555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 00:04:03.76 ID:wbs1odIZ
「武家閑談」より上杉謙信による席次争いの裁定
永禄三年三月(永禄四年閏三月?)、上杉謙信輝虎公が鶴岡八幡宮の神前で管領に任じられた。
関白近衛前久公が下向され、公方義輝よりは大和兵部少輔が上使であった。
その時、関東八州の大名・小名が列座した時に、千葉国胤(千葉邦胤は当時は幼児。父親の千葉胤富)と小山政種(小山政種は生まれる前。祖父の小山高朝)が席次争いした。
これを聞いた謙信公が
「千葉殿は関東八州諸士の上であるべきである。
また小山殿は関東八州諸士の下になるべきではない。」
と裁判したところ、事は静まった。
謙信は当意即妙の才知である、と天下の誉れとなった。
556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 02:02:07.90 ID:9vgYVuhb
つまり…どう座ったの?
557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 08:10:46.60 ID:bAsuNukx
隣に並ばせたんじゃね
558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 08:38:50.88 ID:FKjG8Ito
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/小山高朝
永禄4年(1561年)、小田原城の戦いでは上杉謙信に味方し、上杉軍の一員として包囲戦に参じている。
しかし、謙信の関東管領就任式の際に千葉胤富に関東諸将の首位の座を奪われたことに不満を抱いたと言われており、直後に北条氏康と手を結んだために謙信の怒りを買い、
翌永禄5年(1562年)に再度関東入りした謙信に攻められて高朝は降伏した。
単に謙信が関東から出たら北条になびいただけかもしれないけど
「武家閑談」より上杉謙信による席次争いの裁定
永禄三年三月(永禄四年閏三月?)、上杉謙信輝虎公が鶴岡八幡宮の神前で管領に任じられた。
関白近衛前久公が下向され、公方義輝よりは大和兵部少輔が上使であった。
その時、関東八州の大名・小名が列座した時に、千葉国胤(千葉邦胤は当時は幼児。父親の千葉胤富)と小山政種(小山政種は生まれる前。祖父の小山高朝)が席次争いした。
これを聞いた謙信公が
「千葉殿は関東八州諸士の上であるべきである。
また小山殿は関東八州諸士の下になるべきではない。」
と裁判したところ、事は静まった。
謙信は当意即妙の才知である、と天下の誉れとなった。
556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 02:02:07.90 ID:9vgYVuhb
つまり…どう座ったの?
557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 08:10:46.60 ID:bAsuNukx
隣に並ばせたんじゃね
558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/01/15(日) 08:38:50.88 ID:FKjG8Ito
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/小山高朝
永禄4年(1561年)、小田原城の戦いでは上杉謙信に味方し、上杉軍の一員として包囲戦に参じている。
しかし、謙信の関東管領就任式の際に千葉胤富に関東諸将の首位の座を奪われたことに不満を抱いたと言われており、直後に北条氏康と手を結んだために謙信の怒りを買い、
翌永禄5年(1562年)に再度関東入りした謙信に攻められて高朝は降伏した。
単に謙信が関東から出たら北条になびいただけかもしれないけど
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