今は石垣山と呼んでいる

2017年06月11日 10:44

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/10(土) 22:20:06.79 ID:I7EY2XpE
 物事の勢いによっては、事がはかどって行き自ずから人も育って力が増すものである。
 天正十八年、北条氏政を太閤秀吉が攻められた時、
小田原の城から西にあたる所に高い山があった。
要害で地の利がよいと、すぐに石垣を積み上げて、所々に櫓を上げて、悉く屏をかけ、
たちまち壁を塗り、一夜の内にその上に白紙を張った。
これが白壁のように見え、城主はこれを見てその器量を感じたとか。
 今は石垣山と呼んでいる。


『武士としては』


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しろみず坂

2016年10月10日 14:06

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 12:47:54.48 ID:yHgP8rQJ
 箱根の関のこなたにしろみず坂というものがある。
小田原城の見える所なのに城不見(しろみず)というのは、
豊臣太閤が北条攻めのとき、ここまで来て城を見ないで止まられた。
近侍の人が何故に城を見られないのかと不審がると、
「いやいや、城を見たら大砲の恐れがあるので見ない。」
と話されたという。
これからその地の字となったとか。
(甲子夜話続編)

北条方も大砲を持ってたんですかね



234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/10/10(月) 13:54:15.70 ID:M8uKGH4G
総大将を狙撃するための流言かもしれないから用心したんでしょ

小早川隆景「私の父である毛利元就は」

2016年03月29日 17:41

472 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:18:00.92 ID:DemqXdSQ
北条討伐により、豊臣秀吉は小田原城を攻め立てたものの、小田原は音に聞こえた名城であり、
落城する様子は見えなかった。秀吉は小早川隆景を召して言った

「この城を数ヶ月攻めているが、未だに陥落しない。この上は総攻めにしようと思っているが、
お主はどう考える?」

隆景答えて
「総攻めと命ぜられましたら、即座に攻め落とす事でしょう。ただし、味方も多くの死傷者が出るでしょう。

私の父である毛利元就は、数か国を乗っ取った者でありますが、父は城を囲んで弱らせる時は、
城中を割る謀を巡らせました。この時、仮に我らと語らった者共が、我々に同心しなかったとしても、
語らったという事実は漏れ聞こえ、城内の者達にに疑心暗鬼を生じさせ、程なく落城におよび、
人も損ないません。

殊更、この小田原城は大軍が立て篭もっていますから、必ず人心を統制することは出来ません。
籠城において人が多すぎるのは保ち難いものであると聞き及んでいます。
御計略によって、程なく落城させることが出来るでしょう。」

秀吉はこれを聞くと「兼ねて聞いていたことに増して、毛利元就とは謀略深厚な人物であることだ。」と
感心した。

そうして秀吉は富田将監を召し
「汝は北条氏政の老臣、松田尾張守と親しいのだから、これこれの通り松田に申し伝えよ。」

富田は松田に遣いを立て、『御味方に属せば伊豆相模両国を与える。』と密かに伝えた。
松田はたちまち心を変じ、味方する旨を返事し、嫡子新六郎、次男左馬助を呼び寄せ斯くと語った。
しかし次男左馬助は思う仔細有り、密々に主君氏政・氏直にこの事訴えた。

氏政は大いに驚き、松田を誅殺した。しかしこれにより隆景が考えた通り、城中の諸将兵士、
軽卒に至るまで、各々が疑心を持つようになり、城中騒乱して、今や諸軍の心は個々に立ち隔たる
有様と成った。

このように成っては防戦を遂げることも出来そうになく、城を保つことは難しい事態と追い込まれたため、
氏政・氏直父子は独夫の義勢も尽き果て、是非なく剃髪して秀吉の軍門に下った。
これによって関八州は併呑され、小田原に滞留し残党を征した。

(伊逹秘鑑)



473 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/03/28(月) 21:23:21.47 ID:JZcHoAiY
本阿弥「親や兄を裏切るなら松田憲秀が誅殺された時点で自害しろよ」

氏政公が飯へ汁を二度かけて

2016年02月23日 17:32

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 22:17:26.49 ID:pY+DLWFU
 北条三代目の氏康公は御子の氏政公と御昼食の時、氏政公が飯へ汁を二度かけて召し上げられたのを氏康公はご覧名さなれ、
 「後に関八州は氏政が世で亡ぶだろう。わずか飯椀の中に汁を入れるということさえ、一度だけで行う加減がわかっていない。
そのようなひととなりではどうやって八ヶ国の人々の目利きをすることができようか」
と御落涙したという。
 その言葉の通り氏政公の御代で滅びました。厳密にいうと氏政公は滅びなさったときは御隠居で、氏政公の御子氏直公の御代で亡びましたということだが、
彼はひどいうつけ者であり、氏政公はその愚昧の氏直公へ御相続させられましたことから、汁かけ飯での氏康公のお目利きは神のごとしだと思われます。

