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さても命は捨てえざる者也

2021年01月24日 17:10

540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/01/24(日) 11:49:37.83 ID:lxwHAmf+
さても命は捨てえざる者也

北条氏が小田原合戦で敗戦し氏政・氏照が切腹したのは、天正18年7月11日のことであった。
その翌日には氏直の高野山行きが決定し、北条家臣団の他家への再仕官がすすめられたあと
残った一門衆・家臣の上下合わせて三百ほどの氏直一行が、小田原から出発したのは21日のことであった。

先行していた氏規が8月7日に大和の興福寺に着いたときの様子を、多聞院英俊
「哀れなる在り様也、さても命は捨てえざる者也、恥をさらし此くの如し、あさましあさまし」
と評しており、切腹しなかったことへの風当たりは強かったようだ。

翌年の2月7日には氏直赦免の内意が秀吉から家康へ伝えられ、氏直は堺に移ったあと大坂に移動した。
家康の陸奥九戸一揆出陣のため、一時的に交渉は滞ったが8月19日に大名として復帰している。
復帰した氏直は借財の整理をすすめていたが、10月29日までに疱瘡を患い11月4日に死去した。享年30。



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北条氏政、氏照の切腹

2019年12月05日 18:31

638 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 18:09:28.65 ID:0N8R+1fU
小田原征伐は和睦と成り、小田原籠城の者達は、七月七日より九日にかけて、夜昼ともなく
引きも切らず東西南北に別れ去り、あたかも蜘蛛の子を散らす如きであった。

この時、豊臣秀吉公より北条氏政父子に使者を以て
『和平の証であれば、一旦下城あるべし。』と伝えてきた。

これを見た氏政父子は憤った
「殿下の言葉とも思えぬ!伊豆相模の両国相違無きと言われた以上、この城にそのまま在るべしという
和睦であったはずなのに、約を変じること心得かねる!」

そのように返答した所、秀吉公より
『そういう事であれば和談を破るという事であるから、元のように籠城せよ。いつでも戦って
攻め落とすであろう。』との返事があった。

これに氏政父子は進退窮まり、どうしたものかと考えたが、士卒たちは尽く退散した後であり、
今更籠城するような力も尽き果て、言語道断なる有様であった。
ここで徳川家康公より榊原康政を以て御異見が加えられ、同九日、北条氏政父子三人、および
氏照、氏邦ら伴って、城下の田村安栖(田村安清:北条家侍医)の居宅に移り、城は井伊兵部少輔(直政)、
榊原式部大輔(康政)がこれを請け取り、番兵を以て七口を警護した。そして殿下の命に任せられ、
翌十日には家康公が御入城された。

秀吉公は家康公にご相談された
「我々が遥々とここまで下向したのは偏に北条一族を根切りにするためである。であるのに
今尽く宥恕せばこれまでの発言への信用も無くなってしまう。である以上、氏政氏照は誅殺し、
氏直はそなたの聟であるのだから、今回のそなたの勲功に鑑みて死刑は宥し置く。氏房、氏邦、氏規も
またこれに準ずるべし。」

家康公はこれに御同心され、同十一日未の刻(午後二時頃)、検使として中村式部少輔一氏、
石川備前守貞清、蒔田権佐正時、佐々淡路守行政、堀田若狭守に、井伊直政、榊原康政を加えて、
千五百余騎にて田村安栖の屋敷を固めた。この時までに氏政父子に従う士卒は八、九百もあったのだが、
この軍勢を見ると等しく、我先にと続々と落ち去って残兵も僅かであった。

639 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 18:09:45.97 ID:0N8R+1fU
検使の面々は席に付くと、中村、石川が進み出て殿下の命を伝えようとしたが、余りに痛ましい事だと
思い、黙して言葉を発することが出来なかった。これを北条陸奥守氏照が察し、言葉をかけた

「各々のここまでの御来臨、定めて当家の一類に対する生害の催促なのでしょう。であれば
暫く沐浴の暇を頂き、その間待っていてほしい。」

中村、石川はこの言葉を得てようやく秀吉公の命を伝え、「心閑に用意有るべき。」と答えた。
その後、氏政、氏照は座に坐り、筆を取って傍の帖紙に辞世の和歌を書いた。

左京大夫氏政
 『雨雲の 覆へる月も胸の霧も はらひにけりな秋の夕風』
 『我身今 消とやいかに思ふへき 空より来り空に帰れは』

陸奥守氏照
 『吹と吹 風ないとひそ花の春 紅葉の残るあらはこそ』

氏照は属鏤匕首を取って腹を十文字に掻っ切った所を、家人が後ろに廻って首を前に落とした。
そして氏政、この時五十三歳も続けて切腹した。この時介錯する者が居なかったが、美濃守氏規が
近づいて介錯した。そして自身も腹を切ろうと太刀を取って肌を押し脱いだ所で、検使の面々が
急ぎ彼を掻き抱き「殿下の命は両将のみである!卒爾の義あらば我々の後日の落ち度とも
なりましょう!」と押し留めた。

この時、陸奥守氏照の侍童に山角平太郎という者があり、ここまで扈従していたのだが、検使の面々が
美濃守を押し留めている隙に氏照の首を抱き取って走り出したが、暫くこれを追いかけて奪い返した。
そして氏政の首と同様に、殿下の実検に備えられると、
「王命を恐れぬ不逞の臣である。朝敵にも等しい。」
として、石田治部少輔三成に下知して京に送り、一条戻橋にて梟首された。

衰勢興亡は世の常の習いであるが、早雲庵宗瑞より既に五代の運を得て、九十余年の暦を伝え、
類葉枝を連ね栄華は関八州に冠たる豪家が一時に滅亡したこと、時節の到来とは言いながら
なんと儚いことであろうか。

また、かの山角平太郎は氏照生害の後にあのような仕儀に及んだことで、井伊直政が召し連れて
陣屋に帰り徳川家康公にお聞かせした所、家康公は
「若年の身でありながら主人の首を奪い取ったその志、殊勝の振る舞いであり、奇特の者である。」
と称賛され、御家人に加えられ、後に武州多摩の関戸の郷に所領を与えられた。

