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大阪が社稷を失う基

2016年09月02日 19:55

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/01(木) 19:03:25.11 ID:szwZYy7K
将軍秀忠の娘(千姫)と豊臣秀頼との婚姻の沙汰有り、この執成を行ったのは加藤肥後守清正であった。
肥後守はこの当時、肥後熊本に在城して本知行70万石、御預り地24万石を支配し、誠に秀頼にとって
補佐の臣であった。

この姫君が大阪に輿を入れた後、暫くの間は天下無為の思いをなした。

このお輿入れは慶長8年7月28日という説があり、また慶長10年7月28日だったともいうが、これらは共に
妄説である。徳川家の実録によると千姫のお輿入れ慶長13年7月28日、輿添は池田輝政、浅野幸長とある。

しかしこの時豊臣秀頼は、関東(幕府)の仕方を悪み、そのため御台所とも不和であり、淀殿も後々には
対面すらしなくなった。この事は関東が、豊臣家に対する感情を悪化させる最初の出来事であった。

加藤清正は秀頼と千姫の不和を聞くと大いに嘆き、数ヶ条の言葉を以って諫言をしたが、秀頼は
全くその意見を聞かなかった。そしてこれは、大阪が社稷を失う基となったのである。

(慶元記)




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千姫とふたつの縁切寺

2014年03月18日 18:57

千姫   
766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 21:56:00.65 ID:aXhP+HHT
千姫とふたつの縁切寺

神奈川県にある東慶寺には豊臣秀頼と千姫を離縁させる際秀頼の娘・天秀尼が入寺したと言われており
もう一方の徳川(新田氏)に所縁の深い群馬の満徳寺は千姫自身が実際に入寺し、御仏に仕えたのち
無事に離縁が成ったと幕府公式では伝えられています
が、実際のところは満徳寺の方も千姫の身代わりが立てられ俊澄上人という方が入寺したようです
千姫の再婚が成ったのち、東慶寺は伽藍の再建、満徳寺は三代続けて大奥から住職が専任されるなど
彼女が二つの寺を手厚く保護していた事が窺い知れます

しかし、千姫が再婚後もあまり幸せとは云えない人生を歩んだところを見ると
神仏に頼るなら代理など立てずに足かけ三年しっかりと自ら仏門に入り禊を済ませてから再出発した方が
よかったのではと思わずにはいられません

何はともあれ徳川家康が可愛い孫娘を豊臣秀頼から離縁させるために普通の尼寺から縁切寺に
仕立て上げられた二つの寺は、江戸時代を通してその役割を果たし続けました

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 21:58:04.90 ID:aXhP+HHT
余談ですが徳川(得川)義季開祖と伝わる満徳寺には檀家が無く、徳川家歴代将軍の位牌所という事で
徳川郷450石中100石が与えられ、歴代将軍の庇護のもとに手厚く置かれましたが徳川の世の終焉と
共に廃寺となりました
世良田東照宮といい徳川家の新田の系譜に対する執着・・・もとい所縁の深さを感じるばかりです





元和九年、慶光院周清尼願文

2011年06月23日 23:24

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 00:01:42.90 ID:kMwKTiYd
昭和6年夏、三重県志摩郡浜島町において、一体の仏像の胎内から二種の品が発見された。
そのうちの一つ、願文には、このようなことが書かれてあった。


『かえすがえすこの趣、頼みたてまつり申候。めでたく、かしこ。

播磨の姫君様(千姫)にお子様が出来る度に、あなた様のお恨みの心があって、どうしたことか、差し障りの
あるように言われます。これがあなたの祟だとすれば、ご尤もなことではありますが、あなた様と播磨の姫君様は、
一度は夫婦の契りを結んだ間柄です。今後はどうかお心を入れ替えてください。偏にお頼み申します。

この上は姫君様にお子様達がお出来になって繁盛なされるようであれば、後々まで後生を弔いますから、
悔しいお気持ちをどうかお諦めになって下さい。そのために私は屋敷に秀頼様をお祀りし、ご神体として
ご自筆の書を納めます。
私の寺が存在する間は末代まで代々申しおいて、それをご神体と崇めるでしょう。

このように書きましたのは、過怠のようではありますが、後々の御為を思ってこのようにお頼みしているのです。
これからは、姫様にお子様が出来、男のお子様も女のお子様もたくさん出来てご繁盛なされるよう、どうか
守ってあげてください。
姫君様が私を頼って参られたので、このように申し上げます。

今後、お子様がご繁盛なされれば、それはあなた様のお手柄と解ります。その上私がどこであっても
申し触れまして、あなた様のお心を、生き神様と拝み申し上げます。
御袋様(淀殿)へも同じようにお願いを致します。

かまえてかまえて、姫君様へのお恨みの心はお捨てになって、お守りの神となっていただければ、
誰を頼るよりも安心です。

私も一段と忙しかったため、あなた様への供養をご無沙汰しておりましたが、どうかその事もお許しになって下さい。

かえすがえすも、ご神体としてご自筆の書を納めますので、それをご確認していただき、守り神となって
現れていただければ、いよいよ伊勢のお宮も末代まで懈怠無く盛り立てます。
是非是非ともに、姫君様がご息災で若子様姫君様共々、めでたくご繁昌いたしますように頼みたてまつり申し上げます。


元和九年九月吉日

秀頼様の御貫主     伊勢内宮 周清上人』


もうひとつの品は、豊臣秀頼自筆の『南無阿弥陀仏』の名号であった。


大坂の陣の後、千姫は姫路城主本多忠政に嫁いだ。
夫婦仲は悪くなく、一男一女をもうけたが、男子は夭折してしまった。
そして元和九年(1623)、千姫は秀頼とも親交のあった伊勢神宮の慶光院周清尼に、秀頼の供養を頼んだ。
この願文はその時のものであろう。千姫と本多忠政との間になかなか子が成せないのを、世間は秀頼の
怨念のためだと噂し、そのためこれを頼んだ、ということのようだ。

ちなみにこの願文の文章について桑田忠親氏は、「幼児を諭すような言い回し」と評した。
秀頼とも実際に親しくした周清尼の文章だけに、豊臣秀頼という人の人物像をすこしばかり垣間見せて
くれているのかも知れない。

豊臣秀頼の怨念を鎮める為の、願文についての話である。