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数寄に親も子もない

2019年06月25日 15:45

千利休   
192 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/24(月) 20:14:25.64 ID:WVVwlE18
千少庵千利休の養子で娘婿。千宗旦の父)が小座敷に突上げ窓を二つ明けた。利休はこれを見て
「ありえないことだ。燕が羽を広げたようで見られたものではない。塞ぐように。」と言ったため、
少庵はその日のうちにこれを塞いだ。利休に見せると「これでよい」と答えた。

ところが後日、利休の小座敷に、少庵のものと同じように突き上げ窓が二つ明けてあった。
「これはどういうわけですか」と少庵が尋ねると、利休は言った
「数寄に親も子もない。私が二つ明けるために塞がせたのだ。」

(茶道四祖伝書)

えぐいな利休



193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 08:38:11.01 ID:XDrCfgpn
>>192
ジョブスの逸話思い出したわw

194 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 11:15:08.85 ID:COqvQzwm
利休はとある茶師を大抜擢していまも続いてるブランドに押し上げたけど、そこにも裏話があったりするのかな?

195 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 23:29:17.61 ID:H/k4ezxE
あそこは当主の弟上林竹庵が伏見籠城に参加討死して
幕府の庇護も得たのも大きいんじゃないの

196 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 23:35:41.04 ID:93p5wq77
利休は唐物至上主義の海外厨だしな

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/25(火) 23:36:17.61 ID:6D0v9SUX
>>192
こういう奴だから切腹させられるハメになったのかもな
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石田三成の「三献茶」の元ネタがこれ

2019年06月22日 15:05

千利休   
34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 00:16:16.65 ID:5DKbWtYD
利休が法華寺で「喉が渇いているので茶がほしい」と所望された所、新発意(小僧)が大服(量が多い)に
茶をぬるく点てて出した。「非常に良かった、もう一服」と利休が再び所望すると、今度は前より少し熱く、
少し小服にして出した。するとさらに「いま一服」と所望されると、小僧は熱く小服にして出した。

利休は感心して「さてさて、気の利く人だ。彼を私に遣わして下さい、数寄を教えたい。」と言った。
そして点前そのものよりも、心を数寄にすることが肝要だと言って召し使った。
この小僧がのちの、京の喜斎(土屋喜斎)である。

(茶道四祖伝書)

石田三成の「三献茶」の元ネタがこれ



35 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 01:01:16.28 ID:RmuGq9nn
何たる小賢しさ。十五か十六でこんな小細工を弄する奴は
何となくひね媚びていかにも器の小さい感じがする。

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 08:22:16.90 ID:h6DMzvzQ
>>34
近い時代に元ネタあったんだな

37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 09:08:18.69 ID:5DKbWtYD
>>36
出てくる人間の時代は近いけど、三成の三献茶の逸話の初出が1716年の『武将感状記』なので、
お話として改変されたのは『茶道四祖伝書』が出てから7,80年後だな。

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 10:18:49.11 ID:0AogUSfh
昔の人って平気でパクるよね

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:07:31.24 ID:696jtPWY
まあ、その辺もいい加減だったというかOKな時代なんかな
そもそも読んでる人も限られてるだろうし

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:28:38.53 ID:Hb5MJrxT
>>35
十五歳は成人だぞ

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 11:38:59.74 ID:5DKbWtYD
>>40
>>35は昔光栄が出した『信長の野望覇王伝・武将FILE』の石田三成評の一部。ぼろっくそで有名

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 12:10:14.52 ID:Hb5MJrxT
>>41
(TT)

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/22(土) 12:25:31.08 ID:h6DMzvzQ
>>37
そんなに時代空いてたんだ、当時なら誰にもバレなかったろうなぁ
むしろそんな前の時代のネタよく引っ張ったもんだ

茶の湯の歴史について

2018年09月24日 17:40

298 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/23(日) 22:22:50.64 ID:hsEHnj/y
東山の相公(足利義政)は茶を以って楽とし、数寄の標式を定め、名画墨跡を壁に掛け、珍器宝壺を
座右に陳ね、専ら閑静を以って本とした。これが数寄の会として世の中でもてはやされ、世代を超えて
これを楽とした。

信長秀吉の時代になると、幕下の武将それぞれ数寄を学び、軍旅の仮初の暇にこれを以て風流とした。
珠光(村田珠光)は南京(奈良)の僧にて茶の湯に名誉を得た。当時の人は皆珠光の茶の湯に
参加することを以て栄誉とした。その門人である、宗悟、宗珠、善法と言った人々は、それぞれ数寄に
長じた。

