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その家業を失うべからず

2021年10月01日 17:01

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 21:06:20.18 ID:ZsYDNCAX
飯沼五郎兵衛(常政。香西氏の家臣)は代々武勇の家である。また自身も
阿州重清合戦で場中の高名をあらわし三好存保(十河存保)の感状を賜る。

讃州伊勢馬場合戦で予州衆の鉄砲に膝の口を撃たれ、不具の身となり隠士
となった。彼が子弟に教示して曰く、「汝らは必ず主君を求めて奉公せよ。
三代に渡り仕を求めなければ、姓氏を絶やして凡民となるのだぞ」。

実に然り。天正の乱後、家産ある者は田野に交わって身を隠し、蓄積なき
者は主君を求めて四方に走った。君主を頼った者は姓氏を継いで武士とな
り、君主を頼まざる者は姓氏を絶やして凡民となった。

人としては必ず、その家業を失うべからず。

――『南海通記老父夜話記)』



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仙石権平は18歳の若武者なれども

2021年09月26日 16:18

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 16:03:22.21 ID:LfzgQiPE
(引田の戦いの時)

天正11年春、土佐の元親は阿州大窪を越して寒川郡に入り、田面山に陣して三
好存保(十河存保)の居城虎丸を疲らせんがため与田、入野に入って麦薙をなし、
早苗を返した。

元親父子が虎丸の麓に陣をおいて昼食をなし給うところ、香川信景と大西上野介
(頼包)は手勢を分けて引田の浦に発行せんとした。

仙石権兵衛尉秀久は2千余人をもって引田の浦に到着、家臣の森九郎左衛門(村
吉)を与地山の城に籠らせ、山西のやうを聞き合わせるところに、土佐の兵1万
余人が与田入野に入り香川信景と大西上野介が引田に向かうとの知らせがあった。

仙石氏は1千余人を三手に分け、仙石勘解由、仙石覚右衛門、仙石権平(森権平)
を兵将として引田中山に入れて伏せ置き、西方の兵が来るのを待った。

土佐方は引田に強兵がいると知らずに押し寄せ、山中で強兵に行き当たり大慌て
して追い返され、足並みを乱し与田口まで敗北した。仙石衆は逃げる敵を追って
競い来る。香川方と大西方は敵が少兵と見切り、自兵を遣わして戦を始めた。

一方、元親は引田表の鉄砲の音を聞きなさり「今この辺りに戦うべき敵はいない。
仙石権兵衛という者が、羽柴秀吉から讃岐国を賜うべきとの朱印を受け下向した
と聞く。きっとその仙石権兵衛だろう。桑名太郎左衛門、中島与市兵衛、行って
見て来い」と仰せになった。

2人が馳せて行くと香川信景と国吉三郎兵衛、大西上野介が合戦を取り結んでい
たので2人の使いも手筈に合わせ、元親父子の旗本も程なく押し寄られ、敵味方
入り乱れ、黒煙を立てて攻め戦う。

仙石方は少兵なので西方の猛勢に押し立てられて敗軍した。桑名太郎左衛門、中
島与市兵衛は2度の槍場にて首2つずつを取る。前田平兵衛、その弟彦六は2人
で仙石勘解由を討ち、仙石方は追い立てられ引田中山道に引き入る。敵も逃げる
のを追って山中に入り来る。

仙石権平は18歳の若武者なれども、大剛にして奇才あれば、地利を計って自兵
を下知し、返し合わせて奮戦し、敵を破って勝ちを制し引こうとした。そこへ土
佐方の稲吉新蔵人が名乗りをあげ、互いに馬上で渡し合い、両敵ともに深手を負
い、権平は続く兵なく新蔵人は味方が続き、権平はここにて討たれた。

すなわちその所に石碑を立て今の世までも隠れなし。その権平の墓に霊妙なるこ
と多く、民間の説に残される。権平は仙石秀久の従弟である。一説には仙石氏家
臣の森九郎左衛門の息男ともいう。両説を存じて知る人を待つ。

