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黒田騒動と破れた釜

2022年06月17日 20:29

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/16(木) 23:15:06.01 ID:AyjVTV65
黒田騒動の講釈の種本となった「博多細伝実録」(宝暦から明和初めに成立とされる、福岡藩内のできごとを著した書)を読んだら
これまで何度か出ていた浅野彦五郎にもちょっと触れていた
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13348.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13381.html

黒田騒動で栗山大膳が幕府に黒田忠之の謀反を訴えた時、
博多細伝実録」では忠之の不行跡・二十八ヶ条を訴え出たことになっていて
その中でも特に重い三ヶ条として
一、壱万石余の大船を造りし事
一、真言の沙門、不行跡を憎みて脊を割り鉛を鋳込し事
一、浅野彦五郎といへる者、継母を犯せるにより、油釜の死罪にする事
が挙げられている。浅野彦五郎の罪状は上記の投稿とは違うが。

また「石城志」という明和二年(1765年)成立の博多の地理誌によれば
「寛文(1661-1673)の末まで、松原閻魔堂西の川端に大なる破釜あり。
忠之公の時、家臣浅野彦五郎(食録千石)罪ありて釜烹の刑に処せられる。
この時、釜を新たに鋳させるべしとて、市中の冶工に命ありしに、おのおのこれを辞しける故、くじ取りになりし処に、芦屋釜師くじにあたりとて釜を鋳けり。
これによりその家絶えたりという」

約百年後の記録とはいえ、破れた釜が残っていた伝承があったようだ。
なお博多の鋳物師の一つに磯野家というのがあり、島原の乱でも黒田忠之に大砲や弾を鋳造させられているので「石城記」の話が事実なら、磯野家もくじに参加したと考えられる。
くじが当たって磯野家が釜を鋳ってたなら浅野彦五郎の恨みは磯野家に行ったかもしれない。
そうなると磯野家がとだえるため、磯野七平氏が1893年に二代目福岡市長となることもなく、その50年ほど後に福岡に住んでいた長谷川町子氏が磯野波平を着想することもなかったかも



514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/06/17(金) 18:48:21.73 ID:0O2JnBVv
磯野藻屑源素太皆も居なかったわけだな
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「博多細伝実録」より栗山大膳の武勇

2022年02月22日 19:03

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/22(火) 17:20:22.88 ID:0oyJsDMd
博多細伝実録」より栗山大膳の武勇

栗山大膳は日本に類いなき勇気の持ち主で、黒田長政にも見込まれていたが、忠之の代になると「天下泰平の昨今、ただの老人にすぎない」と疎んじられた。
寛永年間の六月に、知行所である嘉麻郡の間津村に出向いたところ、そこには大きな淵があり、日照りの時も水が枯れず、底が知れなかった。
ここに淵の主と言われる大きな魚亀(スッポン)がいて、近年は人をたびたび取って食らっていた。
そのため大膳は淵に赴いて、九尺ばかりあるスッポンを見るや、これこそが人を悩ませている亀だとして、鉄砲を取り出し、二つ玉で首の付け根を射抜いた。
スッポンはたちまち淵の中に沈み、淵は赤く染まった。
そのまま静かになったので、大膳は水練の達者な者を淵に入らせ、亀の首に縄をつけて引っ張ってこさせた。
淵から上げられたスッポンを見ると、身の丈九尺、幅五尺であり、民は大いに喜んだ。
栗山大膳は十六歳の時に武術を残す所なくおさめ、鉄砲を明智日向守光秀から伝来され、六十歳になってもこのような腕前だったと人々は語った。
これについては「武将感状記」にも記されている。
(「武将感状記」巻10「栗山大膳鳥銃の妙を得る事」では栗山大膳は榊の弟子としていて、鉄砲は百発百中の腕前だったとしている
また、栗山大膳は黒田騒動時でも40くらいのはず)

40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/22(火) 17:27:08.77 ID:0oyJsDMd
ついでに、
雑誌「西日本文化」に連載されていた石瀧豊美の「黒田騒動と『箱崎釜破故』」の第七回と第八回には
「お綱さんツアー・黒田騒動史跡めぐり」として

