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泉光寺不動像由来

2021年11月22日 16:57

203 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/21(日) 16:01:22.28 ID:Fvc+5BzI
大永年中に河野四郎通直(弾正少弼。伊予の名族)は予州の氏族を滅ぼしてその領地を併せ持ち、
自家を大きくして国中の兵将を押し靡かんと望んだ。まず不服の氏族を攻めて軍諍を始め、
この時に今岡、重見、河野の一家など同姓の輩が他国に分散した。
(中略)各々弱は強に制せられてその領地を削られ、あるいは殺戮され、追放された。

ところで、河野家の祖先に“息方(ヲキガタ)”という人がいたがこの人について異伝がある。
往昔の河野家に右衛門三郎といって門戸を守る者がいた。その気性は強暴で哀愍の情は少なく、
乞食人を嫌って門戸に入れなかった。四国は弘法大師出生の地で、仏法流布の境域である。
真言を宗とする者は四国辺路を物乞いし、霊仏を巡礼して菩提を祈ったが、
右衛門三郎はこうした人をも門内に入れなかった。

右衛門三郎が年老いて臨終の時、僧1人が来て曰く「汝は生涯強暴にして慈悲心もなかった。
しかしながら潔白にして正直であった。何であっても未来の願があるならば、叶えて取らせよう」
右衛門三郎は曰く「我が何を願い、何を憂いようか。我に願うことはない。
しかしもし願って叶うというならば、我が君河野殿の子に生まれることだろうか」

僧は「その願を合えん」と言うと白玉を出して左手に握らせ、死に赴かせた。
果たして河野の子は白玉を握って出生した。これを息方というのである。
息方は成長後に河野家を継ぎ、不動の像を造ってその白玉を玉眼とし、これを崇信して氏の証とした。

その後裔は今度の内乱で郷里を去る時、不動像を背負って讃州坂田庄室山の下に来たり、
一宇を安置して泉光寺と号した。この名は清泉があったことが由来である。
天正年中の大地震(天正地震)により天下悩乱し、大地は割れて白水を出し、大山は崩れて郷里は埋まり、
平陸は破れて海底に沈むことがあった。この時、室山は崩れて泉光寺は地の底に埋まった。

河野氏族は深く嘆いて掘り出そうとしたが力足らずして止め、ここに新たに堂を立て不動像を造り、
旧所に安置して河野氏族の氏寺とした。その一宇は今も存在する。その部類はなお多い。

――『南海通記

異伝は空海と衛門三郎の伝承に酷似しているが通直に追われた河野氏族に伝承されていたものか



204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/21(日) 16:17:25.55 ID:mcu/nSEA
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-11862.html
この下の方にも衛門三郎と空海の話があるな
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古沼の浅き方より野となりて

2021年11月13日 16:35

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/13(土) 16:15:24.31 ID:FQlv6jhO
安宅冬康は善心の名君なれども人情の薄い乱れた末の世となり、猛悪が畿内に広がった。

故に三好長慶卒しなされて後、三好氏族は集議して左京大夫(三好義継)と阿波屋形(三好長治)に
讒して曰く、「冬康は天下の執事の望みがある故に、阿波淡路の兵将を懐けて諸国に睦をなし、
義継と長治を軽んじ申しているので、すぐにでも謀を巡らしなさらねば後難はまぬがれません」と相通じ、
このため義継と長治より大兵を催し、淡路由良の城を攻めた。

冬康はこれを聞いて「愚昧の者どもの悪業なれば諭しても分別はすまい。三好家の滅亡も近年中であろう。
先祖累代勲功をなして興起した当家を、愚昧の氏族どもが集まって破滅することこそ無念である。
それでは黄泉の道に出立しよう。今生の思い出に連歌を催さん」と、表八句の連歌をなされた。

その七句目「蘆に薄の交る一村(アシにススキの交わる一群)」に、
八句目「古沼の浅き方より野となりて(古沼は次第に乾いて野となりアシは少なくなった。世は移り変わるのだ)」
と冬康は句を付けなさり、大いに喜んで「さても快し。これまでなり、いざ打って出よ!」と、
城門を開けて突き出し、ついに戦死なさると聞く。

三好家滅亡の前兆であろうか、智能の子弟生まれずして愚昧の氏族が充満し、
自らの門葉の鏡とするべき冬康を失わせたことこそ浅ましきことである。

讃州の安富筑前守が淡州の役に死すと家の記にあるのもこの時であろう。国は遠く人伝に聞いたので、
その事実を洩らすことは本意ではないが、後時によく知る人を待って記すものである。

――『南海通記

冬康殺害を長慶死後とするのは著者香西成資の意図なのか、そう伝承されたものだろうか。
『三好別記』では最後の句を三好実休討死の報を聞いた直後に長慶が付けたものとしている。



