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神流川の戦い二日目

2018年10月12日 20:16

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 19:18:19.04 ID:fnyKwghu
(神流川の戦いの時)

北条方は先手の敗北により二陣を差し向け、滝川一益はこれを迎え撃たんと逞兵3千余人が神奈川(神流川)を
背に敵を待ち受けた。北条勢は尽く坂東生まれの馬達者であり「上方の小勢何程のものか! ただ蹴り散らして
捨てよ!」とまっしぐらに打って掛かる。

滝川方は小勢といえど死を覚悟した者どもなれば、掛かりに掛かって息をもつがず喚き叫んで苦戦した。そこで
北条勢は偽って走り、小勢を真ん中に引き込んで包み討ち取らんとわざと逃げ走ったが、あまりに激しく追い

立てられ思いのほか討たれる者少なからず、滝川方は後陣の備になだれ掛かり氏直の本陣までも友崩れして逃げ
ようとした。そこへ冑山の方に陣を取っている総大将・氏政の先陣・伊勢備中守貞宗や芳賀伯耆守正綱を始め

1万余騎が北条美濃守氏親を先手の部将として神奈川を馳せ渡り、滝川勢の後脇から例の騎馬達者の坂東武士が
鬨を作って馳せ立てた。滝川儀太夫(益氏)始め津田・岩田・粟田・太田などの逞兵どもは、堅を破り鋭を砕き

奮戦するもついに駆け負けて敗走した。この時、一益は大声を揚げて「死生命あり! 運は天にあり! 坂東武者
との合戦は今日が始めなるぞ! 卑屈な振舞いで織田殿(信長)の御名を汚すな! ただ引き組んで討死せよ!」

と命じ、津田・粟田・太田などの勇士どもは「仰せになるまでもなく!」と馬の鼻を引き返して3千余人は大山
の崩れるが如く馳せ掛かる。北条方は大勢なのでひしひしと取り籠めて討ち取らんとするのを、破っては通り

取っては返し奮戦するも、氏親は胸に孫呉の兵法を蓄えた勇略無双の名士である。氏親は正兵・奇兵を入れ替え
攻め戦う。折しも氏直本陣もまた盛り返して大軍が左右より激しく攻め立て、一益も既に危うく見えたところで

津田治右衛門・同八郎五郎・同修理亮・岩田平蔵・同市右衛門・粟田金右衛門・太田五右衛門・篠岡伊右衛門を
始めとして屈強の滝川勢5百余騎が討死し、その他手負いも多いので一益は後陣の上野衆に使いを立てて、

「各々の合力あらば再戦して運の程を試みたい」と申したが、上野衆は「今朝の合戦に疲れ、そのうえ手負いも
多いので今日の再戦は御免蒙るべし」と申し、一益は今は力なく厩橋城に引き返した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』


神流川の戦い一日目
神流川の戦い、戦後
298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 19:39:04.99 ID:fnyKwghu
>>297
“北条美濃守氏親”は原文ママですが氏規でしょう




299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:26:57.76 ID:X89uqhYO
>>296
大筋は関八州古戦禄あたりと同じだけど、細かいところは違うね。

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:35:21.71 ID:mhQerXtd
>>297
かなりの激戦なのにあまり有名でないような。大河ドラマ花の慶次に期待か。

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:37:00.47 ID:FSB7uYKJ
ドラマ的に言えばこれは勝つ!と思わせるシーン満載な滝川軍が
結局負けちゃう話だからなぁ…

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 23:20:55.14 ID:F7zdw75u
>>298
親と規って崩すと区別つかんもんな
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神流川の戦い一日目

2018年10月11日 13:08

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 03:10:10.73 ID:CX/7Sqex
小田原では北条氏政父子が織田殿横死と聞いて大いに喜び、天運時至れりと大軍を催した。大手の大将・
新九郎氏直は富田・石神の方から軍を進め本庄に旗を立てた。御陣は左京大夫氏政3万余騎が松山筋より

武蔵吉見山・冑山辺りを本陣として先手は神奈川(神流川)・烏川辺りに軍を進める。父子は大手・搦手
に向かって総勢5万余騎が6月18日、本庄に着陣す。氏政の弟の武蔵小衾郡鉢形城主・北条安房守氏邦

は血気の若者であった。氏邦は「滝川勢は信長父子が横死して上方騒動の沙汰を聞き将卒とも心は臆して
はかばかしい合戦はできまい。上野・武蔵の輩は余儀なく滝川に一味するといえど真実身命にかえて働く

はずはない。一益は鬼神であるとも頼むところは手勢だけで何程のものか! 今追い討ちして高名せん!」
とその勢5千騎ほどが陣列を離れ馬を馳せたのだった。滝川一益は滝川彦四郎法忠(忠征)に2百余人を

添え厩橋城を守らせ、津田小平次長興・稲田九蔵に8千余兵を添え松枝城を守らせ、自身は1万8千余兵
を連れて武蔵・上野の境の神奈川・烏川の辺り金窪の台に陣を張る。上野衆の小幡・内藤・和田・由良・
安中・深谷・成田・上田・高山・木部・長尾・真田らが所望して先陣に進んだところ、北条方は氏邦が