(関八州古戦録)

北条氏政、氏照の切腹について。



640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 20:01:24.24 ID:GxYuEQnq
>>638
>これを見た氏政父子は憤った
この期に及んで何を言うとんねん(´・ω・`)

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 21:24:34.25 ID:1Oc8oAjB
嫌じゃ嫌じゃ死にとうない死にとうない

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/12/05(木) 22:44:29.39 ID:qdHMo2wl
確かに山角はこんな修羅場ですげえ度胸だわ
多摩の関戸って小田原衆筆頭の松田家が代官するいい所貰ってんだな

館林城と決定命婦荒御前

2019年11月27日 16:07

385 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/11/27(水) 13:07:06.45 ID:pmzO3enF
豊臣秀吉による小田原の役の折

東上野の館林城主は北条美濃守氏規であったが、彼は豆州韮山に立て籠もっていたため、
この城は南条因幡守が城代として在り、板倉の真下越前守、飯野の淵名上野介、大島の片見因幡守、
小泉の富岡六郎、藤岡の富田又十郎、以下五、六千人がこれを守っていた。

この館林城攻めの軍勢として、石田治部少輔三成、長束大蔵少輔正家、大谷刑部少輔吉継、
早見甲斐守守久、野々村伊予守雅春、伊東丹後守長実、中江式部少輔直澄、松浦安太夫清長(宗清)、
鈴木孫三郎、並びに佐竹義重、宇都宮国綱が東国の先方衆の陣代としてこの軍勢に列し、五月二十二日、
館林城へ押し寄せた。

この城の盗難は躑躅ヶ崎といって渺々とした深い湖沼であり、人馬が通行するのは不可能であれば、
攻め手は味方を三手に分けて、三方より攻め掛かった。西の大手は石田、速水、中江、並びに
佐竹宇都宮勢七千余騎、佐川田の渡を越えて佐野口より押し詰め、大谷原の松林に陣を取った。

東方は下外張口の搦手より長束、野々村、伊東ら六千八百余騎が、東北の加保志口は大谷、松浦、鈴木ら
五千六百余騎、都合一万九千四百余騎にて三方より囲み鬨の声を上げた。

一方、館林城中は多年激しい戦に慣れている勇士達であり、手ぐすねを引いて集まった者達が、
殊更に屈強の要害に籠もっているのだから、ここに支えかの所を防ぎと頑強に防衛し、簡単に
落ちそうに無く、寄せ手は遠攻めをして三、四日が過ぎた。
この時、石田三成が諸将に対してこのように提案した

「この城の東南に大沼があり城方にとって手明きとなっている。このため彼らは残りの三方に
集中して防戦し、故に屈強に抵抗している。そこで、人数を分けて大袋山に入って大木巨木を
切り倒してあの沼に投げ込ませ、また周辺の家を破却し、これらを用いて道を付けて攻め寄せれば、
敵兵は持ち口が分散され味方が攻めるのに有利と成ると考えるが、如何であろうか。」

これを聞くと諸将は皆然るべきであるとして、近くの郷村に触れを回し、料足(賃金)を与えると
呼びかけると、人夫二、三百がたちまち集まり、近辺の山林より大木を刈り出し昼夜を分かたず
大沼へ投げ込むと、二、三日の間に八、九間ばかりの二筋の道を付けることが出来た。
その間三方の寄せ手は意図を汲んで隙を与えず攻め立てたため、城兵はこの防御に手一杯となり、
大沼の方面へ人を出すことが出来ず、攻め手は難なく道を付けることが出来たのである。

さて、明日は四方より押し詰め総攻めにすべしと、手分け手配も定め、夜が明けるのを今や遅しと
待ち受けていた所、その夜、松明が二、三千ばかり灯され、続けて夥しい人の声がどよめき響き、
また普請している音も聞こえた。寄せ手は「城中に多数の者達が居るとも見えないのに、堀切、柵などを
付けているのだろうか。」と訝しみ囁きあいながらこれを聞いた。

一方で城中の方は敵勢を見て「何と夥しい敵兵であろうか。今はもはや四面このような状況であり、
我等はもはや牢の中の獣、籠の中の鳥の如くであるから、城から落ちることすら出来ない。
明日は潔く一戦をして討ち死にしよう。今生の暇乞いに、今宵は快く最期の酒盛りをすべし。」
と一献を催し、夜明けを待った。

386 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/11/27(水) 13:07:52.31 ID:pmzO3enF
夜が明け日が既に曉天に至った頃、石田治部少輔、佐竹、宇都宮ら四千余騎にてかの大沼に押し寄せ、
持ち盾械楯を先に立てて、それぞれに馬を乗り放って進み、近づいて見てみた所、二筋まで付けた
道の材木が尽く泥中に沈み込んでおり、どうにも渡れる状況ではなかった。
これに寄せ手は大いに驚き「さては前夜の人夫の音はこれであったか!」と言い合ったが、猶も
不審は晴れないまま、他の三方の攻め口にこの事を伝えた。

丁度その頃、山中城が落城し、そこを守っていた北条左衛門太夫氏勝は降伏、豊臣軍の案内として
こちらに着陣していたのであるが、これを聞いてはたと思い出した
「これは全く城兵の仕業ではない。かつて赤井但馬守がこの城を築き始めた時、野狐の変化が
地形の指南をしたという。その野狐は今以て城中にて祀られ鎮守の神として崇められていると聞く。
尾引曲輪がそれである。かつて永禄九年の秋、南方(北条)の軍勢が当所に押し寄せた時も、
このような神変があって囲みを解いた事がある。決定命婦荒御前というのがその野狐の名であるが、
これが成したことであろう。」

このように申し、また諸将も手をこまねいて奇異の思いをなしており、このような所に長陣は
無益であり、ここは和議をなして片時も早く忍城へ向かうべきだと考えていたため、この氏勝より
城内の南城、真下、富岡等へ矢文を射込み扱いを入れると、城方もこれに同意し、同月晦日に
城兵は退散した。これによって石田大谷が城を請け取り、数百ほどの番兵を置いて忍城へと向かった。