――『南海通記』



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 16:35:50.59 ID:tSG7PRda
八十八箇所の最後の大窪寺のためか大窪には讃岐イメージがあった
八十八箇所五番目の地蔵寺には同族の森甚太夫家の墓地もあったっけ

主君と、兄弟と、息子の舅の仇から感状をもらった

2019年05月13日 15:39

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/12(日) 22:30:14.96 ID:gJMRiBMX
まとめの10249「久米の乱」という
勝瑞事件の後に三好実休の舅であり、細川持隆の家臣の久米安芸守義広が
三好実休の主君殺しに怒って仇討のために起こした乱(鑓場の戦い、鑓場の義戦)があるけど
自分の娘をさしおいて主君の妾を奪うとは!という動機もあったとかなかったとか。

ついでにこのとき、久米義広に従って三好実休と戦い、ともに討ち死にした者に佐野丹波守(丹後守?)範房という人物がいた。
「源氏赤松之族 阿波佐野氏系図」によれば範房(系図には「丹波守 三好乱軍之節討死」とある)には
持貞という兄弟がいたようだが、佐野持貞については
18世紀末から19世紀初めにかけて徳島藩により成立した「阿波志」第六巻(三好郡)に記述があり、それを読むと

「源持貞 佐野次郎左衛門。赤松の族。三好に従い阪東に戦う。
持貞の子・左馬允範成、平義広(久米義広)の女を娶る。
源義賢(三好実休)が持貞に与えた感状を代々伝えている。」

「持」は細川持隆からの偏諱だろうから
主君と、兄弟と、息子の舅の仇から感状をもらった、という戦国らしいどろどろしたお話。

27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/12(日) 23:20:42.11 ID:gJMRiBMX
と書いたところで
「義賢」は三好実休のことではなく息子の十河存保(義堅とも称した)のことで
「阪東」の戦いは長宗我部との戦いのような気がしてきた。
これだと代替わりしてそれほど悪い話じゃなかった。申し訳ない。



29 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/14(火) 12:36:38.24 ID:rANbibdw
>>26
妾といえど主君の母なので格が上
なので正室の娘が妾に格下げされたのに怒ったのでしょうね

戸次川合戦後の讃岐について

2017年11月10日 21:30

290 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/10(金) 11:19:14.92 ID:2QZmOQNt
戸次川合戦後の讃岐について

ある時十河猪兵衛に会い、豊州利光川の戦(戸次川合戦)
存保戦死について問うたところ
猪兵衛曰く、我は幼主千松丸に属せられ参陣せず
父の猪右衛門、十河但馬、松田宗閑などの忠臣は皆死をもって従った
存保の命を伝えて来る者もあり、死亡を逃れて来る者もあるゆえ
我が見ていない事を語っても益はないだろう、と前置きし語り始めた

存保筑紫にて戦死の日は十二月十二日である
その日の八つ時分に、兵卒三百人ばかりが旗十流ばかりを靡かせ
十河の城に入るのを田畝に耕す農人が見た
次の日、近境の者どもが還陣を賀そうとやって来たが
城中の者はそのような有様を知らず、不思議な事だと言い合った
そんなことがあった数日後に、豊州戸次川にて
存保が戦死を遂げられた報告が届いたそうである
家人どもは十河家息男千松丸に付き従い、十河の城に留まり
仙石秀久は豊州の敗軍を恥じて讃州に入らず
直に高野山に入ったと聞いている

(続く)

291 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/10(金) 11:20:29.39 ID:2QZmOQNt
また天正十五年正月、讃岐の国を尾藤甚右衛門尉賜いて入部し
兵卒を催し、筑紫陣(秀吉の九州平定)の用意をすることになった
去年の年貢は残っておらず、今年の収穫も先のため、手だてなければ
寺社領、神社仏閣の敷地まで検地を入れ、軍中の資用を宛て課した
国中の商家遊民に課役をかけて催促したが
はかばかしく財産も集まらなかった
仙石氏出陣の時と比べ、三分の一の形相にも及ばずして
九州へと赴いた事を思えば、高城の夜戦の際(根白坂の戦い)
尾藤氏が痩せたる兵をもって島津方の逞兵にあたり
固く守りて出なかったのは、己を知る者であったからである