179 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/11/13(土) 23:23:55.82 ID:xQThuIil
香西成資は讃岐香西氏の一族だが、小幡景憲に甲州流を学び軍学者として1682年黒田家に仕官、
福岡城下で四国の戦国史(南海通記)を執筆

こういう経歴見ると胡散臭いし思惑もすげえありそう

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/15(月) 01:51:14.03 ID:9pACqh2i
>>179
南海通記は南海治乱記を増補したもので内容はほぼ同じ
治乱記は黒田家仕官前に完成したので思惑があったとしても黒田家は関係なさそうだ

宗三に同意して長慶を敵になされたならば

2021年10月31日 16:59

105 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/31(日) 14:07:43.95 ID:HDlBXV01
天文の初めに細川晴元は王畿の兵制を定め将に命じた。まず三好筑前守長慶は河州にあって八幡表の先鋒とし、
三好入道宗三(政長)は摂州にあって山崎表の先鋒とした。これは京都に事あれば両口より攻め上り、
左右相救して功をなすためである。晴元はその権を執り中之島の城にあった。

ところで長慶の父海雲(三好元長)と同族宗三は権を争い常に不仲で、故に海雲が堺で一揆のために死亡したのも
宗三のなした事と思われていた。長慶は今また、宗三を退けて泉州河州摂州を共に自ら権を取らんとする。
しかし晴元はこれを許さず宗三と同意した。長慶は人を遣わし説いて曰く、

「我が祖が代々戦場に屍を晒したのも、わたくしの事ではありません。すべて公儀のために忠を尽くしたのです。
加えて管領澄元(細川澄元)が卒しなされて御家は滅亡なさるはずを、我が父元長入道海雲は甲斐甲斐しく
晴元を13歳になられた時に取り立て主君とし、高国(細川高国)と戦って勝ち、澄元没後の御憤を散じさせて
晴元に会稽の恥を雪がせました。

宗三は我が一族ではありますが、阿波の好みを捨て高国を輔佐して当家を滅ぼさんとしました。
その暴悪の逆徒なのですから、例え一命を御助けになることはあっても何故家臣となして国政を司らせるべきでしょうか。
これはただ、晴元が理に暗く海雲の忠を御忘れになっているのです。

私は不肖であるとも宗三の積悪を征して亡父海雲の憤りを晴らすことを望みます。
私は晴元に対して忠を忘れてはおりませんが、晴元がもし宗三に力を合わせて同意なさるならば容赦はしません。
これはまったく私の罪ではありません」

晴元はこれを聞かずに宗三と同意して長慶を敵とし、讃州に触れて軍勢を召した。讃州の諸将は議して曰く、
「晴元がもし長慶に同意されたならば事は行われるだろう。宗三に同意して長慶を敵になされたならば、
石を抱えて淵に入るようなものだ。宗三は武功があるとはいえ、大事をなすには不足である」

諸将は事を左右に寄せて遅参した。植田氏は十河一存と同意し、寒川氏も近年三好家に恩があり晴元の催促に従わない。
安富氏は去る12年11月に公儀のために淡州で死にその後は軍用に欠乏し郎従は不足して出ず、
香川氏は老衰により兵衆を出すと言いながら事寄せてこれを果たさず、各々時勢を考えて上洛する者はいなかった。

――『南海通記

こんな直球で言ったらそりゃ絶縁だよねっていう
三好政長細川高国を輔佐した事実はないのでそこは差し引かないといけない内容だが



世は変わり行くとも

2021年10月24日 16:08

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/24(日) 11:23:33.99 ID:kqitHUZS
香西豊前入道宗玄はこの竹山の原に一宇の禅林を建て、常世山宗玄寺と号す。いま
寺跡に小庵がある。またこの東南の原に三位義興(大内義興)の像を造立して一宇
を立て“大内堂”という。また“大内寺”と号す。退転して今はない。

鎮守荒神の小祠があり、この辺を大内堂と地名に称す。大内寺本尊の観音は、今は
西光寺の内仏にあるという。この大内堂の東隣は作山城跡である。

――『香西記

讃州の諸将は細川政元卒去の後、大内義興に服従して国を守り、地を保ち数年を越
した。特に将軍家より安富山城守、香西豊前守(元定)は海上の警衛を奉り、廻船
の非常を制した。故に上京せずして、兵衆の煩労もなかった。

かつまた、能島兵部大夫に属して大内家の朝鮮の役(>>719)に加わったので、財は
足り民は豊かで、兵力は有り余った。

これは義興の芳恩であるとして、香西氏の産神藤尾八幡宮の向かいの山に堂を立て、
義興の霊像を安置してこれを祭った。これを“大内堂”という。

世は変わり行くとも、その林木と名だけは今も存在する。

――『南海通記



そのため異邦人は大内家を日本国王と

2021年10月23日 16:23

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/23(土) 15:29:28.02 ID:Ejmsdc+U
伊予国の海表に能島、来島、院島という3つの大島があり、その他小島が10余
ある。予州河野氏の部類にして、周防山口の府に隣するため、大内家に交接する。
能島と院島は村上源氏である。来島と興居島は河野氏である。