血気にはやり敵を大いに見侮った。前後を見定めず鬨を揚げ打って掛かるが、上野衆は武田信玄・勝頼に
属して軍旅に老練した者共どもである。少しも騒がず馬の鼻先を魚鱗に並べ敵が来るのを待ち受けた。

半町ほどに軽卒どもを先に立て、矢砲を激しく放って先駆けの北条勢数十人を打ち倒し、馬の足がしどろ
もどろになるのを見澄まして、大風の発するが如く馳せ掛かり突き立てた。頃は天正10年(1582)

6月19日、草木も動かぬ炎天に具足を着て息を揉み馳せ合ったために、流れる汗は目口に入って太刀の
打ち所も定かならず。北条方は石田大学・保坂大炊助を始め屈強の者ども2百余人が討死し、上野衆も

佐伯伊賀守を始め180人ほどが討死し、互いに多くの手負いを出した。北条方はほうほうで八幡山の方
へ引き取ったので、上野衆も烏川の水辺に集まり暑気を凌いで馬の足を冷やしていた。北条方は先手の

敗軍を見て新九郎が大いに怒って命じ、二陣の松田・大道寺を始め雲霞の如く深谷の方から打ち出でた。
一益がこれを見て、「今度は一益が一戦して雌雄を決する! 上野衆は後より続かれよ!」と先に進めば、

滝川儀太夫(益氏)・津田治右衛門・同八郎五郎・同修理・稲生対馬・富田喜太郎・牧野伝蔵(成里)・
谷崎忠右衛門・粟田金右衛門・日置文右衛門・岩田市右衛門・同平蔵・太田五右衛門以下逞兵3千余人が
神奈川を後ろにあてて玉村の方に向かって座備を設け敵を待った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』

神流川の戦い二日目
神流川の戦い、戦後


滝川今の一言天晴な盟主

2018年10月10日 19:34

333 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 15:45:26.22 ID:87+YFNsB
滝川左近将監一益は織田殿の仰せを受けて関東を管領し、上野厩橋城にあって威名は奥羽までも輝いた。
そこに6月7日の晩景、京都から杉山小介貞次が急使として来たり、織田殿父子横死の次第を告げた。
一益は大いに驚きしばし黙然として伏せ沈んでいたが、ややあって篠岡平右衛門、津田治右衛門、滝川
儀太夫(益氏)の三臣を呼びその事を告げた。義太夫はこれを承り、「これは天下の大事なり。

しばらく隠密に秘せられるのがしかるべきでは」と言った。一益は聞いて、「汝が申すことも一理ある。
しかしながら“好事門を出でず。悪事千里を走る”という諺のようにこれは隠しても一両日も過ぎずに
知られるだろう。他人の口から洩れる時はかえって衆人の疑念を生じ、国中は騒動するであろう。私は

関東所属の諸将を尽く招いてこの事を披露し、これまで預かっていた人質をも返して自身は一刻も早く
上洛し、運を天に任せて亡君の仇を報じる。もし上野の諸将がこの虚に乗じ私を食い止めて討ち取らん
とするならば、それも時節である。一戦して討死するのも義のあたるところ、なんぞ命を惜しまんや。

もしまた諸将が志を変じずに味方すると言うなら、小田原の北条へ使者を立てて北条父子を引き出して
一戦を遂げ、その勝ち負けに構わずに一益は上洛して亡君の弔い合戦をする」と言うと、上野・武蔵の
諸将へ「急いで面議することがあるので早々に参着するべし」と通達した。よって内藤大和守秋宣・

小幡上総介信真・同三河守信尚・長尾但馬守顕長・由良信濃守国繁・真田安房守昌幸・蘆田深谷左兵衛
憲盛・本庄安中越中守・成田下総守氏長・木部宮内定利・上田又次郎入道安独斎・和田右衛門大夫信業・
渋川相模守氏勝・高山遠江守重光・名和対馬守宗元・倉賀野淡路守秀景・五閑刑部らを始めとして、

上野・武蔵の諸将はみな厩橋へと集まった。一益は諸将と対面して、「今度上方で不慮の大変があった。
明智光秀が叛逆して信長御父子は討たれさせ給うとの由の注進があり、一益は急ぎ上洛して亡君の弔い
合戦をせんとす。各々の人質は箕輪城に入れ置いたが尽く返し参らす。各々はこの弊害に乗じて

一益を討ち、それを手柄に北条へ降参せんとするならば只今ただちに一戦して一益の首を進上すべし!
もしまた信義を守り旧約を変ぜず、私めの下知に従わんと思いなさるならば、只今より小田原へ使いを
立てて『厩橋を渡すので北条父子は出馬なされよ。一戦して一益は上洛することであろう』と申し遣わ
すべし!」と言い捨てて奥に入った。その後、諸将は寄り集まって評議し内藤と小幡が一番に進み出て

申したことには、「滝川の今の一言は天晴な盟主と見え、義勇現れしものと覚える。かような事の大切
を少しも包み隠す様子もなく、まっすぐに申し出して我々の人質を返さんと言われては我々はどうして
不義の振舞いができよう。ただ一筋に同意して死生を共にする他ない!」と言い、諸将ももっともだと