(関八州古戦録)

館林城の狐については、まとめentry-144.の『赤井照光と狐と館林築城・いい話』を参照


韮山城、十八町口の戦い

2019年11月04日 17:08

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/04(月) 14:38:25.43 ID:fzeD9f8w
小田原役、豊臣方による韮山城攻め。

寄せ手の明石左近将監(則実)と前野但馬守長康は十八町口へ押し寄せていたが、突然城中より
丹波、富野、根府川、小野、広瀬ら三百余人が門をさっと開くと、どっと大波が押し寄せるように
打って出た。このため明石、前野の勢はたちまち谷底へと落とされ、思わぬ死傷者を出した。

これを見て、同じく寄せ手の福島左衛門太夫正則は、鐘や太鼓を鳴らし鬨の声を上げて横合いより
攻め込ませた。その中から福島丹波守治重、同式部丞、長尾隼人正一勝、村上彦左衛門、
大崎玄蕃允、可児才蔵、林亀之助、以下百人ばかりが抜け出し、城方へ逆襲した。

これに城主の北条美濃守氏規も七百人ばかりで打って出た。氏規はその軍勢を二つに分け、
左右より敵を押し包もうとした。福島正則もこれを見ると六、七百余騎を率いて自ら打って出て、
たちまち乱戦と成った。敵味方入り混じり、火の出るような戦いがしばらく続いたが、ややもすると
上方勢がまくしたてられ危うく見えた。しかしここで寄せ手の控えの勢が一斉に打って出れば、
敵を圧倒し城も落とせるように思われたが、この韮山城攻めの総大将である織田内府信雄の
下知はなく、控えの部隊はただじっとその戦いを見ているだけであった。
そこからやや有って、織田内府の陣よりついに合図の法螺貝が鳴り、寄せ手の総攻撃となった。

しかし北条美濃守は、これを聞くと即座に兵を退いた。その進退の時期を得た絶妙さは敵も味方も
驚くほどであった。それに対し、追い打ちをかけに福島正則の一隊が突き入ってきた。この時
城兵は未だ城内に入る橋を渡り終えていなかったため、美濃守は立ち止まって長刀を振るい、
追手を六人まで堀へなぎ落とした。その勇猛さは阿修羅のごとく凄まじいものであり、不動明王かと
思われるほどの憤怒の形相に敵が怯んだ所へ、城中より再び、横井越前守、小机修理亮、工藤次郎三郎
以下六騎が取って返し、橋詰に並んで敵を防ぎ、その間に城兵尽く城中へと入った。その後より、
美濃守以下六騎が悠々と引き上げたのである。

ここでまさに城門を閉めんとした時、首二つを掲げていた福島正則の家人・可児才蔵吉長が
その首を投げ捨て持っていた鑓をその扉の間にさっと入れた。このため門に隙間ができ、すかさず
才蔵はえいと声をかけその扉を両手で押した。これに城方も内より大勢で支えて押し返した。
寄せ手は才蔵に続き福島丹波守、林亀之助が駆けつけ才蔵に力を貸した。内でも再び押し返す。
負けじと才蔵たちが押している所に味方がどっと駆けつけた。

この時城の堀の上と門脇の狭間より一斉に矢弾が飛んできて、寄手二十人ばかりがたちまち討たれた。
それでも寄手は大崎玄蕃允、福島丹波守の郎党・小林平蔵、岡田新六郎なども加わり扉を押した。
またも狭間より鑓や薙刀が突き出され、小林と岡田が討たれ、可児才蔵と大崎玄蕃允の浅手を負った。

こうして双方がえいえいと押し合っているうちに、才蔵が差し挟んでいた鑓のケラ首が折れて扉は
完全に閉まった。この間にも長尾隼人正は三度まで塀によじ登ったが、二度は内より突き落とされ、
三度目はその口に敵の鑓の穂先が突き刺さって深手を負った。

このように福島正則の部隊はよく粘ったが、城兵もよく戦って防いだので、正則は終に退却の貝を
吹かせ、まだ城門で戦っていた四人を招き返した。才蔵は穂先のなくなった鑓に最前捨てた首を
もう一度拾ってくくりつけ、悠々と引き上げた。

そこで城中より、この四人を敵ながら天晴であると、その名を名乗るように言ってきた。
四人は橋の上に留まって、城へ向かって大音声で「福島左衛門太夫正則が家臣誰々」と名乗って
退いた。

この時城内の兵で、隙を狙って彼らを撃とうとする者があったが、美濃守はそれを止めて
「あたら冥加の武士を無碍に誅すれば、てきめん軍神の怒りに触れよう。必ず手出ししてはならない。」
と戒めた。かくて四人は何事もなく自陣へと帰った。

この一戦で、蒲生氏郷の手の者四百三十余人、福島正則の手の者六百八十余人が討たれ、手負いは
数限りなく有ったという。

(関八州古戦録)



313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/04(月) 19:57:42.66 ID:OTSVAPN0
>>312
両方かっこいいなぁ、しかし信雄もいい味出しとるw

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/04(月) 20:09:12.00 ID:lxC86Rew
美濃守ここまで来ると出木杉くんだろ

豆州韮山城攻め

2019年11月03日 17:15

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/03(日) 10:54:29.02 ID:5cUHPvts
豊臣秀吉による小田原征伐、豆州韮山城攻めでの事

この韮山城主である北条美濃守氏規は知勇兼ね備わり、信義仁徳に厚い武将であったため、
配下の者もよく美濃守に懐き、この度の戦いでは尽くが、主人とともに城を枕にと互いに誓い合った。

そして美濃守は平時より弓を良くし、その配下にも二人張り、三人張りの弓を引き、百発百中という
者が多かった。そのようであったので、箙(えびら)、胡祿(やなぐい)、尻籠(しりこ)、空穂(うつぼ)
といった矢入れも上等のものをあつらえ、そこから手早く取り出し射る矢は、刺矢も遠矢も威力があり、
雨あられと降る矢に仇矢は一本もなかったのである。