(中略)

大内政弘より以来、大明朝鮮の勘合をもって商船を渡し給う故に、島家を保つ輩
は大内家の陰に倚らずということ無し。

大内義興は九州の戦に勝ち、兵威を盛大にして諸国を帰服せしめ、周防、長門、
石見、安芸、豊前、筑前6ヶ国を領し、伊予讃岐を来服せしめ、大明朝鮮の勘合
をもって商船を渡した。そのため異邦人は大内家を日本国王と思っていた。

そうして永正17年(1520)、村上兵部大輔より使者を通して大内義興の命
を達する。讃州塩飽島は村上鎗之助が来て、宮本佐渡守の宅より香西に達した。

その言に曰く「今年、朝鮮国へ兵船を渡海させるところである。公儀軍用の余分
をもって兵船を仕立て差し遣わしたい者は、その員数を記して注進せよ。その趣
によって禄物の差別があるべし」と、すなわち塩飽より香西氏に達する。

香西氏は議定して注文を調えこれを送り、乃生縫殿助、池水太郎兵衛、本津右近
を船長として兵船3艘を遣わした。

塩飽島より宮本佐渡とその子助左衛門、吉田彦左衛門、妹尾、渡辺が加わり用意
をなした。直島に高原左衛門尉、児島日比の戸に四宮隠岐守が共に用意し、引田
小豆島は寒川丹後守の所有なので引田浦に船が揃った。

讃州諸浦の船どもは能島隼人佐の手組に約し、深く交わりを結んで朝鮮の役を勤
めた。浦々は繁昌して、諸方これを羨まずということ無し。

さて朝鮮の役は先年に大内政弘が大軍を催して朝鮮に発向し、朝鮮王はすなわち
政弘に和を乞うて全羅道の貢物を大内家に入貢した。これより続いて義興も全羅
道を入貢せしむ。

この年、朝鮮国に大軍を遣わして全羅道の境を巡察した。これは大内家の兵威を
敵に振るうためであろうか。義興が年来管領としてその費用を繕ったのも、朝鮮
の入貢、大明の勘合の利用があったからである。

――『南海通記

実際の出来事かは分からないが大内氏の貿易の様子を伝えるものだろうか



今や日本は戦国にして

2021年10月17日 16:24

696 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/17(日) 14:28:30.51 ID:MKa9KZNU
大内義隆逆亡の後、豊前筑前は大友義鎮(宗麟)が治めた。この時にあたって大明王
嘉靖帝)より日本国王に璽書を贈って曰く、

「中華と日本は勘合によって古くから通じてきたが、近頃はその交友を失って来聘を
絶している。また毎年倭の賊船がしばしば来て、大明の辺境を侵している。切に望む
ことはその剽掠を禁止して衆民に安寧を得させることである。故に書をもってこれを
諭す。今や旧好に復して睦をなす時は、すなわち幸いのみ」

とのことであった。大明の使、鄭舜候という者は博多津に入り来る時に、豊後の大友
義鎮は西州を統領するため日本国王であるとしてその璽書を義鎮に奉り、またその意
を述べた。義鎮曰く、

「いわゆる日本国王はすでに王畿の君あるなり。私は西州の地を領してその藩屏を守
るのみであり、国王にあらず。しかしながら今や日本は戦国にして諸州の豪家は王命
を聴かない故、朝廷に達することができない。

そのうえまた自国は日々に兵備をなしてその領域を守り、ともに雌雄を争って他国へ
兵を出すことに暇がない。これはただ海島の群賊のなすことであろう。朝廷より制止
を加えるべき限りにあらず」

と諭すと、三使はこれを聞いて還った。

――『南海通記



冬康の仁徳は

2021年10月15日 16:44

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/14(木) 20:58:27.74 ID:+CvTJUsd
永禄の初めに長慶(三好長慶)は老衰に及び、天下の政務を左京大夫義継に譲って、
中の島に隠居する。冬康(安宅冬康)はその老衰し給うことを悲嘆し、保養のこと
を諌められた。ある年の10月に淡州より摂州中の島へ松虫籠を送られた。

「夏虫は弱きものですが、よく養う時には寒中まで生きています。人は四季を送り
寿命長きものですから、よく養えば長命になるでしょう」と諌められると、長慶も
感悦なされたと聞く。忠と言うべし。