 冷泉家は北条執権のころ無二の懇情でしたが、その後君の御憎しみがつよく遠流となられ、
程経て帰洛の後に、家の掟で武家と縁組等を無くし、今でもその通りであります。
先代の掟をこのように守りなされることは甚だ感心します。
 その他の公家方は時節につれてなされたように思われます。
心ある堂上方はこのことを恥と申されたという。清貧と申す事はとかくならぬ事と思われます。
(本阿弥行状記)



216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/22(月) 22:27:17.81 ID:+ttG42F8
本阿弥光悦の時にこの話が広まっていたとは驚き

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 01:45:53.87 ID:nRXKJORI
氏政暗愚説っていうか、まぁ時流を読み間違えたのはそうなんだろけど

だからって汁かけ飯ごときで暗愚判定されるとは、氏政も草葉の蔭で泣いてるんじゃないかな…
もうちょっとこう…あるだろ

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/23(火) 16:51:20.67 ID:drP4ghCp
2度目に薬味も入れとけばこうもこき下ろされずに済んだハズ

この時、松田の末子左馬助は

2016年02月22日 11:39

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 20:51:34.09 ID:sic6Ivqj
小田原陣の際、北条家第一の大名松田尾張守父子、氏政へ逆心し敵の勢を城中へ引き入れるという企てが会った。
この時、松田の末子左馬助は一向に合点しないので、父子は申し合わせて一間へ押し込んで、いよいよ逆心を取り急ごうとした。
ところが、左馬助は具足櫃に入って忍んで本城へ参り、父兄の逆意を申し上げたので松田父子は早速罪に処せられた。
 その後小田原落城の後、氏直と高野山へ登られたときも、この左馬助は付き添って忠を尽くされたという。

 惜しむらくは父兄への孝道が欠けていること、大いに玉に疵である。
父兄が罪に処せられましたときにすぐさま腹をも切ったら、忠孝二つとも全うできたものを残念な事である。
父は子のためにかくし、子は父のためにかくすという聖人の示された言は今更である。
(本阿弥行状記)

忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず



204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 21:23:58.99 ID:MU5FSvyb
黒官「あれ、わしが秀吉の命令に背いて、
長男を殺して末子を助命した、て話は」

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 21:32:00.19 ID:fw1BDPma
城井一族を騙して皆殺しにしてるから、北条も適当に嘘ついて開城させたんだと思う

甲陽軍鑑より、秀吉の鳥取城攻めとその影響

2015年08月13日 18:36

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/12(水) 18:54:22.56 ID:8lbm1Qo/
織田信長は播磨国を取ると、家老の木下藤吉を羽柴筑前守と名乗らせ、播磨一国をこの筑前守に与え、
安芸の毛利に差し向けた。

この羽柴筑前は信長に謀劣らぬ侍大将であったので、信長から金子を過分に申し受け、毛利家に対しこう申し
越した。

『毛利との間に和平を結びたい。何故なら信長公が、東の敵である武田をどうしても倒したいと考えているので、
中国の毛利家とは無事にするようにと仰せになったからだ。』

毛利家の弓矢も末と成っていたのだろう。彼らがこれを信じた所に、筑前守は見事な十両吹の金子を持ち込み

『武田攻めのため米を買い取り、船にて駿河国まで廻送する』

と触れ回った。これに毛利家の衆は、余剰の米だけでなく城米まで尽く売ってしまった。
この時毛利家の小早川隆景はこれを知るや、但馬半国に米を売ることを禁止させた。

その後、羽柴筑前守は軍勢1万5千にて出陣し、因幡、伯耆、但馬半国に攻め寄せた。
それらの国の城には兵糧米がなかったため、毛利方は尽く城を開けて逃げ出し、羽柴筑前に取られた。

こうして信長の分国は、本国の伊勢、志摩、近江、美濃、尾張に加え、山城、大和、河内、和泉、摂津、
丹波、播磨、因幡、伯耆、但馬、若狭、丹後、越前、加賀、越中、能登、伊賀、となり、またこの年3月、
高天神城を徳川家康に取られたため、家康も三河、遠江2ヶ国。両大将を合わせて24ヶ国の大敵である上、
小田原の北条氏政は伊豆、相模、武蔵、上総、下総、常陸、下野の7ヶ国まで手に入れた。

