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義明はさしもの大将なれども

2021年12月30日 16:05

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/30(木) 13:58:13.14 ID:vgUkxAIX
(第一次国府台合戦の時。足利義明の討死後)

義明はさしもの大将なれども、運尽き果てむざむざと討たれ給う。

佐々木四郎、逸見八郎、佐野藤三、町野十郎以下、御馬廻は深入りして戦ったが、大将の御討死と聞いて、
今や誰がために戦をするというのかと各々馬を乗り放し、大将の死骸を枕として自害する他はないと各々馳せ行った。
そこへ逸見山城入道(忠次入道祥仙。小弓公方家の重臣)が馳せて来た。山城守は右臂を斬られ、
草摺に立つ矢は少々折掛け、彼らに理を尽くして申すには、

「皆々が自害なさるのは武士の本望である。しかしながら、小弓に残し置いた若公達を誰が隠せるというのか。
定めてむざむざと生け捕られて、名将の御一跡を匹夫の蹄にかけては口惜しいことであろう。嘆いても余りある。
此度の命を全うし君達を落とす謀をなし、時節を見合わせ先君の恨みを死後に報じなされば、君も嬉しく思し召すであろう」

だが彼らは一同に申し「口惜しきことを宣うものかな!ここを逃れて再び誰に面を合わせられようか、自害せん!」と留まる。
山城守は重ねて申して「これは各々の誤りなり!“死を一途に定むるは近うして安し。謀を万代に残すは遠くして難し”という。
ただ早く早く!」と勧められ、彼らは伴って小弓へ帰り若君に御伴して御宝物を取り、御殿に火をかけ房州へ落ちて行った。

山城守主従2騎は義明の御骸の辺りで馬から飛び下りて扇を挙げ、
「これはこの日頃、鬼神のように申しつる鎮東の将軍、源の義明と聞こえさせ給いし御内の侍にて逸見山城守という者なり!
小田原方に我と思う者あらば、押し寄せて首を取れ!」と扇を挙げて招けば、
小田原の住人、山中修理亮が名乗り近々と寄って来た。

山城守は馳せ寄り「御辺は氏綱(北条氏綱)の家人某と見えるな。我が首を取って高名にせよ!」
と打って掛かる。山城守の郎等が主を討死させまいと馳せ並ぶところに、修理亮の郎等が数多馳せ来て取り籠めば、
ついに山城守は修理亮に首を取られたのであった。

かの義明朝臣は久しく両総州に逆威を振るい、諸人は龍蛇の毒を恐れ、万民は虎狼の害を嘆いたのだが、
たちまち滅ぼされて跡は長く絶えたために、氏綱の武功の程を感じぬ人はいなかったのである。

――『異本小田原記』

逸見祥仙は義明の還俗以前から仕え奉行人も務めた筆頭家臣だったが国府台合戦で主君と運命を共にした



918 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/31(金) 12:28:31.64 ID:QFDIs+Zb
>>912
さすが祥仙
最期はかっこいいな

919 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/31(金) 13:09:49.98 ID:xqwcfrJj
甲斐守護になれなかった末裔さん

920 名前:人間七七四年[] 投稿日:2022/01/01(土) 03:45:35.97 ID:dsmJJ+f6
謹賀新年。

>>912
この敗兵の動向によって小弓義明の血は喜連川公方まで繋がって行く
--の、ではあるが、
関東の王を夢見て古河晴氏と雌雄を決せんとした義明は、鉢植えの花となった末裔を泉下からどう見ていたか。
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北条氏所縁の娘、香沼姫

2020年02月29日 17:14

香沼姫   
705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/29(土) 17:03:14.81 ID:boR2oEzY
北条氏所縁の娘、香沼姫


小田原城郭の百姓曲輪跡の西に、地元では"おみともさん"と呼ばれる墓がある。

『新編相模国風土記稿』によると、北条氏綱の娘香沼姫の邸跡であり、終身処女で暮らしていた。
香沼姫は氏直の内室(家康の娘、督姫)と親しく、いつも和歌の贈答などがあった。
北条氏の没落後、香沼姫が(藤原)定家の真蹟歌集を持っていることを家康が知って
督姫から旧好のよしみとして御所望があったので、(香沼姫はその歌集を)献上した。
その褒章として化粧田を賜うようにとの命があったが(香沼姫は)固辞し、居邸の地の
永代の諸役免除を願ったので免許され、家康から直筆の御消息が下されたという。

元和三年四月二十日香沼姫が亡くなったので、その遺言により居邸を山本外記の屋敷とし
その山上に葬られた。そのことを示す石碑が今もある。
山本外記は、元は渡邊外記といって北条氏の命令で傅役となっていたが、香沼姫の側仕えをしていた
山本氏の娘(香沼姫の母方の親戚)が外記に嫁したので、山本姓を名乗ったという。



706 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/05(木) 23:57:58.83 ID:zFSGFA/Q
なんだか性格が優しい感じが伺えるね

正月2日の夜、宗雲が夢を見なさったことには

2019年06月13日 15:49

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/12(水) 19:42:57.37 ID:h/jQFdtC
(前略。>>11)翌年正月2日の夜、宗雲(北条早雲)が夢を見なさったことには、2本ある大杉を鼠
1つが出て食い折った。その後、かの鼠が猪になった夢を見て、その夢は覚めた。

その如く両上杉の仲が悪くなるのを聞き、宗雲は是非とも時刻を見合わせて関東へ発向の工夫をされ
ることは二六時中暇なし。ある時、扇谷の上杉家は末となったのであろう、邪臣の諫めを崇敬して家
老の太田道官(道灌)を誅しなさった。その後、上杉殿の家老は尽く身構えをして騒ぎ立った。

この時、宗雲公は出て小田原を乗っ取り、相模の過半を手に入れて子息・氏縄公(北条氏綱)の代に
相模を皆治めなされば、いよいよ氏康公の代に伊豆・相模二ヶ国となり1万の人数の内2千を所々の
境目に差し置き、8千の軍兵をもって両上杉家と取り合いなされた。(後略)

――『甲陽軍鑑』



關八州に鉄炮はしまる事

2019年05月14日 19:24

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 19:16:58.68 ID:Sf64um2C
關八州に鉄炮はしまる事

これを見たのは昔のことである。相模小田原に玉瀧坊(順愛。松原神社別当職)という年寄りの山伏がいた。
愚老(著者。三浦浄心)が若き頃にその山伏が物語りなされたことには、

「私は関東から毎年大峰へ登った。享禄が始まる年(1528)に和泉の堺へ下ったところ、荒々しい様子で
鳴る物の音がする。これは何事ぞやと問えば、『鉄砲という物が唐国から永正7年(1510)に初めて(日
本に)渡ったのだ』と言って、目当として撃って見せた。

私はこれを見て、さても不思議、奇特な物だと思い、この鉄砲を1挺買って関東へ持って下り、屋形の氏綱公
北条氏綱)へ進上した。氏綱公はこの鉄砲を放たせて御覧になり、『関東に類なき宝である』と秘蔵なされ
ると、近国他国の弓矢に携わる侍はこの由を聞いて、

『これは武家の宝なり。昔、鎮西八郎為朝(源為朝)は大矢束を引いた日本無双の精兵であった。

弓の勢いを試みるために鎧3領を重ねて木の枝に掛け、6重を射通した強弓である。保元の合戦で新院の味方
に八郎1人がいたが、八郎はたちまち多くの者を射殺した。数万騎で攻めたといえども、この矢を恐れて院の
御門を破ることは叶わなかったとかいう話だ。

