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この頃宇都宮の力が弱くなっていたため

2019年10月25日 17:22

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/25(金) 07:14:13.83 ID:G5raLgkP
この年(天正十七年)、宇都宮下野守国綱は、家臣の芳賀、笠間、上三河などと協議することが有った。
これは常州中堂の益子筑後入道睡虎を誅殺し、その所領六百町を没収するとの話であった。
益子は宇都宮家にとって紀の党と称される、歴代の股肱であった。しかし近年小田原の北条家に加担し
笠間、上三河の土地を掠め取ろうという動きを見せていたためである。

この益子も含め、この頃宇都宮国綱の力が弱くなっていたため家臣たちで宇都宮家より離れていく者が
多かった。壬生の上総介義雄も宇都宮方から離れ小田原に与し、榎本の近藤出羽守も結城晴朝に押しつぶされ、
その後小田原の幕下へ入った。芳賀伊賀守高経も近頃北条氏直に内応しているとの噂があり、宇都宮では
穏やかでない所に、この年の五月上旬、那須与市資景、福原安芸守資則、大関左衛門佐資増ら一千余騎が
宇都宮方の多気城を襲った。

多気城では戸祭備中守、同紀伊守、赤垣信濃守、同周防守以下が奮戦してようやくこれを追い返した。

さらに近頃では日光山の社僧、神人なども重代の由緒を捨てて北条家へ通じ、八月には彼らが不意に
挙兵し、宇都宮方の倉ケ崎城を囲んだ。城方では大門弥二郎、大桶加賀守、戸山彦十郎らが二百騎で
これを守り、社僧、神人たちを追い払った、しかしこの時、大門弥二郎が討死した。

そして九月下旬には北条安房守氏邦が、秩父、鉢形、寄居筋より八千騎を率いて再び多気城を襲った。
宇都宮方は力戦し、十月二日にどうにかこれを追い払った。

しかしここで、今度は北条氏直が直々に大軍を率いて宇都宮を攻めるとの沙汰が報じられ、十二月朔日、
ついに宇都宮国綱より、北条方へ和議を申し入れ、小田原に人質を出したのである。

(関八州古戦録)

天正十七年というと翌年には秀吉の小田原征伐ですが、この時期宇都宮氏も北条の圧力で崩壊寸前で
あったという記事ですね。



537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/26(土) 00:07:48.41 ID:04mm58w+
ちょっと宇都宮さんに同情しそうになった

538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/26(土) 04:45:30.95 ID:5VwDRVWc
にしても、あからさまに惣無事令違反…
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北条氏、その親類一党の栄え

2019年10月05日 16:18

252 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 13:36:55.68 ID:MS3gurir
北条氏康はこの年(永禄二年)、四六歳であったが、六月下旬に隠居剃髪して万松軒(実際には太清軒)と
号した。病により任に耐えず、という事であったが、別して病身という訳ではなく、この春に自分よりも
ずっと若い上杉輝虎のために城門を馬蹄で踏み荒らされながら一戦も交えず、弓矢の面目を失ったことを
とかく世間に取り沙汰されたのを恥じての隠居であった。

嫡子相模守氏政は二十三歳であり、家督を受け継ぎ国務を司った。

次男由井源三氏照はもともと朝日将軍木曽義仲の後胤である大石源左衛門定久が、前管領家に背いて
小田原に降った時、氏康から婿養子に貰い受け、自分の高麗郡滝山の城を譲ったのである。
以後自身は入道して道俊と号した。実子は在ったが幼少であったので共に戸倉に蟄居した。
その時氏照は由井の名字を捨てて大石陸奥守と名乗った、その頃一度、滝山という所に居城を持ったが、
滝は落ちるので落城に通ずると、同郡八王子に新城を築いて移ったのである。氏照は多くの兄弟の中で
特に父母へ孝順の人であった。