さらに加えて、鉄砲の名人が櫓の上や塀の狭間より眼下の敵を撃つのである。寄せ手は見る見るうちに
撃ち殺され、死人の山となった。

この時、寄せ手の蒲生氏郷勢の先鋒である蒲生左門(郷可か)は、采配を振るいよく下知していたが、
城中よりの鉄砲が左門の従卒に持たせていた槍の柄を真っ二つにした。さらにその弾丸は弾み、左門の
左目に当たった。しかし左門は血が滝のように流れ出ている左目に指を突っ込み弾丸を取り出すと、
そのまま尚も先頭に立って進んだ。この姿を見た味方も城方の兵も一様に感嘆し、

「彼は鎌倉源五郎景政(後三年の役で右目を射られながらも奮闘したという逸話が有る)の再来か」

と語り合ったという。

(関八州古戦録)

小田原役における韮山城攻めの様子



309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/03(日) 19:06:57.66 ID:tZVaJSMw
目ん玉取り出して食べた話かと思った

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/04(月) 02:43:07.67 ID:lxC86Rew
有能だったんだねえ

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/04(月) 06:13:54.90 ID:Op4v5g6D
目に弓矢ささる逸話は世界各国ありそうだ

「助五郎よ」「竹千代よ」

2019年10月21日 17:20

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 14:26:08.65 ID:1elt2ogG
天正十年七月十九日、徳川家康は遠州引間郡浜松城を発進して、同月二十四日に甲州へついた。
柏原の傍らの勝山に旗を立て、そこに服部半蔵正成を残すと、自らは古府中の一条右衛門太夫信龍の
旧宅へと入った。そして若神子口へ大須賀五郎左衛門康高、榊原小平太康政、本多豊後守康秀の
三人を遣わしこれを守らせた。これは敵を古府中へ近づけないためである。

同月二十九日、北条氏直と対陣したが、所々方々で徳川方が切り勝ち北条方は不利となり、
十一月にはこれ以上持ちこたえられないと、北条氏政、氏直父子の命を受け、伊豆韮山城主である
北条美濃守氏規が両家和議のために働き、幸い上手くいって氏直が退陣することと成った。
しかし氏直は退くに当たって旭山に砦を築きそこに番兵を置いたが、これが家康の気分を害した

「氏直のやり方には表裏がある。この上は是非に及ばず、一戦を交えん。そもそも今度の和議を
受け入れたのは、中にはいった北条美濃守が今川義元の全盛の頃、その人質として私も共に
幼少を過ごしたよしみによるもので、本来和睦をしたくはなかったのだ。残念ではあるが
今は運を天に任せて一戦あるべし。」

そして徳川方は物見を出すと、若神子より長浜へかけて陣を固め、その上で家康の意を込めた
書状を朝比奈弥太郎泰勝に持たせ北条方へ遣わした。弥太郎はただ一騎で北条方の陣に向かうと、
平沢あたりに入り乱れて陣を敷いている所に駆け込み、まず大道寺駿河守直繁の陣へ行き、
徳川家康よりの使いの者である。北条美濃守の陣所は何処なりや」と叫んだ。

駿河守はこれを聞いて案内を付け、朝比奈弥太郎を美濃守の陣所へ差し向けた。氏規はさっそく
その書状を読むと氏直に会い、和議の件が相違ないことを確認すると、その証拠として大道寺駿河守の
嫡子である新四郎を人質とし、彼を連れて朝比奈弥太郎とともに家康の陣へ同道した。

新府城に在った家康に、榊原康政が奏者としてその趣を言上すると、家康は承知し美濃守と対面した。
二人は共に幼少の頃より長く今川に人質に取られていた仲間であり、「助五郎よ」「竹千代よ」と、
その頃の話を懐かしく語り合い、飽くことなかった。

やがて美濃守は人質の大道寺新四郎を鳥居彦右衛門元忠に預け陣所を去った。後刻、美濃守は改めて
新府城を訪れ和議が整った。その折に家康が鵜殿長門守(長忠)の娘に産ませた姫(督姫)を、氏直へ
輿入れさせる約束も出来た。かくして北条の軍勢は甲信の陣を払い十一月下旬に小田原へ帰陣した。
それから間もなく、家康は大道寺新四郎を小田原へと送り戻した。

(関八州古戦録)

天正壬午の乱の和睦についてのお話。



285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/21(月) 15:12:38.61 ID:nRo1POF0
>>277
一益さんの進退も見事だけど
>>284
家康さんもさすが動き速いね

北条氏、その親類一党の栄え

2019年10月05日 16:18

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 13:36:55.68 ID:MS3gurir
北条氏康はこの年(永禄二年)、四六歳であったが、六月下旬に隠居剃髪して万松軒(実際には太清軒)と
号した。病により任に耐えず、という事であったが、別して病身という訳ではなく、この春に自分よりも
ずっと若い上杉輝虎のために城門を馬蹄で踏み荒らされながら一戦も交えず、弓矢の面目を失ったことを
とかく世間に取り沙汰されたのを恥じての隠居であった。

嫡子相模守氏政は二十三歳であり、家督を受け継ぎ国務を司った。

次男由井源三氏照はもともと朝日将軍木曽義仲の後胤である大石源左衛門定久が、前管領家に背いて
小田原に降った時、氏康から婿養子に貰い受け、自分の高麗郡滝山の城を譲ったのである。
以後自身は入道して道俊と号した。実子は在ったが幼少であったので共に戸倉に蟄居した。
その時氏照は由井の名字を捨てて大石陸奥守と名乗った、その頃一度、滝山という所に居城を持ったが、
滝は落ちるので落城に通ずると、同郡八王子に新城を築いて移ったのである。氏照は多くの兄弟の中で
特に父母へ孝順の人であった。

