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片目の頭は、我々が太刀の切っ先にかけて

2021年06月14日 18:59

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 13:20:14.98 ID:gXgD925U
上杉弾正大弼定勝と、蒲生下総守忠郷は、無二の入魂にて、兄弟の契約をしていた。
忠郷は蒲生氏郷にとっては孫、秀行の嫡子にて。家康公の御外孫、会津六十万石の領主であった。
定勝は米沢三十二万石であり、互いにその領内の百姓まで、双方申し合わせ、境目も睦まじく往来した。
南部信濃守利直も、忠郷と殊の他に懇意であった。

仙台の伊達政宗とこの三人の衆は仲が悪かった。そのため何時でも政宗が出てくれば、
蒲生、上杉、南部の三家言い合わせ、「政宗を立ち挟んで討ち果たすべし」と、密々に堅く
言い合わせていた。

定勝、忠郷、利直の三人が同道して。上野の天海大僧正の元に夜咄に行った帰り、三人ながら
馬を乗り連ねられた。その途中にて南部殿の馬が荒々しく勇んだ。この時南部殿は大声で忠郷、定勝に
呼びかけた

「相公(忠郷宰相)、羽林(定勝左少将)、この馬の勇んでいるのをご覧候へ!
明日にも何事かあれば、この馬に乗り、ご両人と申し合わせ、彼奴(政宗)を立ち挟んで討ち果たすべし!」
と申された。これに忠郷、定勝もからからと笑われ

「仰せらるるにも及ばぬ事なり!片目の頭は、我々が太刀の切っ先にかけてご覧に入れ候はん!」
と宣われた。三家中の供の輩は皆、これを聞いたという。

蒲生忠郷は寛永三年(正確には寛永四年)正月に薨ぜられたが、定勝は大変に嘆き悲しみ、
三十五日精進され、上杉家中の士卒は申すに及ばず。米沢領内は十四日の間殺生禁断となり、
追善の法事が有った。

信州川中島合戰聞書并上杉家遺老談筆記

なんで政宗こんなに嫌われているのか



808 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 18:07:06.66 ID:gTgcpvPU
むしろ南部、蒲生、上杉から見て政宗を好きになれる要素があるのかと

809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 19:11:51.94 ID:jObLku2y
政宗がいじめっ子で南部蒲生上杉はいじめられっ子って感じか。
しかもいじめたほうは全然覚えてなかったり身に覚えがない態を装う。

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 19:30:58.80 ID:gTgcpvPU
虐めっこっていうか迷惑な隣人というか…
現代的にいうなら騒音が煩いとかゴミ出しの時間守らないとか
人の家の庭に出入りしてくるとかそういう感じの厄介さじゃないかと

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/06/14(月) 19:46:49.68 ID:JsZl/HXh
蒲生と南部は姻戚関係の親族だから、普通仲の悪い隣接した領地の上杉と仲いいってのが
よっぽど伊達に問題があったような
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南部信直・利直とプロパガンダ

2020年02月27日 17:00

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 03:09:08.14 ID:aKB9yww/
南部信直・利直とプロパガンダ

青森三戸では三戸斗賀霊験堂・善徳院によって熊野権現の申し子という南祖坊が八郎太郎を討伐して十和田湖の主となる「十和田の本地」が作成された。
三戸を本拠とした南部氏は、『祐清私記』で利直の武勇は夢に南祖坊が現れたためであると記したように、十和田湖の青龍権現と南部氏を結び付けることで三戸における存在基盤を宗教面から確実にした。
「十和田の本地」を作成した善徳院こそ、南部氏の陣僧的存在であった。

慶長4年(1599年)に岩手盛岡へと移った南部信直・利直はひとつの問題に直面する。
南部氏の霊地である十和田湖との距離が遠くなり、一方では盛岡城下から仰ぎ見える岩手山・早池峰山・姫神山の祭祀を管理することになったのである。
岩手山を「領内総鎮守」として5月27日を祭礼日に定め、山頂に奥の宮、山麓の登山口3ヵ所と城下に新山堂を設置、登山3ヵ所は三戸の修験を連れてきて祭礼にあたらせた。
しかし話は単純ではなく、存在基盤を宗教面から確実にするためには岩手山と南部氏を結び付ける必要があった。

