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神流川の戦い二日目

2018年10月12日 20:16

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 19:18:19.04 ID:fnyKwghu
(神流川の戦いの時)

北条方は先手の敗北により二陣を差し向け、滝川一益はこれを迎え撃たんと逞兵3千余人が神奈川(神流川)を
背に敵を待ち受けた。北条勢は尽く坂東生まれの馬達者であり「上方の小勢何程のものか! ただ蹴り散らして
捨てよ!」とまっしぐらに打って掛かる。

滝川方は小勢といえど死を覚悟した者どもなれば、掛かりに掛かって息をもつがず喚き叫んで苦戦した。そこで
北条勢は偽って走り、小勢を真ん中に引き込んで包み討ち取らんとわざと逃げ走ったが、あまりに激しく追い

立てられ思いのほか討たれる者少なからず、滝川方は後陣の備になだれ掛かり氏直の本陣までも友崩れして逃げ
ようとした。そこへ冑山の方に陣を取っている総大将・氏政の先陣・伊勢備中守貞宗や芳賀伯耆守正綱を始め

1万余騎が北条美濃守氏親を先手の部将として神奈川を馳せ渡り、滝川勢の後脇から例の騎馬達者の坂東武士が
鬨を作って馳せ立てた。滝川儀太夫(益氏)始め津田・岩田・粟田・太田などの逞兵どもは、堅を破り鋭を砕き

奮戦するもついに駆け負けて敗走した。この時、一益は大声を揚げて「死生命あり! 運は天にあり! 坂東武者
との合戦は今日が始めなるぞ! 卑屈な振舞いで織田殿(信長)の御名を汚すな! ただ引き組んで討死せよ!」

と命じ、津田・粟田・太田などの勇士どもは「仰せになるまでもなく!」と馬の鼻を引き返して3千余人は大山
の崩れるが如く馳せ掛かる。北条方は大勢なのでひしひしと取り籠めて討ち取らんとするのを、破っては通り

取っては返し奮戦するも、氏親は胸に孫呉の兵法を蓄えた勇略無双の名士である。氏親は正兵・奇兵を入れ替え
攻め戦う。折しも氏直本陣もまた盛り返して大軍が左右より激しく攻め立て、一益も既に危うく見えたところで

津田治右衛門・同八郎五郎・同修理亮・岩田平蔵・同市右衛門・粟田金右衛門・太田五右衛門・篠岡伊右衛門を
始めとして屈強の滝川勢5百余騎が討死し、その他手負いも多いので一益は後陣の上野衆に使いを立てて、

「各々の合力あらば再戦して運の程を試みたい」と申したが、上野衆は「今朝の合戦に疲れ、そのうえ手負いも
多いので今日の再戦は御免蒙るべし」と申し、一益は今は力なく厩橋城に引き返した。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』


神流川の戦い一日目
神流川の戦い、戦後
298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 19:39:04.99 ID:fnyKwghu
>>297
“北条美濃守氏親”は原文ママですが氏規でしょう




299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:26:57.76 ID:X89uqhYO
>>296
大筋は関八州古戦禄あたりと同じだけど、細かいところは違うね。

300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:35:21.71 ID:mhQerXtd
>>297
かなりの激戦なのにあまり有名でないような。大河ドラマ花の慶次に期待か。

301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 22:37:00.47 ID:FSB7uYKJ
ドラマ的に言えばこれは勝つ!と思わせるシーン満載な滝川軍が
結局負けちゃう話だからなぁ…

302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 23:20:55.14 ID:F7zdw75u
>>298
親と規って崩すと区別つかんもんな
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後北条氏の家宝「酒伝童子絵巻」

2018年10月11日 13:12

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 00:56:08.17 ID:6aO+yd8d
後北条氏の家宝「酒伝童子絵巻」



現在サントリー美術館に収蔵されている重要文化財「酒伝童子絵巻」は
江戸時代は鳥取池田家に伝来していたが、元は後北条氏の家宝であった。

北条氏綱は京文化への造詣が深く「酒伝童子絵巻」を作るにあたって
絵を狩野元信、詞書を前関白の近衛尚通、定法寺公助、青蓮院尊鎮ら
奧書を三条西実隆と当代を代表する絵師や能書家に依頼した。
特に尚通とは格別の交流があったらしく、正室・養珠院に先立たれた氏綱は
継室に尚通の娘・北の藤(勝光院)を迎えた程であった。

その後は家宝として伝わっていたが、天正19年(1591年)に北条氏直が病死し
後家となった督姫が、池田輝政に再嫁する際に引出物として持ち込んだという。

池田家伝来のものでは、同じく重文の「後三年合戦絵巻」(現:東京国立博物館)や
北条高時の執事長崎為基の佩刀で、『太平記』に出てくる来太郎の太刀「面影」*
なども、元は後北条氏の家宝で督姫を経由して伝来したものとされる。


――『小田原市史』『池田家履歴略記』など

* 為基の後は、小弓公方・足利義明が敗死したとき佩いていたという。(『後鑑』)
 鳥取城にあったが享保5年に火災で焼身になり、再度の火災で焼失した。


神流川の戦い一日目

2018年10月11日 13:08

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 03:10:10.73 ID:CX/7Sqex
小田原では北条氏政父子が織田殿横死と聞いて大いに喜び、天運時至れりと大軍を催した。大手の大将・
新九郎氏直は富田・石神の方から軍を進め本庄に旗を立てた。御陣は左京大夫氏政3万余騎が松山筋より

武蔵吉見山・冑山辺りを本陣として先手は神奈川(神流川)・烏川辺りに軍を進める。父子は大手・搦手
に向かって総勢5万余騎が6月18日、本庄に着陣す。氏政の弟の武蔵小衾郡鉢形城主・北条安房守氏邦

は血気の若者であった。氏邦は「滝川勢は信長父子が横死して上方騒動の沙汰を聞き将卒とも心は臆して
はかばかしい合戦はできまい。上野・武蔵の輩は余儀なく滝川に一味するといえど真実身命にかえて働く

はずはない。一益は鬼神であるとも頼むところは手勢だけで何程のものか! 今追い討ちして高名せん!」
とその勢5千騎ほどが陣列を離れ馬を馳せたのだった。滝川一益は滝川彦四郎法忠(忠征)に2百余人を

添え厩橋城を守らせ、津田小平次長興・稲田九蔵に8千余兵を添え松枝城を守らせ、自身は1万8千余兵
を連れて武蔵・上野の境の神奈川・烏川の辺り金窪の台に陣を張る。上野衆の小幡・内藤・和田・由良・
安中・深谷・成田・上田・高山・木部・長尾・真田らが所望して先陣に進んだところ、北条方は氏邦が

血気にはやり敵を大いに見侮った。前後を見定めず鬨を揚げ打って掛かるが、上野衆は武田信玄・勝頼に
属して軍旅に老練した者共どもである。少しも騒がず馬の鼻先を魚鱗に並べ敵が来るのを待ち受けた。

半町ほどに軽卒どもを先に立て、矢砲を激しく放って先駆けの北条勢数十人を打ち倒し、馬の足がしどろ
もどろになるのを見澄まして、大風の発するが如く馳せ掛かり突き立てた。頃は天正10年(1582)

