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故主である修理亮への奉公も

2022年05月12日 18:17

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/12(木) 18:00:36.77 ID:cmrYwXvY
浅野因幡守長治の家来と成った米村権右衛門は、八十有余の年齢に及ぶまで相勤めていたが、
家中に槇尾又兵衛という町奉行役があった。この者は、元は故薄田隼人正(兼相)の近習で、
利発なる者故、因幡守が目をかけて使われていた。

ある時、長治が大阪落城の時、天樹院殿(千姫)が城中を出給いし折の事をお尋ねになった所、
槇尾又兵衛承り、世上にて取り沙汰されている通り、「本来秀頼と御一所にあるべきはずなるを、
御女儀とは申しながら、甲斐なき御事であると、その頃より申し触られています。」と言った。

程過ぎてから米村権右衛門はこの話を聞いて大いに怒り、家内の諸道具までも悉く取り片付け、
その上でこのように訴え出た

槇尾又兵衛について、去る頃、御前において天樹院様の御噂を申したと承りました。
城中を御出遊ばされた事は、豊臣公御母子助命の儀をお願い下さるようにと、大野修理亮がたって
申し上げた故であります。又兵衛が申す内容では、天樹院様に悪名を取らせます。またそのようでは、
修理亮の身にとっても大いに迷惑仕ります。

然し乍らこのような片田舎に於いて、又兵衛を相手にして裁許に預かったとしても、世上への申し訳には
なりません。

そこで、私は御暇を頂き、江戸表に参り、公儀に相願い、天樹院様恥辱の申し訳を仕らなければ、
故主である修理亮への奉公も相立ちません!」

これに、家老の山田監物、矢島若狭も大いに難儀し、内々にて様々に説得したが、米村は得心しなかった。
このため因幡守にこの事を申し上げると、因幡守は槇尾又兵衛を内々に召して
「その方の故主である隼人正は六日に討ち死にし、その家来は同日晩方に城中を立ち退いたという。
然れば、天樹院殿の儀は七日の事であるから、お前は定めて、世上一統の取り沙汰を申したに過ぎないだろう。

その方は如才無く気が利いているのだから、米村権右衛門へそれについて断りを申して合点致させ、
内々に事を済ませるのがこの方の為なのだから、宜しく取り計らうように。」

とあった故に、又兵衛は米村に対し
「近頃、無調法の至り、迷惑を仕らせました。」
との事を述べて謝罪し、米村もこれにて堪忍したという。

新東鑑



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米村が浪人した後

2022年05月10日 17:30

180 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/05/09(月) 20:37:22.33 ID:tcJFYPPt
或る本に、大野修理亮(治長)の娘は天樹院殿(千姫)に召し仕え、大野修理亮の重臣である
米村権右衛門の娘は、この大野の娘に仕えた。

大阪夏の陣後、米村が浪人した後に、折々(千姫の)御屋鋪へ行くと、衣服、黄金等の拝領物などがあった。
然るに、治長の娘が病を煩い、「生きているうちに、寺詣など致して相果てたい」との願いにより、
御暇を下され、その上に米村権右衛門を召され、
「その方が召し連れ罷り上がり、隨分に養生を致させよ。」
と、関所手形。道中の雑用等も潤沢に給わり、自身の娘とともに供して京に上がり、様々に養生を
なしたのであるが、終に相果てた。

故に火葬としたのであるが、この時権右衛門が妙心寺の方へ行っている間に、彼の娘が治長の娘を
焼く火の中に飛び入り、棺に抱きついて焼死した。

権右衛門は帰ってきて大いに驚いたが、為す術もなく、そのような状況だったので主従の骨を
分けることも出来ず、一所にして高野山へ持ち登り、骨堂に納めた。そして剃髪して自ら権入と
名を改め、京都妙心寺の内、嶺南和尚に随事し、その後江戸に下り、芝の東禅寺に在って掃除などしていた。

ある日、沢庵和尚と嶺南和尚が同道し、浅野因幡守長治(長晟二男)に招かれたのだが、沢庵曰く
「御亭主には随分の人数を持たれていますが、嶺南和尚の持たれているような人は無いでしょう。」
と言った。長治は聞いて「そては何と申す人でしょうか。」と「尋ねると。
沢庵答えて

「大野修理が家老・米村権右衛門と申す者です。かの者は修理の配所への供をも相勤め、関ヶ原合戦の砌、
宇喜多中納言(秀家)家来・高知七郎右衛門と申す者を組み討ちに致し、その後大阪冬陣で御和談の折、
織田有楽、大野修理亮方へ、交渉のため物を心得た侍を一人づつ出すようにとあった時、有楽よりは村田吉蔵、
そして修理よりは彼を出しました。彼は度々城中より出て交渉を行い、御和談が成立すると、茶臼山の
御陣所において、大御所(徳川家康)に御目見得仕り、殊の外御賞美に預かりました。

