った。城代の上杉友貞(上杉憲勝)も軍卒も、粉骨を尽くし難く、
武田北条は五万に及ぶ大軍で間断なく攻めたため、防戦の術も尽きて二月十日、上杉憲勝は降伏し、
城を明け渡した。

太田三楽はこれ以前に、越後に使いを出して、上杉謙信が出陣する旨の返答を得ていた。これによって
後三日も城が持ちこたえれば難なく寄せ手を追い払うこと疑いなしと思っていた所に、存外の急な落城であり、
臍を噛んで前橋まで出向き、謙信の到着を待った。

北条氏康武田信玄は、謙信が出陣してくることを上杉憲勝が白状したため、これを聞いて両軍山を
後ろにし、利根川を前に立てて鳥雲の陣を成した。

謙信はそれから二日して、八千騎にて前橋に到着し、太田三楽に対面すると激怒した
「これほどの不覚人に要害を預け、この謙信を引き出し手間を取らせ恥をかかせたこと、甚だ奇怪である!
こんな事ならば三楽を討ち果たす!」
と、刀に手をかけ、その場で三楽を手打ちにしようとする様子であった。これに三楽は騒がず、静かに
申し上げた

「仰せ、誠に尤もであります。しかしながら上杉(憲政)殿御浪人以来、それがし程の小身にて氏康の
大身の持分に挟まれ、今まで滅びること無く居られたのは、全く他でもなく、偏に謙信公の弓箭のお陰です。
ですので今回に限らず、何時であっても氏康信玄の大軍に仕掛けられてしまっては、それがしの二千三千の
兵では、たとえ呉氏孫氏の術を得ていたとしても手に及ばぬ事であり、何度でもお助けを待ち奉るしか方法は
ありません。
である以上、この三楽がたとえ禽獣であったとしても、どうして川の流れを酌んで、その水源を枯らすような
事をするでしょうか?

上杉憲勝は多年私の手について、武蔵上野所々の働きを任せてきましたが、終に不覚を取ったことは
ありませんでした。また三楽の重恩を以て全う仕る者でありました。ですのでこのような事が有り得るとは
考えなかったのです。それはそれがしの愚昧の成す所なのでしょう。是非に及びません。

籠城にあたって弓箭、鉄砲、弾薬、兵粮等は、ともかくも半年は不足の無いよう覚悟を仕っていました。
また今回のあまりの事態に、人質に取っていた、上杉憲勝の弟と実子をここに召し連れてきています。
これらをどうぞご覧になってください。」
そう言って兵粮弾薬の注文表と、上杉憲勝の子弟を御目にかけた。

謙信は立ち上がると、二人の童子の長い髪を左手に握り、中に提げると、右手にて即座に刀を抜き両人を
一打ちに四つに斬って投げ捨て、気を直し酒を出させ、一つ召すと、これを三楽に指し与えた。
三楽は『少しでも躊躇しては良くない』と思い、差し寄って一つ傾け、その上で側より引き取り、虎口に
死を免れた心地にて息をついだという。

松隣夜話

続き
永禄五年二月十三日、山根城(騎西城)合戦


777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 12:07:25.19 ID:aJsksDuw
野蛮にも程がある

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 12:18:51.87 ID:JORXOmS3
>>776
>二人の童子の長い髪を左手に握り、中に提げると、右手にて即座に刀を抜き両人を
>一打ちに四つに斬って投げ捨て、気を直し酒を出させ、
漫画のラスボスかよw

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 14:19:38.57 ID:v9fR+9K+
ヴィンランド・サガの初期にありそうな展開

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 17:10:21.74 ID:TaRyTcHC
岩明均の「雪の峠」にそのまま出てくる話だな

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 17:29:37.77 ID:aroExui4
歴史漫画に便乗して
センゴクのプーチン謙信なら普通にやりそう、だと思った

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/02(日) 22:49:38.55 ID:bEQuBdMs
イスラム国の処刑人でも真似できないだろ?