三男新太郎氏邦は書道に優れ、後に安房守と号した、これも前管領家の旧臣藤田右衛門佐邦房が養子として、
武州秩父郡岩田の天神山の城を与え、自身は実子の虎寿丸と共に榛沢郡用土という所に退去していた。
(上杉)輝虎がはじめて関東へ越山した頃、氏康に仕え用土新左衛門と言ったが、今は沼田の城代となり
虎寿丸は後に藤田能登守信吉といった。
新太郎氏邦は初め秩父領横瀬の根小屋に城地を構えていたが、あまりに人里離れて万事不自由であったので、
男衾郡鉢形へ移った。この城は太田道灌の築いた要害であるが、甲州、越後の敵が近寄る機会が多く、
常に小田原から三百騎を援兵に差し出し、榛沢のあたりに新関を設けて、山上には常に見張りを
絶やすことの出来ない城であった。

四男助五郎氏規は美濃守と号し、豆州韮山の城主である。

五男新四郎氏忠は乗馬の名手で、後に左衛門佐と号し、相州足柄の城を守っていたが、佐野家の名跡を
受けて、後に野州由良へ移った。

六男竹王丸氏尭は鉄砲の手練で、後に右衛門佐と号し、武州小机の城主である。

七男七郎氏秀は後に武田三郎と号し、輝虎の養子と成って北越へ行った後は、上杉三郎景虎と称した、

その他に女子が六人あって、藤田の吉良左兵衛佐頼久、北条常陸守氏繁、今川刑部大輔氏真、千葉介邦胤、
武田大膳大夫勝頼、太田源五郎氏資などの室になっている。

早雲庵宗瑞、新九郎氏綱、左京大夫氏康と三代続いただけで枝葉が繁り、その親類一党の栄えを
うらやまない者はなかった。

(関八州古戦録)

氏康隠居の頃の小田原北条氏の繁栄について。現在の研究水準とは異なる内容も含まれています。
北条氏尭は氏康の弟であると考えられていますし、氏忠はその氏尭の子の可能性が高いとされています。
また氏規のほうが氏邦の三歳兄であった事が近年指摘されるなどしていますね。
ともかくも北条氏一族についてこのような印象を持たれていた、という記事です。



254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 16:13:02.58 ID:n7af26vk
>>252
関係ないけど武士って木に例えられるよね
民は草なのと対照的

255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/05(土) 20:44:43.34 ID:McdmRo5l
まあ位置関係からしたら合ってるかと

神流川の戦い一日目

2018年10月11日 13:08

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/11(木) 03:10:10.73 ID:CX/7Sqex
小田原では北条氏政父子が織田殿横死と聞いて大いに喜び、天運時至れりと大軍を催した。大手の大将・
新九郎氏直は富田・石神の方から軍を進め本庄に旗を立てた。御陣は左京大夫氏政3万余騎が松山筋より

武蔵吉見山・冑山辺りを本陣として先手は神奈川(神流川)・烏川辺りに軍を進める。父子は大手・搦手
に向かって総勢5万余騎が6月18日、本庄に着陣す。氏政の弟の武蔵小衾郡鉢形城主・北条安房守氏邦

は血気の若者であった。氏邦は「滝川勢は信長父子が横死して上方騒動の沙汰を聞き将卒とも心は臆して
はかばかしい合戦はできまい。上野・武蔵の輩は余儀なく滝川に一味するといえど真実身命にかえて働く

はずはない。一益は鬼神であるとも頼むところは手勢だけで何程のものか! 今追い討ちして高名せん!」
とその勢5千騎ほどが陣列を離れ馬を馳せたのだった。滝川一益は滝川彦四郎法忠(忠征)に2百余人を

添え厩橋城を守らせ、津田小平次長興・稲田九蔵に8千余兵を添え松枝城を守らせ、自身は1万8千余兵
を連れて武蔵・上野の境の神奈川・烏川の辺り金窪の台に陣を張る。上野衆の小幡・内藤・和田・由良・
安中・深谷・成田・上田・高山・木部・長尾・真田らが所望して先陣に進んだところ、北条方は氏邦が

血気にはやり敵を大いに見侮った。前後を見定めず鬨を揚げ打って掛かるが、上野衆は武田信玄・勝頼に
属して軍旅に老練した者共どもである。少しも騒がず馬の鼻先を魚鱗に並べ敵が来るのを待ち受けた。

半町ほどに軽卒どもを先に立て、矢砲を激しく放って先駆けの北条勢数十人を打ち倒し、馬の足がしどろ
もどろになるのを見澄まして、大風の発するが如く馳せ掛かり突き立てた。頃は天正10年(1582)