武野紹鴎、初名は仲材といい和泉堺の産まれであった。武田信光の後胤である。祖父仲清は応仁の乱で
討ち死にし、父信久四方に流浪し、ついに和泉堺に居住した。紹鴎は三条右府(三条西実隆)に侍り、
因幡守となり、後に堺に隠居して数寄を以って楽とした。大徳寺の右岳に参して一閑居士と号し、大黒庵と
言った。

千宗易は元は田中氏にて室町殿の同朋千阿弥の筋故に、千を以て名字とした。数寄の道が世に専らのこと
彼の時代に盛んとなった。信長秀吉は彼を恩遇した。天正の行幸において、秀吉は数寄の名人に官位を
与えた。しかし宗易はこれを辞して受けず、居士号を受け、大徳寺の右渓に命じられて利休居士と号した。
また自ら抛筌斎と名乗った。この頃の諸侯、幕下の近士は居士を以て師として数寄道を嗜み、家々に数寄屋を
立て、座布を囲んで茶立所とし、宇治の園を盛んにして芳茗の可否を争うこと、この頃より専らであった。
浅井亮政(原文ママ)は居士に就いてこの道を聞き、居士を招請して床の内に秘蔵の妾を飾り、
明智光秀は居士を招いて床の内に片輪車という刀を置き、各々その道を信じてその誠を顕し、
己が家の秘物を以て数寄屋に飾った。

居士は大徳寺の山門を修造して、己の像にあしだを履かせ山門の上に安置した。しかし秀吉はその不義を憎んで
ついに傷害し、山門に置かれた像は一条の戻り橋に磔にして天下に示した。

その後古田織部正重然、元美濃の生まれで秀吉に仕え武勇の功も有ったが、利休に従って数寄道を得、
世の中は以て彼が伝える事を学んだ。

本来数寄道は東山相公が老いて東山に隠居し、義満の北山の風流を慕い写した故に、法服を着て法味を
静かにした、隠居放言の趣味であり、風流なことは風流であるが、大丈夫にとって必ずしも必要な道ではない。
況や古画名筆を求めて名のある器を欲せるなど、その数寄の道の中でも即座に卑しいこととされる。
しかし現在の風流であり、これをむやみに嫌うのも風俗にすたるという物であり、良く用いればまた
底から得るものも有る。そういう事であるから、現代まで廃らず続いているのだ。

(士談)

茶の湯の歴史について


「八重葎」「天の原」

2017年11月27日 19:06

千利休   
462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/27(月) 18:58:54.02 ID:mIO4OdMo
>>286
まとめの9276「床の間の掛軸の歴史。および八重むぐらの色紙の事」
に関連した話、井原西鶴「西鶴諸国ばなし」巻5「挑灯に朝顔」より後半部
(前半部は茶の湯を知らない客人が昼前に『朝顔を見せてくれ』と訪ねてきたため、
怒った亭主が芋の葉を見せたところ客が気づかないままだった、という話)

むかし茶の名人が茶の湯を出したときに、庭の掃除もなく、庭木の梢も枯れ葉をつけたまま
秋の景色をそのままにしておいたところ、客もすぐに心付いて
「さてはなにか珍しい道具を出すのだろう」と思っていたら、案の定、床の掛け軸に
「八重葎茂れる宿(のさびしきに、人こそ見えね、秋は来にけり)」の古歌がかけられていた。
またある人が唐物(中国式)の茶の湯を望んだところ、諸道具がすべて唐物を飾られていた中に
掛け軸だけ、阿倍仲麻呂が詠んだ「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にい出し月かも」
の歌が掛けられていた。
客は皆感心して「この歌は仲麻呂が唐から故郷を思って読んだ歌だ」と主人の作為に感じ入った。
「客もこのような人であってこそ、主人も茶の湯を好んでする甲斐があるものだ」とある人が語った。

この話の元ネタは「槐記」享保十三年3月二十二日の条でその記事だと
「八重葎」の方は利休が客人(もし9276の話に関連してたとすると松永久秀が主人となる)
「天の原」の方は利休が秀吉を招待した時の話となっている

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/27(月) 19:01:38.67 ID:mIO4OdMo
ついでに「槐記」だと
利休に主人が「八重葎」の掛け軸を掛けて茶を出したのが歌の掛け軸の始まりとする



秀次の趣向

2017年10月20日 16:31

330 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/19(木) 22:36:35.75 ID:5AVF+jbi
関白豊臣秀次が、筑紫において藤原定家の書いた小倉の色紙を手に入れた。
これにより座敷を改め、色紙開きの会を開いた。
千利休を上客として、相伴3人という会であった。