これに応じた。その旨を滝川儀太夫を取り次いで返答すると、一益は聞いて再び諸将に対面し「各々の
義信、誠に感悦するところなり。一益は主君の弔い合戦を急ぐといえど上方近くに信雄・信孝の御兄弟
がおられ、柴田や丹羽など譜代の歴々が数多いるゆえ賊臣・光秀が誅に伏すのは一益の上洛を待たない

だろう。ここに北条氏政という表裏者は、信長公御父子が討たれ給うと聞けば早速旧盟を変改し、この
弊害を幸いと一益を討ち取る謀を巡らすのは必定だ。敵に先を取られる前にこちらから小田原へ使者を
遣わし、厩橋を渡すと申し送れば氏政父子は早々に出馬することだろう。その時に一戦して上洛するか、
一益が討死するか、運は天に任すべきと思うがいかがか」と言った。諸将は聞いて「仰せもっとも義の

当たるところ、誰が否と申しましょう」と返答した。よって同じく11日に蔵田小次郎を使者として
小田原へ遣わし、翌12日に小田原へ参りその旨演説すると氏政父子は「これ天運の賜物」と大いに
喜び「早々に出馬して受け取る」と答えた。小次郎が馳せ帰りかくと申せば一益は「そうだと思った。
この上は運の程を試すとしよう」と言って用意した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』



334 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:13:28.21 ID:CHjRchcL
ええ話というかどこか要領の悪さを感じるな
織田家臣団の中で秀吉や光秀と熾烈な出世競争してきたタマとは思えない
しかも散々こねくり回して負けとるやないか

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 20:17:47.85 ID:dpeX0mQH
>>333
ここまではカッコイイんだよなぁ…。

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 21:19:47.68 ID:YIy1byHU
坂井政尚だっけか
息子を亡くし意気消沈して戦死したように、一益も信長という希望を失って気が抜けてしまったのかもね

337 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/10(水) 22:02:04.57 ID:fsWVmvMn
勝家も一益も還暦前後の爺さんだからなぁ…

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 02:32:41.67 ID:+bk2wro/
>>337
そもそも滝川一益は引退させてくれと信長に頼んでるししゃーない

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/12(金) 10:22:35.82 ID:yxuOoXB8
絶頂期が終わったら後は下り坂

北条一門の歌

2018年09月18日 18:13

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 01:12:50.18 ID:3a6RWHwE
「見恋」 いかにせむ心ひとつに月日へて つゐにあはての浦のみるめを 氏政
「蚊遣火」 ながめるつる月日のひかりに影そへて 草の庵りに蚊遣たくらむ 氏直
世の中にあらぬ草木を求めても 法のみちにふみもまよはじ 氏規
「契空恋」 知らせばや契し事ももしほ草 そをだに絶て思ふ心を 氏堯
逢坂のせきのひかしに武の 名やはかくるゝ十五の駒 氏照
色ゝのさかなはあれど今夜しも わきてさゞいのめづらしきかな 氏光
都路をかけていた鳴駒の音 新月夜にや今や別らむ 氏忠
月もはやさ夜ふけがたになりぬれば かれヽになるむしの声かな 氏邦
「月前雲」 やまかぜの吹よはるより久方の 月のな□□の秋のうき雲 氏能
「通書恋」 かばかりやさきの世くやし玉章の むすぶちぎりはあはじ物かな 氏親
冬のうみの時雨るゝ波のはげしきに 身もはづかしのさゞいなるらん 氏冬
見ぬ花やおもふばかりにかきつばた ふかき色香を面影にして 範冬

(喜連川文書)
足利義氏、北条氏康とともに当時の北条一門が読んだ和歌を氏照が記したとされている
また、範冬とは今川範以のこととされている
問題は現在北条関係で発見されている史料において唯一の所見になる氏能、氏親、氏冬とは誰のことなのか

悪い話というか北条研究で未だ解決されない謎の1つ



155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 08:16:59.64 ID:SFBIDdSW
夭逝した氏政の兄貴が氏親とかいわれてなかったっけ?

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 10:16:28.04 ID:kAdBeT5C
早死したんなら和歌が読めない年齢のはず
母親の身分が低過ぎて虫けら扱いだったんだろうな

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 12:59:53.16 ID:d3+CY0nG
>>155
読んだ順番ではなく一門でも家格順じゃないかなあこれ
氏政が上の時点で氏政が家督継承したか次期家督継承者になってるんじゃないかなあ

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 17:15:20.78 ID:rWqd47zb
今川範以だって?妄言も大概にしろ
可能性があるとしたら氏真だろうな

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 18:04:26.15 ID:J62I4Vu1
崩し過ぎて読めなくなったんかな

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 18:05:50.75 ID:HApGphN1
>>156
いや最近の黒田基樹先生あたりの北条研究の本を読めよ。「北条氏親」は氏康の嫡男で
しかも氏康の正妻である瑞渓院(今川氏親娘)の子であり、氏政の同母兄だ。夭折と言っても
氏親の名乗りからも解るように既に元服していて、16歳で亡くなったと考えられているので、
このくらいの歌は詠める。

とかく高坂のことを讒言し妨げたので

2018年08月27日 18:34

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 18:32:10.13 ID:23LKJVS7
天正も5年(1577)丁丑にうつり、織田信長卿は去年の11月に大納言より内大臣に登られ、
威勢はますます盛んとなった。このため甲斐武田方では、いよいよ北条を頼まんと、

