弓矢の礼儀

2017年08月07日 18:26

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/07(月) 18:06:10.56 ID:ptMNn+dR
北条陸奥守氏照の家臣の内に、中山勘解由、石原主膳という人に知られた武士があった。
この内中山は、小田原征伐のさい八王子城にて討ち死にし、石原は氏照の供をして小田原城にあり、
氏照自害の後は井伊直政に仕えた。彼は武功ある武士であったので、直政より旗を預けられた。

関ヶ原の岐阜城攻めの際、浅野幸長の軍勢は、岐阜城の出城であった瑞龍寺を乗っ取った。
浅野勢は瑞龍寺内部になだれ込んだが、その時何故か浅野の旗を立てるものが居なかった。
他の部隊も近くを通ったが、この事に気づくものが無かった中、いい直政の兵が搦手より押し入り、
石原の下知にて直政の赤旗を城の内に押し立てた。その上で浅野勢のうち大将分の者を招くと
石原は言った

「瑞龍寺は井伊直政の勢が乗っ取った!」

浅野の者たちは驚き反論した、「これは存じもよらぬことを承る。幸長の手にてここは乗っ取ったのだ!」

「ならば城を攻め取った印は何であるか?」

「我等は勢はいずれも城の中を走り回っているではないか!」

石原これを聞くと、傲然と言い放った
「それは御自分の功名というものだ。御旗印の一流も見えない以上、実正とはいい難い。
我々は旗を上げた。これこそ証拠である!」

これに幸長の家臣たちは言葉に詰まり、返答できないでいた。
と、ここで石原は大笑いし

「いやいや、この話はここまでにしよう。各々がどうも弓矢の礼儀をご存じないようなので、
あえてこのような事を申したのだ。勿論この城を落としたのは各々が粉骨された故であるのだから、
我々は旗を降ろし、城をそちらに参らす。」

そういって、旗を撒いて撤収したという。

(士談)



132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/07(月) 18:30:00.50 ID:99qRtOQS
>>131
いい話スレだけど、喧嘩になるかと思った

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/07(月) 18:49:24.48 ID:Oii5T9zM
後の「ショー ザ フラッグ」である
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八王子城落城始末

2015年10月21日 13:23

851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/20(火) 12:30:17.25 ID:YdwXRHRU
八王子城落城始末

八王子城の城主北条氏照は小田原城にあり、家臣がその留守を預かっていた。
そこに前田・上杉が攻め寄せ、先に降伏した北条氏邦を使者にし「小田原城は既に落ちた。早く開城せよ」と言いつけたが、
「主の氏照が降伏したのであればその書状を以て開城に応じよう。だが主の命なくして降伏するのは、武士の恥だ。氏邦如き臆病者は一人も城内にはおらん!」
と家臣らは突っぱねた。利家や景勝はその義に感じ入ったが、鞘を納めるわけにもいかず、一万五千の兵で城を包囲した。
城将の狩野一庵・近藤出羽助実・金子三郎右衛門家重らは死兵となって討って出て、討死を遂げた。氏照の第一の重臣横地監物も、城に火の手が上がるのを見、今日を最期と散々に戦い、寄せ手側は多くの犠牲を払うこととなった。

同じく城将の中山勘解由家範は猛将として知られ、特に八条修理満朝の馬術を会得し、関東無双と称されたほどの人物であった。
大敵に怯むことなく、200人を引き連れ駆け込み、ここが死に際と切って回ったが、寄せ手も次々に新手を入れ替えて攻め寄せたので、供回りが15,6人にまで討ち減らされてしまった。
この奮戦を見た利家は「誰か中山の縁者はおるか」と問い、「松山城の降人根岸定直が妻は中山の妻と姉妹であり、小岩井雅樂助は中山の馬術の弟弟子であります」と返事を聞き、中山を味方に引き込むようにと両人を城中へと送ったが、既に中山とその妻は自害してしまっていた。
まだ息が残っていたため両人は中山と言葉を交わして帰っていき、その旨を報告すると利家は非常に惜しんだ。
なお横地監物は死地を切り抜け落ち延びていった