6月19日、草木も動かぬ炎天に具足を着て息を揉み馳せ合ったために、流れる汗は目口に入って太刀の
打ち所も定かならず。北条方は石田大学・保坂大炊助を始め屈強の者ども2百余人が討死し、上野衆も

佐伯伊賀守を始め180人ほどが討死し、互いに多くの手負いを出した。北条方はほうほうで八幡山の方
へ引き取ったので、上野衆も烏川の水辺に集まり暑気を凌いで馬の足を冷やしていた。北条方は先手の

敗軍を見て新九郎が大いに怒って命じ、二陣の松田・大道寺を始め雲霞の如く深谷の方から打ち出でた。
一益がこれを見て、「今度は一益が一戦して雌雄を決する! 上野衆は後より続かれよ!」と先に進めば、

滝川儀太夫(益氏)・津田治右衛門・同八郎五郎・同修理・稲生対馬・富田喜太郎・牧野伝蔵(成里)・
谷崎忠右衛門・粟田金右衛門・日置文右衛門・岩田市右衛門・同平蔵・太田五右衛門以下逞兵3千余人が
神奈川を後ろにあてて玉村の方に向かって座備を設け敵を待った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』

神流川の戦い二日目
神流川の戦い、戦後


名胡桃城について、北条氏直の言い分

2018年10月08日 17:01

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/08(月) 02:48:46.60 ID:bp/PQxUM
名胡桃城について、北条氏直の言い分


天正15年11月に、北条家臣が名胡桃城を占拠する事件が発生した。
以下は同年に、北条氏直が秀吉の検使にあてた書状の意訳。

     条目
一、老父の上洛が延びたことで御立腹され、沼津に下向されるとのこと。
  六日の手紙は思いがけないことでした。そもそも夏に妙音院、一鴎軒(宗虎)が
  下向した際に、截流斎(氏政)の上洛はもちろんさせますが、今年は無理がある。
  でも来年の春夏の間になら出来ますよ。という話を筋道立てて説明したのに
  しきりにそれでは済みませんよと言ってきました。それで公儀の事は了簡に
  及ばないので、今月中に半ばまで行き正月中には京に着く予定にしました。
  先年家康が上洛した際には骨肉を結ばれて(秀吉の妹の朝日と家康の結婚のこと)
  大政所を三河にまで移されたとお聞きしたのに、名胡桃のことで御立腹されて
  いるので、ずっと留め置かれたり国替になるかもと方々から声が上がっています。
  一度(そっちに行ったら)帰国は出来ないんじゃないかと截流斎も申しています。
  (私たち)父子の国のこともお察しして下さい。だから妙音院、一鴎軒を招いて
  たとえこのまま在京になるとしても心中晴れやかに心やすく上洛するでしょうと
  申したのです。他の意味はありません。

一、今度の祝儀で上洛させようとした石巻(康敬)の待遇で、面目を失いましたのに
  更に私に対しての扱いもおかしいのはどういうことなんでしょうか。御両所に
  恨み入ります。四日に妙音院をこちらに招いたのは、石巻の待遇の理由がよく
  分からないので内々に尋ねるためだったのです。そうしたら途中で捕まった
  ことを聞かされたので、それは書付にて申し述べることとします。

一、こんなことになっていますが、疑心を持たずに扱ってくれるなら上洛すると
  截流斎は申しています。御両所の御分別に期待します。

一、名胡桃のことは一切存じません。城主の中山が出してきた書付によると
  既に真田がこちらへ渡していたものなので取り合いにはなっておらず
  越後衆が半ばあたりまでやってきて信州川中島と知行替えと申していると
  沼田から連絡があったので加勢したとのことです。越後のことは昔からの
  敵なのでやってきたら一日たりとも沼田は安泰にならないでしょう。まぁ
  彼が申すことが本当かどうかは知りません。家康にもこれを伝えましたから
  徹底的に調べて、二、三日中には報告することが出来るでしょう。決して表裏
  ではないですよ。名胡桃に下向されたとき、百姓屋敷を見分されたでしょうに。

一、以前給わった吾妻領は真田のせいで百姓が一人もいなくなりました。加えて
  中条という地では、人は以前のところに詰めていて渡ってきません。こういう
  些事は申すことではないので打ち捨てて下さい。なんといっても名胡桃のことで
  対決する上は何事もお任せします。以上。

  十二月七日     氏直
    富田左近将監殿
    津田隼人正殿


――『武家事紀 巻第三十三』



283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/08(月) 09:38:17.76 ID:w62eEAoQ
名胡桃城といえば考古学的調査で名胡桃城事件の頃の遺物はほとんど出土せず、
火災の痕跡も若干のみで、とても戦闘で落城したとは考えられず、平和裏に開城したのではないか、
という話が武井英文先生の『戦国の城の一生』に出てた。

北条一門の歌

2018年09月18日 18:13

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 01:12:50.18 ID:3a6RWHwE
「見恋」 いかにせむ心ひとつに月日へて つゐにあはての浦のみるめを 氏政
「蚊遣火」 ながめるつる月日のひかりに影そへて 草の庵りに蚊遣たくらむ 氏直
世の中にあらぬ草木を求めても 法のみちにふみもまよはじ 氏規
「契空恋」 知らせばや契し事ももしほ草 そをだに絶て思ふ心を 氏堯
逢坂のせきのひかしに武の 名やはかくるゝ十五の駒 氏照
色ゝのさかなはあれど今夜しも わきてさゞいのめづらしきかな 氏光
都路をかけていた鳴駒の音 新月夜にや今や別らむ 氏忠
月もはやさ夜ふけがたになりぬれば かれヽになるむしの声かな 氏邦
「月前雲」 やまかぜの吹よはるより久方の 月のな□□の秋のうき雲 氏能
「通書恋」 かばかりやさきの世くやし玉章の むすぶちぎりはあはじ物かな 氏親
冬のうみの時雨るゝ波のはげしきに 身もはづかしのさゞいなるらん 氏冬
見ぬ花やおもふばかりにかきつばた ふかき色香を面影にして 範冬

(喜連川文書)
足利義氏、北条氏康とともに当時の北条一門が読んだ和歌を氏照が記したとされている
また、範冬とは今川範以のこととされている
問題は現在北条関係で発見されている史料において唯一の所見になる氏能、氏親、氏冬とは誰のことなのか

悪い話というか北条研究で未だ解決されない謎の1つ



155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 08:16:59.64 ID:SFBIDdSW
夭逝した氏政の兄貴が氏親とかいわれてなかったっけ?