南部氏より以前の岩手山は鎌倉御家人・工藤氏や、その流れを組む栗谷川氏が大宮司として祭祀を管理していた。
『岩手山記』によると、坂上田村麻呂が行基作の阿弥陀・薬師・観音を岩手山に祀り、霧山嶽(岩手山の古名)で高丸・大嶽丸・吹落という鬼神を討伐した。
その後は安倍氏が崇敬していたが源頼義・義家親子が盗み、前九年の役で安倍氏を討伐して高家となった。
源氏に相伝された三尊仏は源頼朝の守護仏となり、工藤行光が拝領して岩手山の大宮司に任命されて元に戻った。
文治5年(1189年)に奥州合戦で軍功をたてた工藤行光が頼朝からこの地を拝領したことで、存在基盤を宗教面から確実にするために岩手山と工藤氏を結び付けていた。

南部氏は、この工藤氏によるプロパガンダをさらに上書きするために御国浄瑠璃『御山本地一代記』を創出した
物語後半で田村将軍利仁が岩手山の鬼を退治して岩鷲山大夫権現として荒人神となり、田村将軍に付き従った斎藤五郎なる人物が祭祀をする。
斎藤氏は、工藤氏に仕えて岩手山の別当として祭礼を司ったが、南部氏が盛岡へと移ってきたため、禰宜を堅持するためには南部氏との関係を構築する必要があった。
南部氏にとっても禰宜である斎藤氏を取り込むことで岩手山の祭祀をスムーズに引き継げた。
思惑が一致した両氏は岩手山の阿弥陀・薬師・観音を岩鷲山大夫権現に置き換え、南部藩の職称別号「大善大夫」を「大夫権現」として見立てた。
また岩鷲山大夫権現=南部氏とした上で、岩鷲山大夫権現となる田村将軍の家臣として斎藤五郎なる人物を登場させた。
『御山本地一代記』には他にも様々な仕掛けが施されている。

正室が田村麻呂の子孫を称した田村家出身であり、御伽草子『田村の草子』の内容を支配地域にあわせて変更した御国浄瑠璃『田村三代記』を作るだけで、意図も容易く宗教面のプロパガンダを成立させた伊達政宗。
工藤行光による源頼義・義家と頼朝を使ったプロパガンダを消しつつも、工藤氏の家臣である斎藤氏を取り込みながら、南部氏と無関係な田村麻呂まで宗教面のプロパガンダに利用しなければいかなかった南部信直・利直親子の苦労が『御山本地一代記』から伺える。



693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 13:26:31.68 ID:0zdRWkWm
東北はとりあえず坂上田村麻呂と先祖が絡んでたってのがプロパガンダの基礎になるのね

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/27(木) 15:50:27.85 ID:oovRDk1b
古代東北は天台教団、長谷信仰、白山信仰、羽黒信仰、鹿島信仰あたりがエミシに対して布教活動をしていた
東北に慈覚大師、白山神社、十一面観音が多いのは奥州安倍家と奥州藤原家が上記の宗教を庇護したから
宗教は民衆の支配にも使えるしね

でも前九年の役や奥州合戦で安倍藤原が滅亡すると、中世には鎌倉御家人が東北に入り込んできて
彼らは宗教を庇護するだけでなく、宗教の中枢に入り込むことで一大勢力を作り上げようとした
だから戦国時代には鎌倉御家人の系統が司祭や禰宜を独占していた

伊達家にしろ南部家にしろ、この地域で本拠地が変わったり、新たな土地を獲得すると、そのつど支配者と宗教の不一致が起こる
何をするにしても鎌倉御家人系統の司祭や禰宜が邪魔になるわけ
その時の便利ワードが天台教団、長谷信仰、白山信仰、羽黒信仰、鹿島信仰の時代から使われてた「田村麻呂とワイらは関係あるんやでー」っていうプロパガンダ

これを宗教じゃなくて家系に取り込んで成立してた地域が三春
平姓田村家も藤原姓田村家もとりあえず支配すると坂上姓を名乗る

そして阿曽沼広長は

2015年03月06日 18:54

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/06(金) 10:51:39.98 ID:k5W8PY2+
そして阿曽沼広長

慶長5(1600)年7月、南部利直は徳川家康の要請を受け、兵5000を伴い米沢口からの最上義光の上杉攻めに加勢するべく山形の勝山に出陣していた

そこに上方で西国大名が挙兵した知らせと家康父子の会津攻めの中止と西進、更には伊達との国境で一揆が発生したとの報が立て続けに早馬で届いた

利直「かような時に他国に大軍を持ったまま長居する訳にはいかぬ。さりとて起請連判をしたからには全兵を引き揚げる事もまずい

・・・!