一昨年の結縁の後、常々小田原に使者を送り氏政を尊敬することは大方ならず、とにかく妹君と
一日も早く婚儀を行うことを急いだ。氏政も縁組のことを約束しながら織田家を憚ったのか、

今年まで延滞していたのだが武田方よりしきりに催促もしがたく、今年正月下旬に至って小田原
より輿入れとなった。早野内匠助・清水又八郎・剣持与左衛門が輿添として参った。

勝頼は婚儀を滞りなく行い、両家合体の盟約は定まったため甲斐でも相模でも喜ぶこと限りなし。

その中でも高坂弾正(昌信)は「長篠より3年この方、今夜初めて心安く寝入ったのは小田原より
御輿入りとなったゆえぞ」と喜んだ。弾正は「とにかく武田家の長久を思えば、このうえは謙信

とも和睦して御入魂あらば、いよいよ頼もしく安心でありましょう」と諫めたのだが、勝頼は血気
の猛将で人に遜順することを好まず、長坂・跡部両奸臣は弾正の諫めが行われれば我々の身の上が

危ういと思い、とかく高坂のことを讒言し妨げたので高坂の忠言も空しく用いられなかった。国中
の士民は一同に長坂・跡部を憎まぬ者はいなかった。

――『改正三河後風土記(甲陽軍鑑・武徳編年集成)』



57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/26(日) 19:32:21.87 ID:Z2N5Ltql
軍鑑は嘘っぱちだからなあ

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 01:35:48.43 ID:J6YW16a4
大上段に嘘っぱちと切り捨てるのももはや古い見方だけどな
とはいえ勝頼跡部長坂辺りの事績は大概信用度低い記述だけど

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 18:26:37.59 ID:FERgEUgq
甲陽軍鑑の史料としての評価について詳しく出ているので読んでおくといい

創られた“軍師”山本勘助 丸島 和洋
第2回 見直された『甲陽軍鑑』
http://kaze.shinshomap.info/series/kansuke/02.html


60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/27(月) 19:15:57.07 ID:R3lRzHIU
>>59
>『甲陽軍鑑』同士の比較検討が重要となるのだが、信頼できないという色眼鏡が存在したために、
>このような地道で手間のかかる作業には手がつけられていなかった。
ほー、まだまだ研究の余地がありそうだな、国がやってくれれば…ってそんな金はないか。

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 07:01:04.62 ID:GowozpsS
じゃあお前が独りでやっとけよ

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 08:09:16.13 ID:8OTbo6hr
なにをすねてるんだ?

63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 10:12:49.07 ID:67sGtWik
>>62
色眼鏡おつ

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 13:59:54.23 ID:JVmjndk4
袋叩きから再評価は歴史学のお約束
目立ちたい学者や作家が無責任に変なこと言い出すのが困る

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:10:45.17 ID:xpYgg4E/
なので武功夜話が一級資料に返り咲く日も近いわけだ

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/28(火) 15:17:44.99 ID:AIzY42hF
>>65
ありゃ明らかな創作やん…。

まあ、世の中には東日流外三郡誌を真書と認めないと迫害した史学会の重鎮とか
いたりしたから、あからさまな偽書・創作でも評価する輩は出るけどさ。

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 20:28:08.07 ID:fWfpQ1LT
甲陽軍鑑は創作だこれって10年前にいい悪いスレで見たぞ

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 20:53:07.73 ID:ItPA1KAf
>>67
その10年間で研究が進んだ

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 21:26:13.55 ID:vtjT338y
評価してもいい部分もあるんじゃってのが近年の流れだっけ?

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/30(木) 23:45:46.02 ID:3ekIDmZ7
信頼できる史料だからとすべて信用するのが間違い
逆もまた然り

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/31(金) 00:35:09.34 ID:uGdurO6l
江源武鑑「せやせや」

下知につかずば

2018年02月05日 18:07

619 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/05(月) 14:55:26.63 ID:hwMsmEIU
軍法、兵略というものは、後代においていよいよ厳重となっていった。
北条家の侍に、大石平次兵衛という者が居たが、彼はこのような歌を詠んだ

『樊カイを あざむく武者を集めても 下知につかずば餓鬼にをとれり』

これを北条氏政聞き及び、「彼は一方の大将とすべき者である」と絶賛し、
実際に足軽百人を預けた。
この事があって、北条の諸侍はいよいよ法度を守るようになったという。

(北條五代記)


人の所為に非ず

2018年01月22日 16:44

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/21(日) 23:29:21.82 ID:QAKBjbLf
小田原城が開城し、北条氏政、氏直、氏照などは下城し、医師安栖の邸宅に居した。
ここにおいて氏政、氏照は切腹したのだが、氏政はこの時、このように言った

「今度小田原城より下城し、早雲以来の五代の興行も、私において断絶する、
きっと、世が静謐になった後には、氏政氏直の籠城の仕様に対して、善悪の評判が起こるだろう。
しかし存亡は皆、天の命にして人の所為に非ず。当家滅亡の時が至ったからこそ、数代の家老である
松田の逆心もあったのだろう。
この一つの出来事を見ても知るべきだ。天命の致すところである。そう思うべきなのだ。」

そう語って、切腹したのだという。

(士談)