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 10:16:28.04 ID:kAdBeT5C
早死したんなら和歌が読めない年齢のはず
母親の身分が低過ぎて虫けら扱いだったんだろうな

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 12:59:53.16 ID:d3+CY0nG
>>155
読んだ順番ではなく一門でも家格順じゃないかなあこれ
氏政が上の時点で氏政が家督継承したか次期家督継承者になってるんじゃないかなあ

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 17:15:20.78 ID:rWqd47zb
今川範以だって?妄言も大概にしろ
可能性があるとしたら氏真だろうな

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 18:04:26.15 ID:J62I4Vu1
崩し過ぎて読めなくなったんかな

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 18:05:50.75 ID:HApGphN1
>>156
いや最近の黒田基樹先生あたりの北条研究の本を読めよ。「北条氏親」は氏康の嫡男で
しかも氏康の正妻である瑞渓院(今川氏親娘)の子であり、氏政の同母兄だ。夭折と言っても
氏親の名乗りからも解るように既に元服していて、16歳で亡くなったと考えられているので、
このくらいの歌は詠める。

「曲淵討たすな!」

2018年09月10日 21:09

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/10(月) 17:51:10.78 ID:EDTskGAK
(天正壬午の乱の時)

北条氏直4万余の大軍が梶ヶ原まで迫り乙骨の徳川諸将は撤退を決した。一番は酒井(忠次)、二番は
大須賀(康高)、三番は石川(康通)、四番は大久保(忠世)、五番は本多(広孝)、六番は穴山、

七番は岡部(正綱)と定まった。ちょうどその折に甲州侍の早川弥惣右衛門(弥惣左衛門尉幸豊か)が
見舞いに来た。岡部正綱が「よくぞ来た。一手立て頼む」と言うと、早川は心得て勝沼郷に10人,

20人ほどずつをもって竹槍を使い大勢の伏兵がいるように見せかけた。また衣類を解いて旗のように
見せ、鉄砲少々を用意して北条勢に向かってこれを放った。北条方は伏兵がいるのではと怪しんだ。

こちらは時刻良しと7隊が段々と陣屋を焼き払って引き取った。北条勢はそれ追い掛けよと大軍が雲霞
の如く嵩にかかって敵を見下し、先を遮らんと競い進んだ。

味方は少しも騒がずに敵を嵩に見て、7隊一度に立ち止まり旗を立てて踏み堪えたため、敵はあぐねて
進みかねているところを、足軽を出して鉄砲を射ち掛けながら引き退き、10町ほど引いてはまた敵に

攻め掛かる風情で旗を立て直し踏み堪えた。北条勢がこれを見て少し挫けたところへ神君(徳川家康
は状況を聞こし召し、石川伯耆守数正を加勢に遣わされた。板垣(信方)の旧臣・曲淵庄左衛門吉景が

案内者となり地形を見定めて数正に備を立てさせた。そのうえ曲淵は北条の使番・山上郷右衛門顕将と
言葉を交わして槍を合わせた。伯耆守は「曲淵討たすな!」と命じ、石川勢が打って掛かれば、

氏直はこれを見て「敵は新手なり! 人数を引き上げよ!」と命じ戦を収めて若神子の方へ廻ったため、
味方は難無く新府へと引き返した。今日、忠次は先に引き取ったが、岡部正綱は後殿し、敵は5万に

近い大軍で味方は3千の人数をまったく7里の間に敵を引き付け、1人も手を負わずに引き取ったこと
は古今あるまじきこととして、後々までもこの6手の将を賞美したということである。

(原注:原書(三河後風土記)では、乙骨において双方大合戦があったように記すが誤りである。いま
武徳大成記・三河物語・柏崎物語に拠って改正する)

――『改正三河後風土記』


敵の後にただ一人

2018年06月21日 21:49

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 08:54:19.80 ID:tSvrzezH
小田原の役の時、北条氏直の陣所に対する豊臣方の仕寄場へ、城中より夜討が仕掛けられ先手の者たちが
これに対応したが、この時蒲生氏郷は、具足も付けず鑓を持つと、正面の敵に構わず、敵の後に
ただ一人廻り、敵の後から突き倒し、散々に相働いた。

これにたまらず敵方は城中に引き取ろうとしたが、氏郷一人に責め立てられ、逃げ惑い堀に飛び込む
者まで居た。これを見て後から駆けてきた侍たち、我も我もと頸を討ち取った。
氏郷は数多の敵を突き倒し、その頸を取った者も多かったという。

関白秀吉はその働きを聞いて感じ入り、「氏郷が活躍するのは珍しいことではないが、今回の
夜討に敵の後ろに回り、一人で切り取り数多の頸を討ち取ったこと、当意の機転、古今稀なる働き
である」と讃えたという。

(蒲生氏鄕記)

氏郷の単騎攻撃のお陰で敵の夜討がボーナスステージに成ったお話。



28 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 10:51:47.16 ID:R6dkeP0Z
単騎突撃で死なない人・・・
夜討の混乱状態で後ろに回った機転が、武功と生存の鍵なのか。

29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 19:02:19.99 ID:ZEe/6+m0
夜襲したら後ろから奇襲されたでござる
ゲームの主人公かな?

30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/21(木) 20:26:59.26 ID:z22uOANl
>>27
またしても裸アーマーか

長柄刀のこと

2018年02月06日 19:26

620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/06(火) 18:44:11.64 ID:WKKaJAK1
「昔、関東では北条氏直の時代まで、長柄刀といって、刀の柄を長く拵え、腕貫(鍔つばにつける革緒)を
打ち、束にて人を切るほどの形状であった。

当世ではかき鑓と言って、黒金を長く延べ、鑓の柄に十文字に入れ、その先に小しるしを付けて、
柄にて人を突くような威風を成しているが、物好きと言うのもの、時代によって変わるもののようだ。」

このような話があった時、これを聞いた人は

「その昔の長柄刀を、当世に差す人がいれば、柄が長すぎて目鼻の先につかえて見苦しく
可笑しな事になってしまうだろう。」

そう笑いだした。
この時、かつて関東において、若者たちが皆長柄刀を差していた時代を知っている老士が言った

「どうか若き方々、そのように昔を笑わないでほしい。古今の違いがあっても、その志は同じである。
得ることのみ有り失無く、失のみあって得るものが無い、という事は無いと、先賢の書いた
内外の文章にも見えるではないか。人をそしって我が身の失を省みる、これ人を鏡とする云々。
そも鎌槍は昔より用いられ…(以下神功皇后や頼朝の故事など延々と語るが中略)

さて、長柄刀における、長柄の益というものは、太刀では短く、かといって長刀では長すぎるという
場合に、その中間を取った益である。また、太刀と長刀両方の利点を合体させて常に差すという
利点も有る。

関東の長柄刀は、目鼻の先というような近距離での斬り合いには少なからず欠点がある。
だが、合戦において敵を亡ぼし我が命を護ることには、大益があるのだ、」

(北條五代記)



621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/07(水) 14:40:28.85 ID:0VAmVwxs
>>620
>太刀では短く、かといって長刀では長すぎる
そんな時あるかなぁ?

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/08(木) 22:00:40.69 ID:h1pB8ljj
>>621
屋内とか?