現在は武士を止め、嶺南和尚の方に罷り有ります。」

これに長治
「その権右衛門は世間に隠れ無き者です。拙者、彼を召し抱えたく思います。修理方での知行は
いかほどであったかご存知ないでしょうか。」

これに両和尚共に、「先知は二百石であったと聞き及んでおります」とあり、因幡守は
「では四百石遣わし申すべし。」と言うと、沢庵は「どうしても、五百石を遣わされるべきです。」
と申した。これに対し

「五百石という知行については。少々差し合い申す仔細もあります、その代わりに足軽を
預けましょう。又、彼は今道心者の体でありますから、腰刀も無いでしょう。
私は、もう月末ではありますが、当年の物成を支度料として遣わしましょう。」

これによって米村は、終に浅野長治の家来と成った。

新東鑑



三人目は事の外きらひ申事の由

2020年08月02日 18:15

千姫   
239 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/01(土) 18:43:07.48 ID:M3sPawsy
三人目は事の外きらひ申事の由


豊臣秀頼の正室であった千姫徳川秀忠の長女)は、大坂の陣の後本多忠刻に再嫁した。
しかし寛永3年(1626年)に忠刻も亡くして、また寡婦となってしまった。
ところが三年後の寛永6年(1629年)、前田利常との縁談の噂が持ち上がった。【細川忠興文書 七五一号】
利常は千姫の妹の珠姫と結婚し嫡男もいたが、元和8年(1622年)に死別していた。
実際は千姫本人や利常の母である寿福院が嫌がって再婚することはなかったが
その理由について細川忠利が忠興あての書状に書き留めている。【細川家史料 細川忠利文書 三三一号】

一、加賀筑州(前田利常)へ播磨の御姫様(千姫)がおましになる話(縁談)は、筑前殿御母儀(寿福院)が
  事の外迷惑がっています。子細は秀頼様・中書殿(本多忠刻)が亡くなられてしまったので
  三人目になってしまうのをとりわけ嫌がっていて[原文:三人目は事の外きらひ申事の由]
  それが並大抵ではないためまだ済んでいません。その上御姫様も迷惑がっています。

忠興は「迷惑がるのはしょうがないが、嫌と申すような事ではない。もっとも筑州の母だから申し上げた
のかなと嘲笑されるようなことだ」と返書で反応している。【細川忠興文書 七六七号】
千姫は翌年にもいとこの松平忠昌と再婚する噂が出たが、続報はなかった。
この二つの縁談は恐らく、寛永9年(1632年)に亡くなる父・秀忠の意向だったのだろう。



大阪が社稷を失う基

2016年09月02日 19:55

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/01(木) 19:03:25.11 ID:szwZYy7K
将軍秀忠の娘(千姫)と豊臣秀頼との婚姻の沙汰有り、この執成を行ったのは加藤肥後守清正であった。
肥後守はこの当時、肥後熊本に在城して本知行70万石、御預り地24万石を支配し、誠に秀頼にとって
補佐の臣であった。

この姫君が大阪に輿を入れた後、暫くの間は天下無為の思いをなした。

このお輿入れは慶長8年7月28日という説があり、また慶長10年7月28日だったともいうが、これらは共に
妄説である。徳川家の実録によると千姫のお輿入れ慶長13年7月28日、輿添は池田輝政、浅野幸長とある。

しかしこの時豊臣秀頼は、関東(幕府)の仕方を悪み、そのため御台所とも不和であり、淀殿も後々には
対面すらしなくなった。この事は関東が、豊臣家に対する感情を悪化させる最初の出来事であった。

加藤清正は秀頼と千姫の不和を聞くと大いに嘆き、数ヶ条の言葉を以って諫言をしたが、秀頼は
全くその意見を聞かなかった。そしてこれは、大阪が社稷を失う基となったのである。

(慶元記)




千姫とふたつの縁切寺

2014年03月18日 18:57

千姫   
766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 21:56:00.65 ID:aXhP+HHT
千姫とふたつの縁切寺

神奈川県にある東慶寺には豊臣秀頼と千姫を離縁させる際秀頼の娘・天秀尼が入寺したと言われており
もう一方の徳川(新田氏)に所縁の深い群馬の満徳寺は千姫自身が実際に入寺し、御仏に仕えたのち
無事に離縁が成ったと幕府公式では伝えられています
が、実際のところは満徳寺の方も千姫の身代わりが立てられ俊澄上人という方が入寺したようです
千姫の再婚が成ったのち、東慶寺は伽藍の再建、満徳寺は三代続けて大奥から住職が専任されるなど
彼女が二つの寺を手厚く保護していた事が窺い知れます