6月19日、草木も動かぬ炎天に具足を着て息を揉み馳せ合ったために、流れる汗は目口に入って太刀の
打ち所も定かならず。北条方は石田大学・保坂大炊助を始め屈強の者ども2百余人が討死し、上野衆も

佐伯伊賀守を始め180人ほどが討死し、互いに多くの手負いを出した。北条方はほうほうで八幡山の方
へ引き取ったので、上野衆も烏川の水辺に集まり暑気を凌いで馬の足を冷やしていた。北条方は先手の

敗軍を見て新九郎が大いに怒って命じ、二陣の松田・大道寺を始め雲霞の如く深谷の方から打ち出でた。
一益がこれを見て、「今度は一益が一戦して雌雄を決する! 上野衆は後より続かれよ!」と先に進めば、

滝川儀太夫(益氏)・津田治右衛門・同八郎五郎・同修理・稲生対馬・富田喜太郎・牧野伝蔵(成里)・
谷崎忠右衛門・粟田金右衛門・日置文右衛門・岩田市右衛門・同平蔵・太田五右衛門以下逞兵3千余人が
神奈川を後ろにあてて玉村の方に向かって座備を設け敵を待った。

――『改正三河後風土記(柏崎物語・武徳編年集成)』

神流川の戦い二日目
神流川の戦い、戦後


北条一門の歌

2018年09月18日 18:13

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 01:12:50.18 ID:3a6RWHwE
「見恋」 いかにせむ心ひとつに月日へて つゐにあはての浦のみるめを 氏政
「蚊遣火」 ながめるつる月日のひかりに影そへて 草の庵りに蚊遣たくらむ 氏直
世の中にあらぬ草木を求めても 法のみちにふみもまよはじ 氏規
「契空恋」 知らせばや契し事ももしほ草 そをだに絶て思ふ心を 氏堯
逢坂のせきのひかしに武の 名やはかくるゝ十五の駒 氏照
色ゝのさかなはあれど今夜しも わきてさゞいのめづらしきかな 氏光
都路をかけていた鳴駒の音 新月夜にや今や別らむ 氏忠
月もはやさ夜ふけがたになりぬれば かれヽになるむしの声かな 氏邦
「月前雲」 やまかぜの吹よはるより久方の 月のな□□の秋のうき雲 氏能
「通書恋」 かばかりやさきの世くやし玉章の むすぶちぎりはあはじ物かな 氏親
冬のうみの時雨るゝ波のはげしきに 身もはづかしのさゞいなるらん 氏冬
見ぬ花やおもふばかりにかきつばた ふかき色香を面影にして 範冬

(喜連川文書)
足利義氏、北条氏康とともに当時の北条一門が読んだ和歌を氏照が記したとされている
また、範冬とは今川範以のこととされている
問題は現在北条関係で発見されている史料において唯一の所見になる氏能、氏親、氏冬とは誰のことなのか

悪い話というか北条研究で未だ解決されない謎の1つ



155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 08:16:59.64 ID:SFBIDdSW
夭逝した氏政の兄貴が氏親とかいわれてなかったっけ?

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 10:16:28.04 ID:kAdBeT5C
早死したんなら和歌が読めない年齢のはず
母親の身分が低過ぎて虫けら扱いだったんだろうな

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 12:59:53.16 ID:d3+CY0nG
>>155
読んだ順番ではなく一門でも家格順じゃないかなあこれ
氏政が上の時点で氏政が家督継承したか次期家督継承者になってるんじゃないかなあ

158 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 17:15:20.78 ID:rWqd47zb
今川範以だって?妄言も大概にしろ
可能性があるとしたら氏真だろうな

159 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 18:04:26.15 ID:J62I4Vu1
崩し過ぎて読めなくなったんかな

160 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/18(火) 18:05:50.75 ID:HApGphN1
>>156
いや最近の黒田基樹先生あたりの北条研究の本を読めよ。「北条氏親」は氏康の嫡男で
しかも氏康の正妻である瑞渓院(今川氏親娘)の子であり、氏政の同母兄だ。夭折と言っても
氏親の名乗りからも解るように既に元服していて、16歳で亡くなったと考えられているので、
このくらいの歌は詠める。