今も弓はあっても、良き鎧を身に付ければ恐れるに足らず。ところがましてや、かの鉄砲は八郎の弓にも勝る
ことであろう。所帯(財産)に代えても1挺欲しいものだ』

と願われたが、氏康(北条氏康)の時代に堺から国康という鉄砲張りの名人を呼び下しなさった。さてまた、
根来法師の杉坊・二王坊・岸和田などという者が下って関東を駆け回り鉄砲を教えたのだが、今見れば人々は
それぞれ鉄砲を持っているものだ」

と申された。しからばある年に北条氏直公が小田原籠城の時節、敵は堀際まで取り寄り、海上は波間も無く舟
を掛け置き、秀吉公は西に当たる場所に山城を興し、小田原の城を目の下に見て仰せられたことには、

「秀吉は数度の合戦で城攻めをしたといえども、これ程の軍勢を揃えて鉄砲を用意したことは幸いなるかな。
時刻を定めて一同に鉄砲を放たせ、敵味方の鉄砲の程度を御覧ぜん!」

とのことで、敵方(豊臣方)より呼ばわったことには「来たる5月18日の夜、数万挺の鉄砲で総攻めにして
盾も矢倉も残りなく撃ち崩す!」と言った。氏直も関八州の鉄砲をかねてより用意し籠めておいたので、「敵
にも劣るまい。鉄砲比べせん!」と矢狭間1つに鉄砲を3挺ずつ、その間々に大鉄砲を掛け置き、浜手の衆は
舟に向かって海際へ出ると、日が暮れるのを遅しと待った。

そのようなところで18日の暮れ方より鉄砲を放ち始め、敵も味方も一夜の間鉄砲を放てば、天地震動し月の
光も煙に埋もれてただただ暗闇となる。しかしながら、その火の光はあらわれて限りなく見えること万天の星
の如し。氏直は高矢倉に上がりこれを遠見なされて、狂歌を口ずさみなさる。

「地にくだる星か堀辺のほたるかと 見るや我うつ鉄炮の火を」

御前に伺候する人々は申して曰く「御詠吟の如く、敵は堀辺の草むらに蛍火が見え隠れしているかのようです。
城中の鉄砲の光はさながら星月夜に異ならず」と申せば、氏直は格別に微笑みなさった(氏直ゑみをふくませ
給う事なヽめならず)。

まことにその夜の鉄砲に敵味方が耳目を驚かせたことは前代未聞なり。愚老は相模の住人で小田原に籠城した
ので、その節を今のことのように思い出されるのである。

しからば鉄砲が唐国から永正7年に渡ってそれから流行し、慶長19年(1614)までは105年である。
さてまた関八州で鉄砲を放ち始めたことは、享禄元年から今年までの87年以来と聞こえたり。

――『北条五代記』

>>894に関連して北条五代記より鉄砲の記事



後北条氏の家宝「酒伝童子絵巻」

2018年10月11日 13:12

338 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 00:56:08.17 ID:6aO+yd8d
後北条氏の家宝「酒伝童子絵巻」



現在サントリー美術館に収蔵されている重要文化財「酒伝童子絵巻」は
江戸時代は鳥取池田家に伝来していたが、元は後北条氏の家宝であった。

北条氏綱は京文化への造詣が深く「酒伝童子絵巻」を作るにあたって
絵を狩野元信、詞書を前関白の近衛尚通、定法寺公助、青蓮院尊鎮ら
奧書を三条西実隆と当代を代表する絵師や能書家に依頼した。
特に尚通とは格別の交流があったらしく、正室・養珠院に先立たれた氏綱は
継室に尚通の娘・北の藤(勝光院)を迎えた程であった。

その後は家宝として伝わっていたが、天正19年(1591年)に北条氏直が病死し
後家となった督姫が、池田輝政に再嫁する際に引出物として持ち込んだという。

池田家伝来のものでは、同じく重文の「後三年合戦絵巻」(現:東京国立博物館)や
北条高時の執事長崎為基の佩刀で、『太平記』に出てくる来太郎の太刀「面影」*
なども、元は後北条氏の家宝で督姫を経由して伝来したものとされる。


――『小田原市史』『池田家履歴略記』など

* 為基の後は、小弓公方・足利義明が敗死したとき佩いていたという。(『後鑑』)
 鳥取城にあったが享保5年に火災で焼身になり、再度の火災で焼失した。


足利義明と止められなかった逸見忠次、里見義堯

2018年03月30日 18:04

634 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/29(木) 18:38:44.55 ID:Stb2uth1
1538年、10月。現在の千葉県松戸市にあたる地で、江戸川を挟み対峙する二つの軍勢があった。
片方の軍を率いるのは鎌倉を制して勢いに乗る北条氏綱
もう片方の軍を率いるのは武田氏・里見氏を従属させ力を増しつつあった小弓公方足利義明であった。
世に言う第一次国府台合戦である。

里見や正木、酒井、土岐といった房総の諸将を従えたとは言え足利軍の総力は一万程度。
一方の北条率いる軍勢はは二万とその差は大きかった。
数の上での不利を補うべく、義明に従う里見義堯が進言した。

「敵の数は多けれど、太日川(江戸川)は流れも早いので渡河は困難。先手が川を渡りきる前に矢衾を作り、続く敵を討てば勝機も見えますぞ」

ところがこれを聞いた足利義明は大笑いした。

「儂は小弓公方義明ぞ。北条の雑兵共が儂に弓など向けられるものか。
 北条軍が川を渡り終えたところで氏綱の首級を取ってみせるわ」

自らの武勇と威光に自信満々の義明と対照的に、慌てたのは義明の重臣、逸見忠次たち。

「公方様、いけませぬ。敵はおよそ我らの倍、地の利を活かさねば活路はございません」

しかし義明はこれを聞き入れない。忠次の必死の説得も空しく、結局房総連合軍は北条の渡河を待ってから攻撃をかけることとなった。
すると里見義堯が再び進言した。

「公方様、敵はその数に物を言わせ市川方面から別動隊を繰り出す可能性がございます。
 公方様が敵の主力を叩く間、某が邪魔者を追い払って参りましょうぞ」

これに対し義明、

「頼もしい限りよ!」

と義堯を前線から外してしまい、義明率いる軍勢は更に少なくなってしまった。

やがて北条勢が次々に江戸川を渡ってきた。しかし足利軍は動かない。
とうとう渡河が終わったところで、ようやく両軍は激突した。
義明はその自信に違わぬ武勇で敵兵を蹴散らすものの、所詮は多勢に無勢。
次第に押され始めた義明軍は、義明の嫡男義純までもが討たれた。

「おのれ、北条め!」

激怒し刀を振るう義明に対し

「公方様、ここはお退き下さい!某殿となり、公方様の御命をお守りいたす!」

義明に懸命に訴える忠次だが、またしても義明は聞き入れない。

「かくなる上は氏綱と刺し違えてくれるわ!」

義明は北条軍へ突撃し、呆気なく射殺されてしまった。
それを見た忠次、自軍の将兵達に大音声で呼ばわった。

「者共は義純様(義明次男)を守り、義堯殿を頼って安房へ落ちのびよ!」

殿となった忠次は奮戦するものの、山中修理亮に討たれ義明の後を追うこととなった。
一方北条の挟撃に備えると称して戦場から離れていた里見義堯は、義明戦死の報を聞くとすぐさま本拠地の安房へと引き返す。
そして軍勢を整え、味方のはずの旧小弓公方領を火事場泥棒的に次々と攻略し、小弓公方に代わる勢力となったのは皆様ご存知の通り。

