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大津城の合戦の最中、

2023年05月06日 16:15

843 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/05/05(金) 20:06:58.24 ID:D4ZMWEXl
九月九日から始まった大津城の合戦の最中、
九月十一日の夜、城中から敵陣へ夜討ちせんと
赤尾伊豆守、山田大炊、三田村安右衛門の面々が五百の兵を選出し
赤尾と山田が率いる二百人は筑紫広門の陣を襲撃し散々に打ち破った上で
筑紫家の馬印を奪って勝鬨を上げて城へ引き返した
一方、三田村安右衛門率いる三百人は立花宗茂の陣に攻めかかろうとしたが
宗茂は知勇兼備の猛将で油断なく、足軽に玉薬を入れた縄襷をかけさせ早合による銃撃で応戦した
三田村の「何程のことあらんかかれ」という下知を受け京極勢は風雨のごとき玉矢を事共せず攻めていき
中でも丸毛万五郎と名乗る者が薙刀を水車のごとく回して、一人当千離倫絶類の有様で敵を突破していった
立花の陣屋より六尺あまりの仁王のごとき大男が現れ、大音声で十時摂津(連貞)と名乗り勝負せんと
三尺八寸ほどの重く厚いダンビラをかざし丸毛の元に走ってきた
丸毛は薙刀で十時の胸板を突き貫こうとするが十時は事も無げに薙刀を真っ二つに斬り折ると
太刀を抜こうとする丸毛の隙をついて無手で取り押さえ、腰より縄を取り出して搦め上げた。
それを見た中江式部という者が韋駄天のように駆けて来て十時に斬りかかり鎧の外れを斬ったが、
十時に振り返りざま件の太刀を打ち据えられ露と消えた
京極方の箕浦備後という者は敵3人を討ち取り一息ついていたが十時の働きを見て首を投げ捨てて
一文字に十時に向かって行き無手で組み伏せようとした
備後は家中でも剛力の名を取りたる者であったが、十時は物ともせず逆に備後を押伏せ生け捕りにした
夜討ちの大将である三田村安右衛門は丸毛と箕浦が生け捕られたのを見て、
南無三と十時に向かって行ったが小石につまづき倒れたところを立花勢の村井平六という者に捕えられた
平六が「今宵夜討ちの大将を村井平六が生け捕った」と高らかに名乗るのを、
安右衛門の嫡子である三田村平助が聞き、父を取り返さんと立花勢の真っただ中へと駆け入ると
天命か村井平六が安右衛門を連行するところに出逢った
平助は怒る目に血を注ぎ、いかなる鬼神も倒さんという有様で向かってきたため村井は大いに驚き退くが
平助は平六に追い迫り平六が振り返ろうとするところを一刀に切り倒して父を救った
十死を逃れ一生を保った安右衛門だが、立花勢が備えを固め新手を繰り出してきたのを見て
今はこれまでと敵兵を突破し城へと引き上げた

大津籠城合戦記



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井田次郎を討ちとる事

2022年06月25日 15:37

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/24(金) 22:26:12.05 ID:DUnRauTi
大友興廃記」より「井田次郎(井田親氏)を討ちとる事

立花城主・戸次道雪(立花道雪)、岩屋城代・高橋紹運がある時会合して評定することには
紹運「秋月種実は宗麟公に属せず、古所の城に籠り、われらが領土を塞ぐのみならず、ややもすれば立花・岩屋に手を回し人民を悩ましておる。
宗麟公も近日中に古所の城に押し寄せ、一戦すべしと思われていることだろう。」
道雪「かねてから我もそう思っていた。
とはいえ、かの城は三方は険阻にして山が高く鳥でなければ通えぬところで、一方は平地に続くといえど道が狭小な天然の要害である。
力攻めでは利を得ることはなかろう。
近くの大日寺は後ろに石垣山があり、前は平地である。
立花・岩屋、両城の兵六千人を出し、屈強な兵三千人を石垣山の後ろに隠しておいて
足軽の者を三百人ほど出し、種実の城下のあちこちに放火をさせ、秋月勢を誘い出すのはどうであろう。
足軽たちには弱々しく逃げさせ、大日寺まで引き上げさせれば、秋月兵は勝ちに乗じて寺まで来るであろう。
そこへ石垣山に伏せていた諸軍勢で四方から攻め寄せて、一人も残らず討ち取るのがよかろう」
紹運ももっともだと賛成し、ひそかに諸軍勢を石垣山に控えさせたあと、翌日の早朝からその企てを実行した。