将至って剛きは則ち士必ず応じず

2020年01月31日 17:01

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 03:24:15.61 ID:97HhbuUN
永禄三年三月上旬、越後の管領・輝虎入道謙信公は。近衛公(近衛前久)を大将とし、一万六千にて
北越を御進発され、北条氏康の旗下となっていた上州平井へ御馬を進められた。
上杉勢の先方は、荻谷太郎左衛門の木澤城を押さえ、小幡日向守の居城である高津に取り詰め、
一日の内に攻め破り、女童まで一人も残らず、千余人を斬り捨てにした。その足で直ぐに木澤城に
押し寄せ攻めようとすると、この勢いに堪らず、荻谷太郎左衛門は降参し人質を出して幕下となった。

太田三楽は三千余騎にて武州より駆け付け、先陣を給わり、上州の要害あるいは居城のうち、
味方に参らない者達を、一城も残さず三日の内に攻め破り、当年に生まれた幼児まで斬り捨てにした。
これによって、その聞こえは甚だしく、龍のように天に響き、関八州は申すに及ばず、北国、南海、
京上方までその勇鋭に怖れない者は無かった。

その威に伏し、小幡、大石、見田、白倉、忍、荻谷、藤田、長尾、三浦、岡崎、宗龍寺、那須、清黨の
上杉家の諸侯馳せ集まったため、二日の内に軍勢は七万余騎となった。これにより軍勢は平井の陣所から
あふれ、唐坂口まで充満した。

翌日より総軍を進め、太田三楽を魁首として小田原へ押し詰め、蓮池まで乱入した。そのような中、
所々で取り合いが有ったが、謙信は毎回二の手より駆け出し、初対面となる東国武士の心も知らず、
諸手へ乗り入れ兜も被らず、白き布にて頭を包み、朱の采幣を取って下知を成し、その人を虫とも思わぬ
振り廻しを見て、諸将は大いに恐れをなした。

「たとえ彼がいかなる良将であったとしても、この人を主と頼んでは、自分たちの首の斬られる事疑いない。」
(假令如何なる良将にてもおわせ此人を主と頼なハ首の切れん事無疑)

そう思って困り果てない者は居なかった。『将至って剛きは則ち士必ず応じず』という兵法の言葉は
この事なのであろう。

(松隣夜話)

上杉謙信が怖すぎて、関東武士のみなさん、却って謙信の下に付きたく無くなってしまったというお話。



763 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 07:50:57.04 ID:2p182VAP
成田長泰が下馬しなかったから烏帽子打ち落とした話までは書いてないか

764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 22:38:35.43 ID:LRiK7arZ
そもそも不識庵が義の武将なんて嘘のイメージを作ったの誰なんだろうな

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/31(金) 23:48:48.17 ID:Q1L6WlMm
>>764
比較対象が信玄なら、謙信ですら義将になるってことかも…

太田三楽斎追放

2019年10月10日 17:01

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/10(木) 12:42:52.59 ID:6oB8WiqO
永禄六年五月、小田原の北条氏康太清軒は、法華の僧を使いとして岩付城へ赴かせ、太田三楽斎(資正)に
このように伝えた

「この正月、国府台の合戦で思わず我等が勝利したが、これも弓矢を取る身の運不運である。
敵と味方に別れるのも時の勢いであろうが、もし今和睦をしても良いと言うなら、嫡子源五郎(氏資)に
家督を譲り、隠居されたい。そのようにして老後を心置きなく過ごされるおつもりなら、我が子氏政の
妹を源五郎に娶せ、自分がその後ろ盾と成り長く岩槻の社稷を守るであろう。」

そのように言い、それも二度までも使いが来た。その裏には、もし同心しないというのであればこちらにも
覚悟がある、という脅しの意味も含まれていた。

三楽斎も利口な男であったのでそのくらいの事は理解していた。しかし長年の兵乱に勢力は尽き果て、
この正月の合戦で兵の消耗も甚だしく、要害でもない平城でどれほど持ちこたえられるか先は知れており、
ここは一番和睦し、後日に事を謀ることが肝要であると、多年の宿意である上杉への肩入れを打ち切り、
小田原の意に従うことを決心した。

