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働いた茶湯

2019年09月05日 17:28

千道安   
182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/05(木) 15:25:59.18 ID:RI1GVjri
道庵(千道安)の方へ去る者が茶湯に行くと、庭に多くの朝顔があって花は盛んであり、露路
は見事である。その通りを利休に語ると、利休の申し様は「いまだ知らず」として日を定めて
茶湯を所望し赴いた。

露路を見ると朝顔は一葉も無く「これは」と見るところに、床の花入に朝顔一輪が入れ置いて
あったのである。数人に見古させた花を庭で父に見奉ることは、賞玩にならないのだという。
この如く(道庵は)働いた茶湯であったという。

総じて茶湯の心はこのような事なのだという。

――『烈公間話』



183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/06(金) 17:42:29.71 ID:ElVrVvH2
https://i.imgur.com/BJQzxTQ.jpg
利休と秀吉の逸話で有名な話か

184 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/06(金) 19:19:56.35 ID:JbkfYi17
>>183
この話知った後だと悪い話にしか見えねぇな
https://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/sengoku/1557310620/192

185 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/06(金) 21:53:14.67 ID:87NqUTDD
>>184
おまへのものはおれのもの、おれのものはおれのもの
他人の創意を横取りとはえらいガツガツしてんな
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「日頃の数寄が出た」

2019年09月03日 17:23

千利休   
365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/09/03(火) 16:07:29.71 ID:gS8n8Noc
利休は大徳寺の山門を建立し、自分の形を木をもって作り、褊綴を着せて頭巾に杖をつかせ、
雪踏(原注:雪踏は利休が初めて作ったのだという)を履かせて高所に置いた。

秀吉公は御覧になって、「公家衆を始め礼儀ある門に推参至極のやり様である!」と大いに
怒りなさり、その罪で切腹した。

その時、(利休は)脇差を包み取って巻き直し、両端を揃え能を見て切腹仕ったのである。
「日頃の数寄が出た」と、数寄者は感じ入ったという。

(原注:『雍州府志』四巻の大徳寺のところに曰く、この門は連歌師の宗長が所建の後に千
利休がその上に設閣し、己の像を置いた。これにより豊臣秀吉公は僭越を怒り、その像を降
ろして一条反橋に晒したのである)

――『烈公間話』



北野大茶会の事

2019年08月22日 17:05

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/22(木) 00:46:12.19 ID:rcvPK52I
私(久保長闇堂)が茶湯を初めたのは、北野大茶会の年にあたる。調べてみると、天正十三年十月一日の
事である。秀吉公は八月二日に高札を五畿七道に立てさせ、天下の茶湯を志す者は北野の松原に茶席を設けよ、
との上意であった。南都(奈良)よりは、東大寺、興福寺、春日の禰宜、町方合わせて三十六人が出かけた。
私は幼年であったが、この道が好きだったので見物のため同行した。以下、覚えていることを記す

北野の聖廟の前には葭垣があり、東と西に出切り口があった。上様(秀吉)の茶席四つは、礼堂四方の
隅にそれぞれ囲わせ、秀吉公、宗易(千利休)、(津田)宗及、(今井)宗久という四人のお点前であった。
その時の道具の記録も残っている。
大和大納言殿(豊臣秀長)は南門筋西側で、大和郡山の武家衆、それに続いて南都寺社、町方であった。

松原中の茶席は思い思いの工夫が有ったが、その中でも覚えているのは、奥の小松原に、美濃国のある人が
芝より草を葺き上げ、内を二畳敷とし、中の四方に砂をまき、残る一畳敷に瓦を縁とした炉を作って釜を
かけていた事である。通い口の内に主人が居て、垣に柄杓を掛け、瓶子の蓋を茶碗として、焦がしを入れた
丸瓢の茶器をその中に仕込んでいた。

さて前日にお触れがあり、その日の日の出より御社の東口で籤を取り。五人一組として、先の四つの茶席の
どこかで御茶を下された後、西口からすぐに出る形であった。そのため数百人の客が、朝五つ(午前八時ころ)
にはもう御茶を飲み終えた。

秀吉公は食事を終えると昼前より松原に御出でになり、一ヶ所も残らず御覧になった。
先の美濃国の人は名を「一化」と言ったが、茶席の脇で松葉を焚き、その煙が立ち上っていた。秀吉公は
彼のことを以前よりご存知であったそうで、「一服」との御意があり、直ぐにその焦がしが差し上げられた。
大変にご機嫌よく、手に持たれていた白扇を一化は拝領し、今日一番の幸運者と評された。

また経堂東方の京衆の末席に、「へち貫」という者が一間半(約2.7メートル)の大傘を朱塗りにし、柄を
七尺(約2,1メートル)ばかりに立て、二尺(約60センチ)ほど間を置いて葭垣で囲っていた。
照日に朱傘が輝き渡り、人の目を驚かせた。
これについても秀吉公は一入興を催され、彼を諸役御免とされた。