頃は卯月(4月)の二十日あまり。明け方の事であった。
人々、座敷に入ったが。そこには明かりも無く、闇の中に釜の沸く音だけが聞こえ、
いかにも静かな様子であった。

「これは一体どんな御作意であろうか」

その場の人々がそう思っていたその時、利休の後ろの明かり障子が、ほのぼのと明るくなった。
不思議に思い障子を開けると、月の明かりが座敷の内にほのかに入ってきた。
さればとにじり寄って見ると、小倉の色紙がかけ物として飾られていた。その歌は

『時鳥 啼きつる方をながむれば
  ただ有明の月ぞ残れる』

誠におもしろき趣向にて、その時利休をはじめとした人々も、「さても名誉不思議のご趣向かな」と、
同音に感じ入ったという。

(今古雅談)



手取釜

2017年10月18日 18:42

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/18(水) 05:30:04.78 ID:xX5oFGGB
天正14年、豊臣秀吉が関白であった頃、京の旧三条通白川橋より東5丁目に良恩寺という浄土宗の
寺があった。この寺の傍らに年老いた隠者が在り、粟田口の善輔と呼ばれた。(善法、または善浦とも云う)

この翁の住居は、藁葺き屋根に四本柱の四畳半一間にて、床の間もなく、土間に爐を切り円座を敷いて
賓主の座を分かち貴賎の別なく茶を振る舞い、物語などして、昼夜の分ち無く楽しんでいた。
また食料が無くなれば、一瓢を鳴らして人の施しを乞うた。
人々は彼の人柄を知っていたので、皆が金銭、米、布を恵んだ。
そうして物のある間は家を出ること無く爐にかけた手取釜にて粥を炊き、また湯を沸かして茶を喫した。
その湯が湧く時は、彷仏松濤の声を吟じて一人笑った。
また「手取釜 おのれは口がさし出たぞ 雑炊たくと人に語るな」など戯れることもあった。

秀吉がそのような話を聞き、利休に「その手取釜を得て茶を点てよ」と命じた。
利休は善輔の元へ行き、云々の命有りと伝えた所、善輔は聞くやいなや感情を損じ

「この釜を奉れば、他に代わりは無い!いわれの無い釜であるからとそのようにぞんざいに言われるとは
思いの外である!」

彼はすぐにその釜を、そのあたりの岩に投げつけ打ち砕き
「あらむつかし 阿弥陀が岸の影法師」
と呟いた。

利休もこれに呆れ果て「秀吉様は短期であるし、いかが致すべきか」と思い煩ったが、今更どうにも出来ず
帰ってありのままに申し上げると、秀吉は却って機嫌よく

「その善輔とやらは真の道人である。彼の持ち物を所望したのは我が過ちであった。」と、
その頃伊勢安濃津に越後という名のある鋳物師があり、彼に命じて、利休が見たままのもの2つを
模造させ、一つは善輔に贈り、もう一つは秀吉自らが蔵した。

その釜は善輔が没した後は良恩寺に納まった。これを見た人の話によると、その高さ五寸五分、
底廣さ七寸、口径三寸二分、弦は蝶番で、蓋から釜の腹にかけて木の葉を広く鋳つけており、
おおよそ今の鉄瓶と言えるものであった。
桐の箱に入れられ、箱書きには利休居士の手で『手とれ釜』と記されていた。
またこの釜に添えた、秀吉の文書が有り、そのその所に曰く

『手取釜並びに鈎箱に入れ、鎖まで念入りに出来、悦び思し召し候。尚山中橘内、木下半介に申すべき也

  十月十一日
                                 太閤(朱印)
                                  田中兵部大輔』

この文章は善輔に関係のないものだが、この釜に縁があることから、後に同寺に寄付されたものだろう。

なお、この釜の後伝とも言うべき話として、細川玄旨法印(幽斎)もこの釜を写させようと先の越後に命を
伝えたが、これに越後

「御所様(秀吉)の命にて、ただ2つ鋳たる物ですから、また同じ形に鋳るというのは、憚りがあります」

と、これを辞した所、玄旨も「それは理である」と戯れ歌を詠み、

「ならばこの歌をその釜に鋳付けよ、これが同じ物ではないという証拠である」

そう言って鋳させた。その狂歌は世にあまねく伝わる
『手とり釜 うぬが口よりさしい出て これは似せじゃと人に語るな』

こちらの釜は、今も細川家に秘蔵されているという。

(今古雅談)