この事を伝えられた氏康・氏政父子は大いに喜び、すぐに吉日を選んで娘を岩槻へ送り、婚姻の式を挙げ、
千鶴万亀の祝をして、両家の昵懇はこの上なくまとまった。実に無意味な事である。

それからしばらく後、氏康は婿となった源五郎氏資に、垣岡越後守、春日摂津守などという太田家の
奉行職と相談させ、野州小山城、長沼城攻めを開始させた。しかしそれは氏康の策で、彼等を両城に
出陣させた後で、不意に岩付城を襲おうという密計であった。

三楽斎はその事に気づいており、またもとよりそのくらいの事は有ると思っていたので別に驚く事もなく、
何食わぬ顔で、密かに妾腹の子である梶原源太左衛門政景を招き、その場合に打つ手を色々と相談して、
政景に川崎赤次郎を添えて盟友である佐竹義昭(実際には義重 )の元に行かせ、自分は浜野修理介を
連れて、これも盟約の有る宇都宮三郎左衛門広綱の元へ向かった。

しかしこの事をすぐ、氏資に付いていた垣岡、春日が小田原に伝えた、氏政は早速太田大膳亮に兵二百騎を
付けて岩付城へ向かわせた。大膳亮はまたたく間に外郭を固めて二度と三楽斎を城に入れなかった。

ここにおいて三楽斎と梶原政景は浪々の身となり、政景のみは、弟の新六郎とともに佐竹に寄宿する
事となった。三楽斎はそのまま武州忍城の成田左馬助氏長を頼った。氏長は三楽斎の娘婿である。

ああ、世に前管領上杉憲政の旧臣は多いが、その中でも太田三楽斎と長野佐衛門大輔業正ほど
無二の忠誠を尽くし、上杉家の再興のため心を尽くした者があろうか。であるのに、時に利非ずとはいえ、
業正は箕輪にて討ち死にし(実際には病死)、三楽斎は今流浪の身となった。そして北条の武威のみが
したり顔となったのは皮肉なことである。

(関八州古戦録)

北条の謀略というより太田三楽斎が策に溺れた感強いな。



501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/10(木) 23:56:01.31 ID:wCzp0YSp
太田資正って、扇谷上杉ならともかく、上杉憲政の臣下だって意識あったんだろうか
扇谷上杉壊滅後は北条(古河公方)家臣で、謙信越山以降は独立路線でやってるよね

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 08:34:36.97 ID:ZngsXh4S
>>501
越相一和後の行動は完全に独立勢力でそ。

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/11(金) 15:33:46.50 ID:tAqYfxfy
>>500
策に溺れたというより、身の危険を察して逃げたというべき
養父、義父が婿に討たれるなんてのはよくある話
北畠具教や宇都宮鎮房をみよ

その発する心を奪いたくありません

2019年10月07日 16:17

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 10:32:47.96 ID:pgNXkZXb
第二次国府台合戦の時の事

江戸城の遠山丹波守直景、葛西城の富永四郎左衛門政家は、北条氏康配下の剛勇の者と知られており、
大敵が眼前に現れたというのに人の助けを借りては屍の上の恥辱であると、取るものもとりあえず、
ありあわせの人数を率いて、遠山は行徳筋、富永は小松川筋から駆け出したが、氏康の下知も受けずに
先陣を切っては後の聞こえもどうかと思い、福島、松田の陣へ使者を走らせ存念を述べた所、

「いかにも武人の本意黙し難し。その意に任せ、存分に働け。」

と返答された。

しかしながら北条氏政の陣では、氏照、松田父子が不満で「今しばらく考えてから返事をするべきで
あった。」と言った。北条綱成はこれを聞くと笑っていった。

「身、不詳ながら軍勢を指揮する命を受けた以上は私の一存を通します。これまで松田殿や
この綱成が先駆けするのは珍しいことではなく、今後もまた先駆けして手柄も立てることでしょう。
しかし、戦いに臨む最大の目的は勝つことであり、自分の功名手柄はその次の目的です。
まして里見、大田の二将は関東に於いては一、二を争う大敵です。遠山、富永の両名も当家誉れの
大将ですから、互いに眼前の敵を見ては、これを止めることは出来ません。
先陣を望むからには、遠山、富永も生涯をかけての粉骨を決意しているのでしょう。