1.お綱の墓:福岡市東区馬出
2.黒田忠之の墓:福岡市博多区御供所町、東長寺
3.福岡藩刑場跡碑:福岡市中央区天神、福岡県庁跡、空誉上人の霊に悩まされた二十四代福岡県知事が建立
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13372.html
4.水鏡天満宮:空誉上人が住職をしていた智福寺跡
5.お綱門:扇坂御門?お綱が息絶えた場所
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13356.html
6.福岡家庭裁判所:お綱さんが斬り込んだ夫の屋敷跡、長宮院跡
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13366.html
7.鵜来島:箱崎釜破故で栗山大膳が密談した場所
8.空誉堂:福岡市中央区大手門の浄念寺境内
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13339.html
9.左右良(まてら)城:栗山利安が任され、子供の大膳の屋敷が麓にあった
10.龍光山円清寺:栗山利安が主君長政の冥福を祈るために建立した寺

と並んで
11.大膳楠:杷木町にあり、「箱崎釜破故」では栗山大膳が池の精の化身である大亀を射殺した事で運命が暗転するという因果応報譚となっており、
その池がかつてあったところに立っている楠を栗山大膳にちなんで「大膳楠」と呼んでいるという。
が紹介されていた。

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/22(火) 17:50:11.14 ID:0oyJsDMd
タイトルだけ見て関係がない話だと思ってしまった
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4536.html
「大膳崩れ」


過去に出てきたこの話だと、亀を撃った後に大雨が降って土砂崩れが起きているが
博多細伝実録」だと、直後に雨は降ったもののすぐやみ、
淵は年々浅くなって田畑となり民の利益となった、
と書かれているため悪い話にはなっていない



星野宗右衛門について

2022年02月08日 16:31

318 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 18:24:39.04 ID:v+FyJ//b
星野宗右衛門について

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5590.html
栗山大膳と『旅枕』


10年以上前に出たこの逸話で栗山大膳の親友として紹介されている星野宗右衛門
黒田騒動箱崎文庫」や歌舞伎では栗山大膳側の勇士ということで大活躍をしているが、活躍の一つに
親友の有川駿河という軍学者が、倉橋重太夫の陰謀で三百両の借金をさせられ、幕府に禁じられている大船の図面を描いてしまった。
星野宗右衛門が河内屋にかけあって三百両を工面したことで、少なくとも有川は武士の対面を保つことができた。
しかし有川は図面を描き黒田家を危機に陥れたことを詫びて切腹、といった話がある。
黒田騒動箱崎文庫」では上記の逸話の通り、栗山大膳がかつて利休が所持していた「旅枕」を用いて星野宗右衛門の三百両を帳消しにした、としている。
なお「旅枕」を所有している和泉の久保惣記念美術館の旅枕に関する記事には栗山大膳についての記載はないので、この逸話の真偽は不明。
ただ、星野宗右衛門のほかの活躍を見ると、
「星野の大食鍋島家を驚かす事」では星野宗右衛門が鍋島家に舐められないように、
鍋島家が用意した鯛の浜焼きを城下の魚屋全てからかき集めた分だけ食い尽くし
七合入りの盃で酒を七杯呑み、飯を15碗食い、鍋島家の者どもは大いに驚き、忠之から拝領物を賜り、「鯛喰いの宗右衛門」というあだ名がついた
ことになっている。

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 18:30:08.99 ID:v+FyJ//b
実はこの話、
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13373.html
毛谷主水について


で書いたように「博多細伝実録」に出てくる、元禄の頃に鍋島家で大食を披露した星野助右衛門の話そのままである。
どうやら黒田騒動に栗山大膳側の善玉の豪傑を登場させようと思った「箱崎文庫」系統の作者が
博多細伝実録」の大食漢・星野助右衛門の話が印象的という事で時代を移して栗山大膳の同志にさせたらしい。
というわけで、
関ヶ原で西軍の物見をしてたくさんの饅頭を食べた毛屋主水武久と
元禄に鍋島家に使いに行った時に魚の焼物をたらふく食った星野助右衛門
百年ほど時代の違う二人の大食いが、間の寛永年間に
方や女に籠絡され主家を滅亡させようとした悪玉・毛谷主水
方や主家を守ろうと剣と知恵を振るう善玉・星野宗右衛門
として共演することになったという奇妙な話。

ついでに1936年に公開された映画「栗山大膳」には毛谷と星野の両方とも出てくるが、
毛谷主水の方は、城井一族の復讐を狙うお秀の方に籠絡され、栗山大膳の命を狙う一番の敵役となっている。
(紅陽法師も城井の若様として少し語られている)
星野宗右衛門の方はというと、図面を描いた有川を叱責する以外はたいして出番がない。