利休の才

2017年10月06日 17:25

千利休   
286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/05(木) 19:34:10.18 ID:8zUhQpLS
千利休は茶について、武野紹鴎に学んだ。

紹鴎はある時、利休の才を試みようと、密かに人に命じてその庭を掃除させ、
その後、利休に「わが庭を掃除せよ」と命じた。

利休が紹鴎の茶亭の前に行くと、地面は拭うがごとく掃き清められ、わずかの塵すら留めず、
木々の緑を鮮やかに照らしていた。そこには利休が手を加える所はなかった。

しかし利休は木々の間に入り、一本の松を揺らすと、落ち葉が風に翻り、点々と地に落ちた。
これによって風情、一段と増した。

そして利休は紹鴎に伝えた
「謹んで命を完了しました。」

武野紹鴎はこれを見て、利休の奇才に感じ入り、茶における様々な秘訣を伝えた。
こうして利休は終には、茶博とまで呼ばれるに至った。

(今古雅談)



287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/05(木) 19:45:40.11 ID:M/gUdZAy
いいね

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/05(木) 20:39:59.42 ID:W5QFadg9
むかし、掃除した浜辺にわざわざゴミを撒き散らしたテレビ局がありましてね
それを回収する様子を放映してましたな

趣向はまったく違うがそれを思い出したw

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/05(木) 20:41:45.09 ID:f5o6L3Z6
茶亭の前に行くとすでに掃き清められ手を加えるところがなかった利休は
松の木を揺らすなど激しい威嚇行動をとった

290 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/10/06(金) 15:47:25.82 ID:bAHcXAIl
ゴリラかよ
たしか六尺の大男だったよな

松井康之が利休最後の手紙を

2017年06月05日 21:10

984 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/04(日) 21:10:27.63 ID:1YzJkvJp
トーハクの茶の湯に最終日に行ってきたが
実物の伊賀焼き花入れの生爪見た。
松井康之が利休最後の手紙を受け取ったというのも初耳だった



985 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/05(月) 02:50:22.57 ID:DEb+6auF
松井康之は利休←→忠興の身分差が大きいから形式上は間に居て取り次いでた
その一方で個人的にも利休と親しかった様子

986 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/05(月) 16:24:11.36 ID:bu89Ei3i
天皇から号もらってもダメなもんはダメか

「宗易の手前によく似ている」

2016年09月02日 19:57

千利休   
141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/02(金) 03:03:00.96 ID:solwGPfs
千利休の生害後のある時、太閤は風炉の形を何かと御好みであったのだが、
「このような時は、利休めを殺して事を欠く」と、仰せになった。

これを権現様(徳川家康)と利家公は、以前から宗易のことを不憫に御思い
であったため、良い機会と思し召し、少庵と道安の御許しの御取り成しを
なされ給い、早速の御許しを蒙った。

その後、太閤は道安を御前へ御呼びになり、4畳半で茶をたてさせて上覧に
なり、「宗易の手前によく似ている」として、道安は御感心を受けた。

――『茶話指月集』



思えばそれが永遠の別れだった

2016年08月15日 19:33

千宗旦   
995 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/08/15(月) 16:59:24.22 ID:h0oOoPki
宗易(千利休)が太閤の命に背く頃、予(千宗旦)が大徳寺から京へ出る
時に、山門の前で利休が乗り物に乗って内へ入るところに出会った。

利休は乗り物のすだれを上げて挨拶なさった。思えばそれが永遠の別れ
だったのである。

――『茶話指月集』




そのような嗜みで侘びがなろうか

2016年07月24日 16:30

千利休   
913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/24(日) 04:12:28.94 ID:Ny5WpbVL
宗易(千利休)は花の頃(春)に、ある侘(茶人)を伴って東山へ参られ、
道中でその人に「その方は宿に釜を仕掛けて出なさったのか?」と問うた。

これにその人は、「今日は早朝から御供いたすので仕掛けておりません」
と、答えた。これに宗易は、

「いやはや、そのような嗜みで侘びがなろうか。これから帰って、仕掛けて
いらっしゃい。晩に誰が寄るかも分かりませんよ?」と、言った。

――『茶話指月集』




このような物数寄を

2016年07月16日 17:47

千利休   
868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/16(土) 02:52:37.83 ID:+ouk6C8f
ある時、有楽公(織田長益)が千利休のところへお訪ねになった際、
折りしも茶入に古い蓋を取り合わせていたのだが、そのうちの