北条の城は多しと雖も豆州韮山の城以外は大半が降伏を選ぶ中、その城兵が城を枕に討死したことを東照宮も聞き、中山の嫡子助六郎昭守・次男佐介信吉に禄を与えた。
昭守の子信守は大阪の陣で功をたて、信吉は後に水戸家に仕えて備前守と称した。狩野一庵の子主膳も徳川家に仕えたそうな。

『常山紀談』

氏照の首

2013年03月10日 19:10

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 15:43:40.15 ID:c8KReEoQ
天正十八年七月十一日の晩、秀吉より北条氏政と氏照兄弟へ切腹の申し渡しがあった。
助命・本領安堵の和睦の話があった中、二人は騙されたとの無念の内に自害して果てた。

その介錯は弟の氏規が行った。
氏規も兄たちの後を追おうとしたところ、徳川家重臣・井伊直政が走り寄り抱き留めて諭してこれを助けた。

この混乱に紛れて、氏照の首を小姓の山角牛太郎が奪い取って逃げたが、
なだめすかして取り返し供饗に置いた。

家康は「牛太郎は若輩であるが、主人を思う志はあっ晴れである」と誉め、
後に牛太郎に千石以上の知行を与え旗本として召し抱えた。

≪小田原北条記≫






井田是政の事

2011年04月05日 00:00

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/04(月) 20:31:24.75 ID:jhc9aJ4H
後北条家滅亡絡みで地元ゆかりのネタ。

後北条家が関東土豪の連合体の上に乗っかっていた存在というのは知られた話。そんな土豪の一つに
武蔵国は府中の辺りに在する井田氏というのもあった。
この井田氏、先祖を辿れば源頼朝の陸奥討伐にも従軍した(戦死したらしい)、というからなかなか古い家柄。
井田氏は代々摂津守を自称していたというのもまあご愛嬌かと。
そんな井田氏も戦国期は後北条家に従ったのだが、氏照切腹により後北条家が滅びると、当主井田是政は
武士を廃業して帰農することを選ぶ。
帰農した先は井田氏代々の領地だった武蔵国横山村。当時、横山村はかなり未開拓というか荒れていたらしく、
是政さんは頑張って開墾しまくったらしい。
そんな是政さんの功績を記念して後世「是政」村と言われるようになったとさ。

井田是政のお墓は今も東京競馬場内に残っており、近くに生える「第三コーナーの大欅」ともども井田氏由来の事物は
今もなお府中に息づいております。


どこがいい話かわからんが、まあとりあえず




732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/04(月) 20:50:53.08 ID:hnkGq41F
>>731
横山って八王子だぞ?

733 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/04(月) 20:55:10.70 ID:jhc9aJ4H
>>732

うん、そっちも横山だね。でもこっちも横山と呼ばれていたらしいんだわ。察するに武蔵八党の横山党に由来するんじゃないかな?

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/04(月) 20:59:01.21 ID:5i/yW+dB
>>732
こうだそうで

井田 是政(いだこれまさ)は、日本の武士であり、地名に残る開拓を行った領主。
北条氏照の家臣であり、主君の自害後に現在の東京都府中市是政の地(古くは「横山村」)を
開拓し村を開いた。 この功績により、この地に名が付いた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E7%94%B0%E6%98%AF%E6%94%BF

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/04(月) 21:03:13.61 ID:960KCg5U
関東には北条が滅亡して帰農した家って多そうだな
俺の先祖もそういう家だし

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/04(月) 21:09:14.32 ID:5i/yW+dB
NHKで新選組血風録始まったけど、土方歳三の土方氏もそうだな>北条滅亡で帰農

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/04(月) 21:21:36.66 ID:jhc9aJ4H
ちなみに初投稿なんで、読みにくかったらゴメンナサイ。

府中は歴史古い街でけっこう逸話は残っているんだけど、いかんながら戦国期の逸話は少ないのよ。

せいぜい浅野長政が蟄居(家康暗殺騒動絡み)した屋敷は府中だよね、とかその程度で…

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/04(月) 21:23:02.52 ID:86Zl65l+
家康の府中御殿があったんだよね。
この前見てきたけど