八つ(午後2時ころ)過ぎには皆々にお暇を下され、それより互いに桟敷を片付け、その日の内に、また
元の松原に戻した。内々には、『諸方の茶道具を召し上げられるつもりであろう』と噂されたが、そのような
事はなかった。また「十日間茶湯をせよ」とも言われていたのだが、その日だけで終わった。
このため見物した人もそう多くはなかった。

私はこれを見物し、心勇んだ。どうにか出来るものだと考え、親の家の裏にわずか4畳敷の小屋が有ったので、
これを改造して二畳半を茶室、一畳を勝手とし、残る一畳を寝所と定め、足の方には棚を釣り。昼はそこに
寝具を上げた。
そんな茶室に、今思えば身分の高い客も呼んだものだ。しかし志さえしっかり持ち続け、勇気を持てば、人に
恥じる事はない。今の世で誰がこのような仕方をしているだろうか。ただ志が強くないため、勇気もなく、
他人に対しても自分に対しても恥じてしまい、道に至る人が少ないように見える。

(長闇堂記)

北野大茶会についての記事



古田織部などでもあろうか

2019年08月13日 14:52

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/13(火) 13:55:02.76 ID:Pv9b1yua
千利休は同子の道菴(道安)と古田織部について、細川三斎(忠興)が「貴老が五百八十年後
(長寿した後)に果てなさったとして、以後天下の茶湯指南は誰なのでしょう」と問うた時、

利休は答えて曰く、「世倅の道菴は働いた茶湯である。しかしながら人柄が悪い(然トモ人柄
悪シ)。天下の指南はなるまい。古田織部などでもあろうか」と申したという。果たしてその
如くである。

――『烈公間話』



茶湯が改まった

2019年07月27日 19:29

千利休   
120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/27(土) 02:52:16.36 ID:heGmLc+j
千宗易は秀吉公の師であり、かつその才知が世に優れた人であったため、天下すべての人がその教えを
学び、後には利休居士と申された。
彼の影響に寄って昔の名物はみな蔵に仕舞わ使われなくなり、茶湯が改まった。

昔の炉は一尺八寸か六寸だったのを、一尺四寸(約42センチ)に直し、縁一寸一分、土壇一寸一分、
土壇の内九寸八分にして、九寸(約27センチ)の釜と定められた。この時、有馬の湯元に有った
阿弥陀堂の釜を求められた。その写しが「阿弥陀堂」の名で世に流行した、
釜を釣る鎖、自在も廃り、五徳据えとなった。

茶道具では今焼茶碗(利休が長次郎に焼かせた楽茶碗)、棗の大中小があり、清甫という塗師が作った。
当地奈良の林小路に住む与次という塗師は、中次の薄茶器で天下一であった。

墨蹟には古渓和尚、すなわち利休の参禅の師のものが好まれた。掛物は幅が広いものは立派すぎるので、
一尺二、三寸の幅となった。大文字も二行書きだと、一旦見下ろしてからまた見上げることに成って
良くないため、一行物が流行した。表具も光り輝くのは仏画のようであると、みな紙表具、あるいは
北絹(黄繭から取られた糸で織った中国製の絹)で表具するようになった。

利休は万事手軽く、寂びたものを基本とされた。世間の侘びに配慮し、また道具を持たなくても
誰であっても茶湯が出来ることを示して、人々を道に赴かせようとしたのだ、とも言われる。

その他、茶壺の口覆は昔は角切らずで、口の緒も長かったのだが、利休は角丸く、口の緒を短くした。
茶入袋の緒も、長緒で紅色の唐糸であったのを、現在のように緒の短い、打留一つの練繰糸にされた。

茶箱も利休が初めて作ったものである。桐の角丸面とし、錆(砥の粉を水練りして生漆に混ぜたもの)を
つけないで上塗りを黒くして、木目が見えるようにした。蓋の覆いは薄渋の紙にして、片仮名で
「旅の茶の具」
と書き付けてあった。

(長闇堂記)



121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/27(土) 21:15:23.74 ID:wLngnx7E
自在ってすごいネーミングセンスだよな

世の中すべての床天井は高くなった

2019年07月25日 16:25

千利休   
112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/25(木) 13:59:39.80 ID:CM8ckPJ8
芝山監物は秀吉公の御伽衆であった。
住吉にある一休禅師の寺の方丈に『初祖菩提達磨大師』という一休の墨跡が残されており、
これを佐久間甚九郎が購入し、芝山へと差し上げた。
すると千利休が、これが村田珠光の表具である事に気がつき
「珠光以外の誰がこのような表具を出来るでしょうか。さてもさても。」と絶賛した。
村田珠光は一休に参禅していたと言われる。