大ぶりな蓋がしっかりと合わなかったのを、「かえって趣がありますね」
と言って、利休は有楽へ見せ申した。

その後、有楽公が茶入に件の通り、古い蓋を取り合わせて利休へ
御見せになると、利休は、

「このような物数寄(趣向)を一概に良しとお思いになったのですか?
この茶入には、新しい蓋が良く合うものですよ」と、言った。

――『茶話指月集』




千利休はともすると

2016年07月07日 12:10

千利休   
906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/04(月) 02:37:27.02 ID:pVjbXeGL
千利休はともすると、「今日の客は京衆じゃ、肩衝に茶をとれ。明日は
堺の人じゃ、棗に茶をはけ」と、言った。

附:その時期、京では道具のみを興じ楽しみ、茶湯は堺に及ばなかった。
天正の末になり、茶湯は京で盛んになって、堺では衰えた。

――『茶話指月集』



その後は落ち葉が積もって

2016年07月03日 13:06

千利休   
903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 12:42:28.06 ID:9YVki1xp
さる方の朝茶湯に、千利休やその他の人がやって来た。その時、朝嵐に椋木
の落ち葉が散り積もって、露地の面影はさながら山林のような心地がした。

利休は後ろを顧みて、「どれも趣がある。さてしかし、亭主は無功であるから、
きっと掃き捨てることであろうな」と、言った。

案の定、後で露地に入ると一葉もなくなっていた。その時に利休は、「おおよそ
露地の掃除は朝の客であれば宵に掃かせ、昼ならば朝に、その後は落ち葉が
積もってもそのまま掃かないのが、功者である」と、言った。

――『茶話指月集』



904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 12:51:34.89 ID:lmBc4xDi
有名な禅僧か茶人の逸話で小僧がきれいに掃いたあとでわざと木を揺らせて落ち葉を落として
「こっちのほうが風情がある」って言った人がいたと思うが、利休だったかな

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/03(日) 17:07:10.78 ID:xmSFrZhE
ただの負けず嫌いやん

北野大茶会の事

2015年06月21日 14:10

209 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/21(日) 09:47:21.54 ID:nTQPsGUx
天正16年の秋の末(実際には、天正15年10月1日)、豊臣秀吉は北野の社において大茶会ということをされた。
秀吉はもとより茶の湯を好み、宇治の里の茶を貴び、唐の壺の形の良い物を賞翫していた。

その頃、その道に名のある千宗易(利休)といって、和泉国堺の物頭が出頭し時めき、彼にその道を学ぶ者
数を知れなかった。
上の好むことに下が従うのは世の習いであるから、その様は言わずと知るべきであろう。

北野の御社をめぐる馬場の左右、松の木の下、梅の木陰、岩の狭間、千尋の陰などに、茶屋を作るべき
場所を計らい、茶の志ある人々に与えて、それぞれの工夫に従い茶屋を作った。
あるいは茅葺きに柴の垣して縄のすだれ、竹の網戸、あるいは苫葺きに檜垣して渡し、あるいは
蘆葺きに葦の垣、或いは篠葺き、様々にしつらえ、岩を鼎にして藁のむしろを敷き、松の下枝より
縄をおろして、茶釜を作った上、瓶を割って水をたたえ、藁札を敷くなど、それぞれの心々のいとなみ、
言の葉に表してしまえばその多くを漏らしてしまう。

彼らは、伝持してきた墨跡、花瓶、茶壺、花入れ、水挿し、茶碗、茶杓、様々な茶の器物、唐物大和の
値高き物ども、ことのき面々取り出し、この会のためにと出してきた。
これはかねてから企画し世に宣伝された会であったので、遠き国のものまで、この道に心傾ける者は
我も我もと上り集い、おおよそ千人余りと成った。

秀吉は拝殿を屏風で囲い、その頃収集した茶の器物を取り出し、その道に長ぜる者5人にて、
5ヶ所に座を構えて、今回この会に参加した輩、6,7人ずつ組にして、残らず茶を飲ませた。

その間に秀吉は作り並べた人々の茶屋などを見まわった。経堂の傍らに、地ぶきの茶屋を構え、
松かさを燻べ、炭窯ように煙の立ち上っている所があった。
この前まで行って見ると、亭主は50ばかりの法師で、さすがこの道の数寄と見える人物であった。
「茶はあるか?」と尋ねると、「持たぬ」とふくべに麦こがしを入れて、松の枝に掛けてあったのを
取り出し献ずると、秀吉も非常に感じ入った。

秀吉は終日このように茶屋を見て廻り、酉の刻(午後6時頃)聚楽に帰って行くと、集った人々も、
日数をかけて心を尽くし、巧みにこしらえた茶屋などを皆取り払って元のように戻し、退散した。