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/04(月) 21:32:20.88 ID:5i/yW+dB
府中といえば昔から交通の要衝で、室町初期は、鎌倉公方が府中高安寺に本拠をおいてたんだよね。
あと府中の分倍河原は鎌倉末期には北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府軍が、
戦国初期には鎌倉公方・足利成氏と上杉顕房、上杉房顕などの関東管領勢が、
それぞれ「分倍河原の戦い」が行われているな。

740 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/04(月) 21:40:24.95 ID:jhc9aJ4H
>>739

>戦国初期

あ~、それ戦国初期に入るんだ?個人的には戦国は応仁の乱からかな?と思っていたから。成氏の分倍河原合戦までおk、となるとややネタ拾えるかも。

府中はわりと歴史物保存に市が熱心だからありがたいよ。

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/04(月) 21:40:27.17 ID:2s9SKT6k
「小手指」「分倍河原」は難読だよな

742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/04(月) 21:50:10.58 ID:5i/yW+dB
>>740
関東は全国に先駆け享徳の乱から戦国時代に入ったとされてるから、その開幕である
分倍河原の戦いは充分入ると思うよ。

743 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/04(月) 23:50:36.08 ID:hnkGq41F
>>733
その横山党の本拠地が八王子市元横山町あたり。
んで、 八幡八雲神社 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%85%AB%E9%9B%B2%E7%A5%9E%E7%A4%BE
を作ったりした。
なので、武蔵国横山と言うと、まず八王子を思い浮かべちゃう

>>734
ふむふむ。

>>737
多摩地区で戦国期の逸話ときたら、滝山城、八王子城のある八王子が
圧倒的に多いからなぁ。

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/05(火) 01:07:55.97 ID:tI+403Lr
>>731
府中競馬場の大けやきのあたりは以前寺があって墓場だった。
競馬場の開設にあたり、寺と他の墓は移転したが井田さんだけが
「移転出来るかボケ、あと欅の木も先祖が植えた大切な木欅だから切るな」
とゴネたため今でもコースの第3コーナーに残ったままに。














でも、あの木は欅じゃなくて榎なんだぜwww

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/05(火) 01:25:51.15 ID:nlZv24bM
あの3角の大欅にはいろいろイワクがあるからなぁ・・・

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/05(火) 03:21:39.05 ID:SjZRUxn1
ふとサイレンススズカを思い出した

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/05(火) 05:42:50.28 ID:t/TzRhlp
魔の第3コーナー・・・



欅じゃなかったのか、あれ

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/05(火) 06:57:45.75 ID:9K7rEpcW
欅ではなく榎。

ただ府中は「市の木」が欅であることから判るように欅で有名。源義家が寄進したとされる欅並木が今も残っている。まあ今の欅並木は家康が寄進したものがほとんどだけど

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/05(火) 10:56:05.85 ID:dRSsTBMi
府中には頼朝が植えた李もあるという

侍童・山角平太郎の忠義

2011年04月04日 00:01

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 17:16:14.63 ID:LinmCTPt
さっきちょっと悪い話スレに書き込んだ話の続き

小田原開城後、兄の介錯を務めた氏規。
氏政の介錯を終えると、彼も自害しようと太刀を取り直した。

慌てたのは検使役の面々である。
「殿下が死罪を命じたのは両名だけでござる。失態があれば我らの落ち度となります。」
と必死に押し止めた。

この時氏照の侍童であった山角平太郎は、検使が氏規に気を取られている隙に乗じて、
氏照の首を奪い取って走り出した。

結局首は取り返され、京で晒されることになるのだが、平太郎は検使の井伊直政に召し出され、
家康に紹介された。
家康は平太郎の心意気に感じ入り、家臣の列に加えた。
彼は後に、武州多摩郡関戸に領地を与えられることになるのであった。

北条家の最期に現れた忠臣の話。




703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 18:47:38.86 ID:I3FMqcu5
忠臣か?