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/24(金) 22:28:29.96 ID:DUnRauTi
秋月種実は城下への放火の件を聞き、井田左馬之助(井田親之)の嫡男、井田次郎(井田親氏)を近づけ
「急いで道雪・紹運の雑人らの首を刎ねよ」と命じた。
井田次郎は「それがし不才でありながら弓馬の家に生まれ、十三より侍一与の頭を仰つけられ、二十の今日にいたるまで数度の高名をあげました。
これはすべて君恩の厚きによるものです。
勝敗は軍勢の多寡で決まるものではなく、時の運によるものです。
このたび敵が小勢だからといってあなどるのは良将とはいえません。
とはいえ時を急がねばならぬ時に猶予するのは臆したと思われるでしょうから、すぐ出向きます」
と千人の兵を引き連れて道雪・紹運の足軽どもに打ち掛かっていったところ、足軽どもは大日寺を指して逃げていった。
秋月兵たちが五里ほど休まず駆け、疲れたところに石垣山に伏せていた兵、四千余が襲いかかって来たため、秋月勢は驚いた。
しかし親氏は下知して軍勢を鶴翼に開き、魚鱗の敵に当たり、命を惜しまず戦った。
とはいえ秋月勢は疲労のうえ小勢であったため、次々討ち取られていった。
親氏が討ち死にの覚悟を決めたところに、道雪の従者、十時摂津守(十時連貞?)が
「御名字を名乗りたまえ、組み打ちをいたそう」と言って来た。
親氏「名は名乗らぬが、組み打ちには応じよう」
と馬上でむずと組み、ともに落馬した。
十時は老武者で(連貞は当時35歳くらいのはず)、親氏は若武者のため、十時は押し伏せられて頸を掻き切られそうになった。
そこへ駆けつけてきた十時の郎党が親氏を打ち、親氏が弱ったところを十時は頸を掻き切った。
十時が親氏の相貌を見たところ、年の頃は二十ほどで、容顔世にすぐれ、たとえれば梨花が春雨に濡れて綻びているような美しさであった。
死骸をあらためると油箪に入れられた横笛が出てきたため、顔貌といい、常人ではあるまいと道雪・紹運に横笛とともに首実検ということになった。

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/24(金) 22:31:35.24 ID:DUnRauTi
両大将とも涙を流し、誰であろうと思っているところに紹運の兵に見知ってる者がいて
「これこそ秋月種実が家老・井田左馬之助親之が一子、井田次郎親氏と申す者です。
十二、三歳の時より勇者の誉れを得て、秋月家中では文武両道の忠臣として崇敬を集めている者でありました」
と申したため、道雪・紹運とも感涙し
「人の親として子を想う気持ちは誰でも同じである。親之も不憫なことだ」
と死骸に笛を添えて丁重に親之の方へ送り届けた。
親之は道雪の使者に「弓矢を取る者のならいとはいえ、戦場では子より先に死のうと心を定めておったのに、
ただ一人の息子である親氏に先立たれるとは、跡に残れる老いぼれの身こそ口惜しいことよ」
と不覚の涙を流し、使者もともに涙を流した。
親之は「愁嘆にひたってしまい、道雪の情けに礼を言わずすまなかった」と言ったのち、主君・秋月種実に息子・親氏の訃報を知らせた。
種実は驚き、いそいで井田の私宅に駆けつけ、頸と死骸を自分の膝の上に抱き寄せ、髪を掻き撫でて咽び泣いた。
種実「ああ幼稚の頃より我が膝の上にのせ、成人後もその才を頼もしいものと思っていたのに短命で死すとは
噫天喪予(ああ、天われをほろぼせり)」
と泣いては口説き、息絶えるかのようにのたまった。
そののち種実からも道雪に、親氏の死骸を送り届けたことへの礼があった。
老父・親之は「ただ一人の息子に先立たれ、老衰の身として甲斐なき命をながらうことよ」
と明け暮れに嘆いていたが、しばらくして合戦が起きた時
「このたびの合戦にて必ず討死すべし」と思い定め、
出陣の朝、親氏を葬った寺に詣で、本尊に暇乞いをしたあと、一首の歌を仏壇の左の柱に書きつけた。
「子を思ふ、道にはよしや迷ふとも、後の世照らせ、有明の月」
親之はその日の戦において先駆けをし、比類なき働きをしたあと、戦場のうちに命を留め、名を九州の青天に挙げたということだ。