494 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 10:54:40.16 ID:6+wsPjF9
天下人に頭を下げれないからそうなる
信長であっても臣従しなかったろ

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 12:25:47.34 ID:cpmBsmlg
この期に及んでまだ天のせいとか言ってんのか
お前のせいだろ

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 13:25:55.31 ID:YGHa10Qu
項羽の最期に通じるものがある

497 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 13:46:37.28 ID:IOqdOmQR
まあ人事は尽くしてないかな・・・降伏する機会は何度もあったわけだし。

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/22(月) 19:14:37.82 ID:9tAUH3DO
だって儒教系の史料だし
北条は善性しいてたってことになってんだからそれが滅んだからには天のせいってことにしなけりゃアカンだろ

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 01:40:01.65 ID:kYpqHmCq
まだ項羽みたいに綺麗に締められれば伝説なんだけどなあ

人はただ、学ぶべきである

2017年09月15日 18:05

107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/09/15(金) 17:36:03.52 ID:Uz3vy/o7
ある時、武田信玄はこのように言った

「人はただ、学ぶべきである。
学ぶと言っても読物ばかりではない。何事であっても習うことにより学ぶというのだ。
殊更弓矢の家に生まれた者は、心がけて一日一つ良き事を聞けば、十日には十聴き習い、
工夫分別して物の理に徹するならば、一文不通の人であっても、智者と呼ばれるであろう。

今川氏真は我が聟であり(原文ママ)、北条氏政はまさしく氏康の子である。
何れも物をよく書き、よく読み、短冊色紙に詩歌を記し、自作の文章もよくこなす。
しかし彼らは、当年既に二十五にして、弓矢のこと、武義の備えについて、何であっても
人の口に上る程度の話もないのは、最も文盲な者にも劣るといえる。

こういうことから考えるに、人々は学びというものに心得違いがあり、学ぶべきことを学ばず、
要らぬことを熱心に成し、結果家を失いなお下すに至るわけで、人々はそうならぬよう、慎むべきであろう。

(士談)

信玄が言うと色々複雑な気持ちになりますね。


今は石垣山と呼んでいる

2017年06月11日 10:44

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/10(土) 22:20:06.79 ID:I7EY2XpE
 物事の勢いによっては、事がはかどって行き自ずから人も育って力が増すものである。
 天正十八年、北条氏政を太閤秀吉が攻められた時、
小田原の城から西にあたる所に高い山があった。
要害で地の利がよいと、すぐに石垣を積み上げて、所々に櫓を上げて、悉く屏をかけ、
たちまち壁を塗り、一夜の内にその上に白紙を張った。
これが白壁のように見え、城主はこれを見てその器量を感じたとか。
 今は石垣山と呼んでいる。


『武士としては』


しろみず坂

2016年10月10日 14:06

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 12:47:54.48 ID:yHgP8rQJ
 箱根の関のこなたにしろみず坂というものがある。
小田原城の見える所なのに城不見(しろみず)というのは、
豊臣太閤が北条攻めのとき、ここまで来て城を見ないで止まられた。
近侍の人が何故に城を見られないのかと不審がると、
「いやいや、城を見たら大砲の恐れがあるので見ない。」
と話されたという。
これからその地の字となったとか。
(甲子夜話続編)

北条方も大砲を持ってたんですかね



234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 13:54:15.70 ID:M8uKGH4G
総大将を狙撃するための流言かもしれないから用心したんでしょ

小早川隆景「私の父である毛利元就は」

2016年03月29日 17:41

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:18:00.92 ID:DemqXdSQ
北条討伐により、豊臣秀吉は小田原城を攻め立てたものの、小田原は音に聞こえた名城であり、
落城する様子は見えなかった。秀吉は小早川隆景を召して言った

「この城を数ヶ月攻めているが、未だに陥落しない。この上は総攻めにしようと思っているが、
お主はどう考える?」

隆景答えて
「総攻めと命ぜられましたら、即座に攻め落とす事でしょう。ただし、味方も多くの死傷者が出るでしょう。

私の父である毛利元就は、数か国を乗っ取った者でありますが、父は城を囲んで弱らせる時は、
城中を割る謀を巡らせました。この時、仮に我らと語らった者共が、我々に同心しなかったとしても、
語らったという事実は漏れ聞こえ、城内の者達にに疑心暗鬼を生じさせ、程なく落城におよび、
人も損ないません。

殊更、この小田原城は大軍が立て篭もっていますから、必ず人心を統制することは出来ません。
籠城において人が多すぎるのは保ち難いものであると聞き及んでいます。
御計略によって、程なく落城させることが出来るでしょう。」

秀吉はこれを聞くと「兼ねて聞いていたことに増して、毛利元就とは謀略深厚な人物であることだ。」と
感心した。

そうして秀吉は富田将監を召し
「汝は北条氏政の老臣、松田尾張守と親しいのだから、これこれの通り松田に申し伝えよ。」

富田は松田に遣いを立て、『御味方に属せば伊豆相模両国を与える。』と密かに伝えた。
松田はたちまち心を変じ、味方する旨を返事し、嫡子新六郎、次男左馬助を呼び寄せ斯くと語った。
しかし次男左馬助は思う仔細有り、密々に主君氏政・氏直にこの事訴えた。