けんむし坂

2014年06月09日 18:51

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 18:22:39.55 ID:2WRF1aVQ
けんむし坂

天正18年(1590)、6月のことであった。
秩父の柳生端から柳生台地へと登る坂道を、一騎の武者が駆け登っていった。
主城の鉢形城落城を、支城の根古屋城へ知らせる使者である。(鉢形城開城は6月14日。)

使者は坂を途中まで登って行ったが、そこで使者の前に一匹の巨大な毛虫が出現した。
しかし、使者は馬上で鞭を振るうと、ただの一打ちでこの毛虫を打ち払い、そのまま根古屋城へと走った。
この様子を見ていた土地の者が、鞭の一撃で死んだ巨大毛虫の死体を棒で担ぎ、
その重さを量ってみると、なんと三貫目(約11kg)もあったという。

後に、土地の人々はこの坂を「けんむし坂」と呼び、毛虫の重さを量った棒を投げ捨てた所を
「棒ヶ沢」というようになった。
根古屋城は、北条氏邦の家臣の渡辺監物が城代として守っていた。
城代は普段柳生に住んでいたので、土地の人たちはこの屋敷を「けんもつ屋敷」と呼んでいた。
ケンムシ坂は、ケンモツ屋敷の下にあったので、ケンモツがケンムシへと変化したのだろうともいわれる。

「秩父の伝説」


戦国の秩父に巨大幼虫出現す、というお話。



486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 20:37:23.92 ID:dYE8Put+
何のために現れたのかも分からないまま流れるように殺されてしまった

489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 21:32:00.50 ID:U2I0lW9p
>>485
戦場では陸戦型モンスターの跋扈する関東じゃ巨大芋虫ごときなのか・・・

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 22:55:24.26 ID:HIGFkVrt
>>485
使者の名前も分からず巨大芋虫が出た理由も分からず
殺しても特に呪いとかも無いこのブッタ切り感
こういうのが口承伝承の醍醐味なんだよな

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/09(月) 23:27:49.70 ID:rtv4SlvC
素材剥ぎ取りは成功しなかったのか…

492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/10(火) 02:02:21.10 ID:8OXkcZh0
>>489
坂東じゃ金棒が必須アイテムだもんね
毛虫も金剛の身体か隼のような身のこなしをもってしなければ対抗できんじゃろ

幻の東国寺

2014年06月05日 18:56

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/04(水) 19:54:47.23 ID:8o5FeML3
幻の東国寺

秩父の小鹿野町に、権現堂原と呼ばれる丘がある。
元はここに東国寺という、大きな修験道場があったと言われているが、
永禄12年、甲斐の武田軍が秩父に侵入し、寺社に対して焼き打ちを行った際に、
東国寺も戦火に遭い、幻の寺となってしまった。
村人たちは、燃え上がる東国寺をただ唖然と見つめているしかなかった。
その焼き打ちの際、武田軍の「風林火山」の旗にも火が燃え移りそうになったので、
近くの池に旗を浸してはまた旗を押し立てていたという。
寺を焼いて勢いづいた武田軍であったが、寺の焼け跡に立ち尽くす村人たちを見ると、
流石に気がとがめた。

そこで武田軍は、
「武田の天下になった時には、必ず立派な寺を立ててやろう。その証だ。」
と言って幟旗を池のほとりに埋めて立ち去ったという。この旗を埋めた塚は「旗塚」と呼ばれるようになった。

その当時、秩父を治めていた鉢形城主・北条氏邦は信仰心に厚く、寺社の修理や再建を行っていた。
この氏邦には東国丸という名の息子がいたが、惜しくも早死してしまった。
息子を失って嘆き悲しんでいた氏邦は、同じ名前を持つ東国寺が焼き払われたと聞き、
今の寄居町(鉢形城下)へ再建し、下吉田赤柴の金剛院4世・酒雲全伯和尚を招いて、東国丸の冥福を祈ったという。


「秩父の伝説」




83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/06/05(木) 07:06:50.75 ID:dNlZtKzI
村人「あの、ここ、ここへは誰も何も建ててくれないの、、、」