この会は後々まで人の口ずさみに先ず出てくる話題であった。
(豊鑑)


豊鑑より、北野大茶会に関する記事である。




床の間の掛軸の歴史。および八重むぐらの色紙の事

2015年05月18日 18:22

千利休   
31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/17(日) 19:52:46.25 ID:5mtJsH7g
近世では、僧俗ともに床の間と呼ぶ書院座敷には、必ず書画などの掛け物を掛けるが、これは古には、
押板といって禅室に始まった。
京鎌倉において、臨済宗を崇敬している人々が、和尚に頼み本則を書いてもらうことを乞い、和尚は
一千七百則の要文を二三五字で書いて出した。これを押板に貼り付けて壁に掛けたのを、掛け字と呼び、
その字の心より悟入の工夫をしたのである。

禅室に入るには、睡眠を第一に戒められたため、眠気をもたらさないため芳名香茶を飲んで参禅したため、
自然と茶の一道が起こった。その後、征夷大将軍であった足利尊氏が禅学を尊んだため、
茶のことも徐々に盛んとなり、佐々木道誉、高師泰などが茶に耽って、掛け字も異国に求めた。
虚道の墨跡はこの時から世の中で賞翫され、天下第一の墨跡と成った。
後醍醐帝も茶を翫び、吉野山にて茶器を作らせられたのが、金輪寺の茶入れである。
虚堂を掛ける時に、必ず金輪寺の茶入れを置くようにするのは、一伝のあることなのだとか。

また、床の間に絵を掛ける習慣は、将軍足利義政より始まったことである、
当時は皆、唐宋の名画を用いた。馬遠玉子昴舜挙東坡などの類である。
日本の書画を初めて用いたのは、三好左京大夫(義継)が将軍義輝の御成の時に、新たに
狩野元信に書かせたものだという。
その後、阿倍仲麻呂の、小倉百人一首にある天の原の歌を色紙にしたものを掛けたところ、
人々大いに賞賛した。これが本朝の墨跡を用いるものの始まりだという。
これ以後、好事家の人々は藤原定家の小倉百人一首の色紙を、千金に変えて賞翫するようになった。

松永久秀は八重むぐらの色紙を所持し、これを「茂るの宿」と号し秘蔵していた。
これを所望する人々は多かったが、誰にも与えなかった。
ところが、千利休の茶道に掛ける志を久秀が感じて、彼に与えた。
これは利休の秘蔵第一の品とされていた。

その頃、大徳寺高月和尚の老父で、宗及という人が居て、この色紙をかねてから執心していたが、
利休はそのことを少しも知らず、ある時、かの茂の宿を掛けて宗及を招いて一服を進めた。
宗及が茶室に入ってこの掛け物を見ると大いに驚き、気鬱のあまり茶を飲むことも出来ず、
そのまま自分の家に帰って嘆き臥した。

その理由を利休は聞いて哀れに思い、翌日、色紙を手ずから持参し宗及に取り伝えたという。
やさしき心である。
(明良洪範)




千利休切腹について

2015年02月26日 18:44

千利休   
463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/26(木) 03:42:39.11 ID:ZGauxPYE
その頃、太閤秀吉公は茶の湯の聖であった宗易(千利休)を殺害された。彼は堺の町人であったが、
秀吉公が茶の湯の道をお好きであったため、彼を師として待遇した。そのため上中下まで彼を持て囃すこと
一通りではなく、当時、茶の器物の良し悪しは、彼の言う基準に従い、それに合致すれば価値が上がるといった
状況であったため、この宗易は非常に富み、その富裕は太守にも劣らないほどであった。

そうしたうちに驕りを極め、彼は自分が心惹かれた器物であれば、悪しきものでも良いとし、
新しいものでも古いと言って価値を上げた。

秀吉公はこれを聞くと、宗易を「国の賊である」と堺の津に下し、頸を斬られた。
驕れる者は今も古もこういうものである。これを鑑み、今の人は戒めとするべきである。
後世の人もまた、戒めとしなければ、浅ましいことになるだろう。
まことに慎むべきことである。
(豊鑑)

豊鑑より、千利休切腹についての記事である。




464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/26(木) 07:03:36.42 ID:NWmgorl/
>>463
この作者には数寄心がなかったんだろうな
利休が自分の好みのものを高く評価するのは当然じゃないか

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/26(木) 09:59:54.61 ID:AQQtQcWI
多聞院日記も同様の事を書いてるし当時の公表されていた罪状がそれなんだろ

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/26(木) 10:59:35.96 ID:v2t4tpHM
罪状の一つとされたのが僧籍にありながら商売で暴利を得た売僧の疑いですし