この大将3人が敵と成った以上、武田勝頼公の御備は危ういと言うのも愚かなことである。

(甲陽軍鑑)

甲陽軍鑑より、秀吉の鳥取城攻めについて書かれたと思われる場面である。




豊鑑より、北条への認識

2015年06月23日 17:39

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:35:01.10 ID:yUxMH566
その秋、北条美濃守(氏規)と言う者が上洛した。これは北条氏直の叔父である。
この北条氏直というのは、東の国々を7つばかり従え、相模の小田原に在った。

彼は北条時政の子孫ではない。早雲という人物の子孫であるが、彼も彼の国の者ではなく、
都あたりの出身であったが、従者一人二人ばかりで駿河国にさすらい行きて、今川のなにがしに
縁があったが、よろず優秀な人物だったので今川氏の心にかない、漸次出頭したが、伊豆の国に移り、
どうやったのか彼の国を従え、2年3年の内に相模の国を心のままにして、相模の小田原に移り住んで
なおも武蔵、上野の切り取りををこころざしたという。

その嫡男である氏康という男子、父にも劣らず賢く、武士の道にたけく謀ある人物だったので、
彼の時に武蔵、上野、上総、下総などまで従え、一族広く富み、権勢盛んとなったこと思い知るべきであろう。

氏康の嫡男である氏政は、老いたというには幾ばくも至らない内に嫡男氏直に世を譲ったそうだ。

(豊鑑)

当時の畿内における、北条への認識がかいま見られる豊鑑の記事である。
というか氏綱…。



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:58:04.50 ID:wOzHKolz
まあ、ハブられてもしゃあないというか
無関係なところの人間にしてみたらそんなものじゃないの

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:03:39.10 ID:IpAvlnDm
もう出自不明になってたんだんだ

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:31:55.43 ID:g+i0E8PA
毛利の長男よりはまし

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 10:46:03.74 ID:LkICDGu3
斉藤道三の国盗りと一緒で一人と思い込んでたんじゃねーの?

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 23:34:23.03 ID:KeJRBl/z
>>973
興味薄いからろくに調べなかっただけでそ。
東国は別の国みたいなもんだし。

「あれを麦飯にして、早々にここに出すように

2015年05月06日 15:32

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/05(火) 21:54:29.55 ID:m744MYgG
永禄6年(1563)、上杉謙信方の太田資正(三楽)が守る松山城を、北条氏康と武田信玄の連合軍が
陥落させた時のこと。

その陣はとかくあって4月末になり、陣夫たちが馬の餌として麦を刈っているところを北条氏政が見て、
家老の松田憲秀に「あれを麦飯にして、早々にここに出すように」と命じた。
武田信玄はこの言葉を聞くと

「さすが氏政殿は大身であられるので、ご存じないのも道理です。あれは、先ず扱いて、こなして干して、
搗いてまた干して、その後まづきというものをして、食せるようになり、これに水を入れよく煮て、
ようやく麦飯と成るのですよ。」と言った。

北条家の松田、大道寺を始めとした家臣の者達は、『信玄が氏政を下げずんでいる』と、
恥ずかしく思ったという。

(甲陽軍鑑)




747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/05(火) 23:16:39.40 ID:efiNJHlg
太郎晴信と言われていたとき領内の米の収穫を見物した際に
老臣の板垣にあれで餅をつくって持ってこいと命じたらしいねw

748 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/05/05(火) 23:36:12.27 ID:bk8L788Z
甲陽軍艦て何でこんなに氏政を虚仮にしようとする逸話多いんだろう
第一次駿河侵攻で氏政に信玄が敗走させられた腹いせ?

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 00:24:06.76 ID:K/zNr46c
氏政は北条遺臣の書いた北条五代記でもディスられてるし
馬鹿殿氏政はこの時代の共通認識だろ

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 02:28:26.98 ID:88LFcJYm
秀吉と敵対した大身の大名の中で滅亡させられたのは北条のみだしね

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 03:46:49.18 ID:vxBWnKFh
実父からは「北条は俺の代で終わり」と嘆かれ
義父からは「婿殿は物を知らぬ」と蔑まれるバカ殿氏政

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 10:10:30.37 ID:NpPIqbQ/
>>737
謙信の影武者は戦国最強

信玄影武者との一騎打ち

北条の大軍が包囲する唐沢山城を僅かな手勢で突破

小田原包囲戦の際、鉄砲の射程圏内で平然と弁当を食う

本物は超用心深い

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 10:23:35.96 ID:4Ht9e4Kr
>>751
実際に終わったのは俺の孫の代でしたw残念!