三男新太郎氏邦は書道に優れ、後に安房守と号した、これも前管領家の旧臣藤田右衛門佐邦房が養子として、
武州秩父郡岩田の天神山の城を与え、自身は実子の虎寿丸と共に榛沢郡用土という所に退去していた。
(上杉)輝虎がはじめて関東へ越山した頃、氏康に仕え用土新左衛門と言ったが、今は沼田の城代となり
虎寿丸は後に藤田能登守信吉といった。
新太郎氏邦は初め秩父領横瀬の根小屋に城地を構えていたが、あまりに人里離れて万事不自由であったので、
男衾郡鉢形へ移った。この城は太田道灌の築いた要害であるが、甲州、越後の敵が近寄る機会が多く、
常に小田原から三百騎を援兵に差し出し、榛沢のあたりに新関を設けて、山上には常に見張りを
絶やすことの出来ない城であった。

四男助五郎氏規は美濃守と号し、豆州韮山の城主である。

五男新四郎氏忠は乗馬の名手で、後に左衛門佐と号し、相州足柄の城を守っていたが、佐野家の名跡を
受けて、後に野州由良へ移った。

六男竹王丸氏尭は鉄砲の手練で、後に右衛門佐と号し、武州小机の城主である。

七男七郎氏秀は後に武田三郎と号し、輝虎の養子と成って北越へ行った後は、上杉三郎景虎と称した、

その他に女子が六人あって、藤田の吉良左兵衛佐頼久、北条常陸守氏繁、今川刑部大輔氏真、千葉介邦胤、
武田大膳大夫勝頼、太田源五郎氏資などの室になっている。

早雲庵宗瑞、新九郎氏綱、左京大夫氏康と三代続いただけで枝葉が繁り、その親類一党の栄えを
うらやまない者はなかった。

(関八州古戦録)

氏康隠居の頃の小田原北条氏の繁栄について。現在の研究水準とは異なる内容も含まれています。
北条氏尭は氏康の弟であると考えられていますし、氏忠はその氏尭の子の可能性が高いとされています。
また氏規のほうが氏邦の三歳兄であった事が近年指摘されるなどしていますね。
ともかくも北条氏一族についてこのような印象を持たれていた、という記事です。



254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 16:13:02.58 ID:n7af26vk
>>252
関係ないけど武士って木に例えられるよね
民は草なのと対照的

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 20:44:43.34 ID:McdmRo5l
まあ位置関係からしたら合ってるかと

北条一門の歌

2018年09月18日 18:13

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 01:12:50.18 ID:3a6RWHwE
「見恋」 いかにせむ心ひとつに月日へて つゐにあはての浦のみるめを 氏政
「蚊遣火」 ながめるつる月日のひかりに影そへて 草の庵りに蚊遣たくらむ 氏直
世の中にあらぬ草木を求めても 法のみちにふみもまよはじ 氏規
「契空恋」 知らせばや契し事ももしほ草 そをだに絶て思ふ心を 氏堯
逢坂のせきのひかしに武の 名やはかくるゝ十五の駒 氏照
色ゝのさかなはあれど今夜しも わきてさゞいのめづらしきかな 氏光
都路をかけていた鳴駒の音 新月夜にや今や別らむ 氏忠
月もはやさ夜ふけがたになりぬれば かれヽになるむしの声かな 氏邦
「月前雲」 やまかぜの吹よはるより久方の 月のな□□の秋のうき雲 氏能
「通書恋」 かばかりやさきの世くやし玉章の むすぶちぎりはあはじ物かな 氏親
冬のうみの時雨るゝ波のはげしきに 身もはづかしのさゞいなるらん 氏冬
見ぬ花やおもふばかりにかきつばた ふかき色香を面影にして 範冬

(喜連川文書)
足利義氏、北条氏康とともに当時の北条一門が読んだ和歌を氏照が記したとされている
また、範冬とは今川範以のこととされている
問題は現在北条関係で発見されている史料において唯一の所見になる氏能、氏親、氏冬とは誰のことなのか

悪い話というか北条研究で未だ解決されない謎の1つ



155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 08:16:59.64 ID:SFBIDdSW
夭逝した氏政の兄貴が氏親とかいわれてなかったっけ?

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 10:16:28.04 ID:kAdBeT5C
早死したんなら和歌が読めない年齢のはず
母親の身分が低過ぎて虫けら扱いだったんだろうな

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 12:59:53.16 ID:d3+CY0nG
>>155
読んだ順番ではなく一門でも家格順じゃないかなあこれ
氏政が上の時点で氏政が家督継承したか次期家督継承者になってるんじゃないかなあ

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 17:15:20.78 ID:rWqd47zb
今川範以だって?妄言も大概にしろ
可能性があるとしたら氏真だろうな

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 18:04:26.15 ID:J62I4Vu1
崩し過ぎて読めなくなったんかな

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 18:05:50.75 ID:HApGphN1
>>156
いや最近の黒田基樹先生あたりの北条研究の本を読めよ。「北条氏親」は氏康の嫡男で
しかも氏康の正妻である瑞渓院(今川氏親娘)の子であり、氏政の同母兄だ。夭折と言っても
氏親の名乗りからも解るように既に元服していて、16歳で亡くなったと考えられているので、
このくらいの歌は詠める。

士は終わる所に強い意地が

2016年12月26日 16:02

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/12/26(月) 13:14:43.95 ID:1WIkHi0K
 小田原陣の仲立ちとして、北条新九郎氏直から伊豆韮山の城主北条美濃守氏規へ自筆の書状を送った。
そこには『しかたがないが城を渡すべし』との事が書いてあった。
「しかしながらただ今まで、城に向かって矢玉を打ってきた人へはっきりとした理由無く
城を渡すのは本意ではない。家康公の家人を遣わされましたら渡しましょう。」
との趣旨を申された。
秀吉もその志が強く意地が爽やかなのを感じて、家康公から内藤三左衛門(信成)を遣わされて韮山の城を受取られた。
 とにかく士は終わる所に強い意地がありたいことである。
(武士としては)

氏照の首

2013年03月10日 19:10

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/03/10(日) 15:43:40.15 ID:c8KReEoQ
天正十八年七月十一日の晩、秀吉より北条氏政と氏照兄弟へ切腹の申し渡しがあった。
助命・本領安堵の和睦の話があった中、二人は騙されたとの無念の内に自害して果てた。