水野勝成、山家付城兵糧入れ

2013年07月12日 19:50

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/11(木) 20:04:36.76 ID:UXpdGKNA
天正15年(1587)肥後国惣国一揆の時のこと、私(水野勝成)は佐々内蔵助(成政)に支えており、
方々に働いた。

佐々方は山家の城の近くに付城を一つ作り、そこには佐々が取り立てた三田村庄左衛門という者を
置いていたのだが、その城に兵糧を入れるという時、安国寺恵瓊を物頭として、毛利殿より
兵糧を入れることとなったが、一揆勢は兵糧を入れさせまいと、ウチノコカという場所から軍勢を出した。
そのため立花左近(宗茂)兄弟が軍勢をこれに詰めた。

兄の左近殿も手柄をなされたが、とりわけ弟の弥七郎殿(直次)、この頃20歳ばかりに見えたが、
残る所なく大いに働かれた。

天野源右衛門(安田国継・本能寺で明智方として森乱丸を討つ)は太閤様の御舎弟美濃殿(秀長)の
家来であったのだが、浪人し西国へと下ってきていた。美濃守殿の所に居た頃は安田作兵衛と
名乗っていた。この頃は立花殿に客分として在り、この戦いでも白に鶴の絵の指物を差し残る所なく
働いた。

佐々内蔵助の手勢では、私と遠藤助右衛門と申す者の二人が、この方面に出撃し戦っていた所、
立花殿の家臣で十時(連貞)と申す者と、先の天野源右衛門が合流し、弓をとって互いに言葉を合わせ働いた。

ところで私はこの時の立花殿の家臣の名を失念していたのだが、先年、肥後加藤家改易(寛永9年(1632))
による肥後の城の請取に参った時、立花三左衛門(鎮久)に逢い、原の町の茶屋で

「昔、肥後の山家の付城に兵糧を入れた時、そなたの朋輩で私が知っている居るはずなのだが、
久しいことでも在り名前を失念してしまった。何と申す人であろうか?」

「それは十時と申す者です。」

そう教えてくれた。その後、十時の倅である山弥が私のところにやってきて、肥後でお逢いした。

「あなたの親父殿は今も御息災だろうか?」

「去年、おこりを患い、だんだん悪化して、今は歩くこともかないません」

そのようなことを語ってくれた。

天野源右衛門は上方に在り、今も友人である。
(水野日向守覺書)


水野勝成、肥後国人一揆における兵糧入れについての証言である。





立花宗茂ちょっといい話 切腹(一命)立花家ヴァージョン

2012年05月04日 21:11

5 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 00:16:26.67 ID:ecutkpXC
立花宗茂ちょっといい話 切腹(一命)立花家ヴァージョン(上)
ある日、御書院番頭立花左近将監奥州棚倉三万石の屋敷の門前にむさ苦しい浪人が座り込み
「ご門前を借りて切腹いたしたい。ついては介錯をお願いしたいのでお取次を」と言い出した。
門前を血で汚されるの厭う大名家から幾ばくかの銭をゆすり取る、近頃、流行りの切腹詐欺である。
「では、取り次ぎます故、暫時お待ち下さい。取り次ぐまでの間、どうぞ門内でお待ち下さい」
「お気づかいなく、ここにて待ち申す」
先ごろ、夜叉掃門こと井伊直孝の屋敷で、切腹詐欺の武士を屋敷内に誘い込み、かねて用意の
竹光で無理やり切腹させたという噂を知っているのか浪人は、梃子でも動かなかった。
「いかがいたします。門内にでも放り込みますか」古びた虚無僧の衣装を取り出してきた
十時摂津を見て宗茂は苦笑した。
「まあ、待て。我が家を選ぶとは奇特な仁もいるものだ。会って見るか」
門前に座り込む浪人の前に据えた床几に腰掛けると宗茂は言った。
「切腹されるとのこと。見上げたご覚悟だが、首はどちらに届ければ宜しいかな」
静かな物言いだが、西国無双の威圧感に押されたのか浪人は無言になった。
「父母に届ければ、貴殿の親不幸を告げなければならぬ。貴殿の妻子に届ければ、去り状もなく
寡婦や孤児となった妻子が泣くであろうな。独り身であれば、骸も首も門前に打ち捨て犬の餌にする
しかないが、いかがかな?」
「恐れ入りましてござりまする」
そう言うと浪人は、病の妻子を抱え、貧に迫られたあげく、幾ばくの銭を得るために切腹の一件を
思い立ったと白状した。
「左様か、摂津聞いたな」宗茂は片膝をついて控えていた十時摂津に声をかけると立ち上がった。
「すぐに仕る」
そう言うと十時摂津は浪人と話し始めた。