冬康の仁徳は民間の話題に残ることが多い。乱世に生まれて鋒を携え、暇なき中で
書を離さず、和漢の故実を試みて道義を守り給うことは世に珍しき人才である。

天下は乱世にして人民は利を争って道を失い、虎狼の業をなすことを憂いて読んだ
歌がある。

「往古を誌せる文の蹟も悚し さらすは下たる世とは知らまし」
(古を記せる文の後もうし さらずばくだる世ともしらじを)

まことに感心をなすべき言詞である。

――『南海通記



679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/14(木) 21:11:13.85 ID:uGJ2r9Ad
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12896.html
松永久秀が松虫(スズムシ)を長生きさせた逸話があったっけ
三好長慶も松永久秀も安宅冬康の言葉に感心したのかな
安宅冬康は早死にしちゃったけど

『南海通記』書尾

2021年10月14日 15:15

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/13(水) 21:05:22.24 ID:Z+w7eDcD
書尾

右の南海通記は讃州の故士に植松左衛門尉資信、三谷彦兵衛尉景近、片山是右衛門尉
久利(久則とも)という者がいた。また上古より相続いてきた百姓に田所治郎右衛門、
公文孫三郎という者がいた。皆元亀の生まれで寛永正保まで生きていた。

これにより天正中の乱をよく知った。それより前古のことは祖父の古伝により知った
故に、その説は実事であり採る説は多い。私は幼少より争戦の勝敗を聞くことを喜ん
で、その側に侍してしばしば聞いて眠らなかった。かの老翁たちは奇なりとしてこれ
を諭した。我が心に得ざることあれば問いを設けた。

故に私は幼少にして四国の事跡をおおよそ知り、成長してはいよいよ老父老婦に会う
毎に伝え聞き、つまびらかに問うてその説を集め小大の部を分け、大きなものを『南
海通記』とし、小さなものを『老父夜話』とした。そうして小大の二部が成立した。

南海に国記なし。私はこれを憂いること多く、故にこれを抄録した。かりにも、その
精実を脱してその疎謬をあげることもあるだろう。その知らざることは私には如何と
もしがたい。まずその知ることをあげて後人に遺す。知らなければ知らないままにし
て後の人を待つ。

――『南海通記



細川政元は飯綱の法を行い

2021年10月12日 15:22

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 20:41:39.46 ID:kFj4sQth
植松左衛門尉(資信)が曰く、

「私は乱世に生まれて諸々の道を知らない。しかしながら武士はただ
下手でも文武の道を学んでこれを行おうとして過ぎることはあるまい。

神道仏道は至って善とはいえども、これを行おうとして禍を得る者は
多い。細川政元は飯綱の法を行い、管領の家は断絶したのだ」

――『南海通記老父夜話記)』



88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 23:38:24.08 ID:8WidEI55
>>87
なんか前段後段で文意がつながってないような気がする・・・ 

「過ぎることはあるまい」だと「いくらやってもやり過ぎではない」→「どんどんやりなさい」って意味だよね?

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 02:55:09.59 ID:LNSxAag1
>>87
魔法半将軍様の場合飯綱の法を行ったからというより
もっと別の因果からじゃないんですかね…?

90 名前:87[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 08:20:11.90 ID:QEbcGYk+
>>88
史料叢書版の原文は「文武ノ道ヲ学テコレヲ行ントシテハ過アルベカラズ」
武士には文武を学び実践する以上のことはなくて他の道にとらわれると家を滅ぼすってことかと
ちなみに史籍集覧版だと単に「武ノ道」とあって植松は武辺の人だからこっちの方が正しいかもしれない

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 13:21:50.44 ID:2E9AxWS5
過=あやまち

学テ 行ントシテ と動詞には送り仮名付けてる書き方してる以上
送り仮名がない時点で 過 は名詞と解釈するのが自然

92 名前:87[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 20:31:59.24 ID:QskEwL65
>>91
ご指摘ありがとうございますm(_ _)m

93 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/12(火) 21:01:03.28 ID:SVFHvk5E
>>89
南海通記の見解では
飯綱に凝る→男色に耽る→浮気を疑って無実の人間を罰する→そいつに恨まれて殺される
ってことらしい

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 21:53:29.37 ID:LNSxAag1
>>93
あくまで南海通記の見解へのツッコミなんだけど
女人禁制で男色に耽るまでは関連性として判らんでもないけど
そこから先はやっぱこじつけでは…?

そもそも南海通記って香西氏が書いたもので
政元の暗殺って香西元長が首謀者だって言われてるよね
要因を飯綱に求める事で飯綱に凝った政元が殺されるのは仕方ない的な
祖先の所業の正当化のこじつけなんじゃ…?