…阿曽沼(広長)殿、浜田(喜六)殿、最上への体面もある故そち達と兵500を山形に残しこれを任せる。最上殿に引き続き助力してくれ

なにかあったら使番で連絡を取り合う事にしよう」

南部利直はそのまま本陣を畳むと兵4500を連れ帰国の途についた

阿曽沼広長「…といった訳で我等が山形の陣を任されました」

最上義光「…それではお二方には城南の守備をお願いできますでしょうか?」

しかしこれは南部利直の謀で、阿曽沼広長の領地の遠野は広長の留守中に帰国した利直に収公されてしまった

「山形の昔話」「岩手の昔話」ほか

※阿曽沼氏は元は独立大名だったが、奥州仕置で南部の下に付与されてしまった

※浜田喜六も南部氏と対立していた旧葛西氏の重臣の浜田広綱の弟と言われる




政宗の思惑

2015年03月05日 18:36

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 05:22:14.90 ID:nfbRX8pP
政宗の思惑

慶長5(1600)年6月11日、徳川家康は景勝反逆の知らせを聞くと大坂を出、
7月2日に江戸城に入り伊達政宗最上義光南部利直らに「月の末をもち会津入りを果たす。軍議をよく成し上杉領へ乱入いたされよ。家康父子も前後し進発云々」と書をしたためた

7月19日、上方で石田三成の挙兵が江戸に居る徳川家康の元に伝わったが
家康は21日に会津表に向けて出発

陸奥で書を受け取った伊達政宗は「よし!上杉に奪われた父祖伝来の地を取り返す良い機会ぞ!いくさの支度じゃ!」と気を吐き、
兵を南下させると24日に上杉方の白石城攻めを開始した

一方同じ24日に小山に着いた家康は会津攻めの姿勢をはっきりとさせていなかった常陸の佐竹義宣に「上杉攻めの先鋒を務めよ
さもなくば小山に集まっている兵にて常陸を攻める」と使者を出した

すると佐竹義宣は「家康公に逆らうつもりはありませんが、大坂で妻を人質を取られているために会津攻めに協力する事はできません」と答えた

家康は佐竹家を監視する兵を割き、いざ上杉を攻めようと評が決したところに、上方の伏見城が石田方に攻められているとの早馬が到着した

7月25日、わずか一昼夜で伊達政宗は白石城を奪取
(●∀゚)「家康が来るまでに奪えるだけ城を取っておくぞ!」

その頃小山では上方から立て続けに来る諸家の早馬や使者からの情報から家康は進退を量りかねていた

家康「…会津攻めは一度止め、上方に兵を返そう
結城秀康を殿に置き、残り全軍今より上方へ向かう
使者よ伝えよ、伊達政宗最上義光は北から上杉を牽制せよと」

数日後伊達政宗の下に家康からの早馬が届いた

(●Д゚)「ちょ!待っ!家康の言う通りに上杉攻めしてたのに、家康が来ないって何だよ!?ふざけんな!
小山まで来たならとっとと上杉降して、背後を確保するのが筋道だろ!?」

徳川の使者「…お言葉ではございますが、すでに軍議は決し、各将西に向けて移動しているはずです」

先制パンチを効かせながらタイミングの悪かった政宗の話

「伊達治家記録」「奥羽永慶軍記」「最上記」ほか





幻の奥羽連合軍

2015年03月02日 18:25

491 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 16:26:51.00 ID:SOa/h9Hp
幻の奥羽連合軍

慶長5(1600)年上杉征伐に当たり、徳川家康は大崎宰相(伊達政宗)と山形少将(最上義光)に会津攻めを命ぜられ、凶徒を討つべしと定められた
家康から義光に御書状が下され、
「会津表の戦いは万事頼りにしている。近国の諸将に加勢する様に命じている由、山形に兵力が参集した後軍議を談じ、米沢口より上杉領へ乱入いたされよ。
家康父子も前後し進発する」と連絡があった