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/26(木) 13:19:40.63 ID:ex+zsSMP
茶器製作には何かと金がかかるのよ
よいものは一国の価値があるからの

468 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/26(木) 15:06:46.02 ID:xH4b2Rwf
忠勝「茶の湯を好むぬるい奴らは折を見て首を刎ねるべき」

469 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/26(木) 16:36:56.76 ID:JikVaSUY
政宗「ならぐつぐつの熱いのを立てようか?」

私は身体小兵ですから

2014年10月04日 18:51

千利休   
445 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/03(金) 19:37:06.50 ID:M8uTy27D
千利休は茶道の宗匠であり、その道に有る者で、彼を尊敬しないものはなかった。
太閤秀吉を始めとして、高貴の人も多く門人があった。中でも瀬田掃部(正忠)と言う人は
真の弟子の式を伝授された人であった。

ある時、この瀬田掃部が利休方に招かれ、茶の湯会席も過ぎ利休が棚に柄杓を置いているのを、
瀬田はしきりに感心していた。これが気になった利休は

「何をそんなに感心しているのですか?」

と尋ねると、瀬田
「今日の柄杓は、いつもの格好よりも勝れて見えます。」

「勝れている?それはどう言う所が勝れているのでしょうか?」

「今日の柄杓はいつもより5厘(約1.5ミリ)ほど短く見え、その格好は至極宜しく、
斯様にこそありたく思いました。」

その後、瀬田の茶会に利休が招かれた。茶の湯が済んだ後、利休はこのように問うた

「今日のあなたが用いた柄杓は、随分短かったようですが。」

「はい、先日宗匠の柄杓が短かったのが、随分格好宜しく見えましたので、私の柄杓も短くしたのです。」

これを聞くと利休はため息を付き、
「貴殿は茶道の本意を心得ていると思っていたのに、未だ心得はないようです。
私は身体小兵ですから、普通の柄杓では身に余る様に思って、それ故短くしたのです。
あなたは身体大兵ですから、長くしてこそ然るべきなのに、短くする道理があるものですか。
さてさて、貴殿は存外に茶道未熟です。」

そう語ったという。
(明良洪範)

>私は身体小兵ですから → 千利休の推定身長180cm
瀬田掃部さんはどれだけでかかったのだろうか。



446 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 06:55:28.48 ID:4MFqRPFY
身長高いだけで肉は付いてないのでは

447 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/10/04(土) 12:15:55.97 ID:KlJsq/ex
千利休はデブだったのか

茶入が高値になったのも

2014年04月23日 18:52

49 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 19:47:01.19 ID:+iMs8WN/
茶入が高値になったのも、ここ近来の事である。この老人(著者)が少年のころは、
世上おしなべて名物というのは、玉堂という茶入と、利休の円座肩衝と言うものだけであった。
しかしこれらも、何程という物でもなかったのに、今では無類の名物のように言われている。

その後ある時、相国寺にあった、名を相国寺という唐焼きの肩衝を、古田織部が黄金1枚で求めた。
これが茶入が高値となった始まりである。しかし程なく加賀の前田家に千五百貫で売った。
これは当時、古田織部が間悪く金が無く、借金の返済をせつかれた為、その借金を支払うために
売ったのである。

道哲親円浄坊が取り次いで、前田家より代金を持ってきた時、この私も織部方に居合わせていた。
黄金60枚と、蓮華王の茶壺をひとつ持って来た。壺は織部の方から所望したものである。

円座肩衝は今は江戸にあるが、明暦の大火の時に消失したそうである。

(老人雑話)




50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 22:38:13.61 ID:oQ50ob0w
戦国期の茶器の名物って、ふ~ん、この程度のもんがね~
といいたくなるような代物ばっかりという印象。

江戸時代とは工芸のレベルが違いすぎるんで、
どうしても稚拙に見えちゃう。

もちろん、戦国期でも明のものすごい陶器・磁器は入っていたんで、
あえてああいうものを名物扱いした面もあるんだろうけどさ…

51 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 22:51:25.83 ID:lz5MHbul
おいおい、いくらなんでも知ったかぶり過ぎだろ

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 23:18:01.33 ID:QApH+8kg
これは酷い

53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 23:35:46.65 ID:USbTqCmw
>>50
工芸品としては曜変天目(特に稲葉天目)が最高峰だろうけが
茶を飲むなら、工芸品としては大した事ない楽の黒茶碗の方が
濃茶の緑が映えておいしいはず

54 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 23:46:28.39 ID:zVDrE6OV
確か利休の頃までの茶は黄褐色だった様な