毛谷主水について

2022年02月01日 16:21

306 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/01(火) 15:53:57.91 ID:4m5caflV
空誉上人が乗り移ったとされる毛谷主水について
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8719.html
毛屋の本氏


で関ヶ原で西軍の物見をして東軍の士気を高めたため家康から饅頭をもらい、全て平らげた毛屋主水武久がモデルと思われる。
色気より食い気の方がふさわしい毛屋主水がなぜ美女のお相手役にされたかについては

貝原益軒「黒田家臣伝 毛屋武蔵」に関ヶ原や加増や武蔵改名の後の話として
ここに豊前国城井中務(鎮房)が家人に、鬼木掃部という者は、大剛強力の者なりしが、長政に背いてほろぼされけり。
そのむすめ、弟妹両人をつれて落人となりていたりしを、長政の命にて、武蔵これを娶る。その生まれる所の子を太右衛門という。
武蔵が妻の弟は、鬼木惣左衛門という、黒田美作に武蔵が所託にて仕えしむ。いまにその子孫あり。
武蔵、寛永五年七十五歳にして筑前にて病死す。

とあり、黒田騒動が後世脚色された際に、黒田に恨みを持つ城井氏(寛永箱崎文庫)や鬼木氏(歌舞伎や映画)や大友氏(白縫譚の蜘蛛の妖術使いの若菜姫)などとの因縁が加えられた時に
鬼木氏を妻に持っていたために毛屋主水の名前が使われたのではないかと。

307 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/01(火) 16:03:14.53 ID:4m5caflV
大食漢繋がりで「博多細伝実録」には元禄の頃、鍋島藩への祝賀の使いの際に「他に芸はありませんが大食で鳴らしております!」
と言い放ち、焼き物を20人分平らげ、酒を大盃で五杯飲み、鍋島から賞賛され大いに面目を施したとして、藩主から褒美をもらった星野助右衛門という人物の話がある
幕末に黒田藩士の磯野藻屑源素太皆が、おはぎを38個食べて殿様から褒められたというネタに通じるものが

ついでに「博多細伝実録」には黒田藩家老の黒田美作に仕えた鬼木氏のその後の話として、
元禄の頃、黒田美作(三奈木黒田家三代目の一貫)が佞人を重用し民が苦しんでいた。
重臣の鬼城新左衛門は諫言するも聞き入れてもらえなかったため、家族一員(老母、妻、二人の子供)白装束仕立てで首を斬り、自らも諫言の遺書を残し切腹。
鬼城家は家名断絶となったが、新左衛門の死から二ヶ月もしない間に佞人どもが狂ってたわごとを発するようになった。
こうしてそれまでの悪事が露見したため、みな悉く切腹。
鬼城新左衛門は鬼城大明神として崇められた、という話が記されている。

黒田長政に滅ぼされた鬼木掃部の子孫が黒田藩家老のために諫死し家名断絶という歴史の奇妙さ



「博多細伝実録」より僧高要の祟り

2022年01月06日 19:21

264 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/06(木) 18:19:38.97 ID:7ZpPPo9o
博多細伝実録」より僧高要の祟り

忠之の短慮についてであるが、天台宗の僧・高要という者が太宰府の近くの寺の別当をしていた。
この出家は破戒僧であり、十六才の寺衆の美婦を小児姓といつわって仕えさせていた。
ついに目付けにばれ、本来ならば遠島を申しつけられるところを、
忠之により、法外不仁であるということで生きながら骨を割られ殺された。
忠之は城より二里半ばかりの崇福寺に、毎月祖父如水の忌日に寺参りをしていたが
暁方に馬で向かったところ、高要法師が忽然として煙の人形のごとく馬の前に現れ白眼をむいた。
忠之が「坊主めが、推参なり」と言うや煙の如く消失した。
高要の死から一年もしないうちに、高要の破戒を見出した目付けはもちろん、その時とらえた場に居合わせた者十三人が一人も残らず死んでしまった。
そこで福岡の大工町に一社が建立されたが、色道の罪で殺されたため、誰ともなく縁切りの願いを叶えてくれる、ということになった。