その介錯は弟の氏規が行った。
氏規も兄たちの後を追おうとしたところ、徳川家重臣・井伊直政が走り寄り抱き留めて諭してこれを助けた。

この混乱に紛れて、氏照の首を小姓の山角牛太郎が奪い取って逃げたが、
なだめすかして取り返し供饗に置いた。

家康は「牛太郎は若輩であるが、主人を思う志はあっ晴れである」と誉め、
後に牛太郎に千石以上の知行を与え旗本として召し抱えた。

≪小田原北条記≫






北条氏規上洛の次第

2012年09月01日 20:57

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 04:00:10.54 ID:HwyrRaLG
北条氏規上洛の次第

天正十六年(1588)八月、北条氏規は上洛の途につき、十日には三河岡崎へ到着した。
案内役を榊原康政と成瀬藤八が務めた。
同十七日、京都へ参着。相国寺に宿所を構えた。


毛利輝元の家臣、平佐就言の日記『輝元公上洛日記』には以降の氏規上洛の次第について、次のようにある。

「八月二十一日、晴れ
(前略)
……この日(輝元)は紫野へ御参りされていたが、御留守の中、民部卿法印前田玄以より
『明日の午の刻(午後十二時)、北条美濃守(氏規)に(秀吉が)御対面されるので、御相伴に参られるように』
との由、御触があった。
御注文の衆は
尾張内大臣(織田信雄)、駿河大納言(徳川家康)、大和大納言(豊臣秀長)、備前宰相(宇喜多秀家)、越後宰相(上杉景勝)、
安芸宰相(毛利輝元)、
豊後侍従(大友吉統)、
薩摩侍従(島津義弘)、
筑前侍従(小早川隆景)、
新庄侍従(吉川広家)で、
『以上の方々は(秀吉が)北条に御対面するので、御相伴に明日の巳の刻(午前十時)に参られよ』との旨であった」

「八月二十二日、晴れ
辰の刻に宿を立ち、大谷刑部少輔殿(の所?)まで御出なされた。ここより殿様(輝元)は御冠に黒い御装束である。
巳の刻に聚楽へ参られた。隆景様、広家様、黒田官兵衛殿、大谷刑部少輔殿が冠装束して御供をした。
穂井田越前守、福原上総守、口羽伯耆守、渡邊飛騨守、松山兵庫頭、堅田兵部少輔、林肥前守が冠に赤装束で御供をした。
赤川主水佐、国司隼人佐、粟屋右近大夫が風折の立烏帽子に狩衣にて御供をした。
…関白様へ北条新九郎氏直より進物。
金覆輪の御太刀一腰。
馬十疋。
御鷹十一居。このうち一居は白鷺。
漆塗の桶十杯。
(方広寺)大仏御合力の詞書。
…北条美濃守氏規自身進物。
金覆輪の御太刀一腰。
御馬五疋。
綿二折を二千把。」
…午の刻(午後十二時)に御対面。取り次ぎは前野但馬守。冠装束である。
御通い衆、諸大夫は冠に赤装束。
御膳を冠装束の尼子宮内少輔が御配りした」

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 04:05:43.93 ID:HwyrRaLG
対面の席次は以下の通りである

一段高くなっている高間には秀吉と聖護院道澄、
秀吉から見て右方、上手には公家衆
右大臣菊亭晴季、
大納言勧修寺晴豊、
同中山親綱、
同日野輝資、
頭宰相(不明)ら。

庭のある縁側の下手には尾張内大臣織田信雄、
駿河大納言徳川家康、
大和大納言豊臣秀長、
備前宰相宇喜多秀家、
越後宰相上杉景勝、
安芸宰相毛利輝元
更に上手の後には
津少将上野介(織田信包)、
丹後侍従長岡越中守(細川忠興)
南寸野侍従藤五郎(長谷川秀一)、
岩倉侍従毛利河内守(毛利長秀か)、
伊賀侍従(筒井定次)、
豊後侍従(大友吉統)、
薩摩侍従(島津義弘)、
筑前侍従(小早川隆景)、
新庄侍従(吉川広家)など錚々たる面々が居並ぶ中、氏規は敦賀侍従(蜂屋頼隆)に次いで下手の末席を与えられた。

氏規と秀吉らが対面した広間は同年七月に輝元が聚楽第で初めて秀吉と対面した広間と同じもので、この広間の長さは(縦にだろう)十八間とあるから、威勢を示そうとする秀吉の意図が垣間見れる。

「…御三献があり、(秀吉は)氏規に御腰物一つ、脇差一つを差し遣わされた。
関白様が奥へ御立ちなされて、(諸大名らとの)御食事が有り、(氏規は)申の刻(午後四時)に帰られた。
殿様も御宿である妙願寺へ戻られた」

「八月二十四日、曇り
巳の刻(午前十時)に氏規を大和大納言殿が御請待された。
殿様も招待されたが、(氏規の)御腹中気(腹痛)に付き、殿様も御出なされなかった」

……ところで氏規の上洛に際して、北条氏は家中の知行にあわせて金銭を納入するよう定めているが、その費用は二万貫というとてつもない巨額であった。

『輝元公上洛日記』には輝元が行く先々で太刀や馬、織物などを献上している記述が散見されるが、このようにとかく上洛には莫大な経費が必要だったのだ。

この頃北条氏は、もう一方では上方勢との戦を想定し、「御国」論を持ち出して国人や民衆を動員し城の普請などをさせていたが、その上でこの降って湧いたような金銭納入の命である。
彼らの負担はいかばかりであっただろう。


同月二十九日、上洛の目的を果たした氏規は帰路につく。
氏規が初めて目にした上方は、どう映ったのだろうか。




242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 06:18:32.83 ID:Qio4EGrC
>>241
二十四日って、輝元の腹痛じゃなかったっけ?

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 07:25:02.88 ID:Q21KM4zv
利家は呼ばれなかったの?