ところがこれは非常に長い掛物だったため、床に掛けることが出来なかった。
芝山監物蒲生氏郷と細川三斎(忠興)に、「利休に表具のことを頼みたいので、仲介をお願いしたい。」
と頼んだ。

ある時、利休、氏郷、三斎の三人を、芝山監物が茶会に呼んだ。この時あの墨跡を、床天井の前に、
上を巻ため、弱竹で角を押し入れて掛け、下の方も巻きためて置いた。
そして芝山は「この掛物を床に掛かるようにして頂きたい。」と利休に頼んだ。

しかし利休は「これに誰が手を入れることが出来るでしょうか。」と同意しなかった。

これに芝山は憤り
「たとえ珠光であってもナニ光であっても、床に掛かるよう直して頂けませんか。竹で押し入れているので、
毎回壁も傷み、どうしても掛けられないのです。」と訴えた。
相客の氏郷、三斎も「あれほど望まれているのですから、お直し下さい。」と言った。

だがこれに
「それはどういう事でしょうか。良いものを悪くする事を私は致しません。どうしてもそうしたいのであれば、
あなた方がなされば良い!」と、利休は散々に叱りつけ、不機嫌になられた。

「珠光のされたことを決して変えてはならないのだ。であるから、床の天井を高くして掛けられよ。」
そう利休は言った。

この事が有ってから、世の中すべての床天井は高くなった。利休の功績である。確かに文字は
高く掛けたほうが見事である。寺の山門の額も、上に打ってこそ見事であるからだ。

この掛物は今は将軍様の元にある。『天下一の一休』とはこれの事である。

(三斎伝書)



119 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/26(金) 23:51:50.50 ID:amHD0ylJ
>>112
>「たとえ珠光であってもナニ光であっても、床に掛かるよう直して頂けませんか。

鮭様「一体ナニ光なんだ」

千与四郎殿に明日御茶を差し上げたい。

2019年07月24日 16:34

千利休   
109 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/24(水) 01:50:46.96 ID:OySZ559h
千利休がまだ与四郎と名乗っていた頃、武野紹鴎の茶会に参加することを望んでいたが、ずっと
呼ばれることはなかった。与四郎は袴と肩衣をその時のためだけに用意したのだが、駄目であった。

武野紹鴎が四畳半の茶室を作った時、堺の南北の誰もが、その座敷開きに呼ばれることを心待ちに
していたが、誰も呼ばれること無く、だた「千与四郎殿に明日御茶を差し上げたい。」との使いが有った。

これに与四郎は「忝ない事ですが、明日は伺えません、明後日に参ります。」と返答した。
紹鴎は「それでは明後日お出で下さい。」と応じた。

与四郎は直ぐに夜通しで褊綴( 法衣の一種。ともに僧服である偏衫(へんさん)と直綴(じきとつ)とを
折衷して、十徳のように製した衣。)を取りに遣わし、僧体になって紹鴎の元に赴いた。
これに紹鴎は「さても、さとも」と感心されたという。

この時に名を『宗易』としたのだという。

(三斎伝書)



110 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/24(水) 12:02:48.51 ID:0lxTEov8
紹鴎すごいんやな

三ヶ所手が違った

2019年07月23日 15:51

千利休   
106 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/23(火) 01:23:47.89 ID:3NtwR41t
織田信長殿には、天王寺屋宗及が台子の茶湯をお教えした。
ところがこの宗及の茶湯を宗易(利休)が批判をしたとの噂が耳に入られ、信長殿は宗易を召して
台子で茶を点てさせた。

信長殿は立ちながら宗易が茶を点てる様子をご覧になり、「三ヶ所(宗及のやり方と)手が違った。」と
仰せになった。
宗易はこれに「その事でございますが、このように致しますと手間が入って悪くございます。また
こうすると手がねじれます。」と、一ヶ所につき三つほどの理由を申し上げた。

この事が有ってから、宗易の名が天下に上がったという。

(三斎伝書)



107 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/23(火) 14:14:37.91 ID:wFZ44Ll2
マナー講師の戦いみたいだ

108 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/07/23(火) 15:31:01.11 ID:3VAbEL3P
信長は合理主義だから無駄が嫌い
でも一見無駄と思えることに意味を持たせるのが侘び寂びでもあるんだよね
そういうのは信長に教えずに秀吉にしたり顔で教えた

千利休の切腹と石灯籠

2019年07月21日 16:59

千利休   
103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 01:13:32.35 ID:tvy6NoWG
千利休の切腹は堺で行うと、秀吉公の御意があり、この時、淀に於いて船に乗るまでの乗物を、
三斎公(細川忠興)と古田織部殿の両人が手配された。利休の内儀がこの時礼を申されたが、
利休は
「もはや、それも要らぬことです。日本国の人々は皆私を知っていますが、このお二人ほどの事は
有りません。」と言った、

