240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 04:00:10.54 ID:HwyrRaLG
北条氏規上洛の次第
天正十六年(1588)八月、
北条氏規は上洛の途につき、十日には三河岡崎へ到着した。
案内役を榊原康政と成瀬藤八が務めた。
同十七日、京都へ参着。相国寺に宿所を構えた。
毛利輝元の家臣、平佐就言の日記『輝元公上洛日記』には以降の氏規上洛の次第について、次のようにある。
「八月二十一日、晴れ
(前略)
……この日(輝元)は紫野へ御参りされていたが、御留守の中、民部卿法印前田玄以より
『明日の午の刻(午後十二時)、北条美濃守(氏規)に(秀吉が)御対面されるので、御相伴に参られるように』
との由、御触があった。
御注文の衆は
尾張内大臣(織田信雄)、駿河大納言(徳川家康)、大和大納言(豊臣秀長)、備前宰相(宇喜多秀家)、越後宰相(上杉景勝)、
安芸宰相(
毛利輝元)、
豊後侍従(大友吉統)、
薩摩侍従(島津義弘)、
筑前侍従(小早川隆景)、
新庄侍従(吉川広家)で、
『以上の方々は(秀吉が)北条に御対面するので、御相伴に明日の巳の刻(午前十時)に参られよ』との旨であった」
「八月二十二日、晴れ
辰の刻に宿を立ち、大谷刑部少輔殿(の所?)まで御出なされた。ここより殿様(輝元)は御冠に黒い御装束である。
巳の刻に聚楽へ参られた。隆景様、広家様、黒田官兵衛殿、大谷刑部少輔殿が冠装束して御供をした。
穂井田越前守、福原上総守、口羽伯耆守、渡邊飛騨守、松山兵庫頭、堅田兵部少輔、林肥前守が冠に赤装束で御供をした。
赤川主水佐、国司隼人佐、粟屋右近大夫が風折の立烏帽子に狩衣にて御供をした。
…関白様へ北条新九郎氏直より進物。
金覆輪の御太刀一腰。
馬十疋。
御鷹十一居。このうち一居は白鷺。
漆塗の桶十杯。
(方広寺)大仏御合力の詞書。
…北条美濃守氏規自身進物。
金覆輪の御太刀一腰。
御馬五疋。
綿二折を二千把。」
…午の刻(午後十二時)に御対面。取り次ぎは前野但馬守。冠装束である。
御通い衆、諸大夫は冠に赤装束。
御膳を冠装束の尼子宮内少輔が御配りした」
241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 04:05:43.93 ID:HwyrRaLG
対面の席次は以下の通りである
一段高くなっている高間には秀吉と聖護院道澄、
秀吉から見て右方、上手には公家衆
右大臣菊亭晴季、
大納言勧修寺晴豊、
同中山親綱、
同日野輝資、
頭宰相(不明)ら。
庭のある縁側の下手には尾張内大臣織田信雄、
駿河大納言徳川家康、
大和大納言豊臣秀長、
備前宰相宇喜多秀家、
越後宰相上杉景勝、
安芸宰相
毛利輝元、
更に上手の後には
津少将上野介(織田信包)、
丹後侍従長岡越中守(細川忠興)
南寸野侍従藤五郎(長谷川秀一)、
岩倉侍従毛利河内守(毛利長秀か)、
伊賀侍従(筒井定次)、
豊後侍従(大友吉統)、
薩摩侍従(島津義弘)、
筑前侍従(小早川隆景)、
新庄侍従(吉川広家)など錚々たる面々が居並ぶ中、氏規は敦賀侍従(蜂屋頼隆)に次いで下手の末席を与えられた。
氏規と秀吉らが対面した広間は同年七月に輝元が聚楽第で初めて秀吉と対面した広間と同じもので、この広間の長さは(縦にだろう)十八間とあるから、威勢を示そうとする秀吉の意図が垣間見れる。
「…御三献があり、(秀吉は)氏規に御腰物一つ、脇差一つを差し遣わされた。
関白様が奥へ御立ちなされて、(諸大名らとの)御食事が有り、(氏規は)申の刻(午後四時)に帰られた。
殿様も御宿である妙願寺へ戻られた」
「八月二十四日、曇り
巳の刻(午前十時)に氏規を大和大納言殿が御請待された。
殿様も招待されたが、(氏規の)御腹中気(腹痛)に付き、殿様も御出なされなかった」
……ところで氏規の上洛に際して、北条氏は家中の知行にあわせて金銭を納入するよう定めているが、その費用は二万貫というとてつもない巨額であった。
『輝元公上洛日記』には輝元が行く先々で太刀や馬、織物などを献上している記述が散見されるが、このようにとかく上洛には莫大な経費が必要だったのだ。
この頃北条氏は、もう一方では上方勢との戦を想定し、「御国」論を持ち出して国人や民衆を動員し城の普請などをさせていたが、その上でこの降って湧いたような金銭納入の命である。
彼らの負担はいかばかりであっただろう。
同月二十九日、上洛の目的を果たした氏規は帰路につく。
氏規が初めて目にした上方は、どう映ったのだろうか。
242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 06:18:32.83 ID:Qio4EGrC
>>241
二十四日って、輝元の腹痛じゃなかったっけ?