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 19:36:23.79 ID:DpVduhov
まあ、子供だからな
多感な時期の発想だろう

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 19:40:56.00 ID:RfRE4p6G
なんか最近ひねくれたレスする人増えたよね

斜に構えた俺カコイイ的な

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 19:44:27.87 ID:oF8dVOFV
命を賭けて主君の首を敵に渡さないように努力したんだから、忠臣だろ。

微妙に話は変わるが、このスレだと、やたらに三河の人間だけ「面倒臭い」、理屈っぽいが義理堅いとか、
そういう硬派な感じのイメージが強調されるけど、実は結構全国的にそうだよね。近畿は垢抜けてるかもしれんけど。

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 19:55:23.46 ID:4/NwGBdw
たしかに忠義で名を残す武士は全国的にその傾向があるのは当然だよね。
三河武士団は最終勝者になる実質があったのと、
勝者になったからこそ逸話が多く残ってるみたいなとこはある。

あとはこのスレのノリもあるw

氏政・氏照の最期

2011年04月04日 00:00

474 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/03(日) 11:29:59.15 ID:LinmCTPt
氏政・氏照の最期

豊臣秀吉による小田原攻めは、北条家の領国を相模・伊豆のみとする条件で講和が成った。
秀吉は証として氏政をはじめとする北条一族に城から出るように申し付け、最初は渋っていた氏政らも、
榊原康政の説得により城下の田村安柄の館に移った。

当然、そこに待っていたのは講和の会談などではなく、北条家の取り潰しと氏政・氏照の死罪という通告であった。
秀吉は家康に
「我らが遥々ここまで来たのは、北条家を根切りする為である。ここで奴らを許してしまえば、前の言葉は無かったに等しい。
氏直は家康殿の聟であるので死罪は許そう。氏房・氏邦・氏規も同様で良い」
と告げ、家康も同意した。

北条家側への検使として中村一氏・石川正久らが向かったが、余りも痛ましい裁定に言葉を発せずにいたところ、
その様子をみた氏照は全てを悟った。
「これだけの方々が参られたのは、我らへの切腹の催促であろう。それでは沐浴の暇を戴きたい」


その後、氏照は家臣の、氏政は弟氏規の介錯で切腹して果てた。

左京大夫氏政
雨雲の覆える月も胸の霧も はらいにけりな秋の夕風
吾が身今消とやいかに思ふへき 空より来たり空に帰れば

陸奥守氏照
吹くと吹く風な恨みそ花の春 もみじの残る秋あればこそ
天地の清き中より生まれきて もとのすみかに帰るべらなり

その首は石田三成に下知して京都に運ばせ、一条戻り橋に架けられた。




476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 12:14:05.35 ID:27VEjGwZ
氏政さんは氏規さんの介錯なのか・・・;;
お互いどんな気持ちだったんだろ

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 12:45:07.04 ID:hO08aX5+
今度横浜に出張するとき小田原で降りて城を見るとするか
墓もあるんだよな確か

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 12:48:25.91 ID:RfRE4p6G
>>474
この2人の辞世の句好きだ

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 13:41:31.85 ID:CYe+9vZf
>>477
これがそうなの?ってくらい地味だった

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 13:59:54.15 ID:e4Uxizmp
>>474
大道寺を切腹させた件といい、尾藤を処刑した件といい、小田原合戦あたりの秀吉の逸話は
えげつないものが多いな。
それでも氏直は後に織田信雄の大坂の旧宅を宛がわれているし、督姫も大坂入りしているので
あるいはそこそこの大名として復帰する目もあったんだけどね・・・

>>479
鈴を結ぶと・・ってやつだよね?

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 14:51:50.71 ID:cEzvIEtO
>>476
正直なところ、介錯人が氏規で大丈夫なのだろうか…
斬首のプロか剣の達人でも無い限りは一撃で首は落とせないものだし
何度も木こりみたいにエッサエッサと首を斬ったんかな
戦国時代の介錯って時代劇で見るのとは大分違ってたとも言うし
氏規も別な意味でやりたく無かっただろうな

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 22:29:49.39 ID:fQBHq4jZ
>>479
気付かないであの辺の商店街ぐるぐる廻ってたw

長尾輝景の川田城攻め

2011年01月18日 00:00

267 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 04:01:53 ID:21iqkfIz

>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5045.html
沼田方面でこんな事をやっている頃。
利根川対岸の川田地区では北条氏照の率いる二万の軍を迎えていた。

この川田城を落とされたら、名胡桃城までの道が開けてしまう。
岩櫃城の真田信幸が上田に居る現在、吾妻からの援軍は望めない。
沼田城からは根津幸直が派遣されてはいたが、彼を加えても総勢は三百。