切腹を行う堺の屋敷に於いて、四畳半の小座敷で利休は「少しお待ち下さい。」と、炭を直した。
湯がたぎった時に四尺床に腰を掛けたが、勝手方に臂がつかえたので、「この置き合わせではない。」と、
床真中に寄った。

そして「介錯の人々は声を掛けるまでお待ち下さい。もし言葉が出ないようであれば、手を上げて
合図致します。」と言って、脇差を腹に突き立てた。

しかし思うように行かなかったため、また引き抜き、同じ所に突き立て直し、引き回して腸袋を
自在の蛭釘に掛け、そこで介錯があった。古今に無いものであった。

利休切腹の後、秀吉公の後悔は限りないものであった。彼が切腹した後は、秀吉公は釜の形の切紙が
上手く切れず、誰彼にかかわらず切らせたが、御意に入るものはなかった。
蒲生氏郷と三斎公が行かれた時も、「ハァ、一応参りましたというだけの面だ。」と仰せになった。
「たしかにその通りだった。」と、後に三斎公は語られた。

利休が天下一と褒めた石灯籠が有った。利休自身が打ち欠いて、色々に直し、天下無双であると気に入った
ものであった。
その石灯籠を三斎公が所持され、任国が代わる度、丹後に取り寄せ、小倉へ下し、肥後の八代に下し、
現在はまた京へ上らせておられる。そしてこれを大徳寺高桐院に立て置き、三斎公自身の墓標として、
名を彫りつけるおつもりでおられる。「灯明などを灯せば丁度よい。」と仰られている。
少し手軽く見える灯籠で、角々が丸く、大形では無いものである。

(筆者注・現在この石灯籠は細川忠興の墓石として、大徳寺高桐院の墓地に有る。)

(三斎伝書)



104 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/21(日) 13:52:30.21 ID:cN9uq2nD
お茶くらい気にすんなよ

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/22(月) 12:12:38.25 ID:umL4DwKU
よく知ってるね

千利休の身上が相果てた理由について

2019年07月19日 14:58

千利休   
279 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 00:03:31.80 ID:0NM0kJP3
千利休の身上が相果てた理由についての事である。木下祐桂(秀吉の右筆とも言われる。不明)が
秀吉公に逆らって浪人したことが有ったが、その時知人であったにも係わらず、利休が見舞いの人を
遣わさなかったことに祐桂は非常に腹を立てた。

その後秀吉公に許されたため、その祝いに利休が祐桂の元を訪ねた所、祐桂は
「利休などという人は知らない。」と言って取り合わなかった。このため互いにひどく腹を立てたが、
表向きは仲直りをした。

ところが、秀吉公が祐桂に「この頃何か珍しいことはないか」とお尋ねになった時、祐桂は
利休の娘のことを申し上げた。「それでは」と秀吉公は祐桂を御上使として利休の内儀の元に
(娘を秀吉の側に上げるよ)2度も遣わしたが、内儀は「利休へ申されないのでは困ります。」と
同意しなかった。そして利休はこれを聞くと「とても納得できません」と申し上げた。
祐桂はいよいよ利休に対して腹を立て、秀吉公に報告した。

その頃、前田玄以も秀吉公に対して利休を散々に言った。これらによって、切腹となったのである。
前田玄以は胴高という茶入を取り出して、肩衝と言って利休に見せた所、全く返事すら無かったことを
恨んでいたのだ。

後にこの胴高の茶入は池田三左衛門殿(輝政)が所持し、今は備前の宮内殿の元にある。
習いが有って、胴高というのは茶入の中でも特別なものであり、習いが有れば見分けやすいものなのであるが。
(玄以はその心得がなかったのである)

(三斎伝書)




282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 12:19:20.92 ID:KpYWaZEK
>>279
心得がないなら教えてあげればいいのに
思い上がってる奴を擁護するのは取り巻きだけ
まるで何処かの芸人のようだ

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 12:42:58.45 ID:1RTOYgSs
>>282
そして、偉い人の庇護のもとででかい顔。偉い人から嫌われたらその瞬間に終了。
今の芸人と完全に一緒。

ただし一ヶ所、下手な部分が

2019年07月16日 15:51

千利休   
90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 21:11:40.97 ID:Utl8jJEh
当時、北京大仏(方広寺)の小屋場で茶会が盛んに行われていた。
ある時、天王寺屋宗及が「利休と三斎公(細川忠興)の両人へ御茶を差し上げたい。」と言われた。
この時、利休は聚楽の屋敷に居り、三斎公が「泊りがけで私の小屋へ今晩御出下さい。」と
申した所、「そういたしましょう」と同意された、「それでは先に参り掃除を致します。」と言って
三斎公は帰られた。

早くも五つ時分(午後八時頃)に利休は三斎公の小屋へ御出になり、そのまま雑談をされた。
夜に入り大雪となったが、利休は九つ時分(深夜0時頃)に、「もう参りましょう」と出かけられた。
この時三斎公はそっと人を宗及の所に遣わしてこれを知らせたが、宗及の方も予期しており、既に
露地口を開けて迎えに出ていた。そこから灯籠の火が見えた。夜なので手水柄杓は置かれていなかった。
雪の掃除は難しいものだが、この時は習いの通りの見事なものであった。