神子田中左衛門は信長卿の御家にて
竹中半兵衛と両半と言われし弓矢巧者であり
この度、秀長卿の介添として日向の国に発向したが
高城の夜戦の際、善ヨウ坊を救わずをもって
改易されると言う人あるが、我はその実否を知らない

292 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/10(金) 11:21:17.92 ID:2QZmOQNt
それ小軍夜に紛れていくさを起こし挑む事は、大軍にとって大事である
総軍皆出でて戦う時は、彼我を分かたずして、同士いくさするものだからだ
各陣固くして夜の明くるを待ち、敵の退き口について朝合戦をなすべきで
これぞ大軍の手だてである
秀吉公は勇戦を好まれるがゆえに、その時勢を糾さずして
尾藤が落ち度として讃州を没収されたのである

(南海治乱記)




戸次川合戦讃岐勢の最期

2017年08月26日 13:22

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 20:21:18.15 ID:7I3kQIYN
戸次川合戦讃岐勢の最期

ここにおいて仙石、いくさに敗れ、土佐讃岐の兵卒混一になって崩れた
桑名太郎左衛門、信親に使者を馳せて曰く
「今すぐお引き返しください、少しも遅れてはなりませぬぞ」

槍を入れる信親存保、撤退の下知をしたが及ばず、共に押し立てられ
存保が家人に言うには

「阿波の守護だった頃、信親と戦う事数度にして
 一度は長宗我部が首を見んと切望していたが
 その遺恨は今である。信親に呼びかけて討死させ
 我が思いを晴らすとしよう」

(続く)

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 20:22:48.65 ID:7I3kQIYN
信親に使者を馳せて曰く

「今日の戦いは仙石の謀(はかりごと)の拙さによるとは言え
 恥辱は先手の将帥にあり。
 引き返して勝負を決したまえ。存保も加勢申すべし」

存保馬に鞭を打ち馳せ行くと
信親も勇壮の将なればもっともであると承諾し
両将共に取って返し、敵の中へ馳せ入れ
火水の如く戦いて、晴れなる戦死を遂げられた。

香川民部少輔、安富肥前守、羽床弥三郎
阿波の矢野、河村などの軍将数十人
勇名ある者数百人、総兵千有余人
皆力のある限り戦い、そして死んでいった。

「南海通史」



81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/25(金) 22:19:54.39 ID:kEYXRfFo
>>59
>「各々方さほどに同心なくば、我等一手をもって後詰せん」
一人で討ち取られちゃえばよかったのに

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 14:21:09.45 ID:l1s1q4Vz
信親と長宗我部家が不憫でならない…。

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/26(土) 14:48:49.94 ID:2DOcTq0a
次男三男死なずにすんだかもな

軍監の命なれば是非に及ばず

2017年08月22日 17:59

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:34:50.20 ID:W9FCLw1N
天正十四年十二月、豊後国戸次川合戦軍議での事である。
軍監仙石秀久、戸次川を目の前にして発議して曰く
「この川は九州一の大河にて頗る難所とは言え、大勢に切所はなし。何ぞ恐るるに足らん
 いざ、諸軍一同に渡して一戦に勝負を決すべし」
これに対し長宗我部元親曰く
「この川を渡るのは殊の外面倒なり。敵が川端に引いて備えるは堤の陰に伏兵あるべし。
 川の半途で鉄砲を打ちかけられれば先陣は全滅し、一陣敗れれば残りも全うする事は叶わず。
 ことさら島津は大敵といい、強敵といい、最も侮りがたし。殿下(秀吉)の戒めらるるは正に今日にあり
 しばらく川をへだてて対峙し、敵の虚実をはかって方便あるべし」
十河民部存保もまた諫めて曰く
「敵は目に余る大軍で、この小兵をもって大河を渡り、後詰(ごづめ)野戦するはもっての外なり。
 守りを固め、敵が大河を越えて来たらば一戦し、また越えて来ねばかねて御定めの如く、殿下の御出馬を待つべし」
秀久服せず曰く
「昔より川を渡った者が勝ち、渡された者が負ける事少なからず。早く川を渡れば人を制する利といい
 上方への聞こえといい、急ぎ渡し然るべし」