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/06(水) 11:56:05.84 ID:P49wh2UI
河内狭山藩ェ…

庭林坊の事

2015年04月26日 16:08

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 03:06:59.59 ID:ier522gz
庭林坊の事

天正元(1573)年北条と里見との間で合戦があった

小田原へ向け里見の水軍が押し寄せているという噂が広まると、誓願寺の庭林坊は唐傘を差して見物に出かけた

すると浜には先客がいて、三本唐傘の旗印を差した高山大膳といった侍が沖の船に向かっていくさ名乗りを上げていた

庭林もこれを見て「拙僧は第二陣、浄土宗誓願寺の法師武者、唐傘の庭林なり」と名乗りを上げた

ところが沖の船はただの釣り船だと判明し、集まった人の間から失笑が漏れた

「高山某と誓願寺の坊主が釣り船に勝負を挑んだwwwwwwwwwww」

この噂は北条氏政の耳に入り、氏政の子の国王丸がその坊主を見たいと御前に召し「昨日のごとく言葉を違えず名乗ってみよ」と命じた

庭林坊はほかならぬ北条の若君の頼みとあって、庭へ下りて唐傘をばっと開き名乗って見せた

国王丸は大笑いし、庭林にたくさんの褒美を下されたという

『北条五代記』

ちなみにこの庭林、後の前田慶次の朋友と言われる




北条氏政妻、鳳翔院の事

2015年04月13日 18:47

830 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/04/12(日) 18:50:57.84 ID:f4K0Om5X
北条氏政の妹が実家へ帰らず武田勝頼と運命を共にしたという話は有名だが、氏政にも小田原征伐の際に運命を共にした妻がいた。

氏政の継室である鳳翔院は一説では公家の関係者ではないかという話もあるがその出自は明らかにされていない。
彼女は小田原籠城中に氏政七男の勝千代を産んだらしいが、六月十二日に氏政母の瑞溪院と共に自害したと伝わる。

小田原市にある北条氏政・氏照の墓と共にある氏政妻の墓は前妻である黄梅院の墓と言われているが、北条氏と運命を共にした鳳翔院の墓という説も存在する。



威を争うだけの合戦はしてはならない

2014年11月20日 17:52

219 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/19(水) 19:31:01.28 ID:S5lvlA9v
武田家、織田家が滅びた後、徳川家康の近辺で大大名といえば、小田原北条家ばかりとなった。
そこで家康は北条氏政と懇志を結ぼうとしたが、諸臣はこれを諌めて言った

「北条が大家であるといっても、どうしてその力を頼むべきでしょうか?
当家には当家の力があります。交わりを結ぶよりも北条家を攻め落とし、小田原城を
取ってしまいましょう!」

家康はこれに答えた
「総じて、人と威を争いその勝敗を論ずるなどというのは。大いなる心得違いである。
かつて甲斐の武田と越後の上杉が、さしたる遺恨もないのに、僅かな義理合によって
合戦に及んだ。しかし両将も終にはそれが無益であることを悟り、和睦しようとしたが、
その時信玄は、自身の威を示すあまり無礼の体に及び、謙信はその無礼を怒り、
たちまち和睦は破れ再び合戦に及び、おおよそ15年の間無益の合戦は止むことなかった。

そして彼らがそんな争いをしている間に、織田信長は上方を切り従え大身となり、
私も追々領地を増やすことが出来た。

仮に武田上杉が早々に和睦を成立させていればどうなっただろうか?
信長も私も、その両家のために、逆に領国を狭められたことだろう。

であるからこそ、威を争うだけの意趣もない合戦は、絶対にしてはならないのだ。」

そうして終に、北条と同盟を結び、旗下同然となっても無事を守り、暫く世の時勢を
見極めた、とのことである。

(明良洪範)




越甲相(ついでに佐も)の外交戦

2013年12月20日 18:55

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/12/19(木) 22:07:55.23 ID:7QhCaGbC
ついでにつまらない小話をひとつ。越甲相(ついでに佐も)の外交戦。

1580年三月、北条と交戦状態になった武田勝頼織田信長との和与の道を探していた。
運良く佐竹義重が信長との和議を媒介すると言ってきたので、それに乗っかることにした。
複雑な経緯を経て武田の人質状態となっていた信長五男の信房をも織田に返還した。
ところがこの経緯を上杉景勝に知られ「織田との一和は我等と一統の上と決めたはずだ」
と怒られてしまった。「いや義重が頻りに取り持つと言ってきたもんだから」勝頼は弁解した。
「上杉も織田に使者を送ってると聞くが我等はそんな雑説は信用してない。
誓書も交わしたし今後も入魂で行こう」と牽制したりもした<跡部勝資書状写/歴代古案>。
と言いつつ勝頼は翌月も織田と交渉していたようだ<柴田勝頼書状写/信長文書の研究補遺208>。
勝家は「従甲州御詫言之使者<中略>無御許容候」と記す。佐竹義重の面目も丸つぶれという話。