席入すると、床の中央に千鳥の香炉が盆にのせず置かれ、また床の勝手の方には堆朱の香合があった。
客が席入してから、宗及は香炉を下ろした。この上げ下ろしには習いが有る。
宗及が香を焚くと、利休はその香銘を尋ねた。宗及は「月」と答えた。
続いて利休が香を継ぎ、宗及が同様に香銘を尋ねた所、利休は「もちろん東大寺(蘭奢待)です。」
と答えた。

さて、利休が香炉を床へ上げるよう宗及に言った所、宗及は「私が下ろしましたので、利休様が
お上げ下さい。」と申したため、「それでは」と利休が上げた。
それから炉中を直し、この茶会は宗及一代の上出来の数寄となった。

帰りに三斎公は自分の乗物に利休を乗せ、自分は乗物の脇を歩いた。
利休は「今日は宗及一世の上出来の数寄でした。ただし一ヶ所、下手な部分がありました。
見つけられましたか?」と言われたが、三斎公はそれが解らなかった。
利休は言った
「月の香を焚いたのがいけません。月に雪という発想は平凡で悪い。よって東大寺の香を
焚かねばならないと思い、私は東大寺を継いだのです。」

三斎公が乗物から降りて利休を乗せ、自身はその乗物に付いて歩かれるのは毎度のことであった。
その朝は大雪であったので、宗及は手洗鉢へ水を入れず、くぐりの前に手付きの水、次に湯を入れ、
新しい盥を添え置いてあったとの事である。

(三斎伝書)

信長の蘭奢待切り取りの時に利休も分け与えられたとは有ったけれど、それを茶会に使っていたのですね。



95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:34:25.20 ID:Krpjzwco
利休は性格悪いエピソードしかないのな

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:40:11.71 ID:A8uhVPMk
商人ですからなぁ

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:55:51.62 ID:6H5Y9heX
>>95
利休を嫌われものの銭ゲバとして描いた作品あったなぁ。
真田丸の利休も石田三成や大谷吉継から蛇蝎のように嫌われる俗物という描写だったような。

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 18:55:51.62 ID:6H5Y9heX
>>95
利休を嫌われものの銭ゲバとして描いた作品あったなぁ。
真田丸の利休も石田三成や大谷吉継から蛇蝎のように嫌われる俗物という描写だったような。

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/18(木) 22:29:05.32 ID:5gA42Ipr
切腹言われても仕方ないわけですね

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 02:26:28.35 ID:z7/Ij/C3
利休と芭蕉は食えないからなw

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/19(金) 12:22:51.24 ID:KpYWaZEK
芭蕉の利休煮か

三斎公はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷も

2019年07月13日 15:20

254 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 00:45:39.47 ID:Kk+VP0qq
若い頃、三斎公(細川忠興)はいつも利休に蒲生氏郷の悪口を言い、また氏郷も利休に三斎公の悪口を
言っていた。

ある時三斎公は利休の所で
「氏郷は数寄者ぶっていますが、裏口を開けてみれば乗馬用の沓や鼻紙などが散らばっている有様です。
彼は絶対に数寄者などではありません。」
と言った所、利休は
「それも良いでしょう。数寄さえすれば、それでも構いません。」
と答えられた。

そうしているうちに蒲生氏郷が勝手の障子を開け
「誰だかが私の悪口を言ったようだ。しかしその者が恥をかいたのは嬉しい」
と言った。

後で三斎公は「誰かがすぐに告げ口したのだ」と大笑いされた。

(三斎伝書)



255 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 11:19:11.37 ID:YjWTGmPq
どんだけ仲悪いんだよ

花入はご覧になりましたか

2019年07月12日 16:48

千利休   
83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 01:02:31.24 ID:BhNSOonv
千利休より「花入が到来しましたので、今お待ちしています。」と、前田肥前守(利長)、
蒲生氏郷、細川三斎(忠興)の元に使いが来た。早速三人で出かけて席入したものの、初座、後座ともに
花入は出なかった。三人は利休に花入を所望すべきかと相談したが、恐れてついに言い出せず、退席した。

利休が露地に送りに出た時、「今日は花入をお見せするためお招きしましたが、花入はご覧になりましたか。」
と尋ねた。客である三人は「とうとう花入を拝見出来ませんでした。座敷、露地ともよく見廻したのですが、
花入はありませんでした。」と答えた。

利休は「尤もです。」と言って、露地の塵穴を示した。そこには落ちた椿の花を、なるほど見事に入れてあった。
「その見事さには驚き入った。」と、後に三斎様がお話になった。