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 13:41:33.02 ID:ITo08+S8
蜂屋頼隆の扱いの悪さが泣ける、織田家でそれなりに偉かったのに長谷川より格下に

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 15:06:14.15 ID:QKHJWgYH
蜂屋頼隆って織田家中では明智羽柴田丹羽滝川に次ぐナンバー6ぐらいだっけ?

246 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 16:35:42.04 ID:Rj3NcUa6
>>245
ナンバー6は池田
ナンバー7が森
あと蜂屋・河尻・蒲生・堀といった感じだと個人的には思うんだが

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 16:39:43.40 ID:z/JtvVRv
稲葉はナンバー10には入りませぬか?

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 16:42:52.24 ID:ynPbw/cB
木綿藤吉 米五郎左 懸かれ柴田に 退き佐久間
佐久間さんも折檻状以前は

249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 17:34:22.03 ID:HwyrRaLG
>>242
指摘ありがとう
今確認したらそうだった
>>243
利家は呼ばれてない

蜂屋頼隆は秀吉に反抗的だったからだ、と見てる。
確証はないけど出羽の検地に反対した逸話も残ってるし

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 17:57:10.36 ID:i3ZGQ34M
蜂屋頼隆は馬揃えで丹羽に次ぐ2番手だったりでそれなりに良い地位だったよ
ミニ丹羽という感じで信長の手元に置かれてて一軍を率いるとか無かったけど

251 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 18:07:50.40 ID:+XZS9WnT
毛利長秀って誰かと思ったが鬼武蔵にやたら喧嘩売られてた毛利秀頼か。

彼と長谷川は意外と秀吉政権じゃ席次高いな。

252 名前:名無しさん@お腹いっぱい[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 18:20:15.90 ID:Rj3NcUa6
>>247
そうそう稲葉が居たね。指摘サンクス。

>>250
調べたら蜂屋がナンバー6で実質の摂津国主だったらしい。てっきり池田や森の下と思ってた。
となると本能寺前の織田家臣団の序列は明智柴田丹羽滝川羽柴蜂屋と来て
後は異論あるだろうけど直臣限定なら池田・森・河尻・稲葉・蒲生・斯波毛利・堀あたりが来るかな。
ちなみに蜂屋は小田原開城の前年に死去。養子の直政(丹羽長秀四男)は夭折しており無嗣断絶。
ちなみに後任の敦賀城主は大谷刑部が継いだんだよな。

253 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 19:35:31.61 ID:cUj0XLMV
毛利長秀って羽柴姓、豊臣姓を許されてるんだ
で、息子が毛利秀秋だから
羽柴長秀、豊臣秀頼の息子が豊臣秀秋ってことになるのか
大和大納言も木下長秀だった時期があるからなんかややこしい

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 20:02:49.04 ID:HwyrRaLG
>>253
しかも彼の名は秀頼とも伝わるから更にややこしい

256 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 20:39:11.13 ID:k1WPtt6k
>>241
北条はあまりにとんでもない額を集めようとしたせいで上洛するのが遅れたとかあるのかね…

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 20:50:55.73 ID:F8ldVIZh
蜂屋は馬回り出身だっけ?
本能寺がなければどこまで栄達したことか

259 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 20:58:30.94 ID:ynPbw/cB
もし金吾が毛利家の養子に無理やりくいこんでたら
毛利秀秋となってさらにややこしく

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 21:18:29.13 ID:dVdmqx/a
>>252
本能寺直前だと丹羽って一段落ちないか?
どこかを任される訳でもなく援軍とか副将とかだし

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/01(土) 21:30:24.74 ID:cf7vLbfH
支店長と本社本部長のどっちが偉いか的な
副将してる時の大将も信長の信孝とかだったりするし

270 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 09:50:28.45 ID:XviNB1E7
>>241
そこから4ヶ月程前の天正十六年(1588)四月、聚楽第行幸時の序列
ttp://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/3072/1/HirodaiKokushi_90_1.pdf

細川、長谷川、筒井、大友など侍従の席次が微妙に違う

271 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 09:52:47.72 ID:eJXCas/2
>>270
その4ヶ月の間に席次を巡ってグチャグチャした政治的暗闘があったんだろうなw

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 10:44:42.73 ID:Hi8tI4T3
>>270
左>右だからこの時に秀吉に随身した諸大夫では増田長盛が最上位か
てか、徳川を出奔した石川数正の位置に哀愁しか覚えない

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 10:58:45.87 ID:H7zQZ2qF
>>272
かつては徳川家臣二巨頭だったのにねえ

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 11:05:00.82 ID:+VjcDlhZ
>>272-273
むしろ大名扱いで高評価じゃないか。

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 11:16:24.46 ID:Hi8tI4T3
>>274
諸大名の行列に列しているわけじゃないし随身だぞ
家康など他の大名の随身と立場は変わらないんだぞ

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 11:22:37.64 ID:+VjcDlhZ
>>275
すげー勘違いしてるみたいだけど、あの「諸大名欄」は侍従成してる連中が
載ってるだけで、あそこ以外が大名扱いされてない訳じゃないぞ

277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 11:28:50.72 ID:XviNB1E7
よく読めばわかるけど
秀吉に供奉している中にも「大名格」は含まれていると言われている
でもそれは注釈10にあるように脇坂、九鬼、溝口、市橋などね

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/02(日) 11:42:09.42 ID:XviNB1E7
天皇と対面(昇殿)出来たのが侍従の公家成までだから
そういう面でも諸大名行列と分けてあるのだろうが
[ 続きを読む ]

北条氏規と徳川家康の友情

2011年05月03日 00:01

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 22:56:57.59 ID:tRqwkLIG
では真田にとってははた迷惑な友情の話

信長の横死後、北条と徳川は所々で戦ったが、徐々に北条は利を失っていった
そこで北条家当主氏直は北条氏規に命じて徳川と講和した

しかし、北条方が砦を築き番兵を置いたという噂が流れ、家康は不審に思った
「もともとこの和平は人質時代の氏規との好で結んだもの。破れても構わぬ。一戦に及んで運を天に任そう」
そう言って使いを氏規の陣に使いを出すと、北条方は大道寺新四郎を人質と渡すことを伝えた