氏照は白井長尾輝景を先陣として、子持山峠を越えて川田に押し寄せる。
戦略も戦術もない、兵数差を前面に出しての力押しだ。

ところが、川田城は包囲しても反応はなく、攻撃を仕掛けても反撃もない。
城内に突入してみると、そこには人っ子一人いない空城。
「防衛を諦めて名胡桃城に退却したか……まぁ、当然だな」
肩透かしを喰った長尾輝景は、一旦氏照の本陣に帰還するべく、兵をまとめる。
山の中の小城であった川田城には、大軍の北条勢を収容する施設などなく、わずか
な守備兵のみを残して引き上げざるを得なかったのだ。

奇襲があったのはその帰り道。
てっきり真田勢は名胡桃城に退却したものと思い込んでいた長尾勢は、川田城の支
城であった大竹城に対して、完全にノーマークであった。
そう、根津幸直を筆頭にした真田勢三百は川田城を捨て、支城の方に潜んでいたの
である。

土地勘のない山の中、茂みにはまって身動きの取れなくなる者、崖から落ちる者、
沢に落ちる者……死傷者は続出し、これほど険しい山中では、負傷者は捨てて行か
ざるを得ない。
これによってますます長尾勢の被害は増えて行った。


「川田がこれほどの難所だとは思わなかった。こういう山中では、大勢で一度に攻
め寄せても数の有利が活かせない。今日の敗戦は力攻めを命じた俺のミスだ。明日
はこちらも小勢で攻め寄せるべきだ」
敗戦を聞いた北条氏照は翌日、小部隊による川田進軍を命じる。
小部隊とは言ってもその数は二千。しかも三方向からの同時侵攻であり、合計六千
の兵力である。
三百の真田勢に抵抗の術はない。誰もがそう思っていた。

ここで一つ不思議な事があるのだが、北条家には真田家から寝返った上州国人衆が
大勢居る筈なのだ。しかしこの時の侵攻に際して、彼等の持つ川田の地勢等の情報
が活かされた形跡がまったくない。
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5034.html
のように真田家に帰参した者がいた事を考えると、彼等はあまり重用されていなか
ったのかも知れない。


268 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 04:03:18 ID:21iqkfIz


北条勢三手の内の一つを率いた長尾輝景、昨日の雪辱を誓って川田城へと殺到する。
が、今日も川田城は空。
念のために大竹城や、周辺の山の中も捜索してみるが、伏兵がいる様子もなかった。

「昨日の勝利に満足して、今度こそ名胡桃城に引き上げたのでは?」
「それとも、他の攻め口に迎撃に出たのかも知れんな」
「それでは、我々が他部隊と合流すれば、挟み撃ちに出来ますな」
「だが……お前、道知ってる?」
「……知りません」
「まぁ、放っておいても二千対三百なんだ。問題なく勝てるだろ?」
昨日、その三百に負けた将の言葉とも思えないが、常識的な認識ではある。
長尾輝景はこの日も兵をまとめ、子持山の峠を引き返して行こうとした。


帰り道にやっぱり奇襲があった。
「今日もかよっ!?」
「今日もだよっ!!つか毎日毎日、引っかかってんじゃねーよ!!」
峠に差し掛かった辺り、無駄足で引き返す北条軍を、根津幸直率いる真田勢が襲撃
する。
往路を襲撃しなかったのは、峠を下ってくる北条軍に攻めかかるのは不利、まして
これから城攻めをしようという敵は戦意が高い。だから陣地に帰ろうと、峠を登っ
てくる時に襲撃した方が良いと考えたのだろう。
長尾勢が川田城であれこれとしている間、十分に準備を整えて待ち構えていた真田
勢は、森から矢を射かけ、斬りかかったと思えば、森の中にサッと引き上げ、別方
向から斬りかかり……地形を知り尽くしたゲリラ戦でこちらの兵数を悟られぬよう、
奮戦をする。