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 02:36:28.43 ID:W9FCLw1N
この時、はるか前方に元親麾下の細川源左衛門がおり、この勇士は四国のいくさにて高名を立て
秀久も見知っていたのでこれを呼び、渡河の可否について述べよと命ずると
「川向こうの小藪に伏兵あるべし。もし渡さば川中にて鉄砲うち掛けられ、先手破れ後手敗軍とならん
 対陣し敵の動きを見て方便あるべし」
これに対し秀久
「治承の昔、足利又太郎(足利忠綱)は宇治川にて、源頼政大勢にて防ぐと言えども遂に渡り済まし
 また後の元暦承久の合戦でも、川向こうの大勢を相手に渡すなり。我等も見聞する所、川を渡り利を失う事少なし」
源左衛門曰く
「昔は鉄砲なし今は鉄砲あり、いくさの様も変われり、ご思案あれ」
秀久曰く
「各々方さほどに同心なくば、我等一手をもって後詰せん」
ここに至りて諸将は無謀の策を喜ばざりしも、軍監の命なれば是非に及ばず、また味方を捨て一人身を全うするもならず
三軍和せざるは敗軍の兆しなりとてその議に従い、一同渡河の準備に取り掛かった。  

「土佐軍記」



60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 06:48:59.75 ID:inKWe/E+
今も昔も指示する立場の人間がええかっこしいなら苦労するわ

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 07:33:00.57 ID:+wZ6x60J
元親を憎んでる十河は負けると分かった上で仙石に同調したと思ってたけど違うのか

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 08:02:52.86 ID:HRLKmaln
四国勢はもちろん案内役の戸次隊のこのあとのことを考えるといたたまれない

戸次川合戦における讃岐勢の悲哀

2017年08月22日 17:58

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 09:21:39.91 ID:W9FCLw1N
戸次川合戦における讃岐勢の悲哀

戸次川合戦が開始されると仙石・十河両軍は島津の先陣とぶつかり
これを川へ追入れて一旦踏み止まった。
十河存保は弓矢功者だったので彼我の虚実を察し、急ぎ仙石の陣へと馳走して曰く
「今、敵の先陣敗れたりと言えど、これは実の敗軍ではなく味方を引っ掛けるはかりごとである
 後陣の大軍は村々に満ちて我らに備えており、川向こうに伏兵があるから渡るべきではない
 勝ちいくさの勢いをもって一旦引き揚げ、兵卒を立ち直らせ、陣を固めて次のいくさを待つべきである
 敵は決して川を渡って来ないから、その間にこちらの方便もしやすくなるだろう」
仙石はもとより勇猛で怒りやすく、人の言を容れない性分だったため、存保の献策を用いず、大いに怒りて
「この勢いを持って敵を追撃せねば敵はまた持ち直すだろう。急ぎ川を渡り追伐すべし」
そう言うなり自ら槍を取って進発した
存保は苦笑して(原文:悪ク笑イテ)「今思い知ったわ」と言い捨てると自陣に戻り、郎従数人を呼び寄せ
「汝らは国へ帰り、千松丸(存保嫡男)を連れて上京し、このいくさのあり様を申して秀吉公のお目にかけよ
 これが専一の忠節であるぞ」そうしかじか言い捨てると、手勢に下知し川を渡って行った。

「南海通記」



65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 10:45:11.73 ID:bjVqcGPk
ブラック戦国武将

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 18:12:50.38 ID:I/nuzxSG
豊臣秀吉文書集読んだら戸次川の後秀吉が大友の志賀親次や佐伯惟定に送った手紙だと
仙石が不届きにも勝手に戦い負けてしまい、すまないがもうしばらく頑張って持ちこたえてくれ
みたいな感じに書かれてたな

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 18:12:50.38 ID:I/nuzxSG
豊臣秀吉文書集読んだら戸次川の後秀吉が大友の志賀親次や佐伯惟定に送った手紙だと
仙石が不届きにも勝手に戦い負けてしまい、すまないがもうしばらく頑張って持ちこたえてくれ
みたいな感じに書かれてたな