足利義明の暴走を止められなかった(止めなかった?)逸見忠次里見義堯、二人の対照的なお話(『房總里見軍記』より)。



635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 19:19:32.36 ID:YqWh7fXG
義堯にしてみれば、我が儘な義明にうんざりしてたんじゃないかな
義明方に誘ってきた真里谷武田との仲も芳しくなくなっていたし、国府台での義明戦死はもっけの幸いだったろうね
事実、義明を助けるそぶりすら見せないで退いたし

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 21:32:21.21 ID:1MeYh122
そもそも義堯が懇意だった北条と手を切る原因になったのが義明の真理谷家(武田家)への介入だからね
目の上の瘤な上に無茶をする義明には遅かれ早かれ見切りをつけるつもりだったのかも知れん
で、思いの外簡単に上総に進出できたから北条と戦い続けることにした、と

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 21:36:11.78 ID:irORd9HY
>>635
小笠原長時をさらに弱くした感じ

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 01:12:21.44 ID:Z/Xh5N+q
小田氏治「忠臣の進言無視は敗北フラグだぞ」

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 14:25:56.13 ID:r8DQgxnY
譜代の逸見君と違って足利家臣でもない足利の旗に集まった地方領主の里見君を比較しちゃだめだよ
見限って退却するのは当然の判断、それに倣ったのが真田昌幸な

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 15:07:43.43 ID:D15gAl9j
逸見も姓からして元真理谷武田家臣じゃないの?
と言うか小弓公方に譜代家臣なんかロクにいないんじゃ…

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 19:00:08.19 ID:xOGpPgXm
>>640
逸見は甲斐武田か真里谷の一族とされてる
ただ古河から移ってきた家臣もいたはず

642 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/03/30(金) 19:10:02.92 ID:UvmHsxPi
逸見と書いてへんみと読むらしいな

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/30(金) 19:39:50.61 ID:DJSp8WgA
>>637
小笠原長時は戦いに冠しては評価がわりと高い
人心掌握がへた

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/31(土) 01:17:23.11 ID:baFuhFEn
>>642
読みでいつみの方が認知度高いのは故政孝の関係だな
若狭にもいた同族のおかげで戦国時代はへんみでいける

関八州に鉄砲始まること

2018年02月03日 11:55

609 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 10:39:52.82 ID:Wka7mPI2
関八州に鉄砲始まること

昔、相州小田原に玉瀧坊という、年寄りの山伏が居た。愚老(三浦浄心)がまだ若かった頃、
その山伏からこんな話を聞いた。

「私は関東より毎年大峰に登るのだが、享禄(1528年8月20日~1532年7月)の始まる年、
和泉の堺へ下った折に、大変な鳴り物の音がした。これは何事かと問うた所、鉄砲という、
唐国より永正七年(1510)に初めて渡ってきたのだ、そういって標的を撃った。
私はこれを見て、さても不思議奇特なるものかと思い、この鉄砲を1挺買い取って関東へ
持って下り、当時の屋形であった北条氏綱公へ進上した。そしてこの鉄砲を試射をご覧になると、
『関東に類なき宝である』と、秘蔵された。」

この事を近国他国の、弓矢に携わる侍たちが聞くと、『これは武家の宝である。昔鎮西八郎為朝は
大矢束を引く、日本無双の精兵で、弓の威力を試みるため鎧三領を重ね木の枝にかけ、六重を射落とした
ほどの強弓であったという。保元の合戦で新院(崇徳院)に味方し、八郎一人あって多くの敵を
射殺し、そのため数万騎にて攻めても、その矢を恐れ、院の御門を破ることは出来なかったという。

現在では、弓があっても良き鎧を着けていれば恐るるに足らない。しかしなんといっても、
かの鉄砲は、八郎の弓にも勝るものなのだ。所帯に変えても、一挺欲しきものだ。』

そう願っていた所、氏康公の時代に堺より國康という鉄砲張りの名人を呼び下された。
また根来法師の杉坊、二王坊、岸和田などという者たちが下ってきて、関東を駆け回り鉄砲を教えた。
このような事があって、現代では人ごとに一挺所持している、というような状況となった。

そうして、あの北条氏直公の小田原籠城の時(小田原の陣)、敵は堀際まで押し寄せ、海上も隙間なく
船で包囲した。秀吉は小田原城の西に山城を築き、、小田原城を目の下に見てこう申された
「この秀吉は何度も合戦城攻めをしたが、これほどの軍勢を揃え、鉄砲を用意した事は初めての
幸いである。時刻を定めて、一度に射撃させ、敵味方の鉄砲の様子を観察したい。」
そう、北条方へよびかけた。双方同意し、五月十八日の夜、双方数万挺の鉄砲にて一斉射撃を行った。
これにより盾も矢倉も残り無く撃ち崩されたという。

北条氏直の方も、関八州の鉄砲を兼ねて用意した上で籠城をしたのであるから、敵には劣るまじ、
鉄砲比べせんと、矢狭間一つに鉄砲三挺づつ、さらにその間に大鉄砲を設置し、浜手の衆は船に向けて、
海際まで出、日が暮れるのを待つと、十八日の暮れ方より撃ち初め、敵も味方も、一晩中に渡って
射撃し続けたため、天地振動し月の光も煙に埋もれ、まったくの暗闇となった。
しかしそれにより、射撃による火の光が一層現れ、限り無く見えること、満天の星のようであった。

氏直公は高矢倉よりこれを遥かに見て、狂歌を詠まれた

『地にくだる 星か堀辺のほたるかと 見るや我うつ鉄砲の火を』

これを口にした所、御前に従う人々が
「御詠歌のごとく、敵は堀辺の草むらに、蛍火が見え隠れするようです。城中の鉄砲は
さながら星、月夜に異なりません。」

そのように語ると、氏直公はニコニコと笑みをお見せになられた。
愚老は相州の住人であった。小田原に籠城した時の事、今のように思い出される。

ともかく、鉄砲は永正七年に唐国より日本に渡り、それ以降繁栄し、この慶長十九年までで
百五年である。関八州にては、享禄元年より今年まで、八十七年となる。

(北條五代記)

一般に言われる、鉄砲記の天文12年8月25日(1543年9月23日)伝来説からは、33年も遡っていますね。



610 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 11:27:55.53 ID:t7jLHXY4
イゴヨサンガホシイテッボウ

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 11:36:10.42 ID:bwluwx56
一斉射撃だなんて粋だねえ

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 14:05:47.02 ID:T8vcZ8Wi
まとめの1077に
北条氏康が12歳の頃鉄砲の音聞いて驚いて笑われた話があるけど
これはその鉄砲かな

ポルトガルの文書だと1542年だっけ、鉄砲伝来は

613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/03(土) 17:26:41.43 ID:6A/dZne6
いわゆる鉄砲伝来は欧州からのマスケット銃が伝来した史実を指す。
一方、東アジア及び東南アジアでは中国発祥のマスケットである鳥銃が広く普及していて、これが日本に部分的に伝来していた可能性は以前から指摘されている。
というか16世紀中盤時点で銃を知らなかった文化ってアジアでもフィリピンと日本だけなんじゃないか。