さて同じ頃、北条氏政は関東八州を織田の「御分国に参る」として、
織田に対して従属の意思を表明していた<信長公記巻十三>。
信長はこれに上機嫌だったようで、氏政の使者を労い、京都見物や琵琶湖で舟遊をさせた。
氏政が何処まで本気だったのかは知らない。
或いは北条は、織田に対して徳川同然の立場をと考えていたのかもしれない。<おわり>





北条氏政は人よりもきわめて酒好きであり

2013年06月14日 19:50

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/14(金) 17:54:17.88 ID:NdGSkZ+w
この(北条)氏政は人よりもきわめて酒好きであり、常に長座して大酒であった。

酒の途中で座を立つことにはおきてを用いたので大小便も不自由となり、
毎度見苦しいことが多かった。氏政はこれを見て快気したと云々。

――『当代記』




840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/14(金) 18:11:52.39 ID:quaWMlMW
スカトロマニアすか

841 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/14(金) 18:40:00.59 ID:u9TOWBaL
氏康さんがディスるべくアップを始めました

842 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/14(金) 19:09:06.03 ID:lGhj9vKP
花の慶次で常に酒瓶片手にしてたが、あながち間違いでもなかったの

氏照の首

2013年03月10日 19:10

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 15:43:40.15 ID:c8KReEoQ
天正十八年七月十一日の晩、秀吉より北条氏政と氏照兄弟へ切腹の申し渡しがあった。
助命・本領安堵の和睦の話があった中、二人は騙されたとの無念の内に自害して果てた。

その介錯は弟の氏規が行った。
氏規も兄たちの後を追おうとしたところ、徳川家重臣・井伊直政が走り寄り抱き留めて諭してこれを助けた。

この混乱に紛れて、氏照の首を小姓の山角牛太郎が奪い取って逃げたが、
なだめすかして取り返し供饗に置いた。

家康は「牛太郎は若輩であるが、主人を思う志はあっ晴れである」と誉め、
後に牛太郎に千石以上の知行を与え旗本として召し抱えた。

≪小田原北条記≫






三浦三崎はガチの名勝

2012年11月13日 19:57

392 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 18:40:46.46 ID:zTJiC/oF
北条と唐国との話が出たので北条五代記の該当部分をば
ただ逸話というほどの分量ではないので箇条書きでまとめるのはご容赦

・三浦三崎はガチの名勝
・名勝ってだけじゃなくて交通の要衝だし、水底は深いし、幾千艘つないでも余裕の良港すぎワロタw
・日本だけじゃなくて唐国にも知れ渡ってるマジスゲーwww
・氏政が三官っていう唐人に虎朱印判状渡して、唐国の黒船が来航したよ
・そいつら三崎の良港ぶりにめっちゃ驚いててワロタwww
・安藤豊前守が通訳交えて唐人と売買したよvv

八王子から外来の器とかそこそこまとまって見つかってるらしいし、
ある程度交易はあったっぽいね




393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 19:24:48.74 ID:12gephJg

>>392
三崎地図でみたら島と半島で囲まれてんだな
屋島とかあと鎌倉は人口島で同じような地形作ってるね
中世から近世の港の特徴なのかもな

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 19:29:47.40 ID:1hq8lkjn
湾内が広くて水深が深くて沖からの風波を防ぐ
山がそのまま海底につながってるような場所で沖を半島や島で囲まれてる所が天然の良港になるんだろうな

あるいは、とらねばならなかったと言うお話

2012年06月29日 21:01

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 13:20:32.73 ID:uHRpgtHv
天正十四年ころから「世間物騒の時分」につき、あれやこれやと上方対策を始めていた後北条氏だが、
天正十五年に入ると、正月に小田原城、五月には上野の箕輪城と松井田城、
一〇月武蔵岩付城、十一月箱根の山中城、足柄城と領国全土で普請を始めていた。
上杉、佐竹に加え、天正十四年十月に秀吉に臣従した徳川と、
全方面からの攻撃が予想されたからであった。

しかしそんな普請で忙しい最中のはずの天正十五年五月、
武蔵の各地では北条氏邦や氏房の命令で、堰や堤の構築が行われていたりもする。

実はこの時期、上記普請の連発のためか、北条領国内では退転欠落が続発していた。

「御国の御用につき」と言う理屈で百姓を動員していた北条だが、
一方で懐柔策もとっていたと言うお話。
あるいは、とらねばならなかったと言うお話。



230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 14:23:37.93 ID:itjA/vHi
無様だなぁ