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/09(金) 01:08:37.57 ID:VQF9KdDF
そういえば、刀の腰への差し方が逆になったのは
室町以前の太刀式だと屋内でつかえて面倒だからなんだってな

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/09(金) 14:43:51.13 ID:78A2SVdl
>>625
家の中なら刀で十分と思ったけど、昔の屋敷や土間のある作りならたしかにぴったりかも。

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/09(金) 15:42:22.81 ID:8hqIVnpV
薙刀が振り回せない程度の密集した乱戦で使えば太刀より少しリーチがある分有利って事やろ

670 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/02/25(日) 15:16:32.73 ID:7M1bZXLQ
>>621
有るよ
リーチが長いので突きに有利
巌流島でもそうだけど長い方が勝つ場合がある
当時剣術が未発達だったからね
平安鎌倉は薙刀も標準装備だよ

横山光輝の漫画って結構、こういう交渉が優れてなされてるんだよね
今の漫画のように解説で述べるんじゃなくて漫画そのものに説明なく描かれてる

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/25(日) 16:58:03.35 ID:ugAEYEIr
なお横山光輝水滸伝の双鞭・呼延灼
https://i.imgur.com/mue2gnr.jpg
mue2gnr.jpg

関八州に鉄砲始まること

2018年02月03日 11:55

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 10:39:52.82 ID:Wka7mPI2
関八州に鉄砲始まること

昔、相州小田原に玉瀧坊という、年寄りの山伏が居た。愚老(三浦浄心)がまだ若かった頃、
その山伏からこんな話を聞いた。

「私は関東より毎年大峰に登るのだが、享禄(1528年8月20日~1532年7月)の始まる年、
和泉の堺へ下った折に、大変な鳴り物の音がした。これは何事かと問うた所、鉄砲という、
唐国より永正七年(1510)に初めて渡ってきたのだ、そういって標的を撃った。
私はこれを見て、さても不思議奇特なるものかと思い、この鉄砲を1挺買い取って関東へ
持って下り、当時の屋形であった北条氏綱公へ進上した。そしてこの鉄砲を試射をご覧になると、
『関東に類なき宝である』と、秘蔵された。」

この事を近国他国の、弓矢に携わる侍たちが聞くと、『これは武家の宝である。昔鎮西八郎為朝は
大矢束を引く、日本無双の精兵で、弓の威力を試みるため鎧三領を重ね木の枝にかけ、六重を射落とした
ほどの強弓であったという。保元の合戦で新院(崇徳院)に味方し、八郎一人あって多くの敵を
射殺し、そのため数万騎にて攻めても、その矢を恐れ、院の御門を破ることは出来なかったという。

現在では、弓があっても良き鎧を着けていれば恐るるに足らない。しかしなんといっても、
かの鉄砲は、八郎の弓にも勝るものなのだ。所帯に変えても、一挺欲しきものだ。』

そう願っていた所、氏康公の時代に堺より國康という鉄砲張りの名人を呼び下された。
また根来法師の杉坊、二王坊、岸和田などという者たちが下ってきて、関東を駆け回り鉄砲を教えた。
このような事があって、現代では人ごとに一挺所持している、というような状況となった。

そうして、あの北条氏直公の小田原籠城の時(小田原の陣)、敵は堀際まで押し寄せ、海上も隙間なく
船で包囲した。秀吉は小田原城の西に山城を築き、、小田原城を目の下に見てこう申された
「この秀吉は何度も合戦城攻めをしたが、これほどの軍勢を揃え、鉄砲を用意した事は初めての
幸いである。時刻を定めて、一度に射撃させ、敵味方の鉄砲の様子を観察したい。」
そう、北条方へよびかけた。双方同意し、五月十八日の夜、双方数万挺の鉄砲にて一斉射撃を行った。
これにより盾も矢倉も残り無く撃ち崩されたという。

北条氏直の方も、関八州の鉄砲を兼ねて用意した上で籠城をしたのであるから、敵には劣るまじ、
鉄砲比べせんと、矢狭間一つに鉄砲三挺づつ、さらにその間に大鉄砲を設置し、浜手の衆は船に向けて、
海際まで出、日が暮れるのを待つと、十八日の暮れ方より撃ち初め、敵も味方も、一晩中に渡って
射撃し続けたため、天地振動し月の光も煙に埋もれ、まったくの暗闇となった。
しかしそれにより、射撃による火の光が一層現れ、限り無く見えること、満天の星のようであった。

氏直公は高矢倉よりこれを遥かに見て、狂歌を詠まれた

『地にくだる 星か堀辺のほたるかと 見るや我うつ鉄砲の火を』

これを口にした所、御前に従う人々が
「御詠歌のごとく、敵は堀辺の草むらに、蛍火が見え隠れするようです。城中の鉄砲は
さながら星、月夜に異なりません。」

そのように語ると、氏直公はニコニコと笑みをお見せになられた。
愚老は相州の住人であった。小田原に籠城した時の事、今のように思い出される。

ともかく、鉄砲は永正七年に唐国より日本に渡り、それ以降繁栄し、この慶長十九年までで
百五年である。関八州にては、享禄元年より今年まで、八十七年となる。

(北條五代記)

一般に言われる、鉄砲記の天文12年8月25日(1543年9月23日)伝来説からは、33年も遡っていますね。



610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 11:27:55.53 ID:t7jLHXY4
イゴヨサンガホシイテッボウ

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 11:36:10.42 ID:bwluwx56
一斉射撃だなんて粋だねえ

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 14:05:47.02 ID:T8vcZ8Wi
まとめの1077に
北条氏康が12歳の頃鉄砲の音聞いて驚いて笑われた話があるけど
これはその鉄砲かな

ポルトガルの文書だと1542年だっけ、鉄砲伝来は

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 17:26:41.43 ID:6A/dZne6
いわゆる鉄砲伝来は欧州からのマスケット銃が伝来した史実を指す。
一方、東アジア及び東南アジアでは中国発祥のマスケットである鳥銃が広く普及していて、これが日本に部分的に伝来していた可能性は以前から指摘されている。
というか16世紀中盤時点で銃を知らなかった文化ってアジアでもフィリピンと日本だけなんじゃないか。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/04(日) 19:05:07.80 ID:7bntfjjr
キリスト教:1世紀前半にできて、日本伝来は1549年(1500年くらいかかった)
鉄砲(マスケット銃):15世紀前半にできて、日本伝来は1549年(100年くらいかかった)
梅毒:1492年くらいにヨーロッパ人が感染し、日本伝来は1512年(20年くらいかかった)

宗教、武器、性病の伝来順序が西欧に現れた逆なのが面白い

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/04(日) 22:46:11.25 ID:C2CGA8dd
景教の経典として漢語訳された聖書を遣隋使か遣唐使が持ち込んではいるけどな

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/05(月) 11:12:21.53 ID:4RZFuuGH
元代のマニ教の宇宙図が日本にあった、て話はあるけど
景教経典が持ち込まれた、て話はあったっけ
あとは「甲子夜話」で松浦静山が
「群馬県の多胡碑(711年頃)の近くに十字架が発掘された。
おそらく多胡碑の羊というのはキリスト教徒の一族だろう」
と怪しげな説を唱えているくらい

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/05(月) 14:27:46.51 ID:s4DWgBB+
景教って平家とか朝倉家にいてもおかしくなさそうな名前

一つ提灯

2018年01月24日 18:36

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/24(水) 05:54:22.06 ID:oHBascNf
北条左衛門大夫(綱成)家中に、相州甘縄の住人、三好孫太郎という勇士があり、彼は指物に
提灯七つを付けており、「孫太郎が七つ提灯」と言って、隠れない物であった。