またある時、利休よりこの三人が御茶に呼ばれた。にじり口を開けると、そこに茶壺が置いてあり席入することが
出来なかった。三人は困惑し、どうして良いか解らず様々に相談したが、勝手に床に上げるわけにもいかないと、
先ず座敷の真ん中に茶壺を移して席入し、亭主である利休に「茶壺を床へ」と申した。利休は機嫌よく
これを床へ上げた。「客の思案が良かったのでしょう」と、後にお話になった。

(三斎伝書)



85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 05:26:24.74 ID:FVr7QC+1
>>83
わびってるなあ

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/12(金) 08:12:56.70 ID:kTIihdCu
>>83
深すぎてわかんねーw

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/13(土) 11:50:52.94 ID:YjWTGmPq
わびさび俺には無理だと分かった

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/14(日) 04:25:07.42 ID:9odMhzGb
とんち比べかな?奇をてらって遊んでる風にしかみえない

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/15(月) 10:07:51.99 ID:wf+p/I6R
こういうのが和歌の世界だと古今伝授みたいになるんだな

細川忠興と茶入

2019年07月11日 16:10

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/10(水) 21:06:40.96 ID:txMoZn0l
寛永十四年十月五日 吉田御屋敷、三斎様御茶湯、御座敷開き
                辻七右衛門殿、久重、誓願寺永玉、守顕。(茶会記略)

三斎公(細川忠興)が薄茶入を出された時、辻七右衛門殿が「この茶入はなんと言う名でしょうか。」
とお尋ねになった所、三斎公は「吹雪と申します。」と答えられた。

「この茶入の形は三斎様のお好みであると、世間では言われています。」と七右衛門殿が申されると、
「いやいや、これも利休が形を切り出されたものです。しかし最初に私が写したので、世間でそのように
言われているのでしょう。」と答えられた。

三斎公は、唐物茶入を持たずに、瀬戸の山の井肩衝(古田織部が天下一と称賛した古瀬戸肩衝)ばかりを
秘蔵していてもいかがかと思われ、唐物を持った上で、瀬戸を唐物よりも秘蔵すれば良いとして、
古田織部に、彼が所蔵する勢高肩衝(織田信長が所持し、本能寺で罹災した)を所望した。

すると織部は「金子二千枚頂ければ進上いたします」と返答した。三斎公が「肩衝に金子二千枚も出す
取引は聞いたことがない。」と申されると、
「それでは金千枚と、山の井肩衝を残りの千枚分として頂きたい。」と言った。

これに三斎公は
「それは駄目だ、勢高肩衝を所望したのも山の井のためであり、それは出来ない。」
とお答えになったという。

(三斎伝書)



その心持が面白かった

2019年07月08日 17:50

千利休   
71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 21:56:58.28 ID:v9H8Sln5
ある時、千利休が、「圜悟(えんご)の墨跡(中国宋代の臨済宗の僧、圜悟克勤の墨跡。村田珠光が
一休宗純より印可証明として与えられたとされる)を御覧ください。」と、前田肥前守(利長)、蒲生氏郷
牧村兵部、細川三斎(忠興)の四人を、その墨跡を所持する人の茶会に案内する段取りを付けた。

ところがこの茶会の当日、急にこの利休ら5人に豊臣秀次公よりお召があり、時刻も過ぎて茶会に間に合わなく
なったため、利休は人を遣わして「御前に用が出来たのでご容赦していただきたい。料理も結構ですので、
御用意なされませんように。菓子にて御茶を頂きたいと思います。」と伝えた所、「やむを得ません、
御用が終わり次第お出で下さい。」と返事が有った。

そうして日が暮れてから、手燭を出しての席入と成った。入る時に利休が「手燭を持って床の掛け物をよく
御覧になって下さい。」と申した所、亭主である墨跡の所有者は障子を開けて出て、利休に対し
「どうぞ墨跡をお焼き下さい。」と言った。これに利休は「面目を失った。」と言った。

中に入ると金銀を散りばめ、土器などにも絵を描いた豪華な料理が出た。これを見た利休が
「料理は無用と御連絡したではないですか。さてさて合点の行かないことです。」と申した所、亭主は
「ご尤もです。しかしこれは、食事を召し上がるように、との事ではありません。皆様が私のところへ
お出でになられるということで、ただ忝なさのあまりこれを用意したのです。召し上がるには及びません。」
と答えた。利休は「また恥をかいた。」と言った。

後に三斎公は「その心持が面白かった。」と言われた。

(三斎伝書)



72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/07(日) 22:17:22.94 ID:3+H2OFSP
いわゆる小者

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 05:56:03.31 ID:PErBWv+E
当日キャンセルをかます成り上がり者に対する亭主の抵抗が窺える

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 19:30:32.72 ID:FDy5Rb+b
戦国時代とはいえ割と面倒くさいこともしてんだなw