95 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/13(水) 12:30:19.92 ID:6rFIMn48
香西氏の自己弁護が入ってる可能性や、暗殺が個人的な恨みかは疑わしい点は同意だけど
暗殺を招いた政治的混乱の原因が実子のいないことによる養子の乱立なら、実子がいない原因になった
飯綱の法を根本原因にするのは、全くの無理筋ではないと思えるけども

この四子の智謀勇力は万人に勝り

2021年10月11日 16:03

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/10(日) 17:53:33.02 ID:waUK1rNR
一、三好氏の祖は新羅源氏小笠原次郎長清の裔である。頼朝公の平家追討の
後、阿波の守護職を賜り信州より当国に移る。これを阿波の小笠原と称す。
三好郡に住する故に代々の後に三好を氏とした。累世創業を立てんと欲して
戦場に死を致すこと三代。

(中略)

天文2年3月、之長入道喜雲の長子筑前守元長入道海雲、泉州堺浦顕本寺に
おいて一揆のために自殺す。その子が三好筑前守長慶である。

長慶は幼少より深く憤り、一度天下を定めんと欲す。故にその所為の者群に
出ること幾ばく多し。18歳の時、求聞持の法(記憶力増進の修法)を修め
る。これは武門興隆を祈ることである。

天文2年に父海雲没してその家を継ぎ、兵を起こして王畿に出て四方に発向
し、敵と戦って勝たずということなし。ついに洛に入って天下の成敗を宰り、
国家の権柄を制した。

そのニ弟彦次郎之相、後に豊前守義賢と号す。これは阿波屋形の執事である。
後に物外軒実休と号す。三弟安宅摂津守冬康は淡州安宅の家を継ぐ。歌道の
才人である。また“賢徳(賢明で徳のあること)”の名あり。

四弟又四郎之虎、これは十河左衛門督一存である。讃州十河の家を継いだ。
大剛にして大力なり。故に“鬼十河”という。また容貌は猛なる故に、世人は
これを真似て面体を作った。これを“十河額”という。

この四子の智謀勇力は万人に勝り、心を一つにしたので、強敵を挫き暴寇を
攘い、天下の人心を誘い我に服させた。故に京師に入り王業を輔佐し、将軍
の威令を奉行し、20余年天下を安全ならしめて権柄を執り給うのである。

一、三好長慶の兄弟は、多い中でも皆一品ずつ備わった名将である。

長慶は智謀勇才を兼ねて天下を制す器である。豊前入道実休は、国家を謀る
謀将である。十河左衛門督一存は大敵を挫く勇将である。安宅摂津守冬康は、
国家を懐く仁将である。

兄弟4人一手ずつ生まれついた故、天下の乱を救って暫く静謐したのである。

――『南海通記



わらわが身籠った子が男子なら

2021年10月09日 15:15

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/08(金) 19:54:40.27 ID:C5mbXJku
老人夜話記

四国の老婦たちが口づから語り伝えて曰く「戦国の時に豪傑の家に
生まれては、女子といえどもその志は堅固にして願うところ高し。

三好長慶の母堂は長慶を身籠り給う時に大願を起こし、七夜の月を
待ち、誓いをなして曰く、

『わらわが身籠った子が男子ならば三好七代の天下を持たせてくだ
さり給え。女子ならば、皇后の位に立たせてくださり給え』

と言われ、三好の河瀬に立って水を桶に汲み入れて頭に戴き、月の
出るのを待ち、七夜の月の満ちる時に祈の験あって宿所に帰り給う。

それより月足り日重ねて、男子を産む。これが長慶である。長慶が
成長して天下を手にしたのも、この母堂の祈願によるのである」と
いうことであった。

――『南海通記

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/09(土) 18:45:09.33 ID:Taeh1ZwT
(>>653の逸話に続いて)

またある人は曰く「長慶の母堂は夫の元長戦死の後に憤りを起こし、
『三好七代の天下を知らせてくださり給え』と七夜の月を待ち給う」
と語る者もあった。

いずれにしてもその意は同じことである。三好三代は続けて戦場に
死んだ。婦女といえども、その憤りなくいられるはずもない。

長慶は成長して世の人を超えた気性あり。阿波の辺鄙より出て天下
群将の上に立つことは容易なことではない。母堂の立願が足りたの
だというべきである。

――『南海治乱記』



古の士は弓射ちして矢を作ってこそ

2021年10月08日 17:01

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/07(木) 20:40:00.08 ID:TSXgTVil
ある老父が語って曰く「古の武士は兵具を各々自分の手で作って用いるのを
上士といったのである。我が曾祖は香川郡井原の郷司の漆原という者だった。
寛正の頃であるが将軍家に参勤した。

ある時、細川勝元へ将軍家より征矢を賜る。勝元は拝して自愛深く、漆原を
呼んでこれを見せた。漆原某は曰く『この矢はこの私が作った矢です。どう
いう入れ違いで上覧に入ったのでしょうか』と言った。