55 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 00:00:19.02 ID:uTXUlDps
日本では茶器の来歴が一番重要だからね。
大陸ではただの雑器でも、将軍や大名、大商人が
これは良いものだと言い、受け継がれていくと名器に化ける。

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 00:16:38.86 ID:ruw1rFiG
茶器バブルは信長公の頃頂点に達し、焼き味噌殿が天下取って崩壊

57 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 00:22:11.32 ID:dqLsp4XZ
この前の逸話であったように金銀の流通が多くなればそれだけ貴重品の物価も上がるのでは

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 00:29:17.28 ID:mQzjKopQ
今日、有田の天目が\1000で無造作に積まれてた

59 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 00:34:16.85 ID:rBfI8Yi+
気に入ったのを買ってらっしゃい

60 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 11:47:08.23 ID:tlFClwQp
有田って磁器だよな?
天目って陶器だけど?
もうちょうましな嘘つこうぜ

61 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 14:25:58.47 ID:3Ecy/FsP
有田陶器市来れば有田焼買い放題だぞ

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/23(水) 15:47:19.85 ID:eaAIOIIi
織部のほうがいいな。黒は重々しくなってしょうがない

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/24(木) 00:58:31.06 ID:KGiRFpVz
>>60
有田っていまも陶器だけなの?
じゃあ、有田と嘘ついて売ってるのかな

72 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/24(木) 17:39:05.58 ID:b6x5TlJJ
天目形ってかたちがあるから、
天目形してる茶碗なら磁器だろうがプラスチックだろうが天目茶碗と言っても間違いではない。
使う時は天目台っていう台にのせて、貴人にお茶を出すときや神仏へのお供えに使う。

実家は古い寺だったから色んな天目茶碗があった。
唐物もあったし、瀬戸物も染付のもあった。

[ 続きを読む ]

氏郷の悪口

2014年03月24日 19:00

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/23(日) 22:12:24.14 ID:K2Br5Xky
 細川忠興は若い頃、いつも蒲生氏郷の悪口を言い、氏郷もまた忠興の悪口を言っていた。
ある日、忠興が利休のところで「蒲生氏郷は数寄者ぶっておりますが、裏口には乗馬用の
沓や鼻紙などが散らばっています。あれでは数寄者とは呼べません」と悪口を言った。
これに対し、利休は「それでもよろしいでしょう。数寄さえしているのなら、私はそれで
構わないと思います」と答えた。
 すると、蒲生氏郷が「誰かが私の悪口を言っているようだが、その者が恥をかくのは
うれしいことだ」と言って勝手の障子を開けて姿を見せた。氏郷は「ある者が私の悪口を
言っている奴がいると、すぐに告げ口してくれたのだ」と言って大笑いした。(茶道四祖伝書)




808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/23(日) 23:17:32.39 ID:G5DfwzdQ
利休切腹の時に見送りに行けなかったのは氏郷痛恨の極み
まさか三歳如きに遅れをとるとは...

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 01:24:08.88 ID:TLRARQvY
>>807
忠興は敵作りすぎw

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 01:24:37.29 ID:gehe/ham
政宗を入れたらどんな展開になるか

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 09:59:30.24 ID:ItCHqPLh
混ぜるな危険

812 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/24(月) 10:10:10.90 ID:AR+vZZ6Z
三竦み状態に・・・なるわけないかっ

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 11:58:11.44 ID:YX1y8xVa
氏郷は政宗が苦手<特濃茶
政宗は忠興が苦手<忠利への手紙でDisり放題
忠興は氏郷が苦手<障子スパーン!「悪口聞いたぞ!」

三すくみ、いけるんじゃないか?

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 13:52:14.13 ID:gPx/6960
おもむろに現れた正則さんに均衡が崩され茶会は一気に緊迫した情勢に

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 17:55:45.81 ID:zcsYqMPk
鮭さまと幽斎先生が物理的に止めに入ります

816 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 18:34:47.58 ID:IP7z5Dzn
こっそり鬼武蔵を混ぜてみると

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 20:11:47.03 ID:CfVxZm6d
闇鍋みたいな茶会だな

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/24(月) 20:23:49.69 ID:+usZxtsG
そして宇喜多直家の参加表明により無期限延長となる茶会であった...

819 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/24(月) 20:39:23.22 ID:AR+vZZ6Z
>>816
まぁ、親指さんなら歌詠みを強引に始めて抑えこむかもしれんな~

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/25(火) 09:48:37.07 ID:1pxwgj4+
だ、弾正殿....(震え声