山形に着到した兵力は
南部信濃五千
秋田藤太郎二千六百五十
戸沢九郎五郎二千二百
本堂孫七郎四百
六郷兵庫三百
赤尾津孫次郎二百余
仁賀保兵庫百八十五
滝沢刑部百十
内越孫太郎六十余
岩屋右兵衛四十
と記された

最初に一味同心の起請文が義光宛てに連判された

義光「さて諸将の方々、米沢口より攻め入ったとして上杉方は難所を守って防御しているだろうから、いくさは厳しいものになるだろう。
軍勢の状態をしっかりと把握し、山形から間道を利用し、速やかに会津を狙うなら、上杉方よりも時と勢いのある味方にいくさの利があると思うのだが、いかがだろう?」

諸将「この策当然宜しい事と思います」

各々が賛同し、評議は篭城策には無駄な兵力を割かない電撃戦と一決した

米沢口攻めは最上義光の名代として最上義康が大将として兵六千五百余が添えられ、
先鋒は南部信濃。都合一万七千六百四十余で攻める手筈となったが
こうしたところに「上方で石田治部が謀叛を起こし、家康父子も小山から上方へと兵を向け直された」
「南部領で一揆が起き、各地に伝播している」との報告が諸将の陣に櫛の歯を引く様に到着した

「この様な状態では上杉攻めどころではない。まずは自国を沈静せねば」と
山形に集まっていた諸将は義光には録な届けもせず、次々に陣を引き払い、自領へと帰ってしまった

「奥羽永慶軍記」



492 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 16:44:38.40 ID:oMxC2Qg7
神戸信孝の四国攻めに似てるね

493 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 16:49:31.25 ID:c6rKvGfq
>>491
家康より先に最上が会津攻める話があったのか。初めて知った。

真田式部清鏡の切腹

2013年06月21日 19:50

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/21(金) 11:01:18.98 ID:WCkNjnBn
出羽羽黒山は修験の盛んな山であった。
羽黒山で重職にあった出羽真田家は武将の出であって、行法の事に預からず山内の行政を司っていたが、
中には行法に優れた者もあった。

真田式部清鏡は、真田幸隆の子とも言われ、羽黒山で修験者となり醍醐坊を開いた。
また天正19(1591)年九戸政実の乱の折には、南部利直を助けとされる。
慶長4(1599)年の頃、清鏡は檀那である利直と碁の賭けをして勝ち、利直の娘を妻にする約束をした。
しかしこの約束を利直が果たさないので、清鏡は南部家への面当てに、南部家の玄関で腹を切り果てた。
利直はその事に怒り屍を川に投げ捨てさせたが、
屍は川を逆流して三戸に流れ着き、それ以来清鏡の霊が南部家へ祟りを成すようになった。
そのため、利直は浅岸薬師の境内に清鏡荒神として清鏡を祀り、その祟りを鎮めたという。


知切光蔵 天狗の研究より





南部利直 代官を叱る

2012年07月07日 21:08

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/06(金) 20:25:21.77 ID:tvLtD7va
南部利直 代官を叱る

陸奥の南部氏領は、浄法寺塗に代表される漆の産地だった。
漆掻きが始まる頃、時の当主 南部利直は家臣の毛馬内三左衛門宛に宛てて書状を書いた。

『漆掻きに良い時期となったので、漆掻きの者たちを代官たちにつけて、急ぎ派遣しなさい。
 最近は(量を取ろうとして)漆を深く掻かせてしまい、木を枯らせてしまう。
枯れなかった木も傷んで、実がならなくなってしまう。
 漆は一杯ニ杯少なくても良いから、木を枯らせないようにさせなさい、そう毎年申し付け、
奉行にもそれを伝えているのに、奉行たちがそれを理解していない。
もし木が枯れたら、それは奉行の落ち度として処罰するから、よく申し付け、厳重に取り締まるように』

代官の悪い話の気もするけど、資源を大事にした年直のいい話ってことで。





283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 20:02:33.54 ID:WZeXkCam
漆に実がなるのかよとぐぐったらろうそくの原料の原料か…

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 20:05:01.51 ID:EPbOlz/G
欲は身を滅ぼす、っていう事の好例だな

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 20:08:32.11 ID:tIwx5QfD
どっかの記事で森を守るには独裁者が適してるというのを読んだ

286 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/07/07(土) 20:10:59.58 ID:VdlAuKXN
森を守るのは、信長。

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 20:40:49.99 ID:zJGl1MAL
もうりまもる、は宇宙飛行士