そのころ松山肥後守寄騎に山下民部左衛門尉という者がいたが、彼の指物は六つの提灯であった。

天正十三年の秋、北条氏直佐竹義宣が下野において対陣を張り戦ったが、この時、
三好孫太郎山下民部の六提灯の指物を見て馬を寄せ、尋ねた

「其方の指物に、何か仔細はあるのか?」

「提灯に何の仔細があるものか。我の好みだ。」

これを聞くと孫太郎は憤った
「武功を積まずして六ッ提灯は指して良いものではない!あれは天文十五年頃、上杉と
北条氏康公が武州において合戦した時、私は一番槍の誉れあり、氏康公より褒美の感状があり、
その時私は、一つ提灯を指物として頂いた。その後また忠ありて、二つ提灯を指す。三度功ありて
三つ、四度五度六度七度忠勤を抜きん出て、重ね重ねの功により、この七つ提灯を授かったのだ。
故に、孫太郎が七つ提灯と名が付けられ、関八州に隠れないものとなったのだ!」

馬上にてこのような問答となった。

その日の競り合い戦に、佐竹方に大石八郎という者、釣り鐘の指物を指すていたが、彼は名乗りを
上げると

「諸人に先立ち、我と思わん者あらば組んで腰部を決せよ!」

そう言って長刀にて斬って回る所に、山下民部馳せ合わせ、馬上から組んで双方落馬した。
民部は大力であったので、八郎を組み伏せ首を取った。

この時、ふと気が付き、自らの指物のうち、提灯五つを切り捨て、一つ提灯にして指した。
人々はこれを見て、「民部左衛門は問答してから時を移さず誉れを顕し、一つ提灯を指すこと、
かつて聞いた孫太郎の武勇にも劣らない!」
そう賞賛したという

(北條五代記)



592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/24(水) 23:37:21.30 ID:ztqaLHlA
ちょっとカッコいい話だな

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/25(木) 00:34:38.71 ID:kYpqHmCq
山下(あっこれ面倒くさい人だ、次にアピールしとかないとなあ)

賞賛してるのが人々で、三好さんの評価が無いのも気になる

自分の手で頸をもたげ

2017年04月13日 11:21

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 08:32:23.85 ID:WJZIhrj7
北条家の馬屋の預かりであった諏訪部という者は、度々善き働きがあった。

豊臣秀頼の小田原陣の時、諏訪部と勝田八左衛門という両人が物見に出た所、急に敵に接近され、
二人は早々に引き取った。
この時、諏訪部は馬屋の別当であったために善き馬を持っており、この敵の急追を振り切って
帰ることが出来た。
しかし勝田は良馬を持っていなかったため、敵を振り切ることが出来ず、立ち止まってこれと戦った。
勝田が後に残ったと聞いて、北条軍の人々はこれを救出するため馳せ参る間に、勝田は敵に討ち伏せられ
頸を半ば過ぎまで切られていた。

敵は勝田の救援が来たのを見て引き取った。しかし助けに来た味方も
「勝田は深手を負っているから連れ帰っても死ぬだろう」とこれを棄て帰ろうとした。

ところが、勝田もさすがの勇者であった。彼は自分の手で頸をもたげ、
「未だ生きているのに、各々は棄てて帰るか!?」
と喚いた。

味方はこれを聞きつけ、彼を連れて帰った。

この時、諏訪部は良馬を持っていたが故に却って遅れを取り、勝田は危うい命助かり、勇を表した。
そう、その頃の人々は沙汰したという。

勝田八左衛門は吊り鏡の指物を差していた。後に漂泊し、松平右衛門太夫(正綱)の所で身罷ったそうである。

(士談)

なんというか色々凄まじいお話



807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 11:04:17.58 ID:5tXU3jKh
デュラハンかよ....

808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 11:22:59.31 ID:KM5oiyGV
関東武士はいろいろとオカシイ

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/13(木) 14:31:47.16 ID:wGmclQZB
>>806
助かったのかよw!

にぐるもはやき あしがらの敵

2016年06月05日 22:02

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/05(日) 01:17:14.47 ID:uXEk1Z/S
 天正十八年庚寅の年三月朔日、大相国秀吉公、小田原北条左京太夫氏直退治のため
駿河に長陣あった時、裾野で、
「曽我兄弟が乗った馬に水より他に飼葉がないと言ったのも、今では自分の身のように覚える」
と嘆いているのを聞いた大村由己は

在陣を するがのふじの 山よりも たかねにかふは 馬のまめかな


 同じ年の三月二十九日、山中の城を攻め落とされると、その勢いに恐れ、
北条勢が箱根足柄の城を明けて退いたときに

山中を せむればあくる はこね山 にぐるもはやき あしがらの敵

(醒睡笑)




豊鑑より、北条への認識

2015年06月23日 17:39

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:35:01.10 ID:yUxMH566
その秋、北条美濃守(氏規)と言う者が上洛した。これは北条氏直の叔父である。
この北条氏直というのは、東の国々を7つばかり従え、相模の小田原に在った。

彼は北条時政の子孫ではない。早雲という人物の子孫であるが、彼も彼の国の者ではなく、
都あたりの出身であったが、従者一人二人ばかりで駿河国にさすらい行きて、今川のなにがしに
縁があったが、よろず優秀な人物だったので今川氏の心にかない、漸次出頭したが、伊豆の国に移り、
どうやったのか彼の国を従え、2年3年の内に相模の国を心のままにして、相模の小田原に移り住んで
なおも武蔵、上野の切り取りををこころざしたという。

その嫡男である氏康という男子、父にも劣らず賢く、武士の道にたけく謀ある人物だったので、
彼の時に武蔵、上野、上総、下総などまで従え、一族広く富み、権勢盛んとなったこと思い知るべきであろう。

氏康の嫡男である氏政は、老いたというには幾ばくも至らない内に嫡男氏直に世を譲ったそうだ。

(豊鑑)

当時の畿内における、北条への認識がかいま見られる豊鑑の記事である。
というか氏綱…。



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:58:04.50 ID:wOzHKolz
まあ、ハブられてもしゃあないというか
無関係なところの人間にしてみたらそんなものじゃないの

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:03:39.10 ID:IpAvlnDm
もう出自不明になってたんだんだ

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:31:55.43 ID:g+i0E8PA
毛利の長男よりはまし

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 10:46:03.74 ID:LkICDGu3
斉藤道三の国盗りと一緒で一人と思い込んでたんじゃねーの?