藤田信吉と北条氏邦

2011年04月18日 00:03

23 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 08:21:54.63 ID:tF1cXnKq
関東管領山内上杉家の家臣、藤田康邦は、北条家の勢力の前に、ついにその軍門に下った。
北条家に下るにあたって、二人の息子がいたが、氏康の子・氏邦が姉の夫として婿養子に入った。
康邦は居城から退去し、長男は氏邦に毒殺されたと言われる。二男・信吉は恨みを抱えて武田家に寝返った。

時は流れて天正18年。信吉は再び旧領に姿を現す。
小田原征伐に際して、上杉家の先鋒として藤田(北条)氏邦が守る鉢形城に攻め寄せていた。
氏邦もよく守ったが、最終的には豊臣軍に降伏することになる。

このとき、父を追い、兄を弑した氏邦に対して信吉は何を思っただろうか。
未だに憎しみを持ち続けていたか、あるいは時がその感情を和らげたか。

氏邦は剃髪することで助命され、前田家の預かりとなった。
前田利家の助命嘆願があったといわれるが、信吉もまた助命を願ったとも言われる。




24 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/04/17(日) 08:41:20.82 ID:eGQNx2oN
あの藤田信吉さんかぁ・・・

仙人が窟

2011年02月04日 00:00

570 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/03(木) 00:22:36 ID:iW5CYElE
天正の頃北条家が上州沼田城へ押し寄せた時のことである。

北条氏邦芳賀伯耆守が率いる千余りの軍勢を
真田信之が率いる二百ほどの兵が迎え撃った。

この時信之は我妻の仙人が窟という難所を利用した。
まず二百のうちから兵を選んで仙人が窟の左右に潜ませる。
次に信之自身が残りの百余りを率いて北条勢を攻め、その後勝負にかまわず引き返す。
撤退する真田勢を追って仙人が窟へ北条勢が来た時を見計らい、信之は反転し左右の伏兵と連携して
北条勢を突き崩した。

北条勢は大いに混乱し、右往左往する内に大半が討たれてしまった。
これ以後北条勢が沼田へと働きかけることはなかった。


それから数十年後、天下が徳川の下に定まった後信之のもとへ来客があった。
一人は幕府の旗奉行富永重吉、もう一人はやはり徳川の旗本である中山勘解由
二人とも元は北条家にいた人間であり、とくに富永重吉はあの仙人が窟の戦いで北条氏邦の軍勢に属して戦っていた。

昔物語をするうちに仙人が窟の話が出た時富永重吉
「貴殿はまことに恐ろしい御人です。昔上州仙人が窟の働きは感心しております。
 危うく一槍にされようとして逃げ延びましたわい。」と何度も信之を誉めた。

仙人が窟の話はあまり知られた話ではなかったが、この件で皆が知る様になったという。




571 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/03(木) 00:31:21 ID:Vz6wvp4Q
八王子城で討ち死にした中山勘解由家範の子孫か?

北条氏照と自分の先祖の墓造ってたな
http://www.takaosan.info/topics44.htm

588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/05(土) 01:00:47 ID:IuImS5zS
>>570
実はこちらと重複ですな。

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5016.html

天正十四年五月の沼田城攻め

2011年01月20日 00:00

299 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 16:36:51 ID:qraloXDL

>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5046.html
で徳川との同時侵攻も撃退されてしまった北条氏直
こうなったらどうにかして沼田城を落とさなくては面目が立たない。
翌天正十四年五月に、再び沼田城へと押し寄せた。
今回は前回から更に動員数を増やし、実に七万もの兵で上野の片田舎の小城に攻め
寄せたのである。


と、そんな矢先に沼田城の矢沢頼綱から先鋒の北条氏邦宛てにお手紙が届く。

「去年勝てなかったからって、関東中の大名を引き連れてご苦労なこったね。ここ
数年、色々やってたみたいだけど、あいにく俺達はピンピンしてるよ?折角当主が
出馬してるんだし、さっさと攻めて来いよ。相手してやんぜ? 滋野頼綱より」