勝元がその証拠を問うと、漆原はその矢の沓巻を解いて、矢柄の中から“讃州
井原ノ住漆原”と記された書を出し、また元の如く沓巻して勝元に返進した。

勝元は称美して奇作とし『古の士は弓射ちして矢を作ってこそ、上能の武士
である』と称誉したのだ」ということであった。

――『南海通記老父夜話記)』



味方千騎の強みとは

2021年10月07日 16:23

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/06(水) 21:13:25.39 ID:1w+xW3ed
天正17年(1589)、正規(生駒親正)は大坂在勤の時に予州今治の城主、
藤堂佐渡守高虎と御対談あって申されるには「今度、今治に御帰路の時に我が
高松へ御立ち寄りになって、城地を御見分してくだされ」と申された。

高虎は申されて「もちろん私も参るつもりだが、幸いにも黒田如水が近日中に
中津へ帰られる。時を合わせて同道仕り、如水に見分して頂けるように相談し
ましょう。この人は城取り功者で諸方の城々はおおかた如水の見分で相調った
のです」と仰せられた。

これに正規は喜び申され先立って高松へ下着し給い、西浜東浜の間に仮屋形を
造り待ち給う。程なく両将御下着なさり高松の地を見分なされた。

如水は仰せられて「これは究竟の城地です。富貴繁昌ともに備わって要害良く、
諸方の船路は便を得て、国主の居城に合った地形です」と誉め給う。正規は申
されて「西の山が程近いのだが、どうでしょうか」と御尋ねになった。

これに如水は仰せられて「この山なくてはこの所で城取りは成り難いでしょう。
この山があって西を塞ぎ、寄口は南一方になるため要害に良い。

特に山は険阻で人馬の足場がなく、北は海岸に入って海深く、山の根は潮汐の
差し引きあって敵人は留まることができない。東は遠干潟で川入あって敵人は
留まりがたい。南一方を防ぐだけである。

味方千騎の強みとは、この山のことである」とのことだった。このため正規は
安堵してこの場所を城地に定められたのだという。

――『南海通記



651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/07(木) 11:04:26.13 ID:lP6gqeTD
>>650
弱点あっても後々のことを考えて言わなさそう

高松由来

2021年10月06日 18:32

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/05(火) 20:55:53.29 ID:bRILBaEz
天正15年(1587)、生駒雅楽頭正規(親正)は讃岐国を賜り、当国に入部なさった。
まず引田の城に入り給い、その後に国の中區なので鵜足郡聖通寺山の城に移り給う。

正規曰く「国中に在来する所の城々は皆乱世の要害であり、治平の時の居城の地にあらず。
平陸の地を設けて居城とすべし」と、その地を求めなさったところ、香川郡笑原の郷に究
竟の地があった。

(中略。その地の故事伝承について)

正規はこの所を見立て地形の吉凶を占おうと相者を召された。安倍晴明の遠裔、安倍有政
という者がいた。これは乱世の相者だが京学でホギに通じ、文才あって占に優れた。近来
は香西氏に許容されて山端村にいた。

この占者を召して吉凶を問われた。相者は卜を布いて曰く「この地は富貴繁昌ともに備わ
り、四神相応の地と言えましょう。しかしながら、地祭をなして吉凶を定めなさるべきか
と存ずる」と言った。

問者の曰く「何の障りがあるのか」。有政曰く「土地の名を目出度く改めるべきかと存ず
る。その謂われは、聖通寺より野原(地名)へ出給う時はその詞は凶である。聖寺より通
して野原に出ると読むなれば、野原の名を改めて目出度き唱えの名になされるが、しかる
べし」と申し上げた。

これを正規はもっともとされ、東の方高松の名を取って城の名とし(高松城)、古高松は
波の寄せ来るところなので“寄来村”と名付けなさったのである。

さてまた右の陰陽師有政には地祭を仰せ付けられ、天神地祇を降拝して如在の礼奠をなし、
衆人は囲繞渇仰して地祭が済み、正規は喜悦なされ、有政には数々の引出物を得て目出度
き祝詞は整ったという。

――『南海通記



運命の不足は何を貪って取りなさる

2021年10月04日 16:57

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/04(月) 01:23:04.87 ID:LjREf0ve
(前略。東大寺大仏殿の戦いで松永久秀が東大寺に火を放つ)

三好家の兵威ここにおいて挫け、松永もまた孤軍となって天下の人望に違えた。

君臣の道を失って己が利をほしいままにする時は、天命に逆らって久しからず
して滅びる。道によって身を滅ぼす者は佳名を後世に伝える。利によって身を
滅ぼす者は汚名を後世に流す。

人生50年といえども明日の滅びを知らず。名は永久にして天地とともに存在
する。どうして人がこれを思わないだろうか、時の人は後世に言い伝えて曰く、
「永禄の十の十月十日の夜奈良の大仏焼ける。亥の時」という。