氏政は大いに驚き、松田を誅殺した。しかしこれにより隆景が考えた通り、城中の諸将兵士、
軽卒に至るまで、各々が疑心を持つようになり、城中騒乱して、今や諸軍の心は個々に立ち隔たる
有様と成った。

このように成っては防戦を遂げることも出来そうになく、城を保つことは難しい事態と追い込まれたため、
氏政・氏直父子は独夫の義勢も尽き果て、是非なく剃髪して秀吉の軍門に下った。
これによって関八州は併呑され、小田原に滞留し残党を征した。

(伊逹秘鑑)



473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:23:21.47 ID:JZcHoAiY
本阿弥「親や兄を裏切るなら松田憲秀が誅殺された時点で自害しろよ」

氏政公が飯へ汁を二度かけて

2016年02月23日 17:32

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 22:17:26.49 ID:pY+DLWFU
 北条三代目の氏康公は御子の氏政公と御昼食の時、氏政公が飯へ汁を二度かけて召し上げられたのを氏康公はご覧名さなれ、
 「後に関八州は氏政が世で亡ぶだろう。わずか飯椀の中に汁を入れるということさえ、一度だけで行う加減がわかっていない。
そのようなひととなりではどうやって八ヶ国の人々の目利きをすることができようか」
と御落涙したという。
 その言葉の通り氏政公の御代で滅びました。厳密にいうと氏政公は滅びなさったときは御隠居で、氏政公の御子氏直公の御代で亡びましたということだが、
彼はひどいうつけ者であり、氏政公はその愚昧の氏直公へ御相続させられましたことから、汁かけ飯での氏康公のお目利きは神のごとしだと思われます。

 冷泉家は北条執権のころ無二の懇情でしたが、その後君の御憎しみがつよく遠流となられ、
程経て帰洛の後に、家の掟で武家と縁組等を無くし、今でもその通りであります。
先代の掟をこのように守りなされることは甚だ感心します。
 その他の公家方は時節につれてなされたように思われます。
心ある堂上方はこのことを恥と申されたという。清貧と申す事はとかくならぬ事と思われます。
(本阿弥行状記)



216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 22:27:17.81 ID:+ttG42F8
本阿弥光悦の時にこの話が広まっていたとは驚き

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 01:45:53.87 ID:nRXKJORI
氏政暗愚説っていうか、まぁ時流を読み間違えたのはそうなんだろけど

だからって汁かけ飯ごときで暗愚判定されるとは、氏政も草葉の蔭で泣いてるんじゃないかな…
もうちょっとこう…あるだろ

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 16:51:20.67 ID:drP4ghCp
2度目に薬味も入れとけばこうもこき下ろされずに済んだハズ

この時、松田の末子左馬助は

2016年02月22日 11:39

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 20:51:34.09 ID:sic6Ivqj
小田原陣の際、北条家第一の大名松田尾張守父子、氏政へ逆心し敵の勢を城中へ引き入れるという企てが会った。
この時、松田の末子左馬助は一向に合点しないので、父子は申し合わせて一間へ押し込んで、いよいよ逆心を取り急ごうとした。
ところが、左馬助は具足櫃に入って忍んで本城へ参り、父兄の逆意を申し上げたので松田父子は早速罪に処せられた。
 その後小田原落城の後、氏直と高野山へ登られたときも、この左馬助は付き添って忠を尽くされたという。

 惜しむらくは父兄への孝道が欠けていること、大いに玉に疵である。
父兄が罪に処せられましたときにすぐさま腹をも切ったら、忠孝二つとも全うできたものを残念な事である。
父は子のためにかくし、子は父のためにかくすという聖人の示された言は今更である。
(本阿弥行状記)

忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず



204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 21:23:58.99 ID:MU5FSvyb
黒官「あれ、わしが秀吉の命令に背いて、
長男を殺して末子を助命した、て話は」

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 21:32:00.19 ID:fw1BDPma
城井一族を騙して皆殺しにしてるから、北条も適当に嘘ついて開城させたんだと思う

甲陽軍鑑より、秀吉の鳥取城攻めとその影響

2015年08月13日 18:36

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 18:54:22.56 ID:8lbm1Qo/
織田信長は播磨国を取ると、家老の木下藤吉を羽柴筑前守と名乗らせ、播磨一国をこの筑前守に与え、
安芸の毛利に差し向けた。

この羽柴筑前は信長に謀劣らぬ侍大将であったので、信長から金子を過分に申し受け、毛利家に対しこう申し
越した。

『毛利との間に和平を結びたい。何故なら信長公が、東の敵である武田をどうしても倒したいと考えているので、
中国の毛利家とは無事にするようにと仰せになったからだ。』

毛利家の弓矢も末と成っていたのだろう。彼らがこれを信じた所に、筑前守は見事な十両吹の金子を持ち込み

『武田攻めのため米を買い取り、船にて駿河国まで廻送する』

と触れ回った。これに毛利家の衆は、余剰の米だけでなく城米まで尽く売ってしまった。
この時毛利家の小早川隆景はこれを知るや、但馬半国に米を売ることを禁止させた。

その後、羽柴筑前守は軍勢1万5千にて出陣し、因幡、伯耆、但馬半国に攻め寄せた。
それらの国の城には兵糧米がなかったため、毛利方は尽く城を開けて逃げ出し、羽柴筑前に取られた。