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/04(日) 19:05:07.80 ID:7bntfjjr
キリスト教:1世紀前半にできて、日本伝来は1549年(1500年くらいかかった)
鉄砲(マスケット銃):15世紀前半にできて、日本伝来は1549年(100年くらいかかった)
梅毒:1492年くらいにヨーロッパ人が感染し、日本伝来は1512年(20年くらいかかった)

宗教、武器、性病の伝来順序が西欧に現れた逆なのが面白い

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/04(日) 22:46:11.25 ID:C2CGA8dd
景教の経典として漢語訳された聖書を遣隋使か遣唐使が持ち込んではいるけどな

617 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/05(月) 11:12:21.53 ID:4RZFuuGH
元代のマニ教の宇宙図が日本にあった、て話はあるけど
景教経典が持ち込まれた、て話はあったっけ
あとは「甲子夜話」で松浦静山が
「群馬県の多胡碑(711年頃)の近くに十字架が発掘された。
おそらく多胡碑の羊というのはキリスト教徒の一族だろう」
と怪しげな説を唱えているくらい

618 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/05(月) 14:27:46.51 ID:s4DWgBB+
景教って平家とか朝倉家にいてもおかしくなさそうな名前

末の松山波もこさなん

2017年12月24日 18:14

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/24(日) 17:33:05.05 ID:c//5mowE
扇谷上杉氏の家臣である難波田弾正(憲重)は、武州松山に居城していたが、天文6年7月、
扇谷上杉朝定が北条氏綱によって川越城を攻め落とされると、この松山城に入った。
難波田は熱心にこれを補佐した。

7月20日、北条氏綱は松山に押し寄せ強力にこれを攻めたが、難波田は固く守り落城を防いだため、
氏綱は近隣を放火して兵を小田原へ入れた。
この戦いの時、北条家の家臣、山中主膳という者、難波田と戦ったが、難波田は軽くあしらうと
早々に引いた。山中はこれを追いかけつつ歌を叫んだ

「あしからじ よかれとてこそ戦わめ など難波田のくずれ行くらん」

難波田はこれを聞くと、古歌を以って返した

「君を置て あだし心を我もたば 末の松山波もこさなん」
(古今集。百人一首「契りきなかたみに袖をしぼりつゝ末の松山浪こさじとは」の元歌とされる)

(士談)



535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/12/25(月) 07:42:06.28 ID:Tmn6MQLZ
松山城歌合戦については、難波田城資料館が以下のように紹介している
http://www.city.fujimi.saitama.jp/30shisetsu/11nanbadajyo/TV-TOKYO20111231.html
http://www.city.fujimi.saitama.jp/30shisetsu/11nanbadajyo/files/nanbatajo-dayori49.pdf の3ページ目
末の松山

豊鑑より、北条への認識

2015年06月23日 17:39

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:35:01.10 ID:yUxMH566
その秋、北条美濃守(氏規)と言う者が上洛した。これは北条氏直の叔父である。
この北条氏直というのは、東の国々を7つばかり従え、相模の小田原に在った。

彼は北条時政の子孫ではない。早雲という人物の子孫であるが、彼も彼の国の者ではなく、
都あたりの出身であったが、従者一人二人ばかりで駿河国にさすらい行きて、今川のなにがしに
縁があったが、よろず優秀な人物だったので今川氏の心にかない、漸次出頭したが、伊豆の国に移り、
どうやったのか彼の国を従え、2年3年の内に相模の国を心のままにして、相模の小田原に移り住んで
なおも武蔵、上野の切り取りををこころざしたという。

その嫡男である氏康という男子、父にも劣らず賢く、武士の道にたけく謀ある人物だったので、
彼の時に武蔵、上野、上総、下総などまで従え、一族広く富み、権勢盛んとなったこと思い知るべきであろう。

氏康の嫡男である氏政は、老いたというには幾ばくも至らない内に嫡男氏直に世を譲ったそうだ。

(豊鑑)

当時の畿内における、北条への認識がかいま見られる豊鑑の記事である。
というか氏綱…。



972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 20:58:04.50 ID:wOzHKolz
まあ、ハブられてもしゃあないというか
無関係なところの人間にしてみたらそんなものじゃないの

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:03:39.10 ID:IpAvlnDm
もう出自不明になってたんだんだ

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/22(月) 21:31:55.43 ID:g+i0E8PA
毛利の長男よりはまし

975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 10:46:03.74 ID:LkICDGu3
斉藤道三の国盗りと一緒で一人と思い込んでたんじゃねーの?

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/23(火) 23:34:23.03 ID:KeJRBl/z
>>973
興味薄いからろくに調べなかっただけでそ。
東国は別の国みたいなもんだし。

外郎事

2015年03月01日 19:58

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/01(日) 01:41:54.70 ID:1YOMHe++
外郎

相州小田原における北条氏綱の政道は、無私にて民を慈しんだので、近国他国の人民は
その恵みに懐き移住し、津々浦々の町人職人が遠隔の西国や北国からも群来した。
そのため小田原の街は、古の鎌倉もどうしてこれ程だろうかと覚えるほどに発展した。

東は一色より板橋に至るまで、その間約一里に商店が密集し、数多の売買を行っていた。
山海の珍物、琴碁、書画や細工に至るまで、無いというものは無かった。
異国の唐物で、未だ目に見たこともなく、まして聞いたこともないような器物が、
幾つと言うことも無いほど積み置かれていた。

このような交易の売買で利潤を得た者は、四条、五条の辻にも溢れ、民のカマドも豊穣と成り、
東西の業も繁盛した。

小泉という人が小田原の町奉行に任命されたが、彼は賞罰が厳重で堪否を知り、理非分明で物の正否を
糺したので、不正に嘆く人もなかった。

そのような中、京都より外郎という町人が来て様々な薬を商った。なかでも透順香という霊薬は、
長生不老の薬であると言って、氏綱にも進上されることと成った。
そこで町奉行の小泉がこの町人を伴って登城した。
氏綱の御前において
「かの薬の効能は測れないほどです。先ず第一に口中の臭気を除き、眠気を取り、命を延ばします。」
と言上した。

そこで外郎が申し上げるには
「この霊薬は、唐においては仙家の秘薬ですが、我が先祖が代々これを伝えていました。
そして鎌倉建長寺の開山大覚禅師が来朝する時、お伴して本朝に渡り、以後この国に居住しております。」

氏綱はこれを聞くと
「誠に珍しい貴物である。今後小田原に居住するように。」
と申し付け、明神の前の町家を与えた。今の小田原の外郎の店はこれの事である。

(相州兵亂記)

北条氏綱の時期の、小田原の繁栄と外郎についての記述である。




679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/01(日) 11:00:14.18 ID:HohDDBDN
ういろうはミステリアスフード
当時のういろうは甘くなくて薬っぽかったんだろうなあ
友人は石けん味の食い物なんぞ食えるかといって嫌ってるw

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/01(日) 11:27:15.98 ID:LdFAmnHA
小田原のういろううまいよな。また城ついでに買いに行きたい

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/01(日) 12:33:49.30 ID:Hf4nG+dx
それ仁丹みたいな丸薬の方のういろうやろ

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 13:38:18.36 ID:59L9f9Rt
外郎発祥は小田原なのに、何で名古屋が有名なんだろうか

http://i.imgur.com/4pmjg73.jpg
4pmjg73[1]

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 13:53:19.22 ID:qv6GP8+Z
>>685
外郎の発祥は京都。そこから各地に伝わって様々に進化した。
小田原のは外郎の宗家が移住したから小田原発祥というような誤解が伝わっている。
名古屋の外郎が有名になったのは東海道新幹線の開通で車内販売され、おみやげとして有名になったため。

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 21:15:24.09 ID:61zzAPJY
字が違うと分かっているのに、つい「げろう」と読んでしまう、外郎に縁が薄い馬鹿が俺

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 07:45:28.88 ID:HUBXNlue
下がれ!外郎!