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 23:34:23.03 ID:KeJRBl/z
>>973
興味薄いからろくに調べなかっただけでそ。
東国は別の国みたいなもんだし。

「十一月二十四日付北条氏直宛秀吉書状」

2015年05月10日 16:10

769 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/10(日) 00:23:24.37 ID:0KWMipET
『この秀吉は、若い頃は信長公に一人で従い、肉体は山野に捨て、骨は海岸で砕き、合戦を枕にし、
夜更けに寝て朝早くに起きて、戦功に励んだ。そのため中頃から君恩を頂き、人に名が知られるようになった。

こうして、西国征伐を命じられ、大敵に対して雌雄を争っていた所、明智日向守光秀が道理もなく
信長公を討った。この知らせを聞いて、私はかの方面(毛利方)を押し詰め思い通りにした上で、
直ぐに上洛し逆徒である光秀の頸を討って、信長公の恩恵に報い、会稽を雪いだ。

その後、柴田修理亮勝家が信長公の厚恩を忘れて国家を乱し、反逆したのでこれも退治した。
その他、諸国で背いた者を討ち、降伏した者は赦したので、我が麾下に属さないものはなかった。

この秀吉はとりわけ、一言の表裏もしたことがないので、そうしたことからも天道にかなっているのだろう。
私は既に高い地位に出世し、武勇の誉れを得て。君主(天皇)をたすけ、欠かすことの出来ない臣として
すべての政治を取り仕切っている。

しかし北条氏直は、天道の理に叛き、帝都に対して謀を企てた。どうして天罰を蒙らないことが有るだろうか。
古いことわざに、「巧みな言葉で偽って人を欺くことは、下手な言葉でも誠実であることに及ばない」という。
天下に知れ渡っている勅命に叛く者は、早々に征伐しない訳にはいかない。
来年には必ず、帝より授かった旗を携えて進発し、氏直の首を刎ねることについて、もはや後戻りすることはない。

天正十七年十一月二十四日 (秀吉朱印)
            北条左京大夫(氏直)どのへ 』

(北条文書 「十一月二十四日付北条氏直宛秀吉書状」)

秀吉が北条氏直に宛てた書状の中で、自分が最高権力者になる過程について語った部分である。




庭林坊の事

2015年04月26日 16:08

697 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/26(日) 03:06:59.59 ID:ier522gz
庭林坊の事

天正元(1573)年北条と里見との間で合戦があった

小田原へ向け里見の水軍が押し寄せているという噂が広まると、誓願寺の庭林坊は唐傘を差して見物に出かけた

すると浜には先客がいて、三本唐傘の旗印を差した高山大膳といった侍が沖の船に向かっていくさ名乗りを上げていた

庭林もこれを見て「拙僧は第二陣、浄土宗誓願寺の法師武者、唐傘の庭林なり」と名乗りを上げた

ところが沖の船はただの釣り船だと判明し、集まった人の間から失笑が漏れた

「高山某と誓願寺の坊主が釣り船に勝負を挑んだwwwwwwwwwww」

この噂は北条氏政の耳に入り、氏政の子の国王丸がその坊主を見たいと御前に召し「昨日のごとく言葉を違えず名乗ってみよ」と命じた

庭林坊はほかならぬ北条の若君の頼みとあって、庭へ下りて唐傘をばっと開き名乗って見せた

国王丸は大笑いし、庭林にたくさんの褒美を下されたという

『北条五代記』

ちなみにこの庭林、後の前田慶次の朋友と言われる




大丈夫と言うべきである

2014年11月23日 18:58

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 14:13:46.03 ID:Pe986KLZ
北条氏滅亡の後、豊臣秀吉板部岡江雪斎に対し、

「お前は先年、北条の使いとして上京し、約束したのに、たちまち背いて
名胡桃の城を取った。それは氏直の姦計だろうか? あるいはお前の偽りか?」

と責め問うた。これに江雪は「じきに申しましょう」と答えたので、

秀吉は大いに怒り、手かせ足かせを並べて江雪を呼び出し、刀を奪い取って
左右の手を引っ張り、庭上に引きずった。そして罵って曰く、

「お前が約束に背いたことは、誠に憎むに余りある! その上、日本国の兵を
動かし、主君の国を滅ぼしたことは、お前にとって快いことなのか!」

と、江雪を責めた。これに江雪は顔色も変えず、

「氏直には、まったく約束に背く心はありませんでした。辺鄙の士が愚かだった
ために名胡桃を取り、ついに戦いに及んで北条の家は亡んでしまいました。

その事は、江雪の思慮では、どうにもなすべき手立てがありませんでした。
誠に家の亡ぶべき運命だったのではないでしょうか。

されども、日本国の兵を引き受けて戦ったことは、北条家にとって名誉でした。
この他に申すべきことはありません。早く首をお刎ねになってください」

と言った。すると秀吉の顔色は打ち解け、

「お前を京に引き上らせて磔にかけようと思ったが、大言を吐いて主君を辱め
なかった。大丈夫(立派な男子)と言うべきである。命を助けよう、我に仕えよ」

と言って、彼を許した。板部岡を改めて岡と称したのはこの時からのことである。

――『常山紀談』



235 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 14:38:09.50 ID:VfEz0+kO
憲秀「…

236 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 19:48:24.26 ID:RIqtraW4
岡江雪斎になったのか

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/23(日) 21:16:06.58 ID:jjCqT+TR
獏「岡江さん?」

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/11/24(月) 01:54:49.33 ID:Axoil3Ue
>>236
岡野融成

家康は己の無知と愚かさを思い知らされたであろう

2014年03月27日 19:03

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/26(水) 20:57:44.68 ID:U78NsWV6
かくて関白(豊臣秀吉)は北条殿(北条氏直)の国に入り、幾つもの地点から戦闘を開始した。
北条殿は若干の城を守りぬくことを決意し、関白の軍勢の包囲と遭遇に備えた。というのは、彼らにとって
自ら出撃して関白と一戦を交えることは適当ではないと思われたからである。関白はこの戦いを命ずるにあたり
贈賄と威力を巧みに使い分けながら、まもなく他のすべての国を支配するに至ったので、彼に抵抗するのは
北条殿の城だけになり、その諸城も徐々に包囲が狭められ猛攻にさらされた。

しかしそうした事態にもかかわらず関白の軍勢の窮状は否定すべくもなかった。何故なら北条殿の城内には
充分な蓄えが有り、多大の兵力を要していたので、人力を持ってしてはそれらの諸城を占拠することは
不可能に思われた。

一方関白の兵士たちは、遠隔の地方の出で有り、長途の旅で衰弱し、豊富な食料にありつけぬばかりか
その点では不足をさえ告げていた。従ってわずか数ヶ月で城を陥落させることは到底考えられず、まして
冬季に入れば積雪のため包囲を継続できなくなって退避を余儀なくされるに違いなかった。
しかもこの撤退の折こそは北条の軍勢にとって待望の機会であり、そのさい思いのままに攻撃し
関白勢を一挙に壊滅せしめようというのが北条方の魂胆であった。

だが我等の主なるデウスは、この人物(秀吉)を日本における聖なる正義の剣と鞭として選び給うたようであった。
彼は運命にも所業にも、極めて恵まれており、また非常に慎重で、とりわけ知恵と策略によって取引する術に
長けていたので、これらの諸城は孤立してしまい、中でも北条殿が家臣たちから取っていた人質の大半が居た
いくつかの城は陥落してしまった。このために、また大抵は関白の贈賄その他の手慣れた手段と策略に
陥ったため、北条殿が主だった武将らとこもっていた主城(小田原城)の兵士たちは戦意を喪失し辟易した。
そして彼らは北条殿の義父にあたる徳川家康の仲介によって城を明け渡すことを詮議し始めた。

降伏の申し出を受けた関白は本件を意のままに裁くこととし、北条(氏直)殿の父(氏政)と叔父(氏照)に
切腹を命じ、氏直自身に対しては剃髪して紀伊の国のある仏僧たちの広大な里である高野の僧院に追放する
事とした。同所には戦いに敗れたものやその他、自らの企てに失敗した不幸な人達が収容されていた。
北条氏直は義父家康の懇願によって生命だけは赦された。かくて北条の他のすべての家臣たちは助命され、
主要な家具を携えて退城することが認められた。