231 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 16:37:21.52 ID:+6+KYZzv
「猿wwww」「成り上がりふぜいがwwww」とかいって
余裕ぶっこいてた連中よりはまし

232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 16:59:21.95 ID:TJpXzbS6
一庶民に対して国のために戦えっていうのは、近代以降の概念だからなー
数百年ばかり速すぎた、北条は未来に生き過ぎた

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/29(金) 20:19:45.23 ID:aPDrTFXH
善政を敷いてたのが仇になったか

九年母と橙

2012年06月06日 21:01

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/06(水) 19:32:04.51 ID:DJ5APnSm
天正十一年、徳川家康はその頃初めて舶来した九年母という南洋原産の
珍しい果実を小田原の北条氏に送り届けた。

九年母を見た北条の家臣は橙と勘違いして「こんな珍しくもないものを
贈ってくるとは、浜松ではよほど橙が珍しいらしい。こちらにはいくらでも
あるぞ」と逆に橙を贈ってきた。

贈られてきた橙を見た家康は「味わいもせずに橙と勘違いして失礼なことを
するものだ。主人はともかく家臣がこれでは政事にどんな過誤があるのか
わかったものじゃない」と言った。




805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/06(水) 20:33:30.25 ID:tYhx2lDW
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2892.html
既出といえば既出(こちらは麦の話がメインだけど)

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/06(水) 21:11:53.44 ID:UMJdQbss
九年母はシークヮーサーのことで良いのかな

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/06(水) 21:39:13.50 ID:5MaMmDYn
オゥレンヂ
じゃね?

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/06(水) 22:44:12.71 ID:n4pwiyuf
ひらみレモン

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/06(水) 22:44:36.82 ID:jMIKd6lK
安土盛りにあんなに切れていたのに(´・ω・`)

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/06(水) 23:04:32.62 ID:AhxnJkxL
酢豚にパイナップル入れんなクソたわけがああ!!!

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/06(水) 23:20:40.75 ID:PujAOfKG
ひやむぎに缶詰チェリーは?

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/07(木) 02:36:13.30 ID:I87C4FTO
>>806
沖縄辺りの柑橘の総称らしいが、平塚でも一時期献上用のが栽培されてたという

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/07(木) 18:20:01.31 ID:lpXbc+c2
三河でも作れるかな?焼き魚にかけるとうまいんだが。それなら粗食の三河武士でも使えるだろうし

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/07(木) 18:26:22.27 ID:lpXbc+c2
日本海側の大名はそれなりに文明化されてるんじゃないか?鮭さまは地元にれんがしがいなくて
ショボンになってたけどw

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/07(木) 20:15:23.44 ID:SBWgqlvz
最上は鮭が統一するまで豪族乱立内乱一揆が名物の無法地帯だからなぁ

鬼玄蕃の弟たちのその後

2012年04月19日 21:29

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/19(木) 19:01:26.39 ID:ozqURuq1
賤ヶ岳で秀吉相手に勇猛に戦った、鬼玄蕃こと佐久間盛政には二人の弟、安政と源六があった。

彼らも兄に劣らぬ勇者であり、賤ヶ岳の後も秀吉に反抗し続け、佐々成政に、成政が秀吉に降服した後は
徳川家康に仕えた。
が、天正14年(1586)、秀吉が妹朝日のみならず、母親大政所まで送ってきたことに、家康もついに
秀吉への臣従を決意。そして家康は、安政と源六の二人を呼ぶと、申し訳なさそうにこう語った

「そういうわけで私は、秀吉に従うことと成った。このままわしに仕えては、そなた達の、
秀吉に復讐するという願いは叶わないだろう。
そこでそなたたちさえ良ければ、北條殿に仕えてはどうか?」

家康は重臣の榊原康政を北條に派遣し、わざわざ安政と源六の召し抱えを頼んだ。

北條で、二人は大いに厚遇された。北条氏政は彼らの勇猛さを大いに気に入り、また彼らも、
佐竹義宣との常陸江戸崎の合戦、皆川広輝の籠る下野大平城攻めなどで高名をなした。

しかし天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐により、ついに北條も滅びる。

安政は弟源六に言った
「我々はいつも秀吉に背いてきた。小田原にあって6年、既に氏政公は御生涯なされた。
われら兄弟が死ぬ時は今であろう。兵たちは、思い思いに逃がすべし。」
源六もこれに同意したが、しかし家人たちは「我々は黄泉までお供をしたいのです!」と、一人も逃げなかった。