それに対して氏邦から頼綱へのレス。

「お手紙読んだよ。だって仕方ないじゃん。沼田って山の中で戦いづらいんだもん。
『攻めて来い』ってのは判るけど、俺達もこーゆード田舎って珍しくてさ。まずは
何日か、鷹狩りでもしてゆっくり骨休めしてから行くよ。その間に降参するって言
うなら、いつでも受け付けるよ?まずは落ち着いて考えてね。 平氏邦より」


しかしこんな和やかな文通をしている間に天候が急変、なんと三日三晩に渡って雨
と雷とが激しく続いた。
北条軍は本隊と連絡が途絶えるのを恐れ、沼田城を囲んでいた先鋒部隊を片品川の
南側へと引き上げさせる。
そしてその恐れは的中し、増水した河川は氾濫。北条軍がかけた橋を悉く押し流し
てしまったのである。


「先鋒を引き上げさせたのは正解だったな。まさかこんな事になるとは……」
雨が上がって現れたのは、利根川と片品川の氾濫による惨状。
雨がやんでも尚、濁流は渦巻き、渡河する事も橋をかける事も、到底出来そうにな
かった。

そんな北条軍の目の前。片品川を挟んだ対岸に真田兵が大勢、繰り出してきた。
攻撃か!? どうやって川を渡るつもりだ!?
緊張が走る北条軍を尻目に、彼等はのんびりと鳥を撃ったと手を叩き、鹿を撃った
と大喜びをして狩りを楽しんでいた。



300 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 16:37:38 ID:qraloXDL


そして数日後、ようやく川の水も治まってきた頃、沼田城から矢文が届く。

「片品川を渡りたいなら自由にどうぞ。邪魔はしないよ。こっちは待ち草臥れて退
屈してるんだ。早く来てくれ」


「ぬぐぐぐぐぐぐ……」
これほど圧倒的な兵力を持っているというのに、ここまで虚仮にされる屈辱。
橋を掛けなおす手間も惜しいと北条軍は川を押し渡り、沼田城に攻め寄せた。
「一気に攻め落とせ!!我等を虚仮にした報いだ。目にものを見せてやれ!!」
怒り狂った北条軍の勢いは凄まじく、防御側が堀にかかる橋を落す暇もなく大手門
を制圧、城内へと押し寄せる。
続いて三の丸へもこの勢いで押し寄せようという時……

ドォォォォン!!

「な、何事だ!?」
背後で起こった轟音に、皆の足が止まる。
「た、大変です!大手門にかかる橋が落とされました!!……真田軍の忍びによって!!」
「なんだとっ!?」
「わ、我々は退路を絶たれ、城内に閉じ込められましたっ!!」

北条軍に動揺が走る中、三の丸からは弓矢、鉄砲、石飛礫までが雨霰と打ち込まれ
る。
更には三の丸の門が開き、七千の真田兵&民兵が北条軍に止めを刺すべく雪崩を打
って走り出す。
パニックを起こした北条軍は阿鼻叫喚の中、抵抗も出来ずに真田軍に討ち取られて
行った。


そして城外。
堀を挟んで繰り広げられる惨劇を、なす術もなく眺めているだけの彼等にとっても、
これは他人事ではなかった。
「かかれぇ!!」
別の城門から出撃した矢沢頼綱の率いる一千が、目の前の大虐殺を呆然と眺める北
条軍に襲い掛かったのだ。

沼田城に突入した先鋒の部隊は壊滅。
それに続く第二陣も頼綱に追い立てられ、討死にする者、川に流される者は数限り
がない、という状態であった。


散々挑発を重ねられた挙句の惨敗という結果に激怒した氏直は、沼田城を皆殺しに
してやる、と息巻いていたのだが、再び降り始めた雨はまたも周辺の川を氾濫させ
た。
参陣した諸豪族の間に漂う厭戦気分を感じた氏直は、歯噛みをしながらも兵を退か
ざるを得ず、小田原に引き返して行ったという。


なんつーか、挑発の手紙に付き合うなよ、北条さんちもさぁ。(^^;
雑兵には口合戦を禁止してなかったっけ?自分たちでやってどうすんのさ。





301 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 16:59:13 ID:Noof9hdA
まさしくこれ↓だなw