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 19:32:15.47 ID:dLLmZWq5
そらそう書くしかないわなw

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 20:52:44.68 ID:Sxe+xW1C
この戸次川推しは
とうとうセンゴクで戸次川の戦いまで来たからかな

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 22:49:09.44 ID:dGIwlC76
仙石無能

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/22(火) 23:27:17.91 ID:fvB7DkEz
>>66
文書集持ってるなら仙石たちを送り込んだときの書状も読んでみると良いよ。
なかなかブラックだからさ

「フロイス日本史」から、戸次川の戦い

2017年05月30日 18:11

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:31:52.86 ID:pxsQt+cT
(豊後国主の)嫡子は、薩摩軍が攻めてきた時に身を守り得るために、
他の二名の主将(仙石秀久長宗我部元親)とともにウエノハル(上原)と称するある場所に一城を築くことに決した。
だが彼らは心して真面目に築城の作業に従事しなかった。
彼らの不用意は甚だしいもので、饗宴や淫猥な遊びとか不正行為にうつつを抜かしていたので、その城は笑止の沙汰であった。
したがって(薩摩軍が来週した時に彼らが)助かることなど思いもよらないことであった。

ところで国主フランシスコの息子パンタリアン(田原)親盛は、司祭に対して、
もし府内で何事かが起こった場合には、司祭は家財を携えて城(妙見城)に身を寄せるようにと伝えていた。

薩摩の軍勢は惰眠をむさぼることなく、攻撃力を強めながら、漸次豊後に進入して領地を奪っていった。
豊後の指揮官たちは、常軌を逸した振る舞いによってますます油断の度合いを深めていた。

本年一五八七年の一月十六日(西洋暦)、薩摩の軍勢は、
府内から三里離れたところにあるトシミツ(利光宗魚)と称するキリシタンの貴人の城を襲った。
城主は府内からの援助を頼りに力の限り善戦した。
だが敵は攻撃の手を緩めず、ついに武力によって城内に進入し、その城主、ならびに多数の兵士を殺害した。

府内にいる味方の勢は、(利光の)城が占拠されているかどうか確かなことを知らないまま、
赴いて囲みを解くべきかどうか評定を続けていた。
結局、彼らは出動することに決め、栄えある殉教者聖フィビアンと聖セバスティアンの祝日に府内を出発した。

府内からは、仙石がその兵士を率い、土佐国主長宗我部とその長男がその兵士を伴い、
さらにパンタリアンも兵を率い、その他豊後の特定の殿たちが出発した。
清田と高田の人々に対しても出動するよう命令が出された。

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/29(月) 21:32:45.50 ID:pxsQt+cT
薩摩勢は、それより先(豊後勢の動静を)知らされていたらしく、余裕をもって策を練り、
準備を整え、一部少数の兵士だけを表に出して残余の軍勢は巧妙に隠匿していた。

豊後勢は、大きく流れの速い高田の川に到着し、
対岸に現れた薩摩勢が少数であるのを見ると、躊躇することなく川を渡った。
そして豊後勢は戦端を開始した時には、当初自分たちが優勢で勝っているように思えた。
だがこれは薩摩勢が相手の全員をして渡河させるためにとった戦略であった。
渡し終えると、それまで巧みに隠れていた兵士たちは一挙に躍り出て、
驚くべき迅速さと威力をもって猛攻したので、
土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。
というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。
こうして味方の軍勢はいとも容易に撃退され敗走させられて、
携えていた鉄砲や武器はすべて放棄し、我先にと逃走して行った。

豊後国の人たちは、河川の流れについて心得があったから助かったが、
仙石と長宗我部の哀れな兵士たちは他国の者であったから、浅瀬を知らず溺死を余儀なくされた。
こうしてその合戦と破滅において、二千三百名以上の兵士が戦死したと証言されている。
彼らの中には、土佐国主の嗣子や、かつて阿波の領主であった十河殿、その他大勢の貴人や要人が含まれていた。