彼らは小田原の自分の屋敷の周りに鉄砲狭間を切り、鉄砲揃えた。戦闘の準備である。
間もなく豊臣軍の接収の兵が来る。彼らは武士らしく、それと戦って討ち死にすることを求めたのだ。

と、そこに一人の武士が、屋敷の方に向かってきた。「豊臣の検使がもう来たか!?」一斉に銃を向ける。ところが
「佐久間殿!わしだ!」「榊原殿!?」
それは榊原康政であった。彼は銃で固めたこの屋敷に臆すること無くつかつかと入ると、佐久間兄弟に
「殿のおっしゃったとおりだ。」「殿?徳川様が!?」「そう、殿はお主たち二人を殊の外ご心配なさっていたのだ。

『このように成ったからには彼らは、もはや死ぬしか無いと思いつめているであろう。しかしわしはまだ、彼らを
死なせたくない』

そうおっしゃって、わしをお主らのところに遣わしたのだ。殿はお主たちに、富士の麓に隠れ家も用意された。
まだ死ぬべき時ではないぞ!生きよ!」

佐久間兄弟は感激し、家康の勧めに従って小田原を退去した。
それからしばらくして、佐久間兄弟が生きている事を知った秀吉は、二人の罪を許し(おそらく家康の口添えがあったのだろう)
その後蒲生氏郷に仕え、蒲生家減封の際、秀吉の直臣と成った。関ヶ原では兄弟揃って家康に従い、石田三成の陣に
勇猛に攻め込んだ。その功で大名となり、隣り合った信濃飯山藩、長沼藩の藩祖と成った。

鬼玄蕃の弟たちの、賤ヶ岳のその後、のお話である
(佐久間軍記)





659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/19(木) 22:47:24.93 ID:hcDwOApk
>>658
何このマンガのようなイイ話( ;∀;)

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/19(木) 23:08:49.96 ID:oFtmBiPu
佐久間兄弟も家康も康政も氏政も、みんなかっけぇ

北条氏政「関八州無双の剛民である。」

2012年04月02日 21:31

497 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/01(日) 20:31:18.29 ID:Lws+kWvc
1571年、北条軍が対陣していた佐竹義重の軍勢による夜襲を受けた際、戦場となった地の農民の一人が
北条方として参戦し、敵の首を取る武功を立てた。そこで氏政は、この農民を

「関八州無双の剛民である。」

と称賛し、『岩井兵庫助』の名前と領地を与えて武士に取り立てた。またこの戦いでは、

「北条軍の武士に助太刀して敵を倒したが、その武士に首を奪われた。」

と訴える農民もおり、氏政はその農民にも褒美を与えるとともに、

「農民ですらこの様な心構えをしているのだ。諸士も自らを省みて恥じ入るであろう。」

と語って家臣を戒めたという。農民から首を奪った武士は恥をかく事となったが、戦勝で機嫌の良かった氏政は

「若輩の身に加え、初陣でもあるから褒めて遣わす。真っ先に切り込んだのは手柄である。」

と声をかける心構えを見せたという。 氏政が部下にプロ意識の徹底を促した逸話である。




498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 21:04:45.40 ID:e+pB7/I0
戦国の農民は怖いな

499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 21:24:55.44 ID:i+qru6Cu
宣教師に戦闘民族と書かれたのも納得。

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 21:55:36.84 ID:8VnEpluP
合戦の度に落ち武者狩りが跋扈するからなぁ

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 22:10:07.17 ID:hZbxTPZh
秀吉の九州攻めの真っ最中に、たまたま少数でいた秀吉の兵を襲った命知らずな百姓たちがいた、と
フロイスさんが書き残している

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 22:28:52.09 ID:MKDuo9Yq
戦国期の百姓なんて山賊と紙一重だもんな

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 23:21:57.46 ID:WVnUks5a
七人の侍でも農家の床の下から武器も鎧も酒もどんどん出てくるもんな(笑)
あの映画の時代設定は戦国時代末期だったっけ?
久蔵と菊千代カッコいい
観てない人は是非観たほうがいいと思う
黒澤明の代表作とされるだけのことはあるから

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 23:25:29.73 ID:ZV3FBf7J
百姓に限らず、京都市民も合戦で没落した側に対し、隊列を組んで襲いかかることもあった。
まあ戦国期の日本人はみんな危険だということだw

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 23:33:49.03 ID:WHFrz//e
農民は日和見菌みたいなもんだし
普段は中立だが弱っていると牙をむく