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/08(月) 21:10:55.98 ID:6lk5Uw6S
小者ってのは いつの時代も大して変わりゃしない

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/09(火) 00:31:12.85 ID:BTnI+Yho
どこの誰なんでしょうね

心安い人に、茶室の外での立ち振舞を見られてしまっては

2019年07月05日 17:14

千利休   
62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/07/04(木) 20:41:57.31 ID:/ZtdOmxc
千利休は本住坊が参られる度に、茶室で茶を点てた。本住坊が恐縮して「毎回このように
されては、何とも参りにくく成る。」と言った所、利休は

「その事です。関東や筑紫から望んで来るような人であれば、わたしがどのようにした所で、
『このようにするのか』と思うだけであり、また見ても解りはしないでしょう。しかしあなたのような
心安い人に、茶室の外での立ち振舞を見られてしまっては、私の茶の湯ができなくなります。」
そう答えたという。

道に長じた人の心持ちとは、そのようなものなのだろう。

(長闇堂記)



数寄に親も子もない

2019年06月25日 15:45

千利休   
192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/24(月) 20:14:25.64 ID:WVVwlE18
千少庵千利休の養子で娘婿。千宗旦の父)が小座敷に突上げ窓を二つ明けた。利休はこれを見て
「ありえないことだ。燕が羽を広げたようで見られたものではない。塞ぐように。」と言ったため、
少庵はその日のうちにこれを塞いだ。利休に見せると「これでよい」と答えた。

ところが後日、利休の小座敷に、少庵のものと同じように突き上げ窓が二つ明けてあった。
「これはどういうわけですか」と少庵が尋ねると、利休は言った
「数寄に親も子もない。私が二つ明けるために塞がせたのだ。」

(茶道四祖伝書)

えぐいな利休



193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 08:38:11.01 ID:XDrCfgpn
>>192
ジョブスの逸話思い出したわw

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 11:15:08.85 ID:COqvQzwm
利休はとある茶師を大抜擢していまも続いてるブランドに押し上げたけど、そこにも裏話があったりするのかな?

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 23:29:17.61 ID:H/k4ezxE
あそこは当主の弟上林竹庵が伏見籠城に参加討死して
幕府の庇護も得たのも大きいんじゃないの

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 23:35:41.04 ID:93p5wq77
利休は唐物至上主義の海外厨だしな

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 23:36:17.61 ID:6D0v9SUX
>>192
こういう奴だから切腹させられるハメになったのかもな

石田三成の「三献茶」の元ネタがこれ

2019年06月22日 15:05

千利休   
34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 00:16:16.65 ID:5DKbWtYD
利休が法華寺で「喉が渇いているので茶がほしい」と所望された所、新発意(小僧)が大服(量が多い)に
茶をぬるく点てて出した。「非常に良かった、もう一服」と利休が再び所望すると、今度は前より少し熱く、
少し小服にして出した。するとさらに「いま一服」と所望されると、小僧は熱く小服にして出した。

利休は感心して「さてさて、気の利く人だ。彼を私に遣わして下さい、数寄を教えたい。」と言った。
そして点前そのものよりも、心を数寄にすることが肝要だと言って召し使った。
この小僧がのちの、京の喜斎(土屋喜斎)である。

(茶道四祖伝書)

石田三成の「三献茶」の元ネタがこれ



35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 01:01:16.28 ID:RmuGq9nn
何たる小賢しさ。十五か十六でこんな小細工を弄する奴は
何となくひね媚びていかにも器の小さい感じがする。

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 08:22:16.90 ID:h6DMzvzQ
>>34
近い時代に元ネタあったんだな

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 09:08:18.69 ID:5DKbWtYD
>>36
出てくる人間の時代は近いけど、三成の三献茶の逸話の初出が1716年の『武将感状記』なので、
お話として改変されたのは『茶道四祖伝書』が出てから7,80年後だな。

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 10:18:49.11 ID:0AogUSfh
昔の人って平気でパクるよね

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:07:31.24 ID:696jtPWY
まあ、その辺もいい加減だったというかOKな時代なんかな
そもそも読んでる人も限られてるだろうし

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:28:38.53 ID:Hb5MJrxT
>>35
十五歳は成人だぞ

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:38:59.74 ID:5DKbWtYD
>>40
>>35は昔光栄が出した『信長の野望覇王伝・武将FILE』の石田三成評の一部。ぼろっくそで有名

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 12:10:14.52 ID:Hb5MJrxT
>>41
(TT)

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 12:25:31.08 ID:h6DMzvzQ
>>37
そんなに時代空いてたんだ、当時なら誰にもバレなかったろうなぁ
むしろそんな前の時代のネタよく引っ張ったもんだ

茶の湯の歴史について

2018年09月24日 17:40

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/23(日) 22:22:50.64 ID:hsEHnj/y
東山の相公(足利義政)は茶を以って楽とし、数寄の標式を定め、名画墨跡を壁に掛け、珍器宝壺を
座右に陳ね、専ら閑静を以って本とした。これが数寄の会として世の中でもてはやされ、世代を超えて
これを楽とした。