こうして関白はこの四ヶ月間で、従来の勝利のうちで最も名誉が有り、期待以上の勝利を収めた。
なぜなら、彼はこれによって日本全土の征服事業に結末をつけたことになり、その絶対君主となるに至った
からである。

ここにおいて彼は、かねがね腹蔵していた計画の実行に直ちに着手した。それは徳川家康に対して、
彼が当初所有していた都に近い5つの国を手放すように命じ、それに代わって関白は家康に別の同数の国、
ならびに北条殿から獲得した諸国の幾つかを与えることにした。そして家康からの返答を待つこと無く、
それらは全て関白の欲するままに実行された。

おそらく家康は関白に城を明け渡し、北条殿を屈服させることに関して援助を買って出た己の無知と愚かさを
思い知らされたであろうが、彼はこの苦衷を一人おのが胸中に秘めていた。

ルイス・フロイス『日本史』)


ルイス・フロイスによる、小田原陣に関する記事である。




827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/27(木) 01:29:43.02 ID:Voi5/N5n
>>823
小田原の陣だけ珍しく正確な報告だなw

岡部権太夫の指物

2013年03月11日 20:02

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 21:36:00.72 ID:ozCl1eoC
天正13年(1585)の秋、北条氏直の軍と佐竹義宣の軍とが、下野国の大和田と藤岡という所にて
対陣をしたが、大合戦にはならず、200騎ばかりでの小競り合いが起こった。

この中に北条方の岡部権太夫と言う者、黒糸縅の鎧に、同じ毛の兜を付け、猪の指物をして一陣に
進み出、あまたの敵と戦ったが、ある敵と引き組んで馬から落ち、上になり下になって
転がったが。終に岡部が上になって敵の首を取り、これを拾って味方の陣に帰ろうとした。

と、その時、彼は自分の指物を落としたことに気がついた。敵にこれを拾われるのも無念の事と
思い、自分の討った首を引っさげて、再び敵陣の方へと向かったのだ。

この岡部権太夫の動きに敵も見方も怪しみ訝しんだ。このよ行動は、心変わりをして
敵に降参するようにしか見えなかったためである。

岡部は敵陣近くまで来ると馬を停め、大音を上げて言った

「ここに在るは下総国の住人、岡部の権太夫と云うものである!
先陣の駆け引きにおいて敵と組み、首をひとつ取ったのであるが、我が指物を落としてしまった!
紋は猪である!

されば、この首は未だ大将の実検に供していない!
我が指物を拾われた御方、どうかこれと取り替えて頂きたい!」

敵はこれを見て、なんとけなげな侍の心ばせだろう。ならば彼に返してやるべきだ、
などと話していた所に、河中喜平次と云うもの、岡部の指物を持って出てきて

「あなたの御心ばせに、やさしくも感じ入りました。これは、お返しいたします。」

と言って差し出した。

これに岡部は
「武士としてその情を深く感じ入っています。出来ればもうひとつご芳志に、指物を指し筒(背中で
指物を固定する筒)に指していただけないでしょうか?」

と言って馬の口を引き返し、後ろ向きになって敵に指物を指してもらい、それから
首を河中喜平次に渡して、味方の陣に静かに帰っていった。

これには敵も味方も、稀代の剛の者かと、岡部を褒めぬ者は居なかったという。
(軍人頓智叢談)




706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 22:58:28.39 ID:1vD1W6ZD
猪の紋ってどんなのだろうw

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 23:13:51.74 ID:j0aLHUcX
~にしか見えなかった、って・・・
味方の首持って来た奴の降参を受け入れるの?

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/11(月) 07:40:00.46 ID:MN3iRA3L
>>706
真壁氏の旗指物がちょうど猪。
ttp://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/topics/news/photo/h22/07/7-12.html
072302.jpg

珍しい旗指物だとは思うけど佐竹、北条の境界で珍しいかと言われたら
真壁さんが泣いてしまうと思う。

709 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/11(月) 13:03:44.36 ID:65W20Li6
>>708
おお、乙事主様的かっこよさ


712 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/12(火) 20:18:03.83 ID:Xx6Ke432
>>705
既出だな
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-785.html
当時のランキングで2位になるほどの話(一位は出世の白餅)
iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-821.html
もう4年も前のレスだが

713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/13(水) 07:56:50.81 ID:K8khZqNi
俺はもう四年もスレに張り付いてたのか…(絶句

714 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/13(水) 12:31:07.32 ID:e6sbVAIy
>>713
いい話だ


北條ミカン・中国ミカンバージョン

2012年06月24日 21:02

109 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/06/24(日) 01:14:49.40 ID:XCF0KyZA
織田信長が本能寺の変で自刃に追い込まれると、その旧領を巡って北条家は徳川家康と争ったが、
上野を北条領、甲斐と信濃を徳川領とする事で和睦した。この和睦の証として、家康の娘である督姫を正室に迎えた氏直は
ある日、家康から中国産のミカンを贈られたのだが、北条家の面々はこれをただのミカンと勘違いし、

「徳川領ではそんなにミカンが珍しいのか。ならば山ほど送って驚かせてやる。」

大箱いっぱいのミカンを送り返した。これを受け取った家康は

「氏直はまだ若いから仕方ないが、老臣たちも一緒になってこんな子供じみた真似をするとは、
 北条家も滅亡の運命にあるな。」

と冷笑したという。




110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 01:18:04.77 ID:G4W9ko1k
>>109
この話っていろいろなバージョンあるよな



111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 01:18:46.41 ID:cg09ikiR
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6485.html
今月頭にも出た

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 01:26:45.77 ID:PCMdbXAz
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2892.html
こっちの話だとオレンジだね

統合すると、北条に送られた物候補は、オレンジ、九年母、中国ミカンか

113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 01:53:12.07 ID:lQVuy8FS
滅亡した大名って言われ放題だよな(´・ω・`)

114 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 02:39:06.80 ID:KNx+oA6x
しかし判官贔屓されない不思議
日本人は判官贔屓大好きなんじゃねーのかよー

117 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 03:17:14.57 ID:c3mdYiEV
>>114
最近、判官贔屓に拒絶反応が出るようになって
やっぱり時代を作った人のほうが凄いやって思うようになったな

118 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 03:48:00.62 ID:CDjhDghM
その辺りは時勢と関係しそうだね
信長みたいな武将に今の閉塞した空気を作り替えてもらいたい

119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 04:36:38.31 ID:L7BEoLx5
三条大橋たもとで梟首の後、石櫃に納めて展示するだけの簡単なお仕事です。

名胡桃城奪取と北条氏直

2012年06月24日 21:01

115 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/06/24(日) 02:52:45.06 ID:XCF0KyZA
話がかぶっていたとは失礼しました。 もう一つ北条の逸話を…

1586年、徳川家康が織田信長の後継者として勢力を伸ばしていた豊臣秀吉に臣従し、北条家も服属を迫られる状況となった。
家中では、当主の氏直ら恭順派と、家中に強い影響力を持つ父の氏政ら交戦派に分かれたが、家康の