この日も遂に長尾勢は追い立てられ、氏照の待つ本陣へと逃げ帰る事になった。


が、しかし、そこで待っていたのは激怒の表情を浮かべた北条氏照。
「お前もか」
「……はい?」
この時点では長尾輝景は自分が真田勢三百と交戦したと思っている。
だから自分は叱られるだろうが、他の二隊は無傷で帰還したのだろう、と。
「長尾、多目、小幡……貴様等三人揃いも揃って、二千の兵を率いて百人の真田勢
に打ち負け、おめおめと尻尾を巻いて逃げ帰って来おって!!」
「ひゃ……百!?」
この日、根津幸直は驚愕の策を立てていた。
三方から迫りくる六千の北条勢に対し、真田勢三百も三つに分けたのだ。
(二千vs百)×3という状態である。

「……と、言う事は……」
他のルートで進軍していた多目周防守、小幡上総介もやはり、百人の真田勢に破れ、
本陣まで逃げ帰っていたのである。
この日、根津隊が討ち取ったのは八十四人。他の二部隊もそれぞれ二十人、三十五
人を討ち取って沼田城に首を送った。
矢沢頼綱はこの戦果に大喜びし、沼田城を包囲する北条軍の目の前に晒したのだと
言う。

北条氏直が率いる本隊も沼田城を中々攻め落とせず、氏照隊の敗戦を聞いた氏直は、
遂に沼田からの撤退を決断したという。


百人で二千人を撃退とか。しかもそれを三部隊で同時にやってのけるとか。
いやいやいやいや、バケモノにも程があるだろ!?




269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 04:08:00 ID:c+m7gPcR
流石は関東

謙信も京に登るより関東に固執したのが分かる気がする

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 06:56:50 ID:wbnK5ZZ7
>>269
天庵「その関東への固執が命取りよ」

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 07:21:31 ID:Izz/q1D7
真田が絡むと、元からカオスだった関東がさらにやばいことになるな

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 08:10:11 ID:74SI7RaR
日本一の大平野を見たら謙信ならずとも誰だって欲しくなるだろう
酒に関しては越後の酒のほうが美味だったのかもしれないが・・・

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 08:22:30 ID:/gFf1Ycl
>>268
とはいえ手前のテリトリーでの局地戦でしか強くないイメージ

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 08:36:40 ID:5VchPHjp
以前、国道17号で新潟に行ったことあるけど、三国峠のトンネルの群馬側
は普通だったのに新潟側は雪降ってて正にトンネルを抜けると雪国って感じだった。
道も全然整備されていない当時、越後からわざわざあの峠を越えて遠征するのは
そうとう難儀だったろうに毎年のようにやって来る執念だけはすごい。
得るものは全くないのにw

途中沼田も通ったけど、耕作出来る土地なんてほとんど無いような山地だった。
こんな僻地を巡って真田と北条はどんだけ必死に争奪してるんだと呆れるほど何もない
真田にとっては必死だったけど、北条はそんな必死になるような場所でも無かった
のかもしれん。



276 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/01/17(月) 10:50:18 ID:Ah8ighjE
真田なんて正々堂々と戦う事知らないんだから
大群で兵糧攻めしてやれば良いのに、、、

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 10:51:06 ID:VuLje1OU
大軍の兵站が先に続かなくなるのがオチだろ

278 名前:267-268[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 10:56:18 ID:21iqkfIz
実際、北条が真田を攻めた事は何度もあるけど、毎回一ヶ月前後で撤退してる。
それが兵站のリミットなんだろうね。

279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 10:58:39 ID:Tz2le1PU
大軍を維持するための兵糧を横取りされる図しか思い浮かばない

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 11:53:18 ID:BaQsRr1I
>>275
冬の間無駄飯食らいになる父ちゃんらが関東に出稼ぎに行ってて母ちゃんたちホクホク
雪が少なくて多少暖かい関東でヌクヌク
そこらじゅうに保管されている米を食いまくってムシャムシャ

というメリットが

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 12:08:52 ID:wZfjERuJ
おまけにかわいい姫や村娘も美味しくいただきました、と

小幡って小幡信貞?西上野戦法衆で鳴らした男が…
落ちたものだな

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/17(月) 15:47:14 ID:EsgbJQfX
>>275
沼田には谷や盆地があるだろ
中世までの日本人は大河川や河口の湿地を治水する術も大政権も無いから
治水しやすい小河川の作った谷に住んでたんだよ
>>268に出てくる小幡氏の本領も小河川沿いにある
現代人が考えるほど価値は低くない