氏規は徳川の使者・朝比奈泰勝と新四郎に同道し、家康に対面した
家康と氏規は駿府時代の昔話で盛り上がり、家康も上機嫌のうちに話し合いは終わった
結局家康の娘を氏直に嫁がせることで話はまとまり、大道寺新四郎も後に還された

昔の付き合いが大大名同士の和平を結んだ話


ちなみに、この逸話は『関東古戦録』出典なので信憑性は不明だが、
この時人質となった大道寺新四郎は後に前田家→尾張徳川と仕え、
代々家老職を輩出した尾張大道寺家の祖、大道寺直重と思われる

他にも大道寺家の面々は徳川に庇護され、旗本となるかどこかの大名の重臣となっている





侍童・山角平太郎の忠義

2011年04月04日 00:01

702 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 17:16:14.63 ID:LinmCTPt
さっきちょっと悪い話スレに書き込んだ話の続き

小田原開城後、兄の介錯を務めた氏規。
氏政の介錯を終えると、彼も自害しようと太刀を取り直した。

慌てたのは検使役の面々である。
「殿下が死罪を命じたのは両名だけでござる。失態があれば我らの落ち度となります。」
と必死に押し止めた。

この時氏照の侍童であった山角平太郎は、検使が氏規に気を取られている隙に乗じて、
氏照の首を奪い取って走り出した。

結局首は取り返され、京で晒されることになるのだが、平太郎は検使の井伊直政に召し出され、
家康に紹介された。
家康は平太郎の心意気に感じ入り、家臣の列に加えた。
彼は後に、武州多摩郡関戸に領地を与えられることになるのであった。

北条家の最期に現れた忠臣の話。




703 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 18:47:38.86 ID:I3FMqcu5
忠臣か?

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 19:36:23.79 ID:DpVduhov
まあ、子供だからな
多感な時期の発想だろう

705 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 19:40:56.00 ID:RfRE4p6G
なんか最近ひねくれたレスする人増えたよね

斜に構えた俺カコイイ的な

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 19:44:27.87 ID:oF8dVOFV
命を賭けて主君の首を敵に渡さないように努力したんだから、忠臣だろ。

微妙に話は変わるが、このスレだと、やたらに三河の人間だけ「面倒臭い」、理屈っぽいが義理堅いとか、
そういう硬派な感じのイメージが強調されるけど、実は結構全国的にそうだよね。近畿は垢抜けてるかもしれんけど。

708 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 19:55:23.46 ID:4/NwGBdw
たしかに忠義で名を残す武士は全国的にその傾向があるのは当然だよね。
三河武士団は最終勝者になる実質があったのと、
勝者になったからこそ逸話が多く残ってるみたいなとこはある。

あとはこのスレのノリもあるw

氏政・氏照の最期

2011年04月04日 00:00

474 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/04/03(日) 11:29:59.15 ID:LinmCTPt
氏政・氏照の最期

豊臣秀吉による小田原攻めは、北条家の領国を相模・伊豆のみとする条件で講和が成った。
秀吉は証として氏政をはじめとする北条一族に城から出るように申し付け、最初は渋っていた氏政らも、
榊原康政の説得により城下の田村安柄の館に移った。

当然、そこに待っていたのは講和の会談などではなく、北条家の取り潰しと氏政・氏照の死罪という通告であった。
秀吉は家康に
「我らが遥々ここまで来たのは、北条家を根切りする為である。ここで奴らを許してしまえば、前の言葉は無かったに等しい。
氏直は家康殿の聟であるので死罪は許そう。氏房・氏邦・氏規も同様で良い」
と告げ、家康も同意した。

北条家側への検使として中村一氏・石川正久らが向かったが、余りも痛ましい裁定に言葉を発せずにいたところ、
その様子をみた氏照は全てを悟った。
「これだけの方々が参られたのは、我らへの切腹の催促であろう。それでは沐浴の暇を戴きたい」


その後、氏照は家臣の、氏政は弟氏規の介錯で切腹して果てた。

左京大夫氏政
雨雲の覆える月も胸の霧も はらいにけりな秋の夕風
吾が身今消とやいかに思ふへき 空より来たり空に帰れば

陸奥守氏照
吹くと吹く風な恨みそ花の春 もみじの残る秋あればこそ
天地の清き中より生まれきて もとのすみかに帰るべらなり

その首は石田三成に下知して京都に運ばせ、一条戻り橋に架けられた。




476 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 12:14:05.35 ID:27VEjGwZ
氏政さんは氏規さんの介錯なのか・・・;;
お互いどんな気持ちだったんだろ

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 12:45:07.04 ID:hO08aX5+
今度横浜に出張するとき小田原で降りて城を見るとするか
墓もあるんだよな確か

478 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 12:48:25.91 ID:RfRE4p6G
>>474
この2人の辞世の句好きだ

479 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 13:41:31.85 ID:CYe+9vZf
>>477
これがそうなの?ってくらい地味だった

480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 13:59:54.15 ID:e4Uxizmp
>>474
大道寺を切腹させた件といい、尾藤を処刑した件といい、小田原合戦あたりの秀吉の逸話は
えげつないものが多いな。
それでも氏直は後に織田信雄の大坂の旧宅を宛がわれているし、督姫も大坂入りしているので
あるいはそこそこの大名として復帰する目もあったんだけどね・・・

>>479
鈴を結ぶと・・ってやつだよね?

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 14:51:50.71 ID:cEzvIEtO
>>476
正直なところ、介錯人が氏規で大丈夫なのだろうか…
斬首のプロか剣の達人でも無い限りは一撃で首は落とせないものだし
何度も木こりみたいにエッサエッサと首を斬ったんかな
戦国時代の介錯って時代劇で見るのとは大分違ってたとも言うし
氏規も別な意味でやりたく無かっただろうな

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/03(日) 22:29:49.39 ID:fQBHq4jZ
>>479
気付かないであの辺の商店街ぐるぐる廻ってたw