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 08:34:26.54 ID:Ug9IlYrZ
前に出ろ。羊羹。

夜襲じゃない方の河越夜戦の話

2013年01月20日 19:02

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 21:08:55.20 ID:cnHI7wVa
>>202でその話が出たから、
いつか書こう書こうと思っていた話をば
出典は北条五代記

かつて武州江戸城には上杉朝興が居を構えていたが、北条氏綱に城を奪われ河越城に逃げ込んだ
そこに追い込まれて十余年、病気を患い若くしてこの世を去り、その跡は嫡男朝定が継いだ
その朝定、服忌七十七ヶ日も経たないうちに深大寺城を再興し、反撃の準備にかかった
「親父の喪くらいちゃんと服せよJK。軍神も不孝者なんかに加護なんぞを与えないだろうになあ…」と
民衆に噂される始末

さて朝定の動向を察知した氏綱は朝定勢が万全の備えで待ち構えている深大寺城を華麗にスルー、
一挙に上杉本拠の河越城の間近である武州は入間郡の三木まで軍を進めた
これに対して朝定も兵を繰り出し、ついに合戦が…始まらない

両軍の軍師「ちょっとまって、まだ吉兆が出てないから!あと五分、あと五分だけまって!」
 呑気なものである

そうこうしているうちに日もどっぷりくれ丑三つ時、
空は晴れやかで満月の光が露草を美しく照らしだし、旗がたなびく田畑の中、虫達が鳴き声を競い合い、
もののふ達もそのあまりに詩情的な光景に勇者の道も忘れただただ感じ入るしか無かった…

軍師「GO/NOGO判断はGO!MINAGOROSHIにしろー」 空気読めよ、お前

打ち鳴らされる軍太鼓、響き渡る鯨波の声は高き天の雲にまで反響し、地獄の底にまで響き渡るかのようであった
互いに進みぶつかり合い、互いに矢を射かけ、その様はさながら神仏の争いの如き凄まじさ、
その一進一退の攻防にこれはちょっとやそっとのことでは勝負もつくまいと思われかけたその時、
上杉朝定方の一隊が崩れ、あとはもう将棋倒しのように一挙に瓦解し、日が明ける頃には
河越城も北条方の手に落ちた
朝定は難波田弾正の松山城に難を逃れ、上杉家残党もそこに集結した

氏綱はそれを聞くと追撃を決意、勢いに乗って松山城に押し寄せる
難波田弾正は残党を率いて防戦するも、士気の差、数の差はいかんともしがたく敗走した
その時に例の詩合戦(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3372.html)の話になるのであった

夜襲じゃない方の河越夜戦の話

関連
上杉朝興の遺言
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7215.html
難波田憲重、山中主膳の歌に
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3372.html

上杉朝興の遺言

2013年01月18日 20:04

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/18(金) 18:09:52.04 ID:yadoiax/
武州の国司、扇谷家の上杉朝興は度々の合戦には負け、江戸城も落とされて
おもしろくなかったが力は及ばず、何とかして北条氏綱を亡ぼしたいものだと、
骨髄に徹して思い暮らしていた。

しかし、重病に侵された朝興は瀕死の状態になってしまう。
朝興は子息朝定、三田・萩谷以下の老臣を呼び出して遺言を残した。

「わしの命は尽きようとしている。汝等はしかと遺言を聞いて背いてはならない。
わしは氏綱と合戦すること十四度に及ぶが、一度も勝つことはできなかった。

この事が未来永劫の恥辱に思うのだ。この恥辱は妄執ともなるであろう。
よいか、わしが死んだら仏事作善よりもまずは氏綱を退治して国家を平定せよ!」

天文六年四月下旬、朝興は朝の露と消えた。上杉朝定は十三歳で家督を継ぎ、
父の遺言に従って仏事作善をかえりみずに、まず武州深大寺の古要害を取り立てて
城とし、氏綱を退治せんと支度を始めた。

しかし、この動きを知った氏綱が出兵したために河越城の戦いが勃発し、
朝定は敗北して松山城へ走った。

――『異本小田原記』




足利義明は大笑いして一蹴した

2013年01月16日 20:07

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/15(火) 23:58:57.27 ID:0huMzW0b
第一次国府台合戦の折、北条勢は河を渡河して松戸へ向かおうとしていた。
小弓勢先陣は物見の兵を本陣に参らせて、

「敵が河を越え始めました。その勢は雲霞の如く二、三万騎はいると思われます。
小勢で大勢を討つことは難しいでしょう。急ぎ本陣を動かして河中で勝負を決するか、
味方を引かせて敵の先陣が半ばを越える時に急いで河へ押し込めば必ず御味方の
勝利となるでしょう」と具申した。

この策に諸軍はそれがよいと賛成したのだが、足利義明は大笑いして一蹴した。

「一足でも引けば虎も鼠になり一足でも進めば鼠も虎になるのが合戦の例である。
引くような真似をすれば、それは敵に利を与える端緒となる。

また、勝ち負けは数が多いか少ないかではない、兵の剛勇と臆病によるのだ。
氏綱の武勇など我が片手にも及びもしないものを、何程のことがあろうか!

河を渡らせて敵を近くまで引き寄せ、我が手にかけて氏綱を討ち取った上で
東国を安々と治めてくれよう。年月の本望ここにあり! 氏綱を逃がしはせぬ!」

そのように言って義明は扇を打ち振った。
(諸軍の?)運も尽きて驚きあきれることは、たとえようもなかった。

――『異本小田原記』




174 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/16(水) 01:31:45.21 ID:8Cq6zkPG
鼠が虎って、早雲の両上杉倒す夢みたいだ
で、北条に殺されると

175 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/16(水) 01:54:46.62 ID:mUK2EPMb
小弓公方様はそれまで腕力と気合でどうにかなる程度の弱小雑魚
しか相手して来なかったんだろうなあ・・・

身の程知らずにも通りすがりのケンシロウに挑むモヒカンを連想した

176 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/16(水) 02:04:04.46 ID:mUK2EPMb
ところで、小弓御所家ここで親父と兄貴が揃って討ち死にした後
どうやって50年以上後の小田原征伐まで存続したんだろ?

秀吉が古河公方家に姫様との結婚を強要する程度の存在感をちゃっかり残した上でさ
堀越公方なんて跡形も無く消えちゃったじゃん?