信長秀吉の時代になると、幕下の武将それぞれ数寄を学び、軍旅の仮初の暇にこれを以て風流とした。
珠光(村田珠光)は南京(奈良)の僧にて茶の湯に名誉を得た。当時の人は皆珠光の茶の湯に
参加することを以て栄誉とした。その門人である、宗悟、宗珠、善法と言った人々は、それぞれ数寄に
長じた。

武野紹鴎、初名は仲材といい和泉堺の産まれであった。武田信光の後胤である。祖父仲清は応仁の乱で
討ち死にし、父信久四方に流浪し、ついに和泉堺に居住した。紹鴎は三条右府(三条西実隆)に侍り、
因幡守となり、後に堺に隠居して数寄を以って楽とした。大徳寺の右岳に参して一閑居士と号し、大黒庵と
言った。

千宗易は元は田中氏にて室町殿の同朋千阿弥の筋故に、千を以て名字とした。数寄の道が世に専らのこと
彼の時代に盛んとなった。信長秀吉は彼を恩遇した。天正の行幸において、秀吉は数寄の名人に官位を
与えた。しかし宗易はこれを辞して受けず、居士号を受け、大徳寺の右渓に命じられて利休居士と号した。
また自ら抛筌斎と名乗った。この頃の諸侯、幕下の近士は居士を以て師として数寄道を嗜み、家々に数寄屋を
立て、座布を囲んで茶立所とし、宇治の園を盛んにして芳茗の可否を争うこと、この頃より専らであった。
浅井亮政(原文ママ)は居士に就いてこの道を聞き、居士を招請して床の内に秘蔵の妾を飾り、
明智光秀は居士を招いて床の内に片輪車という刀を置き、各々その道を信じてその誠を顕し、
己が家の秘物を以て数寄屋に飾った。

居士は大徳寺の山門を修造して、己の像にあしだを履かせ山門の上に安置した。しかし秀吉はその不義を憎んで
ついに傷害し、山門に置かれた像は一条の戻り橋に磔にして天下に示した。

その後古田織部正重然、元美濃の生まれで秀吉に仕え武勇の功も有ったが、利休に従って数寄道を得、
世の中は以て彼が伝える事を学んだ。

本来数寄道は東山相公が老いて東山に隠居し、義満の北山の風流を慕い写した故に、法服を着て法味を
静かにした、隠居放言の趣味であり、風流なことは風流であるが、大丈夫にとって必ずしも必要な道ではない。
況や古画名筆を求めて名のある器を欲せるなど、その数寄の道の中でも即座に卑しいこととされる。
しかし現在の風流であり、これをむやみに嫌うのも風俗にすたるという物であり、良く用いればまた
底から得るものも有る。そういう事であるから、現代まで廃らず続いているのだ。

(士談)

茶の湯の歴史について


「八重葎」「天の原」

2017年11月27日 19:06

千利休   
462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/27(月) 18:58:54.02 ID:mIO4OdMo
>>286
まとめの9276「床の間の掛軸の歴史。および八重むぐらの色紙の事」
に関連した話、井原西鶴「西鶴諸国ばなし」巻5「挑灯に朝顔」より後半部
(前半部は茶の湯を知らない客人が昼前に『朝顔を見せてくれ』と訪ねてきたため、
怒った亭主が芋の葉を見せたところ客が気づかないままだった、という話)

むかし茶の名人が茶の湯を出したときに、庭の掃除もなく、庭木の梢も枯れ葉をつけたまま
秋の景色をそのままにしておいたところ、客もすぐに心付いて
「さてはなにか珍しい道具を出すのだろう」と思っていたら、案の定、床の掛け軸に
「八重葎茂れる宿(のさびしきに、人こそ見えね、秋は来にけり)」の古歌がかけられていた。
またある人が唐物(中国式)の茶の湯を望んだところ、諸道具がすべて唐物を飾られていた中に
掛け軸だけ、阿倍仲麻呂が詠んだ「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にい出し月かも」
の歌が掛けられていた。
客は皆感心して「この歌は仲麻呂が唐から故郷を思って読んだ歌だ」と主人の作為に感じ入った。
「客もこのような人であってこそ、主人も茶の湯を好んでする甲斐があるものだ」とある人が語った。

この話の元ネタは「槐記」享保十三年3月二十二日の条でその記事だと
「八重葎」の方は利休が客人(もし9276の話に関連してたとすると松永久秀が主人となる)
「天の原」の方は利休が秀吉を招待した時の話となっている

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/27(月) 19:01:38.67 ID:mIO4OdMo
ついでに「槐記」だと
利休に主人が「八重葎」の掛け軸を掛けて茶を出したのが歌の掛け軸の始まりとする