243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 07:25:02.88 ID:Q21KM4zv
利家は呼ばれなかったの?
244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 13:41:33.02 ID:ITo08+S8
蜂屋頼隆の扱いの悪さが泣ける、織田家でそれなりに偉かったのに長谷川より格下に
245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 15:06:14.15 ID:QKHJWgYH
蜂屋頼隆って織田家中では明智羽柴田丹羽滝川に次ぐナンバー6ぐらいだっけ?
246 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 16:35:42.04 ID:Rj3NcUa6
>>245
ナンバー6は池田
ナンバー7が森
あと蜂屋・河尻・蒲生・堀といった感じだと個人的には思うんだが
247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 16:39:43.40 ID:z/JtvVRv
稲葉はナンバー10には入りませぬか?
248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 16:42:52.24 ID:ynPbw/cB
木綿藤吉 米五郎左 懸かれ柴田に 退き佐久間
佐久間さんも折檻状以前は
249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 17:34:22.03 ID:HwyrRaLG
>>242
指摘ありがとう
今確認したらそうだった
>>243
利家は呼ばれてない
蜂屋頼隆は秀吉に反抗的だったからだ、と見てる。
確証はないけど出羽の検地に反対した逸話も残ってるし
250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 17:57:10.36 ID:i3ZGQ34M
蜂屋頼隆は馬揃えで丹羽に次ぐ2番手だったりでそれなりに良い地位だったよ
ミニ丹羽という感じで信長の手元に置かれてて一軍を率いるとか無かったけど
251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 18:07:50.40 ID:+XZS9WnT
毛利長秀って誰かと思ったが鬼武蔵にやたら喧嘩売られてた毛利秀頼か。
彼と長谷川は意外と秀吉政権じゃ席次高いな。
252 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 18:20:15.90 ID:Rj3NcUa6
>>247
そうそう稲葉が居たね。指摘サンクス。
>>250
調べたら蜂屋がナンバー6で実質の摂津国主だったらしい。てっきり池田や森の下と思ってた。
となると本能寺前の織田家臣団の序列は明智柴田丹羽滝川羽柴蜂屋と来て
後は異論あるだろうけど直臣限定なら池田・森・河尻・稲葉・蒲生・斯波毛利・堀あたりが来るかな。
ちなみに蜂屋は小田原開城の前年に死去。養子の直政(丹羽長秀四男)は夭折しており無嗣断絶。
ちなみに後任の敦賀城主は大谷刑部が継いだんだよな。
253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 19:35:31.61 ID:cUj0XLMV
毛利長秀って羽柴姓、豊臣姓を許されてるんだ
で、息子が毛利秀秋だから
羽柴長秀、豊臣秀頼の息子が豊臣秀秋ってことになるのか
大和大納言も木下長秀だった時期があるからなんかややこしい
254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 20:02:49.04 ID:HwyrRaLG
>>253
しかも彼の名は秀頼とも伝わるから更にややこしい
256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 20:39:11.13 ID:k1WPtt6k
>>241
北条はあまりにとんでもない額を集めようとしたせいで上洛するのが遅れたとかあるのかね…
258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 20:50:55.73 ID:F8ldVIZh
蜂屋は馬回り出身だっけ?