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/16(水) 02:24:55.58 ID:YKcYCbdl
堀越公方は本家に復帰しただろう。

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/16(水) 10:00:00.31 ID:8325FJE1
>172
前秦の苻堅そのままw

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/16(水) 10:31:47.84 ID:p3T6jrcE
>>176
なんだかんだで里見の支援を受けてたはず

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/16(水) 20:55:18.03 ID:bRHHCH/T
>>181
里見さん小田原討伐の段になっても小弓公方を擁立
しようとしてるからなあ。

北条氏綱、小弓公方足利義明への対応

2013年01月13日 19:24

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/13(日) 17:48:04.14 ID:TalaATdP
上総の真里谷武田氏は原氏や千葉氏に負けてばかりであった。
そこでこの状況を打開せんと、古河公方高基の弟・足利義明を大将軍として
軍兵を催した。

この義明は累代武将の家に生まれ、心はどこまでも大胆でおそれを知らず、
力強く骨太で武器に熟達した当代無双の英雄である。

そのため、上総・下総・房州の辺りで管領に背いた輩は一人残らず馳せ来たり、
義明に従った。その勢いは近国を覆い、三年の間に原氏は敗れて小弓城を
奪われた。

その後、高城越前守父子を討ち取り同下野守を追い落とし、原野次郎をも
討つと、近国の兵共は我も我もと群がって付き従った。安房の里見氏は
猛勢の大将であったが、何を思ったかこれもまた義明に従った。

義明は血気無双の人なので、やがては関八州をその手にし古河公方を
配流して鎌倉に御所を立て、関東の公方になるという野心を抱いていた。
彼はこの志を公言することを思いとどめようとしても、すぐに表情に出して
ほのめかすので、付き従う血気の若者たちは皆その願いが叶うようにと励んだ。

そのような情勢だったので古河公方に一味する人々は心穏やかではなかった。
北条氏綱も足利晴氏の舅なので内心苦々しく思っていたが、大敵の上杉と
敵対していたので義明とは無事を保ち、互いに使者を交わして捧げ物を送る
こともあった。これも一時の智謀である。

――『異本小田原記』




83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/14(月) 08:21:17.84 ID:GvNXoUuS
ええ話や・・・って、どこがやねん!

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/14(月) 09:06:25.84 ID:FuS3BPN2
足利義明でググると義昭のウィキペディアが一番上に。
変換間違いだと思われてるんだろうなあ

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/14(月) 09:32:02.13 ID:u4eFfa2J
義明公は脳筋で里見に呆れられて死ぬんだよなあ
そしてそんな義明公の奮戦する錦絵が船橋の図書館にある(はず)
自分の嗜好で図書を入れたり捨てたりしてたおかしな司書がいたとこだからなあ
いまはどうなってんだろ

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/14(月) 14:49:24.97 ID:HqULihVI
名前で検索すると地球皇帝の件ばかり引っかかる、
二代目堀越公方様と良い、マイナーどころはどうしてもなぁ

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/14(月) 15:58:06.00 ID:2ox1t7MA
>>86
元ネタの人物しか知らない人が見たら吃驚するだろうなぁこれ

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/14(月) 23:59:12.34 ID:zA74Q8MM
>>85
あれって船橋市だったのか
考えたら怖くなってきたw

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/15(火) 20:41:34.42 ID:L75Ix7Q/
>>93
市川・船橋って近代でも戦場になってたぞ、地味に

山内上杉憲房の死

2013年01月12日 19:54

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/11(金) 23:43:30.75 ID:KjivEowv
江戸合戦の折、北条氏綱は太田資高らの内応を得て扇谷上杉朝興を破り、
江戸城を手中に収めた。敗れた朝興は河越城に立て籠もった。

そこで、山内上杉憲房は鉢形城へ入って人数を遣わし、
河越衆と力を合わせて江戸城に夜討ちをかけ、氏綱より奪還せんとしたのだが、
運が尽きてしまったのだろう、高上庄平居の陣で重病に侵された。

色々な養生が尽くされ、宮々社々に限りなく願が立てられたのではあるが、
定められた業報が来たのであろう、平癒することなく大永五年四月十六日、
五十九歳で亡くなった。

誠にこの人は関東長者であり、諸軍もよく親しみ、政道に私は無かった。
憲房の死を敵に知られれば押し寄せられてかなわないとして、葬儀は密かに
執り行われ、人々は悲しみを隠して声を呑んだ。

その後、京都より御意を受け、古河公方高基に憲房の実子憲政はいまだ
幼年なので家督は務まらないからと頼み、養子をもらって憲広(憲寛)とし、

管領と定めて長尾・大石・小幡らの長者たちが名代として関東の成敗を司った。
これによって諸家の支配はもとのように、領国もまた平穏無事に治まった。

――『異本小田原記』




江戸にて初鰹をめづる事

2012年11月16日 19:57

360 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 17:05:17.68 ID:zInIO4Sh
江戸にて初鰹をめづる事

天文六年の夏、小田原浦近くに釣舟が多く浮かんでいると聞いた北条氏綱
小舟に乗って海士の働きを見物した。この珍事の御遊の時、氏綱が酒に興じていると、
一尾の鰹が舟に飛び込んで来た。

氏綱は心から喜んで「勝負にかつを!」と格別の祝辞を述べてその鰹を酒肴とした。

同年七月上旬、上杉朝定が武州へ発向したが氏綱はこれに討ち勝って武州を治めた。
このようなこともあって諸侍は戦場の門出の酒肴にはもっぱら鰹を用いたのである。

――『仮名世説(北条五代記)』

つまり北条の侍は門出のたびに「勝負にかつを!」とか言っていた可能性が…。




361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 17:26:13.86 ID:pZ5KUHo5
接待笑いの様子が目に浮かぶな

362 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 17:29:04.16 ID:QKtyiHv1
ほかのとこだって、いくさ前には勝栗で縁起をかついでいたから
駄洒落の程度は変わらない気がする

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 17:30:58.34 ID:QKtyiHv1
しかし魚が舟に飛び込むって、周の武王や清盛のような話だな

364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 18:42:15.22 ID:5jyCoJ8y
北条やる夫か…

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 18:58:54.43 ID:OBboKc7M
駄洒落で験担ぎとかwww
てのはごく最近の考えなのかしらね
まあ同じ人間だしそんなことはないか

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 19:34:10.64 ID:4iolDIe7
勝栗とかだってそんなやし、
現代でもキットカットとかカツ丼とか。
まぁ元より掛詞を嗜む民族やから。

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 20:06:19.03 ID:lfgeQGMY
ダツが飛び込み阿鼻叫喚…

369 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/16(金) 21:03:43.07 ID:Mw4z+MRM
>>360

縁起物つながりで隣国武蔵ではかつて神様(大国主命)がデートで待ちぼうけ食らった時に「まつのは嫌じゃ」と言ったのがきっかけで正月飾りが門松じゃなくて門竹になっているし。

きっと東国では駄洒落がマイブ~ムだったんだよw

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 21:06:03.17 ID:ZgBj9tqX
鰹は今でも魚河岸なんかじゃ「かつを」って書いてるのよく見るよね。
>>360が起源なのか、同じよーな事を思いつくオヤジがほかにもいたのか。
多分たくさんいたんだろうなぁと、親父の駄洒落好きを眺めながら思う。

371 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 21:33:05.55 ID:GCwhZs9g
       ____
     /⌒  ⌒\
   /( ●)  (●)\
  /::::::⌒(__人__)⌒::::: \   勝負にかつお!
  |     |r┬-|     |
  \      `ー'´     /

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/16(金) 21:48:04.37 ID:b1s+1kor
お前ら、なんだかんだ言いながらかつおで大喜びじゃないかw

今の小田原の外郎というのは、これである

2012年11月13日 19:58

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/11(日) 22:26:20.72 ID:7MWZQl4Y
ういろう家が小田原に行ったのはそういう下地があったのか?