ねぇねぇ、また負けちゃったけど
今どんな気持ち?
        ∩___∩                     ∩___∩
    ♪   | ノ ⌒  ⌒ヽハッ    __ _,, -ー ,,    ハッ   / ⌒  ⌒ 丶|
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      | /ヽ }.          :.,'    ::(  :::}            } ヘ /
        し  )).         ::i      `.-‐"             J´((
          ソ  トントン                             ソ  トントン


302 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 17:18:21 ID:zZj+aTex
小田さんの不屈の精神が足りない

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 17:27:12 ID:/Cs2bbU3
まあここまで来ると嘘臭さが強すぎだけどなw

304 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 17:33:03 ID:WdQexWzJ
洗練された挑発だな

305 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 17:35:40 ID:rzcxgPVr
どうせ江戸時代の創作だろ
真田が徳川を翻弄したのと話を釣り合わせる
ために北条をボコボコにしたって事にしてるだけ

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 18:03:18 ID:eMU9QMk0
そこまで負けていれば北条の支配体制にだってゆらぎがあるはずだし、
なにより、動員数万なら、上田合戦よりもはるかに規模が大きいのに
大して知られていないというのがねい。

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 18:14:14 ID:QnRA4Zjr
かませ犬にするには便利な北条家であった

308 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 18:18:07 ID:p0NUjSzr
本家は事実上滅んじゃった北条はどんな事書いてもクレームにはならない

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 18:20:40 ID:nhzlIoLa
まあ軍記物だから仕方が無いが、天正12年に北条が佐竹義重、宇都宮国綱、由良国繁、長尾顕長
などの連合軍と戦い、北関東での北条優位を確立した沼尻の戦いですら北条の動員は多くても
1~2万なので、真田だけを相手に数万の動員とかありえないわなw

310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 18:22:41 ID:EsQpA7G8
小田原役後のどさくさに紛れて猪俣一族を闇に葬るとか
汚いなさすが真田汚い

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 18:26:39 ID:2LZG+p4J
実際は壊滅した先鋒ってのも上野衆ばかりなんだろうね
八百長八百長

312 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/01/19(水) 20:28:13 ID:53N6X4ll
大東建託CMの殿様って誰の設定と思う?

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 21:26:00 ID:OzGs+Brm
加沢記は戦国から100年後の家譜やからねぇ。
島津の朝鮮記とかもだがこの時代の脚色は半端内からしょうがない。
やる夫とか同様物語として楽しめば委員ジャマイカ

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 21:39:58 ID:cMMPyNjZ
死人に口はないのだ

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/19(水) 21:52:47 ID:Uwayo8Mu
氏邦さんちは藩が存続してたのに・・・

316 名前:299[sage] 投稿日:2011/01/20(木) 00:59:34 ID:+O6WGFJQ
兵数七万ってのもたいがいですが、「関東の兵全てを率いてきた」と記録されており、
参陣した中には宇都宮氏の名前まで入ってます(笑)

あくまで逸話として投下しているので、真偽については私を責めないでね?
でも、家譜ってどれもこんなもんじゃね?(^^;

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/20(木) 12:01:36 ID:NPM39iI6
どこも似たようなものだ。
ただ続けて無双ばかりだから、みんな胸焼けしてるってとこやね

318 名前:299[sage] 投稿日:2011/01/20(木) 14:27:24 ID:+O6WGFJQ
>>317
あ~うん……無双無双としつこいかな、とは自分でも思ってました。
『加沢平次左衛門覚書』を読んで、投下出来そうな逸話はこれが最後かな、と思った
ので、間を空けずに投下しちゃいましたが。
やはり書いた本人が感じてたくらいだから、皆それは感じてたか。

申し訳ありませんでした。とりあえずこれで私の手持ちの真田関連ネタは終了ですの
でご安心を。

319 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/01/20(木) 14:39:33 ID:l/lm738M
>>318
いやいや、おもしろかったです。乙でした。

320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/20(木) 14:41:10 ID:/jDHX1KO
>>318


321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/20(木) 14:44:41 ID:Zepgz4bb
>>318
胸焼けどころかとても面白かったよ
乙でした

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/20(木) 15:17:25 ID:xnTztkBy
真田が北条大嫌いなのがとてもよくわかる逸話でよかったよ