269 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/10(月) 01:02:57.34 ID:ll8UQZEV
>>264
の僧高要の話についてまとめサイトのコメント欄で質問があったので調べたら異説があった。
博多細伝実録」には「霊を福岡大工町浄念寺の間に社を建立の者為て高要権現と称し」
と書かれていたが、福岡市中央区大手門2丁目(かつての大工町)に存在する浄念寺について福岡市中央区のHPで見たところ、
境内には空誉上人を祀る空誉堂があり、後藤又兵衛の身代わりになって黒田忠之に処刑された、としていた(長政ではなく)
また、中央区の「今泉天神通りの3か寺」のページだと、
安養院の寺小姓を気に入った忠之が差し出させようとしたところ
住職の空誉上人が断ったため釜茹でにしたとしていた。
実際「博多細伝実録」だと「骨を刻、体?を鋳(に)こみ」と書かれているようなので名前も近いし高要=空誉と思われる。

宝はいつでも金銀に限るわけではない

2021年12月24日 16:19

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/23(木) 21:59:55.29 ID:VMPClW5p
>>905の吉田重成の息子の吉田久太夫について
黒田藩のさまざまな話をまとめた江戸中期の「博多細伝実録」から

黒田忠之の出世頭の侍に吉田久太夫というものがいた。二千五百石取りであった。
十六の時に島原の乱に出陣したが後衛を命じられたため、不満に思い先駆けを願ったが聞き届けられなかった。
武士と生まれて留守番とは口惜しいと思い、抜け駆けし先手に加わり敵を追いかけた。
これを見た忠之は「主人に叛く言語道断の奴ばらめ」と激怒し
翌日、久太夫を呼び「城楼に登って敵味方の様子を見て参れ」と内心殺すつもりで命令した。
久太夫は「かしこまりました」と言うや否や城楼に駆け上り、敵城の内を見渡した。
鉄砲の弾は雨のように降り注ぎ、兜の緒が切れたり、右肩をかすめたりしたが、久太夫は慌てず、こよりで兜の緒を結び直しそのまま偵察し続けた。
敵も味方も「あっぱれな若武者だ」と勇気を賞賛した。
忠之はよけいに立腹し、「汝のようなものはわが陣中には不要である!どこにでも立ち退け!」と告げたため
さてもの久太夫も国を追われ、三年ほど伏見や草津で馬の世話をして露命をつないだ。
その後、松平讃岐守が久太夫のことを知り
「黒田浪人吉田久太夫といえば島原の乱において十六でありながら角前髪を振り乱して勇気を披露し味方を鼓舞した者ではないか。
そのような惜しい士を埋もれさせてなるものか」
と方々に手を回して久太夫を探し出し、紛れもなく本人であると知ると讃岐に連れて行き三千石を与えた。
その後、江戸に諸大名滞在の折、讃岐守の屋敷に忠之も含め国持大名が集まり、料理に舌鼓を打ち、国々の噂や名物について話に花を咲かせた。
この時、讃岐守は忠之に対して「わたしは貴公より小身であり、国の財とてさしたるものもありませんが、近来殊のほか優れたものを見出しました」
と久太夫を忠之の前に出し、外に連れ出して久太夫の巧みな馬術を見せつけた。
世上流布する言葉に「宝はいつでも金銀に限るわけではない」と言う通りである。
忠之は大いに後悔し、久太夫に詫び、讃岐守と交渉して黒田藩に同じ三千石で戻してもらうことになった。
その後も久太夫の家は繁盛し、代々「久太夫」を名乗っている。



残金は後でやるぞ

2021年11月07日 16:13

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/07(日) 00:09:16.84 ID:gNLIs54R
博多細伝実録」という黒田騒動や福岡藩内の怪奇現象など、おもに江戸前期から中期の話が載っている本から
千利休の切腹後くらいに、黒田長政が博多の街を馬で移動していると、
長政の姿を認めているにもかかわらず、両足を通りに突き出して仰向けになっている町人がいた。
長政が馬上から小姓に「あの町人めの足は売り物か聞いてまいれ」
と言ったため、小姓が町人に聞くと
町人「ああ売り物さ、値段だと?そうだな、片足百両、両足で二百両で売ってやるよ」と答えた。
長政は懐中から金三両を出し、
「あいにく今はこれだけしかないから手付金にして、残金は後でやるぞ」
と町人の両足を忽ち切ってしまった。
残金で町人が死んだ後の法事をさせたということだ。