こうして信長の分国は、本国の伊勢、志摩、近江、美濃、尾張に加え、山城、大和、河内、和泉、摂津、
丹波、播磨、因幡、伯耆、但馬、若狭、丹後、越前、加賀、越中、能登、伊賀、となり、またこの年3月、
高天神城を徳川家康に取られたため、家康も三河、遠江2ヶ国。両大将を合わせて24ヶ国の大敵である上、
小田原の北条氏政は伊豆、相模、武蔵、上総、下総、常陸、下野の7ヶ国まで手に入れた。

この大将3人が敵と成った以上、武田勝頼公の御備は危ういと言うのも愚かなことである。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より、秀吉の鳥取城攻めについて書かれたと思われる場面である。




豊鑑より、北条への認識

2015年06月23日 17:39

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:35:01.10 ID:yUxMH566
その秋、北条美濃守(氏規)と言う者が上洛した。これは北条氏直の叔父である。
この北条氏直というのは、東の国々を7つばかり従え、相模の小田原に在った。

彼は北条時政の子孫ではない。早雲という人物の子孫であるが、彼も彼の国の者ではなく、
都あたりの出身であったが、従者一人二人ばかりで駿河国にさすらい行きて、今川のなにがしに
縁があったが、よろず優秀な人物だったので今川氏の心にかない、漸次出頭したが、伊豆の国に移り、
どうやったのか彼の国を従え、2年3年の内に相模の国を心のままにして、相模の小田原に移り住んで
なおも武蔵、上野の切り取りををこころざしたという。

その嫡男である氏康という男子、父にも劣らず賢く、武士の道にたけく謀ある人物だったので、
彼の時に武蔵、上野、上総、下総などまで従え、一族広く富み、権勢盛んとなったこと思い知るべきであろう。

氏康の嫡男である氏政は、老いたというには幾ばくも至らない内に嫡男氏直に世を譲ったそうだ。

(豊鑑)

当時の畿内における、北条への認識がかいま見られる豊鑑の記事である。
というか氏綱…。



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:58:04.50 ID:wOzHKolz
まあ、ハブられてもしゃあないというか
無関係なところの人間にしてみたらそんなものじゃないの

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:03:39.10 ID:IpAvlnDm
もう出自不明になってたんだんだ

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:31:55.43 ID:g+i0E8PA
毛利の長男よりはまし

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 10:46:03.74 ID:LkICDGu3
斉藤道三の国盗りと一緒で一人と思い込んでたんじゃねーの?

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 23:34:23.03 ID:KeJRBl/z
>>973
興味薄いからろくに調べなかっただけでそ。
東国は別の国みたいなもんだし。

「あれを麦飯にして、早々にここに出すように

2015年05月06日 15:32

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/05(火) 21:54:29.55 ID:m744MYgG
永禄6年(1563)、上杉謙信方の太田資正(三楽)が守る松山城を、北条氏康と武田信玄の連合軍が
陥落させた時のこと。

その陣はとかくあって4月末になり、陣夫たちが馬の餌として麦を刈っているところを北条氏政が見て、
家老の松田憲秀に「あれを麦飯にして、早々にここに出すように」と命じた。
武田信玄はこの言葉を聞くと

「さすが氏政殿は大身であられるので、ご存じないのも道理です。あれは、先ず扱いて、こなして干して、
搗いてまた干して、その後まづきというものをして、食せるようになり、これに水を入れよく煮て、
ようやく麦飯と成るのですよ。」と言った。

北条家の松田、大道寺を始めとした家臣の者達は、『信玄が氏政を下げずんでいる』と、
恥ずかしく思ったという。

(甲陽軍鑑)




747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/05(火) 23:16:39.40 ID:efiNJHlg
太郎晴信と言われていたとき領内の米の収穫を見物した際に
老臣の板垣にあれで餅をつくって持ってこいと命じたらしいねw

748 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/05(火) 23:36:12.27 ID:bk8L788Z
甲陽軍艦て何でこんなに氏政を虚仮にしようとする逸話多いんだろう
第一次駿河侵攻で氏政に信玄が敗走させられた腹いせ?

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 00:24:06.76 ID:K/zNr46c
氏政は北条遺臣の書いた北条五代記でもディスられてるし
馬鹿殿氏政はこの時代の共通認識だろ

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 02:28:26.98 ID:88LFcJYm
秀吉と敵対した大身の大名の中で滅亡させられたのは北条のみだしね

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 03:46:49.18 ID:vxBWnKFh
実父からは「北条は俺の代で終わり」と嘆かれ
義父からは「婿殿は物を知らぬ」と蔑まれるバカ殿氏政

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 10:10:30.37 ID:NpPIqbQ/
>>737
謙信の影武者は戦国最強

信玄影武者との一騎打ち

北条の大軍が包囲する唐沢山城を僅かな手勢で突破

小田原包囲戦の際、鉄砲の射程圏内で平然と弁当を食う

本物は超用心深い

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 10:23:35.96 ID:4Ht9e4Kr
>>751
実際に終わったのは俺の孫の代でしたw残念!