384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/12(月) 21:21:54.52 ID:065CW0wl
>>374では同じく「關侍傳記」から外郎のお話

北条氏綱の時代、相州小田原では政道に私無く、民を慰撫したので、近国・他国の民も
北条氏の徳に懐いて家を移し、津々浦々の町人・職人、西国・北國より群れ来たった。
それにより小田原の街は、昔の鎌倉もどうしてこれほどだっただろうか、と思うほどの
繁栄を示した。

東は一色より板橋に至るまで、その間一里ほどに、棚を設置し数多の売買を行い、
山海の珍物・琴・碁・書・画の細工に至るまで尽く集まっていた。
異国の唐物でも未だ目にしたこともなく、まして聞いたこともないような器物を数知れないほど
積み置いていた、

小田原における交易売買の利潤は、京の四条、五条の辻にも勝っており、民の収入も豊かで、
小田原を支点にした東西交易は大変繁盛していた。

このころ北条氏は小泉という人物を町奉行に置いた。この人は賞罰厳重にして人の堪否を知り、理非分明にして
物の奸直を糺したので、人の嘆きも無かった。

ここに京都より外郎という町人が来て、様々な薬を売る中にも、透頂香という霊薬を売っていた。
これは長生不死の薬として、北条氏綱にも進上される事となり、小泉はこの外郎を連れて登城した。

外郎は氏綱の前でかの薬の効能を上げ、第一には口中の臭いを除き、眠気を消し去り、
命を延ばすのだと言上した。

外郎の言うところには
『この霊薬は唐にて仙人の秘薬でしたが、我々の先祖がこれを伝え、鎌倉の建長寺の開山・大覚禅師
来朝の時、共をして本朝に渡ってより、この地に居住しています。』
とのこと。

氏綱は
「実に珍しい貴物である。おぬしはここに居住せよ」
と申し付け、明神の前に町家を給わり、小田原に住むことになった。
今の小田原の外郎というのは、これである。

(關侍傳記)




385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/12(月) 21:50:32.00 ID:GRmcnagB
当時の小田原の繁栄振りを見てみたいわ
今の物があって当然って感じの東京とは違う活気がありそう

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/12(月) 23:10:12.21 ID:1PEFadOE

レスが拾われるとはw
北条の内政チート話はよく聞くなぁ
滅ぼされなかった歴史が見たいもんだ

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/12(月) 23:52:28.06 ID:AH7QiWE5
小泉という町奉行は、江戸初期に多摩川を開拓した代官の祖先?

388 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 00:16:19.06 ID:/UEP4ayn
>>387
小泉次大夫は元今川家臣だね

391 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 18:05:18.32 ID:m/OfymvL
福岡銘菓の「鶏卵素麺(そうめん)」で知られる福岡市博多区の老舗和菓子店「松屋菓子舗」(松江光社長)が
自己破産申請の準備に入ったことが12日、分かった。信用調査会社の帝国データバンク福岡支店によると、
負債総額は約2億5千万円。本店や福岡市内の百貨店で営業している計7店の閉鎖時期などについては不明。

 同社は1673年(延宝元年)創業。福岡市内の和菓子製造会社としては最も古く、
江戸時代に黒田藩に献上したとされる鶏卵素麺を主力商品に、ようかんや最中などを販売していた。
1996年に株式会社に組織変更。99年4月期には約5億2500万円の売上高があったが、
消費者の和菓子離れなどの影響で、2011年4月期は約3億2千万円に落ち込んでいた。
現在は福岡市・天神の岩田屋本店や福岡三越、博多大丸などに直営店を構えている。

 「鶏卵素麺」はほかのメーカーでも同名の商品がある。

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/333828

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/13(火) 19:24:48.74 ID:12gephJg
>>391
鶏卵素麺はあまり旨くはなかったが古いメーカー潰れるのは残念
鶏卵素麺は南蛮の菓子だが、タイにも伝来してるみたい
日タイ交流協会のイベントで紹介されてた

小弓御所の滅亡

2012年10月13日 20:03

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 09:47:53.06 ID:4/txyCnV
関東の公方・足利一族の知名度のなさに涙流した俺が外堀埋めに来たよ

国府台と足利義明
(前略)
天文八年下総の古河にあって古河公方といわれた左馬頭足利高基は、
北条氏綱の娘を子の晴氏に娶わせた縁で、氏綱は高基を援けたのである。

高基の弟右兵衛督義明は兄と仲が悪く、下総の小弓にいたので小弓御所といった。
足利義明は勇猛の将である。自ら関東八州を征服して、覇府を鎌倉に開こうする大野心があった。
そこで同年八月古河に晴氏を攻めた。晴氏驚いて急使を以って小田原の北条氏綱に援けを頼んだ。
氏綱は義明の勢力が強いのは自分にも不利益であると考え、晴氏を援けることにした。
この情勢を伝え聞いた義明は、北条軍を途中でむかえて撃つ作戦計画を立て、
弟基頼、里見義尭と共に房総二国の兵七千を率いて国府台に至り、
江戸川を前にひかえて陣を張った。

天文八年十月四日北条氏綱は子の氏康と共に小田原を出発し、二万余人の兵を率いて江戸城に入った。
群議の結果進撃と決し、諸隊は忍んで金町に進み、江戸川の堤の下に隠れて、夜の明けるのを待った。
七日の朝北条軍は川を渡って松戸の岸に上がり、勢い猛に攻めかかる。
義明の弟基頼は第一陣将として勇戦して倒れたので、小弓勢の一陣先ず敗れ、小田原勢は士気大いに振う。
義明は見方の敗走に憤激し、ただ一騎敵中に突入し、縦横に斬りまくる。
その大長刀にふれて斬らるるもの数知れず、その勢いに敵はどっと崩れ走る。
義明は丘上に立って味方が来るのを待ったが、小弓勢はこの時総崩れとなったから、義明を援けに馳せ集まる兵士はなかった。

北条軍の横井新助は剛弓の勇士、義明の丘上に立つを見て、馬から下り立ち、密かに近づき、矢頃を計って三人張りの弓に十三束の矢をつがえ
『これは三浦の守護代横井新助と申すもの、一矢受けたまえ。』
大音に呼ばわりつつ、きりきりと引きしぼってひょうと放つ。矢は義明の胸にぐさと射貫けば、流石の勇将もどっと地に落ち、太刀を杖につきつつ息絶えた。
『横井新助敵の大将を射とめたぞ。』
と呼ばわれば、北条軍はどっと鯨波をつくって勇み立った。義明の旗下の勇士はこの時馳せつけて、新助に斬ってかかる。
この隙に松田彌二郎は素早く義明の首を取った。
乱軍の中を斬り抜けた佐々木四郎等は小弓に馳せ戻って義明の一子頼純を連れて安房に落ち、小弓御所はここに滅びたのである。

『日本英雄史蹟 : 歴史地理. 関東地方及中部地方巻』より

内容自体は悪い話なのだが、原典元の趣旨が”歴史と地理は切り離すことの出来ない因縁で成り立っているよ!
引きこもって研究ばかりしてないで、治乱盛衰や文化興廃の跡をその目で見て肌で感じるために旅しようぜ!(要約)”
本書に掲載されているのが明治天皇を皮切りに、乃木大将・徳川家康・伊能忠敬・大石良雄・新田義興等、
有名人が名を連ねる中で紹介されていて、今の知名度の低さからとても考えられないと俺的にイイ話だったから





906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 10:34:32.92 ID:1CHK3a6O
小弓公方と真里谷武田の関係とか、堀越公方の登場とか
本当関東の状況はカオスで楽しいんだけどいまいち認知度がなぁ

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 11:09:55.83 ID:L7i5fm+Z
村雨の人で有名じゃないかw

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 11:16:04.54 ID:WF2ixMjG
天庵さまは堀越公方政知の孫やあ!