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 22:44:45.24 ID:10mCiz8Z
>>286
TERU「信長さんは身を挺して毛利(もり)を守ってくれたんだね。ありがとう!」

289 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/07/07(土) 22:46:55.83 ID:azH3NmH/
>280
お隣は津軽塗りもあるし、良い漆が取れるんだろうな

わんこそばの始まり

2011年11月27日 22:00

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 18:28:14.36 ID:Pfb6bthU
わんこそばの始まり

南部利直が江戸に向かう際、花巻市鍛治町の宿に立ち寄り、食事を所望した。
「殿様がお食事ご所望だじゃ」
「なら蕎麦出すべ」
「んだども、お口に合わねがったら失礼になんねべか?」
「あー…んだば少しずづ出して様子見んべ」

家人は漆塗りの椀に一口大に蕎麦を盛りつけ、利直に出した。
「美味い!」
利直は蕎麦を大変気に入り、何度もお代わりをした。
以来、蕎麦を小分けして振舞うことをわんこそばと呼ぶようになったという。

ちなみに当時は今のような大食いの形ではなく、ゆっくり味わって食べるのが普通だったそうな。




780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 18:30:43.22 ID:FEKM4Qwa
昔のほうが風情があるね ちょっとずつ味わって食べるんだ
いつから大食い・早食いなんて下品な食べ方にしてしまったのか…

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 18:35:01.46 ID:TvijQjtC
>>779
この時代に江戸でさえまだまだな蕎麦切りが奥州奥深くに波及しているわきゃ無い

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 18:42:31.09 ID:q9otc+Aw
蕎麦がきだったかも。

783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 18:43:09.56 ID:70A4zj5d
>>781
蕎麦掻きのわんこそば説


南部さんが蕎麦アレルギーじゃなくてよかったよ

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/27(日) 18:50:59.34 ID:V4M2Ixzs
たしかに蕎麦がきならゆっくりたべるってのもわかるな。

遠野阿曽沼氏の滅亡

2011年10月26日 22:00

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 16:24:19.88 ID:MFVkJyOr
遠野阿曽沼氏の滅亡

陸奥国遠野保の独立領主阿曽沼氏は、鎌倉以来この地を領する大名だった。
だが秀吉の小田原征伐に参陣せず、家こそ潰されはしなかったものの領主としての地位を失い、南部氏の
付庸とされてしまった。

その南部氏との関係はあまり良くなかったらしい。
南部氏は阿曽沼氏の大身鱒沢氏を支援して、阿曽沼氏と対決してきた経緯があった。阿曽沼氏も
旧敵の配下にされ面白いはずがない。
また、当主阿曽沼広長の正妻が、伊達家臣となった気仙の世田米氏の出身であったことも、南部が
阿曽沼氏を警戒する理由であった。

ある時、阿曽沼広長と鱒沢左馬之介広勝の間に隠し田を巡る紛争が起こった際、
裁定を依頼された南部氏は、かねてよりよしみを通じていた鱒沢の肩を持ち、裁定は鱒沢に有利なものとなった。
それに怒った広長は、仲裁役の桜庭安房を闇討ちしようと兵を送る。
桜庭安房は従者を多数討たれながら這々の体でなんとか逃げ延び、闇討ちは失敗してしまう。

いかに裁定が不服とはいえこれはまずい。時の南部当主である南部信直は激怒したが
当時信直は病床に伏せっており、これから間もなくの慶長四年十月に逝去。遠野の処置はそのまま
沙汰やみの形になった。
信直の葬儀は大々的に執り行われ、領内の豪族達が続々参列し向後の忠誠を誓った。
だが、阿曽沼氏は報復を恐れたのか、なんの音沙汰もなく葬儀に参列しなかった。
これによって両者の亀裂は決定的なものとなってしまう。

「遠野孫三郎め、ついにこの方を袖にするつもりか! このまま捨て置いたら示しが付かぬ。速やかに
何らかの仕置の手立てを…」
といきり立つ家臣に、南部利直は、
「まてまて急くな、急いては事をし損じる、手立ては任せておけ」
と宥めたという。