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 11:56:05.84 ID:P49wh2UI
河内狭山藩ェ…

庭林坊の事

2015年04月26日 16:08

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 03:06:59.59 ID:ier522gz
庭林坊の事

天正元(1573)年北条と里見との間で合戦があった

小田原へ向け里見の水軍が押し寄せているという噂が広まると、誓願寺の庭林坊は唐傘を差して見物に出かけた

すると浜には先客がいて、三本唐傘の旗印を差した高山大膳といった侍が沖の船に向かっていくさ名乗りを上げていた

庭林もこれを見て「拙僧は第二陣、浄土宗誓願寺の法師武者、唐傘の庭林なり」と名乗りを上げた

ところが沖の船はただの釣り船だと判明し、集まった人の間から失笑が漏れた

「高山某と誓願寺の坊主が釣り船に勝負を挑んだwwwwwwwwwww」

この噂は北条氏政の耳に入り、氏政の子の国王丸がその坊主を見たいと御前に召し「昨日のごとく言葉を違えず名乗ってみよ」と命じた

庭林坊はほかならぬ北条の若君の頼みとあって、庭へ下りて唐傘をばっと開き名乗って見せた

国王丸は大笑いし、庭林にたくさんの褒美を下されたという

『北条五代記』

ちなみにこの庭林、後の前田慶次の朋友と言われる




北条氏政妻、鳳翔院の事

2015年04月13日 18:47

830 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/04/12(日) 18:50:57.84 ID:f4K0Om5X
北条氏政の妹が実家へ帰らず武田勝頼と運命を共にしたという話は有名だが、氏政にも小田原征伐の際に運命を共にした妻がいた。

氏政の継室である鳳翔院は一説では公家の関係者ではないかという話もあるがその出自は明らかにされていない。
彼女は小田原籠城中に氏政七男の勝千代を産んだらしいが、六月十二日に氏政母の瑞溪院と共に自害したと伝わる。

小田原市にある北条氏政・氏照の墓と共にある氏政妻の墓は前妻である黄梅院の墓と言われているが、北条氏と運命を共にした鳳翔院の墓という説も存在する。



威を争うだけの合戦はしてはならない

2014年11月20日 17:52

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 19:31:01.28 ID:S5lvlA9v
武田家、織田家が滅びた後、徳川家康の近辺で大大名といえば、小田原北条家ばかりとなった。
そこで家康は北条氏政と懇志を結ぼうとしたが、諸臣はこれを諌めて言った

「北条が大家であるといっても、どうしてその力を頼むべきでしょうか?
当家には当家の力があります。交わりを結ぶよりも北条家を攻め落とし、小田原城を
取ってしまいましょう!」

家康はこれに答えた
「総じて、人と威を争いその勝敗を論ずるなどというのは。大いなる心得違いである。
かつて甲斐の武田と越後の上杉が、さしたる遺恨もないのに、僅かな義理合によって
合戦に及んだ。しかし両将も終にはそれが無益であることを悟り、和睦しようとしたが、
その時信玄は、自身の威を示すあまり無礼の体に及び、謙信はその無礼を怒り、
たちまち和睦は破れ再び合戦に及び、おおよそ15年の間無益の合戦は止むことなかった。

そして彼らがそんな争いをしている間に、織田信長は上方を切り従え大身となり、
私も追々領地を増やすことが出来た。

仮に武田上杉が早々に和睦を成立させていればどうなっただろうか?
信長も私も、その両家のために、逆に領国を狭められたことだろう。

であるからこそ、威を争うだけの意趣もない合戦は、絶対にしてはならないのだ。」

そうして終に、北条と同盟を結び、旗下同然となっても無事を守り、暫く世の時勢を
見極めた、とのことである。

(明良洪範)




越甲相(ついでに佐も)の外交戦

2013年12月20日 18:55

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 22:07:55.23 ID:7QhCaGbC
ついでにつまらない小話をひとつ。越甲相(ついでに佐も)の外交戦。

1580年三月、北条と交戦状態になった武田勝頼織田信長との和与の道を探していた。
運良く佐竹義重が信長との和議を媒介すると言ってきたので、それに乗っかることにした。
複雑な経緯を経て武田の人質状態となっていた信長五男の信房をも織田に返還した。
ところがこの経緯を上杉景勝に知られ「織田との一和は我等と一統の上と決めたはずだ」
と怒られてしまった。「いや義重が頻りに取り持つと言ってきたもんだから」勝頼は弁解した。
「上杉も織田に使者を送ってると聞くが我等はそんな雑説は信用してない。
誓書も交わしたし今後も入魂で行こう」と牽制したりもした<跡部勝資書状写/歴代古案>。
と言いつつ勝頼は翌月も織田と交渉していたようだ<柴田勝頼書状写/信長文書の研究補遺208>。
勝家は「従甲州御詫言之使者<中略>無御許容候」と記す。佐竹義重の面目も丸つぶれという話。

さて同じ頃、北条氏政は関東八州を織田の「御分国に参る」として、
織田に対して従属の意思を表明していた<信長公記巻十三>。
信長はこれに上機嫌だったようで、氏政の使者を労い、京都見物や琵琶湖で舟遊をさせた。
氏政が何処まで本気だったのかは知らない。
或いは北条は、織田に対して徳川同然の立場をと考えていたのかもしれない。<おわり>