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 11:35:05.88 ID:4/txyCnV
>>906
おお、やっと話の分かる人がいてなんか嬉しい
後北条氏が興隆する陰に古河公方の没落があるからね
当方後北条氏好きだが、関東史を全体的に掘り下げた一般書籍が出回って欲しいと思うよ


>>907
ゲームでネタにされているだけで、古河公方のこと知らなかったら意味ないじゃんw

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 11:41:43.10 ID:WF2ixMjG
北条の後押しを受けて家督簒奪した里見義堯が、武田に同調して小弓に与するんだよなあ

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 11:51:49.34 ID:pMAA7Nd0
>>909
12月に発売予定のこれがドンピシャだと思われる

東国を知れば日本史が変わる! 動乱の東国史シリーズ、好評刊行中

⑥古河公方と伊勢宗瑞
則竹雄一著 〈12月発売予定〉978-4-642-06445-3
http://www.yoshikawa-k.co.jp/news/n4643.html

こっちはこの間出たばかりで、なかなか面白かった

東国の戦国争乱と織豊権力 7
http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b103247.html

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 12:09:15.09 ID:+bBk8dQC
やはり陸戦型モンスターには飛び道具が有効なのか

913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 13:44:01.89 ID:uHwI5Nqd
小弓公方は臼井なら分かるんだがなあ

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 18:20:24.08 ID:L7i5fm+Z
>912、眉間に当てても兜によっちゃはじくからちゃんとハチの巣にしとかないと。畳で畳みかけるとか

915 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 18:22:21.23 ID:o0IUkIam
これは戦ではない。狩りだ!といって落とし穴掘ればok

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/13(土) 21:02:35.55 ID:rdF+Mj92
>>915
双璧はちょっと黙ってて!

武田正昌と虎と鷹

2010年11月15日 00:01

582 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/13(土) 22:51:07 ID:vV0cZMmP
武田信虎のころ、甲斐河内に武田正昌という、鷹に詳しい男がいた。
当時の戦乱からか、鷹狩りが上方では流行っており、それが地方にも伝播してきていた(この頃には上方では
茶が流行り出す)。

信虎も鷹が大好きで、ある日目利きと噂の正昌が所用で登城した際に、とっておきの鷹を見せた。
正昌は「地暮らしの柔鷹とは思えない、どこで手に入れたのですか」と口を極めて褒めた。

実はこの鷹、長尾為景から北条氏綱に贈られたもので、信虎が難癖を付けてぶんどったのである。
それを聞いた正昌、急に大声で叫んだ。

「なんと、伊勢(北条)のものたちが、いついつごろ領内を通ったので荷を改めましたがそれですか。
ならば、もう一匹、耳の後ろの毛が縞に荒れた、小さい鷹がいませんでしたか。あれこそが至高の鷹です」

信虎は仰天した。立派な鷹のほうが良いと思って、大きい一匹を召し上げてもう一匹は残してやったのである。
普通ならここで諦めるところだが、なにせ大名から大名へ贈られた荷をカツアゲしてしまう男である。
すぐに使いを立てて、鷹を交換させようとした。
それも、偽物と交換されたら大変だとでも思ったのか、この武田正昌を使いにしたのである。

可哀想なのは氏綱である。一匹は取り上げられたが、配下とより良い鷹が残ったので愛でていたら交換しろである。
氏綱は当時敵に囲まれており、武田正昌は甲斐河内の実力者であり、無念のほぞをかんだ。

ちなみに武田正昌は晴信のクーデターの時抵抗するが、穴山氏の仲介で血脈を保っている。

武田正昌と虎と鷹のおはなし。




583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/13(土) 22:57:56 ID:SeIaibzf
>>582
逸話とは直接関係ないのだが…

> 武田正昌
読みは”たけだまさまさ”?

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/13(土) 23:09:09 ID:IjrTzsR4
むう。こういうことか?

武田(丹沢)正信 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4699.html
      │
武田(丹沢)正昌 ←今ココ
      │
   丹沢正俊
      │
丹沢(田沢)正忠 http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3726.html

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/13(土) 23:18:05 ID:vV0cZMmP
すまん、栃木の人間で、武田はよく知らないのだ。狩猟習俗って本に書いてあったことのほぼ丸写し。

586 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/13(土) 23:27:00 ID:wrl66x6D
感情ではともかく、鷹一羽で武田が味方になってくれるなら安いもの
ってこれ後世の逸話じゃなくて、文書が残ってる歴とした史実なんだよなw

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/13(土) 23:33:05 ID:vV0cZMmP
>>584
いまリンク先読んだのですが、元々鷹狩りの一族だったっぽいですね。ありがとうございました。

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/13(土) 23:41:37 ID:BPyfmfao
この丹沢氏は武田信長系の武田氏。
上総武田氏や真理谷氏と近く、和歌でも名を残した家柄。
鷹狩は丹沢山で生きるために身につけたのでは、と前前スレでは推測してたけど、
都の流行に敏感だったからかもしれないね。
武田が味方に、というよりは不可侵でいてくれる程度だな。
あと当時の名鷹は小城の一つくらいする値段。

591 名前:前スレ401[sage] 投稿日:2010/11/13(土) 23:59:20 ID:bf/H7pq2
話が戻って済みません。ムダに長い丹沢正信のものを投下した奴ですが、
「正」名前の読み方に

592 名前:前スレ401[sage] 投稿日:2010/11/14(日) 00:24:35 ID:IJVByBoq
途中で手が滑りました……。

この一族の「正」の読み方なのですが、結論から言えば「ただ」ではないかと思います。

>>584さんと>>588の説の通り、この一族は

武田信長――武田信武―――(中略)―――武田信正――武田正信――武田正昌――武田正俊――武田正忠――
↑(上総武田初代) ↑(甲斐に戻る、新千載和歌集)     ↑(ここから丹沢とも、初の鷹匠) ↑(駿河へ) ↑(ここから田沢。多摩へ)

という感じらしいです。




そのころ、武田信昌など、「信」系統が宗家嫡男の一文字目として流行っていたので、「正」を頭にしたのではないでしょうか。

つまり、   のぶただ――ただのぶ――ただまさ――ただとし――ただのり(ただあつ)  ではないでしょうか。

そうしないと「まさまさ」「ただただ」になってしまうのですよ。
いま、「武田の分家が戦国時代を生き残るようです」あたりを書こうかと戦国時代初期~中期の武田氏を整理しているのですが、
何ですかこの戦闘民族。島津に匹敵するgdgd&ヒャッハー具合です。あと豪族、それも由緒正しい甲斐源氏多すぎワロタ。

信虎の子供たちって、武田宗家としては相当珍しいタイプだったんじゃないでしょうか。

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/14(日) 00:33:45 ID:Vo7pMxvP
そもそも武田の祖先はヒャッハー!のやりすぎで
苗字の地である常陸の武田荘から追放されて甲斐に流れ着いたからなw

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/11/14(日) 00:49:54 ID:CHcnIVJB
武田信武をググッたら武田宗家第十代当主の方が出てきて困惑してしまったんだぜ。
武田信長も自分の高祖父(祖父の祖父)と同じ名前を嫡男じゃない子供に付けんなw

595 名前:前スレ401[sage] 投稿日:2010/11/14(日) 01:23:19 ID:IJVByBoq
お説ごもっともですが、そんなことを言い出すと、信正――正信のコンボもなかなかだと思いますww
もしかしたら、ひっくり返したのは「信」系統の宗家と名前がごちゃ混ぜになるからかもですねwww