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/01/20(木) 15:39:08 ID:nDaZk2mr
>>318
や、逸話は面白かったですよ
ノリでツッコミ入れたがるのはここの住民の性分というか・・・いやスマンカッタ

甲州征伐の情報

2010年10月22日 00:00

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 17:02:30 ID:fmG5AzbJ
天正十年(1582)2月3日より始まった、織田信長による甲州征伐
織田家と同盟を結んでいるはずの小田原北条氏には、何の連絡も無い。

北条氏政が最初に異変を感じたのは実は早い。
信長の軍が美濃、信濃境に集結した2月3日、北条氏邦の支配する秩父谷から
注進があった

「武田家に何らかの動揺が見られる」

しかしその内容は不明確であり、氏政は「大したことではないだろう」と判断。
更に確かな「正説」を求めた。
この後も氏政と氏邦は毎日書状を交し合っている。

6日付書状
「このところ西国より人が下ってこず、西方の様子がわからない」
どうも織田徳川も、一種の情報統制をしていた模様である。

16日付の書状
「13.14両日の書状を見たが、事実を確かめないことには粗忽な行動はできない。
武田家の方から当方に駆け込んでくるものがなく、10日以降は武田家の情勢が全く
解らなくなっている。当方も何とかして情報を得る努力をしている。」

そして19日付

「京都からの情報が届いた。織田方の武田攻め、間違いない」

翌20日、直ぐに陣触れを出し軍を招集した。
22日付の氏邦宛の書状にはこうある

「織田軍が信濃の平地に展開したとすれば、武田は全く防戦できないだろう」

氏政の戦況予測は正確であった。


さて、このように織田方は北条氏との連携を全くとっていなかったのだが、あの
『信長公記』にはなぜかこう書いてある

『信長公は甲州攻めにあたり氏政に、関東口より攻めこむよう命じた』

信長公記の、特に信長後半期の描写は、織田家の「公式見解」「公式発表」を書き並べたものと
考えていい。
何故信長は、明らかに事実と異なるこのような見解を表明したのか、
色々と想像の出来る現実と信長公記との間の相違である。





895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 17:16:03 ID:0uY98ZBK
信長さんの北条家の舐め方半端ねぇwwww

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 17:18:29 ID:hJQec6XK
これ逸話っていうより、この前出た
「戦国合戦の舞台裏」森本昌広
をそのまま書き写してるだけじゃん

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 17:19:08 ID:BHSCcbN5
武田の領地を北条と分け取りするのが嫌だったとか?
武田潰したら次の敵は北条だろうし。

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 17:28:01 ID:w2s6pPET
武田征伐成功おめでとうございます。って氏政が贈り物したら
この程度の物は腐るほどあるからイラネと送り返されたり
信長様の舐めっぷり半端ないでぇ

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 17:40:10 ID:Ng2lEcLl
>>896
この逸話結構有名だからそれ以外でも結構見る

まあ織田はすでに北條を仮想敵にしてたってことなんだろうな
のちの豊臣の北條に対する姿勢も、神流川の戦いの顛末もあるが
基本織田政権の方針で展開してるし

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 18:00:49 ID:caYaERoE
まあ、放って置く気はさらさらないだろうなぁ>北条
北条に公式通達すればそれによって武田への領土侵攻されれば、
織田からすれば邪魔以外の何者でもないし。

公式発表はするけどあっち側には伝えた
(ように見せかけて実質は情報統制かけて相手に情報を送ってない)
北条が気づいて用意するもその時にはもう織田は武田に相当な距離近づいてる。
結果織田は(信忠の超電撃侵攻もさることながら)北条のエンジンかかる前に武田を撃破し、
北条は「北条って行動遅いよね~」というマイナスイメージを食らうことになる。
機嫌をとろうとするも「そんなのはシラネ」と断られる。

つまり織田の「計画通り(キラッ」

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/21(木) 18:06:37 ID:Pu3i7ia+
>>899
北条氏政は天正8年時点で信長に鷹13聯を献上して服属の意思を表明し、10年3月には三嶋社に奉納した願文
で氏直と信長の娘との婚約を発表している。
信長は北条を従属的な同盟者と見て>>898のように見下すことあっても仮想的には考えていないよ。