しかし、千姫が再婚後もあまり幸せとは云えない人生を歩んだところを見ると
神仏に頼るなら代理など立てずに足かけ三年しっかりと自ら仏門に入り禊を済ませてから再出発した方が
よかったのではと思わずにはいられません

何はともあれ徳川家康が可愛い孫娘を豊臣秀頼から離縁させるために普通の尼寺から縁切寺に
仕立て上げられた二つの寺は、江戸時代を通してその役割を果たし続けました

767 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/17(月) 21:58:04.90 ID:aXhP+HHT
余談ですが徳川(得川)義季開祖と伝わる満徳寺には檀家が無く、徳川家歴代将軍の位牌所という事で
徳川郷450石中100石が与えられ、歴代将軍の庇護のもとに手厚く置かれましたが徳川の世の終焉と
共に廃寺となりました
世良田東照宮といい徳川家の新田の系譜に対する執着・・・もとい所縁の深さを感じるばかりです





元和九年、慶光院周清尼願文

2011年06月23日 23:24

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/23(木) 00:01:42.90 ID:kMwKTiYd
昭和6年夏、三重県志摩郡浜島町において、一体の仏像の胎内から二種の品が発見された。
そのうちの一つ、願文には、このようなことが書かれてあった。


『かえすがえすこの趣、頼みたてまつり申候。めでたく、かしこ。

播磨の姫君様(千姫)にお子様が出来る度に、あなた様のお恨みの心があって、どうしたことか、差し障りの
あるように言われます。これがあなたの祟だとすれば、ご尤もなことではありますが、あなた様と播磨の姫君様は、
一度は夫婦の契りを結んだ間柄です。今後はどうかお心を入れ替えてください。偏にお頼み申します。

この上は姫君様にお子様達がお出来になって繁盛なされるようであれば、後々まで後生を弔いますから、
悔しいお気持ちをどうかお諦めになって下さい。そのために私は屋敷に秀頼様をお祀りし、ご神体として
ご自筆の書を納めます。
私の寺が存在する間は末代まで代々申しおいて、それをご神体と崇めるでしょう。

このように書きましたのは、過怠のようではありますが、後々の御為を思ってこのようにお頼みしているのです。
これからは、姫様にお子様が出来、男のお子様も女のお子様もたくさん出来てご繁盛なされるよう、どうか
守ってあげてください。
姫君様が私を頼って参られたので、このように申し上げます。

今後、お子様がご繁盛なされれば、それはあなた様のお手柄と解ります。その上私がどこであっても
申し触れまして、あなた様のお心を、生き神様と拝み申し上げます。
御袋様(淀殿)へも同じようにお願いを致します。

かまえてかまえて、姫君様へのお恨みの心はお捨てになって、お守りの神となっていただければ、
誰を頼るよりも安心です。

私も一段と忙しかったため、あなた様への供養をご無沙汰しておりましたが、どうかその事もお許しになって下さい。

かえすがえすも、ご神体としてご自筆の書を納めますので、それをご確認していただき、守り神となって
現れていただければ、いよいよ伊勢のお宮も末代まで懈怠無く盛り立てます。
是非是非ともに、姫君様がご息災で若子様姫君様共々、めでたくご繁昌いたしますように頼みたてまつり申し上げます。


元和九年九月吉日

秀頼様の御貫主     伊勢内宮 周清上人』


もうひとつの品は、豊臣秀頼自筆の『南無阿弥陀仏』の名号であった。


大坂の陣の後、千姫は姫路城主本多忠政に嫁いだ。
夫婦仲は悪くなく、一男一女をもうけたが、男子は夭折してしまった。
そして元和九年(1623)、千姫は秀頼とも親交のあった伊勢神宮の慶光院周清尼に、秀頼の供養を頼んだ。
この願文はその時のものであろう。千姫と本多忠政との間になかなか子が成せないのを、世間は秀頼の
怨念のためだと噂し、そのためこれを頼んだ、ということのようだ。

ちなみにこの願文の文章について桑田忠親氏は、「幼児を諭すような言い回し」と評した。
秀頼とも実際に親しくした周清尼の文章だけに、豊臣秀頼という人の人物像をすこしばかり垣間見せて
くれているのかも知れない。

豊臣秀頼の怨念を鎮める為の、願文についての話である。