6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 00:22:56.62 ID:ecutkpXC
立花宗茂ちょっといい話 切腹(一命)立花家ヴァージョン(下)
立花左近将監が、ご門前にて切腹いたしたいと騒ぎ立てた切腹詐欺の犬侍を召抱えたという噂を聞きこんだ
御書院番を務める三河依頼の旗本の一人が、まさか左様なことはござらんな。犬侍を雇い入れるなどお家の
恥ではと詰問した。
「恥とは、父母に孝養を尽くさんとした侍を召抱えたことですかな」
「理由はどうあれ、出来もせぬ切腹をすると騒ぐ武士など武士の風上におけぬのでは」
「当家にて、武士の風上におけぬとは、国法を破り、節義に欠け、表裏比興の振る舞いに及ぶ者のこと。貧に
迫られ恥を忍んで手を尽くす者を武士の風上におけぬとは申さん」
「し、しかし、嘘偽りを申す侍を召し抱えるなど慮外千万では」
「武士の嘘を武略と申す。かの者の武略、いささか欠けておりますが、当家には義父道雪以来、他家にて、
ひけ者、臆病者、腰抜けと言われたものは我が家を訪うべし。いずれも万夫不当の勇士になさんという家訓が
ござる。それ故、召抱えたのでござる」
召抱えた経緯が経緯だけに、子孫のことを慮って某としか伝えられていないが、かの侍、大阪夏の陣にては、
大樹公ご本陣潰乱の際に立花勢の先鋒として大阪方を蹴散らし、遥か後年に起こりし島原の乱にては
十時摂津老と共に忠茂公の元にて戦いしとのこと。
切腹詐欺の侍を万夫不当の勇士にした立花宗茂のちょっといい話。





7 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 00:29:52.20 ID:5x56kq4o
さすが安心の立花家w

8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 00:55:22.33 ID:GjrLGDA1
安心できるけど、熊と鍋のとこのクオリティーも捨てがたいなぁ~

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 01:20:27.11 ID:VF6l2w5e
爽やかだわあ

10 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 01:42:55.26 ID:bFWA8BOo
>>5
棚倉時代の宗茂は一応赤館城が居城なんだけど、
ほとんど城は使わずに代官屋敷に住んでたらしいね。

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 07:52:13.70 ID:wghcEjFl
昌幸「・・・」

12 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 10:16:44.17 ID:Cfk/CK3Z
今の日本の教育、企業、ネット評論家たちに欠けているのは立花精神だなと思った

13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 11:34:15.99 ID:aNsHdVpm
>>11
昌幸さんのは立花さんの定義なら武略だよね、しかもとびっきりの
ここで言う表裏比興との違いってなんだろう?いや、何となくは分かるんだけどね
ちょっと違うかもだけどざっくりだと、敵はなんぼ騙してもOK 、味方を出し抜くとこまではギリOK?
味方を蹴落として自分がってのはNG、みたいなとこだろうか

如水さんなんかも世間一般の腹黒い印象とは違って味方からは世話焼きの親切な
親戚の叔父さんみたいな感じで若手からは頼られてること多いよね

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 12:24:28.16 ID:G0qTHviX
よし、ハローワーク通いはもうやめた
柳川の御花に首吊り用の縄を持参して泊まりに行く

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 15:39:03.94 ID:ltLgkls+
鮒じゃ、鮒じゃ、鮒侍じゃ!

16 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/04(金) 18:59:43.38 ID:A3nzwVtG
そしてお縄になった>>14であった

20 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/05(土) 16:41:57.27 ID:10eihu1y
>>11
大丈夫、「当家では」と言ってるじゃないかw
しかし立花家はめんどくささが美談な方向に転がるから不思議だな。

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/05(土) 16:58:25.39 ID:e4TvmKN6
地味に井伊直孝ヒドスw

36 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/05/05(土) 22:28:46.67 ID:0+M/1wQd
>>5-6
>貧に迫られ恥を忍んで手を尽くす者を武士の風上におけぬとは申さん

虚無僧に身を窶してまで尽くす家臣団がいるのも当然だなあ
道雪以来の教えが太平の世にも息衝いている素晴らしい話だ

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/05(土) 23:14:48.71 ID:+4OqM/0k
>>5-6
安心と信頼の立花家だなぁ・・・やり方がスマートだわ
この人のエピソードにはあんまり血が流れないからいいわww