薩摩勢は、その日の午後には府内から四分の一里の地点にまで到達し、
その途中にあったものをことごとく焼滅し破壊した。




「フロイス日本史」から、戸次川の戦いについての記述である。


三好長治の最期

2013年04月01日 19:58

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/01(月) 00:47:06.98 ID:H78FbwLS
三好長治の最期

対織田戦線を主導していた篠原長房父子を滅ぼした三好長治だったが、
篠原父子討伐にかつて長治の父・実休が滅ぼした阿波守護・細川持隆の子
真之を担ぎ出したため、、阿波守護細川氏の軍事動員権復活を許してしまう
事態となった。さらに篠原父子を討ってまでして模索した織田信長との
和睦工作(※)も不調に終わってしまうなど散々な結果になってしまった。

※長房討伐の少し前には、十河存保が織田信長と接触を図っている。
  長治も信長に和睦を請うているが、結局拒絶されてしまっている。

やがて細川真之に攻められた長治は今切城へ逃れ、そこで土佐泊城を拠点とする
阿波水軍の将・森志摩守に救援を要請し、両者は助任川で合流することとなった。
森志摩守は早速船を出したものの、土佐泊から海を廻って河道に入り助任川へ入る
ルートは河道が複雑で潮流の見極めが難しかったらしく、志摩守の出した船は誤って
助任川よりも南の佐古山の麓に進入してしまい、結局長治の待つ助任川へたどり
着くことが出来ず、結局両者は合流しそこねてしまった。

やむなく長治は別宮浦へ向かったが、別宮浦一帯は土佐泊や撫養に比べて、三好
氏の支配が深く及んでおらず、結局長治はこの別宮の里長に密告されてしまい、
自害に追い込まれることになってしまったのだった。

水軍が道を誤ったために長治の予定が狂い、結局追い詰められて自害する羽目になった
というちょっと悪いお話。ちなみに、森志摩守は水軍の長という特殊なポジションから、
蜂須賀氏の阿波入国後も旧三好氏系の豪族ではほぼ唯一、その地位を保ち、蜂須賀水軍の
将として幕末まで阿波藩の上士として存続している。




140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/01(月) 02:21:08.23 ID:mvZbEfP1
吉野川の河口部はいまでも迷路みたいだな

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/01(月) 06:57:32.95 ID:Km/1NTLe
うわーまよっちゃったわーこれじゃえんぐんまにあわないわーこまったわー(棒

仙石秀久と長曽我部信親と十河存保・悪い話

2008年10月16日 10:47

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/08/12(火) 07:13:45 ID:0By7/lLV
四国で泥沼の争いをした長曽我部信親と十河存保
二人とも仙石秀久のせいで戸次川の戦いで戦死する
十河は九州仕置きの後改易
長曽我部は関ヶ原の後改易

でもそれから30年後に再び仙石と十河と長曽我部が共に味方として戦うときが来たんだな
十河存保の息子の十河存秀と仇敵長曽我部家の元大名長曽我部盛親
さらには憎き仙石秀久の次男仙石秀範

三人とも大阪の陣で大阪方について、そろって死んだ

人の縁の不思議な話



加賀須野与一高房と「せきどめさん」・いい話

2008年10月15日 14:20

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2007/12/16(日) 17:08:09 ID:jUyV9Epl
 天正十年の中富川合戦は、土佐から進攻してきた長宗我部元親と、十河存保を主と仰ぐ阿波三好軍団が死力をつくして対決した四国では最大の激戦であった。
敗色が濃くなった三好方の武将加賀須野与一高房は、追手の土佐勢から逃れるため、中富川に架かる橋の下に身を隠していたが、激戦つづきで風邪をひいていたので、
どうしようもなく咳き込んでしまった。橋上の土佐勢はすぐさま高房を捕えて首を刎ねたのであった。高房は死に臨んで「拙者は咳を止められず敵の刃にかかるが、
死後は咳で苦しむ人々を助けてやるのだ」と遺言したという。いまも咳止大明神はその地に祀られ、「せきどめさん」として親しまれている。