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/02(月) 00:24:13.71 ID:WdOtsat7
貴重な収入源だもの

北条氏政、徳川家康との会談にて

2012年04月01日 21:31

499 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/01(日) 02:45:07.29 ID:Lws+kWvc
北条氏政は1586年、三嶋大社への参拝の際に、同盟関係にあった徳川家康と面会の約束をした。
黄瀬川を越えて、わざわざ北条領まで出向く形となった家康だったが、対面の際は氏政を上座に据えて

「両家の領地の境にある城を破却して境界を無くそうと思います。また、そちらが東北地方に出陣する際には
 私が先手を引き受けましょう。」

と、北条方を喜ばせる事を述べた。宴席が始まると上機嫌になって深酔いした氏政は、家康の膝の上に
寄り掛かって脇差を抜き取り、

「若い頃から『東海一の弓取り』と呼ばれた家康殿の刀を取った。この氏政は大功を立てたぞ!」

とはしゃいだという。しかし、そんな中氏政は家中の状況を観察されており、宴席の後家康は

「北条の世も終わりだ。家臣の様子で察しが付く。」

と述べたという。




500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 02:50:53.47 ID:i+qru6Cu
肝心の家臣の様子が分からねぇw

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 05:44:55.01 ID:RahubMFT
確かに、そこが一番気になるところなのに

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 09:03:10.24 ID:p4WvLrAk
贈り物の価値がわからずに駄目だこりゃって言われた事もあったな後北条

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 09:07:14.71 ID:/Ezenwsk
家臣に緊張感が無く緩んでいたとかだろうな

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 10:07:40.46 ID:nCngcJAr
三河武士や黒田武士なら無言でフクロにしてるレベル

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 10:11:07.26 ID:HFvgWCYx
GOで家康と氏政が密会してた場面を思い出した

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 10:13:48.16 ID:1hBpg9gG
悪酔いした主君を止めたり嗜めたりする家臣が一人もいなくて
氏政の腰巾着ばかりだったんだろ。
三河者と真逆。

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 10:18:54.12 ID:HFvgWCYx
味噌汁エピに続き新たな氏政無能伝説の誕生である

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 11:06:35.88 ID:nmhyNvdo
氏政、これはアカンわ。無礼ってレベルじゃねーぞ

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 12:05:54.31 ID:B41cWuil
君主大名の類に属する人が
同盟相手のファイナルウェポン脇差を抜き取り大功立てた(ドヤァ
とか喜んじゃってる時点でもうね・・・w
東海一の弓取りに上座に座らせてもらったうえに領境の城を破却して
おまけに先手まで引き受けるなんて言われちゃったもんだから
家康が事実上の従属宣言でもしてくれたと慢心しちゃったのかな?
家臣も家臣だろ、なんつーかもう終わってるよな、しかも相当深刻なレベルで。

510 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 12:26:50.19 ID:6YxfzfBW
氏政「とったどー!」

511 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/01(日) 12:46:31.05 ID:GqwzcjnH
その話、猿の東北征伐に参陣せいつー謎かけかと思っていたがちがったか?

512 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 13:15:31.23 ID:kRaE2mQL
>>507
あのエピも氏康以来の椀(汁二回用)をそのまま使ってたら何故かdisられたという説もあるし、前例踏襲を
戒めたという見方もあるが

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 14:05:01.01 ID:j9rxbzsf
こういう話って、徳川が関東に入ってから捏造された可能性もありそうだけどね

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 15:05:55.50 ID:vV6t5JgB
>>513
そんな事を捏造する意味も無いし根拠も無いのに
都合の悪い事は何でもかんでも勝者の捏造かもとか決めつけるな

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 15:57:26.98 ID:cy34oPKK
根拠は無いけど意味はあるわな。両天秤にかけて婿の家を見捨てた立場だし
ほらこんな家じゃ見限られてもしょうがないですよね?ね?と
婿である当主じゃなく隠居が悪く言われる事が多いあたり怪しいっちゃ怪しいわ

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 16:20:04.69 ID:EQCEozjr
山岡荘八の小説にも同じような話あるけど作り話に決まってるだろうが
まあ逸話としては面白いが

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 17:11:52.98 ID:vV6t5JgB
>>517
先手を約束した席の後に「北条の世も終わりだ」と言ってんだぜ
そんなの捏造しても何の利益にもならんわ

>>518
別に大した話でもないのに作り話にする必要はないだろ

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/01(日) 18:11:02.07 ID:nmhyNvdo
史実か作り話かなんて話は不毛だから余計に突っ込むの控えるべきでは
重要なのはこういう逸話が残ってるって事実だと思うなー