本能寺がなければどこまで栄達したことか
259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 20:58:30.94 ID:ynPbw/cB
もし金吾が毛利家の養子に無理やりくいこんでたら
毛利秀秋となってさらにややこしく
260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 21:18:29.13 ID:dVdmqx/a
>>252
本能寺直前だと丹羽って一段落ちないか?
どこかを任される訳でもなく援軍とか副将とかだし
261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 21:30:24.74 ID:cf7vLbfH
支店長と本社本部長のどっちが偉いか的な
副将してる時の大将も信長の信孝とかだったりするし
270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 09:50:28.45 ID:XviNB1E7
>>241
そこから4ヶ月程前の天正十六年(1588)四月、聚楽第行幸時の序列
ttp://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/3072/1/HirodaiKokushi_90_1.pdf細川、長谷川、筒井、大友など侍従の席次が微妙に違う
271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 09:52:47.72 ID:eJXCas/2
>>270
その4ヶ月の間に席次を巡ってグチャグチャした政治的暗闘があったんだろうなw
272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 10:44:42.73 ID:Hi8tI4T3
>>270
左>右だからこの時に秀吉に随身した諸大夫では増田長盛が最上位か
てか、徳川を出奔した石川数正の位置に哀愁しか覚えない
273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 10:58:45.87 ID:H7zQZ2qF
>>272
かつては徳川家臣二巨頭だったのにねえ
274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 11:05:00.82 ID:+VjcDlhZ
>>272-273
むしろ大名扱いで高評価じゃないか。
275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 11:16:24.46 ID:Hi8tI4T3
>>274
諸大名の行列に列しているわけじゃないし随身だぞ
家康など他の大名の随身と立場は変わらないんだぞ
276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 11:22:37.64 ID:+VjcDlhZ
>>275
すげー勘違いしてるみたいだけど、あの「諸大名欄」は侍従成してる連中が
載ってるだけで、あそこ以外が大名扱いされてない訳じゃないぞ
277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 11:28:50.72 ID:XviNB1E7
よく読めばわかるけど
秀吉に供奉している中にも「大名格」は含まれていると言われている
でもそれは注釈10にあるように脇坂、九鬼、溝口、市橋などね
278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 11:42:09.42 ID:XviNB1E7
天皇と対面(昇殿)出来たのが侍従の公家成までだから
そういう面でも諸大名行列と分けてあるのだろうが
279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 19:58:06.63 ID:5Fmpx7jv
>>272->>273
かつての徳川家臣二巨頭の一人・石川数正を糾弾した後輩の徳川家臣が諸大名行列に参列し
名門の京極や大大名の長宗我部より上位に列席している件
280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 23:10:06.66 ID:QOZALTt5
直政は独特だよな
家康でさえ一時期名乗らされてた豊臣姓を平気で断るし断ってもお咎めもないし
281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 23:19:49.02 ID:eJXCas/2
武士は鎌倉以だと由緒正しいなんて言われるけど、井伊家に関しては平安時代まで普通に遡れる家だしなw
283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 11:53:45.22 ID:ndkbgnTe
伊予河野氏は飛鳥時代から続いてるの見て驚いたっけなあ。
本流は滅んじゃってもったいない。
284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 12:58:13.29 ID:JPwbZUBY
>>281
うち日蓮宗だけどさ、日蓮大僧正って井伊氏の傍流なのか?
285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 18:09:38.23 ID:oM2Cpq/3
>>270
織田系の二代目としては、丹羽長重、池田照政、稲葉貞通、筒井定次、森忠政の順番なのか
286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/03(月) 19:11:49.27 ID:0OhJQCps
源平なら普通は平安時代まで遡れるわな。
鮭さまのバールのようなものの文言じゃない