「こちらの説得を聞き入れない場合は同盟破棄も辞さない。」

という強い説得を受け、秀吉に使者が送られる事になった。その後、北条家と豊臣配下の真田家との間に会った領土問題に秀吉が
裁定を下し、北条家もこれを受け入れて、氏政が上洛し臣従の意を示すことで話がまとまりかけた。所がそこに、北条家家臣、猪俣邦憲が
真田配下の名胡桃城を奪取するという事件が勃発した。これに激怒した秀吉から

「必ず氏直の首を刎ねてやる!」

と宣言されると、氏直は

「北条家は何も知りません。父の氏政は上洛させますが、そのまま抑留されるなどの噂もありますので、
 かつて家康殿の上洛に際して豊臣家から人質を出した様なご配慮お願いします。」

といった弁明書を送り、家康にもとりなしを頼んだものの、聞き入れられる事は無かったという。




116 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 03:05:32.11 ID:G4W9ko1k
>>115
名胡桃城奪取は秀吉の策略だったっていう説もあるよね

秀吉は最初から北条家を潰したかったのかな

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 08:25:15.88 ID:XlXEwLQX
>>116
どういう策略を使ったら北条に真田を攻めさせれるんだ?
その策略が知りたい

122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 08:40:01.57 ID:cfWXMFj4
>>120
北条じゃなく猪俣を羽目たんだろ

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 09:25:33.31 ID:UaJtz3Jf
攻めるといっても物理的に攻めたわけじゃなく寝返りだからなあ
はめるのは簡単だろう

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 09:52:41.86 ID:F/V7u639
あの時期は北条がどうあがいても豊臣に攻められるのが確実になったから、
猪俣が北条勢の防衛戦のことを考えて名胡桃城を奪取したみたいだよ。
戦術的な判断で、あの城取ると上野の防御の助けになるとか。
また氏康時代から、本城の小田原で侵攻軍を受け止めて、支城で絡め取る戦法が通用してたから、
豊臣勢にも同様に通用すると思ってたらしい。

でも豊臣の攻勢は一拠点で支えられる規模では済まなくて、
四国や九州を攻めたように多方面から大軍を投入してきた上に、補給も完璧だったからご存じのとおり小田原も落ちた。
完全に秀吉の戦略勝ちで、関東の一武将では思いつかないくらいスケールが大きい攻勢だったんだね。

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 11:18:40.76 ID:5M4ODsf0
>>116
ねーよ
小説真に受けんなw

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 11:50:49.76 ID:lQVuy8FS
北条が生き残った場合の豊臣政権ってのも見てみたい

ナンバー2とナンバー3が縁戚でラスボスもあんまり無茶できないだろうな

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 12:08:26.20 ID:SG+Vq1CY
>>125
実はそうでもなかったりするんだな
豊臣の対北条の饗応役のその後を見るに

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 12:14:54.83 ID:G4W9ko1k
>>125
小説で出てたのか

何ていう小説?

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 12:26:35.09 ID:26aRAo2S
秀吉は何かといえば「北條は必ず滅ぼす」「北条攻めの準備をするように」って発言や指令を出すんだよね。
それこそ小牧長久手から小田原合戦までの8年間、ほぼ絶え間なく。
こういう状況があるから北條もうかつに秀吉を信じるわけには行かなかったし、常に警戒を行う必要があった。

130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 12:29:32.06 ID:1Z8Av8D3
よっさん北条に何の恨みがあって…

131 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 12:32:25.85 ID:7p6rjKG8
>>126
秀吉的にはそんなめんどくさい状況にしたくないだろうなあ。
ちゅーことはやっぱり北条はどう対応しても潰されたんじゃなかろうか。

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 12:32:39.69 ID:u4KHU94P
>>128
真田太平記

133 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 12:35:07.14 ID:SG+Vq1CY
北条は織田に協力したのも遅かったし、
その上、本能寺の変の直後にすぐさま織田を裏切っていたしなあ

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 12:40:59.24 ID:cg09ikiR
>>131
家康「北条からミカンが山ほど送られてきた」
秀吉「これほど見事なミカンを産出する国がそばにある。
北条はなんとしても滅ぼさなければならぬ」
加藤清正(大カトー)加藤嘉明(中カトー)加藤光泰(小カトー)
「そうだそうだ」

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 12:44:09.09 ID:G4W9ko1k
>>132
自分はたぶんほかの小説で見かけたと思う

ちょっと無理があるんじゃないかなあと思ったけどw

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 16:40:53.77 ID:+k+xMmvQ
>>124
名胡桃城と沼田城って利根川を挟んでだいたい3㎞くらいしか離れていないんだよね。
晴れた日なら見えるくらいの距離だから、そこが敵方のままでは沼田城を活かしきれない。

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 17:08:07.40 ID:2bQdFUfL
やるおでやる真田家みてると真田パパンがはめたように思えてくるけどな。

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 20:26:10.69 ID:vC4ERPjY
上杉や北関東の反北条諸氏の取次やってた石田三成が北条の上洛を嫌がってた節がある
「北条の兄弟衆が上洛したら事態は最悪だぞ」って警告する書状が残ってるみたいだし
石田ごときの讒言に左右はされないだろうけど、秀吉が北条滅ぼす気満々だったのはこの辺も関係するのかな?

対して家康はギリギリまで秀吉と北条を取りなそうとしてたし、戦後も氏直赦免に奔走した
三成と家康の対立って結構早い段階から始ってたのかな

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 21:22:44.68 ID:c3mdYiEV
そりゃ氏直は家康の娘婿だもの

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 22:10:35.42 ID:F/V7u639
氏直が関ヶ原まで生きてればとは思う

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 22:28:21.99 ID:26aRAo2S
北条氏直は北条家家督であると同時に、
今川氏真養子として今川の継承権を、
武田信玄娘黄梅院の子として武田の継承権を所持しており、
さらに徳川家康の娘婿という、東国大名のサラブレッドにも程がある存在だったりするw


142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/24(日) 22:40:51.06 ID:NR1LLmj6
氏直は北条を名乗ってないって話は本当なのかね?

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/25(月) 11:05:46.13 ID:nkKcnEi3
>>134
Hojo delenda est 乙

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/25(月) 13:35:44.01 ID:yIl1GZjS
>>141
ラスボス「女ならともかく、男にはいかなる興味もありません」

152 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/25(月) 16:03:10.84 ID:9NNhsfhs
>>141
むしろ絶対生かしておけないだろ
旧三国同盟の遺臣をすべて統合できる人物なんだから天下人にとって不発弾でしかない

信長は実子を養子として送り込んで家と権威を乗っ取るかもしれない
家康は事実、娘を嫁がせて敵対しないよう懐柔した
しかし、秀吉は上記の手段をとれないため潰すしかなかった

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/25(月) 17:31:53.64 ID:TO9LxSsc
そんな血縁だけで統合できるわきゃねーよw

154 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/06/25(月) 17:37:23.99 ID:11IoEfL6
貴種の血脈は誰かが統合の象徴として利用するには、価値の高い存在だよ。
足利の代々とか、尼子勝久とか
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