松永弾正(久秀)は西京の城(多聞山城)を築き四壁を惣楼にして狭間を明け、
門戸もその楼の下を通したので人力をもって攻め入るのは難しい様子になした。
溝は深く塁は高く、険要の構え城である。

兵糧は3年分あり、長き謀には稲穂を積み干飯を庫に入れ、芋莖、干菜、焼塩、
塩噌、干魚、荒布、和布、海藻、薬種など、薪は土居に築いて炭は地中に埋め、
秣、糠、藁、馬食を足らせ、木実を集めて油を調え、鉄、銅、鉛は踏石として、
掻楯、輪木、車菱、車松明、雨松明、石火砲石、飛礫石、水用の積まで細密に
詮議して欠けることのないようにした。

そして一行の札を立て曰く「この城において不足の物あらば添札をもって申し
出すように」。

ある時、添札が立ててありこれを見ると「財物で足りないものは民を貪りこれ
を取る故に不足なし。しかし、運命の不足は何を貪って取りなさるのだろうか。
これが1つの不足であろう。惣百姓中」と立てていたという。

――『南海通記



松永久秀滅亡の時

2021年10月02日 16:00

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/02(土) 11:49:32.35 ID:0dQIK6u5
松永久秀滅亡の時)

松永は偽兵を知らずに門を開きこれを城に入れ、後より信忠大いに進みこれを攻める。
偽兵は内より応じて鬨をあげこれに応じ、城中の兵は大いに騒動して死亡する者多し。

松永も殿守に入って相待つ。信忠より人遣わし曰く「松永降参すべし。罪を許さん」。
松永曰く、「骨になっても信長には従わぬ」として降らず。ここに平蜘蛛という釜は
天下の名物である。ことごとく打ち砕いて箱に入れ、糠詰めにして封をなし、信忠の
陣に送った。

松永曰く「これは我の所持する平蜘蛛という釜だ。日頃信長の望みあるままに送ろう
と思っていたが、先延ばししていた。これは天下の名物である。今ここで失われるの
は惜しい。よってこれを贈る」と言った。

その箱の封を切る時にあたって城中より声をそろえて一斉に鬨をあげ、城外より鉄砲
を撃って攻め寄せた。

松永久秀の女子はその年20歳。打掛して久秀の前に来て曰く「事の急ならざる内に
我が身の暇を賜りください。先立って父を待ちます」と言った。久秀の曰く「まこと
に事の忙しさに汝のことを忘れていた。20歳も70歳も同じことだ。人は必ず一度
は死ぬ。汝は先立つべし。跡の仕舞いをして今我も行くなり」と言って、それそれ某
太刀取りせよと居所に入らせた。

この女子は太刀取りに言って曰く「女の死骸は醜くからんと思い、その支度をした」
と紅の下袴を着て上に打掛をし「首はこの内に落とすべし」と言って打掛を前に敷き
太刀を受けた。

その打ち落とした後に自ら打掛の端を被ったという。(其打落シタル跡ニ自ラ打チカ
ケノ端ヲ被リヌト云リ)哀れなる世の中なり。

久秀はこれより事終わって猿楽の囃子を始めた。諷は野宮である。「きりに成り火宅
の門をや出ぬらん。火宅の門」と言い終わると等しく、天守に火を放って屍も見えず
焼失した。

まことに討つ者も討たれる者も一時である。天正5年には松永滅亡す。天正10年に
は信長害に遇い給う。ただ5年の先後なり。

――『南海通記



その家業を失うべからず

2021年10月01日 17:01

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 21:06:20.18 ID:ZsYDNCAX
飯沼五郎兵衛(常政。香西氏の家臣)は代々武勇の家である。また自身も
阿州重清合戦で場中の高名をあらわし三好存保(十河存保)の感状を賜る。

讃州伊勢馬場合戦で予州衆の鉄砲に膝の口を撃たれ、不具の身となり隠士
となった。彼が子弟に教示して曰く、「汝らは必ず主君を求めて奉公せよ。
三代に渡り仕を求めなければ、姓氏を絶やして凡民となるのだぞ」。

実に然り。天正の乱後、家産ある者は田野に交わって身を隠し、蓄積なき
者は主君を求めて四方に走った。君主を頼った者は姓氏を継いで武士とな
り、君主を頼まざる者は姓氏を絶やして凡民となった。

人としては必ず、その家業を失うべからず。

――『南海通記老父夜話記)』



阿州の老父が語って曰く、

2021年09月30日 15:31

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/29(水) 20:55:33.28 ID:bIhkFL35
阿州の老父が語って曰く、