そしてその時はすぐ訪れる。
慶長五年、関ヶ原の前哨となる上杉征伐がはじまり、阿曽沼広長は南部軍の一員として最上口に出兵
することとなった。
しかし家臣の鱒沢は病気を理由に参陣を拒否する。だが鱒沢は領内で釣りやキノコ狩りで遊んでおり、
仮病であるのは明らかだった。
広長は当然怒ったが老臣達に諫められて、仕方なく上野丹後と平清水駿河を留守居として、三〇〇の兵で参陣した。


534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/26(水) 16:25:07.58 ID:MFVkJyOr
しかし、南部軍が最上口に滞在していた時に、伊達政宗の支援を受けた和賀忠親が挙兵。南部軍は
急ぎ帰国することとなる。
南部利直は
「この騒動は手前の領土で起こったこと、お手前はゆるりと戻られよ」
と広長に言い急ぎ撤退。南部軍はそのまま和賀岩崎城を囲むが、冬の到来により一時囲みを解き、
戦いは翌年に持ち越された。

そしてその頃遠野では、鱒沢広勝が兵を挙げ、主のいない遠野を占領してしまっていた。無論、利直と
鱒沢が示し合わせてのことである。
鱒沢は居留守の上野丹後と平清水駿河など主立った者を招き、謀反の計画を明かした。
「手向かいせずに城を明け渡せば厚禄加増の上子々孫々まで安堵するが、
手向かえば当人は元より妻子眷属にいたるまで討ち果たすべしと、南部殿からも言われている」
と脅迫。上野丹後と平清水駿河は降参するよりほかなく、他の者も謀反に同意した。
唯一火渡玄浄のみがこれに同意せず、上野と平清水の不忠を罵り退席、その後彼は自らの館に籠城し、
壮烈な戦死を遂げた。

関ヶ原の戦いが終わり、広長は伊達領を通り、岩谷堂から人首まで到着したが、
鱒沢は南部の兵と共に遠野境で待ち伏せをしており、それを知らされた広長は当然驚き、遠野へ攻め入ろうとした。
が、士卒達は遠野に妻子を残しており、戦えば人質とされるのは明白で、士気は上がらず脱走者が続出。
広長は仕方なく、「他日必ず兵を起こして遠野に帰参する故、その時は出迎えて合力するように」
と誓わせて、腹心五・六人を連れて、妻の実家世田米へ落ち延びていった。

その後広長は伊達政宗に援助を頼んだ。政宗は「さては南部に先を越されたか」と口惜しがり、
阿曽沼氏に兵を授けた。
広長は奪還戦を挑み、首謀者である鱒沢広勝を討ち取ったりもしたのだが、とうの遠野からは期待していた
内応がまったくなく、
それどころか仙台勢の乱暴を恐れ、必死になってかかってくる。そのうち、郎党の松崎監物や海上喜八が戦死し、
浪人ばかりで戦意の薄い仙台勢は総崩れとなる。
「恩知らずの人でなし、犬にも劣る人非人!」
撤退する兵の中で、広長は助けに来なかった遠野侍達を罵り、男泣きに泣きながら落ちていった。
広長はさらに二度の奪還戦を試みるが、結局遠野奪還はならず、失意のうちに仙台で亡くなったという。




南部利直、盛岡築城の普請現場で

2011年03月16日 00:00

340 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/03/15(火) 18:01:15.31 ID:LcLonGfK
南部利直、盛岡築城の普請現場で

盛岡築城の総指揮をまかされた南部利直は、自ら現場監督と共に普請の現場を見回っていた所、
ひとりの人夫が気にかかり声を掛けた。
「お前の面体は並の百姓には見えない。さだめし名のある者だろう、名を名乗れ」
百姓は一度は否定したが、利直の眼識に服して潔く伊達の家臣であることを認めた。人夫に紛れ
て城の様子を探ろうとしたのだ。

間者は処罰を覚悟していたが、利直は平然と間者に聞いた。
「この城地を見てお前はどう思う?」
「は?」
「城を探っていたなら心得はあるだろう。どんな感想を持った?」
「……されば、全て結構な惣構えですが、東北の方に山を負っているのが惜しいことです。
ここを占拠すれば遠目が利くものなら城内を一望できてしまいます」

この山とは現在の愛宕山の事らしく、実際、現在この山には展望台があり、盛岡の街が一望でき
るようになっている。
利直はこれに頷き、その間者を処罰することなく、人数をそえて仙台に送り返させた。伊達さん
への皮肉も感じさせる対応である。

南部利直、間者に城の感想を聞く話。