いやしくもこの綱成、その発する心を奪いたくありません。」

そう諭すと、氏照も松田もその気持ちが解ったのか、重ねての言葉は返さなかった。

(関八州古戦録)



257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/07(月) 20:09:07.74 ID:xQy0MzwH
綱成かっこよすぎる
氏照と松田さんも良いね

北条氏、その親類一党の栄え

2019年10月05日 16:18

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 13:36:55.68 ID:MS3gurir
北条氏康はこの年(永禄二年)、四六歳であったが、六月下旬に隠居剃髪して万松軒(実際には太清軒)と
号した。病により任に耐えず、という事であったが、別して病身という訳ではなく、この春に自分よりも
ずっと若い上杉輝虎のために城門を馬蹄で踏み荒らされながら一戦も交えず、弓矢の面目を失ったことを
とかく世間に取り沙汰されたのを恥じての隠居であった。

嫡子相模守氏政は二十三歳であり、家督を受け継ぎ国務を司った。

次男由井源三氏照はもともと朝日将軍木曽義仲の後胤である大石源左衛門定久が、前管領家に背いて
小田原に降った時、氏康から婿養子に貰い受け、自分の高麗郡滝山の城を譲ったのである。
以後自身は入道して道俊と号した。実子は在ったが幼少であったので共に戸倉に蟄居した。
その時氏照は由井の名字を捨てて大石陸奥守と名乗った、その頃一度、滝山という所に居城を持ったが、
滝は落ちるので落城に通ずると、同郡八王子に新城を築いて移ったのである。氏照は多くの兄弟の中で
特に父母へ孝順の人であった。

三男新太郎氏邦は書道に優れ、後に安房守と号した、これも前管領家の旧臣藤田右衛門佐邦房が養子として、
武州秩父郡岩田の天神山の城を与え、自身は実子の虎寿丸と共に榛沢郡用土という所に退去していた。
(上杉)輝虎がはじめて関東へ越山した頃、氏康に仕え用土新左衛門と言ったが、今は沼田の城代となり
虎寿丸は後に藤田能登守信吉といった。
新太郎氏邦は初め秩父領横瀬の根小屋に城地を構えていたが、あまりに人里離れて万事不自由であったので、
男衾郡鉢形へ移った。この城は太田道灌の築いた要害であるが、甲州、越後の敵が近寄る機会が多く、
常に小田原から三百騎を援兵に差し出し、榛沢のあたりに新関を設けて、山上には常に見張りを
絶やすことの出来ない城であった。

四男助五郎氏規は美濃守と号し、豆州韮山の城主である。

五男新四郎氏忠は乗馬の名手で、後に左衛門佐と号し、相州足柄の城を守っていたが、佐野家の名跡を
受けて、後に野州由良へ移った。

六男竹王丸氏尭は鉄砲の手練で、後に右衛門佐と号し、武州小机の城主である。

七男七郎氏秀は後に武田三郎と号し、輝虎の養子と成って北越へ行った後は、上杉三郎景虎と称した、

その他に女子が六人あって、藤田の吉良左兵衛佐頼久、北条常陸守氏繁、今川刑部大輔氏真、千葉介邦胤、
武田大膳大夫勝頼、太田源五郎氏資などの室になっている。

早雲庵宗瑞、新九郎氏綱、左京大夫氏康と三代続いただけで枝葉が繁り、その親類一党の栄えを
うらやまない者はなかった。

(関八州古戦録)

氏康隠居の頃の小田原北条氏の繁栄について。現在の研究水準とは異なる内容も含まれています。
北条氏尭は氏康の弟であると考えられていますし、氏忠はその氏尭の子の可能性が高いとされています。
また氏規のほうが氏邦の三歳兄であった事が近年指摘されるなどしていますね。
ともかくも北条氏一族についてこのような印象を持たれていた、という記事です。



254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 16:13:02.58 ID:n7af26vk
>>252
関係ないけど武士って木に例えられるよね
民は草なのと対照的

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 20:44:43.34 ID:McdmRo5l
まあ位置関係からしたら合ってるかと