「阿波国は辺鄙の山国であるから、刀脇差といっても世間の結構な拵えのように
は10人に1人もならずして、“山刀”といって椛巻の鞘で葛巻の柄のものを誰も
彼もが差しており、山賤の男どもが用いるに足るようなものだった。故に山中の
凡民までも武用に立たない者は1人もいなかった。

むかし阿州海部の城主、左近将監吉清(友光の子)という人がいた。その武功は
世に隠れなし。自ら刀を作ることを喜んで濃州備州の鍛冶を招き、これらととも
に鉄を鍛え刀を作った。後年は上手になってその作を世に遣り、人に用いられた。

“海部打”は刀が折れず屈せずして、竹木を切るによろしく、また物切れである。

元亀年中に阿讃の内乱があった。(海部氏は)寒川氏を攻めんと讃州に出陣した。
その留守を考えた土佐の元親(長宗我部元親)は阿州へ出陣し、海部城を陥して
南方二郡を奪った。これより食邑を失って、三好家に寄食した。

その以前に元親の弟弥九郎(島親益)が上洛して帰路の時に、海部佐奈の湊に舟
かかりした。すると海部より押し寄せて弥九郎を打ち殺した。

元親はその憤り深く、四国が元親に属する時に殺されんことを恐れて姓名を変え
て行方をくらまし、京家になって蜂須賀阿波守殿に出仕した。元和寛永の打物に
海部左近将監吉辰という者がこれである。

また備中国松山の城主、石川左衛門尉という人も刀を作ることを好み、その作が
世に残っているのだとか」

――『南海通記(老父夜話記)』



639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 02:52:10.09 ID:lSVtxilg
鍛治師って火の熱で目がやられて隻眼でタタラで膝関節がやられて足が悪いって聞くけど実際どうなんやろ

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/30(木) 03:57:29.37 ID:kqNBNHgI
映像とか見てて思うけど刀鍛冶ってゴーグルしなくて異物が目に飛び込まんのかな?

予州の老父がまた語って曰く、

2021年09月29日 18:39

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 20:29:50.55 ID:7nwCmArB
予州の老父がまた語って曰く、

「世上の形勢を見るに盛んなる者は衰えて、衰える者はまた盛んとなるものだが、宇都宮
遠江守豊綱(伊予宇都宮氏最後の当主)は備後国で卒去した。

その子の豊治は零落し、その名を恥じて姓氏を変え、萩野与右衛門と称して小早川隆景に
陪従した。秀吉公は九州征伐をなされて、筑後の州半を小早川秀包(毛利秀包)に賜って
久留米の城に居住した。隆景は萩野与右衛門をもって領中の郡代とした。

この時、筑後国坂東寺村に蒲殿(源範頼)の虎月毛という馬がいた。その所以はというと、
むかし肥後国の菊池氏が源家の味方として忠があり、範頼はこれを感じて虎月毛を賜った。
この馬は寿命長くして、菊池家世々を渉って永禄年中においても生存した。

その頃、大友義鎮(宗麟)の武威盛大にして九州に冠たり。菊池氏はこれに服して婚姻の
好を結び自国を保守した。ここにおいて菊池家累世の宝器を出して大友氏に送る。虎月毛
もその一品である。義鎮はこれを受けて筑後国坂東寺村に居させ、田を給し飼口を付けて
これを育てた。その村が秀包の領となったのである。

萩野与右衛門はこの馬の由来を聞いて秀包に告げ、また田を増給してこれを養った。文禄
年中にこの馬は5百歳にして没した。郡中の凡民は葬の行粧をなして、野に出て弔う者は
1千有余人であったということだ」

――『南海通記(老父夜話記)』



一正は孝の道を失い給わなかった

2021年09月28日 18:20

611 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/27(月) 19:43:46.74 ID:xV8PlI/W
文禄年中に高麗陣が起こると、生駒雅楽頭(親正)は老年にして遠陣相合わず、
令嗣讃岐守一正に世を譲り、自身は東方6万石を隠居領とした。一正は西讃岐
12万石をもって丸亀山の城に居住した。

そんなところに慶長5年の兵役が起こり讃岐守一正は関東の命に従い、会津陣
に赴いた。その後で石田治部少輔三成、毛利家、宇喜多家を始めとして反逆を
企て濃州大垣へ赴いたが、その時に秀頼公の命として在国の諸将を誘引した。

生駒正規(親正)は秀吉公の御取り立てなので、秀頼公の御催促を今更否とは
言わずして西方の軍に加わった。そのようなところで関ヶ原の戦に西方の師は
敗れたため、正規は周章狼狽した。

讃岐守一正は忠勤の御恩賞に東讃岐6万石を合わせ賜り、一国の主と仰せ付け
られた。正規は生害なさる旨を仰せ出されたが、一正は今度の忠勤に代わって
父の命を申し受けたいとのことだったので正規の一命を一正に下された。一正
は孝の道を失い給わなかったのである。

――『南海通記』